2008年07月30日

神仏は妄想である 150

生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらいにて、すでにさきあり、のちあり。
道元


生と死を分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れてしまえ、と道元は繰り返し言います。それは何故か。人間は生きている状態から、死んでいくという別の状態へ移っていくのだと考えるから誤りが生ずる。これは、いつも道元が好んで用いる考え方です。
栗田勇

春は春であって、春以外のものは何もない。秋は秋というもので、これが移っていく、つまり時間的な経過によって変化するということはない。春は春のうちに春以上のものがある。つまり空がある。花が咲き、鳥が歌うという現象の奥に、目に見えないある宇宙、絶対的な実相がある。
栗田勇

空という、実相というものがあるということを、言うのであろう。
それは、理解する。

その、空という、実相が、目の前の花になり、鳥が歌うということである。
それも、理解する。


それでは、もののあわれについてで、紹介した、古今集の仮名序を、再度見る。

和歌、やまとうたは、人の心を種として、万、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士、もののふの心をもなぐさむるは、歌なり。

とうであろか、私は、こちらの、心象風景を取るものである。

空とか、実相などという言葉はない。
この世の生きるものに、限りない慈愛の風景を抱くのである。
歌の道。
日本の歌道は、すでに、それらの、理屈を、超えていたのである。


そこで生は、「ひとときのくらい」だと言う。くらいというのは現象、位相のこと。ひとときというのは、しばらくの間という意味ではなく、全体、まるまるさそれで全部の時、つまり永遠のいまの意。生は生というものでまとまった様相であり、永遠の変わらぬ姿である。
だから、生きているということは、死と比べて生きているということではない。生きているということの中には、絶対的な今しかない。あるいは生以上のものしかない。空しかない。
栗田勇


歌道では、空などとは、言わない。
今、目の前にあるものを、慈しみ、歌い上げる。
それだけで、いい。
この世の、すべてを、受容する。

あえて、そのものを、超えたところの、空とか、実相などは、必要ないのである。

更に、言えば、絶対的な今、生以上のものしかないと、いうが、人は、確実に死ぬのである。

容赦なく、死ぬ。
必ず、死ぬ。
生が、今しかないというのと、同じく、死も又、今しかないという、その、死を、人は、確実に迎える。

理屈を言うのではない。
だから、それが、何だって言うのだということになる。
つまり、それは、迷いなのである。

生きとし、生ける、いづれか歌をよまざりけり、という方が、やさしいのである。
優しいのである。

人命とは、呼吸の間である、などと、アホにことに、感心しているより、歌の一つでも、詠むことである、と、私は言う。

吸う息、吐く息の間に、命というものがあるなどという、浅はかな、言葉の世界に酔っているうちは、悟りなど、開ける訳が無い。

明日とか、やがてそのうちということはない。今日の今、せっかくの今この今を、仏道に、つまり真理の道に身を投げ入れて、いつのときがあるだろうか。この覚悟が生死を超えます。
栗田勇

栗田氏は、道元を、理解しやすいように、紹介する。
私は、栗田氏の、文章に対して、敬意を表する。

さて、真理の道に、身を投げ入れてというが、人には真理というものが、人の数だけあるということを、知らないらしい。
仏道を、真理とは、笑わせる。

たかが、仏の道である。
たった、一つの道である。
それ以外に、真理というものが無いというならば、それは、浅はか、愚かというものである。

道元が、芸術家であれば、許せる。

松尾芭蕉は、今日の発句は、今日の辞世という心持で、俳句を、詠む。
それならば、おおいに、納得する。

歌は、すべて、挽歌である。
皆々、歌詠みは、その心持で、歌を詠む。
そこに、この人の世の、儚いという、明確な、意識がある。
儚いとは、はかないのであり、あはれ、なのである。

必ず朽ちる肉体を、持つ人間の、そのままの、姿をこそ、見つめ続ける行為こそ、真っ当な、生きる道であろう。
この世は、無常でよし。
儚くて、よし。
あはれ、で、よし。
生死に、七転八倒するも、よし。

息切れれば、死ぬ。
死人に口なしである。それで、よし。

問答無用に、人は死ぬ。
それで、よし。
言うことも無い。



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神仏は妄想である 100

称名は無観でありたい。無観たるべきなのである。有観ならば、まだ至純な称名とはいえぬ。称名にはどこまでも純他力の声質がなければならぬ。称名とはわれを棄て去って、仏に一切をまかせきることである。それが南無阿弥陀仏の一声である。
柳宗悦

念仏の至境を尽くしたとして、一遍上人の和歌を載せる。

主なき 弥陀の御名にぞ 生まれける となへすてたる 跡の一声
あるじなき みだのみなにぞ うまれける となへすてたる あとのいっせい

我を無くして、称える念仏には、主は無い。
称え捨てたるとは、我を捨てた、跡の南無阿弥陀仏なのである。
要するに、すべてが、念仏になるという心境である。

我を捨てるという、心境を、理想とした、時代である。

確かに、我を失う程、のめり込む念仏はあるだろうが、我を捨てるというのは、詭弁である。

捨てるのではなく、失うのである。
それを、我を捨てたと、思い込む、病である。

一つに、仏典を、歴史書と同じように、認識した、過ち。
事実ではない、創作の物語を、事実と、信じて、阿弥陀仏というものの、世界である、極楽があると、信じた過ち。
我を捨てるという心境を、失うと、認識しなかった、過ちである。

事実ではないが、真実であるとは、詭弁である。
確かに、そのような、真実観というものが、あってもいいが、この場合は、信じさせるための、根拠としているのである。
衆生を、貶めるものである。

我という、意識、我執とも、言うが、それを、捨てるというが、我を、捨てて、果たして、何事かの、行動が、取れるだろうか。
我を、捨てるとは、精神病である。
まして、阿弥陀仏に、すべてを任せきってしまうという、心境は、如何にしても、責任能力の無い、病にあると、いえる。

ただ、私が、理解するに、茶の湯の手前をしている時に、手前に没頭する故に、手前をしている、自分というものの、意識が、無くなる、失う場合がある。
忘我の感なのであるのか。

それでは、鮨職人が、無意識のうちに、握りを作る時、我というものを、忘れているのであろうか。
客と、歓談しつつ、手は、自然に握りを作るという、行為にある、時、我というものを、捨ているのであろうか。

それらは、皆、勘というものである。
これは、甚だしい力と、書く。

人間の、素晴らしい能力として、あるものである。

そのような、状態を、我を忘れると、表現するのならば、理解する。

しかし、念仏を称えるという行為に、我を捨て切るという、境地は、それとも、違うのであろう。
つまり、一種の悟りの境地を言うのである。

念仏を称え続けることは、自力である。
だが、絶対他力でなくなては、ならない。

ここで、空しい、他力、自力の、議論というものがあるが、実に、机上の空論となる。

だから、称えさせていただく。
そして、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を称えるなどという、へんてこりんな、心境になる。

人間は、瞬間的に、我を忘れたように、思える時が、あるといえる。しかし、我を忘れることは、出来ない。
我を失うことは、できる。

更に、ある病理に、拍車をかけるのである。

・ ・・それ故には、選ばれざる者、許されざる者、天才ならざる者、弱き者、愚かなる者等々、無数の大衆があろう。これらの者たちは、ほとんど宿命として聖道の門をくぐることができぬ。だが仏の慈悲はこの悲嘆をそのままに放置するであろうか。これに答えて建てられたのが浄土の法門である。それ故この教門は須らく易行の道でなければならぬ。そうして他力の教えでなければならぬ。
柳宗悦

聖道の門とは、自力の法門である。

次第に、病が深くなる。

選ばれざる者とか、小さく哀れな者とか、脆さ、弱さ、愚かさ、そして、罪に泣く者というのである。
更に、救われる値打ちの無い者とくる。
むき出しの貧しさ、全く無力な、自分というものを、意識する者。


