2008年01月25日

神仏は妄想である 46

聖書にある証拠によって神を信じるように説得された人々がやはりいる。他の人をさしおいて、とくにC・S・ルイス(彼はもっとも知られてしかるべき人物である)によるものとされている、この手のよくある証明は、こう述べる。イエスは神の子であると主張していたのであるから、彼は正しいか、さもなければ精神異常か嘘つきである。「狂か、悪か、神か」である。あるいはもう少し下手な韻を踏めば「憑かれしか、偽りか、主なりしか」ということだ。イエスが何らかの種類の地位を宣言したという歴史的な証拠はごく小さなものである。しかし、たとえ、その証拠が有力なものであったとしても、こんな三者択一を強いるというのは、馬鹿馬鹿しいほどフェアではない。説明するまでもなく、ほとんどあまりにも明白な第四の可能性として、イエスは善意の勘違いをしていたというものもあるではないか。そういう勘違いをする人は大勢いる。いずれにせよ、すでに言ったように、イエスが自分が神であると考えていたことを示す、十分な歴史的証拠は存在しない。
神の存在を支持する論証 より

いずれ、聖書については、書き続ける。

19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものである。パウロの手紙よりも後であるが、この手紙には、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何一つとして触れられていない。すべてはその後に、多数の異なる「伝言ゲーム世代」を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大義をもち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されたものである。

しかし、なお、善良なキリスト教徒というものが、何故、存在するのか。
その数は、非常に少ないが、確実に、善良なクリスチャンという人が、いる。

後に、新約聖書などの、嘘について、書くが、彼らは、それを、聞いても、揺ぎ無い信仰を持って、キリスト信者を続けるだろう。
聖書が、嘘、嘘ではないという、問題ではなく、そのようなものを、信仰したという、願いにより、信仰を続けているのである。

そして、それは、実に、個人的な、情緒であるから、私は、否定することなく、受け入れることが出来る。
だが、そこに、非寛容で、排他的な、キリスト教徒ならば、牽制して、おかなければならない。何故なら、それを、人にも、強要しようとするからだ。

心穏やかで、柔和なキリスト信者というものもいる。
それは、ほとんど、キリストを信じるからというのではなく、生来の性質である。

神を信じて生きるという、生き方しか出来ない人もいるということを、私は、知っている。
それを取り上げると、どうして、生きていいのか、解らなくなるのである。
そういう人は、信仰を続けてゆくべきである。

しかし、だから、特別な人間ではない。
そうするしか、方法がないのである。

一番、手を焼くのは、選民意識を持つ、それらである。
私は、他の人と、違う。唯一の神を信じているという、傲慢な意識である。

クリスチャンに、非常に傲慢な者が、多いのは、その、選民意識のせいである。

どれほど、歴史的に、在り得ないという、証拠を見ても、頑固として、聖書の記述を信じるという根性は、生来の、頑固な根性であろう。

揺るがない信仰とは、頑固であり、非寛容であり、排他的であるということだ。

要するに、聖書の正しい、正しくないではない、ある、大物に、囚われてしまったのである。それを、私は、魔界関与と言う。
それは、旧約聖書の神や、アッラーの神を見れば、よく解る。
神もどきなのである。
つまり、神という、存在は、霊界に無いのであるが、神というものを、創造するのである。
それは、霊界の、ある箇所が、関与する。
魔界である。

魔界とは、便宜上の言い方である。何と、呼んでもいい。

彼らの言う、霊性というものを、十分に検証すると、解る。
また、聖人と、呼ばれる者たちの、霊性を見れば、解る。

ちなみに、聖書が、嘘であると解っても、聖書の言葉を肯定し、それを、元に、新しい宗教などを、拓く者も、同じである。
それを、見抜く、つまり、聖書が嘘であることを、見抜く力がないということである。
これで、聖書を引用する、新興宗教の嘘が、解る。

神を、イエスを、作り上げていった過程がある。
多くの人が、関与して、作り上げた。
それは、芸術活動のように、何世紀にも、渡り、続けられてきたものである。

カルトに似たグループが、書き続けてきたものである。

多くの宗教に言えるが、信仰は、知性を頑迷にし、感性を鈍らせる。そして、最後には、理性をも、捨てさせる。
何となれば、妄想の産物に、帰依する、お任せする等々の、耳障りの良い言葉で、篭絡するからである。
勿論、私は、心の安心というものも、それらよって、得られる場合もあるが、多くは、単なる勘違いであると言う。

