2008年04月18日

神仏は妄想である 77

2005年5月8日 ロンドン・インディペイント紙
歴史的に名高いメッカ、かのイスラム教揺籃の地が、宗教的狂信者による前例のない猛攻撃によって埋もれつつある。この聖地の豊かで何層にも積み重なった歴史のほとんどすべてがいま、消えてしまおうとしている。・・・いまや、預言者ムハンマドの実際の誕生の地は、サウジの宗教権威者たちの黙認のもとで、ブルトーザーで壊される危機に直面している。宗教権威者のなかでも強硬な一派によるイスラム教解釈が、自らの遺産を消滅させることを強いているのである。・・・・

だが、メッカーーーあるいはシャルトル、コークミンスター、ノートルダムの大聖堂、シュダゴン・パゴダ、京都の寺院、あるいはもちろんバーミヤンの大仏像―――をブルトーザーで壊そうとする無神論者がこの世にいるとは、私には信じられない。ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーブン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。ブレーズ・パスカル(パスカルの賭けのパスカルである)も似たようなことを言っている。「人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない」
ドーキンス


私は、ドーキンスの「神は妄想である」という本を、引用して、神仏は妄想である、を、書いている。

ドーキンスは、一神教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を、主にして、神というものの、正体を書く。
私は、それに、仏という、ものも、取り上げている。

神と、仏の違いは、神とは、完全無欠に、人間と、隔絶したものである。対立しているのである。
人間は、神の子であるといっても、決して、神には、なれないし、ならないのである。
仏は、人間が、成ることの出来るものである。
仏に成るために、仏教という、宗教がある。

しかし、その、仏教も、矢張り、仏というものを、隔絶しているのである。
仏というより、その手前の、菩薩を見ても、良く分かる。

つまり、菩薩を拝む対象としているのである。
更にまた、開祖、教祖を、拝むということもある。

極めて、一神教の要素が、漂うのである。

勿論、多くの、如来、菩薩、等々があり、それぞれが、信仰の対象になっている。
勿論、それらは、皆、人間の妄想の、産物である。
観念である。

日本の仏典の、多くを漢訳した、玄奘三蔵法師は、天山山脈を越える時に、観世音菩薩を、念じて、越えた。
だから、観世音菩薩が存在するのではない。
多く、玄奘を論ずるものは、観音様の加護により、等々の、気味の悪い話をするが、玄奘ほどの、頭脳明晰な者が、それに、迷うはずもない。

しかし、玄奘は、次に生まれる時には、観世音菩薩の元に、生まれたいと願うという、可愛らしい祈りを捧げている。

その、玄奘が漢訳した、般若経では、観自在と、訳している。
観世音と、訳したのは、クマラジューである。

死ぬ思いをしての、天竺大旅行を終えた、玄奘が、観音様を、観自在と、訳したのである。
つまり、それを、観念と知っていたということである。
故に、自らを観るところに在るものと、訳したのである。

大乗仏教を、徹底的に学んだ、玄奘は、それらを、人間の観念であると、見抜いていた。しかし、それは、方便であると、知っていた。
方便がなければ、教えは、成り立たないのである。

定義を、置かなければ、話が、始まらないのである。

方便は、定義であった。

人間の、無明を知る者、それは、無明を知らない者に、まず、対立したものを、置くことで、説教が始まると、知っている。

仏という、超越したものを、置くのである。
しかし、それは、仏陀が、教えたものではない。
仏陀は、超越したものを、認めなかった。
超越するとしたならば、それは、私である。と、気付いたのである。

更に、重大なことは、仏陀は、行為を持って、行為したのであり、その教えは、行為するものだった。
故に、人は、行為によって成るものに成るというのである。

教えは、一代で、終わるように、仏陀も、一代で、終わった。
以後、仏陀の教えは、堕落し、今、現在の如くである。

仏教の教義は、皆、古代インドの、思想を、持っての、言葉遊びである。

私が言いたいことは、宗教というもの、すべて、一神教に似るということである。
つまり、対立したものを、置いて、それに、祈る、拝むという行為である。

仏陀は、祈ったか。
静かに考え、静かに行為し、静かに、歩くのみである。

崇めるという、気持ち、心理は、古代信仰の、太陽信仰から、発している。
それは、すべての民族の元の、心情である。
崇拝するものは、太陽であった。
それの、名残が、対立した、神や仏を、置くという、宗教というものに、出来上がった。

ちなみに、宗教という観念は、キリスト教から出たものである。

侵略した、土地土地の、部族の信仰を、見た者が、キリスト教とは、違う信仰形態がある、と、それを、研究するべく、宗教という観念が出来上がった。非常に、歪なものである。
それらの、部族信仰は、発達途上のものであり、いずれは、キリスト教に行き着くと考えた。
しかし、根がアホである。
行き着くはずなどない。

要するに、キリスト教という、ものの見方、考え方しか、頭に無いから、理解出来ない。アホであろう。
人間は、自分の内に無いものは、見えない、理解出来ないのである。
宗教学というものが、他信仰の理解と、相違点を考えるものになっていったのである。

人間は、単細胞の者が多い。
一神教は、そういう人間にとって、理解しやすいものである。


この節の目的は、私たちが聖書から道徳を得るべきではないと立証することではない(私は個人的にはそう思うが)。私の目的は、私たち(そしてここにいる大部分の宗教を信じる人々が含まれる)が事実の問題として、聖書から道徳を得ていないと実証することにあった。
ドーキンス

しかし、道徳もなにも、宗教指導者たちの、傲慢な、無知振りを見れば、明らかであるが、手の付け様も無い、状態に、陥っているのである。

私は、提案する。
是非とも、精神医学の立場から、彼ら、宗教指導者の、病理を、解明して欲しいと。

あれは、病気であろう。
そう、こころの病である。

一人が、狂えば、病院行きだが、大勢が狂えば、宗教となる。
つまり、宗教とは、狂った者たちの、集団であるということである。

と、言うことは、手のつけようが無いと、判断する。

それらが、世界を、指導しているのである。

この世は、地獄である。



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2008年04月19日

神仏は妄想である 79

さて、道徳的な観点からして、イエスが「旧約聖書」の残忍な鬼畜よりもかなりまともになっているのは否定できない。実際イエスは、もし実在したのであれば(あるいは彼でなければ、実際に聖書を書いた誰かでもいいのだが)確かに、歴史上の偉大な倫理革新者の一人であった。
ドーキンス

私は、新約聖書のイエスに、少年時代、浸りきった者である。
イエスの言葉、つまり、新約聖書の言葉を、拡大解釈する、司祭、牧師の話を、支持していた。
ところが、イエスの言葉は、世界的に、拡大解釈して、考えられないものであると、知る。

ユダヤ教と、二千年前の、当時の、ある地域を、検証すると、それが、解る。
イエスは、日本のことを、知っていたのか。
イエスが、日本にまで、やって来たというような、お話は、楽しいものだが、それは、ほら吹き話である。

聖書を、書いた者は、日本の存在を知らない。
世界の果てにまで行き、私の言葉を、述べ伝えよ。
あの当時の地域の人の、世界というものが、如何なるものだったのか。

拡大解釈をして、世界の果てまで行き、人殺しをしたのは、誰か。

私が、キリストの絶唱を、書いたのは、イエスの奇跡を、絶対肯定した。
教祖たるものになるには、奇跡が、必要不可欠である。
今でも、病が、癒えると、ほら吹き嘘を、喧伝して、信者を集める宗教もどきが、多い。
普通のことを、言っていては、信者は、集まらない。
奇跡を起こすのである。

宗教を、立ち上げた時、教祖、及び幹部たちは、まず、伝言ゲームのように、奇跡話を、広める。
関西にある、有名教団の最初も、そうだった。
関西弁で、おもろ奇跡の話を、広めた。
なおるんやて
何が
病気が
ホンマ
ホンマ
銭かからんって
ホンマカ
ホンマ
行こ
ほな、行こか

そして、紙袋を渡されて、毎日、一円でも、十円でも、百円でも、いいから、感謝の心で、入れなさい。それを、教団に持ってゆくという、愛は地球を救うという、胸糞悪いテレビのように、金を集めた。
金は、貧乏人から、広く集めるというのが、大阪商人である。いや、近江商人か。いや、瀬戸内商人か。どうでも、ええは。