自我を立てぬのが称名である。そのことは何を意味するのか。衆生を済度しようとする慈悲そのものに、凡てを働いて貰うことである。その慈悲を素直にそのまま受け取ることである。称名はここで自力の行ではなく、全く他力の行だと分かる。称えるというより称えさせて貰うのであって、どこまでも受身である。ここで受身とは小さな自己が捨てられたことを意味する。そのことはまた残りなく他力が働いていることを意味する。
柳宗悦

この方の、南無阿弥陀仏という、書は、この繰り返しである。

自分が悩んでいることに、人を引き込もうとする、念仏行者であることに、気付いていない。

我の中で、勝手に、七転八倒している様を、持って、他力というのである。

江戸時代の儒学者の中には、それを見て、彼らは、無きものに、屁理屈をつけて、人を騙すと、見抜いた者もいる。

阿弥陀も、観音も、何もかも、仏教のモノ、存在しないものであると、喝破した。

我が念仏の力で往生が出来ると思うのは間違いである。往生は念仏自らに備わったおのれなりの功徳なのである。


このように、考えることを、迷いと認識しない、病である。

良く解釈すれば、思索を深めていると、いえる。
しかし、それは、策士策におぼれるが、如きものであり、思索に溺れるのである。つまり、それは、迷いである。

念仏自らに備わった、おのれなりの、功徳なのである。
おおよそ、法然から親鸞、一遍までに至る、道である。

この上に、罪悪感という、観念が積み重なり、浄土門は、益々と、病深く、迷いの境地に達するのである。

一人相撲で、七転八倒している様、実に、哀れである。

妄想の、阿弥陀仏、ミーアミダーバという、観念である。
極楽を拓いた仏であるという、観念。
勿論、浄土という、ものも無い。
人の頭で、捏ね繰り回し、作られた観念である。

柳氏も、明確に、大乗経典は、創作であると、いう。
事実ではないが、それは、歴史の真実、人間の真実の姿であるという。

ここには、毛ほどの、説得力も無い。

架空のお話であり、議論のための、議論であり、言葉遊びの何物でもない。

私は、ただ、当時のものとして、それを、否定しない。
その世界しか、知らないのである。
それ以上を、求めることは、酷である。

知らないものは、無いものである。

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2008年07月31日

神仏は妄想である 101

実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。如何なる時世に住むとしても、これい以上の劣悪な時世があろうはずはない。この意識なくして宗教は成り立たぬ。
柳宗悦

最もなことである。
この世は、地獄である。
しかし、この意識なくして、宗教は、成り立たぬというのは、認識不足である。
宗教があっても、なくても、この世の姿に変わりない。逆に、宗教によって、益々、この世は、劣悪になっているのである。

さて、仏教徒が言う、末法とは、何か。
それは、中国と、日本仏教のみが、言うことであろう。
何故なら、末法思想は、中国から起こったからである。

中国の、仏教家、慧思、えし、によって、成ったものである。
西暦、500年代の人だ。

その思想は、仏陀の死後、500年間は、仏説が正統に実践される、正法の時代。
以後の、千年間は、仏果と、仏証を体得する者は皆無となるが、教えと、行法だけは、存続する時代。像法の時代という。
仏果とは、修行を積んで得られる成仏のことである。

そして、次の時代が、末法である。
つまり、仏陀の死後、千五百年後から、末法の時代となるというものである。

しかし、その根拠は、無い。全く、思いつきとしか、言いようが無い説である。

それを、日本の仏教家たち、すべてが、無反省に、取り入れた。

末法とは、仏法の滅ぶ時である。
その、滅びる時に、仏法としての、新仏教が、起こるのだが、まともな神経なら、滅びる時代の、仏教が、何故、起こるのかと、疑問に思う。
しかし、彼らは、平然として、末法思想を、掲げているのである。

これも、一人相撲であると、言っておく。

ちなみに、親鸞の和讃にも、歌われる。

釈迦の教法ましませど
修すべき有情の無きゆえに
悟り得るもの末法に
一人もあらじと説き給う

と、法然が説いたと、歌う。

だから、他力信仰なのであるという、言い分になるが、いい気なものである。

法然は、我が事を言う。
我はこれ烏帽子もきざる男なり、十悪の法然房、愚痴の法然房が、念仏して往生せんといふなり。

ただし源空ごときの玩愚のたぐひは、更にその器にあらざる故に、悟り難く惑い易し。

これが、親鸞になると、益々、切迫して、
誠に知んね。悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず、恥ずべし、痛むべしかな。

書き写すのが、ほとほと、嫌に成る程の、言葉である。

自分を、愚鈍だの、愚痴だの、しまいに、十悪の者だのと、何を、酔っているのだろうか。

いや、彼らに言わせれば、衆生は、凡夫は、酔狂の如し、という。空海の言葉である。
凡夫の心は、物狂い、酒に酔いて、善悪につけて、想い定めたる事なし、となる。

自虐も、ここまでに至れば、立派な、ご病気である。

あの、最澄まで
是において愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄
であるから、やりきれない。

偉い人は、謙虚になるというが、これは、謙虚ではなく、鼻持ちなら無い、顕示欲である。

こちらが、具合が悪くなる。いや、胸糞が、悪くなる。

いずれにせよ、自作自演の、下手な芝居を、見ているような、気がする。

それを、更に、人に説くという。
この、自虐を、人に説いて、人々を、抑鬱に追い込むのである。
そして、最後の手は、念仏により、救われると言うのである。

これを、迷いと、言う。

救いようのない者、救われざる者、アホ、馬鹿、間抜けを、だからこそ、救う弥陀の本願である、念仏。

ここまで、追い込んで、強迫し、更に、強迫観念を、植え付けて、念仏させる。
この、強迫を、今も、持ち付ける念仏宗である。

更に、言わせてもらえば、死後も、その強迫観念を、持ち続けて、念仏を称えて、さ迷う霊、霊、霊である。

成仏も、往生も出来ずにいる面々である。

何故なら、成仏も、往生も、単なる観念であるからだ。

霊は、成仏も、往生もしない。
次元移動をするだけである。
その、次元移動を、妨げるものは、仏教の、胸糞悪い、観念である。

ただし、否定はしない。
時代性と、時代精神というものがあるからだ。
その時代であるから、善しとする。
しかし、現代では、最早、単なる、繰言である。

だから、私は、文学として、尊重する。

世阿弥の、花伝書を、文学として、貴んでも、拝むことしない。
世阿弥を、超越した者として置かない。
それと、同じである。
もし、誰かが、世阿弥を、神として、宗教を建てたら、アホと思うであろう。

ところが、念仏は、ついに、宗教となっているという、仰天である。

信仰とは、極めて個人的情緒であるから、個人的な、営みの中で、一人で、成しているうちは、いいが、それを、他人に説くということになると、それは、甚だ迷惑であり、小さな親切は、大きなお世話になる。

この、罪意識というもの、宗教の、定番である。

キリスト教も、最初は、罪意識を、強烈に植え付けることから、はじまる。
罪人だから、救ってもらわなければ、ならない。
そのための、主イエスの十字架である。

この、罪悪感というもの、何ゆえのものか。
それは、人間を支配するのに、手っ取り早いのである。
自らを、責めさせ、その、責めが大きければ、大きいほど、我の意識を、厭い、何かの手に委ねようとする。
特に、愚かな者は、そうである。

