2008年02月10日

神仏は妄想である 59

世論調査によれば、米国の全人口の約95パーセントが自分は死後も生き続けるだろうと信じているということだ。そのような信念を心のなかに抱いていると公言する人間がそんなにもたくさんいることに、私は驚きを禁じえない。
ドーキンス

つまり、ドーキンスは、死後の世界は、無いということなのである。
私の、霊学と、矛盾するか。
しない。
この世の延長に、死後の世界は、無い。
次元を、別にする世界である。
これについては、更に、後に、詳しく書く。
何故、ドーキンスが、上記のことを、言うのかは、以下である。

もし彼らが本当に嘘偽りなくそう思っているのなら、彼らはアンプルフォース修道院長のように振舞うべきではないだろうか? ベイジル・ヒューム枢機卿が自分が死ぬといったとき、この修道院長は彼のために大喜びした。「おめでとうございます。これは素晴らしい報せです。私もおともしたいくらいです」この修道院長は本当に嘘偽りなく信じていたように思われる。しかし、この例がまれで予想外なものであればこそ、私たちがそれに注目し、ほとんど面白がりさえする。ということになるのだ。―――実際にこの話は、若い女性が真っ裸で「戦争する代わりに愛し合おう」という旗印を掲げ、その横にいる人間が「これこそ、私が誠実と呼ぶものだ」と叫んでいる漫画を思い起こさせる。なぜすべてのキリスト教徒やイスラム教徒は、友達が死にそうだと聞いたときに、この修道院長と似たようなことを言わないのだろうか? 
ドーキンス

つまり、死後の世界、とりわけ、天国に入ると、信じる者は、死ぬことは、大喜びになること、間違いなしであろうと、言う。

なぜ、信仰をもつ人々は臨終の席で、このように語らないのだろうか? 彼らは自分が信じているふりをしている代物を実は一つも信じていない、ということなのだろうか? ペットとちがって、苦痛を感じないように安楽死させることが許されていない唯一の種がヒトである。ということを考えれば、もっともなことかもしれない。しかし、もしそうでなければ、安楽死や自殺幇助にもっとも声高な反対の声が宗教から出てくるのはなぜなのか?

信心深い人々がこの世での生にみっともなくしがみつくというのはまずありえないことと予想してしかるべきではないのだろうか? しかし、安楽死にはげしく反対する、あるいは自殺幇助を激しく批判する誰かに会ったとき、その人が信仰をもつ人であると判明する確立がかなり高いというのは、衝撃的事実である。表向きの理由は、あらゆる殺人は罪だということかもしれない。しかし、天国へ旅立つ時期を早めているのだともし心底から信じているならば、なぜそれを罪とみなすのだろう?

真っ当な、疑問であり、やや、意地悪な、疑問である。
信仰深い人に、限って、死を恐れるということ、あまりにも、多いのである。

歎異抄でも、親鸞が、本当は、弥陀の元に行けるという、死を、喜ぶはずだが、喜べないのは、何故かと、問う。
その訳は、罪人だからであると、言う。

唯円の文章は、名文であるから、原文を、載せたいが、あまりに、気の毒なので、省略する。

罪人だから、死ぬのを、恐れて、弥陀の元に行くことを、拒むという、どうしようもない、人間の罪深さであると、考えるところに、心の病がある。

思索を、深くすることは、よいことであるが、それに、酔うな。

死にたくないのは、死にたくないので、いいのである。
それを、罪深いから、そう思うのだという、自虐は、病である。

それとも、親鸞は、もっともっと、深く物を考えていたというのだろうか。
頭が悪かっただけである。

更に、ズレていたのである。
おおズレである。
頭が悪くて、ズレていたら、拘る拘る。そして、その思索に、振り回され、更に、出口を見出せず、一人相撲を取って、死ぬ。
ただ、自分を、大愚と、呼んだのであるから、まだ、救いがある。
その通りである。

後の世の人、親鸞を、考えて、思索に、似たような、ことをするが、頭が悪ければ、そのままでいい。
それは、深さではなく、頭の悪さである。

征服王ウィリアムの時代、恐竜の時代、あるいは三葉虫の時代にいたとしても、私は私だっただろう。そこには何も怖れることはない。しかし、死んでいく過程は、運が悪ければ、苦痛に満ちた不愉快なものになる可能性も十分にあるーーー私たちは、虫垂炎を切除してもらうときのように、その種の苦痛を体験することからは、全身麻酔で保護されるのが慣わしになっている。―――
しかしもし医師が、あなたが苦しみながら死にかけているときにまったく同じ慈悲にもとづく処置を施せば、彼は殺人罪で起訴されるリスクを冒すことになる。私は自分が死ぬときには、虫垂炎の場合と同様、全身麻酔のもとで命を取り出してもらいたいと思う。

ドーキンスが、悟った者であること、明々白日である。

私は私だっただろう。
いつも、私は、私である。
いつの時代も、私は、私だった。
これを、悟りと言う。

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもない
マーク・トウェイン

科学者は、悟りと、遠いと、思う人は、考えを、改めるべきである。
科学者こそ、悟り得るのである。

私たちのなかに安楽死や自殺幇助に反対する者がいるとすればそれは、死を移行としてではなく終末として見る人間だろう。
ドーキンス

更に、ドーキンスは、死を恐れるのは、信仰を持った人間に多いという、事実を言う。

喜んで神の元に行けない人の群れ。信仰者の群れである。

勿論、妄想の天国であるから、そんな所は、霊界に無い。
この世から、おさらばするということは、虚無に帰すということである。
霊界は、別次元である。
この次元に無いということは、無くなるということである。
科学者は、冷静に、それを、知る者である。



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2008年02月11日

神仏は妄想である 21

田川健三氏の文を続ける。

もしも混雑する階段で誰かがころんで、上から殺到する人の波に踏みつぶされて死んだとすれば、たとえ直接にその人を踏んだのではなくても、はるか上の方で押していただけであっても、その人の死に責任がないとは言えまい。まして、その人がころんだのが偶然ではなく、上からどんどん押してくる人波の力を支え切れずにころんだのだとすれば、はるか上の方であっても、押していた人々はその人の死に責任がある。今の世界はいわばそのような構造になっている。かなりな数の人が押しつぶされて死んでいるのに、圧倒的多数の人々はその上を踏んで走りぬけ、うまく走りぬける者たちが非常に繁栄する。しかもたいていの者は、自分たちが押してつくり出す人波の力が何人もの人を押し倒して殺す力になっているということを全然自覚していない。

強者はよほど深く鋭い洞察力を身につけない限り、正義を知ることはとてもできないのだ。今の日本人に何が求められているのか明らかであろう。

実は、これこそ、宗教家が、提唱することであり、そして、自ら、行為して、世の中に訴えることである。
しかし、見ての通りである。

驚くべき、馬鹿馬鹿しいことがあった。
昨年、12月15日、築地本願寺で開かれた、東京ボーズコレクションである。
ボーズとは、坊主、つまり、僧侶のことである。

天台、真言、浄土、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗の七派が、入り乱れて、僧衣の、ファッシンョンショーを開催。
お経を唱え、総勢50名の僧が、出たというのだ。

知性は、勿論のこと、感性も皆無。
地球の裏側で、餓死する者たちを、知性で感得することも、それにより、感性を磨くこともしない。
更に、ミャンマーで、僧侶たちが、軍事政権に、多数殺害されたことへの、想像力も無いという、有様である。

よくも、ここまで、落ちたものだと言う。
僧侶の価値が無いのは、当然だが、人間としても、死んだ方がマシなのである。
上記の開祖たちの、教えが、いかに大嘘であることが、如実に解るというものである。

