2008年01月04日

神仏は妄想である 23

宗教は「反合理主義」の場に逃げ込んだのだが、それは決して宗教の衰退を意味しなかった。はじめのうちこそ(18世紀から1960年ころまで)、「最高知」の王座を追われた宗教はぐんぐんと衰退していくように見えたが、うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。近代社会がそういう逃げ場を必要としているからである。近代合理主義の「知」は、その対立物としての「宗教」をかえって必要としたのである。近代合理主義がつきつめられればつきつめられるほど、それでは覆い切れない人間性が痛みはじめる。だから「逃げ場」の価値が高まる。

これは、特に欧米、そして、日本などの先進国に言える。
後進国、東南アジアなどの、宗教は、そうではなかった。
貧しさゆえの、伝統的行為としての、宗教であり、それによって、生活に救いが、見出せた。
富める者が、痛むのであった。貧しい者は、痛みを感じない。すでに、貧しいという、無意識の痛みを感じているからだ。

何を言いたいのかといえば、豊かさによって、人は、満足しないものであるということだ。
合理主義がつきつめられればと、田川氏が言う。
それは、先進国の富める人々のことである。

今日、明日の、食う、寝る、という、生活の中にある人々は、近代合理主義から、逃れていたというか、捨て置かれていた。

合理主義の、人間性を無視する、進み方に、人は、反合理主義の、宗教に、心のある場所を、許した。そうでなければ、皆々、精神病に陥る。
かろうじて、宗教という、妄想に身を委ねて、誤魔化すのである。

そして、その「逃げ場」がうまく温存される方が、近代合理主義も安心していられる。合理主義では割り切ることのできない領域には、合理主義は手をつけませんよ、というたてまえ上の保障を与えることによって、ほかのすべての領域では近代合理主義は横暴をきわめて暴れまわることができた。宗教の方も、「人間性の深み」という架空の領域を確保してもらうことによって、自分たちは、近代合理主義の横暴がその分を越えて「人間性の深み」にまで踏み込まないように監視しているのだぞ、という自負心を持つことができた。

巨大企業と、手を結ぶ宗教であると、思えばよい。
国家が、宗教を保護するのは、国民の、ストレス、苛立ち、激しい国家政策への不満を、分散して解消するために、ある、と言う、賢い者がいる。
人間性の深み、という、架空の領域を確保して、という、田川氏の見識は、正しい。
宗教を、人間性の深みとして、容認する、ずるい、大企業であると、思えばよい。

ところが、架空の領域を、許された、宗教が、何を勘違いしたのか、その気になって、布教、伝道をして、他の精神世界を、犯すという、過ちを繰り返すのである。

布教、伝道、折伏等々の、宗教的行為は、その、潜在意識が、不安と、恐れに満ち満ちていることを、知らないゆえのものである。
つまり、架空のもの、妄想を、一つでも、多くの人と、分かち合いたいと思うもの。

信仰とは、自己完結の、何ものでもない。
自己完結出来ない不安と、恐れを持つ人が、他の精神世界を犯しても、自分たちの、妄想の神を、伝えるという、行為に、おいて、少しの安心を得るという図である。

世界に広がる、何々宗と、喧伝して、安心するという様である。
教祖をはじめとして、そう思い込む。
教えが広がる、イコール、正しい信仰、正しい宗教と、思い込み、安心する。

教えが広がる程、魔的な、集団だとは、思わないのである。

隠れておいでになる、神を、喧伝するという、愚かしさ。

仏教国タイにおいての、プロテスタント等の、キリスト教の、布教などをみても、笑う。
まして、日本の偽仏教の、さらに、その亜流の新宗教などが、信者を獲得するために、布教する様は、滑稽を通り越して、悲劇である。

現地在留日本人を信者にして、更に、現地人を、信者に、獲得しようとする様、実に、見苦しい。

一神教のキリスト教などは、混乱を撒き散らすのである。
手のつけられない、アホな手法を持って、タイの若者を、騙すのである。
キリスト教の神以外の、神や、仏は、悪魔からのものであると、平然として教える。勿論、悪魔は、自分の方である。

キリスト教については、後で、徹底的に書く。

さて、田川氏の、文を続ける。

ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのという「優秀な」自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、持ち上げる発言を繰り返した理由はそこにある。

そこととは、
近代合理主義の克服という課題そのものが虚妄なのではない。その看板を宗教に担わせたから、かえって、克服されるべきものと克服の課題であるはずのものが助けあって共存しはじめたのである。

本当のところ、近代合理主義で割り切ることのできる領域と、そうではない宗教的な「人間性の深み」の領域とを、分けることなどできはしない。人間にかかわるいかなる領域であろうと、「合理主義」で割り切り、ぶった切ってよい、などということはありえない。そういうことをしてよい領域は、一点たりとも存在しないのである。だから、そのように領域を分けることができると思ったこと自体が、大きな虚妄だったのである。そして、近代合理主義の側が実を取り、宗教が虚についた。

学者で、このような、明晰な分析をする人かいることが、救いである。

学者というものは、どちらかの、太鼓持ちになるのである。
決して、危険な発言はしない。
金にならないからである。
要するに、堕落している。勿論、堕落しているなどとは、思わない。だから、救いようがない。

田川氏の、論文は、宗教を越えるもの、である。

今こそ、知性を、総動員して、宗教を超えなければ、先が無い。

この、妄想を越えなければ、超えるともいう、そうしなければ、新世紀を生きられないのである。
その最大の、事は、戦争の虚である。
宗教とは、戦争の理由に、他ならないのである。

戦争反対を掲げるならば、宗教と、それに準ずる、イデオロギー、主義を、徹底検証しなければ、ならない。
それらは、虚であり、虚妄であり、妄想だからである。

人間を幸せにする、主義は、未だかって、現れていない。
民主も、社会も、共産主義も、支配者のためのもの。

人間を幸せにするものとは、食って、寝ることが、出来るということである。
それが、安心して、成るということである。
すべの、国で、である。
勿論、これは、私の祈りである。





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2008年01月07日

神仏は妄想である 26

宗教が慰めをもたらすからといって、宗教が正しいということにはならない。たとえ、どれだけ大きな譲歩をしたとしても、たとえ、神を信じることが人間の心理的・情緒的幸福のために絶対不可欠なものであることが決定的に実証されたとしても、たとえ、すべての無神論者は情け容赦なく、果てしなくつづく苦悩によって神経症に苛まれ、自殺に追い込まれるとしても---これらのどれ一つとして、宗教上の信念が正しいということを証拠立てる上で、毛ほどの役にも立つまい。ただし、神がたとえ存在しなくとも、存在すると確信するのが望ましいということを証拠立てる上では有益かもしれない。

存在するのが望ましいということを証拠立てる上では、有益、かも知れないという。
ドーキンスの場合は、主に、一神教の世界の神に対しての、語りである。

例えば、仏陀の教えは、人は、成仏できるという、人間の存在によって成る、仏であることを言う。
勿論、大乗仏教になると、一神教のような、教えを帯びて、仏、如来、というものが、神のように扱われる。

対立するもの、神として、崇める、拝むという行為は、原始体験である。
それを、原始宗教体験といって、よいのか、どうかは、躊躇うところだが。

人類の集合意識にある、畏敬の思い。それは、多く、自然対する思いである。
例えば、太陽信仰、水、風、そして、火の発見によって得た、火に対する畏敬などである。
集合意識は、潜在意識の中で、宗教的なものを、神なるものを、求めさせているとも、考えられる。

