2008年06月10日

神仏は妄想である 89

私の目的にとっては、それが宗教からはやってこないのは確かだとわかればそれで十分である。もしどうしても一つの理論として展開せよといわれれば、私は次のような線に沿ってアプローチするだろう。私たちは、道徳に関する変わりゆく時代精神が、非常に数多くの人々のあいだでそれほどひろく同調が見られる理由を説明する必要があり、またその比較的首尾一貫した方向性についても説明する必要がある。
ドーキンス

ツガイトガイスト、時代精神という意味である。
道徳が、宗教からではなく、時代精神から、発しているのであると、言う。
同感である。

道徳教育とは、その時代精神を、見つめる行為であるということが出来る。
具体的に言えば、社会で起こる様々な、問題を、考えることによって、自然と、時代精神というものを、身につけてゆく。
批判や、同調から、様々な感情を、抜き出し、それを、次に知性により、判断し、理性により、行為する。
勿論、そこには、柔軟な感性を要する。
更に、感性が、実に、素晴らしい感受性を生み出し、それを、芸術行為にまで、高める者も、出るだろう。

これは、理想であろうか。
理想ではなく、現実である。

宗教による、講話のような形から、何がしか、人の道なるものを、探るという、行為は、時代精神から、すでに、掛け離れたものになっている。
しかし、まだ、出版物などを、見ていると、宗教家が、あたかも、人の道を、説くかの如くのイメージを持つ。

私個人として、言えば、宗教家より、精神科、精神医療に関わる人の、エッセイや、論文、などを、読むことで、人の道というものを、考えた経緯がある。
人間の心に関する、深い洞察力は、精神科医の、特に、人間性溢れる方々によって、多く理解した。


第一に、なぜそれほど多くの人々のあいだで同調が見られるのか? 道徳に関する時代精神というものは、バーやディナーパーティーにおける会話を通して、本や書評を通じて、新聞や放送を通じて、そして現代ではインターネットを通じて、人の心から心へひろまっていく。道徳的風潮の変化は、論説で、ラジオのトークショーで、政治演説で、コメディアンのしゃべりで、メロドラマの台本で、議会に提出された法案の投票で、そしてそれを解釈する判事の判決に示されている。それを表す一つの方法は、ミーム・プール内におけるミーム頻度の変化という観点からのものになるだろうが、私はそれに深入りするつもりはない。
ドーキンス

神というものに、また、聖典とされる、聖書により、道徳観念というものが、生まれるのではないという。
ここで、私は、時代の進化という言葉を、用いる。
時代は、進化しているのである。

例えば、仏陀在世当時は、ブッダの言葉が、時代精神として、生かされた。
生き物を、殺すななどである。殺生禁止である。
それは、また、普遍的な、道徳感情になったが、それを行為するのは、時代精神である。

如何に、殺生禁止であろうが、人間は、戦い続けてきた。
日本に、仏教が伝来した時でさえ、それを、取り入れるか否かで、争いが起こり、さらに、仏教の教えが、伝統化されてきた時代でも、争いは、絶えなかった。
仏に祈りつつ、人を殺した。
今、現在も、そうである。

そういう、普遍的な、道徳の指針に対しては、あれかし、という、希望であるが、生活の中にある、様々な問題解決は、時代精神が、受け持つ。

輸血拒否するという、エホバの証人、ものみの塔という、キリスト教新興宗教があるが、最も、愚かしいことに、気付くこともない。
聖書に、輸血を禁止しているからだとの、説明と、解釈は、時代精神に、逆行している。
結果、医療の現場では、成人以外の、子供の場合は、人道的に、輸血をする。
当然である。

頑なさを、戒める聖書の教えもあるが、彼らは、それに、気付くこともない。
輸血しないという、喧伝により、逆に、彼らの宗教を、宣伝するかの如くである。
カトリックや、プロテスタントに、大きな批判の声を上げるが、根は、同じものであることに、気付かないのは、蒙昧だからである。

要するに、話にならないのである。

私たちのなかには、道徳に関する変わりゆく時代精神の進歩の波に遅れている人もいれば、わずかに先を行く人もいる。しかし、二十一世紀に生きている私たちの大部分はは一団をなしており、中世、あるいはアブラハムの時代、あるいは1920年代という最近の人間と比べてさえもずっと先を行っている。波そのものは絶えず先へと動いており、前世紀の先駆者でさえ(T,Hハクスリーはその顕著に例)、一世紀後の遅れた人々よりも自分が後方にいることに気付くだろう。もちろんこの進歩はなめらかな上昇をたどるわけではなく、鋸の歯のように蛇行しながら進むのである。
ドーキンス

試行錯誤をしつつ、人類は、道徳というものを、考え続け、訂正し、修正し、時代精神に合わせ、築いてきた。
そして、それは、終わることなく、続けられる。

昔の人とは、ここでは、老人のことを言う。
自分たちの時代と、違い、道徳観が、失われた、礼儀が失われた云々と言う。それは、いつの時代も、そうであった。
若者は先を行き、老人は、自分たちの、若者の頃を、言う。
しかし、大きな断絶にはならない。
その、相違から、若者と、老人は、語り合うことも出来た。

最も、愚かなことは、宗教の教えにあることからの、道徳教育である。いや、道徳的教育、つまり、洗脳である。
今でも、キリスト教会は、性行為は、正上位で、行えと、教えるのであろうか。
今でも、マスターベーションは、罪であると、教えるのか。
異性を、同性も、含めて、性欲を覚えるのは、罪であると、教えるのか。

新約聖書の中の、イエスも、思いだけでも、姦淫を犯すという。
余程、好き者が、そのセクトにいて、自分の性欲に、恐れおののき、イエスに言わせたのであろう。自らの、戒めとして。

ドイツから、始まった、ダッチワイフの、性能は、実に、素晴らしいものである。
今では、マスターベーショングッズの、性能の素晴らしさに、私は、感嘆している。

相談者の中に、相手の男性が、自分をイカせた後に、グッズで、イクのですが、という相談を受けたことがある。
グッズは、それほど、性能が良くなっている。

一人暮らしの人の、生前の部屋を整理処理する、業者に聞くと、驚くほどの、大人のオモチャがあるという。
実に、大人のオモチャの、世界は、飛躍的に、発展した。

激しい、欲望を、オモチャで解消できるというなら、言うことは無い。

何故、宗教は、性欲を怖れたのか。
いずれ、書くことにする。

私の言いたいことは、個人の、非常に個人的な、情緒に、入り込む宗教というものの、傲慢を言うのである。
尻を拭くことから、指導したいとする、宗教とは、何か。
ほどほどに、いたせ、と言う。

人を一律にして、家畜のように、扱う宗教団体というもの、世の害毒である。

時代精神については、もう少し、続ける。



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2008年06月11日

神仏は妄想である 90

アメリカでは、人種的平等という理由は、有能なマーティン・ルーサー・キングのような政治的指導者、およびポール・ロブソン、ジドニー・ポワチエ、ジェシー・オーウェンズ、ジャッキー・ロビンソンのように、芸能人やスポーツ選手、その他の有名人や役割モデルとなるような人物によって育まれたのである。奴隷と女性の解放はカリスマ的な指導者に多くを負っている。そうした指導者のうちには信仰をもった人間もいたし、そうではない人間もいた。ある者は、自らが信仰をもつがゆえに正しい行いをした。別の場合には、彼らが宗教を信じていたのは付随的なことだった。マーティン・ルーサー・キングはキリスト教徒であったが、彼の非暴力的な市民的不服従の哲学はガンジーから直接受け継いだものであり、ガンジーは宗教を奉ずる人間ではなかった。
ドーキンス