人間の持つ、知性、感性、そして、理性を捨てて、信仰の道に入るということは、あまりにも、悲惨である。
だが、その悲惨を、喜び、しまいに、神に生かされて生きる、神により、生きるという、境地にまで、達するのである。
それが、妄想の産物なのであるが、本人は、その妄想の世界に遊ぶことになる。
まして、奇跡に近いようなことが、起こると、それは、さらに、拍車がかかり、もはや、手遅れになる。

日本の伝統である、古神道は、独り神という、考え方があり、人は、独り完成するものであるという。
本来は、人間は、そのような、存在であり、妄想の神や仏によって、何か成るということは、無いのである。

どうしても、何かによって、でなければ、満足しないという、無明が、心を支配するのである。

魔物の霊性に、取り込まれた信仰篤き人々を、救うことは、絶望的に、無理である。
何となれば、彼らは、信仰のために、死ぬという。
これほど、人間の心とは、頑なになり、手がつけられなくなるのである。
信仰という、名の元に、である。




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2008年01月26日

神仏は妄想である 47

新約聖書の、四福音書についての、誤り、嘘について、ドーキンスは、多くを語る。

その一つに、イエスが、ベトレヘムで、生まれたという、記述である。
ヨハネは、イエスが、ベトレヘムで生まれなかったことに、多くの人が、驚いたというが、マタイと、ルカは、ベトレヘムで、生まれたことになっている。

しかし、イエスが、そこに至った経緯は、違っている。
マタイは、イエスが生まれてから、ヘロメデ王と、罪無き子供たちの大量虐殺を逃れて、エジプトに移った帰りに、ナザレに移ったということになっている。
ルカは、マリアと、ヨゼフが、イエスの生まれる前に、ナザレに住んでいた。そして、予言を叶えるために、国勢調査のために、ベトレヘムという、ダビデの町に行くとなる。

実は、これは歴史的に、ナンセンスであると、ドーキンスは言う。
ダビデが、実在しているとすれば、一千年前の人物である。
いったい、何故、ローマ人は、一千年も前の先祖が、住んでいた町に、帰ることを、要求するだろうか、ということである。

また、ルカは、実に、軽率である。
国勢調査が、行われたのは、ヘロデ王が死んでから、ずっと後の、六世紀である。

ルカによる福音は、歴史的にありえず、内部矛盾しているとの、判断である。
要するに、物語なのである。
実に、崇高な物語である。

しかし世の中には、聖書が一から十まで本当だと思っている学識のないキリスト教徒がいっぱいいる。―――彼らは聖書を、実際に歴史の忠実で正確な記録であり、したがって彼らの宗教的信念を支持する証拠であると、まったく真剣に受け止めている。
ドーキンス

マタイが、イエスまで、28代をあいだに介しているのに対して、ルカは、41代であり、重複する名前が、ほとんどないのである。

いずれにせよ、もしイエスが処女から生まれたのであれば、ヨゼフの先祖などどいうでもよく、イエスのために、救世主はダビデの子孫であるにちがいないという「旧約聖書」の預言をかなえたくとも何の役にも立たない。
ドーキンス

要するに、信仰とは、学識も、歴史的事実も、どうでもいいのである。信じれば、事足りるのである。
つまり、騙されても、いいのである。それが、満足なのである。要するに、信じる物があれば、いい。
それも、十分に、心地よくなる、空間があり、夢み心地の、生ぬるい空気があれば、いいのである。
教会にいる時は、天使のようであり、外に出ると、鬼になれば、いいのである。
そういう、キリスト教徒を、私は、多く知っている。

小学四年の時に、世界の偉人伝の、イエス・キリストを読み、小学六年の時に、犬飼道子の、聖書物語を読み、私は、感動して、中学から、カトリック教会に通い、そして、15歳の年に、洗礼を受けた。
六年間ほど、熱心なキリスト教徒を、続けた。
その間には、学校で、学ぶことが、出来ないものを、多く、学んだ。
特に、西洋思想である。
そして、権威ある、世界的、権威ある、宗教の信者であることに、実に、満足していた。

そこで、他宗教を侮蔑していた。
救われない教えを、信じている者たちを、哀れんだ。
実に、真っ当な、クリスチャンであった。

しかし、神は、私に、真実を、お示しになった。?????