だが、仏陀の場合は、唯一、そういう意識ではなく、私が、完成したものになるという、考え方である。
何かに、帰依するという意識は、本来ないものである。
しかし、大乗仏教の多くは、帰依を説く。あるいは、信仰を説く。

仏陀の臨終の言葉は、わが身を頼み、真理の法を拠りどころとせよ、である。

とすれば、信仰を説く仏教は、仏陀の教えではないということになる。
つまり、特に、日本のような、大乗経典を主にする、仏教とは、仏陀と、何の関わりも無いのである。


要するに、「主よ、私は信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコによる福音第九章二十四節)である。信徒は、確信していようといまいと、信仰を告白することを勧められる。ひょっとしたら、同じことを十分なだけ繰り返せば、それが真実であると自分自身を確信させることだってできるかもしれない。宗教上の信仰というものには好意的で、それを攻撃する者にかみついたりするくせに、自分ではそんなものをもちあわせない人というのがいることを、私たちはよく知っている。

この前の、文には、
信仰を信じるとは、たとえその信仰自体は誤りでも、それを信じることが望ましければ信じる、という態度だ。
と、ある。

さらに、神を信じることと、信仰を信じることの区別という、言葉もある。

彼らは信仰を信じているのだ。「Xは真実である」と「人々がXは真実であると信じるのが望ましい」のあいだのちがいがわからないらしい人があまりにも多いのは驚くべきことである。あるいはひょっとしたら、彼らはこの論理的誤りに実際に騙されてはいないのだが、単純に、人間の感情に比べれば真実など重要ではないとみなしているのだろうか。人間の感情を非難したいとは思わない。しかし、はっきりさせておきたいのは、私たちが何について語っているのかということである。感情についてなのか真実についてなのか。両方とも重要かもしれないが、この二つは同じものではない。

ドーキンスは、実に饒舌に、噛み砕いて、説明している。それほど、彼は、神が妄想であることを、いいたいのである。

私は、この書の、最初に戻り、ドーキンスと一緒に、聖書の神、旧約の神について、徹底的に、書くことにする。

神は、真実である、と、信じることが、望ましいのか、真実なのかという、問いかけは、皆に、冷静さを、呼びかけているように、思われる。

一度、妄想の網に、引っかかった者は、そこから、抜け斬ることは、難しい。何となれば、一つの神を捨てると、新しい神を、拝みたくなるのである。

ある、新宗教の、集会に行き、一人の男が、信仰宣言のような話をした。
曰く、天理教にも、行った。立正佼成会にも、行った。あちらにも、こちらにも、行った。しかし、救われなかった。何も、良いことがなかった。
こちらに来て、やっと、本当のものに、出会い、人生が変わった。と、言うのである。

それは、単に、時間の問題であろうと、思うが、信仰という、網の中に入った、彼には、最早、囚われの身となり、思考停止の状態になってしまったのである。

カトリックから、改宗しても、信仰を止めない夫婦を、知っている。
新・新宗教の元に、駆けつけているのである。どうしても、信じるモノが、欲しいのである。
何かを、拝みたくて、しようがないのだ。
そして、拝む対象が、空想なのであるから、救いようがない。

無神論者が、不幸で、不安にかられ落胆に向かう何らかの一般的傾向をもつという証拠が存在しないのを私は知っている。幸福な無神論者はいるし、惨めな人もいる。同じように、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒のなかにも惨めな人もいるし、幸福な人もいる。幸福と信仰(あるいは幸福と不信心)のあいだに相関があることを裏付ける統計的な証拠が存在するかもしれないが、どっち向きにであれ、それが強い影響をもつというのは疑わしいのではないだろうか。それを言うなら、神と無縁な生活を送ったら気が滅入るべき何らかの理由があるのか、こう問うほうがもっとも興味深いと思う。私は逆に、控え目に言っても、超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることができるという主張をもって、本書を締めくくるつもりである。

宗教とは、基本的に、迷いである。
迷いの中にて、救いがあると、勘違いするという、性質を人間が持つということだ。
それが、人間の、本質である。

自己完結をして、泰然としていれば、神仏は、必要ない。
たとえ、神仏が、存在するとしても、私が、認証しなければ、神仏は、全く関係ない存在なのである。

何せ、神仏という、次元と、質が違う世界なのである。

隣にいても、関係ないのである。

それは、無いことと、同じである。


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2008年01月08日

神仏は妄想である 27

リチャード・ドーキンス
神は妄想である。
第四章 ほとんど確実に神が存在しない理由、より。

ダーウィン主義を深く理解することで私たちは、設計が偶然の唯一の代案であるという安易な決めつけに走ることなく、ゆっくりと複雑さを増大させていくような斬新的な斜路を探すことを学ぶ。

彼は、科学者として、多くの言葉を用いて、ダーウィンの進化論についてを、語る。
そして、その、人間の好奇心というものから、宗教の誤りを説く。
つまり、好奇心は、宗教の概念をこえるのである。

私たちは自分が暮らしている北半球優越主義が無意識のうちにあまりにも深く染み込んでおり、場合によっては北半球在住でない人間さえ、それはいきわたっている。

要するに、オーストラリア、ニュージーランドの地図は、南極が上にあるものであるという。上は、北極であるという、北半球の人間の無意識を、取り上げている。
「無意識」こそ、意識の高揚がなされる領域という。
面白いのは、言葉である。
男性名詞、女性名詞などの言葉で、歴史を見ると、そこには、男性名詞のみが、まかり通っている。
人間という時、それは、男性を指すのである。
そこから、ドーキンスは、話を展開させる。

意識を高めることの効果をフェミニズムが示してくれたので、私はその手法を、自然淘汰にも借用してみたい。自然淘汰は生命のすべてを説明するだけはなく、「組織化された複雑さが、いかなる意識的な導きもなしでどのようにして単純な発端から生じるか」を説明できるのだが、その意味では、科学に対する私たちの意識も高めてくれる。

ドーキンスの、利己的な遺伝子を読んで、無神論に転向した、ダグラス・アダムズの言葉が、印象的だ。

それが私の心にかきたてた畏怖の念は、正直に言って、宗教的な体験に敬意を表して語る人々の畏怖の念など比べるのも馬鹿馬鹿しく思えるほどのものでした。それ以来、どんなときでも私は、無知ゆえに畏怖することよりは、理解ゆえに畏怖することを選択してきました。

科学者の冷静さというものを、私は、尊敬する。
科学者の好奇心によって、どれほどの、無知蒙昧が、解明されたかは、計り知れない。
ただ、誤っては、いけないのは、素人たちが、使う、科学的という言葉である。
私も、含めて、科学的という言葉を使う時、それは、科学を知らないが、科学であるようなものという意識で、科学的という。
それで、多くの人が、騙される。

科学的に、実証されましたという、宣伝文句を、どれだけ、聞いたことか。
それに、準じて、医学的という言葉もある。
その知識、無知ゆえに、科学的とか、医学的という言葉に、安心を求めるのである。

それは、宗教家の、意識と、変わらない。

そして、科学的ということで、一件落着し、終わる。
宗教家も、最後に、神や仏で終わる。
しかし、科学者は、無限の可能性、終わらない、好奇心に支えられて、進む。

科学で無限に知る可能性を、知る、ということは、人間に、無限の可能性を観るということだ。

私は、すべてに、おいて、素人である。
ゆえに、私のエッセイで、解決せずに、これを、機会に、どんどんと、知識の海へ出ることである。

宗教家の限界は、聖アグスチヌスの言葉に表れている。

より大きな危険をはらんでさえいるかもしれない、もう一つの誘惑が存在する。好奇心という病である。それは、私たちを、自然の秘密に挑み、発見させるように駆り立てる。そうした秘密は私たちの理解を超えたものであり、私たちにとって何の役にも立たないものだから、知りたいと願うべきではないものなのだ。