あまりに、愚かであり、愚劣といってよいほどの行為である。

彼らの、やるべきことは、寝ずにやるべきこと、多数ある。
少しの、慈悲の思いが、あれば、地球の裏側で起こる悲劇に、行為行動するはずである。

その恥ずべき行為に、自害して果てることが、得策である。
築地本願寺の言い分である。
葬式とか、暗いイメージたでけで仏教をとらえないで、ビジュアルからでも入っていただければ、というのである。
葬式、暗いイメージだからこそ、金儲けが出来るのであろうが。
何を言う。

勿論、葬式も、10年を経ないで、寺など、捨てられるのである。
誰も、僧侶などに、読経をして貰おうなどとは、思わない。
最後の輝きである。
消え入る前の、最後の光を、自ら演じて、幕を引くという。
それで、よし。

さて、続ける。

自分が他者を抑圧している場合は、自分はそれによって直接痛むわけではないから、なかなかそれとは気づかない。だから、感性ばかりに頼って人間性の豊かさが求められると思っていると、自分に加えられる不正に対しては闘うことはできても、ところ変われば、自分は知らずして他人を抑圧する側に立っていながらけろっとしているものである。

田川氏の論調は、宗教が、最高の知とされた時代から、その変転を語り、感性であるとされた、宗教が、知性でも、感性でもなく、霊という、言葉を用いだしたことを言う。
知性や感性を超える霊的存在、霊である。
それを、カトリシズムを作り上げた、パウロの分析からする。
現代のカトリックは、パウロの方法を持って、続けているのである。

だが、キリスト教ヨーロッパの歴史は、キリスト教支配の世界に、そのつど、息吹を吹き込んだのは、霊を重んじる、異端であったという。

西洋の宗教の歴史は、宗教知の支配に対して、それを打破しようとする、熱狂主義が繰り返し出てきては、挫折するというものだった。

宗教は、いつでも、最高知として、君臨しようとした。
しかし、それを、打破しようとする、霊が、感性と、同一視されることは、なかった。

宗教を単純に「知」に対する対立物としてとらえ、あまつさえそれを「感性」と同一視する、などというのは、長い歴史から見れば、近世、それもせいぜい最近一、二世紀の特殊な現象に過ぎない。ということはつまり決して、そこに宗教の本質がある、などというのではないので、むしろ、宗教をそのように作り変えようとしたところに、近・現代の特色がある、ということになる。

ここまでに至ると、日本の宗教家たちは、お手上げになる。
そんなことを、考えてはいないからである。
兎に角、金儲けである。
如何に、信者から、金を巻き上げるかである。
ただ、それのみに、専心して、いつでも、金のためならば、教義も売るのである。
開祖も何も、あったものではない。
しまいに、死後の世界など無い、霊など無いという、始末である。

それでは、何ゆえに、宗教の中いるのかといえば、商売なのである。
僧侶とは、職業であり、志のあるようなものではないのである。

勿論、仏典の徹底的、分析をすれば、迷う。よく、解らないからである。しかし、実際、よく解る仏典などない。
すべて、戯言であるから、分析などしては、商売に専念できないのである。

兎も角、有り難い教えであると、爺、婆を騙していればいいのだ。

もっともらしく、先祖をご供養することで、子孫は、先祖から守られて、幸せになる。
死後は、極楽に行けますと、大嘘を言うのである。
何せ、自分でさえも、極楽に行くのか、どうか、解らないのである。

勿論、霊界に、極楽などという空間は無い。

精々、キンキンきらきらの、僧衣をまとって、信者、信徒を誤魔化す、騙すの、一点にある。だから、演出だけには、拘る。それにより、金の集まり方が、違うからである。

戒名などという、如何わしいものを、与えて、偉い振りをしているという、僧侶は、完全、言語同断に、地獄に落ちる。
勿論、霊界には、地獄などという空間は無い。
ただ、彼らの意識では、地獄と呼ぶに相応しい、場所に行くということである。


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神仏は妄想である 24

あくまでも人間の全体が生きているところに、人間性の深みが存在する。そして、人間の全体とは、しゃばに生きている人間の現実の生活の全体以外の何ものでもない。「人間性の深み」が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。(宗教でなくても、精神でも道徳でも、あるいは文学でも、ことは同じである)。「人間性の深み」を特別に担当する部門が作られれば、「深み」が人間性そのものから切り離されて、虚妄になる。

田川氏の、これを、読むと、如何に現実が絶望的であるかが、解る。
宗教は、糞の役にも立たない言葉を、妄想を語って、平然としている様、明らかである。

しかし、それに、気づかないのである。

現実から、遊離したところで、生きるということを、語る。神や仏という、手品のような、存在を利用してである。

小児科医、産婦人科医が、減少して、精神科医が多くなっている。何故か。
楽して、金になるからである。
心療内科などは、初診の際に、それなりに、話は聞くが、以後は、薬を処方するだけである。処方で、金になる。
治癒などしないから、いつまでも、患者は、良い客である。

医者が、人を助けるという、奉仕の精神から離れて、金儲けとしての、商売になったのである。
医療が、商売に堕落すると、本当に、人間は救われない。

このような、精神的状態を作り出したものは、何か。
誰の、教育か。

さらに、教師の精神疾患である。休職する、教師の半分が、精神疾患である。

現実である。

文部科学省も、日教組も、何の手を打てないのである。
スローガンだけは、一人前である。
支配層に入ると、皆々、このようになる。

事件は、現場で、起きている。
まだまだ、例はある。
しかし、省略する。

人間の全体とは、しゃばに生きている人間の生活の全体以外の何ものでもない。
田川氏の、言うとおりである。

マスコミ等々も、それを報道して、のうのうとして、犯人探しをする、程度で終わる。

環境破壊についても、そうである。
テレビ朝日は、古館という、アホを前面にして、このままでいいのか。一人一人の自覚と、環境に対する云々というが、その、古館が、どんな生活をしているのか、何も、言わない。こういう、偽善が、まかり通るのである。

虚妄である。

更に、虚妄なのは、宗教である。
実は、田川氏が言うより、宗教の実体は、酷いのである。

虚妄ならば、まだいい。詐欺である。

鎌倉、鶴岡八幡宮という、神社がある。
あれは、昔、寺であった。源頼朝は、鶴岡八幡宮寺として、建立した。
明治に、神社となった。

私の知り合いが、子供の祈願をお願いした。
五千円、八千円、一万円の、お祓いコースがある。
一番、安いコースにした。すると、裏にいた、神主が、舌打ちをした。なんだ、五千円かと。
こういう、ことである。
それで、神職というから、笑う。

あすこに、降りる神は、いない。
それならば、その横にある、正一位の、稲荷の方が、まだ、ましである。

鎌倉に住み、私は、深夜、八幡宮の前に行き、祝詞を唱えて、その、神の様を感じようとした。
虚無である。

太鼓持ちの、霊能者もどきが、神の波動の強い神社の一つというが、大嘘である。

御祓いに、コースをつけるという、虚無である。
巫女に、尋ねた。何が違うのと。
お渡しする物が、違いますと言う。

全く、商売ではないか。

あそこで、清め祓いしたものに、神気など、宿るわけが無い。
程度が知れた。

寺だった場所が、無理やり、神社にされたのである。
私は、二度と、拍手を打つことがない。

実に、解りやすい例を上げてみた。

日本人の潜在的信仰心を、利用しての、商売であるから、最も、罪が重い。
高天原霊界とは、勿論、富士霊界とも、何の関わりが無い。
あの、神社の上空に、精々神の世界を創造しているのみである。
そんな者が、感応しては、具合が悪くなるだけである。