兎に角、人を集めることなのである。
人が集えば、金が集う。
どんなに、いいことを、言っても、それは、透けて見える。
それで、会館、学校、あらゆる施設を建てる。
信者は、我が教団は、と、誇るが、皆、信者の金である。
ところが、指導者、教祖を、崇めるという、愚かさ。

拝みたい、騙されたいと、いう人多く、矢張り、この世は、地獄である。
拝まれたい、騙したいという、者あり、この世は、地獄である。

山上の垂訓は時代のずっと先をいくものだった。彼の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」は、ガンジーやマーティン・ルーサー・キングを2000年も先取りするものである。

イエスは自らの倫理を、彼の成長のよりどころとなった聖書から導き出すだけでよしとしなかった。彼ははっきりと「旧約聖書」と決別し、たとえば、安息日の掟を破ることについての怖ろしい警告を諌めた。「安息日は人間のためにつくられたのであり、安息日のために人間がつくられたわけではない」という彼の言葉は、賢明な言葉として一般化されている。本章の主要なテーマは、私たちの道徳を聖書から導き出していないし、また引き出すべきではないということだから、イエスは、まさにこのテーマを実践した模範として、讃えられるべきである。
ドーキンス

イエスの言葉が、当時画期的だったことは、安息日に行動することは、死刑なされたということである。信じられないことだが。

つまり、イエスの言葉は、当時のユダヤ教に対する、最大の挑戦であり、いずれは、殺されること、必至なのである。

これは、聖書作家の、イエスの十字架への道の、伏線でもあると、私は、見ている。

まず、人の心を、掴むには、二つの方法がある。
特に、宗教においては。
まず、既成の教えを、延長したところから、新しいものを、重ねる方法である。
新興宗教の方法である。

しかし、中には、日蓮のように、すべて否定して、斬新、新鮮な、教えを、掲げる者もいる。それでも、既成のものから、抜けてはいないのだが。

神道系の教団は、必ず、古事記からの、お話を、盗み、教団の教義、経典を、作る。
仏教系は、既成宗派の、教義を、盗む。

何とでも、言えるのだから、何とでも言う。

天理教は、天理王の命、大本教は、丑寅の金神とか。
教祖の妄想、彼らは、霊能力と言うが、それが、どこのレベルの霊能力かを、知らないのであるから、哀れである。

普通の生活が出来る程度の、狂いが必要なのである。
その、狂いが、教祖たる、資格を持つ。

そして、教祖を、見ていて、私も、教祖になって、拝まれたいと思う者が、また、宗教を、作る。
懲りない面々である。

一々例を上げるが、面倒なので、言わない。

「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」アメリカのコメディアンであるジュリア・スウィーニーは、自分のワン・ウーマン、ショー「神様さようなら」の中で、自らの困惑を次のように表明している。「それはカルトがやることじゃない? あんたに教えを授けるために、あんたが自分の家族を拒絶するようにさせるなんて? 」そのいくぶん危なっかしい家族観にもかかわらず、イエスの倫理上の教えはーーー少なくとも「旧約聖書」が倫理に関しては惨憺たるものであったことに比べてーーー賞賛すべきものた゛った。
ドーキンス

ここでも、私は、気付くことがある。
夫を、捨ててとは、出てこないのである。
男に対する言葉であるということだ。
イエスは、女を弟子にしなかった。
何故か。
以下省略。

さて、ルカの福音書では、
私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架をせおって私に従え。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、私のために命を失う人は、それを救うのである。

明らかに、イエスの死後を経て、解釈したものであること、明々白日である。
新約聖書の、四つの、福音書は、すべて、後からの解釈により、書かれたものであることが、解る。

上記の、訳は、私が中学の頃から、読んでいた聖書である。
実に、最低の訳である。
そのせいで、私の文章も、このようになったと、思う。しかし、今更、変えられない。

さて、キリスト教徒は、旧約に、問題があっても、新約に救いがあると信じる。
しかし、新約にも、重大な、キリスト教の中心教義にある、暴論がある。
それが、パウロ神学として、現在のローマカトリックの教義を作っている。

決して、イエスの教義ではないところが、ミソである。
パウロという、イエスを知らない者が、打ち立てた教義である。

ちなみに、聖書の最初にある言葉である。

カトリック教会は、ヴァチカン公会議において、聖書を次のように定義した。
聖書は、最初普通の本のように書かれ、後に公教会の認可を得たか、あるいは、啓示された教理を純粋に含んでいるという理由のためではなく、実に、聖霊の霊感のもとにしたためられ、その著者として神をいただき、またそうした著書(霊感によるもの)として公教会にまかせられたという理由のために、「正典」として認めるものである。

上記、この感覚が、カトリックの、まとも、なのである。

支離滅裂な、暴言としか、言いようが無い。

平然として、嘯くあたりは、宗教の見本であり、手本である。

世にある、宗教の経典とは、皆々、この類なのである。

いかに、ギリシャ神話、源氏物語、千夜一夜物語が、真っ当であるかが、解る。

聖書を定義する。聖霊の霊感という。霊感とは、教会が魔と決定しているのではないか。公教会に任せられたという。誰か任せた? 勝手に、そう言うだけである。
単なる、権力により、ユダヤキリスト教徒から、奪ったものではないか。
そして、だから、正典として認めるという。何の根拠も無いのである。

明日から、私が、主イエスキリストの、唯一の、後継者であると、言ってもいいのである。

韓国の、イエスキリストの生まれ変わりだという、最低最悪の統一教会の教祖と、変わらない。金集めには、手段を選ばないという。今でも、霊感商法をもって、日本で金集めをしているのである。

話にならない。

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2008年06月01日

神仏は妄想である 80

しかし、その十字架を支える神学と懲罰理論は、それよりさらに悪いものだ。アダムとエバの罪は男系の系譜に沿って伝えられてきたと考えられている。―――アウグステイヌスによれば、精液によって伝達されることになっている。すべての子供に、生まれてくる前にさえ、はるかに遠い祖先の罪を受け継ぐように強調するというのは、いったいどういう種類の倫理哲学なのか? ついでながら、アウグスティヌスは当然のように、自らを罪に関する個人的な権威をもつ人間だとみなしていて、「原罪」という表現を造語した張本人である。彼以前には、それは「先祖の罪」と呼ばれていたのである。
ドーキンス

この、アウグスチヌスというのは、カトリックでは、教父とされ、聖人である。
ちなみに、彼は、さんざん女遊びをして、飽きた。そこで、改心して、神の信仰に、のめり込んだ。
女の次に、神にである。
聖人の中には、そいう者、多数。
いい気なものである。

女と、365日セックス三昧で、三年も続ければ、飽きるに決まっている。
その次に、改心をして、神の信仰に生きたという。
これが、聖人という者の、定番である。

更に、悪いのは、そのセックスを罪、罪、罪、罪、更に、罪と、よく言うものである。

人の人生に君臨しようという人物にしては、なんという意地悪くけちくさい偏見であることか。サム・ハリスは、「キリスト教国への手紙」において、爽快なまでに手厳しい。
「あなたがたの主たる関心は、宇宙の創造主が、人間が裸でするような行為に腹を立てるだろうか、ということにしかないようだ。あなたがたのこの潔癖さが、日々、過激なほどの人間の悲惨さに貢献しているのだ」。
ドーキンス

宗教は、夫婦の寝室を、監視することで、成り立つという、不自然さである。
セックスに介入することで、人間を支配しようとする。

本能を、罪とするのだから、終わっている。

ちなみに、日本の古神道、及び、民族伝統宗教は、多く、本能を、恵みとして、捉える。
欲望を、恵みという、健康的なものとして、捉えるのである。
更に、欲望を、命の讃歌とする。
実に、真っ当である。

罪の意識を、抱いて、シコシコセックスするという、真似はしない。

さて、このキリスト教神学を作ったのは、イエスではない。
その弟子たちでもない。
イエスの死後に、一人の強迫神経症の男が、イエスに、突然改心したのである。
その名を、パウロという。