アグスチヌスから、今まで、宗教の態度は、変わらない。
真実を晒しては、いけない。
神の存在が、危うくなるのである。

それこそ、アグスチヌスが、無意識に、恐れたことであろう。

兎に角、無知蒙昧で、いいのである。
後は、神が、すべてを、処理するというのだ。

科学は、何もまだ、知ってはいない。
という、宗教家は、大勢いる。
その通りで、ある。科学は、まだ、何も知ってはいない。
しかし、知りえたことで、人間は、多く、その恩恵を受けている。

今時、ローマ法王でさえ、病を、祈りで、癒すと、考えないだろう。
病院で、手当てを受ける。

病になれば、祈りで、癒すことである。
キリストは、一粒の信仰さえふあれば、山をも動かすと、言った。
強迫神経症タイプの、教祖は、皆、そのようなことを、言う。

奇跡を起こさないような、信仰なら、信仰が無いのと、同じである。

私は、二年続けて、同じ時期に、胃に激痛を受けて、24時間眠ることもできないほどの、体験をした。
病院を四件回ったが、痛みは、取れなかった。
唸りつつ、私は、祈った。
神や仏にではない。
私の胃にである。
長年、酷使したこと、済まなかったと。申し訳なかったと。

痛みが、引くまで、待つしかなかった。
その時、死を思った。
このような中で、死を迎えるのは、良くない。痛みで、死を味わうことが無い。死ぬ痛みは、麻薬でもいいから、取り除き、痛み無く、死を迎えたいと。

また、逆に、亀井勝一郎氏のように、癌の手術で、麻酔無しを希望するという人もいる。
その、痛みを知ることにより、思索の、至らぬことを知るというものである。
人間とは、実に、素晴らしい生き物である。
親鸞に帰依したというが、帰依したいと思いつつ、どこかで、その信に、不信を感じていたのである。

信じ切れないもの。
信じる切るというのは、実は、欺瞞であり、惰性なのである。

ドーキンスの引用した、あるブログの言葉である。

なぜ神が、何かについての説明とみなされるのだろう? それは説明ではないーーそれは単に説明不能というメッセージであり、肩をすくめる仕草となんら変わらないもので、「ワカンナイ」という言葉を儀礼的なチピリチアリズムで粉飾しているにすぎない。もし誰かが何かを神のせいにすれば、それが意味するのはたいがい、その人間が何の手がかりももっていないので、手もとどかず理解不能な存在である天の妖精のせいにしているということだ。そして、そいつはどこから来たのだと説明を求めればおそらく、「それはつねに存在してきた」とか、あるいは自然の外側にいるものについての漠然とした、擬似哲学的な答えが返ってくることだろう。もちろん、それは何の説明にもなっていない。

膨大な神学という、哲学的思考による、妄想に、科学は、王手を打つ。
無知ゆえに、想像した、膨大な妄想の数々。勿論、それは、芸術に、持ち上げられてもよい。

少年の頃、カトリック教会の司祭と共に、夏のキャンプをした。
星空を眺めて、司祭は、神に祈りを捧げた。
それは、素晴らしい、情緒教育であった。
知りえないものに対する、畏敬の思いを、私は、そこで、学んだ。

あなたは、この美しい星空を作り、私たちに、その栄光を、お示しになっています。
私も、素直に、その祈りを、敬虔に聞いた。
そして、それは、誤りではない。
実に、正しいことである。
しかし、それは、神の存在と、関係無いことである。

畏敬の思いを、何と呼んで賛美してもいい。

偶然にしては、出来すぎている自然の、あらゆるもの。それに、畏敬の念を抱く。そして、それは、遂に、私自身に、戻る。
生まれて、生きること、それ自体が、奇跡であると。
一時間先のことも、知らないのである。
暗闇の中を歩いているような、人生である。
しかし、生きられるのである。だが、知らないゆえにとは、言わない。

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月
和泉式部

生まれたのも、暗く、生きるもの、暗いのである。
せめて、遥かにでも、いい。照らして下さい。仏というものが、いるならば。

神や仏を、光と、言う人の心が、痛い程解る。
しかし、神や仏は、光であるという観念は、捨てた方がよい。
大嘘だからだ。
神を光だということは、そのまま、闇だと言うことだと、知らない、無知である。

光は、闇によって、光と、認識される。
あえて、言うならば、神や仏は、闇である。
全く、先行き見えない闇が、神や仏の正体である。

闇の中に、光を見るというのは、幻覚、幻想である。

あれかし、という、強い思いが、それを、生む。

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2008年01月09日

神仏は妄想である 28

神仏は妄想である、という、エッセイを書いている。

それは、神仏であり、宗教家、及び、信徒の批判ではない。
純粋、神仏というものの、思想的批判である。

多くの宗教家、それらは、特に、潜めて、素晴らしい行為行動を行っていることを、知っている。

宗教に、救いはあるか、未来は、あるかといえば、彼らの行為行動により、あると、言える。

それは、人間主義、人間愛に、元ずく、行為行動であり、言論ではない。

行為により、宗教には、救いがある。

宗教家が、実践家として、活動をした事実は、歴史を見れば、よく解る。

私も、多くの宗教家の、人間愛に満ちた、人道的行為行動を見てきた。今も、見ている。

ただし、問題は、その行為行動にあるものである。
人間愛に元ずく、行動には、それ以上のものがない。
例えば、布教、宣教、折伏等々である。

キリスト教徒は、福音宣教といい、善行を行うとしたなら、誤りである。行為自体が、すでに、それであるから、それ以上の言葉は、必要ではない。

それを、行うこと、それで、よい。
人を助けて、それでは、この教えを、信じなさいと、言えば、その行為は、嘘になる。結局、宗教入信のための、手段としての、行為である。
行為は、目的であるはずだ。

この時代であるから、特に、それは、必要なことである。

宗教の役割が、これほど、大きな時代はない。

ある僧侶が、自殺防止のために、手紙相談を始めたという。
実に、真っ当な、宗教家としての、活動である。

私が、追悼慰霊に行く、タイ・チェンマイから北部タイにかけての、戦争犠牲者遺骨収集と、その、追悼慰霊碑を建立したのは、佐賀県の、浄土真宗の僧侶たちである。
そこで、私は、古神道による、追悼慰霊を行った。
浄土真宗の方法でとは、言わない。

宗教に救いがあるというのは、その行為行動にある。

そして、宗教家、宗教団体だから、出来る行為行動である。

真実、教えが、正しいものならば、行為行動以外に無い。

そして、宗教の、行為行動する、範囲は、他のものが、手出し出来ないところのものである。

日本の社会でも、それらの活動が期待される、場面は、多くある。

会員数の多さから、商売をしている団体も多い。
他の分野が行うことを、平気でするのである。
一々例は、上げない。

善行を持って、会員獲得のために、行為するのであれば、すでに、邪である。魔である。
その勢力、拡大のために、する善行というものは、単なる、偽善になる。

宗教に、フィティフィティは、無い。

与えることによって、与えられているからである。
もし、本当に彼らが、神や仏を、信じているならば、すでに、与えられているのである。
それ以上に、何が必要か。

孤立無援で、行為行動出来る力を持つのが、宗教である。

日本で最初に、唐に渡り、玄奘三蔵法師の、弟子になった、道昭は、矢張り、福祉事業を行っている。
師匠の玄奘は、膨大な、仏典の翻訳に、後の生涯をかけた。
何かに、奉仕することによって、その信仰の、証とする。