そして、嵌る。
嵌ると、支配者の思う壺である。
すると、如何様にも、騙せる。
とこが、悪いことに、騙すという意識が無い宗教家がいる。
法然である。

本当に、信じてしまったのである。

この、信仰を、蒙昧という。
つまり、さ迷うことから、解放された途端に、更に、大きく、迷いの道に、入り込んだのである。

頭脳明晰も、こうなると、手がつけられない。

浄土門の道においてはただに自分が悪いということだけではなく、自分こそ悪しき者、自分独りが悪しき者だと分かりきることである。だから全く出離の縁がないと言い切るより他に言いようがない。ここまで達してのみ、またここに徹する時のみ、始めて罪の意識となるのである。
柳宗悦

上記、マジである。

このように、書く、書ける、ということが、最早、私にすれば、嘘である。

こんなことを、書ききれないのである。

鬱病患者が、自分独りが、悪いと、考えて、自滅を願うのである。
兎に角、自分が悪いと責める。責めて、責めて、責めまくる。
大鬱という、病である。

すべての、宗教に言えるのである、この罪悪感という、歪な感情。
それを、指導者は、セッセと、信者に植え付ける。

さらに、悪いことに、一番、弱い部分を、狙う、
欲望である。
誰もが持つ、健全な、欲望を、罪として、認識するという、呆れた行状である。

それは、親鸞を、見れば、良く解る。

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2008年08月01日

神仏は妄想である 102

凡ての他力門の教えは、罪の場から始められる。しかも罪という観念は、何も抽象的な概念ではない。それ故他人の罪悪を挙げて、詰るがごときなまやしさいことではない。自分自らの現下の罪に、一切の注意を集めることである。罪とは「我が罪」ということに外ならぬ。自分の罪以外に考える余地を残さぬ時が、始めて罪なるものがまともに考えられる時なのである。
柳宗悦

上記、真っ当な感覚だろうか。
キリスト教の原罪という、罪意識も、実に、妄想であり、支配する者のために、あるような、教義である。
それは、アグスチヌスという、教父といわれる者に、よって成った、観念である。教父とは、教えの親という意味であり、カトリック教義の産みの親である。
以前に、キリスト教の時に書いたので、もう一度、読み直してほしい。

この罪意識を、持つことによって、信仰が深まると、考えるところが、病である。

何故、それほど、自虐的に、ならなければならないのか。

さらに、こうも、続ける。
それ故罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。この世にどんな悪逆な者がいようとも、自分の方がそれにも増して罪深い者だということが気付かれる時、始めて罪の意識が真実なものになるのである。

これを、多くの宗教家を、はじめ、識者、仏教擁護者、浄土門帰依者等々、さらに、評論、作家などの、仏教の太鼓持ちが、語るという、愚劣である。

何故、そんなに、我が身を責めることが、必要なのか。

原罪という観念に至っては、我知らずの、生まれたことに、対する罪意識である。
これは、健康的なことなのか。

果たして、仏陀は、そのようなことを、言ったのか。そのように、教えたのか。

生まれながらに、罪ある者という、その考え方は、一体、どこから出てくるものなのか。

太宰治の、生まれて済みません、では、ないだろう。
ただでさえ、人間が生きることは、苦悩である。
これさえも、私の観念である。

それに加えて、更に、自らを罪人だと、責めよというのか。

長年、宗教に関わって真っ当に生きる者、この罪意識によって、病むのである。無用の病である。

更に、この罪意識を、深めて、ある地点に達すると、顛倒が起こるという。
その自分に、見切りをつけて、全き、懺悔に至るのである。
そして、世界の光景は、一転して、我を捨てるという。
そこに、その捨てた時に、無限大なるものが、開ける。それが、弥陀の世界、弥陀の本願である、救いであるというのだ。

後に、禅宗の時にも、考えるが、兎に角、自分を捨てることだと、解くのだ。

心理学から、見れば、この自分を捨てるというのは、俗に言われる、客観性というものなのであろう。いや、彼らは、それ以上の境地だといううだろう。
そして、その境地の、解らない者には、解るわけがないとも、言うだろう。

よくよく、考えて欲しい。
人間が、本当に、客観的になれるものだろうかと。
客観的に、物を見るという場合も、主観の内にあるのである。
つまり、自分の意識から、逃れて、外の意識になることは、出来ない。そし、それが、出来るというなら、それは、精神疾患である。

人間は、絶対主観の、何物も持たないのである。

境地という、境地は、単なる妄想である。

勿論、何事かを、知るという、瞬間がある。
その、瞬間に、悟りという言葉を、当てはめるならそれでもいい。
しかし、瞬間に知ることは、更にまた、瞬間に知ることを、続ける。

禅で言う、大悟という、境地があるというが、もし、本当に、そのような、大悟があれば、精神疾患というしかない。

つまり、宇宙と、一体に成ったとか、真理と、同体になったとかいうことである。
勿論、我が内に、宇宙的な働きがあると、感じることはある。だが、それが、宇宙との一体感云々ということになれば、妄想と言うほかはない。

仏陀が、悟った時に、仏陀の自我は、地球を越えて、宇宙に飛び出し、さらに、銀河系を、抜けて、さらに、宇宙を越えて行く。そして、大宇宙と一体になったという、アホがいるが、確かに、そのように、比喩として、語られることは、理解するが、だから、それが、何だというのか。

仏陀は、それで、ハイおしまいとならなかった。
仏陀は、人々に、生活指導を始めたのである。

すべては、心が作り出すものに、左右されている。
まず、その心の整えることが、大切である。
静かに、息を吸い、静かに、考えるべきだ。
心を、整えるということは、息を整えることである。
そのように、実際的な、ことを、教えたのである。

宇宙と一体になる等々の、お馬鹿な話はしなかった。
また、大乗仏典にあるような、誇大妄想も、言わないのである。

一体、このちっぽけな、人間というものに、何が出来るのか。
この人間は、生きるということを、徹底的生きることなのである。そして、徹底的に生きるとは、何かということを、問い続けて、仏陀は、生活指導をしたのである。

その良い例が、難行苦行というものを、捨てた。

自分を、自虐するものを、捨てた。
更に、自分の心を、自虐する思いを、捨てよというのである。

自分が、自分を苛めて、どうする。

それが、日本にての、浄土門になると、罪悪感を持て、懺悔することによって、世界が一転して、仏の世界が、広がるということになる。
これは、仏陀の教えの、変節である。

堕落である。

兎も角、そこまで、追い詰めて、追い詰めて、もうどうすることも出来ないという、状態に至って、救いの道が、見いだせるというのは、洗脳である。
自分を捨てて、弥陀の本願に頼るしかないという、その、根性は、どこからのものか。

更に、その弥陀というもの、人間の頭で、捏ね繰り回して、作り上げた妄想の存在である。

これを、迷いと言わずして、何を、迷いというのか。

親鸞に帰依する、知識人は、多い。
あれは、誤魔化しである。

親鸞は、愛欲の大海に溺れ云々というが、直訳すれば、セックスしたくて、セックスしたくて、たまらないというのである。
それなら、セックス三昧で、いいではないか。
ところが、親鸞の、偽善は、そんな罪深い者であるからこそ、弥陀の本願があるという。

何故、親鸞は、僧などやめて、一般人として、普通の生活をしなかったのか。
それは、名利の大山に迷いというのである。
つまり、有名に成りたいのである。

アホか。

そのような者だからこそ、弥陀の本願があるのだと。
いい加減にしろ、というだ。

私は、罪人、セックスしたいし、有名にもなりたいし。
なら、そうしたらいい。
しかし、僧として、妻を持って、周囲を、仰天させて、更に、僧を続けるという。然、有名にはなるし、妻も得られて、セックス出来るし。