話をサドマゾヒズムに戻そう。神は、アダムから受け継いだ罪の贖いとして拷問され処刑されるために、人間イエスとして自らを顕現させた。パウロがこの不快な教義を説いて以来ずっと、イエスは私たちすべての罪の救い主として崇拝されてきた。アダムの過去の罪だけではない。未来の罪までも救うのだ。本来の人々がまだその罪を犯そうとしてもいないのに。
ドーキンス

ここで、主イエスの十字架により、我々の罪が許されているのだ、さあーー、遊び尽くせという、教義が、現れないのが不思議だ。
親鸞ならば、主イエスが、すでに、未来の罪も許している、私は罪人だから、どんどん、女と寝る。この、どうしょうもない、罪深い人間である、私は、主イエスに救われている。
南無イエスと、念仏、いや、念主を、作り上げるだろう。

手のつけられない、屁理屈を、作り上げるのが、宗教家の、得意技である。

それを、後世の人が、あんたら、こんたらで、こんたら、あんたら、である。と、解説するという、愚劣である。
深い迷いこそ、信仰の深さである、等々、しょうもない、屁理屈を、あたかも、考えているかのように、考えるという、頭の悪さである。

空海ならば、その悪魔の神を、縦横無尽に使い、護摩を焚いて、招霊し、おどろおどろしく、ヤーウェ曼荼羅を作り上げて、奇跡を行い、密教の上前を跳ねるだろう。

知能レベルが、低いほど、あの、曼荼羅というものに、曳かれるらしい。
さらに、宇宙を表すものだというから、呆れる。

芸術というなら、解るが、拝むものでも、奉るものでもない。

ユダの失われた福音書と称される写本が最近になって翻訳され、その結果、広く世間に知られることになった。その発見の状況には論争があるが、1970年代あるいは60年代のいずれかの時にエジプトで発見されたように思われる。それはパピルスに書かれた62ページのコプト語写本で、炭素年代決定法によって西暦300年前後のものとされるが、おそらくは初期のギリシャ語原本から写されたものである。著者が誰であれ、この福音書はイスカレオテのユダの視点から書かれたものであり、ユダがイエスを裏切ったのは、イエスが彼にその役割を演ずるように頼んだからこそであったことを証拠立てている。イエスが磔になったのはすべて、人類を救うための計画の一部だったのだ。この教義は胸くその悪いものであるが、ユダがそれ以来ずっとけなされてきたという事実は、不愉快さをさらにいっそう募らせるように思われる。
ドーキンス

私も、すぐに、ユダの福音書を読んだ。
その手の、危険な書物は、最初、日本語に訳される。
日本では、ユダヤ教もキリスト教も、騒がないからである。

ちなみに、「キリストの棺」という、本が出て、センセーショナルを巻き起こしている。勿論、キリスト教国である。
イエスの妻の、マリアと、息子との、墓が、見つかったというものである。
新約聖書に、出ている、マグダラのマリアが、妻だという。息子もいた。
その墓が、見出されたというものである。

科学で、実証されたものである。
しかし、すべての、キリスト教は、無関心を装う。
当然である。
すべてが、覆る。

イエスの死体は、無い。
昇天したからである。
今更、墓が、見つかり、死体があったなどと、認めるはずが無い。

事実は、どうでもいい。
宗教とは、妄想で、いいのである。


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2008年06月02日

神仏は妄想である 81

私はここまで、キリスト教の中心教義である贖罪が悪質で、サドマゾヒズム的で、不快なものであると述べてきた。それがあらゆるところに身近なものとして存在し、私たちの客観的なものの見方を曇らせてきたということさえなければ、狂人の遠吠えとして片付けてしまえたかもしれない。もし神が私たちの罪を赦したいと望んでいるなら、なぜ、その代償として自分が拷問を受け、処刑されたりせずに、ただ赦さなかったのか。ついでに言えば、神がそんなことをするから、ユダヤ人のはるか未来の世代までも、「キリスト殺し」として虐殺と迫害を受けるべく運命づけられてしまったことになるのだろう。この連綿と受け継がれる罪も、精液を通じて子孫に伝えられるものだと言うのか。
ドーキンス

実際、イエスの、原始キリスト教とは、ユダヤ人のイエスキリストであった。
しかし、それが、ユダヤ人のキリスト教徒は、皆殺しされて、ローマカトリックが、正統とされた。
勿論、権力によってである。
ドーキンスも、後で言うが、イエスの教えは、ユダヤ人に向けてのものである。
隣人愛という、教えも、ユダヤ人に、与えられたものである。
それが、何故、こんな、歪な世界宗教になったのか。
すべては、フランク王国時代からの、いや、それ以前からの、ゲルマン人の野蛮さによる。

彼らは、インド大陸においてさえ、インドの伝統と、宗教を徹底的に、壊して、滅茶苦茶にしたのである。
バラモンなどは、彼らからのものである。
野蛮極まりない教えである。

大航海時代に、野蛮な彼らは、キリスト教の十字架を、未開の地に、掲げて、その土地の民族を皆殺しにして、平然と、侵略行為を行い、我らこそ、神に選ばれた者であるという、実に、傲慢な意識で、好き放題にやったのである。

イエスが、ユダヤ人ではなく、白人に、変容させたのも、彼らである。

イエスは、ユダヤ人である。


パウロは、・・・・
血を流さずして贖罪はないという古いユダヤ教的な神学原理にどっぷり漬かっていた。実際、彼は「ヘブライ人への手紙」において、それに等しいことを言っている。だが、今日の進歩的な倫理学者は、いかなる種類の応報刑論も擁護しがたいものであると考えており、とすれば、罪人の犯した罪の代償として無実のものを処刑する、いわゆる身代わり説などは論外ということになる。いずれにせよ、神はいったい誰のためにアピールしようとしていたのか。(という疑いを禁じえない)? おそらく彼自身であろうーーーなにしろ彼は、処刑される犠牲者であると同時に、判事でも陪審員でもあったのだ。挙句の果てに、原罪に手を染めた張本人と想定されているアダムは、そもそもけっして存在しなかった。この、なんとも無様な事実―――パウロが知らなかったとは仕方が無いが、全能の神(そしてもしイエスが神だと信じるならばイエスも)おそらく知っていたーーーは、このもってまわった、胸くその悪くなる理論全体の前提を根本的に突き崩すものである。
ドーキンス

これで、キリスト教の根本教義は、成り立たなくなる。
全人類の罪の贖いによる、十字架というもの、である。

キリスト教徒は、本当に、聖書というものを、読んでいるのか。
読んではいない。
旧約聖書から、真っ当な感覚で、読み進めば、その、知性と理性によって、おかしいと、気付くはずである。
要するに、惰性と、習慣、慣習によって、成り立ったもの、それが、キリスト教である。
だが、それは、手加減して言うことである。

すべては、教会という、お化けが、人を支配するために、掲げた、教えである。

ローマが、突然のように、キリスト教を、国教と、公認したのは、皇帝の支配に善しとしたゆえである。更に、ローマに、教会を建てた、カトリックは、皇帝と結んで、人の心の支配を、確実にした。

そして、そうだ、もちろんアダムとエバの物語は、象徴的なものでしかなかったはずだーーーあくまで象徴的な。ということは、自分自身にアピールするために自らを拷問し、処刑したイエスは、実在しない個人が犯した象徴的な罪のために、身代わりとして罰を受けたことになるのだろうか? 何度も言うようだが、これは狂人のたわごとであるだけではなく、不愉快この上ない言い草である。
ドーキンス

真っ当な、神経の者から、見れば、こういうことになる。

カトリック教会のみならず、すべての、キリスト教徒に言えることだが、信仰は、極めて個人的行為であるから、信じるというならば、言うことは無い。
ただし、それを、喧伝する、更に布教する、そして、宣教ということになれば、多くの混乱を、引き起こすこと甚大である。
聖書を、読むというのは、他人には、趣味のようなことである。

自分の趣味を、人に押し付けるような、無礼な者は、いないであろうが、いるとするならば、それは、僭越行為以外の何物でもない。

全く、悪魔のような、神の思想と観念であること、真っ当な者ならば、知る。
いや、悪霊としか、いいようがない。

イエスが、悪霊に支配されていた、ということも、有り得るのである。
自作自演の、大芝居ならば、拍手を送るが、それを、正しい教えであり、人類を救うというのならば、認められない。