その、玄奘の、思いは、億万の衆生を救うという、命題だった。
晩年は、天竺行きの、高山病から、肺を病む。
しかし、最後の最後まで、翻訳をし、成し遂げた。

衆生の、救いは、彼の仏典翻訳という、大業に、結実した。

今、日本で、学ばれている、仏典の多くは、彼が翻訳したものである。

道昭は、玄奘の、法相宗を持って、日本の仏教に寄与した。

当時の時代が、要求していたものを、提供した。

そして、現代である。
宗教というものの、本質が、問われている。

教派を、超えて、行為行動をという、動きも、10年以上前から、はじまっている。
教派を、超えることは、実に簡単である。
共に、神や仏という幻想の、ものを、掲げているのであるから、教派を、超えられる。

宗派の、共同幻想である。
なんとなれば、この世のもの、移り行くものである。
宗派の、教えも、移り行くものである。

天動説から、地動説に、変更を余儀なくされたのである、カトリックは。
真実が、明らかにされれば、当然、それを、受け入れる。
宗教の寛容さである。

無知を、そのままに、神に託すことではない。

宝くじに、二度当たった、僧侶は、すべてを、寄付した。当然である。必要ないからだ。
彼には、仏の教えという、黄金の教えを持っている。金は、手段である。
勿論、金を目的とする、宗教団体は、数多い。

キリストは、汝の隣人を愛せよと、宣教した。
しかし、狭義の、隣人愛であった。
それを、広義の隣人愛にまで、広げて活動することで、キリストの教えを、更に、推し進める。

私の、友人、そして、その、指導司祭は、日本にて、アジア人の留学生の、支援をしている。様々な宗教を持つ人々を、分け隔てなく、支援する。
キリストの、隣人愛を、拡大した、行為行動である。

宗教の強さは、そこにある。

神仏は、妄想であるという、エッセイを通して、私は、宗教的行為にある、もの、そして、宗派を超えるもの、そして、教えを、変容させるものを、観るものである。

万教一致を唱える、生長の家という、宗教がある。
実に、正しい。
だが、その、団体が、何を行っているのかで、その、裏づけがある。

すべての、宗教を認めるという。
そして、どんな宗教に入信していても、生長の家の、聖典を唱えることが、出来るというものだ。
だが、教祖が信仰していた元の宗教のことは言わない。イスラムについても、言わない。

しかし、それさえも、言わず、他を受け入れる、古神道、民族宗教は、数多い。
伊勢神宮は、誰もを、受け入れる。
日本の神社は、誰もを、受け入れる。
バリ島、バリヒンドゥーも、然り。
他の、民族宗教も、然り。

タイ・チェンライの寺院に行った時、僧侶に、こちらの、お祈りの言葉を教えてくださいと、言うと、無いという。
私は、日本では、波阿弥陀仏や、南無法蓮華教という、マントラがあるというと、それで、いいという。

要するに、仏は、無限大の存在である。
祝詞を唱えた。
それで、善し。

無節操であることは、無限定であること。
寛容な宗教、伝統宗教は、皆、そうして、他宗教の者を、受け入れる。

御祭りする、神や仏は、人の心を頂くのである。
規則、作法は、それぞれに、任せるのである。

伝統宗教の場に行き、不快な思いをすることは、なかった。

私は、宗教に期待する。
そして、救いを観る。
更に、平和を、もたらせば、神や仏も、その、妄想は、共同幻想として、実に、有意義なものである。

そう、そのうちに、死ぬのである。
人間には、死という、救いが、確実にある。


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2008年01月10日

神仏は妄想である 29

有神論者は、神が宇宙をセッティングしたときに、宇宙の基本定数を精妙に調整し、それぞれが生命を生み出せるゴルディロックス帯のなかに収まるようにしたのだと言う。まるで、神はひねることのできる六つのノブをもっていて、それぞれがゴルディロックス値になるように慎重に調整したかのようである。しかし、有神論者の答えがひどく満足のいかないものであるのはいつも通りだ。なぜなら、彼らが神の存在を説明しないままでおくからである。六つの値について計算することができる神というものは、少なくとも、精妙に調整された数字の組合せそのもの同様にありえないものだろうし、ということは、きわめてありえないというレベルの話になるーーーそして、その「きわめてありえない」存在というのが、私たちがこれまで延々とつづけてきた議論の出発点であった。したがってここから、有神論者の答えは、目の前の問題を解決するため、いささかの前進ももたらさなかったという結論が導かれる。それを退ける以外の代案が私には思いつかないが、同時に、多くの人間がこの問題を理解せず、「神がノブをひねっている」という論証に心底から満足しているように見えることに驚嘆している。

神は妄想である。第四章、ほとんど確実に神が存在しない理由、より。
リチャード・ドーキンス

要するに、信じる者は、確実に、自己洗脳して、信じ込むという、愚劣に陥るということである。
そして、安心する。
実に、愚かな、安心である。
信じるという、安易なムードに、自分を乗せるのである。それは、実に、心地よいのだろう。すべて、思考を捨てるのである。
そして、信じるという行為に、酔う。
酔い知れる。
神という妄想に、委ねて、人生を流すのである。それを、また、善しとするから、おめでたい。

ある日の決闘に出かける、宮本武蔵は、祠の前を通る。
その時、その祠の神に、勝負の祈りをの、誘惑を覚える。
そして、自分を叱咤した。
俺は、この勝負を、この祠の神に、祈ろうとしている。何という、馬鹿馬鹿しいことだ。闘うのは、この俺である。在るか無きかの神に、祈る俺は、剣の道に遠い、と。
武蔵は、そのまま、そこを、通り過ぎる。

五輪書を書いた武蔵は、観世音菩薩を、奉じて云々という、解説者がいるが、武蔵のことを、知らない。
武蔵が、観音様を奉じたのは、見る目と、観の目を、見抜いたゆえの、観世音菩薩であった。観音に、観の目を、あてただけである。
合理主義の武蔵が、拝む対象の観音様を、奉じる訳が無い。
方便である。
書いたものを、そのまま、信じるという、アホな真似をするのであるから、呆れる。

さて、有神論者は、特別の考えなど無い。
信じていれば、事足りる。

本当の意味で法外である「神がいる」という仮説と、見かけ上法外なように見える多宇宙仮説のあいだの決定的な相違は、統計学的なありえなさの相違である。多宇宙は、いかに法外なものに思えようとも、単純である。しかし神は、あるいはどんな知的で、意思決定し、計算する作用者であれ、それによって説明される事柄とまさに同じ統計学的な意味で、高度にありえないものだと言わざるをえない。多宇宙は、そこにかかわる宇宙の数という点だけからすれば法外なように見えるかもしれない。しかし、そうした宇宙の一つ一つは、その基本において単純であり、高度にありえないものを何一つ仮定してはいないのである。しかし、神仮説で想定される知性については、事情はまさに正反対だとしか言いようがない。

ドーキンスは神学者に言う。
私たちの求める第一原因は、自力で自らを高め、最終的に世界を現在のような複雑な存在まで上昇させる一種のクレーンの単純な基礎であったにちがいない。