何故宗教では近代合理主義の「知」を克服できないか。暴力的な技術の発達を知性の勝利と呼び、資本の論理に見合う合理性のみを合理性と呼んできた近代合理主義は、その結果生じるさまざまなゆがみ、ひずみの応急手当を宗教の手にゆだねた。近代になって滅びるかと思われた宗教は、こうしてむしろ近代にこそ自分独自の居場所を見つけることができて喜んだ。近代合理主義からこぼれ落ちる非合理の側面にこそ宗教の真理があると思った。けれども、近代合理主義が暴力的につっ走るからこそ、ゆがみひずみ痛む部分が生じるのであって、近代の「宗教」がその部分を非合理の真理として珍重している限りは、近代合理主義を克服することを目指しているようでありながら、実はそのおこぼれにあずかっているにすぎないのである。

ここまで、言われても、宗教は、何も言えない。
そんな、問題意識もないにも無い。
相変わらず、天国、地獄や、極楽等々の、荒唐無稽のお話に、始終する。
そして、ご供養とか、念仏三昧、題目によって、宿命転換をと、大嘘を言う。

カトリック教会では、信者は、教会の中では、平和の祈りをあげて、平和を演じするが、外に出ると、鬼になるという驚き。
キリスト教カルト集団は、おたく、のように、引き篭もり、その仲間と共に、妄想の中に浸りきるという、仰天。
どこから、出てきたのか、千年王国などという、アホのような話に、大の大人が、傾倒するという、狂いである。
自分たちだけは、神の国に入ると、信じる。勿論、神の国ではなく、悪魔の住まいに入るのであるが、そこを、神の国だと、信じるきるという。ホント、哀れである。

大乗経典の、嘘八百の経典を持って、仏陀の最高の教えであると、声高々に言うアホども。仏陀は、一言も、そんなことは、言わないということを、知らない。
実に、世の中が、無明なのではなく、その本人が、無明であるとこを、知らないのである。

宗教信仰も、今の世の中の「知」のあり方はどうもおかしいと感じ、それを克服しなければならないと願う初発の力になることができる。その意味では近代における宗教信仰の意味を評価する必要もあろう。けれども、初発の力にとどまっていては先に進めない。宗教は初発の力を生み出すが、初発の力を越えて先に進むことを妨げる。
無知に居直っても、知性の荒廃は救えないのだ。いま必要なことは、そこらあたりにころがっている「知」をはるかにこえる深く鋭い洞察力を全人間的に、かつ全世界的なつながりをもって、養うことではないのか。

無知に居直ると、田川氏は、言う。
宗教は、無知に居直っているのである。そして、堂々として、無知に居直るというのが、また、宗教である。

鋭い見識は、また、初発の力を越えて先に進むことを妨げると、言う。

信者を支配することが、出来るという、傲慢が、そうさせる。
信者は、アホだから、どうにでもなると思うのである。
信じる者は、一度信じると、いくらでも騙せると、信じる。

織田信長が、比叡山を焼き討ちした。
非情な命を下した。
女子供に至るまで、皆殺しにせよ、である。
その先頭に立った、秀吉は、女子供を殺すのに、忍びないと、逃す。
しかし、ほぼ全域を、焼き討ちした。

僧たちの、堕落極まりない所業を見ての、信長の怒りである。
その当時、信長は、キリスト教宣教師の、命がけの、宣教の様に、驚いていた。
この教えに、何かあると、見抜いた。
宣教師と、僧侶との、対決も、目の前で見た。

焼き討ちするしかないと、決断した。

それは、それで、一理ある。
しかし、その後、秀吉は、政治家の勘で、宣教師の本質を見抜いた。
植民地政策の、変形したものであると。
彼らの教えに、従うと、日本国の、根幹が、揺らぎ、果ては、日本国が崩壊し、キリスト教国の、植民地になると、察した。
キリシタン禁制である。

秀吉は、キリスト教徒に、最も、相応しい、殉教という、僥倖を、皮肉にも、与えた。
長崎の26聖人として、ローマカトリックから、聖人に上げられた者を、生み出した。

九州のキリシタンの資料は、多くあるが、実は、蝦夷地、北海道にも、キリシタンたちは、逃れている。その様は、地獄のようなものである。

教えに生きるという、無知蒙昧は、計り知れない犠牲を生む。

その、淡々とした、人生の様に、意義を見出すのは、至難の業である。しかし、宗教は、そこに、大きな希望と光を与える。
我らは、神の子。ゼウスの元に、集え。

どんな、苦難を受けても、信仰を守るという、人生の目的意義を見出す。
人生とは、何か。
宗教とは、何か。
そして、生きるとは、何か。

それに、宗教は、答えない。
勿論、答えを出すが、それは、知性ではない。まして、感性でもない。
蒙昧であり、無明である。

潜在意識の、広大な世界にある、広大無辺な領域に、一滴の水を垂らすのが、宗教である。
それを、救い、という、妄想に高めるのである。

つまり、潜在意識の、不明に、救いという観念を植え付ける。

目の前で、自分の子供が、無残にも、殺されるのを見る、キリシタンが言う。
どうぞ、殺しくだされ、我らは、ゼウスのハライソに行くのである。
そして、子供に言う。
一時の、苦しみぞ、その後は、ゼウスの国、ハライソに行くのだぞ。

その、キリシタンたちの霊が、未だに、さ迷っている事を、知る、真っ当なキリスト教徒は、いない。
人間とは、愚かなものである。

そして、更に、人間の愚かさを、助長するもの、それは、宗教である。

宗教は、眺めるものである。
必要なことは、信仰である。
観念ではない、信仰である。それは、宗教に似るが、宗教ではない。宗教的ではあるが、宗教ではない。

その対象は、自然である。
宇宙を含む自然への、信仰そこ、大切な、真情である。

人間の想像を超えた、自然に対する、畏敬の思いは、生命の畏敬となる。
生命の畏敬は、わが身の完結である。

命あるもの、すべてに通じる、生命の畏敬こそ、信仰といえる。
拝むものは、太陽、山川草木にある。
そこにしか、生きられないのである。
何によって生きるのかとは、真実である。
自然を離れて、生きる道は無い。
宇宙の外に出て、宗教は、活動すべきである。そこが、相応しい場所である。

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2008年04月01日

神仏は妄想である 60

煉獄の教義は、神学的精神がどのようにしてはたらくかについて、馬鹿馬鹿しい事実を暴露してくれる。煉獄は、神の国において一種のエリス島(ニューヨークにあり、かつての移民局がここに存在し、移民を希望する入国者はここで選別を受けた)のような役割を果たす。地獄に送られるほどの悪い罪を犯していない死んだ魂が行く、黄泉の国への待合室である。しかし罪人のいない天国に入ることを許されるまでには、もう少しばかり矯正的な審査と浄化が必要である。中世においては、教会はよく金で買える「免債」を発行していた。これは、煉獄にいる日数を何日か免じてもらうために金を払うのであり、教会は文字通り(私は僭越にもほどがあると言いたい)購入された減刑日数を書き込んだ署名入りの証明証「免罪符」を発行した。こうした不正利益のために「不浄」という表現が発明されたのではないかと思われるのが、ローマ・カトリックという組織である。金を稼ぐためのあらゆる詐欺行為のなかでも、免罪符の販売こそ、ちまがいなく歴史上、最高に位置するペテンであり、ナイジェリア・インターネット詐欺の中世版に相当するが、こちらのほうが、はるかに成功をおさめた。
ドーキンス