更に、働かず、自分のこと、罪深さを、語り語りと、信者を集めて、一派をなしたという、結果。

さて、親鸞に帰依する者の、顔が見たいものである。
更に、面白いのは、その親鸞の行状に、激怒した、僧僧僧たちが、今は、皆、セックスしたいからと、妻を持つのである。

それが、日本の仏教である。

仏陀曰く。
僧、修行者は、女の膣に、ペニスを入れるな。

終わっている。
何が。
日本の仏教、僧たちである。
最後の砦の禅宗まで、今では、セックス三昧である。

その点、空海は、頭がいい。
女に触れるな、しかし、稚児に触れるのは、いい。
穴は穴でも、別の穴は良い。
稚児経にて、稚児の愛し方を、指南する。
空海の作なのか、どうかは、知らないが、その位の、度量は、空海にはある。


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2008年08月02日

神仏は妄想である 103

さて、浄土門について書いている。

私は、法然という人間を見る。
彼の最も、肯定したい思想は、専修念仏というより、女人往生である。
つまり、男女平等を、宣言したことである。

時代性と、時代精神は、念仏を必要としたことは、その時代、歴史を眺めると、解る。

下界は保元、平治の乱後の政情不安が年ごとにつのり、山上の宗門では宗徒僧兵が権力争いに明け暮れている。そこへ自然災害も加わった。記録を覗いても、承安三年には延暦寺と、興福寺の僧兵が戦い、平家が軍勢を繰り出してこれを鎮圧する。翌年は大風が洛中に吹き巻いて家屋の倒壊が続出。これにともなって飢餓状態が全都にひろがった。
人災天災に苦しむ庶民大衆に救いの手をさしのべねばならない。他力門、易行念仏をひろめることで心に安定を与えるのである。
寺内大吉 法然讃歌

修行僧としての、問題意識である。
念仏を称えて、活動した聖は、数多くいた。
民衆の中に入り、様々な福祉に、手を染めた者、多数。

それは、個々人の活動であった。勿論、その後を慕い、師弟の関係を持つ者もいただろうが、明確に、宗教団体として、活動するという意識は無い。
私は、それらを、否定する何物も、持たない。

私が、ここで、取り上げるものは、宗教団体としての、宗教である。
個人的な活動に、その人の信仰が、関わっていても、何の問題もない。
それは、極めて個人的なことである。私は、それを、情緒と、呼ぶ。

さて、ご多分に漏れず、仏教も、女人は、救い難しと、言う。

過去の諸仏典はすべて女人往生をまともに取り上げようとはしていない。女性の死後は冥府をさまよって定着できる場所がない。「六趣」という暗黒の世界を放浪する。六趣とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の巷を指す。この「人間界」とは幽鬼や幽霊がさまよう世界である。
寺内大吉

冥府とは、死後の世界である。

旧約聖書にも、女は、家畜と同じであるという観念であるが、仏教もまた、人間の数には入れないのである。

中国僧の、道宣は、南山律師と呼ばれた名僧である。596年から667年の人である。
その言葉に、「十方世界に女人がある処そこは地獄である」と、断定するのである。
これが、当時の仏教の、女性に対する認識だったと、思えばよい。

法然は、弥陀の本願四十八の第三十五願は、女人の往生が主になるといわれる
「たとい我れ仏を得たらんに、その女人にあって我が名字を聞き、歓喜信楽して菩提心を発し、女身を厭い、寿終の後未だ女像たらば正覚を取らじ」とある、それを、否定したのである。

上記を訳すと、女の命が尽きて、往生を遂げる時に、我が名を称え、喜んで、菩提心、つまり、悟りたいと思う心を、起こし、なお、女の身であるなら、自分は仏にならないという。女の身を、男の身に変じて、救うというのだ。

それを、否定した。女は女の身のままで、往生するという。
法然は、弥陀の本願を信じたが、この一点に、法然の、オリジナルがある。
だから、私は、法然を、否定しない。
単に、盲目とした信仰ではない。
実に、偉大な、問題意識である。

女人往生するというのは、画期的であり、既成仏教との、決別である。

空海というのも、オリジナルを数多く生んだが、法然も、そうである。
もう一人は、道元である。
あとは、その他大勢である。

犯しては、いけない、仏典の、無量寿経の箇所に、疑いありとは、素晴らしい業績である。

念仏往生は、男女を問わず、死に望んで、来迎する諸仏諸菩薩も男女に差別なく及ぶ。第二十願では、十方の衆生が、南無阿弥陀仏の名号を聞き、思いを浄土に懸け、この仏と結縁した者は、必ず極楽往生を遂げると、誓うのであると、言う。

故に、第三十五願は、疑いありなのだ。

法然は、明確に、女人往生を掲げた。
これが、実に評価できる、オリジナルである。

ただし、弥陀の本願というものは、創作であることは、免れない。
それは、別にして、男女を等しく、扱うという、考え方に、法然の面目がある。

私は、それを、評価する。

しかし、歴史を眺めれば、女の人生は、まだまだ、苦難、苦渋の人生であった。
矢張り、男のために、男に従い、弄ばれて生きる道を、辿る。
それは、日本の場合、戦後まで、続いたのである。
長い道のりであった。

鎌倉仏教と、いわれるもの、法然のよって、始まったと、言ってよい。
そして、女性は、最初に、男女を平等に、扱った歴史的人物として、敬意を表してよい。

あの時代、35年もの、長きに渡り、仏法を学び、智慧第一と言われた、法然の、世界の中では、それ以外の方法しかなかったのである。
仏法という中での、思索である。

しかし、それを、現代に持ち込んで、更に、信仰を強要するものになったら、どうだろうか。それは、完全に誤りである。

その、法然の精神を、見るというなら、解るが、信仰として、信ぜよということは、僭越行為の何物でもない。

次に、阿弥陀如来というものの、その姿を、見ることにする。
あまりのことに、仰天する。
結局、ハリーポッター並の、とんでも、お話なのである。
ただ、その想像力には、感服する。

仏典が、書かれた当時の、ファンタジーであり、壮大なフィクションである。
人間の想像力というもの、ホトホト感心する。


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2008年08月03日

神仏は妄想である 104

阿弥陀仏の姿を、見る。
観無量寿経に出ている、その姿は、背丈が、六十万憶なゆたごうがしゃゆじゅん、という、想像を絶する高さである。
平仮名で書いた部分は、漢字であり、すべて、長さを表す語であるから、とてつもなく、大きい。大きいというより、想像だに出来ない。

ちなみに、なゆた、那由他とは、一千憶の数単位で、恒河沙、こうがしゃ、は、ガンジス河の砂粒の数である。
それを、由旬、ゆじゅん、の区分で、一千億倍の長さに並べただけの高さということになる。

インドの、壮大な数の想像である。

この、身体の容積は、眉間にある、白いホクロだけでも、スメール山五つの大きさである。

その身体は、八万四千の毛穴でおおわれ、全毛穴から、まばゆい光を放っている。
その光は、どんな微小な物も、隅々まで照らし出すという。
光を浴びて、浮かび出た、微小な物は、一粒一粒が、仏の姿に、変化する。

寺内大吉氏は、これを、以下のように、分析する。

突然、純粋なエネルギーの塊が誕生し、想像を絶する輝きが空間を満たす。この火の玉の宇宙が広がって冷却し、数分後には最初の物質粒子が溶鉱炉の中で凝結する金属粒子の滴くとなって現れる。

これは二千余年を経た現代の物理学者ジャストロウの「宇宙創成のすべて」からの引用である。

更に、続けて
散り散りになっている粒子は集合して、まず原子核となり、ついで原子になった。初期の宇宙を満たしていた高温度、目もくらむような輝きも弱まって、冷たい水素のおだやかな雲となる。水素雲の中では、巨大な銀河が形成され、それぞれの銀河の中では次々とおびただしい数の星が誕生する。これらの星の多くは惑星に囲まれている。そんな惑星の一つである地球上には生命が発生し、長い発展の歴史をたどって人類が出現した。