神学者たちは、繰り返し言ったという。
「何かがないことにではなく、何かが存在することに対し、その理由がなければならないのだ」
そして、それに神という名を与えてもいいのではないか、と。

実に、面白いやり取りをしている。
どうでも、いいことに、互いにムキになるところが、いい。

世の中は、神も仏も、どうでもいいと、思う者が、多数である。
それは、イスラム圏、キリスト教圏、ユダヤ教権、仏教圏、等々である。
誰も、真実、それほど、神や仏に必死になってはない。
知能レベルの低い者が、真剣になるのである。

例えば、死期迫る者が、突然のように、洗礼を受ける。親鸞に帰依する。密教に入信する、という、程度である。
それは、麻酔代わりである。

実に、愚かなことである。

人間が霊的存在であると、知れば、そんなことをする必要は無い。

死後の世界の未知に、不安になるだけである。
死後、霊になると、知らないのだ。

さて、ドーキンスの、論舌は続く。果てしなく、続く。科学者の頭は、実に良い。
分厚い本である。神は妄想である。

私は、第一章に戻り、これから、キリスト教の聖書について、ドーキンスの言葉と、共に、徹底的に、検証し、大嘘であることを書く。

ちなみに、私は、カトリックの洗礼を受けている。
少年の頃から、勉強をせずに、神学、キリスト教を、学んだ。そして、準じて、宗教である。勿論、キリスト教の側からの、宗教であるから、実に、偏ったものである。

私の、主イエスは、何も変わることなくある。
しかし、神という、キリスト教が教える存在については、別物である。
また、主イエスに関しても、新約聖書というものが、どのようなものであるかを、知ることによって、実に、冷静に対処できるものである。

熱心な、クリスチャンほど、罪深い者はない。
余程、前世の因縁が悪いのだろう。
そのせいか、熱心なクリスチャンほど、冷酷無残である。
または、確実に、愚かである。
その証拠に、知らないはずの、聖書を人に説くのである。

教会が、教える神というものは、教会の神であり、それこそ、妄想である。
そして、キリスト教の霊性というもの、すべては、魔界から発するものである。
悪魔より、怖い魔界である。

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2008年01月12日

神仏は妄想である 31

世の中には、特定の宗教の強い影響のもとで育てられたが、居心地の悪さを感じていたり、その宗教を信じることができなかったり、あるいはその宗教の名によっておこなわれる悪徳に心を悩ませたりしている人間がたくさんいるのではないかと私は疑っているーーいやむしろ、確信している。

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。はじめに、より。

そういう人のために、この本を書いたという。

アメリカ。世界で、これほど、戦争の好きな国は無い。また、世界で、一番、戦争を起こしている国である。
それが、どうであろう。

今日のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、50年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。ゲイ・プライド運動のあと、いまでは、同性愛者が選挙で公職に選ばれることは、けっして簡単というほどではないが、可能である。1999年におこなわれたギャラップ調査では、アメリカ人に対して、その他の点では十分な資格をもつ次のような人物に投票するかどうかが質問された。女性99パーセントは投票する、ローマカトリック教徒94パーセント、ユダヤ人92パーセント、黒人92パーセント、モルモン教徒79パーセント、同性愛者79パーセント、無神論者49パーセントという結果だった。明らかに、道ははるかに遠い。しかし無神論者の数は、多くの人が気づいているよりも、もっとはるかに多く、とくに高い教育を受けたエリートのあいだに多い。この点については、すでに19世紀からそうだったのであり、だからこそジョン・スチュワート・ミルが実際、こう述べているのだ。「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世間は驚愕するだろう」

欧米諸国、アラブ諸国は、宗教の国々である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。
しかし、どれ程、多くの人が、それに対して、懐疑的であるかは、語られない。

甚だしい、苦痛を感じている、真っ当な人々が、無神論であると、カミングアウトすることは、不可能に近い。
イスラム圏では、死刑に相当する場合もある。

これを、無明と、言わず、何というのか。
更に、イスラム圏では、他の宗教に改宗すると、死刑に相当するという、驚きである。

妄想の神に対する、不敬が、最も重い罪とされる。
信じられないのである。

そして、もっと、驚くべきことは、それらが、簡単に戦争をするという、事実である。
それも、神の名において、である。

宗教と、共産主義が、殺した人の数は、星の数にもなる。

ホント、糞でも、食らえ、である。

対立するように、見えるものが、実際は、同じ、土俵にいるという、驚き。

私は、人類のために、宗教と、共産主義を、大罪と、定める。

これ程、愚かしく、哀れであるものは、見ることもない。
そして、これらは、すべて、無知からくるのである。
無知蒙昧という。

どんなに、議論をしても、無い物を、在ると言うのであるから、議論にならない。

人類は、宗教的であったゆえに、こうして、続けてきたのであり、宗教によってではない。宗教的というのは、自然との、共生、共感の考え方である。
宗教から、発した思想も哲学も、何も解決していないのである。
言えば、迷いを与えるものである。

無知の、ゆらぎに、付け込んでの、神だの仏だのという、妄想は、人間を救うことなく、人間を、無明の、只中に貶めた。

無明とは、仏教用語である。仏の知恵を言うが、それこそ、無知なのである。仏の知恵などない。ある訳が無い。
在ると信じて、お勉強して、多くの言葉を覚えて、迷うのが、関の山である。

仏教の教義など、支離滅裂である。
一つの言葉を取り出しても、何の根拠も無いという、仰天である。

それなのに、無知な人々は、真実の科学の知識や知恵を、宗教だと言う、アホらしさである。つまり、知能レベルが、低すぎるのである。

科学は、全体の、ほんの、少しを知った程度である。しかし、宗教の妄想とは、違う。実際に在るものを、見ている。しかし、宗教は、妄想なのである。

あれかし、と、願う心に、神や仏が、宿るのである。

マイクロソフト・ワードについている辞書は、delusion を「矛盾する強力な証拠があるにもかかわらず誤った信念をずっともちつづけること。とくに精神障害の一症候群として」と定義している。

禅とオートバイ修理技術の、著者であるロバート・M・バーングが、「ある一人の人物が妄想にとりつかれているときは、精神異常と呼ばれる。多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」と述べているが、私はこちらを採りたい気持ちがする。

以上、そのようである。
私も、そう思う。

このエッセイでは、日本の伝統、古神道に行き着くべくの、エッセイである。
それは、宗教ではなく、実に、宗教的である。
日本には、宗教という、概念が無い。それは、つまり、日本には、宗教が無いということである。

欧米の宗教学を持って、宗教を論じるのは、かまわないが、日本の伝統を、その枠で、語ることは、出来ないということを、言うための、エッセイを書いている。

お解りか。

日本人には、宗教は、必要無いのである。
しかし、何故、こう多くの宗教が成り立っているのか。
日本の、宗教団体は、商売だからである。
故に、十分、成り立つ意味がある。

お解りか。
商売である。
宗教法人とは、株式会社と、同じように、経営の形態なのである。

お解りか。
アホ、ども。

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2008年01月13日

神仏は妄想である 32

神仮説は、証拠よりもむしろ個人的な啓示にもとづく地域的な伝統の上に築かれたものだから、さまざまな変形版があるとしても驚くにあたらない。宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシャ、ローマ、北欧神話の多神教を経て、ユダヤ教およびそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。

神は妄想である。第二章、神がいるという仮説、より。

宗教の過程についてを、考察するのである。
突然、宗教というものが、現れるのではない。原始信仰体験から始まる、アニミズムから、次第に、整理整頓され、支配者に、都合の良いものとしての、宗教が、起こる。

