以後、龍樹については、多々書くことになる。
龍樹が創作した、大乗菩薩道というもの、仏に至る道を、五十二にまで、分けている。
十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚である。
十地の一番最初を、初地という。四十一番目である。
これを、真っ当に聞いていたら、頭が、おかしくなる。
一体、仏陀の教えたものは、何で、あったのか。
十地の、最初の初地の位を得ても、すぐに脱落するほど、難しいという。つまり、難行ではないか。修行という言葉が、ここで出てくる。
修行である。
宗教家が好きな言葉である。
一般に、物事を習う時期を、修行する、という言い方をするのは、理解できるが、この、仏教の修行については、理解しにくいのである。つまり、その、判定を、誰がするのかということだ。
龍樹は、あろうことか、仏に至る道は、すべて、難行であるというのである。
そして、もう一つの道、易行道というものがあると、言う。
これが、念仏である。
信方便の易行、つまり、信心を手立てに、易行である。
これが、曲者である。
万人にとっての、菩薩への道は、これしかないというのである。
それが、阿弥陀仏の、念仏の教えだということになる。
それを、親鸞などが、教行信証などで書く。
南無阿弥陀仏で、仏になっていく道で、それを、無所得空という。
それを、仏陀の中道の道だともいう。
こうして、仏陀の実践が、堕落して行くのである。
これを、親鸞は、更に深めて言うと、ある。
親鸞は、龍樹の無所得空を、すべて阿弥陀の願力をそのまま受け止めた姿であると、解釈する。
無所得空とは、何も無いということではなく、妄念が無いということ。
妄念とは、煩悩具足の人間の、物思いである。
更に、親鸞は、自然法爾という言葉を使う。
妄念、我執の人間が、悟れる道は、阿弥陀の願力に、任せるしかない。だから、阿弥陀仏の仏智を、頂いて、念仏を唱えること、いや、それを聞くことによってと、更に深まる様子である。
念仏を唱えるのではない。念仏を聞くのである。
何やら、深まるように、聞こえるが、詭弁としか、言いようが無い。
賜りたる信仰という、境地に行った親鸞であるが、賜りたると言う程のものか。
阿弥陀仏というものは、架空の存在である。
しかし、更に、それをも、方便というであろう。
つまり、それが、迷いの実体である。
つまり、阿弥陀でなくても、何でもいいのである。
兎に角、心を悩ませ、どこか、深みに嵌まり込んでみたいのである。
悩みに悩むことを、好む。更に、自虐を好むのである。
そして、道徳である。
そのように、念仏することも、賜ったのであるから、それに、報恩感謝の心を持って生きることだとの、結論に至る。
仏に、感謝する、生き方である。
あのー
自然と、共生し、共感していた、日本人である。
今更、架空の存在に、帰依して、更に、それから、賜って、信仰させてもらって、念仏を唱えのではなく、聞くのであると、複雑にしなくても、いいであろうと思うが、彼は、そのようにしか、生きられなかった。
仏教という、いや、大乗教という、言葉の世界に、ことごとく、やられてしまった。
更に、浄土門の中でも、信に重きを置く者、行に重きを置く者と、区分けされる。
それが、派閥になり、流派になっている。
勿論、同じようなものであるが、本人たちは、真剣である。
目糞が、鼻糞を、何とかである。
親鸞の、教行信証は、教、行、信を、証するために、書かれた。
つまり、信を重く見たのである。
だが信ずるとは何を信ずるのであるのか。何かを信ずるとする限り、信じられるものと、信ずる己とが向かい合う。畢竟信ずる誰かがある限りは、人がまだ残るではないか。
柳宗悦
と、ここまで、深く考えることになる。
要するに、我と汝という、相対があるというのである。
結論は、相対の無い世界へ、至る道なのである。
不信の者をこそ最も深く相手としているのではないのであろうか。信じる力の如き、上根の者たることを語りはしまいか。もし信を得られずば往生出来ないというなら、幾ばくの人がその幸を受くるであろう。人間の信に頼るのは、まだ自力を認めてのことではないのか。信も一つの力だといえよう。その力に頼らずば往生がかなわぬなら、不信の者は、決して浄土に往けぬであろう。
柳宗悦
そして、行き着く結果は、元の木阿弥である。
我々が往生出来るのでもなく、また我々が他人を往生せしめるのでもない。衆生の往生は既に十劫の昔、阿弥陀仏が正覚を取られたその刹那に決定されているのである。信と不信と、浄と不浄とそんな差別に、往生が左右されるものではない。人間が往生するのであったら、信も必要となろう。浄もなくてはなるまい。だが、往生は南無阿弥陀仏の当体にあるのであって、人間の力に頼るのではない。その故に人間の善悪の如き、浄濁の如き、智鈍の如き、信疑の如き、何の差別が、弥陀の本願を妨げるであろう。
柳宗悦
往生するのは、南無阿弥陀仏の名号それ自らである。
それゆえに、法然は、口に念仏、親鸞は、ただ信に、一遍は、人の如何に左右されないと、言う。
菅原道真
心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や護らん
どうであろか。和歌一首で、彼らの、苦悩を、乗り越えている。
浄土門の行き着いた先は、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を、南無阿弥陀仏するということである。
いい加減して、くれや。
何も口に唱えるものを、持たないという、境地に行き着かなかったのか。
人間、そのまま、生きていればいい。
糞して、寝ていればいい。
どうして、そこまで、行き着かないのか。
阿弥陀仏の存在を知らない者でも、すでに、救われていると、どうして、そこまでに、至らなかったのか。
私は言う。
この世に、生を受けて、更に、生きることが、できるということ、それだけで、十分である。それ以上のこと、僭越行為である。
お天道様は、必ず、東から昇り、西に沈む。
それで、いいではないか。
太陽を拝していれば、すべて、事足りる。
追伸
浄土門については、死ぬまでの暇つぶしの無い人には、学ぶに足る。