2008年01月17日

神仏は妄想である 36

ニュージーランド/ オーストラリアで在住の科学哲学学者であるキム・ステレルニーが書いた、彼らの生活の劇的な対比を浮き彫りにする文章がある。一方でアボリジニは、生きる上での実践的な技量が極限まで試されるような条件下での、卓越した生き残り能力を持っている。しかしステレルニーはつづけて、ヒトという種は知能が高いかもしれないが、その知能の高さにはねじくれたところがあると言う。自然界とそのなかで生き延びる術にそれほどまでに精通している同じ人間が、同時に、明らかにまちがっていて、「役に立たない」という言葉でさえあまりに寛大で控え目に過ぎるような信仰に心を惑わされるのである。
・ ・・・・・
ステレルニーは、「私たちはいったいどうして、それほど賢明であると同時にそれほど愚かでいることができるのか」誰か説明してほしいと問いかける。
第5章 宗教の起源 より

近頃、ある友人の付き合いのある方が、亡くなった。
非常に、知的で、理性的な人だった、その男性は、最後の最後に、カトリックの洗礼を受けて、亡くなったという。

死の、恐怖からである。
何故、知能の高い、優れたヒトが、明らかに「役に立たない」という信仰に心を、惑わすのかというのは、脳内物質の、麻薬効果を求めるからである。
死を目の前にして、その恐怖から、逃れるべく、信仰という、迷いの中に入り込むことで、紛らわすのである。

それは、日常生活にも言える。
先行き不明である。誰も、明日のことを、知らない。考えれば、考えるほど、不安になり、明日を、恐怖する。
寄るべき心の在り処が無いのである。
それが、信仰への道になる。

安心立命という、この言葉で、どれほど多くの人が、迷いの信仰に入信したか。

私の友人のクリスチャンが言う。
ボランティア活動をしても、宗教が無い人は、基本的に、ボランティアを理解出来ないと。
それは、善行をしているという意識があり、善人であるという、立場での、行動となるというのだ。
彼女は、神のために、ということである。
マザーテレサも、「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
要するに、超越したものに、捧げる行為としての、ボランティア活動だから、良いというのだ。

天の国に、宝を積む行為をしているのであり、現世の宝ではないということである。
宗教の無い人は、現世での、行為の、報いを、その行為から得るというのだ。つまり、名誉であり、自己満足である。

宗教の無い人の、善行は、現世での、褒美を得るという意味で、意味の無いということになる。確かに、それは、一理ある。
自己満足の、奉仕活動ならば、自己のみに、その行為は、帰すのである。

だが、果たして、天に宝を積むという、行為と、無宗教の人の、善行に、違いがあるのかといえば、無い。
やることは、同じである。
受け取る側の問題になる。

相手の思いが、どうであれ、やってもらったことが、自分たちに必要なことであれば、いいのである。

行為する側の意味意識である。
それを、神に掛けるのである。
仏でも、いい。

実は、その方が、やりやすいのである。
神や仏の無い人の、善行は、実は、純粋無垢なものである。
それが、名誉であれ、自己満足であれ、相手にとっては、どうでもいいことだ。

させて、貰っているという、感覚になるという人もいる。
ボランティアによって、自分の方が、与えてもらうという、感覚である。
これは、知性の問題である。

要するに、宗教の如何に関わり無く、知性的な人は、その行為によって、何かを得るということである。その、得るものが、さらに知性を、磨くこと、感性を磨くことになるかもしれない。それで、いい。

さて、信仰は、脳内物質の、麻薬効果を生むということである。
人間の脳は、必要なものを、必要なだけ、出す能力がある。
ところが、それが、間に合わなくなるという、事態が起こる。その時、信仰という、得体の知れない、陶酔感を与えるものが、提示されると、陶酔するために、信仰を、掴む。

悩み、苦しみ、病苦にある人々などを、狙うには、訳がある。
もっとも、痛んでいる人を、狙うと、事は早いのである。

本来は、知性によって、超えるべきことを、棚に上げて、得体の知れない、信仰という、迷いに、身を投じる。
信仰の味を、一度しめてしまうと、そこから、逃れなれなくなる。
麻薬と、同じである。

そして、悪いことに、今度は、洗脳が始まる。
宗教指導者が、これが、唯一の教えであるというのである。
そして、その教えを、受け入れた人は、選ばれたのである。
次から次へと、快感を与えられる。
そして、見事に、知性を捨てて、安心立命を得るという、寸法である。

世界中で細部にちがいはあるものの、何らかの形の、時間を浪費し、敵意を呼び覚ます儀礼や、事実に反し、反生産的な宗教という幻想をもたない文化は一つも知られていない。教育を受けた一部の人間が宗教を棄てることがあるかもしれないが、すべての人間は宗教的な文化のなかで育てられるので、そこから離れるためにはふつう、意識的な決断をしなければならない。

宗教の大本は、自然への、脅威に、他ならない。
自然への、畏敬が、宗教、そして、信仰の発祥である。
古代人は、それを、太陽信仰に、高めたのである。

そして、男と女の存在である。さらに、性というものの、不思議である。
原始体験である。
生は、性であるという、事実。

自分の身にあるものであるが、その、性を、崇拝する。
世界中、至るところに、男根、女陰の、奉ずる跡がある。

そして、言葉の発見である。
それが、飛躍的に、人間を知性的に押し上げた。しかし、一方では、原始体験の意識が、見えないものへの、畏敬として、自然から離れた、物を、拝むようになる。
宗教の発生である。

そして、それは、支配につながるという、結論。
人の心の、恐れを、取り込んでの、宗教の発生は、指導者の、また、ものであった。支配するには、実に、理想的である。

現在の宗教指導者の、躁病的、メッセージを見れば、よく解る。
決して、後に引かない、プラス思考のメッセージを流し続けるのである。
その、幻想に、信者は、騙され、地獄の果てまで、着いて行くという、オチ。

北アイルランドの古いジョーク、「わかった。で、あんたはプロテスタントの無神論者なのか、それともカトリックの無神論者なのか? 」には、苦い真実が垂らされているのだ。宗教的な行動は、異性愛的な行動にせよ、普遍的とはいっても例外的な個体の存在を許さないわけではないが、そうした例外者はすべて、自分たちが離反したルールの存在をわかりすぎるくらいよく理解している。ある種に普遍的な特徴があれば、何らかのダーウィン主義的な説明が必要である。

明らかに、性行動のダーウィン主義的な利点を説明するのには何の困難もない。それは赤ん坊をつくるためであり、避妊や同性愛がそれに矛盾するように思える場合でさえ、そうなのである。しかし、宗教的行動は何のためだろう? なぜ人間は、断食し、跪き、ひれ伏し、自分を鞭打ち、壁に向かって熱狂的に首を振り、十字軍に加わり、あるいはその他の、人生を消費し、極端な場合には人生を終わらせてしまうかもしれない犠牲の大きな行いにふけるのだろう?

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。 第5章 宗教の起源 より

上記に、私は、答える。
自己の壮大な妄想に、身を投じるのである。
それは、死ぬまでの暇つぶしに、最もな、意味意識を与える。つまり、超越した絶対者を置くことで、妄想に、拍車をかけて、さらに、陶酔し、脳内物質の、麻薬効果を得るためである。
人間に与えられた、知性を捨てて、妄想に生きるのである。
馬鹿は死んでも、直らないのである。
ホント、お疲れさん、です。



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2008年01月18日

神仏は妄想である 37

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。その証拠は強力なものではないが、本当だとしても驚くにはあたらないだろう。というのは、まれに信仰治療が効くことがあるのと同じ理由で、そういうこともあるだろうからだ。しかし、わざわざ付け加える必要はないかもしれないが、そのような有益な効果があったところで、宗教的な主張がもつ真の価値をいささかも押し上げるものではない。ジョージ・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っ払いのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」
リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第5章 宗教の起源 より

日本の新興宗教、既成宗教も、奇跡のような話が好きである。
要するに、入信して、病が癒えたというものが多い。
勿論、実際は、癒える人より、死ぬ人の方が多い。

回復、全快という言葉が、大好きであるが、それは、一万人に一人、あるいは、十万人に一人とかの、レベルである。しかし、知能の普通の人は、それでも、信じるという。信じたいのである。