宗教を持ち出すような人は、いなかったのである。
実に、素晴らしい。
人間としての、行為である。そこには、宗教の教義等々、なんらの欠片も無い。
人間性というものの、尊さである。

それを、神や仏というものを、持ち出すと、汚れる。

何が、素晴らしいかと言って、人間性というものほど、素晴らしいものはない。

霊性というものを、持つから、人間が素晴らしいのではなく、人間性というものを、持つから素晴らしいものなのである。
霊性とは、付随的なものである。

霊主体従といって、のうのうとしている、宗教ではなく、霊も体も、同じく主なのである。
何故、肉体を持つのか。
肉体が素晴らしいからである。
そして、肉体の持つ欲望により、生きられるのである。

さて、創価学会は、ガンジー・キング・池田展というものを、世界的に開催している。
この、恥ずかしき行為は、目に余る。
ガンジー・キング・池田と、並べる傲慢は、甚だしい。
会員にとっては、鼻高々であろうが、他の日本人には、穴があったら、入りたくなるほど、恥ずかしいことである。

世界的指導者として、池田という人物を、掲げるが、単に、信者会員の、金を、思う存分に使えるというだけの、話である。

生きているうちに、どうしても、名誉というものが、欲しいのである。宗教家というより、野心家であり、更に、アホである。

あまりの、軽薄短小さに、愕然とする。

裏千家という、千利休を流れを汲む、茶道の家元が、青年の船というもの、毎年開催し、中国青年との、交流等々を、行っている。
勿論、会員からの、金集めである。
世に喧伝して、裏千家という、華麗なるペテンの、家元制を、喧伝するために、行う。
それと、何の変わりもない。

内容が、空洞である。

その、中国の反日感情を、彼らは、何がしか、緩和させたか。
そのような事実は、一切無い。
すべて、金で、中国側の、称賛の声を集めて、紹介する。
金で、称賛を買うのである。

話にならない。

さて、ドーキンスを、続ける。

それから、教育の改善というものも推進力の一環であり、とくに、私たちのそれぞれが他の人種や異性の人間性を分かちもっているーーーどちらも生物化学、とくに進化論に由来するもので、まったく聖書とは縁が無いーーーという知識の増大がある。黒人や女性が、そしてナチスドイツの時代にはユダヤ人やジプシー「差別用語なので、現在はロマと呼ばれている」が酷い扱いを受けたのは、一つには彼らが完全な人間とは認められてなかったからだ。倫理学者のピーター・シンガーは、「動物の解放」という著書において、私たちはいま、「ポスト種差別主義」の段階へと移行すべき時期を迎えているのだという見解を、きわめて雄弁に主張している。ポスト種差別主義というのは、人間が人間らしく扱われるような、しかるべき扱いを、自分がそう扱われたことを評価できる知性をもつすべての種にまで適用すべきだ、という考え方である。ひよっとしたら、これは道徳上の時代精神が、本来の世紀において向かうべき方向を示唆しているのかもしれない。それは、奴隷制の廃止や女性の解放といったかつての改革からの自然な延長ということになる。

聖書の中からは、決して、起こりえない、考え方であると、私は思う。
ポスト種差別主義とは、画期的である。

神は死んだ。そして、人間が生まれたのである。

時代性、時代精神が、それを、示すのである。

神の知性よりも、人間の知性が、勝るということを、知るものである。
勿論、神と呼ばれるモノは、人間の変形したものである。が。


道徳に関する時代精神が、大まかに一致した方向を目指して動いていく理由についてこれ以上深く追求するのは、私のアマチュア哲学や社会学の範囲を超えている。私の目的にとっては、観察された事実として実際にそういう動きがあり、またそれが宗教によってーーー聖書によってではないことはまちがいがないーーー推進されていないということがわかるだけで十分である。それはおそらく重力のような単一の力ではなく、コンピューターの能力が指数関数に増大することを表現したムーブの法則のように、さまざまな力の複雑な相互作用なのであろう。その原因が何であれ、時代精神の前進という明らかな現象の存在がわかっただけで、私たちが善人であるために、あるいは何が善であるかを判断するために神が必要だという主張を突き崩すのには十分である。
ドーキンス

私は付け加えて、仏典でによってでもないことは、間違いなと、言う。
さらに、コーランによってでも、ないことは、間違いないと、言う。

神や仏の名において、道徳を、説くという、傲慢不遜な態度は、更に、改めた方がよい。
それは、人間の知性によって、説かれ、感性によって、感得させられ、そして、理性によって、行為されるものである。

あと、一回で、ドーキンス氏と、お別れすることにする。



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2008年06月12日

神仏は妄想である 91

スターリンとヒトラーは極端な悪行をそれぞれ、独善的かつ教条的なマルクス主義と、ワーグナーふうの狂乱の色合いをもつ、正気の沙汰ではない、非科学的な優生理論の名のもとにおこなったのである。宗教戦争は実際に宗教の名のもとで戦われ、それは歴史上おそろしいほど頻繁に見られる。一方、無神論の名のもとで戦われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。なぜそうなのか? 戦争が経済的な強欲、政治的な野心、民族的ないし人種的な偏見、深い不満や復讐心、あるいは国家が向かうべき方向に関する愛国的な信念によって推進される、ということは確かにあるだろう。しかし、戦争をおこなう動機としてより妥当な候補といえるのは、自分たちの宗教が唯一本物であるという不動の信念なのである。そしてこの信念を補強するものこそ、すべての異教徒やライヴァル宗教の信奉者に対して公然と死罪を宣告し、神の戦士はまっすぐに殉教者の天国に行けると露骨に約束する、聖典にほかならない。
ドーキンス

ヒトラーが、その残虐行為を単独で実行したわけではないことを、私たちは、ここで、思い出さなければならないと、ドーキンスは言う。
つまり、兵士や、その上官は、キリスト教徒だったというものである。

実際、ドイツ国民のあいだに根付いたキリスト教信仰こそ、私たちがまさに論じている仮説―――すなわち、ヒトラーがおこなった宗教にかかわる発言が偽りのものであったのではないかと疑われることーーーを支える土台の一部にちがいあるまい。つまり、ひょっとしたらヒトラーは、キリスト教に対してなんらかの共感を、形だけでも示さなければならないと思ったのかもしれない。
ドーキンス

ここで、問題なことは、時のローマ法王ピウス12世が、ナチスに反対する態度を取ることを、執拗に拒んだということである。
そのことは、現代のカトリック教会にとって、実に深い困惑になっている。

ヒトラー体制は、無神論に源を持つ者ではないと、ドーキンスは、言う。
スターリンは、完全に無神論者である。
しかし、個々の無神論者は、悪事を起こすかもしれないが、無神論の名において、悪事を成すことはない。
スターリンが、その典型である。

更に、私見であるが、スターリンの主義は、宗教から生まれた子供である。
マルクス主義は、プロテスタントの、ガンビンの思想から生まれたものであると、私は、考えている。

サム・ハリスはこの一件に関しても、「信仰の終焉」において的の中心を射抜いている。

宗教的信念が危険なのは、その他の点では正常な人間を狂った果実に飛びつかせ、その果実が聖なるものだと思い込ませるところにある。次々に生まれてくる新たな世代の子供たちは、宗教上の信条というものは他の事柄であれば必須とされる正当化の手続きを踏むことをかならずしも求められないと教えられるため、文明の依然として、不合理の徒から成る軍勢に包囲されたままである。私たちはいまこの瞬間も、大昔の文献をめぐって自分で自分の身を滅ぼしつつある。このような、悲劇的なまでに愚かしいことが起こりうると、いったい誰に想像ができたことだろう?