上記、恐るべし、宗教というものの、正体である。

皆々、宗教とは、上記のような、金集めをするのである。
問答無用に、そうである。

何という、馬鹿馬鹿しいことをと、思っても、信じる者は、騙されるのである。
喜んで、金を払うという、愚かさ。

日本の宗教も、同じく、家計が苦しいから、ご供養に、金を出すことを言うのである。
生活が、苦しいほど、献金をする。そうすれば、福がもたらされる。
このように、説いて、信者から、金を集める宗教は、数限りない。

更に悪いのは、信者から集めた金の、数パーセントを使い、慈善事業をしているように、見せかけるという、あくどさである。
信者も、社会も、それに、騙されるのである。

どうしようもない、罪人、それが、宗教組織である。

宗教と、名のつくもの、すべてが、そうであると、言っても、間違いではない。

凶悪事件を、起こす宗教のみならず、精神的凶悪事件を、皆々、起こしているのである。
どんなに、立派な宗教であると、言えども、そこから、のがれることは、出来ない。
つまり、宗教を作るということは、詐欺組織を作るということと、同じなのである。

カトリック教会は、日本にて、学校、福祉施設、病院等々の、社会的活動をする。
キリスト教精神に則って、活動する。
その金は、どこから、出るのか。
世界中の信者の金から出る。

それが、評価出来るということではない。その程度で、人や社会は、騙されるということである。

ドーキンスは、それらの実に、馬鹿馬鹿しい、証拠を書くが、省略する。

煉獄の教義が私を本当に魅了するのは、神学者がそのためにもちだす証拠である。その証拠は目を見張るほど薄弱なものなので、それが断言している空虚な確信をさらに滑稽なものに感じさせてしまう。「カトリック百科事典」の煉獄の項目には、「証拠」と題する節がある。煉獄の存在を示す基本的な証拠は次のようなものである。もし死者が、現世における罪をもとにして単純に天国または地獄に行くのであれば、彼らのために祈る必要が無いということである。「もし、神の眼差しをまだ注がれていない者たちに施しを与える力を祈りがもっていると信じないのであれば、何の理由で死者のために祈るのか」。だが私たちは実際に、死者のために祈っている。そうでしょう? 証明終わり。冗談抜きに、これが神学を扱う専門家たちのあいだで理屈として通用しているものの一例なのである。

実は、私も、少年の頃、教会で、煉獄にいる、霊のためにと、祈っていた。
そう、教えられた。

日本のお盆に、当たる、死者の月が、10月である。
その月には、ロザリオの祈りを、煉獄の霊のために、毎日のように、祈るのである。
ロザリオの祈りとは、聖母マリアに対する祈りである。
聖母マリアに、取り成してもらう、祈りが、ロザリオの祈りという。

聖母出現の土地では、更に、ロザリオの祈りが大切にされる。

その、出現の聖母が、プロテスタントの信者を、カトリックに改宗させる、メッセージを発するという、面白いことを言う。

勿論、誰も、それを、聖母であるとは、知らない。
悪霊の場合もある、と、言っておく。

カトリック信者の中でも、あれは、良い聖母、あちらは、間違った聖母などいう、話がある。ローマ法王庁が、認定しないと、駄目である。

その際は、特に、奇跡の認定が、決め手になる。
その最大の特徴は、病が、癒えるというものである。

ご多分に漏れず、宗教の宣伝文句は、病が癒えるである。

イエス・キリストも、病を癒すのである。
単純明快である。

そして、最大の奇跡は、死後の復活である。

このような、奇想天外のお話を、信じることによって、キリスト教徒となる。

イエスは、雲に乗って、天に上がられたのである。
そして、いつか、雲に乗って、この世に、来るという、妄想。

雲に乗るのは、日本の神々であるが、違うらしい。
冗談です。

この驚くべき不合理な推論がさらにスケールアップされた上で、もう一つの一般的な神の存在証明である。(慰めからの論証)の展開に反映されている。神は存在するにちがいないと、この議論は進む。なぜなら、もし存在しないならば人生は空しく、無駄で、不毛で、無意味で取るに足りないことばかりの砂漠になってしまうだろう。この論理が最初の障害物で破綻していることを、わざわざ指摘する必要がどうしてあるのだろうか? ひよっとしたら人生は空しいかもしれない。ひよっとしたら私たちの死者への祈りは無駄かもしれない。そうではないと仮定するのは、証明しようとしている結論が真実だと仮定することである。この三段論法と称するものは、見え見えの循環論法である。・・・

自分が息災であるのはほかの誰かのおかげにちがいなく、もし自分が怪我をすれば、ほかの誰かが非難されなければならない。神なるものを求める「欲求」の背後に本当に横たわっているのは、このような幼児性ではないだろうか? ・・・

誠に、私は言う。
幼児性である。

思考法には、三段階がある。
外省、がいせい、思考である。
事が起こるのを、すべて、他のせいにして、考える思考法である。

そして、反省思考である。
通常の成長をすれば、反省思考になるのだが、今は、実に、少ない。
私も、悪かったし、相手にも、誤りがある、注意しょうと考える。

次に、内省、ないせい、思考である。
この事態は、私に、何を教えるのであろうかと、考える思考法である。

宗教は、残念ながら、外省思考である。
すべて、神仏に、帰納する。

実に、幼児性である。

超えられない苦しみを、神は、与えたもうはずがない。
誰も、苦しみなど、与えていない。
自業自得であろう。
しかし、敬虔なクリスチャンになると、特に、そう言うのである。

自分が、種を蒔いたことでも、神のせいにするという、アホ、馬鹿である。

幼児性と、妄想性による、撹乱を、起こす。
その名を、宗教と、呼ぶ。


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2008年04月02日

神仏は妄想である 61

私は「虹の解体」で、DNAの文字の組合せによって潜在的に生れ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。その一環として、ここに存在するだけで幸運な私たちのために、巨大な時間の定規の上をゆっくりと進むレーザー光線のスポットライトを思い浮かべることで、人生の相対的はかなさを描いた。スポットライトの前あるいは後ろにあるすべてのものは、死せる過去の闇、あるいは未知の闇に包まれている。私たちは、このスポットライトのなかに自分がいると知るだけで途方もない幸運である。
ドーキンス

これは、神は妄想である、の、最後の章の、最終である。

科学者が、総力を上げて、人生の相対的、はかなさを、描いたという。

生きているという、スポットライトの中にいるということが、途方もない幸運であると、いう。

たゆみない、知性と、感性の、磨き、そして、理性によって、人間は、自立した、人間になるのである。

私たちが太陽のもとにいられる時間がどんなに短くとも、もし、その一秒でも無駄にすること、あるいはそれが退屈だとか、不毛だとか、あるいは(子供のように)つまらないとか不平を言うのは、そもそも生命を与えられることさえなかった無数の生まれなかった者たちへの、無神経きわまる侮辱ではないだろうか?