そんではないべーーー
おめえの、信じているものは、なんだのかーーー
も少し、考えて、みれーーーーーである。

まず、歴史である。
キリスト教が、何をしたのかである。
何を言うのかではなく、何をしたのかを、見れば、それは、明確にされる。

神の名においての、人殺しは、共産主義と、どっこいどっこい、である。

これほど、無慈悲に、人を殺すことが、できるという、驚きだった。

そして、日本の歴史である。
最初の、氏族争いは、何と、宗教戦争である。
蘇我氏と、物部氏である。

純粋な、戦いは、平家と源氏である。
戦国時代から、関が原の戦いに至るまで、宗教戦争ではないという、日本の歴史に、驚く。

西洋の戦争は、すべて、宗教戦争である。

ただ、日本にも、アホがいて、宗教にも、関わらず、武将に対抗した、浄土真宗、門徒の連中がいる。
親鸞も、真っ青であろう。
そんなことは、一言も、言っていないのだ。

それ以前は、僧兵という、組織である。
比叡山など。

何を言うのかではなく、何をしたのかを、見れば、それの姿が、解るのである。

信長が、比叡山焼き討ちをしたが、生ぬるかった。壊滅させて、良かったのである。
最も、仏教を堕落せしめた、天台宗である。

天台宗から、鎌倉仏教といわれる、新興宗教が、起こり、今に至るまで、害毒を、撒き散らし、さらに、その新宗教まで、起こっているのであり、それが、人心を惑わすのである。

死んで、成仏するという言葉は、実は、仏教のものではない。
日本は、元から、亡くなると、神になるという意味で、命、ミコトと、呼んだ。
それが、仏となるに、移行しただけである。
しかし、死んで仏に成るという、教えは、支離滅裂である。

仏陀は、輪廻転生を、離れて、仏になるというのであるから、全く、仏というものを、知らないのである。

西行の歌などにも、死ぬと、仏になるとあるから、すでに、死ぬと、仏だという、言い方が、当たり前だったのだろう。
つまり、日本の思想である。
仏教は、日本思想を離れて、日本仏教足りえない。
それなら、仏教の、教えなどいらない。

妄想で、出来上がった、仏教の教義など、いるわけがない。
仏陀の言葉さえあれば、いいのである。

つまり、何を言いたいのかと、言えば、各宗派の仏教は、いらない。
壊滅して、よし。

仏陀は、教義を説いたのではなく、生き方、その心得を、説いたのである。
妄想ではなく、地に足のついた、生き方である。
仏陀は、読経せよなど言わない。
葬式せよとも、言わない。

心、静かに、己を、見つめて、生きること。
我の主人は、我であることを、教えた。

仏陀は、私を奉れとは、一言も、言っていない。
己を信じ、真理の法を、拠り所とせよ、である。

大乗の教えとは、すべて、屁理屈である。
人の創作である。

さらに、文学であり、宗教ではない。

日本で、最初に、大乗に誤魔化されたのが、あの、聖徳太子と言われる、厩戸皇子である。
悪魔の法華経を講義したものだから、一族郎党皆、死に絶えた。
その血を、継ぐものは、いないのである。

私は言う。
一体、日本の仏教の開祖たちは、霊界の、どこに、いらっしゃるのでしょう。
信徒の一人も、それを、知らないという、悲惨である。
日本の伝統は、こうである。

心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真

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2008年01月27日

神仏は妄想である 48

正典とされる四つの福音書のどれにも収められているもののほとんどは、共通の資料、すなわち「マルコ福音書」か、さもなくば、現存する派生本のうちで最古のものが「マルコによる福音書」であるような失われた本のいずれかから採られている。この四人の福音伝道者がどんな人物であったかは誰にもわからないが、彼らが直接イエスに会ったことがないのはほとんど確実である。

おそらくイエスは実在したのだろうが、著名な聖書学者たちが一般に「新約聖書」(「旧約聖書」は明らかに無理だろうが)を、歴史上実際に起こったことの信頼すべき記録であるとみなしているわけではなく、したがって私はこれ以上、いかなる種類の神であれ、聖書をその証拠とはみなさないことにする。トマス・ジェファーソンが彼の後継者であるジョン・アダムズに宛てて書いた先見の明ある言葉によれば、「父たる至高の存在によって処女の子宮で生み出されたというイエスの謎に満ちた誕生が、ミネルヴァがユピテルの脳のなかでつくられたというのと同じ寓話として分類される日が、いつかやってくるだろう」。