宗教関係の、新聞、雑誌を読むと、必ず、それを信じての、効果なるものが、挙げられる。
体験者の言葉である。
しかし、その裏では、全然効き目の無い人の方が多いのである。

要するに、宝くじを当てましたとか、健康食品を飲んで、良くなりましたという、程度と、同じであり、下手をすると、翌月は、ガン再発ということもある。

この、ブレスレットを付けると、幸運が、訪れる。という、程度である。
それが、宗教になると、さらに、オドロオドロしくなるのである。

カルトという、集団と変わらないのであるが、不思議なもので、カルトと、宗教とは、区分けられる。

一万人が集って、題目を上げるとなると、それは、気がおかしいということになるが、信じる人は、集えば、集うほど、安心する。
要するに、一人では、不安なのである。
皆、同じだと、思う、思いたい。そこにいるという、安心感である。
それを、また、宗教は、安心立命という。

そして、指導者は、躁病のように、檄を飛ばす。
勝って勝って、勝ちまくれ、であるから、実に、おかしなことになる。
要するに、宗教というものを、知らないのである。

今、宗教という、概念は、西洋思想からなる。
それは、一神教を元に、出来上がった、宗教という概念である。
実は、仏陀や、日本の古神道、その他、民族宗教と言われるものは、厳密に、西洋の宗教概念には、入らないのである。

宗教とは、一神教の、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に、言える概念であると、言う。

例えば、仏陀は、宗教を創設したのではないということは、仏陀の教えを、辿れば、わかる。仏陀は、生活指導、また、人生の生き方指導をしたのであり、宗教、つまり、絶対者を想定して、拝むことや、信仰することを、言うのではないということが、解る。

現在の日本の、仏教団体、その他、諸派の、新興宗教等々のいうところの、仏教は、仏陀のものではなく、創作したものである。
拝むという行為自体に、誤りがある。

仏陀は、行為によって成る者に成るという、考え方であり、一切の理屈は、言わない。
まして、霊的なお話や、教義、教学等という、チンケなことを、言うものでもない。

仏陀こそ、合理主義者であり、実践家であった。
例えば、鎌倉仏教という、新興宗教では、親鸞が、最も、それに近いが、しかし、思索に脱してしまった。
思い悩み過ぎた。
そして、簡単明瞭により、とんでもない、集団を作ってしまい、今は、後悔で、一杯であろう。その、組織は、宗教ヤクザとして、現在も、日本に君臨するのである。

その思索の帰路に、陶酔する者が多いが、単なる、ポーズの付け過ぎである。

思索は、思想にならない。
単に、迷いのものである。
だから、文学なのである。そうであれば、実に、納得する。
しかし、これ、宗教と言うと、大いに誤るし、宗教ではないはずである。

矢張り、生き方指導や、生き方、思索をすることを、促したと、見る方が、正しい。

宗教は、ストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬なのだろうか? そうかもしれない。ただし、そう主張したいなら、多くの状況において宗教がストレスを軽減するよりもむしろ引き起こすことを指摘する懐疑論者の異議申し立てをかわす必要がある。たとえば、ふつうの人間の弱さと、ふつう以下の知能しかもちあわせないローマ・カトリック教徒が、半永久的な病的罪悪感によって苛まれることで健康が改善されるというのは信じがたい。ひょっとしたら、カトリックだけを取り上げるのは公正ではないかもしれない。しかし、アメリカのコメディアンのキャーン・ランドマンが言う通り、「すべての宗教は同じ。宗教は、祭日はそれぞれちがうけれど、基本的に有罪」なのだ。

人間を支配する場合は、人間の弱さを支配すると、良い。
一番は、性欲である。
マスターベーションを禁止するキリスト教は、多い。
これは、とんでもない、暴挙であるが、そう教えられると、それに罪悪感を抱き、その度に、罪悪感に苛まれて、甚だしい場合は、ノイローゼになる。

こうして、支配するという、カラクリである。

仏教なども、徹底した、性欲セーブ教団であった。
しかし、今は、その反動か、徹底した、性欲旺盛集団になっているという、日本仏教であるから、何とも、お粗末である。

要するに、話に、ならないのである。

日本の、すべての、仏教団は、親鸞の、浄土真宗になってしまったのである。
つまり、僧の妻帯である。

すべての、宗派の開祖は、独身である。
一人身で、生きた。
しかし、今は、見る影も無い。

自分たちに、都合の良いように、いつでも、変更出来るという、宗教の、嘘偽りである。

すべてに、半人前であるが、言うことは、三人前であるから、手が付けられない。
仏陀は、言う。女の膣に、男根を入れてはならない、と。

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2008年01月19日

神仏は妄想である 38

ダーウィン主義者は、「宗教は支配階級が社会の底辺層を隷属させるための道具である」といった政治的な説明にも満足しない。アメリカにおける黒人奴隷が来世の約束によって慰められ、それがこの世における不満を鈍らせ、ゆえに奴隷所有者に利益がもたらされたというのはさっと事実だろう。宗教が老獪な司祭や支配者によって考案されたものかどうかというのは興味深い問いで、歴史家が注意を向けるべきものである。しかし、それ自体はダーウィン主義的な問いではない、ダーウィン主義者はさらに、人々はなぜ宗教の魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、その訳を知りたいと願う。

宗教の起源 より

タイの、東北部、ノーン・カーイ県、メーン・カーイという町の、ある、不思議な寺院を見学した。
敷地に、珍しい像が、立ち並ぶ。そして、本堂のような場所に行き、仏陀像を見た。その二階に上がり、多くの絵画を見て、驚いた。ヒンドゥー一色なのである。
下は、仏陀、上は、ヒンドゥーである。

そして、祈る人々である。

矢張り、他の寺院でも、多く、深く祈る人を見た。
勿論、私も、礼儀に従って、手をあせて、挨拶をした。

その時、何かに打たれたかのように、人は、何故祈るのかという、疑問に、心が占領された。
私も、祈る人間である。
だから、こそ、なおさら、何故、祈るのかという疑問は、大きかった。
しばし、私は、寺院の中に足を止めて、それを、考えた。

私は、10年ほど前から、太陽に、祈りを捧げる。

縁ある人々のために、祈る。
亡き人のために、祈る。

日本の伝統の、祈りとは、宣る、ことであり、それは、言葉にすること、すなわち、言葉が神であるという意識であるから、言葉自体に、力があり、言葉にすることは、成るということであるという、宣る、つまり、祈りなのである。
何か、祈る対象があるわけではない。
だから、像というものを、作らないできた、民族である。

仏教伝来から、仏像というものを、置いて祈るようになった。
伝統から見れば、邪道である。

さて、人は、何故、祈るのか。

ドーキンスは、人々はなぜ宗教に魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、そのわけを知りたいと願う。と、言う。

そして、また
老獪な支配者に利用されたものであるにせよ、あるいはたまたま自然発生的に現れただけのものにせよ、神を求める心を究極的に説明するものとは、いったい何なのだろう?
と、言う。

ここで、私の立場と、ドーキンスの立場を、明確にしておく。
彼は、科学者であり、ダーウィン主義の、自然淘汰を、支持して、神は妄想である、を、語る。
私は、人は、霊であるという、立場から、神仏は、妄想である。という、エッセイを書いている。

ドーキンスは、更に、論じて、その解明に取り組む。

私は、人が、神なるもの、超越した存在を求めるに、内なる、何かがあると、思っている。

例えば、人は、無意識にあるものを、知らない。ゆえに、何事かあると、思う。確かに、ある。しかし、その正体を知らない、ゆえに、それを、妄想の、神仏に転化するのであると。

また、この人生の、多くのストレスから、逃れるには、何かに、棚上げすると、気楽である。孤立無援で、自分の人生と、向き合うのは、しんどいのである。

勿論、中には、知性により、それを、超えて生きる人もいる。
また、逆に、厚顔無恥という形で、やり過ごす人もいる。

我が内に、何かあると、思うところに、仏性とか、神の子である意識などと、吹き込まれると、その気になるのである。

それは、ある種の催眠術である。
催眠術をかけられたまま、人生を終わることになり、更に、霊になってからも、その催眠に、気づかずにいる場合もある。

人間にある、霊性、つまり、無意識の意識を言う。それが、明確でないから、神仏というものに、転化、あるいは、置き換えて、祈る。

昔、ある人が亡くなった。
その人が、何と、自分の墓に向かって祈る姿を見て、仰天したことがある。
その人は、禅に興味を持ち、禅寺に通っていたこともある人だった。
自分で、自分の家の墓に、祈る姿である。