人間は、救われる、必要も無ければ、更に、仏教が言う、仏に成ることも無い。
人間は、人間であれば、いいのである。

救われるという、妄想、神の存在の妄想、果ては、仏に成るという、妄想は、如何に、人生が、暇つぶしであろうと、あまりに、愚かである。
何故、天国に入る必要があるのか、何故、仏に成る必要があるのか。

知恵を、得ることは、大切なことである。
それが、霊的能力を、目覚めさせるというなら、解る。
それが、生きるということを、肯定するというなら、解る。

旧約聖書、箴言の書に、神を恐れることは、知恵のはじめ、とある。
神という、妄想を、想定しなければ、考えることができないというほど、妄想の観念に、やられてしまうということ、である。

「旧約聖書」「新約聖書」の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど認識していない。「汝の隣人を愛せよ」は、私たちが現在考えているようなことを意味するものではなかった。それは、「ほかのユダヤ人を愛せよ」という意味でしかなかったのである。この点は、アメリカ人の医師で進化人類学のジョン・ハートゥングによって、衝撃的な形で論証されている。彼は、内集団の道徳の進化と聖書における変遷について、その裏の側面―――外集団への敵意―――にも重点をおきながら、一つの注目すべき論文を書いたのだった。
ドーキンス

次に、この、ジョン・ハートゥングの論文を、見る。

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2008年06月04日

神仏は妄想である 83

タマリンがこの実験において導入した、面白い対照郡がある。168人の別のイスラエルの子供の集団に「ヨシュア記」からとった同じテキストが与えられたが、ヨシュアという名前が「リン将軍」に、「イスラエル」が「3000年前の中国の王国」に置き換えられていたのだ。すると、結果は正反対になった。つまり、わずか七パーセントだけがリン将軍の振る舞いを是認し、七五パーセントが不同意だった。言い換えれば、ここで得られた数字からユダヤ教への彼らの忠誠心を取り除けば、このイスラエルの子供たちが示した道徳上の判断は、大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致するのである。ヨシュアがしたことは、野蛮な大量虐殺という所業である。しかし、宗教的視点からはまったくちがったものに見える。そして、この区別は人生の早い時期に植えつけられる。大量虐殺を非難する子供と容認する子供のあいだのちがいをつくるのは、宗教だったのだ。
ドーキンス

宗教という、迷いがなければ、真っ当な判断が出来るのである。
しかし、宗教の観念が入ると、それは、邪になる。
つまり、判断基準を、宗教が洗脳するのである。

無いものを、掲げて、一体、宗教というものは、何を望んでいるのだろうか。
人間の救いを説くが、一向に人間を救うことないもの、さらに、人間を、愚昧の行為に走らせる宗教というものは、何か。

日本でも、一神教に似た、日蓮宗系の信者は、宗旨が違うというたでけで、嫌悪の表情になる。
宗旨が、違えば、親の仏壇にも、手を合わせないという、強情さである。
手のつけられない、傲慢な、連中となる。
同じ地域、町内に、住んでも、単に宗旨が違うということだけで、対立する。

その、あまりに単細胞化した、心の様には、唖然とする。

要するに、宗教団体の兵隊になっている状態なのである。
仲間に出来そうだと、見れば、その親切は、限りなくなる。
同胞には、天使であるが、そうでない者には、悪魔になるという、矛盾である。

ある大学に入学し、同じ研究グループにいた者たちが、一人のS会の会員に、折伏されて、順に会員になった。残った一人は、最後まで、それを、拒んだ。
すると、イジメが始まった。
ついに、大学にいられなくなり、退学した。
このような、話は、実に多い。
兵隊になった信者は、後先が見えない。ただ、上の命令に従うだけである。
我を失い、我ならぬ者に、指揮されて、行為する。

更に、驚くのは、選挙運動まで、功徳を積むものだと、言われて、選挙運動させられる者たちである。

宗教団体になると、タブーというものが、なくなるという、よい見本である。

信じてしまうと、支配者の思うままである。
こうして、人生を騙されて送るという、一連の哀れな人々がいるのである。
勿論、賢い人は、近づかない、また、賢い人の中には、支配者に、取り入って、利益を得るために、画策するという者もいる。

ハートゥングは論文の後半で、「新約聖書」に話を移す。彼の論旨を簡単に要約すれば、イエスは、「旧約聖書」において自明のこととされていたのと同じ、内集団で通用する道徳意識―――外集団に対する敵意と表裏一体のものーーーへの帰依者であった、ということになる。イエスは愛国的なユダヤ人だったわけだ。ユダヤ教の神を非ユダヤ教徒が取り入れるという発想をひねりだしたのは、むしろパウロだった。ハートゥングはこのことを、私なら躊躇しそうなあからさまな言い方でこう述べる。「イエスは、もしパウロがその計画をブタにまでひろげることを知っていれば、墓の中で吐き気を催していたことだうろ」。
ドーキンス

要するに、キリスト教神学というもの、パウロなしでは、有り得なかったということである。イエスの、教えが、神学となったのではない。パウロである。
強迫思想のパウロによる、神学である。
パウロが、理屈づけした、考え方を、教義として、掲げたのである。

ハートゥングは、「黙示録」の二つの節に注意を喚起する。そこでは「刻印を受けた」(エホバの証人など、一部の宗派は、それを”救われた”を意味するものと解釈している)人間の数は14万4千人に限られている。ハートゥングの論点は彼らはすべてユダヤ人だったにちがいないということである。12の部族それぞれから1万2千人ずつというわけだ。ケン・スミスはさらに踏み込んで、この選ばれた14万4千人は「女に触れて身を汚したことのない者」だったことを指摘する。このことは、おそらく彼らのうちの一人として女ではありえないことを意味する。まあ、これは予想される類の事柄である。
ドーキンス

ユダヤ人の神を、世界人類の神として、崇めるという、キリスト教の狂いというものが、何故起こったのかということである。
パウロという、一人の男の妄想からである。
最初、パウロは、イエス集団の迫害者だった。それが、いつしか、というより、聖書には、イエスが現れて、パウロを改心させるという、お話になっている。
初期、イエス集団を、取りまとめて、公広流布させるべくの妄想である。
彼から、異教徒への、布教が始まった。
聖書は、内集団特有の道徳意識の青写真であり、外集団の虐殺と奴隷化、および世界支配のための指示といった必須要素が完備されたものだ。しかし聖書は、そういった目的をもっているから、あるいは殺人・虐待・強姦を賛美することまでしているから邪悪なのではない。それを言うなら、多くの昔の著作はみんなそうだーーーたとえば、「イーリアス」アイスランド・サガ、古代シリアの物語や、古代マヤの碑文などを見てほしい。しかし、「イーリヤス」を道徳の手本として売りこんでいる人間は誰もいない。そこに問題がある。聖書は、人々がどう生きるべきかの手引きとして売り買いされている。そしてそれは、世界でつねに郡を抜いたベストセラーなのである。
ハートゥング

ドーキンスは書く。
伝統的なユダヤ教徒がもつ排他性が宗教のなかで特異なものだと思われてはいけないので、英国の作詞家、アイザック・ワッツの賛美歌から確信に満ちた次の一節を見てみよう。
主よ、私はそれを、あなたの恩寵のゆえとします
偶然のせいにはしません、ほかの人間たちのように。
私がキリスト教徒の人種に生まれたことを
異教徒やユダヤ教徒の人種に生まれなかったことを。

すさまじい、独善である。
こう考えて、いる人と、どのように、話し合いが出来るだろうか。

この一節で私を困惑させるのは、そこに現れた排他性そのものというよりも、その論理である。他の多数の人がキリスト教以外の宗教のなかに生まれたのだから、神は、本来においてどの人種がそのような恵まれた生を受けるのかを、どのようにして決めたのか? なぜ神は、アイザック・ワッツと、彼が自分の賛美歌を歌っていると思い描いた人々に恩恵を与えるのか? いずれにせよ、アイザック・ワッツが受胎される前は、いったい何に対して恩恵が授けられたのか? これらは深刻な問題だが、神の声に耳を傾ける精神にとっては、それほど深刻ではないかもしれない。ワッツの賛美歌は、正統派で保守派(改革派ではない)の男性ユダヤ教徒が暗唱するように教えられる三つの日々の祈り、「私をキリスト教徒にしなかったことであなたを祝福します。私を女としなかったことであなたを祝福します。私を奴隷にしなかったことであなたを祝福します」を思い起こさせる。
ドーキンス