ローマカトリックという、キリスト教も、ローマが、国教と定めてから、巨大な権威を持つようになる。それでは、それ以前の、ユダヤ人キリスト教徒は、どうなったのか。異端として、殺された。

ヨーロッパ中世史は、異端審判に、覆われている。
皇帝と、組んでの、異端審判であるから、驚くのである。
神の名において、平然として、人を殺し続けた。

むしろ私は、神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。本書で代筆として提唱される考え方は、何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる斬新的進化の単なる最終的産物にすぎないというものである。進化によって生じた創造的知性は、当然のことながら、すでにできあがっている宇宙に後から生まれてくるのだから、その設計に責任をもつことは不可能である。このように定義された意味における神は妄想である。

さらに、それは、有害な妄想である、という。

ドーキンスは、ダーウィンの進化論による、淘汰に関して、実に興味深い考察を続ける。

すでにできあがっている宇宙の後から生まれてくるのだから
つまり、宗教は、虚であるから、なんとでも、こじつけて、説明することが、出来るのである。

労働は、しないが、理屈は、三人前、いや、五人前である。
私の知り合いの、お婆さんが言った。
毎日、阿弥陀経を唱えているが、コレ、本当に、効くのかなー。どんな、意味があるんじゃー。
寺の坊主に聞いても、ようわからんしー、なー。
そんな、お経の意味を知れば、お婆さんは、仰天して、泡を吹くだろう。

どこかの、エロ小説を声に出して、読んでも、同じである。
死者は、その方が楽しくて、成仏するかも、しれません。

僧侶は、誤魔化しの専門。
自分でも、よく解っていないのである。
ただ、有り難い、有り難いと、言っていれば、爺、婆を、騙せると、思っている。
そういう、時代は、もう、終わる。

いずれ、経典についても、徹底して書く。
仏教の思想というものも、結果は、異端に対する、論戦のために、出来上がったものであり、仏陀の教えとは、何の関わりも無い。
要するに、負けないための、言葉の数々である。
議論のための、議論であるから、終わっている。

さて、一神教の大本は、多神教から、発したものである。
一神教の優越主義は、すべて、為政者によるものである。つまり、支配しやすいのである。
政治と、密接に宗教は、絡み合うのである。

ローマ皇帝は、ローマ法王により、認証される。ローマ法王は、皇帝により、認証される。
馬鹿馬鹿しいが、茶番である。
そういう、時期を経ての、世界宗教としての、カトリックである。

勿論、イスラムも、然り。
政治と、密接に結びついての、宗教体制である。
しかも、ムハンマドは、司祭職を置かなかったが、今では、宗教指導者として、司祭ではないが、それに似た権威を持つのである。
何とも、適当である。

精神的指導を宗教が、受け持つという、暗黙の了解があるということも、不思議なことである。
それは、政治よりも、実に、残虐で、許しがたい行為を、続けている。

政治が、何故、宗教を保護するのか。
今一度、考え直すへき、時期がきたのである。

日本の場合も、宗教法人という、特別税制のシステムがある。
それに、案じて、のうのうとして、貯蓄に励む僧侶たちである。
信じられないの一言。
こんな、差別税制があっていいのか。

どんなに、金を集めても、献金、寄付である。そして、税金がかからない。
これは、ヤクザよりも、酷い話である。
精神暴力団である。

さて、
進化によって生じた創造的知性は、その設計に責任をもつことは不可能である。
つまり、神という観念は、後から後から、付け足して、作り上げるものだということだ。

神は、完全ではないといことになる。
淘汰する、自然の様を、何という。

宇宙飛行士たちが、宇宙から、神を感じたという言葉を、勝手に解釈して、神の存在の証拠のように言うが、彼らが言う神という言葉は、宗教の言う神という言葉と、根本的に違う。
まあ、中には牧師になったというものもいるが、錯乱したのである。
感動が大きければ、大きいほど、言葉というものを、失う。
結果、神という言葉に託す。

仏というものも、同じである。

人知を超えたものに、感動する時の言葉が、貧弱なのである。

それなら、歌を詠めばよいが、それが、出来ないのである。
彼らは、日本人ではない。

日本人なら、和歌を詠む。
神や仏という言葉を使わずに、感動を、言葉にする。
言葉が言霊の国だからである。

それで、日本人の宗教的行為と、欧米の宗教というものの、断絶がある。
その、断絶をよくよく、知るべきである。

一神教とも、多神教とも、違うのである、日本の物の見方、考え方は。

以下省略。

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2008年01月14日

神仏は妄想である 33

19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述はない」という決定的な論証をおこなってきた。

ルカ福音書などは、歴史的にありえず、内部的に矛盾している、と、結論づけられている。

一々、その例を上げない。
面倒だからだ。
それは、研究者の、書いたものを、読むことを勧める。

聖書にしろ、コーランにしろ、仏典にしろ、それぞれは、教祖が、亡くなり、しばらく経てからの、書き物である。
二三年後ではない。仏典などは、300年以上を、経ている。


キリスト誕生の物語である、東方の星、処女懐胎、王による赤子の殺し、奇跡、復活と、昇天を含めて、イエス伝説の本質的な、特徴のすべてーーーどれもこれも一つ残らずーーーが、地中海および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用されているという経緯を示した。

聖書が一から十まで本当だと思っている学識のないキリスト教徒がいっぱいる。
彼らは聖書を、実際的に歴史の忠実で正確な記述であり、したがって彼らの宗教的信念を支持する証拠であると、まったく真剣に受け止めている。

完全完璧に、信じる者は、騙されるのである。

私は、キリストの絶唱という、エッセイを書いた。
それは、キリストの奇跡を、現実のものとするという、考えであり、そうでなければ、キリストの絶唱というものを、書けないと、判断した。
それは、奇跡によって、イエスキリストは、今も、存在し続けていると、確信するからだ。
つまり、それは、奇跡を行えないキリスト教徒は、キリスト教徒たりえないという、ことであると、言いたかった。

前ローマ法王が、射撃されて、命を狙われた時に、ファティマの聖母が、助けてくれたというが、実際、彼を助けたのは、医者である。

こういう、医者に対する、不遜な姿勢を、キリスト教徒の代表が、行う、言うという、驚きである。

一事が万事そうである。

法王に、銃弾が弾き飛ばされたというなら、キリスト教徒であるが、撃たれて、それを、医者に取り除いてもらい、聖母のお蔭であるという、根性は、そうとうな、玉である。

神の代理者である、法王は、亡くなると、神の国、天国に入ると、信じているという、驚き。
金持ちが、天国に入るのは、ラクダが、針の穴を通るより、難しいとの、イエスの言葉が、嘘になることを、知らない。

とっても、いい気なものである。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという、新約聖書の、四福音書は、正典とされているが、実は、他にも多くの福音書がある。
しかし、
正典にされなかった福音書は、四つの正典に収められたものよりも、あきれるほど納得しがたい物語を含んでいたために、聖職者たちによって排除されたものである。

ハリーポッターより、低俗で、正典に出来なかったということである。

彼らが書いたことのほとんどは、正直な歴史を書こうとする試みではけっしてなく、「旧約聖書」の単なる焼き直しにすぎなかった。なぜならば、福音書の書き手たちは、イエスの生涯は「旧約聖書」の預言をかなえるものでなければならないと心底から信じ込んでいたからである。