科学者の、謙虚さを、十分に知る、文章である。
さらに続けて

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。無神論者のこの見方は、人生の肯定という態度に通じるものだが、同時に、生命はこの私に何か借りがあるはずだと感じている者たちの、自己欺瞞、希望的観測、あるいは自己憐ぴんの泣き言には染まっていない。

自己欺瞞、希望的観測、そして、自己憐ぴん、とは、宗教のことである。

知識ということの、本当の意味は、上記のことを言う。
妄想の、教義、教理、教学による、知識ではない。
それは、知識とは、呼ばないのである。

知識とは、裏付けられるものである。

もし、神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。私の選ぶやり方には、科学をふんだんに用いた、現実世界についての真実を見つけだすための誠実かつ体系的な営みが欠かせない。

実に、説得力のある言葉である。
まったくもって、宗教には、無い、言葉の数々である。

私は、宇宙を理解しようとする人間の努力を、モデル形成の試みとして見ている。私たちの一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先がそのなかで生きのびるのに必要なモデルである。このシュミレーション・プログラムは自然淘汰によって構築され、修正されたもので、アフリカのサヴァンナにすんでいた私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけとして、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現われである。

芸術と、科学である。
決して、宗教とは、言わない。

私は、宗教は、芸術の変形、あるいは、逸脱、あるいは、狂いと、観るものである。
芸術的情熱と、宗教的狂信は、非常に近い。

さて、ドーキンスは、量子論についても、書く。
それは、多宇宙についてである。

実は、私は、多次元の世界の証明を、量子論に、期待していた。
しかし、事情は、違った。

それは、次に書く。

ここで、言いたいことは、宗教や、神学等々の、虚妄であるとうことだ。
頭で、考えたことは、単に、それだけのことであり、何の、根拠も、証明も、出来ず、客観性も無いということである。

創造性とは、芸術である。
よって、宗教の、ものの考え方は、創造性の、何物でもない。

人間が、作り出した、ものである。

神も、仏もである。
人間が、創造したもの、それが、神であり、仏である。
ゆえに、神仏は妄想である。

知らないことの、隙間を、埋めるための、神仏の創造は、限りなく、不毛である。

その、根拠を、埋めるための、奇跡というものは、科学で、解明される。
知らないだけである。

キリスト教宣教師が、未分化な、土地に行き、細心の、発見により、持つ、科学的道具により、未開の人を、撹乱させた。
それは、未開の人が、知らないことだったからである。

知ってしまえず、当たり前のことである。

宗教の妄想も、知ることで、妄想であることは、明白である。

ゆえに、私は、神仏は妄想であると、言う。


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2008年04月03日

神仏は妄想である 62

量子力学が、霊界の存在、あるいは、多宇宙について、画期的な、存在の様を、証明するのではないかと、私は、期待していた。
ところが、トーキンスに言わせると、そうでもないらしいのである。

量子論があまりにも奇妙なのか、物理学者たちは何らかの矛盾した「解釈」に頼ろうとする。
ドーキンス

「多宇宙」解釈によれば、ある宇宙ではネコは死んでおり、別の宇宙では生きているということになる。どちらの解釈も、人間の常識や直感を満足させるものではない。しかし、力技の得意な物理学者たちは気にしない。問題は、その数学がうまく機能し、予測が実験によって達成されることである。私たちのほとんどが、彼らのやっていることをフォローすらできないのは、ふがいないことだ。結局、私たちは、「現実に」起こっていることについて、何らかの連鎖の視覚化というものがともなわなければどうにもならないらしい。
ドーキンス

連鎖の視覚化という。
つまり、はやい話が、目に見えない物である。目に見えない物でなければ、どうにもならないという。
科学的姿勢とは、そういうものである。
何の、違和感も無い。

更に、目に見えない物も、目に見える方法によって、目に見えるようにするのが、科学の姿勢である。それで、多くの、目に見えない細菌等々を、発見し、人類に貢献した。

私の立場である。
私は、霊学を、持つものである。
つまり、目に見えない世界というものを、考える立場である。
それは、多く、心理的状態によって、知る得るものであり、それは、心理学の分野で、おおよそ、解決される。
しかし、どうしても、それでは、解決できない問題もある。

だが、ギリギリのところまで、私は、ドーキンスを支持する。

私たちが進化した限られた世界では、小さな物体のほうが大きな物体よりも動いている可能性が大きく、大きいほうは動く際の背景と見られる。世界が回転するにつれて、近くにあるために大きく見える物体―――山、樹木、建物、そして地面そのものーーーは、太陽や恒星のような天体との比較で、互いにまったく同調して、観察者とも同調して動く。私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、そうした天体のほうが動いているという幻影をつくりだすのである。
ドーキンス

ここに、重大な問題が、隠されている。
奇跡の、問題である。
互いに同調して、観察者とも、同調して動く、という。

つまり世界がなぜいま見えているように見えるのか、そして多くの事柄は直感的に把握しやすいのに、別の事柄は把握しにくいのはなぜか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからという点をさらに突っ込んでみたいと思う。私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界―――私はミドル世界という名を使うつもりであるーーーでは、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。そこでは事物はじっとして立っているが、光速に比べればゆっくりとした速度で動いているかである。そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととして処理しても問題はない。私たちの精神的なブルカの窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助ける上で、それを広げる必要がなかったからなのである。

ブルカというのは、イスラム教徒の女性が、かぶる顔を覆う布のことである。
つまり、私たちの、ブルカの窓とは、視野のことである。

私たちの脳は、その体が自分の動き回る規模での世界の様子を知るのを助けるように進化してきた。私たちは、原子の世界を動きまわるようにはけっして進化してこなかった。
ドーキンス

ミドル世界で進化した私たちは、「一人の将校が、将校たちや他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前進は、苦痛をともなって阻まれる」といった事柄なら、直感的に、容易に把握できる。しかし、私たちの脳は、ニュートリノが壁を、つまりその壁を「現実に」構成している広大な瞬間の中を、どんなふうに通り抜けるかを想像できるようにはつくられていない。また私たちには、ものが光速に近い速さで動くとき起こる事態にうまく対処する知覚能力も備わっていないのだ。

ドーキンスは、実に、重大な、人間の認識能力について、語るのである。

これ以上の、引用は、避けることにする。

私は、ここで、ドーキンスが、最後に、最後の章で、奇跡の、有り得なさについて言う言葉を、聞く。

ありえなさの一方の極には、私たちが不可能と呼ぶまだ起こっていない出来事がある。軌跡とは極度にありえないような出来事である。マリア像が私たちに向かって手を振るということはありうる。結晶構造をつくっている原子はすべて前後に振動している。原子はあまりにもたくさんあり、その動きには一致して好まれる方向がないため、ミドル世界で私たちが目にする手は、石のようにじっと動かない。しかし、手の揺れ動く原子のすべてが、たまたま同時に同じ方向に動くということはありえる。またしても、何度でも言うが、・・・この場合、手は動くだろうし、私たちに向かって手が振られることを見ることになるだろう。それは起こりうるが、それが起こらない確率は非常に大きく、もしあなたが宇宙の起源からその数を書き始めたとしても、現在でもまだ依然としてゼロを書き終わっていないだろう。そのような確率を計算する能力―――ほとんどありえないことを、あきらめて両手を上げずに計算する力―――は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。

奇跡には、すべて、裏がある。
そして、奇跡として、認識するものは、撹乱である。

ドーキンスは、進化生物学者として、渾身の力を込めて、神は妄想である、と言う。

私は、霊学として、神仏は妄想である、と言う。

新約聖書に、書かれる、イエスの奇跡は、悪霊祓いと、病気治しである。
更に、教祖と言われる人々は、多く、病気治しの奇跡を、行った。人は、それで、信じるようになる。

私の、知る、奇跡の例を、上げると、ある、拝み屋に行き、腰痛が、全快したということである。
そのカラクリは、簡単である。
その、拝み屋の、狂いの精神波動、つまり、ヒステリーの、力によるものである。
境界例という、精神疾患がある。
多くは、精神疾患による、狂いの、エネルギーが、痛みを取り、病を、癒すかのように、働く。