本当に、吐き気がする。

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2008年06月05日

神仏は妄想である 84

宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。しかし、宗教集団あるいは宗派間の戦争や反目が、神学的な意見の不一致についてのものであることは現実にはほとんどないということが、しばしば、そして正しく言われている。アルスターのプロテスタントで準軍事組織に属する男が一人のカトリック教徒を殺したとき、彼は「これでもくらえ、化体論者の、マリア崇拝の、抹香臭い畜生め! 」というようなことを呟いていたわけではない。彼は、世代を越えて持続する過程で、別のカトリック教徒によって殺された別のプロテスタントの死の仇を討とうとしていた可能性のほうがはるかに高い。宗教は、内集団、外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。
ドーキンス

差別的発言になることを、あえて言うが、欧米人、アラブ人は、どうして、あのような単細胞的行動を取って、人を殺すのか、理解に苦しむのである。
そして、殺人にまで、至るものは、すべて、宗教、宗派間の対立による。
もっとも、平和的であろうはずの、宗教により、暴力、紛争、戦争に、至るのである。

ヨーロッパの歴史は、宗教戦争に、明け暮れている。

現在のテロリストの、原理も、世界イスラム帝国へのための、テロなのである。
果たして、ユダヤ教、キリスト教が、それを、非難する、権利があるのか、疑問である。


そう、もちろん、北アイルランドにおける紛争は政治的なものである。そこには一方の集団による他方の集団の経済的、政治的抑圧が存在し、それは数世紀以前にまでさかのぼる。そこには現実に不備とか不正が存在し、それらは宗教とほとんど関係がいなように思われる。ただ一つーーーこれは重要であるが、ひろく見過ごされてきたーーー宗教がなければ、誰を抑圧し、誰に復讐するのかを判断するラベルがなくなってしまうだろうということを除いて。そして、北アイルランドにおける本当の問題は、このラベルが何世代にもわたって受け継がれてきたということである。・・・・・この二組の人間たちは、同じ肌の色をもち、同じ言語をしゃべり、同じことをして楽しむが、まるで別の種に属しているかのようであり、両者の歴史的な分裂は根深い。そして宗教と、宗教的に分離された教育がなければ、そうした分裂は絶対に存在しなかっただろう。コソボからパレスチナまで、イラクからスーダンまで、アルスターからインド亜大陸まで、対立する集団間の手に負えない反目と暴力が見られる世界のどの地域でもいい、注意深く見てほしい、内集団や外集団のしるしとして用いられるラベルのうち、宗教が大勢を占めていることに、たぶんあなたは気付くだろう。かならずそうだとは言えないが、その可能性は高いはずである。
ドーキンス

ドーキンスが、ここまで、分析していることを、宗教集団の人々が、読んで、何を感じるだろうか。
ほとんど、空言、戯言に、感じるだろう。
それほど、冒されているのである。宗教という、妄想に、である。

例えば、現在の日本の宗教に関しても、最澄の天台宗は、誤りである、空海の真言宗は、誤りである、等々を、仏教思想によって、解説しても、聞く耳を持たないだろう。
それほど、信じてしまうと、他の、客観的な、ものの見方を、受け入れなくなるのである。

仏陀本人が、仏に成ることが、出来なかったという、事実を、言う。
仏陀最期の、時である。
それを、知らない。
まして、それらの、伝言仏典によって、起こした、日本仏教の教祖たちが、何をか言う。
単なる、迷いの、宗派を、立ち上げただけである。

誰か、我、仏になれり、として、立教しただろうか。
誰一人としていない。
仏陀さえ、そうなのである。

極めつけは、悪魔の好む、法華経を、仏陀最期の教えとして、唱える者たちに、言っても、理解しないし、解らないのである。
また、聞く耳を持たない。

この、蒙昧は、計り知れないのである。
生活クラブ、仲良しクラブのような、組織にいて、仏法だと、喧伝しているのであるから、終わっている。
さらに、悪いことに、信者からの、金を、組織の社会的地位のために、さんざん使い、学校から、美術館から、何から何まで、やるのである。
騙されている、信者は、せっせと、教団に、金を運ぶ。
嬉々として、金を運ぶのである。

三次元に、少しかかっている、幽界のレベルの、狐の霊に憑依されている、ある教団は、平然と、手かざしにて、清めるという。
一体、何を清めるのか、解っていない。
邪霊、悪霊を、祓うというのか。
それを、指導している者が、邪霊、悪霊なのである。
笑う。

いずれ、日本の仏教の開祖を、徹底的に、検証する。

北アイルランドにおいて、このような事態を、引き起こしたものは、宗教指導者である。実に、無知蒙昧の指導者が、この、蒙昧な、状態の種を、蒔いたのである。
単に、宗派が違うというだけで。同じ神を奉じていても、である。

インドが分割された当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教的な騒乱で100万人以上の人間が虐殺された(そして1500万人がすんでいた土地から追い出された)。誰を殺すかのラベルを貼るのに、宗教的なラベル以外には何もなかった。詰まるところ、彼らを区別するものは宗教以外になかったのだ。サンマル・ランシュディは、より最近に起こった宗教的虐殺の勃発に心を動かされて、「宗教は昔も今も、インド人の世に混じった毒である」というエッセイを書いた。ここに示すのは、その結びの文章である。

このどこに、あるいは畏れ多き宗教の名において世界中ではほとんど毎日のようにおこなわれている犯罪のどこに、尊敬すべき何があるというのか? たとえいかに致命的な結果がもたらされようと、宗教はなんと巧みにトーテムを立てることか、そしてわれわれはなんと唯々諾々とそのために人を殺すことか! そして、われわれはしばしばそれを十二分にやり遂げ、その結果として起こる感情の鈍磨は、それを繰り返すことを容易にする。
ゆえに、インドの問題は世界の問題となる。インドで起こったことは、神の名において起こったのだ。
その問題の名は神である。

良識というのは、宗教とは、関係なく、有るということである。
宗教以外の人々によって、世界の良識がなるといってもいい。

科学者と、無神論者と、高い霊的能力のある人々によって、新しい、生き方の、指針を学ぶべきである。
妄想の観念から、離れたところのもの、それが、必要である。

今、それを、私は、節に祈る。
世界が最悪の状態に、陥るのは、宗教の、信者たちによる。


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2008年06月06日

神仏は妄想である 85

神仏は妄想であるを、書き続けて、85回になった。

ドーキンスの、神は妄想であるという、著作の紹介が、長くなった原因であるが、これからも、延々と書き続けなければならないと、思っている。
まだまだ、足りないのである。

日本仏教の、誤りについて、書くことが、必要だと思っている。
すべての、仏教家を、検証する。
つまり、すべての、宗派を、叩き斬る。

仏陀の、もし、仏教というものがあればであるが、それを、根本仏教と、一応呼ぶことにする。その、根本仏教というものは、日本の仏教には無い。
すべて、中国思想に、侵された仏教もどきの、思想である。

さて、ただ今、ドーキンスの、対処する、聖書の宗教についての、検証をしている。
その、宗教の蒙昧である。

私は、カトリックの洗礼を受けている。
つまり、私も、キリスト教徒の一人である。

そこで、私の立場を明確にしておく。
ドーキンスは、カトリックを、最も、反吐の出る集団だと、言い切るが、それは、実によく理解している。

私は、今でも、イエスキリスト信仰を、持つ。
それは、私の作り上げた、イエスキリストのことである。
つまり、教会の信仰を、持つ者ではない。
その証拠に、私は、私の信仰を、布教、喧伝するという意志は無い。