その時、これ、宗教の姿に似ると、思った。
つまり、自分で、自分に祈るのである。
本当は、それしか、方法が無いのかもしれない。

霊界入り出来ない、霊を、迷い霊、浮遊霊という。
中には、子供の霊もいる。
それらを、次元移動させるには、方便が必要である。
なんとなれば、霊は、想念の世界のみにあるからである。

延々と、遊び続ける子供の霊に、死んだことを告げて、死んだ人のいる世界に行くことを教える。
しかし、方法が解らない。
子供の、言う通りの世界を見せて、その場から、次元移動させる。

上記、私の妄想であると、されても、よし。

人は、何故祈るのか。
原始宗教体験である。
自然に対する、脅威は、いかばかりだったかを、想像するのは、至難の業である。
その潜在意識を、受け継いでいれば、当然、脅威を恐れと、感じる。
ユングの言う、集合意識に、それがある。
祈りは、ある種の、昇華である。
それが、集団になり、組織化され、その上に支配者がつき、更に、搾取が始まるのを、宗教と、呼ぶ。

人は、葦のように、弱い者である。
一人では、生きられない。本来ならば、共に生きる者に、祈りを捧げてよいものである。相棒に、祈りを捧げて生きるものである。
しかし、それが、出来ないでいる。
互いに向き合って祈る行為が、出来ないがゆえに、共に、並んで、祈りを捧げるという行為に、行き着いたのである。
その対象が、何であれ、それが、作法になった。

ドーキンスは、群淘汰論から、解き明かし、そこから、宗教は、何かの副産物ではないかと、解く。

このところますます多くの生物学者が、宗教はほかの何かの副産物であるとみなすようになっているが、私もそのうちの一人である。もっと一般的にいえば、ダーウィン主義的な生存価について憶測をめぐらすときには、「副産物を考える」必要があると私は思っている。何かについての生存価を問うとき、私たちはまちがった設問をしているかもしれない。その場合、問いをもう少し有益な形に書き直す必要がある。ひょっとしたら、私たちが関心を寄せている形質(宗教)は、それ自体直接の生存価をもっていないかもしれないが、生存価をもつ他の何かの副産物なのかもしれない。私自身の専門分野である動物行動学のアプローチを用いて、副産物説を紹介するのが有益ではないかと思う。

そこから、ガが、蝋燭の炎に飛び込む話が出る。それは、自殺ではなく、ガは、光に向かって飛ぶという習性を持つという。
蝋燭の炎を、月の光と、誤作動を起こすというものである。

宗教的な行動は、別の状態では有益な、あるいは有益だった。私たちの心理の性向の誤作動、不幸な副産物かもしれない。この見方では、私たちの先祖の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかったことになる。それは他の何かの利点をもっていたのであり、そして付随的にのみ、宗教的行動として姿を現すものだったのだ。私たちは宗教的な行動を、そのように名前を変えて呼ぶようになってからはじめて、理解することになるのだ。

更に、ドーキンスは、論述を展開させて、明晰に、語る。

ここに来て、私は、一つ、思うことがある。
信じてしまうと、その妄想から離れることが、出来なくなるという、性向を、人は、持つということである。

完全として、頑固になり、全く、他の説を受け付けなくなる。これは、自己防衛なのであろうか。
私が信じているのだから、正しいという、暴論になるのだ。

ここに、まさに、神仏は妄想である、という、エッセイを書く意味がある。

宗教は、真実を知ることを掲げて、その教えに、帰依させる。そして、それが、唯一正しい道、生き方であると解く。

一つの例を上げる。
韓国では、プロテスタントの布教が甚だしく盛んである。
旅先で、出会った、二人の若い女性は、熱心な、プロテスタント信者である。
彼女、曰く、私たちは、これから、聖書学を学び、マレーシアに、宣教に出るための、準備をしますと。
マレーシアである。イスラムの国である。
彼女たちの、指導者は、のうのうとして、最も危険な布教活動を彼女たちに、吹き込み、鼓舞させているのだろうが、冷静に、判断すると、アフガンに、ボランティアに出た、プロテスタントの信者たちのように、あまりにも、無知蒙昧である。

共に、一神教の者が、相対座すれば、必ず、殺し合いになる。

それを、韓国プロテスタントの、指導者は、知らないのか。

要するに、そういうことである。
一方的価値観のみに、囚われて、他の価値観を知らない者、その名を、宗教信者という。

だから、日本の普通の、おばさんが、イスラムを救うのは、涅槃経ですと、空いた口が塞がらないようなことを言う。
この、宗教の無知蒙昧と、無明、つまり、先行き、真っ暗であること、誰も、知らない。知ろうとしない。逆に、先行き、明るいと、信じ込むのである。

空海が、信者に、日没の太陽を凝視する、行法を行わせた。
その結果、信者は、帰り道、太陽の残像に、山道を転げ落ちるもの、山賊に襲われるもの、等々の被害が出て、それを、中止した。
光を見て、見えなくなってしまったのである。
宗教とは、そのような危険なものである。

実は、暗闇なのだが、信じてしまうと、光があると、思い込み、山道から、転げ落ちるのである。
転げ落ちても、更に、それが修行だ、進めと、躁病的な指導者は、号令をかける。

実に、あわれ、である。

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2008年01月20日

神仏は妄想である 39

コンピューターは言われたことをする。自分のプログラム言語で書かれた指令であれば、どんなものであれ奴隷のように従う。それこそコンピューターがワープロや表計算といった有益な仕事をするやり方である。しかし、逃れられない副産物として、コンピューターはまちがった指示に対しても同じように自動的にはたらいてしまう。ある指令が善い効果をもたらすか悪い効果をもたらすかを区別する術をもっていないからだ。
第5章 宗教の起源 より

上記の、解りやすい例により、ドーキンスは、副産物としての、宗教の解明を、進める。

善い悪いを、区別する術を持たない、コンピューターの宿命は、そのまま、人間心理の、ある部分を引き出すのである。

疑うことのない服従、という言い方を、ドーキンスは、するが、それは、そのまま、宗教信者に、言えることである。

一度、信じるという、プログラムが決定されると、勝手に、その深みに陥り、また、それを善しとして、信仰を続ける。
果ては、何にも動じないという、何と、不動の信仰というものを、打ち立てる。それを、また、本当の信仰と、思い込むという。

御心のままに、と、クリスチャンは、平然という。
そこには、深い信仰というものが、あるように、見えるが、実は、人生放棄の様も、見えるのである。
確かに、御心のままに、と言う姿勢に、何かしら、威厳めいたものを感じる場合もあるが、それは、勝手な、妄想である。

神との対話が、勝手な、一人相撲になっているという、真実である。

ただ、念仏する以外に、方法がないのである。と、聞けば、深い信仰の様に、見えるが、単に、人生放棄の様子になる、場合、多々あり。
開祖となる人が言えば、絵になるが、単なる信徒が、言えば、アホである。

人間は、そんな、単純なものではない。
その証拠に、それを言う親鸞は、考え過ぎて、思索の淵に沈みこんだ。
今も、思索の淵に、沈んでいるのかもしれない。

長年の、教義、教学というものを、学び続けて、プログラムされてゆくと、もう、元に戻ることが、出来なくなる。
思考方法が、一定で、そこから、複雑多岐に渡る、思考が、出来なくなる。

物思う言葉も、すべて、教義用語からなるという、絶望である。
つまり、人間の最も、素晴らしい、創造性という、エネルギーさえも、乗っ取られてしまうのである。

宗教を、文学という、芸術に、高めた人は、多い。それは、文学として、評価出来る。
例えば、岡本かの子という、作家の、仏教についての、書き物は、大変素晴らしい。
後に、それらを、検証するが、名文が、多い。

それらは、仏教というものに対して、創造性を持って、書くからである。
私の解釈というものを、創作するのである。
創作とは、創造であり、芸術活動である。
それならば、評価に値する。

しかし、多く信徒といわれる者は、皆々、プログラムされて、喜ぶのである。
それは、飼い馴らされるというである。
猿回しのようになることを、喜ぶから、宗教指導者は、たまらない。勝手に、喜び、金を運んでくる。
ゆえに、こんな商売は、止められません、となる。