ドーキンスは、ここで、はっきりと、いかなる種類の神であれ、聖書をその証拠とはみなさないことにする、と断言する。

つまり、人間の頭で、作られた神という、観念であると、断言するのである。

この書は、その名の通り、神は妄想である。で、ある。

ダン・ブラウンの小説「ダビンチ・コード」とそれからつくられた映画は、教会内のさまざまなグループに大きな論争を巻き起こした。キリスト教徒たちはこの映画をボイコットし、上映している映画館にピケを張るよう促された。「ダ・ヴィンチ・コード」は実際には初めから終わりまででっちあげられたもので、作り話、こしらえられたフィクションである。その点ではまさに福音書とそっくりである。「ダ・ビンチ・コード」と福音書のあいだの唯一のちがいは、福音書が大昔のフィクションで、「ダ・ビンチ・コード」が現代のフィクションであることだけだ。

キリスト教神学は、パウロによる。
パウロは、イエスの死後に、回心する。
そして、イエスを、伝道するのである。その手紙が、根拠となり、神学が生まれる。勿論、ギリシャ哲学が、その後押しをするのであるが。

そこから、膨大な、教義が、生まれる。
すべて、人間の頭の中で、出来上がった言葉の世界である。
決して、神が、創るものではない。

さて、何度も言うが、真実が、明らかにされても、キリスト教徒は、それを無視する。
作られたもの、創作であると知っても、信仰を持ち続ける。

何故か。
そのようにしか、生きられないからである。

根拠の無い、お話による、信仰でも、霊性云々という話を聞くのである。
だから、私は、魔界のものだと、言う。
ありもしないことからの、霊性など、あろうばずもない。

更に言う。
イエスが、現れて言った。
聖母マリアが、現れて言った。等々の、お話は、信じるに足りないのである。
つまり、イエスやマリアを、判断する、何の、客観的、方法が無い。
幻視や、幻聴、幻覚を、イエスだ、マリアだという人々、多数。

世界を敵に回すことになっても、言う。
マザーテレサに、現れたイエスが、本当のイエスだとは、誰も、解らない。
本人が、イエスと、判断しただけである。
更に、私は乾く、と言った。貧しい者を、救え、と言った。
それが、イエスの言葉であるとは、誰も、判断出来ないのである。

それが、悪霊の場合もある。
浮遊霊の場合もある。
どうして、イエスの言葉なのか。
それは、マザーテレサが、そう、思い込んだのである。

マザーテレサが、成したことを、否定するのではない。
だが、インドという、土地での行為である。
あの、魔界関与の、凄まじい、差別の地での、行為である。
インドは、世界的聖者を生む土地である。そして、何人もの、聖者が出ても、何にも変わらないという、現実である。
魔界関与のインドの、聖者は、当然、魔界関与である。
それほど、最悪の土地なのである。

マザーテレサの行為は、インドにて、何の影響も与えなかった。
ただ、世界のキリスト教、や、人を助けたいという人に、影響を与えた。
広く言えば、人道主義的行為である。

だが、彼女は、主イエスに対する祈りによって、それを、根拠とした。
つまり、人道的行為でも、彼女は、カトリック信徒としての、行為である。
神様のために、という、命題があった。

もし、彼女が、一人の人間として、教会から、離れての活動ならば、それは、あまりにも、世界に対して、多くの挑戦をしたことになるが、あくまでも、カトリック教徒としての、行動である。

それは、教会の広告塔以外の何物でもないという、結論に達するのである。

孤立無援の行動ではなかったのである。
巨大教団が、後ろ盾にあるという、曇りである。

もっと、具体的に言えば、日本の巨大信仰宗教を見る。
信者からの、莫大な金集めで、トップは、世界中から、顕彰を受けている。さらに、大学の名誉教授等々の称号である。
すべて、信者の金による。
それで信者たちは、得意になるという。

世界の精神的指導者など言われているが、その根拠は、信者の金による。
この、曇りを、よくよく見れば、信者は、騙されているのである。しかし、それに気づかないほど、知的能力に欠けている。