私は、少年時代に、イエスキリスト、つまり、新約聖書によって、多くのことを、学んだ。日本人として、その、聖書の語句を、理解した。それは、実に、有意義であった。
日本人の感性を、持っての、イエスキリストの言葉であるから、欧米人のように、理解しなかったということが、幸いした。

つまり、私は、私が、創作した、イエスキリストの信者であるということだ。
それでは、プロテスタントの、聖書主義と、同じかといえば、そうではない。
プロテスタント主義の、聖書解釈も、していない。
それでは、内村鑑三のようにというのも、違う。
詳しい説明は、避けるが、勝手な解釈、勝手な理解が、私の聖書解釈である。
勿論、カトリック教理というものに、大きな影響を受けたが、結局、私が、辿りついたイエスキリストは、私のだけの、イエスキリストなのである。

その最大の特徴は、私のイエスキリストを、宣教しないということである。

私が、新しいキリスト教会を、創立しないということであり、それは、実に画期的なことだ。

多くの、日本の、新興キリスト教は、私のように、勝手な解釈勝手な想像、創作を、教理として、宗教団体を、起こして、信者を作るという、愚かなことをしている。

そこでは、必ず付き物なのは、病が、癒えた、運勢が良くなった等々の、現世利益のような、宣伝文句である。
信者になって、苦難苦悩ばかりが、続くとは、誰も言わない。
万が一、それを、言うと、必ず、神の摂理によって、その苦難も苦悩も、消滅したというオチになる。

信仰しても、何も変わらないというのが、真実の信仰である。

何かを、変えるのは、私自身である。

ところが、私自身を、変えることが、出来たのも、信仰の、おかげと言う、アホがいる。

信じるということを、知らない。
信じるというのは、疑い、思索するという意味である。

法然は、称号念仏を、唱え、親鸞は、更に、唱える前の、信じるという心の在り方を、追求したというが、とうだろうか。

弥陀の本願を信じるといっても、弥陀というものが、妄想、架空のものである。
何故、それを、信じると言えるのか。
観念を、信じて、それで、救われると、思う根性が、怪しい。
だから、怪しい霊界に、行くのである。

選択仏教といい、鎌倉仏教は、一つの教えだけを、多くの中から抜き出して、念仏や、題目、座禅と、絞ったが、時代性である。
しかし、今の時代には、通用しない。
通用させているのは、邪悪なものだからである。

邪ま、よこしま、なものほど、広がるという、この世は、地獄である。

念仏を持って、仏法などと、言えば、仏陀が、泡を吹く。

題目を持って、仏法などと、言えば、仏陀は、吐くであろう。

仏陀は、そんなことを、一言も言っていないからである。

日蓮などは、仏陀を、引き摺り下ろそうとする、ある、霊界というか、魔界のエネルギーを、受けて、あろうことか、仏陀を、更に越えた道が、法華経にあることを言うという、仰天である。

だから、東から、仏陀の、西へ、新しく仏法が、戻るというような、誇大妄想を抱くという。
手のつけようの無い、狂いを、持つのである。

道元などは、座禅こそ、仏陀の法統を継ぐものであり、我こそ正統な道であると、思い込んだ。
勿論、彼の著作は、日本文学の中でも、実に、見事なものであるが、それは、別にして、仏法の道としては、勘違いである。
座禅とは、仏陀以前の、バラモン、ヨガの修行法である。
確かに、仏陀も、座ったが、座禅による、悟りという、妄想ではなかった。

仏陀の教えは、行為であった。
生き方の、考え方と、その行為である。

いずれにせよ、それらを、検証する。

さて、私は、イエスキリストを信奉し、仏陀の教えを、信奉する。
そして、やはり、古神道の、あり方に、生きる者である。
古神道の、魂鎮めと、ニルバーナという、涅槃の境地は、同じものである。

仏や、神を、対立したものとは、考えない。

更に、古神道は、カミとは、御親、みおや、つまり、祖先に続く者であるという、意識である。

どこにも、断絶は無い。

ただし、仏教教団が言う、仏に成るという、観念とは、違う。あれは、断絶している。

更に、仏陀も、仏にはならなかったということが、仏陀の言葉で、証明されている。
それを、見落としている、仏教家の、面々であるから、終わっている。

また、仏陀が、苦行を、嫌った意味を、知らないのである。

寒中に寒修行するという、アホ振りである。氷点下の海に入って、一体、何を修行するというのか。とても、信じられない真似をする。水をかぶるという、馬鹿馬鹿しいことをして、修行も何も無い。
逆に、それによって、思考が固まり、とても、通常の神経とは、思われない、歪な性格を作り上げる。傲慢で、頑固な、手のつけられない、性格である。
あれは、サドマゾである。

厳しい修行に耐えて、大半が、頑迷な者に、成って行く。
ただ、念だけは、強くなり、レベルの同じ霊を相手に、戦うという、オチである。
それを見て、信者は、驚く。そして、洗脳される。

こういう、者どもを、救い難しという。

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2008年06月07日

神仏は妄想である 86

神は妄想である。
リチャード・ドーキンスによる、論文から、これを書いている。
第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」より

本章は、いかに好意的な見方で臨もうとも、私たちがーーー宗教を信じる人間でさえもーーー道徳上の判断を下す根拠は聖書からは得られないと示すことからはじまった。それならば、私たちは何が正しくて何がまちがっているかを、どのようにして判定するのだろう?
この疑問にどう答えるかにかかわらず、私たちが事実の問題として、正しくあるいはまちがっているとみなすものについては意見の一致が、驚くほどひろく行き渡った見解の一致が存在する。この見解の一致は、宗教とは明白な結びつきをもたない。けれどもそれは、本人たちが自らの道徳が聖書に由来すると考えていようといまいと、信仰をもつ人にまで及んでいる。
ドーキンス

見解の一致は、聖書主義や、信仰を持つ人、無神論者、多々幅広く、それは、存在するという。

ここでいう、時代精神というものは、実に、重大である。
人類の歴史は、この時代精神によって、成る。
試行錯誤を繰り返して、人類は、論証しつつ、進んできた。

時代精神を、認識しない人は、歴史を理解できない。
端的に言う。
その時代だから、行為することが、出来たのであるということ、歴史を見れば、解る。

ドーキンスの、論述と共に、それを、見てゆく。

私たちは言論の自由を信じ、たとえ言われている内容に同意できない場合でも擁護する。税金を払い、人を騙さず、人を殺さず、近親相姦に走らず、自分がしてほしくないことは他人にしない。こうした善行に関する原則の一部は聖書に見出すことができるが、それはまともな人間なら従いたくないと思うようなことと一緒に埋め込まれている。そして聖書は、善行に関する原則を悪行に関する原則と区別するためのいかなる基準も提供していない。
ドーキンス

聖書解釈は、断片主義であると、私は言う。
こじ付け、捏造を得意として、支配者の都合に合わせて、解釈される。

多くの宗教、特に、教義というものを、掲げる宗教は、時に、驚くべき、素早さで、その解釈を変更することがある。
それは、時代精神ではなく、時代迎合である。
または、集金能力を上げるためにである。

カトリック教会が、最初は、ラテン語で祈り、次には、文語体で、祈り、更に、口語体での、祈りに変更した。
このような、変更は、取り立てて、問題は無い。
しかし、教義解釈や、聖書解釈に関しての、変更は、何か、魂胆がある。

例えば、冒すことが出来ない、ご本尊を、ペンダントにまで、印字して、売るという行為などは、唖然とするより、あまりの、変質に、彼らの信仰の、虚偽を見るのである。

一端信じ込んでしまった、信者には、何でも通用するという、驕りが有る。
いくらでも、騙すことが、出来るというものである。
信者は、その信仰により、羊のように、従順になるということだ。