要するに、新約聖書も、信じる行為から、書かれたものであるということだ。
信じる、つまり、騙されるのである。

聖書にある証拠によって神を信じるように説得された人々がいる。
しかし、それが、大嘘であるとされるのである。
どうするのか。
答えは、簡単である。
信じる者は、騙されるのであり、それを、喜ぶのである。


イエスが何らかの種類の神の地位を宣言したという歴史的な証拠はごく小さなものである。

それなのに、ああ、それなのに。
どうして、このようなことになったのか。

恐れと、不安にある人が、こうあれかし、と思う、気持ちが、福音書を書かせたのである。
そして、一度、信じてしまうと、それは、自己暗示であり、自己洗脳によって、確実になる。嘘であるが、真実であると、撹乱するのである。

私が、キリストの絶唱で、キリストの奇跡を、肯定したのは、キリスト教徒は、奇跡を行えという、メッセージである。
種一つの信仰があれば、山をも、動かすという、信仰を、実践してこその、キリスト教徒である。

その、メッセージを込めての、キリストの絶唱だった。

さて、キリスト教徒は、少し賢く、聖書を検証すべきである。
無知蒙昧では、信仰など出来ない。
また、知的レベルが、低いというのも、信仰は、出来ない。
信仰とは、実に、知的な行為である。

そこに、妄想の思い込みがあっては、ならない。

あらゆる、種類のキリスト教徒に共通するものは、信じることによる、酔いである。
思春期の女の子のような、自我意識拡大の、様を、信仰というのだから、終わっている。

世界を超えるような、自我意識の拡大は、一種の精神疾患である。

誇大妄想。
それに尽きる。

バートランド・ラッセルの言葉が、第三章に載っている。

知的な意味で著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが、大衆に対してそのことを隠している。なぜなら、彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ。

宗教の太鼓もちをすると、それだけで、収入になるのである。
そういう、学者、作家、芸術家、芸能人等、多数いる。

日本にも、大勢いる。
一人、一人を、上げていると、終わらなくなるので、省略する。


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2008年01月15日

神仏は妄想である 34

リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第一章すこぶる宗教的な不信心者

ひろくおこなわれていて、私たちの社会のほとんど全員が受け入れているーー宗教的人間でない人間を含めてーーのは、宗教的信仰は、攻撃されると非常に傷つきやすいので、どんな人間であれすべての他人に対して払うべき敬意に加えて、異常なほど厚い敬意によって、護ってやらなければならないという前提である。

余計な言葉を、差し挟より、ドーキンスの書くままを、引用する。

北アイルランドでは、カトリック教徒とプロテスタントといったように、「宗教」という言葉が「共同体」に改ざんされるのだ。イラクは2003年の米英軍の侵攻の結果として、スンニ派とシーア派というイスラム教徒の宗派間の内戦状態に陥ってしまった。明らかに宗教戦争であるーーーなのに、2006年5月20日のインディペインデント紙の第一面の見出しと、記事の冒頭はいずれも、それを「民族浄化」と表現していた。この文脈における「民族」も、やはり彎曲語法である。私たちがいまイラクで見ているものは、実は宗教的浄化なのだ。旧ユーゴにおける「民族浄化」という最初の使い方もまた、ほぼまちがいなく、ギリシア正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教のボスニア人がかかわる宗教的浄化の彎曲表現である。

2006年2月に、デンマークの新聞が、預言者ムハンマドを描いた12枚の風刺漫画を掲載した。
それから、一ヶ月をかけて、イスラム教徒の小さな集団によって、憤激が慎重かつ組織的にイスラム世界全体に醸成されていった。
この集団の指導者は、アラブ諸国で、好ましからざる人物と宣告されて、デンマークで、庇護を与えられていた、悪名高い二人のイマーム導師だった。
彼らは、さらに、記事の写真を捏造し、デンマークにおけるイスラム教徒への不当な処遇と称する嘘の記事を掲げて、イスラム諸国に、喧伝した。

その後の、イスラム教徒の様々な、暴力は、見ての通りである。
デンマークの大使館や、キリスト教の施設等への、暴力である。
それは、インドネシアまで広がった。

ドーキンス曰く
これらの人々がなによりも愛しているのは、本当は、地獄のような大混乱なのである。

まさに、狂人である。
信教の自由を掲げると、人権も何も無い。
裁判でも、勝利するのである。

差別に関しても、信教の自由を持ち出せば、裁判に勝利するという、摩訶不思議である。

アメリカでは、キリスト教原理主義は、平然として、同性愛は罪だ。イスラム教徒は嘘つきだ。中絶は殺人だと、叫んでもいいのである。

彼らには、静かな、信仰というものが無い。
恐ろしく、過激な、闘争による、信仰宣言がある。

ある、敬虔なクリスチャンは、正しい神の教えのための、戦争ならば、必要だと、平然として言うのである。
要するに、宗教浄化である。

例えば、どんなに穏健なイスラム教徒でも、簡単に、死刑を宣告する。
アッラーと、ムハンマドに対する侮辱罪、不敬罪として。

ジャーナリスト、アンドリュー・ミューラーの言葉。
イスラム教徒の価値観は他のいかなるものにも勝るーーーこれは、イスラム教徒の誰もが実際に思っていることで、他のどの宗教の信者も自分たちの宗教が唯一の道であり、真理であり、光であると信じているのと同じことだ。もし人々が自分の家族よりも七世紀に教えを説いた人間を愛したいのであれば、それは彼らの勝手だが、他の誰もそれを本気で受け止めるように強制されることはない・・・

信じる行為とは、完全に理性を失う故に、狂うのである。
どの、宗教信者も、我らが、唯一と、思い込むのである。
理性が狂うと、その、感性はまた、狂う。
すると、平気で、人を殺すのである。

21世紀は、この悪夢から、逃れられるのか。

世界宗教者会議という、茶番が行われている。
いくら、議論しても、はじまらない。
参加する者、皆、理性を失い、他宗教との、対話など出来ないからだ。それを、知らない。
皆で、お茶を飲み、食事をして、終わりである。
他宗教を尊重しましょうと、宣言するのが、関の山である。

しかし、そんなものは、すぐに流れる。誰も、本気で、そう思っているのではない。

前法王、ヨハネ・パウロ二世が、ギリシャ正教と、和解のテーブルについたが、ただ、それだけである。
法王の野心は、統一である。
和解など、できるものではない。
和解して、どうするのか。

現法王は、アジア人の枢機卿を解任し、白人支配に戻そうとしている。

宗教の無明は、甚だしく、理性的な話し合いなど、出来ない状態である。

私は、そんなことだけのために、誰かを屈辱したり、傷つけたりすることに賛成できないのだ。その他の点では世俗的な私たちの社会で、宗教があまりにも不釣合いな特権を与えられていることに私は好奇心をそそられ、当惑させられる。
と、ドーキンスが言う。

はっきりと、そんなことだけのため、と言う。

宗教とは、そんなこと、なのである。

20世紀前半の評論家である、H・L・メンケンの言葉。
われわれは他人の宗教を尊重しなければならないが、あくまでそれはその人の奥さんが美人だとか子供が賢いという言い分を尊重するというのと同じ意味においてのことである。

何故、宗教の信者は、その教えを、唯一の正しい、真理の教えと、思い込むかというのは、実に、簡単である。
その教えに、不安を抱いているからであり、その不安を、他宗教を、排斥、攻撃することで、解消するからである。