逆の言い方をするなら、信仰のない世界をつくるために戦争に行く者がどこにいるのか、ということだ。
ドーキンス

随分と、ドーキンスの、神は妄想である、から、多くを引用してきた。

ここで、ドーキンスの著作と、お別れする。

宗教の、蒙昧は、限りない。
同じ、キリスト教でも、カトリックとプロテスタントの、宗教戦争を、見よ。
また、新興キリスト教と、各宗派の争いを見よ。

そして、同じ旧約聖書を、聖典とする、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、争いを、見よ。
アメリカの、ブッシュは、中世の十字軍という、イメージを、持って、イスラムに立ち向かった。
呆れる。

更に、世界各地で、行われる、紛争、戦争の種は、その多くを、宗教に負う。
インドならびに、アジアでは、平和志向の仏教徒まで、戦うのである。
更に、ヒンドゥーも、然り。

インドネシアは、政府が、打ち上げた、一神教のみ、宗教としての活動を、許したが、それが、根本的、紛争の種になった。
一神教を、認めるということは、唯一本物であると、信じる様々な、宗教紛争の種を、植えたということである。

日本の場合は、宗教戦争というより、為政者と、宗教団体の争いがあった。
特に、門徒の一揆に、端を発した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちの、戦いである。

それ以前は、比叡山の僧兵に、象徴される。
比叡山で、僧兵である。信じられないのである。
延暦寺とは、天台宗である。最澄の天台宗である。
法然の念仏を、迫害し、虐殺等を、行ったとは、信じられないのである。

そして、念仏と、題目宗との、争い。

戦国時代を、戦いの歴史と、見るが、その底では、日本でも、宗教に絡む争いが多くあった。

神道が、仏教を受容したように、仏教の派閥が、そのようなことが無いというのが、私は、不思議である。

最も、今現在は、宗派が、集って、傷の舐め合いから、談合をしている、状態である。
すぐに、先が見える、日本仏教の、愚か者どもが、既得権益を、守るべく、仏教の現代化などと、言うが、なんのことはない。
食って寝る場所の確保であり、教義の云々でもなんでもない。
ただ、安穏とした暮らしを、続けるために、談合するのである。

彼らが、この世に、地獄を、作っていることを、知らない。

何度も言うが、仏陀の、教えなど、日本の仏教には、毛ほども無い。

次に、それらを、ランダムに、そう、無造作に、取り上げて、徹底的に、叩き切る。

最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元等々、何ほどのことは無い。
妄想、想像の、蒙昧の世界である。

日本仏教の、名僧、高僧等々、言葉遊びの、何物でも無いと、断ずる。
文学というなら、話は、解るが、宗教、更に、信仰させるという、傲慢極まりない、その姿勢を、私は、断罪する。

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2008年06月13日

神仏は妄想である 92

前回まで、ドーキンス氏の「神は妄想である」という、著書から、多く引用して、書いた。

次に、仏教、そして、また、新約聖書について、書くつもりだが、再度、私の立場を、書く。

私は、主イエスと、書かれる聖書と、キリスト教、すべてのである、それと、何の関係も無いものだと、考えている。

ナザレのイエスは、キリスト教の主イエスキリストであるというのは、後世の人の勝手な、思い込みであるし、勝手な解釈である。
仏陀も、そうすると、そういうことになる。

ナザレのイエスが、私の神と、呼んだ方は、自分の守護神であり、いつも、傍について、指導をしていたのである。

単純に言えば、イエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ教の中での、革命を、起こしたのである。世界宗教など、何ほどの意識もなかった。

新約聖書に書かれている、イエスの言葉は、それぞれのセクトの、考え方から成った、イエスの言葉である。

私の中では、私のイエスがいる。

イエスの墓が、見つかったという、「キリストの棺」という本が、少しばかり、キリスト教国で、話題になったが、それ以上にはならない。何故か。
最早、真実など、どうでもいいのである。

妄想を、信じ込んでいれば、それでいいのである。

学問と、宗教の違いである。

事実より、妄想を、信じるのであるという、この世の、真実が、よく解るというものである。

いずれ、新約聖書の、セクトの人々が書いた、言葉を、検証するが、そのように、作られたものほど、有り難がるのである。
誰も、イエスが、糞して、小便をしていたと、思いたくないというのと、一緒である。
イエスも、人間であった。
人間である、イエスを、神の子として、認定したのは、後世の人々である。

更に、宗教として、レベルが低いのは、思い違い、心得違いを、起こしているということである。
何より、聖書を、神との契約と、考えるのであるから、終わっている。

取引というのが、一神教の特徴である。
こうしたから、神は、こうしてくれるというのである。

私は、カトリック信徒でもあるから、特に、その、教会の嘘は、解る。
クリスチャンは、自己本位の人が多い。
それは、教会の教えが、そうだからである。
しかし、自己本位などというと、とんでもないと、言うだろう。その逆だと、信じ込んでいる。

神本位であると、全く信じ込めるというのも、終わっているが、レベルが低い証拠である。

私の、霊学の立場は、イエスと、主イエスとの、差が甚だしいということである。

ただし、信者になるというのは、個人の極めて個人的情緒であるから、私は、決して、それを、犯すことはしない。
尊重する。

それは、私と、同じように、自分のイエスというものを、抱いている人も多いと、思うからだ。

仏に至る道も、八千の法門というが、それぞれ、人間には、無限の道がある。

仏に成るという言葉は、方便である。

私の霊学からは、人間は、人間であるということで、善しとする。
何も、仏というものに、限定する必要は無い。
きっと、理想的人間、それを、仏というのであろう。

肉体を、持っている人間が、仏になる必要は、さらさら無い。
何故、肉体があるのかということに、気付くべきである。

更に、多く、人は死ぬまでの、暇を潰さなければならない。ゆえに、まあ、仏の道でも、目指しましょうかということであり、それを、人に強制したり、ましてや、教えを説く必要は無い。
説くというのは、布教である。

宗教団体は、信者を、兵士に仕立てて、新会員獲得を、目指す。人を引き入れれば、徳が得られると、教える、宗教は多い。
商売である。
人が多くなれば、金が集まるからである。

最初から、組織を作ろうとして、努力したという、仰天する、告白をする、宗教指導者もいるほどである。

教えを、広めるという、堕落に陥る様を、感得できないほど、宗教的感覚というのは、何かに、麻痺させるのである。

自分一人で、行っていれは、事足りる。

仏陀も、そのまま、死ぬことを、考えたが、梵天という、魔界のモノが、現れて、その、悟ったものを、人々に、教え広めよと言う。
そして、語り始めたのであるが、それで、収まらず、仏教という宗教に、発展した。