もしこの頭の柔軟体操が功を奏したら、あなたはもう、子供と宗教に関する私の議論の行き着く先がおわかりだろう。自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。―――

心のウイルスとは、言いえて妙である。

読経の最初に、逢い難くして逢う経典は、幾千万億年も逢いがたくという、とてつもない、長い年月を言うが、中国で、訳されたことを思えば納得する。
実に、大げさである。
少し、白髪が伸びても、三千丈も伸びたというのであるから。

縁が無ければ、逢うことなくと、妙なことを言うのである。
それに、騙される。

若い頃、法華経を上げますと、日蓮宗系の、様々な宗派の人に言うと、あなたは、素晴らしい縁により、妙法蓮華経に逢ったのだと、言われた。
また、念仏宗系の宗教の人に、阿弥陀経をあげていますと、言えば、同じ事を言われる。

兎も角、一通りの、様々な宗教経典、それは、新興宗教も含むが、読みまくったのであるから、何とでも、言えた。
多くの相談者の中にも、宗教入信の相談があり、それにより、多くの知識を得た。

若い女性が、相談に来て、旦那が、私と子供を置いて、ある宗教の本部に行くとの、相談があり、当時、出来たばかりの、新しい教団であり、私も、迷いつつ、止めるのは、無理でしょうね、と答えた記憶がある。
宗教免疫の無い人が、続々と、入信する様を見た。
耳障りの良い言葉を、並び立てた、著書は、知能レベルの低い人には、実に、心地よいものだったのだ。

仏教、キリスト教の、焼き直したものであり、何も、目新しくないが、知らない者、没頭して、騙された。

教祖の霊能力により、急成長した、教団もあった。
最初は、仏陀の生まれ変わりであるという、教祖は、仏陀を書いた。
私は、仏陀は、生まれ変わらないから、仏になったと言われると、思ったが、兎に角、その人の著書を読んでいた。
そのうちに、仏陀というのは、誤りで、ゼウスの生まれ変わりであると、なった。
気づいたのであろう。
仏陀が、生まれ変わっては、おかしいと。
しかし、その後、魂の六人の兄弟という説を出して、それらが、順番に、この世に出て、修行する等々の、議論である。

どこの、レベルの霊界の情報であるかが、次第に知れてきた。

ゼウスの、生まれ変わりとは、これ如何にである。
ギリシャの神であり、人間もどきである。神もどきである。
何とも、はや・・・

その娘が、大天使ミカエルとなった。
カトリックが、認証した、大天使である。
天軍の総帥ということになっている。

信者には、続々と、西洋の偉人の生まれ変わりが出た。
不思議なことに、日本人がいない。
教祖は、古代語にて、呪文のようなものを、唱えて、前世を引き出すという、芸当をした。

あまりにも、やり過ぎたのであろう。予言通りに、教祖は、夭逝した。
案の定、その後、弟子たちが、分派して、小さな団体が多く出来た。

霊界の、ある世界が、関わると、簡単に出来ることであるが、人は知らない。故に、没頭した。

ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。―――彼らにとっては、どちらの忠告も同じように信用できそうに聞こえる。両方とも尊敬すべき情報源からのもので、その指示を尊重し、服従することを要求するような厳粛な真剣さをもって発せられるからだ。同じことが、世界に関する、宇宙に関する、道徳に関する、そして人間の本性に関する命題についても言える。そして、その子供が成長して自分の子供をもったとき、当然のごとくその一切合切―――ナンセンスなものも意味のあるものも同じようにーーーを、同じように感染力のある厳粛なやり方で自分の子供に伝える可能性は非常に高い。

簡単に言う。
信者になるということは、兵隊になるということで、兵隊になるということは、命令に絶対服従するということである。
それが、良い命令、悪い命令に関わらず。

死ぬと、解っても、命令が出ると、自爆テロを起こすのである。
特攻するのである。


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神仏は妄想である 40

宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は、進化心理学という、目下発展中の重要な分野から自然に生まれてくる。進化心理学者たちは、眼がものを見るために、そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように、脳は、一連の専門的なデーター処理の必要性に対処するための器官(モジュールと言ってよい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール、互恵的なやりとりを扱うモジュール、共感を扱うモジュール、等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつかが、たとえば、他人の心についての理論形成のためのモジュール、同盟を形成するためのモジュール、集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。
宗教の起源 より

さらに、物理学にても、ついに、次元の差があることを、突き止めようとしている。
ワープする宇宙という、本を書いた学者がいる。
東大にても、講演をしたというから、本格的である。

宗教が、負っていた、次元の違い、つまり、霊界の存在さえも、科学の手になる、時代に突入したといえる。
勿論、それにより、ついに、科学でも、証明される、霊界と、更に、宗教活動の、布教を旺盛にする、心霊宗教団体も、現れるだろうが、基本的に、それらと、違う。それらは、妄想の霊界のことを言うのであり、物理学の次元違いの、霊界のことではないのだ。

だが、ドーキンスは、少し違う。
続けてみると、

こうしたモジュールのいずれも、ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので、私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形での誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・プルーニは、子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは、本能的な二元論の副産物である。私たち人類、ことに子供は、生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。

二元論者は、物質と、精神の間に、区別をつける。
一元論者は、精神は物質、脳の中の物質の一つの表れで、物質と別に存在することは、ありえないと、考える。

それは、つまり、宗教は、二元論の、最たるものであるということだ。
簡単に言えば、肉体と、精神、あるいは、心、魂、霊、は、別物という、考え方である。
肉体に、魂が宿り、死後、肉体から抜けて、魂は、霊界に入る、という、考え方は、まさにそうである。

しかし、心霊と、宗教の違いは、教義によって、それが在る、無いということになる。
ドーキンスは、物質を離れて、精神、心というものは、在り得ないという。
それは、脳内物質であるというのだ。

二元論者は、ほんのわずかな機会でもとらえて、生命をもたない物理的な対象を人格化し、滝や雲にさえ、精霊や悪魔を見る。
ドーキンスは言う。

それは、つまり、子供の思考形態であるということだ。

日本の伝統、万葉集は、その、二元論の考え方で、溢れている。
だが、それは、宗教ではなく、文化であり、精神の芽生えの時期である。

生まれ変わりという、考え方も、つまりは、入れ替わりという、考え方である。
霊が、移り行くのである。
転生輪廻という、考え方にある。

ドーキンスの論述は、私の霊学にも、大きな影響を与えた。
つまり、転生するということの、説明は、実に難しいものである。
前世というものは、単純なものではないのだが、Aという、魂が、Bに、生まれ変わったと、簡単に言う。そんなものではない。
私の全人格が、すべて、生まれ変わるということは、在り得ないのだ。

だが、通俗的な、前世云々を言う者、そのように、単純に言うのである。

さらに、ドーキンスの分析は続き、
子供は生まれつきの目的論者であり、多くの人間は成長しても、そこから完全に抜け出ることはできない。
と、言う。

人間は、つまり、宗教的な観念を受け入れるための、生まれながらの、素地を持つということができる。
二元論、目的論とは、まさに、宗教の特徴である。

意味の無いものに、意味を。
その、想像力は、激しく、妄想的である。
そして、あらゆる事柄を、それに、神や仏に、結びつけて、考えることが、できるのである。完全に、やられて、しまう。

毎日新聞、2月19日の朝刊にて、アフガニスタンの国境地帯出身の、パキスタン有力者が、自爆テロの実行犯に、仕立て上げる秘密訓練所の、様子を話している。
アフガニスタン国境には、複数の秘密施設があり、現在、約400名の、若者が、訓練を受けているという。

武装組織は、貧しいが、信仰心の篤い家庭で、育った15から20歳までの、子供たちに、狙いを絞り、実行犯を、リクルートしているという。
司令官は、20歳以上だと、知識がついて、洗脳しにくい。また、生活に余裕があれば、信仰心も、揺らぐという。