信仰とは、人間改造に、他ならない。
人間革命など、あろうはずがない。
単なる、勘違いである。更に、思い違い、心得違いとなる。

ドーキンスが言う。
次に示すのは現代の「新十戒」の一つで、私がまたまた無神論者のウェブサイトで見つけたものである。

自分がしてほしくないと思うことを他人にするな。
あらゆる事柄において、人を傷つけないように努めよ。
あなたの仲間である人類、あなたの仲間である生物、そして世界全般を、愛、誠実および敬意をもって扱え。
悪を見逃さず、正義を執行することにひるむな。しかし、進んで認め、正直に後悔しているならば、いつでも悪事を許す心構えをもて。
喜びと驚き感覚をもって人生を生きよ。
つねに何か新しいことを学ぶように努めよ。
あらゆる事柄を検証せよ。つねに、あなたの考えを事実に照らしてチェックし、どんな大切な信念でも、事実と合わなければ棄てる心構えをもて。
けっして反対意見を検閲したり、耳を傾けることを拒絶したりしてはならない。つねに他人があなたに反対する権利を尊重せよ。
あなた自身の理性と経験をもとにして独立した意見をつくれ。むやみに他人の意見に導かれることを許してはならない。
あらゆることに疑問を発せよ。

更に、ドーキンスは、それに、付け加えた。

あなたの性生活を( ほかの誰にも危害を及ぼさないかぎり)楽しみ、他人が個人的に楽しむものを、それがいかなる性癖であろうと、ほうっておくこと。それはあなたに関係ないことなのだから。

性別、人種、あるいは( 可能なかぎり)生物の種のちがいをもとにして、差別や抑圧をしない。

子供を教化しない。子供には自分で考える方法、あなたに異議を唱える方法を教えよ。

本来を自分のもつ時間のスケールよりも大きなスケールで評価せよ。

以上である。

どこかの、新興宗教が、即、採用するような、実に良い内容である。
だが、上記の新十戒も、ドーキンスも、無神論者である。

奴隷制は、聖書の時代および歴史の大部分を通して当然のこととして受け取られてきたものだが、文明国では19世紀に消滅した。選挙および陪審員としての女性の投票権は、1920年代まで広い範囲で否定されていたが、現在ではすべての文明国が男性と同等の権利を認めている。現代の文明化された社会(ここには、サウジアラビアは明らかに含まれない)では、女性はもはや財産とみなされないが、聖書の時代には明らかにそうだった。――――
かように、宗教を信じていようといまいと、私たちは誰しも、何が正しくて何が悪いかという態度において大きな変化をとげてきた。この変化はどういう性質のものであり、何がその原動力なのだろうか?
ドーキンス

どんな社会にも、どことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが、十年単位で変化する。それを、ドーキンスは、ドイツ語から、借用した、時代精神という言葉に当てたのである。

このような、考え方を、知性の産物と言う。
さらに、それを、感じ取る力を、感性が養う。そして、理性が行為させる。

人類は、そうして、歴史を進んできた。

宗教は、その、人類の進んできた、道のりを、無知蒙昧で、覆い尽くす。
神や仏で、突然、その、進んできた道のりを、解釈し、裁断する。

更に、一本進んで、何故、人は、神や仏という、絶対者というものに、曳かれるのだろうかということだ。
そして、祈りを上げ、そのために、膨大な時間を費やす。

一つは、行為自体に、安心感を得る。
そして、個としての存在感に対する、不安である。
もし、一人で、神や仏に対座していたら、どうだろうか。
生活集団としての、仲間意識よりも、何か、特別なモノを、拝むという、集団に属していなければという、分離不安ゆえに、宗教の集いに参加する。

奴隷としての、黒人が、信仰によって、最低の生きる意味意識を得ていた事実がある。
それは、悲しいほど、悲劇的なことである。
生きるために、必要不可欠な、信仰というものがある。
それを、考慮しても、宗教というものは、団体になると、集団になると、悪行になるということである。

アメージング・グレイスという歌がある。
黒人霊歌としても、イギリス民謡としても、歌われる。
これは、イギリスの奴隷船の船長だった、男が、ある航海で、大嵐に遭遇し、九死に一生を得た。そして、自分のしている、奴隷を売るという、悪行に気付いたという。
彼は、即座に、改心して、宣教師になった。
そして、書いた曲が、それである。

内容は、私は、今まで罪を犯していました。どうぞ、私を許してください。というようなものだ。

一見して、納得するような、話だが、どうも、腑に落ちない。
何故、神に改心したのだろうか。
それが、時代精神、時代性である。

今なら、違う形になった、可能性がある。
19世紀も後半のことである。
まだ、宗教の蒙昧の中にある、時代である。
改心の方法は、一つだけしかなかった。

よく、キリスト教会で、言われる話がある。
宇宙船の乗組員が、宇宙を見て、神の存在を確信し、宣教師になったというものである。
人知を超えたモノを、感じた時に、神というものに、傾倒するというのは、神という言葉に、その、人知を超えたものを、置き換えるのである。

計り知れないモノを感じた時に、絶対者という、存在を置くという、感覚は、矢張り時代性である。

それが、何故、神でなければならないのか。
大いに疑問である。

実は、簡単なことである。
それ以外に、考える言葉か無いからである。
要するに、思考停止状態に陥るのである。
この、思考停止状態に、陥ることを、宗教指導者、支配者は、待っている。
思考が停止すると、人間は、兵隊のようになる。

罪意識を、徹底的に植え付けて、思考停止状態にさせて、教義に雁字搦めにする。
すると、信者は、兵隊になり、宗教の思うままに、行動する。
それを、洗脳という。

教育は、緩やかな、強制を伴う。
しかし、その、緩やかな、強制の中に、疑問を発する精神を、養い、自分の頭で考える力を、養うべくの、教育が、最上の教育となる。

私の霊学から、言う。
一人一人の、神や仏があっていい。しかし、それを、集団としての、宗教に、委託するのは、完全に誤りであるということだ。

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2008年06月08日

神仏は妄想である 87

すぐれた歴史家は過去の発言を自分たちの基準で判定しないというのは決まり文句である。エブラハム・リンカーンは、ハクスリーと同じように時代の先を行っていたが、それでも、彼の人権問題に関する見方は私たちより後退した、人種差別主義者のもののように思われる。 ドーキンス

したがって、言わせてもらえば私は、白人と黒人の社会的・政治的平等をどんな形にせよ実現することに賛成ではないし、これまで賛成したこともない。黒人を有権者や陪審員にすることにも、公務員になる資格を与えることにも、白人との人種間結婚にも私は賛成しないし、賛成したこともない。そしてまた、さらに加えて言わせてもらうならば、白人と黒人のあいだには身体上の相違があり、そのゆえに、両人種が社会的・政治的平等の名のもとに一緒に生活する日などは永久に来るまいと私は信じている。そして、両者が平等な生活を送ることなどできないにもかかわらず一緒にとどまるのであれば、優劣の立場は存在せざるをえず、私はほかの誰にもまして、白人が授けられた優位な立場をもつことに賛成するものである。
リンカーン

奴隷解放をした、リンカーンであるが、驚くべき、差別を持っている。が、それが、時代精神である。

ゆえに、ドーキンスは

ハクスリーとリンカーンが現代に生まれて教育を受けたとすれば、自分たちのヴィクトリア朝的で慇懃無礼な物言いに、ほかの誰よりも真っ先に身の縮む思いをするのは彼ら自身だっただろう。私がこれらの文章を引用したのはひとえに、時代精神がいかに移ろいいくものかを示したかったからにほかならない。
と、言う。

ワシントン、ジェファーソンその他の啓蒙主義的な人々が奴隷制を支持していたことは、もちろんよく知られてる。時代精神は移ろい、それはあまりにも容赦ないものであるため、私たちはときにそれを自明のこととみなし、その変化自体が現実の現象であることを忘れてしまう。
ドーキンス

時代精神という物の見方により、実に、明晰に見えるものがある。
そして、この時代精神というものを、持つことで、歴史を、より理解できるのである。

その、時代精神であったから、と、納得する事柄が、多い。
しかし、宗教における、時代精神というものを、考えれば、それには、全く、関知しない。

時代精神も何も、棚上げするか、無視して、今でも、700年前の、鎌倉仏教などを、奉じているという、形相である。

歴史があるというのと、伝統があるというのとは、別物である。

芸術活動も、時代精神に支えられてあるから、市川猿之助などの、新歌舞伎が、今では、当然のように、受け入れられている。
当時は、飛ぶ猿と、揶揄された、市川猿之助は、歌舞伎の古色蒼然とした世界に、新しい息吹をもたらした。
更に、世襲制を廃して、才能ある、若者を起用するという、新しい歌舞伎役者の、養成も画期的だった。