今、仏教の混乱は、甚だしい。
また、仏教誕生の地は、仏教が、廃れて、久しい。

アホな、偽の仏教である、日本の仏教が、逆布教するという、驚きである。

イエスと、同じように、私の仏陀は、生き方指導の方である。
霊的に、高いレベルにあろが、なかろうが、生き方指導者として、素晴らしいと、考える。

ちなみに、仏陀は、仏教で言うところの、仏にはなっていない。仏典に、仏陀自身が、明確にしている。
それを、知らない仏教者たちの、親の顔が、見たいものである。

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2008年06月14日

神仏は妄想である 93

宗門の人、特に学識ある僧侶の書くものを見ると、述べてある真理が、深く教学に立ち入るにつれ、余りにも専門化されて門外の者には疎遠な感じを起こさせやすい。それに枝葉な問題に精細になると、とかく本質的なことが置き去りにされる。むしろ学問のための宗論で、活きた信仰とはかけ離れてしまう。宗学はそれ自身、立派な存在理由を持つとしても、それが知識の羅列に陥る危険は極めて多い。しばしば特殊な専門家の特殊な問題に終わりやすく、その煩瑣な宗論が、どんなに若い人々と仏教との間に、深い溝を作っているか分からぬ。
柳宗悦 南無阿弥陀仏 より

さて、仏教について、書くことにする。
最初は、浄土教から、始める。

しかし、その前に、結論から、書くべきだと、思っている。

上記、南無阿弥陀仏は、昭和26年から、27,28年にかけ、大法輪という雑誌に、連載されたものである。
広く、多くの読者を、曳きつけたようである。
現在も、上記のことが言える。

暇な坊主の、暇な、宗論研究は、実に、いい気なモノである。
時代は、切迫している。

仏教の専門書は、何を言うのか、よく解らないもの、多い。
さらに、教学なるもの、支離滅裂であることに、気付かない。
単なる、妄想である。

私は言う。

仏教の、悟りや、救いという、観念が、何故、必要なのであるかと。
何故、人間は、悟りが、必要なのか。
何故、人間は、救われなければならないのか。

そして、本当に、悟りとか、救いというものが、あるのか。

更に、万が一、悟って、救われても、私は言う。
人間は、孤独な存在である。
いや、絶対孤独が、人間の存在理由である。

宗教は、その、真理を、誤魔化し、更には、死後の世界までも、誤魔化しで、満たす。

これ程、罪深いものが、あろうか。

死ぬまでの、暇つぶしとは言え、何程の、価値があるというのか。


ただし、仏教の開祖、仏陀を、はじめ、それぞれの宗派の開祖たちの、活動に関しては、私は、敬意を、表するものである。
また、日本仏教の開祖たちにも、敬意を、表する。
それは、時代性と、時代精神が、求めたものだからだ。

また、文学としての価値は、思う存分にあると言う。

浄土教を、先に取り上げるのは、実に、日本人に、浄土宗系の信徒が多いということ。
そして、日本仏教の巨峰といえば、空海と、法然であると、思うからだ。

空海は、いずれ書く。
法然は、仏教に縁の無かった人々に、仏教というものを、提供した功績である。
更に、貴賎別なく、教えを説いたという、行為は、注目に値する。
法然によって、仏教が、一般化したと、言ってよい。

法然は、浄土宗を開いた。
そこからである。

南無阿弥陀仏を、唱えるだけで、救われると、説いたのだ。
救われる。
一体、何からの救いなのか。

これを、見つめつつ、進める。

さて、
柳の文を、続ける。

第二の仏教に関する書物の難点は、漢語による熟字や熟語が、余りにも多いことである。使用された経文のほとんどが一切が漢訳であるから、漢語の表現を用いずして仏教を語ることは容易ではない。のみならず、長い歴史の間には数多くの特殊な術語が培養された。それ故教学に詳しくなると、術語を豊富に知るから、それを誇示するような弊さえ見える。無学な者はそれに近づくことが出来ぬ。今の学生たちは漢字の素養が乏しく、近頃は進んで漢字の使用に制限を施すほどであるから、ますます仏書を読みづらいものにさせる。

ところが、ハウツー物の、仏教入門書などにより、読みやすくなったが、内容も、薄くなる。
薄くなるというのは、解った気にさせる、ということである。
般若心経などの、入門書なのか、エッセイなのか、論文なのか、知らないが、膨大な著書があるが、いい気なものである。
般若波密多 パンニャパラミーターという、知恵という言葉を、語っているのだろうが、知恵など知らない者が、知恵を語るという、仰天である。

語れないものは、語らない方が、いいのである。

仏教を平易に説くということは、それを民衆に近づけるためである。もとより平易は卑俗の意味であってはならない。いつだとて易しさは深さに支えられていなければならない。
柳宗悦

心の、より処を、求めて、般若心経などの、経文に、興味を示すのだろうが、あれを、マジに、読むということは、マジに、おかしくなるということである。

三蔵法師玄奘訳の、般若経の、心臓部であるが、あの、空観というものは、虚無の世界に引きずり込む。
つまり、深さを感じさせて、迷うのである。
その、迷いを、安心立命と、勘違いするのである。

仏教の、教学というものは、実は、それに、尽きる。
迷わせて、それを、安心と、思い込ませるのである。

仏法とは、別名、迷いである。

膨大な仏典というものがあるのは、迷いに迷うからである。
いくら、書き綴っても、終わらないことを、真理を語るのに、終わりが無いというのは、誤魔化しである。

真理とは、単純明快なものである。

太陽は、東から上り、西に、沈むのである。

日蓮は、たとい、日が西から出ても、法華経の揺らぐことは無いなどと、アホなことを言うが、太陽が西から出たら、どうなるのか。

強い信念は、強迫を生み、更に、誇大妄想に突進する。
宗教とは、実に、それである。

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2008年06月15日

神仏は妄想である 94

私はここで、大体私の立場を述べておく方がよいであろう。今までの著者と違う点が幾つか見いだせると思うからである。私はこれから南無阿弥陀仏の意味を述べるのであるから、必然この六字の念仏に立つもろもろの宗派について記さねばならない。これらのものを総称して念仏宗とか、あるいは浄土門とか呼びならわしている。
それ故私はこの一篇で、仏教の多くの流れのうちから浄土門、即ち念仏による浄土往生を説く宗門について語るのである。・・・・・そこでどうしても法然、親鸞、一遍の三祖師のことが重要な題材となってくる。それに浄土門の最も徹底した思索がこれらの人々によって成されたのであるから、どうあってもこの三大上人のことを差し置くわけにはゆかぬ。そうしてこのことは必然的に、法然によって建てられた浄土宗、親鸞によって築かれた真宗、一遍によって始められた時宗のことを述べることになる。この三宗こそは、日本における念仏門を最もよく代表する。
柳宗悦

しかし、柳は、それいずれもに、属する者ではない。
それらの、宗派を引き離して考えたくない立場であると、言う。
解説、手引きとしては、常に客観的と、いってよい。

信者というのは、愚かであるから、浄土宗の信者は、真宗より、こちらが上とか、真宗信者は、浄土宗を超えたものであるとか、色々と、アホなことを言うのである。

宗教の、アホさは、同じ経典を、戴いても、派閥が違うと、実に、反目する。
それでいて、宗教者会議とか、世界宗教者云々といって、会議を、開き、嘘八百の、平和的云々の声明を出すという、茶番である。