大多数の学者が 正しいと認める宇宙創世から進化への壮大な物語は、およそ二百億年に始まる。科学は聖書と異なり、この偉大な創成の原因を何も説明していない。宇宙の空間と時期とが始まって以来、そこで起こったすべての出来事は、最初の原因はわかっていないが、何かがもたらした壮大な結果なのである。

寺内氏は、
浄土の経典は科学書ではない。だが生命の本質を宇宙という大自然と直結してとらえている点で近代科学に近似するのであろう。しかし、科学が「わかっていない」という「この偉大な創成の原因」を浄土教は明確に教え説いている。
と、言う。

阿弥陀仏も、最初は、最初は、小さな惑星上の、微粒子の一粒に過ぎなかった。つまり、法蔵菩薩である。
それが、誓願が、満たされて、法蔵は、阿弥陀仏となり、一粒だった生命の核が、視界を絶する大きな姿に変身し、強烈な光を全身から、発するというのである。

ここから、
仏との対面において、ちっぽけな生命が巨大に広がってゆく。また、単なる生命の消滅であった「死」を超えて、仏の世界に往って生まれる「往生」という永遠性が与えられることになる。
と、寺内氏は言う。

さて、如何にも、最もらしいが、経典と、科学を結びつけて、云々するというのは、よくあることで、単なる、事後預言と、変わらない。
如何様にも、後で、解釈できるということである。

インド人の、妄想を、科学で、解釈、当ててみた。
また、それにより、飛躍して、死を超えて、仏の世界に生まれる、往生という、永遠性が、与えられるというのである。

科学を持ち出して、撹乱させ、経典の真実性を、言うのである。

科学者が言う
そこで起こったすべての出来事は、最初の原因はわかっていないが、何かがもたらした壮大な結果なのである。
という言葉に、宗教は、それぞれ、自らの神を、当てる。

お粗末過ぎるのである。

実証の科学を、持ち出し、それに、裏付けられているという、その経典、聖典の数々である。

勿論、科学が、まだ、何も成しえない時には、何も言わないのである。
科学が、実証を始めると、科学が、計り知れないところに、つけ込んで、我らの、経典には、それが、書かれているということになる。

追伸。
JA・パウルスという著者による、数学者の無神論という本は、科学からの、無神論の提言であり、実に、真っ当な感覚の、論理である。
いずれ、それも、紹介する。

宗教とは、如何様にも、解釈できるし、如何様にも、語ることが、出来る。つまり、何でもありなのである。神や仏を、信じるためには、手段を選ばないのである。何故か。何故、そんなに、人を騙したいのか。
これこそ、仏教が言う、人間の無明である。
嘘でもいいから、兎に角、安心したいのである。

生きるに、不安だから、何でもいい、安心させるものが、あればいい。
鰯の頭も、信心からと、昔の人は、言う。
信心してしまうと、気が楽だ。
何かに、お任せして、それに乗って行けばいい。
正に、大乗仏教である。

要するに、阿弥陀仏を、宇宙であるというのである。
それが、たまたま、インドの数の思想というか、インド人の妄想を、そのように解釈したのである。

ちなみに、科学者が、般若心経を、科学で説くいう、本なども出ている位である。

どんな、ファンタジーでも、御伽噺でも、如何様にも、解釈出来るのである。
桃太郎でも、一寸法師でも、浦島太郎でも、である。

朝日新聞、15日夕刊に、花園大学教授である、佐々木閑氏の、エッセイがあった。

仏教には「お経」というものがある。釈迦が弟子たちに語った、悟りのための手引きだ。今も、インド語、漢文、チベット語など、いろいろな言葉で書かれたものが残ってる。・・
これがすべて釈迦の言葉ならいいのだが、残念なことに、実際にはほとんどすべてが、釈迦の死後、長い時間の中で大勢の人たちがつくりあげてきたものだ。お経というのは、「釈迦の教え」というスタイルをとりながら、その実は、教え切れぬ無名の著者が自分の思いを説き表していく、その千数百年間にわたる活動の集積なのだ。大乗仏教も、その流れの中で現れてきた新しい運動だ。

その膨大な量のお経を調べると、古いものと新しいものが区別できる。そこでそれを時代順に並べてみれば、一番古いところにくるものが、釈迦に一番近いということになる。それが釈迦自身の言葉かどうかは不明だが、仏教のおおもとであることは間違いない。私が惹かれるのは、その時代のお経である。

実は、このような「お経の歴史」が分かってきたのは近代になってからのことで、それ以前は、「お経は全部、釈迦の教えだ」と信じられていた。全部が釈迦の教えなのに、比べると食い違う点がいっぱいある。今ではあたりまえのことだが、昔の人は困ってしまった。

そこで一番気に入ったお経を選び取り「私はこれを信じる。これこそが本当に釈迦の言いたかったことだ」とそれぞれに主張した。どれを選ぶかは人の個性によるから、結果としていろいろな流派が現れた。・・・一口に仏教といっても、内実は千差万別ということが分かる。・・・その「お経の違い」を正しく理解して初めて、仏教世界の全体像が見えてくるのである。

以上である。

異色の、神学者である、田川建三氏は、それで、仏教の教義は、支離滅裂であると、いう。
聖書批判も甚だしいが、仏教の教義を、そのように、言う人は、また、少ない。

しかし、仏教家は、また、面白いことを言う。
仏に至る道、八万八千の門がある。
どれでもいいのである。仏に行き着けばである。

矢張り、鰯の頭も信心からである。信じてしまえば、また、信じさせてしまえば、何とかである。
更に、浄土門を、眺めて見る。

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2008年08月04日

神仏は妄想である 105

鎌倉時代に、法然は、男女平等を念仏によって、掲げた。

さらに、驚くべくことは、男女の差だけではない。
上下、貴賎の別なく、人は平等だと、説くのである。
これはまた、画期的である。

当時の、身分差別の激しい時代に、人は皆、平等であると、説くのである。

法然の元には、多くの、罪人が、集った。
罪人とは、ドロボーを始めとして、卑しい者たちである。

さて、実は、ここで、人間の平等というものが、いつから、日本の歴史の上で、成されたかということである。

それは、万葉集である。
上は、天皇から、下は、庶民に至るまで、すべての人を歌の前に、平等であるとしたのである。
日本の、平等主義の歴史は、実に古いものである。
しかし、それが、忘れられた。
鎌倉時代に、万葉集を知る人も少ないのである。

法然は、元の日本の平等主義を、念仏を通して、伝えたといえる。

法然が、現代に生きていれば、宗門ではなく、確実に思想家として、人間平等説を唱えていたであろう。

更に、救いは、誰もが、平等であるという、思想である。

陰陽師の、阿波之介という者が、自分の怪しげな占いや祈祷により、多くの女を囲い、酒池肉林の生活をしていた時の、ある日、人生の無常を感じて、法然の説法を聞くようになる。

法然が、弟子たちに、尋ねた。
阿波之介の念仏と、私の念仏とでは、どちらが、尊いのかと、すると、皆、お上人の念仏ですと、答える。それに対して、法然は、
「日頃、申していることが、まだ解らないのか。唱える念仏に尊いも、卑しいもない。念仏とは、阿弥陀様、お助けくださいという、その、一念しかないのだ。」
と、答えるのである。

どんな者でも、平等に救われる。それは、人間平等説の、高らかな、宣言であった。法然を慕うもの、その、法然の思想に、共感するのである。

そして、それは、悪人正機という、教えに結実してゆく。
それは、悪人こそ、救われなければならないのであるという、画期的な思想である。

この、考え方は、親鸞によると、思われる人がいるが、それは、親鸞ではなく、法然の考え方である。それを、親鸞が、継いだ。というより、師の教えとして、伝えた。

親鸞の弟子の、唯円による、歎異抄という、書は、名文である。
私は、この書を、高く高く、評価する。
世阿弥の花伝書と、共に、漢字かな混じり文では、傑作中の傑作である。