心理学で、解決される。
それは、多くの世界的、奇跡の場においてもである。
名医は、言葉によって、患者を癒す。
それは、心理学である。

霊的現象により、病や、奇跡を、起こすことを、私は、魔界関与という。
前世の因縁により、あなたの、足が、痛むということで、その因縁を消滅させることによって、痛みを取るという場合も、心理学が、有効である。

想像力は、病を、癒すのである。

何故、仏陀が、人生を、生老病死という、苦しみにあると、言うのか。
仏陀は、合理主義者であり、現実認識の、主である。
人生は、生老病死にあると、見抜いたこと、それが、端的に、それを、現すのである。

更に、因果の法を説いた。
原因が結果を、もたらし、また、結果が、原因になり、それが、死ぬまで、終わることが無い。

更に、オリジナルとして、仏という、人間の完成した、姿を描いた。

しかし、仏陀もまた、生老病死に、死んだのである。

もし、前世の因縁消滅によって、痛みや、病が、治るものであれば、因縁消滅しなくても、治るのである。

実相世界を、説く、宗教は多い。この世は、仮の世界であり、実相世界は、痛みも、病も無いという。更に、人は神の子であり、仏である。この世の姿は、肉体という、借り物を、着ている状態であると。

それは、実に、感性的である。
しかし、知性と、理性に関しては、論外である。

感受性の強い人は、それを、文字通り受け入れて、自らを、癒す。

この現実を、仮のものとして、思い込み、実は、よく解らない、死後の世界を、実相、真実の世界として、信じ込むことでの、詐欺行為により、撹乱させる。

霊学として、言う。
この世の、現実を、実相世界と、感じないで、よく解らない死後の世界を、実相世界、あるいは、神や、仏の世界として、信じ込ませるもの、それは、罪悪である。

仏陀は、すべては、心の、在りかたであると、観た。
心とは、想念の場所、想像の場所である。
思えば、在る世界である。
その、思えば、在る世界に、宗教は、目に見えない世界を、作り上げて、心を撹乱させる。

例えば、死後の世界で、苦しむ霊の、波動を、キャッチして、同じように、その箇所が、病むという。ゆえに、その霊に、悟ってもらい、それにより、病を癒すという。
もっともらしくの、想像力である。
しかし、それは、心理学が、出来ることである。

霊というものを、確実に、説明する、科学的根拠は無い。

だが、科学が、すべてを、知るかとえば、知ることは出来ない。

私の、霊学も、私の妄想である。

その、妄想を、いかに逞しくしても、神仏は妄想である。
霊界には、神仏は、無い。
霊は、在る。

そして、空とか、無という、状態も、宇宙を出ると、在る。

霊界は、宇宙の中にあり、未だ、空や無という、空間は、無い。
ブラックホールという、暗黒物質の世界は、あるが、それは、空でも、無でも無い。在るのだから、だ。
在るものを、空とか、無とは、言わない。

すべて、人の頭で、捏ね繰り回された、言葉の世界である。

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2008年04月04日

神仏は妄想である 63

多くの信仰篤い人々は、宗教がなければ、人がどうして善良でいられるのか、あるいは善良でありたいと望むことができるのか、想像し難いと感じている。

道徳とは何の実際的な関連ももたない他の話題に対する宗教的な態度の背後に道徳的な動機が潜んでいることがあるからだ。進化論を教えるなと主張する人々は、実は進化論そのもの、あるいは科学的な事柄とは何の関連もなく、道徳上の憤慨によって煽り立てられていることが多い。
ドーキンス  第6章 道徳の根源 なぜ私たちは善良なのか ? より


宗教信者は、宗教より、道徳というものが、生まれると、信じている。
しかし、彼らが、他宗教、他宗派に対する時、そこには、道徳的、かけらも無いほどの、行動をするのである。

それを、彼らは、知ることがない。

宗教から、出る、道徳とは、完全無欠に、紛い物である。
要するに、偽物である。

ダーウィン主義の論理によれば、自然淘汰のふるいの目をくぐった生き延び伝えられる、生命の階層秩序のなかで、自分と同じレベルにいるライバァルを犠牲にして生きのびることに成功したものである。厳密にはそれこそが、この文脈で利己的という言葉が意味するものである。問題は、その作用の舞台となるレベルはどこか、ということだ。力点を正しく、後ろのほうの単語(遺伝子)に置いた、利己的な遺伝子という考えの趣旨は、自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は利己的な個体ではなく、利己的な集団でも、利己的な種でも、あるいは利己的な生態系でもなく、利己的な遺伝子だということにある。情報という形で、多数の世代にわたって生き残るか、残らないかというのは遺伝子なのである。
ドーキンス

それは、利己性の、単位としての意味における、利己的な遺伝子である。

つまり、利己的な遺伝子という、ドーキンスの、道徳に対する考え方に、利己的という、言葉が、先行して、道徳を、考える際に、利己的という言葉が、僭越するということである。それに、対する、誤解を説く。

いわゆる利他行動のうち、それを支えるダーウィン主義的な理論的根拠についてよく解明がなされているもう一つの主要なタイプは、互恵的利他行動「ぼくの背中を掻いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」である。
ドーキンス

一体、宗教が言うところの、道徳から発する、考え方は、何であろうか。
利他行動というものを、宗教では、愛の行為、布施等々を言うが、すべて、布教活動の一環となる。

やたらに、親切に接してくると、思ったら、宗教だったということは、多々ある。

それならば、愛は地球を救うという、気持ちの悪いテレビ番組の方が、まだ、救いはある。
あれは、イベントであり、教えの、強制はない。

実際にそれは、大幅に異なった種のメンバー間でもまったく同じように、おそらくはそれ以上にさえ機能するのであり、その場合は共生と呼ばれることが多い。この原理は、人間のあらゆる交易や物々交換の基礎でもある。
ドーキンス

科学者の、考え方の方が、真っ当である。

道徳の基本は、生きるための、最低限の基礎なのである。

生物界には、そのような相互扶助的な関係がどっさりある。と、ドーキンスは、言う。

自然淘汰は、必要と機会の非対称的な関係において、自分から与えることのできるときには与え、できないときにはくれるようにせがむようにさせるような資質を個体にもたせる遺伝子を選択する。義務を記憶し、恨みを抱き、交換的な関係を監視し、もらうだけでお返しの番がきたときに与えないごまかし屋を罰し、といった傾向も選択され、生き延びる。
ドーキンス

長年に、渡って、人類が築いてきた、利他行為、互恵的利他行為、そして、多種との、共生。
道徳の基礎は、ここにあり、宗教の教えの、云々には、何ら関係ないのである。

更に、ドーキンスは、それらの、誤作動に関して、記述する。

人間は、万物の霊長であるという、勝手な解釈は、何の役にも立たない。
生き延びるために、経てきた、積み重ねた、経験というものが、重要である。

さて、日本では、道徳といえば、孔子である。
論語から、道徳という観念が生まれた。
更に、江戸時代になると、朱子学である。
まあ、中国の書物から、多くを学んだので、儒教、道教、そして、中国仏教である。

教えられる、道徳である。
しかし、人間の心の、発露としての、行為は、古代からある。当たり前である。
その、古代からの行為こそ、ドーキンスが言う、利他行為である。互恵的利他行為、更に、共生というものである。

万葉集を、読めば、すべて、理解できるのである。

親孝行などは、万葉集では、孝行を超えている。
親に対する、恋心である。
親乞う心である。

宗教により、人間が善になるという、考え方は、無い。
宗教が、教えるものは、例えば、仏教だと、来世とか、死後の世界の、地獄、極楽である。
要するに、脅しの、言葉による、道徳的行為を、強要する。
勿論、道徳というものの、何物も無い。
単なる、教義としての、道徳的行為の、推奨である。