それは、すべての宗教に言える。
実に、救われない者こそ、宗教であると、私は言う。

三人の、始祖の中で、一番、真っ当な感覚は、「我が化導は一期ばかりぞ」と言った、一遍である。

この時のみの、化導であると、言い切る心意気は、正に、見事である。
現在の時宗は、ほとんど、無いに等しい。
柳も、一遍により、日本浄土門の結末があるという。

一遍は、捨て聖、すてひじり、である。
実に、真っ当な、求道者であった。
たった一人の教えこそ、宗教という、極めて個人的な情緒の産物であり、それを、そのままに、行為するのが、宗教家の、面目である。
また、信者もそうである。
そこには、絶対孤独の境地がある。
私が、唯一、納得するのは、そこである。

法然という礎の上に、親鸞の柱、一遍の棟が建てられているので、法然なくして親鸞も一遍もなく、また親鸞、一遍なくして法然もその存在の意味が弱まる。一人格が法然より進み、親鸞より一遍へと移るのは、時代的展開であり、内的推移である。それ故法然は彼自らを親鸞に熟さしめ、更に一遍に高めしめたといってよい。三者はこれを異なる三者に分かつことが出来ぬ。
柳宗悦

さて、浄土門の、別名は、他力信仰である。
他力があれば、自力がある。

日本の仏教は、この、二つの道で、実に反目し、議論を尽くしたが、私に言わせれば、同じものである。
行き着くところは、同じ場所である。
その場所は、誇大妄想という、場所である。

無いものを、在ると、信じるのである。
妄想以外の何物でもない。
だが、それを、否定しない。
時代性と、時代精神による。

法然の、選択本願念仏集を、読むと、彼が、実に、お勉強したことが、解る。
三十年間を、学びに尽くした。
法然は、鎌倉時代の人と、いわれるが、鎌倉幕府が成立した時、法然は、六十歳である。
平安末期の人であった。
平安期とは、言わずと知れた、阿弥陀信仰の盛んな時期である。

だが、平安期の、阿弥陀信仰は、貴族や、その女房たちの、アクセサリーのようなものであった。
更に、抑鬱気味の時代である。
その、不安感を、鎮めるものとしての、阿弥陀信仰である。

法然は、その、偏狭だった、阿弥陀信仰を、一般に開放したと言ってよい。
更に、我が身のことである。

ここで、法然、親鸞共に、自虐的性格であることを言う。
つまり、末法という時代にある我と、戒定恵という、僧侶としての、器ではないという、自覚。
簡単に言う。
私は、駄目人間だという自覚。
親鸞にいたっては、どうしても、セックスがしたいと、その欲望を、抑えられないのだという、自虐が、こんな者でも、救われるという、念仏の教え、浄土門の教え、法然の教えに、ただ、任せるのだという、徹底した諦め。それを、後で人は、他力の甚深なる教えと、称えるのである。

一人で、やっているうちは、良かったが、それを、人に説くなと、言う。
ところが、親鸞は、それを、人に説いた。そして、信者まで、現れた。
そして、言うことが、親鸞は、弟子一人も持たない。皆、同行者だと言う。
それも、思索の深さとして、理解されている。

どうして、女を、二三人引き連れて、山に籠もり、セックス三昧の、日々を過ごさなかったのか。どうして、浄土宗から、さらに、浄土真宗という、教団にまで、いったのか。
ちなみに、最初は、浄土新宗であった。
お解りか、新である。つまり、新しいと、つけて、呼んだのである。
後に、真と、直した。

ここに、親鸞の迷いがある。
自虐趣味の、告白本、歎異抄は、文学的価値の、実に、高いものであるが、それは、弟子の唯円の筆である。

その子孫の、蓮如も、セックス好きで、多くの女に多くの子を産ませた。そして、浄土真宗という、教団を、強固なものとしたのである。
時の、為政者と、渡り合うような行動も取るという、宗教家というか、政治家でもあった。
彼の著作も、文学的価値の高いものであるが、果たして、宗教という、情緒にあるものか、疑問である。
真宗王国を、作らんとした、野心は、どこからのものか。

島崎藤村も、自らの罪深いことに、嘆き、破壊という、小説を書いた。
しかし、彼らは、自らの罪深いことに、嘆き、宗教を、作ったのである。
この、様を、迷いと、言わず、何と言うのか。

そして、その迷いを、多くの人に、共用させた。

知らないことを知るということは、知識である。
宗教の教えは、知識を、出ることはない。それを、知恵、更に、仏の知恵、涅槃の境地などと、アホなことを言うのである。

要するに、人間を、何故か、超えたところにあるような、物言いをするのである。
それが、彼らの手なのである。
いつまでも、信徒を、縛り付けて、搾取するという、手である。

勿論、彼らも、涅槃の境地、仏の知恵などという、境地など、知らない。知るはずがない。知るというならば、妄想である。
何故なら、そんなものは、無いからである。
空の思想ではない。
無いものなのである。

それを、追々書いてゆく。

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2008年06月16日

神仏は妄想である 96

自力、他力の二道は、互いに異なることに意味はあるが、異なったままに一つに即することに、更にその威儀がありはしまいか。もし一つに即することがなくば、二つの道は中途に止まっているものとして、厳しく批判されてよい。私は何も自他二道が始めから同一だと主張するのではなく、異なることによってかえって一つに即する所以に、驚嘆を覚えるのである。
柳宗悦

自力、他力という観念は、どこからきたのか。
中国思想である。インド大乗思想では、まだ、未分化であり、まして、仏陀の教えに、自力も他力も無い。言えば、そんな観念は無い。
仏陀は、人は行為によって、成るものに成るという。仏になりたければ、仏として生きればよい。ただ、それだけである。

例えば、禅宗は、座禅によって、悟りを求める。
自力である。

他力は、弥陀の本願を信じて、ただ、信心による。
後で、弥陀の本願というものを、見る。

両者は、結果的に、同じところに行き着くものだという。

むしろ一つに即するための分化だと見るべきであろう。男女が分かれるのは、分かれたそのままがよいということではない。一つたるがための差異なのである。分化することに目的はない。まして対立し反抗するということに、意味があるのではない。分化することで結合があり、結合し得るのは分化があるからだといえるのであろう。一方を肯定することで他方を否定すべきではなく、お互いが相即されるために差異が要請されているのである。
浄土門に絶大な意義があるのは、その要請のためだといわねばならぬ。
柳宗悦

押しても駄目なら、引いてみな、である。
要するに、同じ穴の狢である。

柳氏の、文を、茶化すのではない。
その通りである。
仏教においては。

客観的に、見れば、自力も他力も、同じものである。
要するに、仏になるとか、悟るとか、往生するとか、救われるとか、と、いうことのためにである。
同じであろう。

いずれにしても、目的は、同じである。
どちらにせよ、性格であろうし、方法であろう。

問題は、それ以前のことである。

柳宗悦氏は、実に、有意義な活動をしている。
民芸品の、価値の再確認である。
それを、浄土門の、教えから、説いているのである。
それも、一つの価値付けといえる。

だが、
平凡な常識ではあるが、ひとわたり事実を語ってゆこう。日本の文化史の中で何が最も高い位を占めるか。何としても偉く深いのは、幾人かの仏徒たちの行跡である。仏教が培った高僧たちの言葉や行為である。あるいはまた妙好人の如き篤い信者たちの一生である。「妙好」とは白蓮華の意で浄い心を意味する。見渡しても彼ら以上の日本の姿は見えぬ。それらの人々のことを想うと、仏教がどんなに深いものであるか、または人間がどれだけの高さまで行き着けるものなのかが分かる。実にそれらの僧侶や信徒たちが現れたばかりに、日本の文化には千鈞の重みが加わる。もしそれらの人々がいなかったら、日本は何を中外に誇り得るであろう。
柳宗悦