このように、何一つを、とっても、時代精神というものを、理解しなければ、解らないものが多い。

当時、限られた者の、仏教というものを、一般市民にまで、疑いを持っても念仏すれば、救われると、説いた、法然は、時代精神の、典型である。
その活動は、画期的なものだった。
鎌倉仏教の、幕開けをしたのは、実に、法然である。

僧兵を抱える比叡山や、高野山、そして、南都六宗の、既成仏教に対して、仰天するような、専修念仏を唱えた法然は、実に、時代精神の、最もたるものだった。

誰もが、その説教を聞くことが、出来た。
遊女も来た。武士も来た。更に、既成仏教に、疑問を持つ者も、集った。

いよいよ、大衆に、仏教が布教される、幕が開いたのである。

しかし、それを、今現代に、通用するかといえば、無理である。
時代精神が、移ろうものであるということに、気付くべきである。
その、時代ゆえに、必要であったものが、今も、必要であるとは、ならない。

「もろもろの知者たちの、沙汰し申さるる観念の念にも非ず、また学問をして、念の心をさとりて申す念仏にもあらず」一枚起請文 法然

無知文盲の人々に、その人々が思いつめた、生死の心に、語り掛けたという、法然の布教は、実に、時代精神である。

結果、既成の仏教団体の、有り様を否定するというまでに、高まった。当然、迫害が起こる。

しかし、今、法然を見つめれば、弥陀の本願という、無明に、迷ったものであり、心を深めて、更に心を見つめるという意味では、為るほどの、価値はあるが、それは、それで、終わった。

私が、法然を評価出来る事は、開祖にあるべき、自筆の書き物を、残さなかったこと。
そして、当時の、常識であった、加持祈祷、呪術、巫女や、行者や、修験道などの、病気治療や、現世利益的祈願を、排斥したことである。
迷信、宗教的習慣に、重きを置かない、一筋に、心の問題を、取り扱ったことにある。

信仰が、純化されたという、批評家もいる。

さて、それでは、現代の、浄土宗は、いかがであるのか。
伝統というものに、堕落した。
伝統とは、この場合は、言わないが、歴史が長いということでの、伝統という。

伝統とは、万葉集に象徴されるように、国民の、宝であり、なお、それが、今も、息吹をもっているということである。
古いが、いつも、新しいものである。

伝統に、堕落するというのは、その、教義という、教えに、単に無批判にして、唯々諾々として、既得権益をのみ、守るということをいう。

徳川家の菩提寺などということは、良い。
ただ、それは法然の、思想であり、宗教ではない、それが、色褪せているということである。

このことについては、いずれ、書くことにする。
時代精神ということについて、更に、ドーキンスと、進めてゆく。

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2008年06月09日

神仏は妄想である 88

時代精神ということについて、ドーキンスの文を引用して書いている。

アメリカのイラク侵攻は、市民のあいだに犠牲者を出したがゆえに広汎な非難を受けているが、しかしそうした犠牲者の数値は、第二次世界大戦において同様の状況で得られたであろう数字と比べれば、桁違いに少ない。ここには、道徳的に許容できることに関する基準の、着実な移行があるように思われる。ドナルド・ラムズフェルは現代でこそこの上なく酷薄でおぞましいことを言っているように聞こえるが、もし彼が第二次世界大戦中に同じことを言ってたとすれば、なにかといえば事を大袈裟に危惧してみせるリベラル派のように見られるだけのことだろう。この数十年に何かが移り変わってしまったのだ。それは私たちすべての中で移り変わっており、宗教とはなんの関連もない。どちらかと言えば、それは宗教のゆえに起こったのではなく、宗教があるにもかかわらず起こるのである。
ドーキンス

宗教があるにも関わらず起こる、という言葉に、同感する。
それが、時代精神である。

時代精神は、宗教を超えたものである。
いかなる、宗教といえども、それには、敵わない。
逆に、宗教のみの、価値観が、時代精神というものに、対立している、または、逆行している。しかし、宗教は、多くの善なることにおいて、それは、我々のゆえのものだと言うはずである。
宗教というものは、厚顔無恥だからである。

時代精神の移行に関して、ドーキンスは、

この移行には、はっきりと認められる首尾一貫した方向性があり、その方向性を私たちの多くは改善と判断するだろう。悪の外延を前人未到の領域まで推し進めたとみなされているアドルフ・ヒトラーがチンギス汗よりも多くの人間を殺したことは疑いないが、彼は20世紀の技術を思うままに使うことができたのだ。そしてヒトラーといえども、チンギス汗が公然としたように、犠牲者の「涙にくれる愛しい近親者」を見て無上の喜びを得ただろうか? 私たちはヒトラーの悪の程度を現在の基準によって判定するが、道徳に関する時代精神もテクノロジーと同様、カリギュラの時代以来移り変わってきたのだ。ヒトラーは、私たちの時代のより慈悲深い基準で測られればこそ、格別に邪悪に見えるのである。

と、言う。

これ以上に、語ることが、あるだろうか。
ドーキンスは、神は妄想である、との、論旨であり、私は、神仏は妄想であるとの、論旨である。

ドーキンスの主は、聖書を聖典とし、その神を奉ずる、ユダヤ、キリスト、イスラム教を、言うが、私は、それに、仏教、とりわけ、日本仏教の、仏を、加えるのである。

勿論、時代精神に、現れても、なお、残存している、宗教というものの、ある意味での、価値というものも、無視してはいない。
しかし、その価値は、教義にあるものではなく、その外側、つまり、芸術、文化的行為にあるものである。
それなくしては、成り立たなかった、芸術作品等々である。
それを、破壊せよとは、言わない。
タリバンのように、破壊しないのである。
そういう意味である。

明治に、廃仏毀釈が、行われた。
その時に、重要な、文化財としての、仏像なども、破壊された経緯がある。
美術工芸としての、価値までも、破壊するという、傲慢な、行為は、無い。

長野の善光寺は、国宝である。
しかし、タリバンなどによると、偶像となり、破壊される。
歴史は、そうして、他宗教、それは、他民族にもなるが、それらを、破壊しつくして、支配が成り立ったが、さて、現代は、どうだろうか。
最早、そのような、時代精神ではない。

果たして、漢訳された、仏典を、漢語で、読経するという、呆れた状態に、時代精神は、合うのだろうか。

例えば、般若心経を、見る。
玄奘訳である。

かんじざいぼさー
ぎょうじんはんにゃはらーみーたーじ
しょうけんご おんかいくう どいっさい くやく

様々な人々によって、解釈がなされ、ハウツー物で、満足する、大勢の人。
知った振りになって、読経し、写経するという。

更に、その深遠な、解釈に酔う。
深遠と、思うのは、単に理解できないということであるが、それを、深遠であると、認識する程度である。
だから、国語能力の無い者が、多く騙される。

それらに、ついてゆけない者は、新興宗教の、耳障りの良い言葉に、騙される。
修行という言葉の意味さえ、知らずに、修行を求めるという、豚のような教祖に騙される。

何の所作も、なくても、感受性の強い者には、簡単に、理解されることが、特別なものになるという、宗教的行為というもの。

文学としての、芸術評価とされるべきものを、信仰するという、仰天である。

時代精神、時代性というものを、理解するならば、宗教の、無知蒙昧に、気付き、騙されることはない。
要するに、解らないことを、解るように、神や仏の名に、すり替えているということに、気付くぺきだが、解らないのである。
そして、神や仏の名において、解った、つもりになるという、傲慢である。

それは、例えば、仏陀の、教えた、憎冗漫であると、気付かない、傲慢さである。
すでに、教義自体に、行為自体に、傲慢があるということに、気付かないのである。

万事休す。

ただ、人間は、見えない物、感じない物、知らない物に、興味を曳かれる。
それが、結果は、神や仏という妄想と、結びつく。
占いというのが、廃らないのも、それである。
占いの、基本は過去を見るというものである。が、それが、未来を見るというものに、変質しても、気付かないでいる。
過去を見るから、未来が見えるという、基本があった。それが、いつしか、未来を予言する、予知するものとして、占いを、誤解して、今まで来た。

宗教も、同じである。

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