それは、実に、計算高いものであり、人間を、取引させる。
一神教になると、それは、実に、甚だしい。

新約聖書で言われる、善きマサリア人の話は、有名であるが、あの土地によって成る、お話である。
イエスの、隣人愛というものも、実に、あの地域性による。
汝の敵と、敵を、最初に想定するという、土地柄である。

別の神を、拝む民を、排斥する地域にあっての、隣人愛を、イエスは、押し広げて、教えた。
というより、それは、イエスの教えというより、セクト教団の教えである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近親者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
ドーキンス

イエスの言葉は、それを、押し広げたのである。
つまり、近親者のみではなく、出会う人に、広げたのである。

しかし、それは、画期的なことではあった。


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2008年04月05日

神仏は妄想である 64

性的な情熱(情欲)は、人間の野心のや闘争心の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤作動の結果である。気前の良さや同情への情熱についても、もしそれが、田舎暮らしをしていた祖先の生き方が誤作動を起こした結果であるとすれば、同じことがあてはまってはならない理由は存在しない。祖先の時代に、自然淘汰が私たちの中にこれら二つの情熱を築きあげるには、脳に経験則をインストールするのが最善の方策であった。そうした規則は現在でも私たちに影響を与えており、もともと機能にとって不適切な効果をもたらす状況においてさえ、この仕組みは変わらない。
ドーキンス

科学者は、実に、冷静に分析するものである。
人間が経てきた、道のり、つまり、ドーキンスは、進化であるが、それが、実によく理解できるというものだ。
この地に、生きるために、人は、学び続けてきたということである。

更に、性欲というものを、このように、分析するという、冷静さは、科学者の面目である。

何度も言うが、日本の伝統では、欲望、性欲も含めて、生きるための、欲望を、恵みと、捉えてきた。

これが、宗教に言わせると、罪になるという、驚きである。
人間の欲望を、支配しての、人間把握であるから、実に、偏りがある。
ただし、支配者が、それを、罪を、避けて生きるということはない。
被支配者には、命ずるが、自分たちは、のうのうとして、欲望の限りを尽くすのである。実に、子供騙しをする。

宗教家を、見よ。皆々、そうである。


そのような経験則は、カルヴァンの予定説で言うごとき決定論的なやり方ではなく、文学や習俗、法律や伝統―――そしてもちろん宗教―――のもつ開明的な影響のフィルターを通じて、現在でも私たちに影響を与えている。性的情熱という原始的な脳の規則が、文明のフィルターを通過して「ロミオとジュリエット」に描かれたラヴ・シーンとして具現化するのとまったく同じように、身内かよそものかを区別する原始的な脳の規則は、キャピュレット家とモンタギュー家の長年にわたる争いという形をとって現れる。やがて、利他主義と思いやり(共感)の規則が最後に誤作動して、いさかいの罰を受けた両家の者たちが和解するというラストシーンとなって、私たちを感動させるのだ。
ドーキンス

カルヴァンの、予定説とは、救いにある者は、すでに決定しているというものである。実に、都合の良い教義である。
要するに、その集団に所属すること、すなわち、救われている者、ということになる。

すべての、宗教は、皆々、そのようである。

偽物の、日本仏教も、最澄の、すべての人に、仏性があるというものである。
悉皆仏性である。
すべての物にも、仏性があるという、耳障りの良い言葉である。

その、仏性に、目覚めることが、悟りであるという。
勿論、仏性が、無い者は、妄想によって、そう思い込むのである。

三蔵法師玄奘は、救われない者もいる、という。
つまり、すべての人に、仏性があるとは、言わなかった。
大乗の教えを網羅し、その、経典を訳した、玄奘である。

最澄の天台宗から、すべて、狂ってしまった。
そして、空海の、密教という、とんでもないモノである。
バラモンの、呪術と、マントラを、真言として扱うという、魔物。
マンダラという、誤魔化しをもって、日本の善人善女を、煙に巻いた。
そして、更に悪いのは、鎌倉仏教といわれる、新興宗教である。

妄想の、経典から取り出した、念仏から、経典の、題目に、帰依するという、仰天である。
真っ当な、神経の者なら、決して、触れないものである。

予定説などは、笑うが、念仏、題目は、笑えないのである。
何故か。
日本仏教の大半が、それである。

彼らは、末法という意味が、よく解っていない。
末法とは、仏陀の、教えが、無に帰すということである。
つまり、末法の世に現れたもの、すべては、仏陀の、教えではないということを、知らない。
魔界のものである。

最大の自己矛盾である、末法思想である。

そこには、知性の欠片も無く、感性の鈍さと、理性の、崩壊があるのみ。

末法の、衆生は、気づかないのでしょう、ね。

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2008年04月06日

神仏は妄想である 65

サム・ハリスが「キリスト教国への手紙」に載せている次のデーターは、相関を示す決定的な証明にはなっていないが、それにもかかわらず衝撃的である。

米国における党派関係は、宗教性の完璧な指標ではないが、「赤い(共和党の)州」はもっぱら保守的なキリスト教徒が圧倒的な政治的影響力をもっているおかげで赤いのである。もし、キリスト教保守主義と社会的健全性のあいだに強い相関があるならば、その何らかの徴候を赤い州のアメリカに見ることができると予想していいだろう。しかし見つからない。暴力犯罪の発生率がもっとも低い二十五州のうち、六十二パーセントは「青い」民主党の州にあり、三十八パーセントが「赤い」共和党の州にある。もっとも危険な二十五の都市のうち、七六パーセントは赤い州にあり、二十四パーセントは青い州にある。実際に、米国でもっとも危険な五つの都市のうちの三つは敬虔なテキサス州にある。押し込み強盗のもっとも高い発生率をもつ十二州はどれも赤である。窃盗の発生率がもっとも高い二十九州のうち二十四州が赤である。もっとも高い殺人の発生率をもつ二十二州のうちで十七州が赤である。

ドーキンス

「あなたが本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか? そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にしているだけのことじゃあないですか」

もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、「それはいうことを聞いたから、私たちは、あなたのことを大きくよけて通らせていただく」。反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自らを善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教だと本気で考えているのではないか。個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
以上、ドーキンス

ただ今、ドフトエフスキーの、新訳が出て、多く読まれているという。
読むことは、いいことだが、あれを理解することは、日本人には、やや不可能ではないのかと、思っている。

キリスト教的、神の存在というものを、知らなければ、理解するのは、難しい。
文学としては、非常に評価出来るが、罪と罰、カラマーゾフの兄弟に、代表されるように、神の存在という、忌まわしいものの中で、七転八倒しているような、人間を描いている。
要するに、妄想の神と、一人相撲をしている人間の、七転八倒を、読んでいるのである。

トルストイも、そうであるが、彼らは、神観念の中から、抜け出せないでいる。
それも、嘘の聖書を、母体にして、何やら考えているのてあるから、ご苦労さんである。

ロシアには、伝統というものがない。
極めて、悲しいことに、ロシア正教があるのみ。

ロシアほど、悲劇的な国はない。
帝国ロシア、そして、共産主義による、革命である。その中で、細々と、ロシア正教が、流れていた。それは、共に、領土拡大、つまり、侵略を、国是としてきた国である。それ以外のものは皆無である。

支配者のための国である。
市民の伝統など、生まれる訳が無い。

個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
と、ドーキンスは、言う。
すべての、宗教は、そうである。