上記、実に、認識不足である。
彼ら以上の日本は見えぬ。
日本は何を中外に誇り得るであろう。
何という、誤りか。

それでは、あの、シルクロードに、伝わった仏教が、何故、イスラムに取って代わられたのか。
仏教ではなく、日本人だから、仏教を生かせた、また、応用して、更に、精神的に高いものに、仕立てたのである。

仏教によると、思い込むのは、柳氏の自由であるが、全く違う。

更に、彼ら以上の日本は見えぬというのは、本人が見えないだけで、見ていないのである。

私には、万葉の時代の、素晴らしい日本人が見える。
更に、舒明天皇から、庶民に至る面々に、脱帽するのである。

さらに、
日本に仏教が伝わらなかったら、日本は精神的にどれだけの深みを持ち得たであろう。

仏教の前にはまだ薄い淡い影に過ぎまい。

と言う。

精神的深みを、どのように定義しているのか、解らない。
また、薄い淡い影とは、何か。

私の言葉で、言えば、万葉の精神の深みを、知ってのことかと、言う。
そして、薄い淡い影とは、たゆたう心、曖昧微妙な心である。これは、日本人の最大の特徴であり、精神の格調の高さである。

微妙繊細な、心が、もののあわれ、という、心象風景を、描いたのである。

柳氏は、仏教に関わる僧たちの、文学的著述に、没頭しているに過ぎないのである。

勿論、柳氏が、それを、精神的高さと、評価するのは、否定しないが、日本を、知らないと言える。

最も、勘違いしているのは、仏教によるのではなく、それが、日本人によった、からである。

仏教文学を、これだけ、高みに押し上げたのは、日本人だけである。

極めつけは、
わが民族に無限の自信を贈るのは、吾吾の歴史にそれらの人々の足跡を持つからである。
と言う。

私は言う。
我々の民族に無限の自信を贈るのは、万葉集や、源氏物語における、更に、和歌の歌道における、人間の道であると。

決して、人間を、超越したような、化け物を、置かなかったことである。

仏教、更に、それ以前の、インドバラモン等々のように、人間を超えたモノ、化け物を、主に、拝まず、崇めず、呪術を行わず、自然に、共生し、共存し、更に、自然を、カミの依り代、よりしろ、として、自然を、畏敬した心情である。

そこには、何も、超越したモノは無かった。
決して、自然を、超えるという、傲慢な思想はなかったのである。

文字に迷うのが、宗教である。
更に、言葉に迷うのが、宗教である。

南無阿弥陀仏という、六文字というが、なむあみだぶつ、とは、音では、七つである。

日本には、一音に意味があり、ウーと、唱えれば、呼び出しの音霊であり、オーと、唱えれば、送り出しの、音霊となった。

文字の観念に、陥らなかった、民族である。

文字の羅列を、尊ぶのは、構わないが、それで、日本に、深い精神の云々が無いとは、無知である。

最初に、柳氏も、言う。
教学の言葉の、羅列で、得意になる、学者、僧の面々を。

仏教の堕落の甚だしさは、文字による、言葉による。

不立文字という、言葉に出来ない教えとして言う、禅宗さえ、溢れる程の、言葉を使う。
徹底して、言葉遊びをするのである。

それが、精神の深さというものか。
いずれ、禅宗にも、触れるが、最も堕落したのは、禅宗である。
仏陀の、教えを、言葉遊びに始終させたのである。
一本の草木を、育てることもせずに、座禅して、言葉遊びをして、のうのうと、生きていたのである。
働くことも、せずに、信徒から、布施を貰い、乞食を名乗ることなく、悟り済ましているという、傲慢極まりない、その、生き様は、唾棄すべきものである。

その修業というもの、農民や、漁民に生き方に、比べれば、天と地の差がある。
もし、極楽という世界があるならば、勿論、無いのだが、極楽行きは、間違いなく、農民、漁民である。

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2008年06月17日

神仏は妄想である 96

さて、法然は、日本で民衆に仏教、浄土門を説いた最初の、仏教家であり、それは、画期的な行動だった。
実に、それは、評価に値する。
あの、時代性を、考えれば、行き着くところ、当然である。
更に、法然は、知恵第一と言われたほどの、学識を、持っての、既成仏教との、決別という、行為も成した。

仏教は、最初、天皇、皇室のものであり、国家のものであった。そして、貴族に行き渡り、庶民には、手の届かないものだった。
鎌倉仏教の、衝撃は、余りある。

私は、法然の浄土宗という、宗派を、評価する。
そして、批判し、検証する。

まず、浄土門の、聖典と言われるものは、無量寿経、観無量寿経、そして、阿弥陀経である。浄土三部経と、言われる。
阿弥陀仏を中心とした、経典である。

法蔵菩薩が正覚を成じたその時、呼んで阿弥陀仏といわれ、阿弥陀如来とあがめられた。仏教での仏は基督教などでいう神とは多くの開きがある。仏とは「覚者」である。覚(さとり)を得ることが仏に成ることである。その仏で済度を行ずるものが如来である。如来は「如来る」とも「来るが如し」とも読め、「従如来生」(如より来る生ず)とも解き得ようが、この「如」は如来るもの、真実なるものであるから、「真如」とか「如如」とかいう言葉が生まれた。無上なるもの、無碍なるものを指すのである。
柳宗悦

無上なるもの、無碍なるものを指す、根拠は、上記の、経典である。
それを、信じる者は、それで、納得するが、それを、信じない者を、彼らは、無明にあるという。つまり、迷いにあるという。

覚者とは、悟りを得た者である。
一体、何をもって、悟りを得たというのか。
そのために、法蔵菩薩というものを、見ることにする。

柳氏の、案内で行く。

法蔵菩薩が成仏して阿弥陀如来と呼ばれるに至ったのである。このことは「大無量寿経」に述べられてあるが、いわば本生譚の一つである。釈迦如来にも本生譚があるが、つまり仏となる前世の譚で、仏と成ったのは由って来たる深い因の報いであるのを告げる。この因縁の物語こそ、なかなかに意味が深い。
柳宗悦

譚とは、ストーリィーである。
前世からの、お話である。
前世とは、科学で言えば、仮設に止まっている。
それは、証明されなければならない。
現在、確実に、前世調査というものが、科学によって、成されている事実がある。

今は、それに、触れずに、法蔵菩薩について書く。

経によれば、一日、ある国王が、世自在王仏の説法を聞かれ、翻然と省みるところがあり、その地位を捨て、国土を去り、一沙門となって、つまり、僧のようになって、名を法蔵と改めた。
行を積み、仏を讃え、覚を願う。
生死の苦の根を絶とうと求めた。
そのため五劫という、長い間苦慮し、思索し、徳行に励み、ついにもろもろの大願を起こすに至った。
いずれも、衆生を済度し、浄土に導こうとする切なる願いである。そうして、その願いが満たされないならば、成仏はせぬとまで、誓いを立てた。
いわゆる「正覚を取らじ」という強い決意である。
その、誓願は、四十八にも、及び、ひたすらに、仏土の具現を求めた。