例えば、実在のナザレのイエスは、少なくても、孤立無援の活動をした。
ユダヤ教の中にあって、神の愛を、説いた。それは、殺されるに、等しい行為である。
それを、行ったことに、私は、感動する。

組織を作り、信者を増やして、教団を作るということに、興味を示さず、孤立無援で、行為した。
そこに、後に、人が妄想を逞しくする、教えが、潜んでいた。

人を平気で、殺すほどの、教義を生んだという、悲劇であるが、それほど、強い活動の様であったと、想像する。

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2008年01月28日

神仏は妄想である 49

宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることがないと、あらかじめ知っている。聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生み出される最終産物ではないのだ。聖典こそ真理であり、もし証拠がそれと矛盾するように思えるなら、捨て去るべきはその証拠であって、聖典ではない。それに対して、私が科学者として真実だと考えること(たとえば進化)は、聖典を読んだからではなく、証拠について調査・研究を行った上で、真実だとみなしているわけである。
神は妄想である。第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? より

ドーキンスは、謙虚である。
真実だとみなしているわけである。と、言う。
つまり、それが、覆された時には、それを、認めるということだ。

科学は、そのように、進んで、今まで、やってきた。
この、謙虚さがなければ、科学も、宗教と、同じになる。

証拠を捨てて、聖典を取るという行為は、単なる、拘りである。
つまり、拘りが、信仰である。

科学書がまちがっているときには、最後に誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。しかしそういうことは、聖典に関しては明らかに起こりえない。
ドーキンス

あるいは、新しい発見によって、聖典の解釈が、変わるということも、有り得る。しかし、聖典を、変えるということは、有り得ない。

どうしたって、都合の良いように、解釈する。
支配しやすいように、解釈すると、言う。
支配者という、権威ある者の、胸先三寸で、決まる。

私たちは、証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり、もし、それを反証するような新しい証拠が出されれば、一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりしないものだ。
ドーキンス

一晩で、放棄するという。
科学は、このような人々に、支えられて、進歩してきた。
それは、まさに、知性である。

私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく、信仰でもない。なぜなら、もししかるべき証拠が出現したとすれば、自分は心を変える。しかも喜んでそうするだろうということを知っている。
ドーキンスは、このように、何度も、繰り返し言う。
これ、知性と、言う。

犯罪事件の捜査が、原理主義だったら、捜査は、進まない。
兎に角、犯人は、あいつだと、決定する。そして、お前が、犯人に決まっていると、言うのである。暴挙であろう。
証拠が、出て、はじめて、犯人を特定するのである。

論より証拠、とは、諺であるが、実に、その通りである。

仏教では、無常観というものを、大切にするが、実に、それに従うことはない。
無常観とは、考え方も、やり方も、流転してゆくということである。
無常観を、単に、人間が年を取り、死んでゆくという、安易な、感覚だけで、捉えているとしたら、大きな間違いである。

この世は、変化しつづけるというのである。

この変化を、捉える目を、知性という。そして、それは、感性に支えられる。更に、理性が、それを、認識させる。

千年も、二千年も、同じであるはずがない。

ただ今は、更に、進化が進んでいる。

原理主義は、千年前も、二千年前も、同じだというのである。そんなことは、有り得ない。

理解しやすい、事柄で言えば、現代の葬式は、次第に、僧侶を呼ぶ事のない、友人葬や、宗教色をとったものになっている。
ここで、葬儀の歴史を書くスペースはねないが、葬儀というものも、変転しているのである。
無宗教の葬儀が多くなったことについて、宗教家は、手出し出来ないのである。

すでに、葬儀屋が、主導権を握り、勿論、商売であから、どんどんと、客のニーズに合わせるようになる。
嘘偽りの、戒名などという、アホな、形式などは、最早、見抜かれている。

伊勢に、出掛けた時に、タクシー運転手は、言った。
もう、神道で、葬式をする人が大半だと。つまり、仏教では、訳のわからないお金が、かかるばかりだと。
伊勢とは、伊勢神宮の町である。

祖霊社という、神社があり、そこが、葬式を仕切っている。

亡くなれば、すべて、命、ミコトと、呼ばれて、葬儀が行われる。
死後、得度、つまり、仏弟子というような、戒名など、いらない。ということである。

友人の知り合いが、母親の戒名料に、400万円と言われた。
長い名前である。
そんな名前で、呼ばれても、霊界入りした人は、反応しない。
誰の名前を呼んでいるのかと、思うだけである。
実に、馬鹿馬鹿しいことをする。