その教えは、自爆の後は、永遠の命が、神から与えられ、食料にも困らない天国に行ける、と教える。

少年たちは、一ヶ月も、たたないうちに、自爆を志願するという。
指名されないと、泣き叫ぶ子供もいるという。

純真な、少年たちが、テロリストたちに、悪用されている。

しかし、これが、宗教の、最終の恐ろしさなのである。
このように、簡単に、自爆を志願するように、洗脳されるということである。

二元論とか、目的論と、言っているうちは、良いが、このように、テロ行為を、簡単に出来る人間に、仕立てられるということは、実に、恐ろしく、許しがたい。

命を懸けて、神や、仏を伝えるという、行動は、純真、純粋に見えるが、それが、洗脳だとしたら・・・

地下鉄サリン事件を、笑えるものではない、ということだ。
宗教の、本質を表して、しまったのである。
あれが、宗教の本体である。

どう、言い逃れしても、同じ、種から、出ているのである。

キリスト教の中には、私たちの教会は、カルト宗教ではありません、という、パンプレットを、配布するものがあるが、根は同じである。

宗教は、どんなに大きくなっても、カルトである。

危険な妄想に、毎日、浸り続けているのである。

宗教が平和と、イメージされるのは、策略である。
最も、平和に、遠いのが、宗教というものの、本質である。


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2008年01月21日

神仏は妄想である 41

ドーキンスは、二元論、目的論から、思考姿勢、デザイン姿勢と、論述を展開し、宗教が副産物であることを、裏付ける。
様々な形で、宗教の副産物であることを、提唱する面々を上げて、こう言う。

デネットによって言及されているとりわけ興味深い可能性は、宗教の不合理性は、脳に作られたある特定の不合理な、おそらく遺伝上の利点をもっていると思われるメカニズム、つまり、私たちの恋に落ちるという傾向の副産物だというものである。
宗教の起源 より

そして、実に、説得力ある、展開が繰り広げられる。
ただ今、私は、別のエッセイで、もののあわれについて、という、ものを書いている。
そこでは、日本民族の、伝統である、もののあわれ、という、情感は、恋によるものからだと、話を展開させている。
恋に生き、恋に死ぬこと、そこから得られる、心の様を、もののあわれ、の原点であることを、書いている。

万葉集は、恋の歌、相聞歌が、八割を占める。
宗教というもの、ではなく、日本民族が、恋により、その心の有り様を、作り上げていったということを、書いて、もののあわれというものを、表したいと思っている。

恋とは、原始人間の心的、体験である。

さて、ドーキンスの、論述を見る。

人類学者のヘレン・フィッシャーは、「ヒトはなぜ恋に落ちるのか」で、恋愛感情が狂気であり、厳密に必要だと思えるものに比べてどれほど行き過ぎたものであるかを、みごとに表現している。―――私たちが受け入れやすい熱狂的な一夫一妻制的愛よりもむしろ、ある種の「複数恋愛」のほうが、一見したところ合理的である。二人以上の子供、親、兄弟姉妹、教師、友人、あるいはペットを愛することができるというのは、問題なく受け入れられる。そのように考えていくとき、私たちが配偶者間の愛に全面的な排他性を期待するのは、どう考えても奇妙ではないだろうか? しかしそれが私たちの期待するのであり、理想として目指すものである。それには理由があるにちがない。

第5章の、宗教の起源の佳境に、入ってゆく。

配偶者の愛に全面的な排他性を期待する、という、部分に、私は、宗教そのものを、感じる。
日本の宗教人口は、実に、人口以上の人口であり、おそらく、一人が、複数の宗教に、入会しているのであろうと、推察できる。
万葉集の恋の、民族性が、それに、表されているようだ。

ヘレン・フィッシャーほかの研究者は、恋に落ちることに、その状態に高度に特異的で特徴的な神経活性物質(実際には自然の麻薬)の存在を含めて、独特な脳の状態がともなうことを示した。進化心理学者たちは、この不合理な一目惚れが、共同親たるパートナーに対する忠誠心を、子供を育てられるだけの長期間にわたって持続させるための一つのメカニズムになりえるのではないかという彼女の意見に賛成している。

恋により、自然の麻薬が、脳内から出る。
そうであるから、恋に生き、恋に死ぬことが、できるというものである。
恋は、盲目である。
恋は、病であるとも、言われた。

蓼食う虫も好き好きとは、恋の理解不能を言う。
どうして、あのヒト、あんなヒトを好きになったの、である。
恋は、止められない。

不合理な宗教が、もともとは恋に落ちるために自然淘汰によって形作られた不合理なメカニズムの副産物だということはありえるだろうか? 確かに、宗教を信じることは恋に落ちるのと同じ性質のものをもっている(そして両方とも、麻薬でハイになったときの属性の多くをもっている)。神経精神科医のジョン・スミーンズは、この二つの熱狂によって活性化される脳の領域には有意の差があると警告している。にもかかわらず、彼はいくつかの類似点をあげている。

つまり、
宗教がもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなちわ神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な強化の過程によって衝き動かされている。正の強化の多くは宗教に由来する。すなわち、危険な世界にありながら自分は愛され、保護させているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったとき祈りに応えて、山からやってくる助けといったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝時代には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生物学的な随伴現象をもっている。
と、言う。

祈りによって、そのような、現象を引き起こすことは、実に、多い。
たまたま、恋ではなく、信仰という、状態において、恋と、同じような、現象を引き起こす。
恋が、できない状態、あるいは、恋に縁が無い場合も、信仰に、没頭すること、多々あり。

恋が低俗で、信仰が、高尚であるとは、言えないのである。

誤作動、あるいは、転移とでも言う。
恋の激情を、宗教に向けるということは、実に、有り得るのだ。

徹底した、思い込みが、脳内に、麻薬をもたらし、一人それに、酔う。
神との合一とか、仏との、一体とか、瞑想による、恍惚感というもの、脳内の自然麻薬の、お蔭である。

麻薬撲滅を運動しても、いかに、取り締まろうが、無くならないのは、使用する人がいるということだ。
自分で、脳内麻薬を作れない人は、錠剤の麻薬に頼る。

恋により、麻薬を作られない人が、信仰によって、麻薬を作る。すると、止められない。そして、熱心な信徒として、その信仰に命を、捧げることになる。
勿論、個人の自由である。

しかし、何故、トーキンスが、神は妄想である、を書くのか。
それは、宗教を、強制されるからである。
自由であるべきはずの、個人的、極めて個人的な、情緒を、強制されるからである。そして、裁かれるからである。

支配者が、宗教を掲げて、人の自由を奪うからである。
そして、私は、更に、それらが、最も、平和的ではないからである。と言う。

一人で、行っているのならば、問題は無い。
インドのヨガ行者が、どんな、苦行でも、勝手に行っているうちは、いいが、それを、人に強制すれぱ、迷惑である。
まして、それが、真実であり、それに、従えと言われれば、また、実に迷惑である。

布教、宣教等々の、宗教の、伝播は、ありがた迷惑なのである。
だが、騙される人は、宗教に勧誘されたことを、感謝するというから、如何ともし難い。

麻薬は買うが、宗教は、布施、献金、という、搾取を持って、堂々と、金を集める。更に悪いことは、信徒の金を使い、指導者が、その、野心のため、個人的な、快楽のために、使用するという、呆れた行状をするということ。
快楽とは、欲望の云々ではない。
さらに、人を集わせるために、信徒の金を利用して、宗教の巨大化を図るという、馬鹿馬鹿しいことをする。

信徒は、自分の金で、大きな伽藍を建てる宗教を、誇るという、呆れた様である。
出した金で作られた、お札を、また、金を出して買うのである。

すべて、脳内の麻薬のためである。

ここでガの光コンパス反応に相当するのが、一人の異性、たった一人の人間とだけ恋に落ちるという、この一見不合理だが有益な習性である。脳のメカニズムの誤作動の副産物――ガがロウソクの炎に飛び込むに相当するーーは、ヤハゥェ(あるいは聖母マリア、あるいはホスチア、あるいはアラーの神)との恋に落ち、そのような愛に動機づけられた不合理な行動をおこなうことである。

ホスチヤとは、ミサにより、パンが変容して、キリストの体になると、信じられる、パンのことである。

私は、個人的に行うことに何の抵抗もない。
個人的、行為であるから、没頭すれば良いのだ。
マスターベーションを禁止するような、馬鹿なことを言うのではない。

それを、他人に、伝播させる行為に、危険を感じるのである。また、多くの戦争の種となるのである。
それでなければ、ならないという、断定的行為を、である。
マスターベーションを、多くの人とするという、狂いに、私は、驚愕するのである。