経に「法蔵菩薩、今すでに成仏して西方に在す。ここを去ること十億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽界と日う」
阿弥陀経には「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽と日う。その土に仏まします。阿弥陀仏と号す。今現にいまして説法したまふ」

極楽思想の、はじまりである。
ここで、劫とか、刹とかの、時間を計る言葉が出る。
膨大な、気の遠くなる時間である。

法蔵が、菩薩の位から、如来の位に入ってこのかた、十劫を経たと、経には、記してある。これを、「十劫正覚」という。

変だ。

如来にならないと、願をかけたではないか。
と、このように、仏典は、長ければ長いほど、矛盾が、続出する。

ここでよく問いを受ける。法蔵菩薩とは架空の人物ではないのかと。そういう菩薩を描いて何を意味しようとするのかと。ただの比喩に過ぎぬのなら、弥陀といい浄土といい、何の確実さがあろうかと。そもそもどうその物語を解したらよいのか。数々の質疑が集まるであろう。
柳宗悦

柳氏は、懇々と、架空であっても、その意味があると、続けるのであるが、省略する。

物語である。

面白いのは、

実は凡ての大乗経典は、その法の深き真を伝えようとするのである。たとえ外面的な歴史としては架空だといわれても、内面的な法の歴史としては、これより真実な説話はないともいえよう。
と、言う。

歴史を歴史たらしめるもの、それを「法」と名づける。
とも、言う。

内面的な法の歴史としては、これより真実な説話はないともいえよう。とは、一体、どういう意味として、受け取ればいいのか。

ドーキンスの、神は妄想であるの中でも、聖書を道徳の、手本とするという話で、どの部分を、誰が、何の基準で、計るのかという、話があった。
それと同じで、内面的な法の歴史として、誰が、何を基準として、決められるのか、ということになる。

全ての、大乗経典と、言う。
全ての、大乗経典は、そのように、書かれてあるということである。
これには、驚きであろう。

桃太郎や、浦島太郎のお話を、どう解釈しても、誰も、太郎たちを、崇拝し、信仰することはないが、何故、仏典になると、信仰するのか・・・

ここで言う、法とは、インド哲学の、ダルマという言葉から、きているのだろう。
法とは、真理である。宇宙の真理。

一体、誰が、宇宙の真理として、証明出来るのか。

彼を架空の人だというが、この架空なものより真実なものは考えられない。と、柳氏は、言うのである。

あるいはこれを人間の原素なるもの、本有なるものの姿と解してもよい。とも言う。

これは、ただ事ではない。
つまり、人間の本質的な、姿を、創作して、作り出した仏であり、それは、真実の姿であるということなのだ。
それを、別名、仏という、ということになる。

柳宗悦氏の、南無阿弥陀仏は、信じるということを、前提に書かれてある。
信じない者には、何の興味も、関心も、持たれないのである。

それは、人間は、仏を目指して、救われなければならないという、強迫観念を、持たせるというものである。

私の、提案である、何故、悟りという、観念が必要か、救われなければ、ならせないのかを、再度言う。

架空であるが、真実であるという物語の、阿弥陀仏を、信仰して、創作の極楽に、行くために、何故、念仏を唱えるのか。

次に、その理由を、見ることにする。

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2008年06月18日

神仏は妄想である 97

一切の衆生を成仏せしめねばおかない、とする、法蔵菩薩、つまり、阿弥陀仏の、願が、念仏の、根本義である。

その、願が、無量寿経に書かれてあり、四十八の願がある。

ただし、法蔵菩薩は、もし、願が、成就されなければ、「正覚を取らじ」つまり、仏の位を得ないというが、阿弥陀如来となって、成仏しているという、不思議である。

正覚とは、悟りである。
仏の位の悟りという。

今日までこれら四十八個の中で、浄家が最も深く注意したのは、第十一、十七、十八、十九、二十、二十二などの願であって、概に百千の書物がその意味を解くに捧げられた。そのうちなかんずく重大な意味を持つのは第十八願で、一般に「念仏往生の願」と呼ばれるものである。
柳宗悦

たとえ、我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生まれんと欲して、乃至十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんとばをば除く。

これが、第十八願である。

信楽とは、信じきる。
我が国とは、浄土。
生まれんとは、浄土に往生すること。
乃至十念とは、十度ばかりも、念仏を称えること。
五逆とは、五種の逆罪で、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身より血を流す、和合僧を破る、である。
正法とは、正しい仏法である。

ちなみに、法然が、浄土門に、目覚めたのは、中国僧、善導による。

一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に。
観経義疎 より
捨てざるは、とは、称名、念仏を怠らぬ意味。
正定の業とは、弥陀の誓願により、正しく浄土往生が定まるという意味。

仏願は、阿弥陀の大願で、特に十八願を言う。

情報の無い時代である。
仏典という、膨大な書物の中からの、取出しである。

法然は、この一説を、読んで、一心専念弥陀名号と、感涙の涙を流すのである。

罪深い、下品、げぼん、の者さえ、救われる。

称名という易行の道がなくば、凡愚の衆生が救われる術はない。それ故口称念仏の行を、その宗派の眼目とした。
柳宗悦

法然の、浄土宗の、誕生である。

一般庶民は、読み書きが出来ない。下品である。
このような、考え方をするという、時代性である。
さらに、凡愚という。
今の言い方をすれば、アホ、馬鹿である。

何も知らない者たちということになる。

アホ、馬鹿が、救われるのは、易い、念仏の方法しかないと、法然は、気付いた。

何度も言うが、一般庶民に、仏教が伝えられた、きっかけを、法然は、作った。
それは、当時の、既成仏教団を、やわらかく否定することにもなった。

他力本願である。
誰もが、救われる。

浄土に往生することを、救いと、考えた。

これが、親鸞、一遍へと、受け継がれる。

時代性と、私は言った。

法然は、平安後期の人である。
平安とは、抑鬱の時代である。
最澄、空海の、天台と、真言は、国の仏教であり、奈良の六宗は、庶民の手の届かない仏教である。

ただし、当時の僧たちは、色々な宗派を、学ぶことが出来た。自由に、行き来した。唯一、空海の、東寺だけは、他宗の者を、拒んだのみ。

女房文学といわれる、世界最初の小説、源氏物語や、女の日記文学の平安である。
貴族は、危機意識なく、退廃的な生き方を善しとし、アクセサリー的な、仏法の説法を、聞いて、漫然と、過ごしていた。

そして、時代は、武家の登場である。
源平合戦を過ぎて、鎌倉幕府という、武家政権が、誕生する。

誰もが、時代に不安を、抱く。
そこに、法然による、仏法の説法である。

溢れるほどの人が、集った。誰でも、法然の説法が聞ける。
当時の、娯楽である。
その、娯楽が、極楽浄土を、強制する、強迫の教えとは、知らなかった。

はじめて、庶民が、救いという言葉を、聞いた時、何を思ったのか。何も、思わない。救いという、言葉の意味が、解らないのである。

何故、往生しなければならないのか。
死んで、極楽に行くという、妄想を、教えられて、戸惑ったであろう。

極楽を、語るには、地獄を、語ることになる。
地獄は、恐ろしい場所である。
死んで、地獄に落ちると、言われる。

無知な人を、相手にするのである。
何とでも言えるし、何とでも、語れる。

法然には、そんな意識は、全く無かったであろうが、無知な人々を、洗脳したのである。

念仏さえ、称えれば、極楽に行けるというのである。
その、極楽の様を、経は、延々と語る。
法然は、それを、少しづつ、話して聞かせる。

その、語りは、娯楽のない当時、画期的な、娯楽になったと、思われる。
気持ちの良い、極楽の話が、聞けると、友人知人、お誘いあわせの上、どんどんと、人が集ったであろうこと、想像に難くない。