それにより、親鸞の思想のように、考えられるが、それは、法然のものであった。

何度も言うが、法然は、30数年間仏法を学び、智慧第一と、言われた程の者である。
つまり、仏法とは、彼自身であり、それを、離れて、彼の思想は、成り立たないのである。

人間は、決して、客観的というものの見方は、出来ない。
あくまでも、主観の内にある、客観である。
自分の内にあるもの以外の、いかなる、考え方も、考えることは、出来ない。
法然に、神学の考え方をせよと、言うことは、出来ないのである。

さらに、私は、それを、時代性とか、時代精神と言っている。
その時、のみだから、また、その人だから、考えられた思想である。

弥陀の本願にまで、疑いを持ちつつ、弥陀に縋るという、考え方を、選択した、その法然の心の内に、私は、共感する。

男女平等、更に、人間平等、そして、更に、悪人も、善人も、同じく、弥陀の救いにあるという、当時としては、大変な思想を、展開したといえる。

織田信長によって、近代というものが、拓かれたというならば、法然によって、20世紀後半の、平等主義が、すでに、拓かれたという。

しかし、だからといって、弥陀の救い云々が、現実的であるかということは、別物である。

当時の救いの観念が、いつの時代にも、普遍的なものであるかといえば、違う。

私は、空也などの、ひじり、聖たちの、多く、一遍に至る、念仏行者の、活動や、行為は、念仏という、方便を通して、つまり、定義としての、ものだと、考える。

一つの、定義なくして、行動行為は、成り立たない。
念仏が、方便であるということは、弥陀の本願というものも、方便である。

方便とは、とりあえず、ということである。
弥陀の救いが、確実であるということを、前提にして、置く。

我なるものを、見つめる、一つの手立てとして、念仏を、方便とする。
法然は、信じた。それは、法然の長きに渡る、仏法という世界が、法然自身となっていたからである。

しかし、法然の思想を、取り入れるが、念仏により、救われるという、思想は、取り入れずともよい。

何故なら、方便だからだ。

何々と、仮定しての、思想であり、哲学であり、更に、主義であり、主張である。

この世に、確定したものは、何一つ無い。
科学で実証されたものも、確定しているのではない。それは、進化しているのである。
すべて、とりあえず、なのである。

人生は、その、とりあえず、の中を、生きるということである。

法然が、行き着いた、念仏は、生きている時の、念仏は、どんなに信心が、深くても、どうしても、「飾りがある」ということだった。

自己を観察することから、自己を、徹底して、観照するという、もの。
限りなく、客観というものに、近づけてゆくが、我を失う我など無いのである。
我という、主観にある、我のみが、我を認識する。

無我の境地というが、無我の境地を得れば、精神疾患である。
我を失わず、我というものを、ぎりぎりのところまで、突き放すという、心的状態を、無我というなら、理解する。

仏法というもの、実に、思索的であるが、魔境に陥るのである。
悟りとは、悟らないことである。

悟らずに、弥陀の本願に救われるという、教えは、ぎりぎりの、客観性である。
それ以上になると、アホになる。

悟りとは、理想的境地であり、決して、辿り着けない境地である。
そんな、悟りの境地というものは、無いからだ。

歎異抄で、唯円が、親鸞の独白を書く。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死を離るる事あるべからざるを、哀れみ給いて願をおこし給う本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみ奉る悪人、もともと往生の生因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおおせ候いき。

悪人は、成仏など出来ない。そして、その悪人とは、すべての人間のことである。すべての人間は、弥陀の願を頼み、往生するしか、ないのだという。

私は、そこまで、自分を悪人だと、意識するという、病理を突き止めたいが、それを、深みとして、受け取る仏教家たちである。

何度も言うが、何故、罪の意識を持ち、何故、弥陀に救われなければならないのか。
何故、往生しなければならないのか。

人類の歴史の中で、救済観というもの、いつから、持つようになったのか。
何ゆえに、それが、必要だったのか。

それは、きっと、この世を認識する言葉、厭離穢土であろう。
キリスト教などは、原罪という、妄想の罪意識である。
実に、宗教とは、救われないものである。

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2008年08月05日

神仏は妄想である 106

なにごとも、心にまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心のよくて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人、千人を殺すこともあるべし。
唯円 歎異抄

何事も、心の思うがままに、出来るならば、往生のために、千人を殺せといわれれば、殺すが、しかし、一人も、殺す因縁がなければ、殺すことは出来ない。それは、我の心が善であるからではない。殺せといわれなくても、百人、千人殺すこともある。
と言う。
つまり、人殺しも、因縁なのだという。

親鸞の教えを、書き綴った、名文である。

何故、このような言葉が出るのかは、親鸞の生きた時代を見ることである。

親鸞が出家して、比叡山に入ったのは、9歳の時、養和元年、1181年。
平家が壇ノ浦で、滅亡した時、13歳。
衣川で、藤原三代が滅亡したのは、17歳。
鎌倉幕府が成立し、頼朝を経て、実朝の暗殺された時は、47歳。
承久の変の時は、49歳。
内乱を見続けてきたのである。
更に、天変地異もあった。

人間とは何か。すべての宗教はこの問いを根本にもつが、とくに内乱とひきつづく乱世は、この問いを強く迫ったにちがいない。社会と人間のあらゆる矛盾が露呈するからである。そのなかでも最大の矛盾は、殺生をきびしく戒めた釈尊の教えを信じながら、陰謀や殺人や内乱のくりかへされてきたことであろう。こういう存在にとっても、救いはありうるのか。それとも末法の世と言われるとおり、人間にはただ絶望だけがあるのか。これが親鸞の抱かせられた精神の主題である。
亀井勝一郎 日本の精神史

時代は、いつも、激動の只中にある。
危機意識をもてば、いつの時代も、激動である。
平和ボケといわれる、現代の日本も、激動の時代の只中にある。

宗教は、その中にあって、何を提供できるのだろうか。
法然を、見て、親鸞を見るが、結論から言う。
彼らの、思想は、その後、見るも無残に変節した。

既成の、仏教団体の、伽藍と、形式を廃して、ただ、信心のみに、焦点をあてたのだが、それが、今では、既成仏教団と、同じく、伽藍と、形式に堕して、平然としている。

時代は、いつも、激動だと言った。
宗教家は、いつも、開祖の心を、思い、いつも、新鮮でなければならないが、浄土宗も、浄土真宗も、御覧の通りに、形骸化した。

後に、昭和歎異抄という、本を書いた、元浄土真宗の僧侶を紹介するが、内側から、徹底的に、宗門を批判している。

あらゆる、新興宗教も、必ず、伽藍を作り、要するに、立派な建物を作り、形式を作り、信者を、雁字搦めに、縛り、金を平然として、集める。

その、建物が立派であれば、あるほど、アホな人々は、納得して、金を教団に運ぶ。
そして、本部の地を、聖地というから、笑う。

要するに、人は、目に見える形で、安心するのである。
人は、見た目が九割であるというように、見た目からしか、入ることが出来ない。

ある教団の本部を見て、実に立派な建物であるが、その雰囲気、専門用語で言えば、波動の寒々としたものを、感じて、ゾッとしたものである。
その先は、信者でなければ、入られませんと、言われて、引き返したが、その中に、入る意欲は、なかった。

仏教とは、名ばかりで、教祖一家を、神のように崇めている。
驚いたのは、天狐が、教団をお守りしていると言う。
狐が、気の遠くなる年月、修行して、天狐になるという。あまりに、馬鹿馬鹿しくて、話にならない。狐に、守られていると、言うのであるから、狐の霊が、主導している、教団なのだろう。

その本部の建物の、上空に、教祖一家が、霊界なるものを、作り上げているのであろう。そこが、極楽だと、信じ切って。死んでも、救われないとは、このことである。
教団の信者は、死んで皆、教団本部の上空の幽界に入るのである。
哀れなり。