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2008年01月22日

神仏は妄想である 42

多神教から一神教への変化を、自明な進歩的改善としてあつかわなければならないという明確な理由はない。しかし広くそう認められている。この発展過程から、イブン・ワラック「(なぜ私はイスラム教でないか)の著者」はふざけて、一神教はやがて、もう一つの神を取り払って無神論になるべき運命にあるという推論をしてみせた。「カトリック百科事典」は、多神教と無神論を無頓着にいっしょくたにして退ける。「正式な狭義としての無神論は自己論駁的であり、事実問題として、多数の人間から理に適ったものとして賛同を得ることはけっしてなかった。多神教もまた、大衆の想像力をどれほどたやすくつかもうとも、哲学者の精神を満足させることはできない」
第2章 神がいるという仮説 より

多神教は、多くの差別を受けてきた。そして、現代に至るまで、差別を受けている。
それは、数として、一神教が多いからであるという、簡単な理由である。

一神教を奉じる国の、政府の政策も、一神教を優遇するという、方策がとられている。

ただ、多神教では、このような、理屈を言う者、多々あり。
多は、一にして、すべては、一つの働きである。それが、変化しているだけであると。

宗教は、なんとでも言う。何の根拠の無いものでも、教義として、立たせるのである。

ドーキンスも言う。
私がどうしても書きとどめておかずにはいられないもう一点は、宗教が、いかなる証拠ももたず、もつことができるはずもない細かな出来事について、なぜああも傲慢な口ぶりで断言できるのか、ということだ。ひょっとしたら、ほんのわずかに異なる意見をもつ人間に対して、とりわけ三位一体説というこの領域での異論に対して、独特の激しい敵意を引き起こすのは、哲学的な意見を支持するいかなる証拠も、いずれにせよ存在しないという、まさにその事実なのかもしれない。

トマス・ジェファーソンの言葉がある。
理解不能な提案に対する唯一の武器は冷笑である。観念に理性が働きかけることができるためには、まずそれが明確なものでなければならない。しかし三位一体については、明確な観念をもつ者は誰もいない。それは、自分をイエスの司祭だと称するペテン師たちの単なる呪文にすぎないのだ。

中世の、異端審判は、皇帝に、三位一体を承認させ、異端を徹底的に、殺したのである。
そして、一丁、出来上がったのが、カトリック教会である。
ドーキンスは、言う。
神学は蒙昧主義である。
さらに、
神学は、―――科学や、あるいは大部分の人文学の他の分野とちがってーーー17世紀で、止まっている、と。

信じる者は、信じ込むことで、自己完結するのである。
そして、信じていることは、単なる妄想や、根拠の無い観念である。

それ、すべての宗教に、言えるのである。
宗教的行為ではない。宗教である。

私が言う、宗教的行為とは、宗教のようにみえるが、長年の積み重ねによって成り立った、作法という意味である。
例えば、日本の場合は、新嘗祭などの、伝統行為である。
もっと、砕けると、秋祭りなどの、伝統行為である。
それは、宗教ではなく、宗教的行為である。
宗教という言葉に抵抗があるならば、伝統行為である。
私は、それを、実に、真っ当な感覚であると、観るものである。

先祖が、次第に、形を整えていった、作法を、伝統行為という。
伝統行為の中には、観念が無い。
ただ、伝える先祖の心があるのみ。

人間は、宗教がなくても、伝統行為で、生きられるのである。

ドーキンスは、後に、道徳というものも、宗教によるという考え方を、検証している。人は、宗教が、無ければ、道徳的になれないのかを、問う。

日本には、宗教という言葉が無かった。
最初、江戸幕府が、アメリカのペルーに使用した言葉は、宗門とか、宗旨という言葉だった。つまり、仏教のそれぞれの、宗派のことを言った。それが、どうも違うらしいということで、宗教という、訳が出来たが、実際、日本には、宗教という、観念は無い。
宗教学とは、欧米の一神教により成り、その宗教の概念での、宗教というものは、日本には無いのである。

宗教とは、観念を創作するものである。
それは、皆、人間の頭の中で、捏ね繰り回したものである。

私が、文学の方が、宗教より、勝っていると、考えるのは、文学は、いつも、迷いである。そして、それは、人間の、当たり前の姿である。だから、上等だと、思う。
宗教は、観念により、解決する。本当は、何も、解決していないのだが。

信じる者は、騙されて、観念の遊戯の中に、入れられ、搾取されて、喜ぶというものである。
哀れというしかない。

簡単に言う。
日本の仏教は、すべての宗派が、供養商売に、堕落して、のうのうとしている。
供養という、観念である。
勿論、最初の、供養という意味からは、遠く離れた観念である。

思い込みで、あたかも、それが、あるが如くの、妄想である。

例えば、私の手元に、多くの宗教の供養に関する本がある。
どれでもいいが、手を伸ばして取り上げたものが、立正佼成会という、法華経を信奉する、新興宗教のものがある。
実に、解りやすい、つまり、単純で、誰もが、理解できる、文章である。
それを、見る。

供養には、四つの意義があるという。
第一、 宇宙の大生命である、久遠実成の本仏に、いま現在こうして生かしていただいることに感謝申し上げることです。
第二は、宇宙の大生命を法則を解き明かし、人間の正しい生き方を教えてくださった釈迦に感謝し、その教えに帰依する真心を表白すること。
第三は、われわれを守護する、守護尊神に、心から感謝すること。
第四は、先祖代々の諸精霊を供養すること。
である。

そこで先祖供養の第一義は、こうして人間として存在させてくださることに感謝申し上げることであります。われわれがご宝前で読経し、そのご恩に感謝もうしあげるならば、霊界におられる先祖代々の諸精霊もそれを喜んでくださり、満足されることは間違いありません。そうした「感謝」と「満足」の交流は、必ず温かで美しい精神世界をかもし出します。それこそが先祖供養の根本義なのです。
ところが、無数ともいうべき先祖の諸精霊の中には不幸にしてまだ成仏できずに迷っておられる方があるはずです。供養によってそうした霊を成仏していただくことも、子孫にとって重大な務めであります。

上記、非常に解りやすい文章であり、信じれば、そうなるように、思えるが、実際、仏教の教義としては、支離滅裂である。

例えば、一つを言う。
成仏できずにいる、霊を、成仏させるという。全く、そんなことは、在り得ないのである。
成仏とは、その本人の問題であり、いかに、子孫が、読経しても、成仏など、あるわけがない。
仏になるとは、輪廻から、外れるということである。
何故、子孫の読経によって、仏になるのか。

成仏という言葉一つにしても、勝手な解釈、勝手な妄想であり、全く、何の根拠もない。
さらに、悪いのは、孝徳により、家運が栄えたり、問題が解決するというのである。
要するに、入会すれば、開運するということを言う。
そうして、入会して、良くなったという、体験を載せるのである。

通信販売の、広告のようなものである。
しかし、信じてしまうと、そのようになると、思えるから、愚かである。

一体、いつから、仏陀の教えが、このように、支離滅裂になってしまったのか、呆然とする。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、その何千倍、何万倍もいる。
すべての、先祖を供養するという、とんでもないことを、教えるのである。

笑うのは、仏教の最高権威のある、学者が、言うのでと、ある。何を持っての、権威なのか。
アカデミズムによる、権威を、権威というのか。

新興宗教の、まさに、支離滅裂さを、露呈しているのである。
勿論、知的レベルの低い人には、十分に通用するだろう。
また、何も知らない人には、である。
論外である。

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2008年01月23日

神仏は妄想である 44

多くの人は、自分が神のーーーあるいは天使や聖母のーーー姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的な体験をもつとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力がある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。

新興宗教系の、体験談に、そのようなものが、多々ある。
要するに、奇跡的なことである。

何も、普段は、考えなかったが、あることが、きっかけで、それは、多分に、辛い時、問題が起こる時、大きな悩みに遭遇した時である。
その時、その教えに出会い、開眼したというものである。
それらは、新興宗教の、雑誌に溢れている。