仏陀は、一言も、そのようなことを言わない。

何を根拠に、戒名など、つけるのか。
私は、戒名についての、書籍を何冊も、読んでみたが、全く、意味の無い、説明である。
つまり、仏教、それも、大乗仏教の、亜流の亜流の、原理主義的、説明である。
話にならない。

もっとも、簡単な説明は、死者に対する、礼儀である。死者の自覚を促すものである。
その程度で、いい。
それならば、いくらでも、方法はある。

生前は、仏教など、何も知らない人が、突然、死後、長い仏弟子の名前を、つけられても、反応しないばかりか、変な、仏教霊界などに、輸送されては、たまったものではない。

宗教の霊界は、この世と、あの世の、隙間にある世界で、実に、おどろおどろしい。

そんな、世界から、開放されて、エネルギー満ち溢れる霊界に、入るべきである。

霊界とは、次元の違いで、数学では、証明済みである。
次に、物理学、量子力学によって、解明される日が近い。

霊能者も、びっくりの、霊界証明が、科学でなされる。
皆々、いかに、偽者かが、解る。

そうすると、ずるい宗教家たちは、そうなると、そうです、そうです、それが、お釈迦様が、言っていたことですと、なる。
どうにも、手の付けられない、ヤクザたちである。


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2008年02月13日

神仏は妄想である 25

宗教は大いに必要とされる断絶を埋めるのだろうか?脳には、神によってつくられた満たされるべき隙間があるということがよく言われる。つまり、私たちは神―架空の友、父、兄、懺悔を聴いてくれる人間、秘密を打ち明けられる人間―を求める心理学的欲求をもち、神が実際に存在しようとしまいと、その欲求は満足させられなければならないというのだ。しかし神は、私たちがほかの何かで満たしたほうがいいような隙間をふさぐ邪魔物であるということはないのだろうか?隙間を埋めるべきものは何だろう? 科学?芸術?人間の友情?人道主義? 死後のあの世の人生を信じずに、この世の人生を愛すること?自然への愛、あるいは偉大な昆虫学者E・O・ウィルソンがバイオフィリアと呼んだものか。

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第10章より。

いつのころからか、宗教は人間の生活において四つの主要な役割、ちなわち説明、訓戒、慰め、霊感を満たすものと考えられてきた。歴史的には、宗教は私たちが存在する理由や私たちのいる宇宙の性質にかんする説明役たらんとしてきた。この役割は、現在では完全に科学に取って代わられおり、・・・・

メソポタミアで、星の観測をしていた、ゲイたちによって、占星術と、天文学が、生まれた。それが、歴史を経て、明確に区分けされた。
今では、占星術と、天文学は、同席しない。
唯一、心理学の分野において、ユングから始まるが、人間の心理に影響するものとして、一目、置かれている。
ユング研究所では、東洋の、易も、研究されて、身につける、学ぶことが、出来る。
共時性の法則を、確認するためである。

科学は、宗教の役割を、大幅におっているのが、現代である。
そして、それは、証明される。

天動説を主にしていた、カトリック教会も、地動説を唱えたガリレオを、許す以外になくなった。証明されたからだ。
そういう、事項は、多々ある。有り過ぎる程ある。

宗教が、掲げる教えは、すべて、人間の頭の中で、肥大化した、妄想を掲げてきた。
しかし、もう、その限界は、とうに、過ぎた。それでも、宗教が、こうして続いているというのは、何か。
単なる、惰性である。

宗教によって、潜在意識までも、占領され、略奪されたのである。そして、それが、集合意識までに至る。


ドーキンスは、アメリカの心理学者ジュンアン・ジェインズの、神々の沈黙を取り上げる。

ジェインズは、多くの人間が自分自身の思考過程を、頭のなかにおける「自己」ともう一人の主張者の一種の対話として知覚していると書いている。――もし、理解していなければ精神異常者として扱われる。これは、短期間ながら実際にイーヴリン・ウォーに起きたことだ。率直にものを言うたちのウォーは、友達にこう語った。「私はあなたに長いことお目にかかっていませんが、でもそのころは私はほとんど人に会っていなかったのです。なぜならーご存知だったでしょうか?――私は頭がおかしくなっていたのです」回復してのち、ウォーは小説「ギルバート・ビンフォールドの世界」を書いたが、この本は彼の幻覚期のことと、彼が聞いた声について書かれている。