さて、親鸞の考えたところのものを、見渡す。

信仰にとっての最大の敵は、信仰する者同士の内部にある。或いは自己の内部にある。そこに生ずる破戒、あるいは自己崩壊はくりかへされていきた。それだけではない。仏教徒が仏教徒とが血を流しあい、迫害し、裁いてきたではないか。法然とともに流刑に処せられた親鸞は、この事実を忘れることが出来なかった。
亀井勝一郎

親鸞は、法然の教えを信じて、地獄に落ちてもいいという。何故なら、地獄こそ、一定住みかであるという。
これ程の、罪の意識、罪悪感というものを、親鸞は、何故、持つに至ったのか。

僧侶で始めて、妻を娶る親鸞である。
既成仏教団の、僧たちは、激しく攻撃したであろう。
ただし、彼らは、女犯を犯さなかったのではない。秘密裏に、女を囲う者、多数。
表向きは、独身を通すが、裏では、やりたい放題である。
その点から言えば、親鸞は、真っ当であった。

愛欲の大海に、沈みと、告白しているのである。
ただし、その自白に、酔うことが、なければ、良いのだが。

ここで、歴史を、逆戻りして、罪悪感、罪の意識というものが、仏教とともに、入ってきた、観念だということである。

日本の古神道には、清き、明るき、直き心のみがあった。
更に、ツミという言葉は、恵みの言葉だった。
海神、山神、わだつみ、やまつみとは、自然の恵みである。

ところが、漢語の罪という言葉は、全く、予想外の意味があった。

その罪は、仏教で規定されていた。
例えば、五逆といわれる罪は、殺生、盗み、邪淫、妄語、飲酒である。
出家者になれば、膨大な罪がある。

上記の、五つの罪さえも、誰もが犯す危険のあるものである。
乱世の世で、殺生などは、当たり前である。
邪淫を犯さない者はいないだろう。
そして、飲酒となれば。
在家信者にも、それは、要求された。

その、記された、罪から、罪意識が、更に、深まる。
そして、親鸞のように、罪人、罪人と、繰り返し言うことになる。

キリスト教も、兎に角、罪意識を抱かせる。
意識していなかった、ものまで、罪の意識を抱かせる。
そして、懺悔である。
ありもしない、原罪という、罪が、主イエスの十字架によって、赦されたという、誇大妄想を、展開し、信じる者を、雁字搦めにして、支配するという、手である。

更にあくどいことは、密室で行われる、人のセックスというものを、罪の意識に、育て上げるという、巧妙な手である。
人間の、真っ当な欲望を、罪と定めるという、狂いは、如何ともし難い。

古神道を、はじめ、多くの民族宗教、あるいは、伝統は、欲望を、恵みと、捉える。
それが、真っ当な感覚である。

宗教は、人間が犯すであろう、罪を、これでもかという具合に、探し出すのである。
それは、凡ての信者を、徹底支配するために、利用される。

親鸞は、
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
と言う。歎異抄

念仏するのではない。
念仏しようと思う心に、すでに、弥陀の本願である救いが、あるというのだ。

そして、もうひとつは、賜りたる信心である。
こちらが、信仰する、信心するのではない。
その、信心さえも、あちらから、与えられるものであると、言う。

人間が抱く様々な妄想のなかで、最も惑はしにみちたものは何か。妄想は煩悩に発するにちがいないが、煩悩から離れようとする信仰自体のうちに、実は最も深い妄想がひそんでいるのである。
亀井勝一郎

信仰という、ゲームと、考えうるとよい。
自分の心を、弄ぶという、実に愚かな、思考や、思索を、繰り返す。

例えば、罪の意識を、持って繰り返す、セックスほど、すこぶる快感なものはない。
何も、道具は、いらない。ただ、罪の意識さえあれば、通常のセックスの、何倍もの効果のある、性を楽しめる。

思索も、ある一線を超えると、堕落になるのである。

前頭葉の発達した、人間が考え出した、最も面白い遊び、それが、宗教である。

スポーツの楽しさは、ルールの中にある。
ルールのない、スポーツはあり得ない。

人間を、ある枠に収めて、そこでの、七転八倒を、楽しむという、実に、複雑怪奇な、遊びを、考えたものである。

それを、思索と呼ぶのか、私には、解らない。

言葉の遊びというものを、考え出した人間の性になったようである。
哲学とか思想も、然り。

私見である。
死ぬまでの、暇を潰すに、まあまあ、手頃なのかもしれない。


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2008年08月06日

神仏は妄想である 107

信仰の最も重要な面は罪の意識の自覚にあることは言うまでもない。同時に隠れた自力性といったものが、ここに微妙に作用するのではなかろうか。たとえば罪の告白懺悔は尊いことかもしれないが、このときほど人間の「はからい」が巧妙にはたらくときはないのかもしれない。親鸞はそこに生ずる虚構をおそれたのだ。
亀井勝一郎

罪の自覚は、当然だと言う。
親鸞は、告白懺悔の虚構を恐れたと言うが、私は、それ以前に、罪の意識のあるのが、当然だということに、注目する。

宗教の救いというものは、人間の罪意識あればこそだと、暗黙の内に、了承されていることである。
おかしい。

我が身が、救いようのないほど、罪人であるという意識は、如何なるものか。
罪意識があるから、救われたいと思う。

何度も言うが、この自虐性が、問題である。

更に、
自己の計量したあらゆる救済観念を破壊すること、これが親鸞の戦いである。換言すれば、罪の自覚の深さに応じて、そういう救済観念の空しさを身に沁みて経験してきたということでもある。

自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
歎異抄

自力の人は、他力の心が、欠ける。ゆえに、弥陀の本願には、適わないのである。

これは、観念の中の観念である。
確かに、親鸞の思索の深さというものが、表現されるというが、何ゆえに、ここまで、自己を追い詰めるのかといえば、罪意識である。

罪人意識に、陥り、抜け出せないでいる。しかし、これも、自業自得である。

歎異抄は、名文であり、日本文学の中でも、一際、冴える書である。
しかし、それと、宗教の云々とは、別問題である。
確かに、宗教的、云々があればこその、名文であろうが、そうだとすれば、これは、あまりに、無用な、悩みを、多くの人に与えた。
更に、現代までも、この親鸞の迷いに、導かれて、さすらう人がいる。

愛欲の大海に、沈む、つまり、セックスの欲求が、何故、罪の意識と、結びつくのか。
それを、罪意識だと、当然として、今までの解釈は、成り立つていた。
根本からして、それは、誤りである。

名利の山に、迷う。
何故、名声を求めてはいけないのか。
そのために、努力奮闘することに、人生の一つの道があるのだろう。

何をしても、人は、生きられるようにしか、生きられないのである。

救いを説く、仏教がもたらしたものは、救われないという、罪意識であり、それは、単に、その世界の中での、お遊びであるという。
つまり、観念遊びである。

罪意識という、迷いを与えて、そして、そこからの救いを説くという、ゲームである。

どんな救済観念も崩壊した極限を設定することによって、言わば自己のはからいの微塵も入る余地のない、絶対帰依の心をあらわそうとしたのである。悪人への同情でもあこがれでもない。崩壊しつくした人間と、弥陀の本願との、どん底における出会いに、信仰の純粋性を見ようとしたのである。
亀井勝一郎

上人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
歎異抄

親鸞一人のために、あの大願が発せられたということである。だが何がこのことをいわせるに至ったのか。まさに天地の間「唯我独悪」の切なる体験が、この言葉となったのである。一切の悪がこの自分一人の中に渦巻いているのである。だがそれは何を意味しているのか。一切の慈悲が自分一人の上に降り注がれているということではないか。・・・・
こんな驚きこんな感激が他にあうか。もう自分の往生に露塵ほどの疑いも残らぬ。誰を差し置くとも、この自分が浄土に生まれるのである。こんな歓喜が世にあろうか。地獄必定と分からせて貰えた者のみの味わい得る歓喜である。
柳宗悦