神仏の名に置いて、信者を、脅し、透かし、支配する。
勿論、支配者は、悪行の限りを尽くすという、オマケである。

信者には、質素倹約を教え、献金、布施、寄付を、求めて、上層部は、たらふく食べて飲んで、更には、贅沢三昧である。

人に前では、修行者のような面をして、顔付きだけは、一人前、いや、三人前である。

偽善の、傲慢ぶりは、甚だしい。

本堂より、庫裏の方が立派な、寺院は多い。
仏の住まいより、僧侶の住まいの方が、立派だということである。

さて、宗教による、道徳は、実に、不健全である。
神仏の罰が当たると、平然として言う。

キーワードは、神仏の罰である。
無いものが、罰を下す訳が無いが、信じる者は、騙される。

道徳心とは、信仰に支えられるものではなく、人間の知性に支えられ、理性によって、行為される。
そして、感性によって、満たされるものである。
それが、真っ当な、道徳感覚である。

科学者である、ドーキンスは、実に、高尚な切り口で、それを、語る。

日本語の、道徳とは、特に至る道である。
その、徳を、儒教的、徳として、考えていた時期が、長い。
その、原点は、孔子の論語である。

孔子は、平面思想である。
神鬼を、語らずという、冷静さである。
それは、十分に、真っ当である。
しかし、日本にては、垂直思考により、それが、実行された。

簡単に言う。
孔子は、目に見える世界のみに、語る。
日本には、目に見えない、もののあわれ、という、情感がある。
カミの世界である。つまり、自然の核にある、恐れ多く、賢いもの。
畏れ多くも、畏くもである。
おそれおおくも、かしこくも。
畏れ、という、字は、畏敬である。

孔子の、徳は、日本にて、完成したといえる。

日本の道徳感情は、細々しく、相手のことを、思う行為にある。
その、根本は、もののあわれ、あはれ、という、感覚である。
つまり、極悪な、行為を犯す、罪意識というものではない。
ゆえに、罪を憎んで人を、憎まず、という、言葉が、出来たほどである。

人間は、罪を、犯すようなものではないという、根本的考え方があったのである。
もっと、言えば、欧米で言う、罪という意識はなかった。

日本で、ツミとは、恵みのものである。
海神、わだつみ、山神、やまつみ、とは、海の恵み、山の恵みである。
それを、カミと、称した。

これはついては、まだまだ、説明が必要である。

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2008年04月07日

神仏は妄想である 66

私たちが道徳的であるために神を必要とするということが、たとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単に望ましくなるだけのことにすぎない( 多くの人はこの違いがわからない) 。しかし、それはここで論じる問題ではない。私の想像上の宗教擁護者は、神様へのゴマすりが善行をおこなうための宗教的動機であることを認める必要をまったく感じなていないようである。むしろ彼の主張は、善人であることへの動機がどこから来るにせよ、神なしでは、何が善であるかを判断する基準が存在しないだろうということだ。私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができる。宗教のみにもとづく道徳原理( たとえば「黄金律」「あなたが人にしてもらいたいと思うようなことを人にもしてあげなさい」というように説く宗教上の教え) のように、しばしば宗教と結び付けられるが、ほかからも由来しうる原理に対立するものとして) は、絶対論的であるということができよう。善は善、悪は悪であり、特定の場合に、たとえば誰かが苦しむかどうかによって、判断に手間取ったりはしない。私の想像上の宗教擁護者ならば、宗教だけが、何か善であるかの根拠を提出することができると主張するだろ。
ドーキンス

哲学者は、神ではなく、人間の義務としての、道徳を考えた。
例えば、カントである。
「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)に従ってのみ行動せよ」

ところが、ドーキンスは、これにも、誤りがあると言う。

更に、読み進めると、宗教、特に、旧約聖書に基づく、道徳観念についての、検証は、見事である。
全く、道徳などない、逆に、人間の悪の様を見せ付ける、聖書の悪行、つまり、聖書の神の悪行を、炙り出すという。

一部の哲学者、とりわけカントは、非宗教的な源泉から絶対的道徳を導こうと試みた。彼自身は、その時代の人間にはほとんど避けがたいこととして、宗教的な人間であったが、道徳の根拠を、神のための義務ではなく義務のための義務に求めようと試みた。かれの有名な至上命令(定言命法)は、私たちに「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)にしたがってのみ行動せよ」と命じる。これは、たとえば嘘をつくという例についてはみごとにうまくいく。嘘をつくのが善いことで、しかも道徳的なことだとされていて、原則的に嘘をつくような人々から成る世界というものを想像してみてほしい。もしそのような世界があれば、嘘をつくことそのものが無意味になるだろう。嘘は、まさにその定義のゆえに、真実を仮定する必要がある。もし道徳的な原理というものが、すべての人間がそれに従うとみなしてよいものであれば、嘘をつくことは道徳上の原理になりえない。なぜなら、この原理そのものが意味を失い、機能しなくなるからである。
ドーキンス

カントも、キリスト教の、神絶対主義から、逃れられなかったといえる。
普遍的という言葉自体に、神観念が、まとわりつくのである。

義務のための義務という言葉も、おかしい。
義務を、宗教的絶対主義と、置き換えれば、宗教と、なんら変わらないのである。

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。・・・ドーキンス

日本の場合は、儒教が、最も道徳に対する観念となったが、それ以前を、みると、人の道ということで、おのずからなるもの、おのずから発するものと、なっている。
それは、自然を観て、自然の有様から、学んだ、生き方の方法である。
道徳は、自然から、自然発生的に、起こったものである。

仁義礼知忠信孝悌とは、人倫の道の、順番だった。
しかし、それは、儒教の言葉の世界である。

日本人には、それ以前に、自然の様から、たゆたう、という心的状態にある、思いに、人の道の有り様を学んだ。
つまり、絶対というもののない、状態である。
絶対という状態に陥ると、それを、穢れとして、清め祓いをしたのである。

いつも、事は、流れている、動いている。
ある場面では、善いことだが、違う場面では、悪しきことである。
臨機応変に、対応するという、たゆたう、心の状態を、善しとした。

そして、それの基準というものを、もののあわれ、というものに置いたゆえに、定義も、無い。言葉で、明確にすることもなかった。
ここが、欧米の思想との、最大の相違である。

倫理学者たちは、善悪について考えるということにかけては、プロである。ロバート・ハイドンが簡潔に述べているように、「道徳的教えは、かならずしも理性によって構築されているわけではないが、理性によって弁護できる」ということで、彼らのあいだの意見は一致している。彼らは自らをさまざまなやり方で分類するが、現代用語では、大別して「義務論者」(カントのような)と「帰結主義者」(ジェレミー・ベンサムのような「功利主義者」を含む)の二派があるようだ。義務論というのは、道徳が規則に従うことから構成されるとていう信念につけられた名である。それは文字通りには義務の科学という意味で、「縛りつけられたもの」を意味するギリシャ語に由来する。義務論は道徳絶対論とまったく同じものではないが、宗教について書かれた本では、その目的からしては、この区別にこだわる必要はほとんどない。それに対して、絶対的な善と悪、その正さが結果とまったくかかわりがない命令(義務)が存在すると考えるのが絶対論者だ。帰結主義は、より現実主義的に、一つの行為の道徳的性はその結果によって判断されるべきだと考える。帰結主義のバリエーションの一つが、ベンサム、彼の友人のジェヘムズ・ミル、およびその息子のジョン・スチュワート・ミルらが説いた功利主義である。功利主義はしばしば、「最大多数の最大幸福が道徳と法の基礎である」という、ベンサムの残念ながら不正確なキャッチフレーズに要約される。
ドーキンス


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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