気づきである。
全く、そんなものを、信じていなかったという人に多い。
溢れる涙で、それを、感得したという、体験である。

すべてが、好転し始めたという。

心理学では、そういう時に、そういうモノに逢うように、自分が、仕向けることを、知っている。

気づきたいがために、自分で、準備するのである。
しかし、それを、神や仏の御蔭だと、信じるのである。
少しはがりの、知性があれば、そんなことはなど、無いのである。

聖典を唱えただけで、病が、癒えたという。
心理的効果であるが、神や仏の、せいにするという。
そして、その指導者である。
そこに、漬け込むのである。

あなたは、自分は直接の「神体験」があるとおっしゃいますか? 確かに、ピンクのゾウを見たという人はたまにいらっしゃるが、だからといってあなたは、別に何の感銘も受けないだろう。ヨークシャーの切り裂き魔、ピーター・サトクリフは、女性を殺すように告げるイエスの声をはっきり聞き、彼は終身刑に囚われることになった。ジュージ・W・ブッシュは神にイラクに侵略するように告げられたと言っている。(神が大量破壊兵器が存在しないという啓示を与えるほど親切ではなかつたのは残念である)。精神病院にいる人間は、自分がナポレオンや、チャールズ・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭のなかに吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受け取らない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くいないとこである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。神経生物学者のサム・ハリスが「信仰の終焉」で次のように書いたとしても、それほど過激に皮肉な言い方というわけではなかった。
神の存在を支持する論証 より

合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想的」・・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。だが、私たちの社会において、宇宙の創造主があなたの考えに耳を傾けることができると信じるのは正常であるとみなされるが、「雨音が寝室の窓を叩く音は、神がモールス信号で交信してきているのだ」と信じるのが精神の病の現れとされるのは、単なる歴史のめぐりあわせにすぎない。だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。

私は、いつも、奇跡を起こすものは、魔界関与であると言う。
私の、霊学である。

これさえも、ドーキンスに言わせると、
人間の脳は第一級のシュミレーション・ソフトウェアを走らせている。
と、言われるだろう。

信じるように、信念が導くのである。

宗教団体に、入会してから、どんどんと、事が、好転しましたという、体験談を、多く聞く。それは、また、そう言う人のみに、語らせるからだ。
何も、変化しない人は、それの、百倍、千倍いる。

病が、癒えても、人は、死ぬ。

先祖供養を、一生懸命にしても、いつも、うだつが上がらない人も、大勢いる。しかし、先祖供養で、良くなったという人が、一人でもいると、それは、大多数になるという、宗教の宣伝である。

何度も言うことだか、感謝と、報恩という行為を、宗教によってしか、得られない人は、実に、憐れである。
それは、知性と、感性によって、培われるべきものである。

後に、ドーキンスは、道徳についても、語る。
宗教によって、人間が道徳的になるのではないという、論証である。

神や仏によって、善なる行為をするという、考え方は、実に、偽善である。
知性と、感性により、そして、理性が、それを成す時、人間は、人間として、人間らしく生きるのである。
それは、人間の社会性である。
それは、人間の歴史である。

人間の霊性というものを、宗教によって、得るのではなく、知性と感性によって、得ることが、21世紀の、救いになる。
宗教では、最早、限界である。
何となれば、宗教という、枠では、新しい世紀を生き延びることが、できないからである。

科学と協調した、宗教観というものを、宗教は、決して、持つことが出来ないのである。
科学的ではない。科学である。

よく、仏教の教えが、科学を超えているという、アホなことを言う者がいるが、それは、事後予言と、同じなのである。
要するに、科学の成果に、こじつけているだけてである。

般若心経は、科学的であるというようなことを言う人がいるが、それは、般若心経の、言葉、それも、漢訳された言葉に、こじつけるのである。
それを、また、アホな人は、頷いて、有り難がるという、体である。

大乗の教えの宇宙観が、すでに、書かれているという、アホもいる。
違う。それは、科学が、それを、知ることが出来たゆえに、それに、こじつけて、説得しているだけである。大乗を、創作した者は、単に、妄想で、書いたのみである。
そう、実に、大げさな、表現である。

一ミリのものを、百メートルという、表現をするだけである。
それを、すでに、仏教では、知っていたという、言い方をするという、愚劣である。

事後予言といったが、それ以上でも、以下でもない。

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神仏は妄想である 43

「キリスト教はこれまで人類に投げかけられたもっとも倒錯した体系である」といったジェファーソンの意見は、理神論と合致するが、無神論とも合致する。同じことが聖職者主義に強固に反対したジェームズ・マディソンにも言える。「これまで十五世紀もの長きにわたって、キリスト教を法的に確立されたものにしようという試みがなされてきた。その結果、何か得られたか? あらゆる場所で、それは多かれ少なかれ、聖職者の傲慢と怠惰、信者の無知と隷属、そして両者における迷信、偏見、迫害をもたらした」。ベンジャミン・フランクリンの「灯台のほうが教会よりも役に立つ」やジョン・アダムズの「もし宗教さえなければ、この世界は、およそ考えられるあらゆる世界のなかで最善のものであっだろう」といった発言も同様である。アダムズは、とりわけキリスト教に対する驚くほど痛烈な非難をおこなっていた。「私が理解するかぎり、キリスト教は一つの啓示であったし、いまもそうである。しかし、ユダヤ教とキリスト教の啓示の合わせたものに無数の寓話、物語、伝説が混ざり込んで、これまで存在したかぎりもっとも血なまぐさい宗教になってしまうということが、いったいなぜ起こったのか? 」そして、一方ではジェファーソンに宛てた一通の手紙でこう書いている。「人の悲しみにつけこむという点で、人類の歴史がこれまでもちつづけてきたもっとも破滅的な実例のことーーー十字架、すなわちキリストの受難―――をほのめかそうとしているのだと考えるだけで、私はほとんど戦慄を覚える。悲しみという原動力の生みだしてきたものが、どれだけ悲惨な出来事であったかを考えてもみよ」。
第2章 神がいるという仮説 より

アメリカ建国の頃からの、政治家たちの、言動に多く、無神論があったことを、トーキンスは指摘しているが、現在は、驚くほど、宗教が、跋扈していることをいう。

さて、私は、別の面から、考察する。

アダムズの言葉にある、キリストの受難である。
これが、人類の罪を負うという、キリスト教の教義である。
勿論、勝手な、想像である。
しかし、それを、人に強制するという、傲慢である。

イエス・キリストは、そのようなことを言ったのかといえば、聖書に書かれていると、言う。その聖書は、誰が書いたのか。
イエス・キリストではない。
その死後、多くのセクトによって、編纂されたものである。
要するに、セクトの、書物である。それを、正典として、取り上げた教会が、勝手に、そこから、抜書きして、教義を作る。
それに、人類の罪を負ってとある。
それを、信じて、すべての人に、その教義を強制しようとする。

キリスト教の罪は、原罪である。
最初の人間である、アダムと、エバによる罪である。
それが、人類の原罪となったという、お話である。

それが、教会の洗礼によって、許されるというもの。
そして、なお、罪を犯しても、司祭の許しがあれば、許されるという、教義である。教義は、狂気になった。

カトリックに対して、プロテストが起こると、両者は、宗教戦争をはじめる。
しかし、プロテスタントが、出来上がると、続々と、新しいセクトが、出来て、新しい解釈から、新しい教義が、出来る。勿論、それも、狂気である。

人間が、考えることである。

人類の贖いのために、十字架につけられた、主イエスを信じることによって、永遠の命が、得られます、と、道端で、スピーカーから、流す者もいる。
主イエスが、人類の贖いのためにという、あまりにも、狂気の妄想に、取り付かれて、それを、押し付ける強制をはじめると、一神教は、血みどろの戦いに、突入する。

宗教が、政治システムを作り上げているゆえ、結果、国と国は、宗教により、対立するという、単純なカラクリである。

社会、共産主義というのも、宗教と、何ら変わらない。
根は、同じく、狂気の妄想である。

皆々、世界を、大混乱に陥れたい者である。

インド独立後に、国を出た、ネールの言葉。
インドおよびその他の土地で、宗教と呼ばれるもの、あるいはともかくも組織された宗教の偉容はあまりに恐ろしく、私はしばしばそれを非難し、すっかり掃き清めてしまいたいと願った。ほとんどつねに、それは、盲信、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取、および既得権の維持に味方するように思われた。

知性によって、それは、理解される。
そして、感性によって、行為される。
さらに、それらは、理性を元とする。
人間に添わったもの、それらがあれば、すべて解決する。
宗教により、何か、特別なものが、生まれる訳ではない。
それを、宗教によるという人は、勘違い、あるいは、単に知らないだけである。