人間は、幼児期に、現実のような、幻覚を見る。
それは、学童期まで、続く。
年を取るに従って、それが、消えるか、もしくは、見なくなる。

ドーキンスは、幼形進化という言葉を取り上げている。
それは、子供の形質が、成体に持ち込まれることである。

結論を言えば、精神の幼形進化が、宗教のもの、宗教の妄想を、支えると、私は、解釈した。

幼児期に思い描いた、人間ではないものを、成人してからも、精神に影響するということである。
それが、安らぎを与え、慰めを与えてくれる。
要するに、自分を褒めて、慰める、もう一人の自己であり、幼児期に、幻覚で見た、懐かしい、ある、物である。

私の知り合いに、二人程、幼児期の、それらの、記憶がある人がいる。

一人は、男であり、幼児期から、大柄な西洋人に似た男が、語り掛けるというものである。
もう一人は、女で、お風呂に入っている時に、排水溝から、小人たちが、数人上がってきて、会話したという。
忘れていた頃に、大柄な西洋人のような男が、再び、語り掛けてきたという。その時、彼は、人生の最大の危機、辛い苦しい時期を生きていた。
彼には、宗教は無い。

西行が、伊勢神宮に、お参りした時に、歌う。
なにごとの おわしますをば しらねども かたじめなさに なみだこぼるる

何事が、いるのか、解らないが、何かの存在感を感じて、有り難く、涙が出るというものである。
これは、精神の、幼形進化であろう。
それは、否定するなにものもない。

幼児期は、あらゆるものに、畏敬の念を起こすのである。
宗教体験というならば、それの、原型である。

これ、以上に私の言葉を書き進めると、情になってゆくので、ドーキンスに戻る。

いよいよ、神が私たちを慰めるさいに果たす重要な役割と、もし神がいないとすれば、何をその代わりにおくべきかという人道的な難題に直面するときだ。神などおそらく存在しないし、人は神がいなくとも道徳心を発揮するだろうと認める人は少なくないのに、それでもなお、これは奥の手だとばかり、「やっぱり人は神に対して、心理的・情緒的欲求をおぼえるものではないか」と反論される。もしあなたが宗教を取り上げるとしたなら、その空いた隙間を代わりに何でふさいでくれるのだろうと、食ってかかるのである。死にかけている両親に、身内に先立たれて泣いている人に、神がたった一人の友達だった孤独なエリーナー・リグビー(ビートルズの同題の曲で歌われている身寄りのない老婆で、架空の神父と会話する)たちに、代わりに何をあてがうというのか、と。

そう思わせておけと、人は言う。
それも、正しい。
幻想の中にいることは、幸せなことである。

痴呆という、状態は、完全に、我の中に入って、他は無いのである。
本人は、実に、幸せである。宗教を信じる者、それに、似る。
その程度で、いいのである。

ただ、困るのは、痴呆の人が、痴呆ではない人に、痴呆に、なれと強制する時である。それは、大変に、迷惑である。

布教、宣教、折伏という、宗教行為である。

一人で、遊んでいるうちは、何の問題も無い。しかし、それを、人にも、強制するようになると、穏やかではなくなる。まして、それが、正しいというのである。

誠の神の教えなど、どこにもない。
皆々、人間が、想像した、教えである。また、勘違い、妄想である。
例えば、理論的に、納得するような、神の教えであっても、人に強制するのは、完全に誤りである。

それは、人間の本来持つ、自由を侵害する行為であり、それこそ、大罪である。

何故、自分の信じる神仏を、人に、布教するのかは、信仰に、不安だからである。
信仰とは、完全、自己完結のものである。

自己完結していない人は、不安で、仲間を募ろうとする。それが、布教であり、宣教である。

イエスキリストは、地の果てまで行き、伝えよと言うが、あれは、創作である。イエスキリストは、そんなことを言っていないのである。
イエスキリストは、あくまでも、ユダヤ人に対する、神の教えを、説いたのである。
パウロの、教えが、地の果てまでである。故に、あれは、パウロ教団である。
現在の、キリスト教の大半は、パウロ教と言っていい。

パウロについては、いずれ書く。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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