手の届かなかった、仏様の教えが、今、法然によって、語られる。

時代性と、時代精神が、満たされた時である。

その、時代性というものを、考えてこそ、法然の説法が、生きる。
それから、800年ほど、歳月が流れた。
さて、現代は、まだ、法然の説法を、求めるだろうか。

凡て仏教では法を中心にする。そうしてその法は単に静止する理体ではなく、自らを様々に顕示するから、その現れを様々な仏名で呼ぶのである。弥陀はまさにその一つであるが、この弥陀は歴史以後のものではない。以後のものであってはならない。それ故にく歴史をして歴史たらしめる力となるのである。それ故彼の動く世界は、実に衆生のさ中に在る。その衆生は現実の歴史に在るが、もし衆生をして衆生たらしめる法体を欠くなら、存在の意味が現れよう。衆生に働きかけるその法体を弥陀と呼ぶのである。働きなき理体なら弥陀ではない。・・・・それ故彼を離れるなら、私の存在はただ生まれて死ぬというに過ぎぬ。そんな私こそ歴史的意味に欠ける。
柳宗悦


ただ、生まれて、死ぬに過ぎぬ。
人間は、ただ、生まれて、死ぬに過ぎぬ存在ではないのか。

その、ただ、生まれて死ぬ存在として、耐えられぬから、弥陀という、想像の、産物を、作るのか。
ここのところを、深く検証する。

何故、意味を、求めるのか。
生きる意味意識は、架空の存在である、創作の、産物が必要であるのか。

確かに、過去から、現在、未来に、流れる、真理という、法の、中に、歴史というものがあると、捉える考え方があっても、いいと、思う。
それは、しかし、実に、極めて個人的な、物思いであろう。
哲学や、思想の一つとして、それを、容認するが、何故、それを、人に、教え、強制して、強迫するのか。

私は、宗教の誤りを、その、強制と、強迫に置く。


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2008年06月19日

神仏は妄想である 98

衆生にむかってひとえに「仏願に乗ぜよ」というのは、この願の上に乗りさえすれば、往生が決定するのを報らせるためである。丁度海を渡るのに舟に乗るのと同じである。これに乗れば易々と港に着くことが出来る。自らの力で泳いだら、いつ着き得るであろう。またいつ力が絶えるか分からぬ。あの沈むべき重い石でさえ大きな舟に乗せられるなら、沈むことはあり得ないではないか。人間の場合も同じだと浄土門の教えは説くのである。それ故、他力門というのである。
柳宗悦

浄土門だけではない。
大乗仏教というもの、すべてに、それが言える。

大きな舟に乗せて、彼岸へ渡るという。

何故、往生して、彼岸へ、渡らなければならないのかという、問いには、答えない。兎に角、往生すべきだという。
極楽へ、行くために。

その極楽は、理想的想像、創作の、阿弥陀如来が居るという。

この願文において最も驚くべきことは、法蔵菩薩の成仏と、我々の成仏とが同時だということである。われわれの往生するその時はまた彼が如来となるその時なのを意味する。言葉を換えると、救いたいという願いと、救われたいという行いとが同時に一体となっている。いつこんな不思議な出来事が起こるか。それは十声でも、否、一声でも仏の名を称える時に起こるのである。
柳宗悦

つまり、十方の衆生が、わがくににむまれんとねがひて、わが名号をとなふる事、下十声にいたるまで、わが願力に乗じて、もしむまれずば、われほとけにならじ

法然の、浄土宗略抄
つまり、十八願の一つである。

柳の文章は、往生するのが、当たり前であり、人は、往生するべきものだとの、前提での、言葉である。

誰でもが出来る、行為、念仏を称えるという行為。
それを、凡夫往生の願、という。

今なら、さしずめ、傲慢不遜と、言われる。
当時の、時代性であるから、認められ、人が集った。

後に、凡夫の自覚等々について、書くが、凡夫であることが、何故、いけないのか。
凡夫のままであることから、何故、救われなければ、ならないのか。

勝手に創作した、極楽という、ユートピアに、往生せよとの、教えは、脅迫であろう。
それに、何故、気付かないのか。

法然も言う。
我れ浄土宗を立てる心は、凡夫の報土に生きるを示さんがためなり

何故、一人で、凡夫として、念仏をし、死ぬことかなかったのか。
衆生を救うとは、僭越至極であろう。

それはとりわけ平のために設けられた宗門である。民衆の宗教、庶民の宗教である。それ故在家仏教とも呼ばれてよい。在俗の者、貧窮の者、下賎の者、無学の者、田舎の者、農民、漁夫、職人、商人等々、社会の低い層に活きねばならぬあらゆる衆生、とりわけそういう人々のために開かれた宗門こそは、この第十八願に依る念仏の一道である。否、それどころではない。罪ある者、愚かなる者、穢れたる者、汚れたる者、邪なる者、高ぶる者、虐げられた者、それら一切の者たちこそ、凡夫ではないか。
柳宗悦

そう、誰もが、救われると、説くのである。

現代では、これは、差別の何物でもないだろう。
人間を、貴賎に分けるのである。

更に、民衆の宗教というところが、面白い。
現在の新興宗教も、おおよそ、皆々、民衆の宗教と言う。
民衆の宗教と、言い、多くの人を集める。集まると、金が集まる。そして、組織を作る。更に、金を集める。
金を信者が、出すことを、供養と言う。徳を積むという。更に、それで、救われるとまで、言う。

この、宗教の、いかがわしさと言ったら無い。
しかし、今も昔も、信じる者は、騙された。騙され続けてきた。
それでも、何かを信じたい、拝みたいと思う。
何故か。

一人では、生きられないからである。
グループ、皆々がいると思う、安心感である。
しかし、そこには、救いは無い。

すでに、救われているという、詭弁を持って、騙すのである。

人間に、救いという観念を、持たせた宗教の罪は、余りに重く、重すぎる。

何度も言う。
何故、救われなければ、ならないのか。
それに、誰も答えぬ。

誠に第十八願の短文が、東洋思想に及ぼした波紋は、終わるところを知らぬほどに無量である。
柳宗悦

違う。
それが、及ぼした波紋は、終わるところを、知らぬほど、人間を迷いの、世界に貶めたのである。

妄想の、救いの観念に、貶めた。
更に、悪いことに、想念として、死後も、その、救いの観念に、迷うもの多く、あるはずもない、極楽浄土を、求めて、さ迷うのである。
更に、悪いことは、それらの、想念が集い、仏魔の世界を、作り出すものである。

さ迷う、念仏宗の人々が、次元を移動できずに、ひたすら、念仏を、称える次元がある。

死後も、念仏について、云々と、そして、延々として、無明に迷う。
南無阿弥陀仏と称えて、一体、どこに、何を求めて行くのか。
生きるという、地獄の世界から、解放されても、まだ、地獄の様を、背負っていること、念仏宗の、開祖、教え親たちに、解るのか。

観念の世界を、極楽だと、思い込む面々である。

その、観念を、より、深めた、次の段階に移ることにする。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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