善良な人とは、宗教に関係ないのである。
また、人類愛を行為する人もである。
それが、宗教により、成っているとしたら、間違いなく、純粋ではなく、宗教の毒がある。

人間の行為に、神や仏を、絡ませることはない。

神や仏が、いなければ、善が行えないというのならば、はじめから、その人には、善が、無いのだ。
子供に、ののさまの目があるから、悪いことをしては、いけませんと教える愚は、行ってはいけない。
何かの目があるからではない、知性と感性、それを、真っ当に行為させる、理性こそ、育てるべきものである。

ののさまの目があると、教える僧侶は、み仏の目があるにも、関わらず、どんなことをしているのか。
僧侶といっても、一般人と、何も変わらない生活をしているのではないか。
違うといえば、大嘘を言い、根拠無き、経典を読経して、金を得ると言うことである。
蒔きも、刈りも、捕ることも、作ることもせずに、のうのうとして、人から、搾取して、生活しているのである。それも、一般人より、十分に良い生活である。

私が、京都や、鎌倉という町を嫌うのは、そういう輩が多すぎるからだ。
鎌倉などは、昼間でも、幽霊屋敷のような、町である。あれほど、僧侶が、いるにも、関わらずである。信じられないのだ。

ネルーの言うとおりである。
それ以上の言葉は、無い。

信仰が無くても、祈る生活は出来る。
信仰が無くても、人間として、立派な人生が送れる。
一体、何をして、人に信仰を、求めさせるのか。私は、迷いであると言う。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月24日

神仏は妄想である 45

・ ・・ひとえに脳のシュミレーション・ソフトウェアのおそるべき力を実証したいがためだ。これには究極の迫真性をもった「幻視」や聖母の「出現」現象を引き起こす力がある。この精巧なソフトウェアにとって、幽霊、天使、あるいは聖母マリアをシュミレーションすることなど児戯に等しいだろう。・・・

・ ・・モデル構築というのは、人間の脳に非常に得意なことである。私たちが眠っているときのそれは夢と呼ばれている。目覚めているときのそれは想像と呼ばれ、異様に鮮明なときには幻覚と呼ばれる。・・・

・ ・・もし騙されやすい人であればーーーとくに、その人がたまたま若い女性で、カトリック教徒であればーーー聖母マリアを見たとか声を聞いたと主張する。そのような幻視や顕現「現象」は、幽霊あるいは天使、神、聖母マリアが実際にいると信じるに足りる適切な根拠にはなりえない。

神の存在を支持する論証 より

更に、付け加えることが、ある。
多分に、女性に多いのが、妄想の、幻視や、幻覚である。
注目されたいという、自己顕示欲の強い女に、多い。
自分には、幽霊が見える、霊の声が聞こえる等々の、特技を人に、喧伝する。
注目されると、今度は、人を、支配したくなり、あれやこれやと、妄想の、大半が、自己願望を、霊感であると、思い込み、人に、アドバイスをするという。

霊感師、霊能師といわれる、者の多くは、そうである。

一番、病んでいるのは、自分自身であるが、それに気づかないのである。

万が一、霊界の霊体が、出現したとして、それは、全く、別物である。
多くの心霊実験を通して、霊というものと、交信をするが、それは、明確に、その存在の根拠を提示する。
人間の妄想のような、あやふやなものではない。

例えば、何々の神が、降りたという人がいるが、その根拠はない。
霊の、あるいは、自分の願望の声を聞くのである。
それを、聞いたと、判断する。
また、万が一、その神なるものが、降りたとして、それを、客観的に、判断するものは、何一つ無い。
ただ、信じるのみである。
そして、信じるという行為は、誤る。

私も、多く霊体験をしているが、いつも、それは、妄想の一種であると、考えていた。
例えば、体が、揺れる、自分の部屋だけ、地震のようになる等々のことが、起こっても、それは、私の妄想の産物であると、対処してきた。
ただし、友人が、部屋に来た時に、霊の存在を感じて、ある実験をした時、その友人が、はっきりと、それを、認めた。その時は、霊の存在であると、確認した。つまり、友人という、第三者が、それを、確認したからである。

しかし、それも、催眠術のようなものとして、判断される場合もある。

日本には、太古から、審神、サニワと呼ぶ、霊を審判する者を、置いた。
冷静な、第三者の目である。
偽者か、本物かだけではなく、その霊の正体を鑑定する者である。

今なら、心理学者と、物理学者等を、それに当てると、良いと思う。

人間の、脳は、あらゆる処理に耐えられるのである。
また、心理学では、潜在意識による、幻視、幻覚を、十分に、考えられるのである。

更に言えば、霊に逢うということは、こちらも、霊になっているということである。
つまり、次元の違うものである。それに、逢うということは、こちらも、次元を合わせているということである。
通常の状態では、霊に逢うことは、在り得ないということになる。

また、複数の人間が、見たとしても、それは、信憑性に欠ける。
何となれば、共同幻想である場合が多い。
複数での、共同催眠の場合も、多々ある。
ただ、その知識がないゆえに、それを、霊的なことだと、勘違いする。

私は、多くの心霊現象に、立ち会ったが、多分に、暗示効果によるもので、強い願望が、それを、成す。

勿論、霊媒体質というものがあり、霊が懸る場合があるが、それは、その人の、心理的問題に、起因する場合多々あり。
霊媒に懸るということの、意味を知るべきなのだが、そのままに、される。

イギリスには、心霊学会のようなものがあるが、あれは、キリスト教を、ベースにして、霊界を判定するので、非常に偏りのある、霊界理解になる。

実は、日本は、霊に関しては、世界に冠たる、実績があるが、日本の場合は、アカデミズムといわれる、不毛な学者たちによって、すべて、否定されているゆえに、それが、表に出ることは少ない。

肉体には、微弱な電流が流れている。
それが、死亡することによって、無くなる。
無くなるのではなく、それが、霊体からのものであり、肉体を脱いで、霊体になるということである。

その霊の、場が、次元が違う世界であり、次元の違う世界のことを、語るには、限界がある。
霊界にも、超越した、存在は無い。つまり、神と呼ばれるような、超越した存在は無い。

霊の進化のみある。
便宜上、進化した、霊を神と、呼ぶ場合もあるが、それは、真っ当ではない。

日本では、成仏した、しないとの、言葉があるが、それは、実に、特殊な言い方である。
死んで、仏になるという、考え方は、平安期からのものであり、勿論、仏教のものであるが、死んで仏になるという、観念は、全く無い。

死んで、霊になるのであり、仏になるのではない。それは、観念である。
また、成仏出来ず、さ迷うという場合もあるが、それは、浮遊する霊であり、次元移動が、出来ていない霊である。

既成宗教から、新興宗教に至るまで、先祖供養を説くが、先祖を供養して、好転するのではなく、その心が、好転させるのである。
つまり、霊的存在を認めるという、点である。

神という、観念を置かなくても、先祖を供養しなくても、生きられる。
それは、生き方に掛かっている。
ただ、人は、生きられるようにしか、生きられない、という、前提がある。

これを、宿命と言う。

社会通念としての、道徳、倫理というものは、霊界に通用するのかと、言えば、よく解らない。
よく、悪は栄えると言われる。
その、悪とは、この世の、判定である。

霊界より見た場合は、社会通念の行為によって、悪とされる行為も、必要性を認める場合もある。

三次元は、ある次元の投影された、次元であるとも言われる。
科学としても、ある世界からの、投影が、この世であると、考える場合もある。

後に、ドーキンスが、宗教により、道徳が、成り立つのかというテーマについて、語る章を読むことにするが、宗教により、道徳というものが、起こるというのは、考えずらい。

私の、結論は、人間の知性と、感性によるものだと、言うが、更に、理性というものが、その生きる時代の、社会性により、自然発生するものだと、考えている。

最後は、古神道に置ける、天皇、スメラミトコの思想に行くつもりである。
日本の神観念に、救いがある。
日本の神観念とは、分配する者という、意識がある。
それは、手、タを結ぶもの。手を結ぶとは、人と人を結ぶ者である。
それを、カミと、呼んだ。

カミは、超越したものではなく、今、人々を繋ぎ、分配するものという、意味があることを、言う。

これは、すべて、大和言葉の解釈から、出る。

まだまだ、長くなりそうな、エッセイである。

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