一体、誰が、こんな、妄想を、与えたのであろうか。
大乗仏典は、すべて、創作であると、今では、知られている。
当時は、そうではなく、すべてが、本当であると、考えた。
つまり、極楽も、地獄もあるものだと。

今では、仏典の多くが、検証されて、その有様が、解られてある。
妄想の、観念が、妄想の観念を生み、更に、誇大妄想が、加えられて、とんでもない、極楽往生の、思索の深さが、善しとされている。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

つまり、時代性であり、時代精神である。
彼らを、責める訳にはゆかない。
その時代に、徹底して、生きたのである。

さて、それから、親鸞を支持した者たちが、浄土真宗という、集団を作る。
そして、現在までに至る。
その、宗教団体は、如何なるものか。

あの、時代に、宗祖が、悩み抜いた境地に、立って、信仰と成しているのか。それとも、既得権益のみに、汲々としているのか。

堕落の一言である。

更に、内の中に、反省を促す声も、聞かず、ただ、諾々として、伽藍と、形式に陥り、すでに、その心意気を失い。ついには、葬式のみに、生きる宗教となり、唾棄すべき、僧侶たちの、安穏とした様は、世の中の害毒である。
無きもしない、地獄、極楽を、説いて、信者を騙し、更に、脅迫して、強迫神経症を、引き起こさせるという、お粗末さである。

次に、宗門から、宗門を批判した、昭和歎異抄を書いた、大沼法龍氏の、文を、見ることにする。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月07日

神仏は妄想である 108

浄土真宗では読経、儀式に偏重して、実地の求道を軽視してはいませんか。僧侶が色衣を着て葬式をすれば、極楽往生をさしてあげるように自惚れ、遺族のものもそれで浄土往生をしたものと安心しているのは、自他ともに間違いいではありませんか。聖人の真意は、歎異抄に「親鸞は父母孝養のためとて一遍にても念仏まをしたること未だ候はず」と、改邪抄には「某親鸞閉眼せば加茂川にいれて魚にあたうべし」とありますが、今真宗では実地の求道は指導せず、流れを汲むものはすべて信後のものと看做して、読経、儀式が真宗の全部のように誤認してはいませんか。
大沼法龍 昭和歎異抄

浄土真宗の僧侶が、自らの教団に、徹底批判する最初である。

上記を、読むと、何も浄土真宗に限らない。
日本の仏教は、今、皆、そのようである。
開祖の心意気などは、皆無である。

これは、江戸時代の三代将軍、家光のキリシタン禁止のための、すべの国民を、寺に登録させる、つまり、寺の檀家にするという、政策の御蔭である。
それから、仏教の堕落が、はじまった。勿論、それ以前からも、堕落していた。

要するに、将軍が、寺の金集めを指定してくれたのである。
僧侶たちの、堕落は、計り知れないものがある。

僧侶も、妻を娶り、家族を持ち、更に、子孫のために、財産を残すべく、セッセと金集めに奔走するという。
仏陀が、聞けば、泡を吹くような、行状である。

在家と、出家の区別も無いのである。
どこに、仏陀の仏教があるのか。

大乗仏典が、いかに、嘘まみれなのかは、彼らを見れば、よく解る。

上記の、文は、誰が読んでも納得するものである。

読経と、儀式に、堕して、今も、平然として、仏教と名乗り、平然として、暮らしを立てているという、仰天である。

あまりに、平穏無事であるから、最早、宗派の教えも、何も、忘れているようである。

勿論、ごくごく一部には、少しは、真ともな僧もいるが、それとて、少しは、真ともに見える程、日本の僧侶たちは、堕落している。

信長ならば、一まとめにして、火を放つだろう。
私も、そうする。

大沼法龍氏は、真宗だけではなく、すべての宗派に対しても、同じように考えていただろう。

聖人は法然上人の膝元で、たのむ一念の時、立ちどころに他力摂生の趣旨を受得したと書いてありますが、一念をはっきり語るものがいない。聖人が「一念といふは信楽開発の時こくの極意を顕し、広大難思の慶心を彰す」といわれたのは、実時でも仮時でもない、開発したときの味である。溺れていたものなら、助かったという自覚がある、後生の苦になったものなら、開発したという体験がある。後生の一大事になっていないものが、読書して了解しているのだから、いつとはなしに獲信したというのは、話がわかっただけで調熟と摂取の分際がわからないのだから、摂取されてはいません。

後生の一大事になってないいものが、読書して了解しているのだから・・・

正に、今の仏教は、読書の仏教であり、ハウツー物の、仏教書を読んで、了解している者、多数であり、更に、それらを、書くのは、仏教家ではなく、様々な分野の人が書いているという、有様。
皆々、言葉の遊び程度で、それを呼んで、感動しました等々の、言葉は、単に、読んで了解したという、程度で、何も、開発したものではない。

少しは、解ったというだけで、得心していないというのである。
調熟と、摂取の分際がわからないのだから、摂取されていません、とは、専門的、浄土真宗の教義にあるから、これを、説明しても、どうしようもない。

面白いのは、法然を上人とし、親鸞を聖人としていることだ。
真宗は、親鸞が開祖であるから、当然、親鸞に重きを置く。

聖人は第十八願の成就文の聞即信の一念で、無量永劫の解決がつく、唯信独達の法門を発揮しておらるるに、真宗では十劫の昔に助かっていることを喜べと、十劫秘事の異安心を鼓吹しているのは、聖人の真意を知らないのではありませんか。

この、十劫の昔に、助かっているというのは、すでに、弥陀の本願が発揮されて、救われているということなのだろう。
素人の私にでも、解ることである。
要するに、理屈である。

ここで、少しばかり注目する部分がある。

聖人はあれだけ難信の法を説いておらるるのに、真宗の道俗は誰一人として語るもののいないのは実地の求道がなく、実地の体験がないから語り得ないのではないでしょうか。難信易行が宗の根基で、易信易行の宗旨はありません。

易行道というが、実は、難信だという。
難信であり、易行なのである。

信ずるのは、難なのである。しかし、方法は、易い。

次第に、専門的になるので、このくらいにして、おく。

大沼氏の言いたいことは、現在の浄土真宗の堕落である。
その、堕落をそのままにして、寺を我が子に継がせ、宗旨の理などは、度外視し、安穏としている組織に、渇を入れているのだ。
しかし、その渇も、効き目が無い。
全く、無関心を装っても、いいのである。それは、檀家がいるからである。何の心配もいらない。十分、生活してゆかれる。
金が必要になれば、何とかカントかと、名目をつけて、集金するのである。

それは、今では、すべての仏教団体に言えるのである。

こんな、いい商売は、ありませんと、平然として、料亭で、宴会をする僧侶たちである。
どこに、仏陀の伝えたものがあるのか。
仏教という、宗教の更に、宗派の、軌道に乗っていれば、いい。
教団上層部、指導者が、決めた教義を、唯々諾々と承知し、ただ、それを、猿真似のように、伝えていればいいのである。

ホント、こんな良い商売はない。

末法というのは、仏教家たちに言えることで、一般の人には、全く関係無い。
これほど、救われない集団も、いないが、救われていると、信じているから、終わっている。

その、救われているとは、単なる、妄想であることに、気付かない。

兎に角、阿弥陀如来というのは、架空の存在であり、人の創作したものであることは、明々白日である。
その、本願云々という、お話も、いつまで、続くものか。

最早、時代は、その妄想を抜けて進んでいる。
もっと、マシな、妄想が、闊歩しているのである。

愛と調和のエネルギーとか、ね。


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