古神道を奉ずる私には、そういう、ものは、一切無い。

自然と、共生、共感するという、一点にある、古神道という、日本の伝統には、他を排斥し、攻撃するという、意識が無い。
何故なら、自然と共にしか、生きられないからである。
それは、理性である。
理性的であれば、他宗教を、いくらでも、寛容に受け入れられる。
甚だしい場合は、一時的に、他宗教の信者としても、行為できるのであるのである。
それによって、自分の何ものも、犯されることも、傷つくこともない。

私の先祖は、立派でした。そして、あなたの、先祖も、立派でした。しかし、私の先祖の方が、あなたの、先祖より、やはり、優秀で立派でした。
この程度の、知的レベルが、世界宗教と言われる。

そしてそれらが、皆、妄想に支えられているということである。
それを、総称して、馬鹿は死んでも、治らないという。

敬虔なクリスチャンも、熱心な、念仏者も、誇大妄想の題目者も、レベルの低い霊界の霊人から、啓示を受けた宗教を、奉じる者も、皆、一緒に、馬鹿は、死んでも治らないと、信じるべきである。

全知全能の神も、大千三千世界も、完全に妄想であることを、知るべきである。
それを、理性という。
理性は、知性を育て、感性を磨くのである。
そうすると、当たり前のことに気づく。

当たり前のこととは、自然の中でしか、生きられない人間であるということである。
太陽が、一秒停止すれば、この世は、地球は、壊滅する。

太陽崇拝の、古代人の方が、実に、真っ当である。


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2008年01月16日

神仏は妄想である 35

進化論者にとって、宗教儀礼は「陽の差し込む林間の空き地の雄クジャクのように際立った」ものだ。宗教的行動は、大掛かりな、蟻浴や東屋づくりの人間版に等しい。それは時間を消費し、エネルギーを消費し、しばしばゴクラクチョウの毛羽のように過度に装飾的である。宗教は信心深い人間の生活を危険にさらすだけでなく、他の人間の生活も危険にさらすことがある。無数の人間が宗教への忠誠心のために拷問され、多くの場合、どこがちがうのかはほとんどわからない別の信仰をもつがゆえに狂信的な他教徒の迫害を受けてきた。宗教は資源を、時には途方もない規模で、貪り食う。中世の大聖堂はその建造に100人掛ける一世紀の労働力を消費することがあったが、住居やあるいは何らかの有益な目的に使用されることはけっしてなかった。それはある意味クジャクの尾羽の建築版だったのだろうか? もしそうなら、その広告は誰に向かってなされたものだったのだろうか? 宗教音楽と宗教絵画が中世およびルネサンス期の才能の大部分を独占していた。敬虔な人々が神のために死に、神のために人を殺した。血が出るまで背中を鞭打たれ、終生の独身あるいは沈黙を誓った人は、すべて宗教への献身のためにそうしたのである。これらはいったい何のためなのか? 宗教を信じることで得られる利益とは、何なのだ?

第5章 宗教の起源 より

無知ゆえの、無明である。
仏教では、その逆で、信仰の無い者を、無知ゆえの、無明であるという。

命懸けで、伝える教えというものがある、と、思い込むのは、その人の性格である。極めて、強迫的な性格である。

それにより、自分を保つのであり、教えの良し悪しではない。

聖人になる前は、さんざんに、放蕩を尽くしていた、アグスチヌス、イエズス会の、イグナチオ・ロヨラ、数え切れないほどいる。
一転して、信仰深くなるのである。
つまり、放蕩に飽きたのである。
そして、次には、人生を信仰と、その布教に賭けるのである。
何とも、暇つぶしに、持って来いである。

越後の良寛さん。
出家する前日まで、遊郭で、女と、セックスしていた。
翌日、出家して、善人良寛さんになっという。
アホらし。
放蕩に飽きて、何も興味が持てなくて、出家である。
つまり、遊郭にいることと、一緒なのである。
女と、セックスすることも、快楽で、女を絶つことも快楽なのである。

それを、改心、回心と、判断する、自称、宗教家の面々である。
何のことは無い。単なる、生きるための、暇つぶしである。

神や仏という、善に生きると、いう、強迫症である。
つまり、そのようにしか生きられないのである。
それを、聖人だとは、笑わせる。

イエズス会は、ローマ法王の、支配地を拡大するために、世界に布教を開始する。勿論、日本にも、ザビエルが来た。
植民地政策の、第一歩である。
信仰という、野心である。

無いものを、在るという、集団が大きくなるのは、確実に、魔界関与であることを、知らないのである。
巨大教団になればなるほど、魔界が関与する。
悪魔も手出だし出来ない、魔界である。

魔界の手先が、悪魔祓いをするという、仰天である。

知的レベルが低いほど、性格が、強迫的になる。
信心深い者を見れば、一目瞭然である。

信仰という、迷いに入り込むということが、理解出来ない。また、それが、偏狭であるということを、知ることがない。

人間の知性は、そうそう、揺らぐことのないものである。しかし、その、知性の力を知らないうちに、信仰という、迷いに入り込むのである。
作られた経典ということを、知らないのか、知らない振りをするのか。
すべて、人間の手によったものである。
それでさえ、経典に書かれてある。聖書に書かれてある。
その、経典も、聖書も、大嘘だと証明されても、信じるという、無明である。

信じる行為は、手のつけようも無いほど、偏狭、頑固になる。

修正できないほど、矯正されるのである。
自己矯正である。

例えば、拝んでいた神を捨てるとなると、心に大きな穴が開いた気分になる。つまり、勝手に、心に神の居場所を作り、それを、肥大化させているのである。
穴など、空いて、いないのであるが、そう感じるのである。

人間は、思い込みによって、病も癒える性質を持つ。
戦後、成長の家という、教団の本を読み、病を癒した者が、多くいた。
その、本を読むと、心のカラクリが解るのである。
当時、アメリカの心理学を取り入れた、その著作は、画期的だった。
さらに、すべての宗教は、一である。つまり、宗教の教えるものは、すべて、同じものであるという考え方で、どの宗教に所属、どの信仰を持っても、良いという教えである。

しかし、その著作で、イスラムには、一切触れていないのである。
仏典、聖書には、多く触れるが、イスラムには、触れない。そして、自分が、元所属していた、宗教にも、触れない。
万教帰一というが、徹底していないのである。

日本の伝統である、神道も取り入れての、著作である。

病は、影である。はじめから、無いのである。人間は神の子であるから、何も恐れることがない。等、実に、プラス思考の著作であった。
そう、思い込めばよいのだ。

甚だしいのは、細菌も無いと、思えば無いのである。
風邪も引かないということになる。
教祖は、高齢まで生きた。高い霊界に入ったという、霊能者もいる。
しかし、あれほど、金を集めて、教団、わが身のために、使えば、長くも生きられる。
信者は、奉仕活動などするが、教団が、社会的に、意義ある、奉仕活動などしたと、聞いたことが無い。

思い込みを教えると、霊界の高い段階まで、上がるというならば、霊界も、大したところではない。

生きる場の、知性こそ、必要なものである。
病になれば、病を受け入れる。
それは、影でも、なんでもない。
在るものである。

知能レベルの低い、宗教の多くは、そのように教える。
病は無い。心の蔭であると。
病というものの、必要性を知らない。

仏陀が、正しい。
人間は、生老病死である。
だから、生きるによいのだ。

彼らは、人間を、化け物にする。

溺れる者、藁にも縋るという、人間の弱さに付け込むという、罪作りである。

宗教の霊性というものも、すべて、思い込みの、何ものでもない。

霊性とは、知性により、感性を高めてのみ、至るものである。

知性により、感性を高めるものとは、自然に、他ならない。
自然と、共生、共感して、成り立つものである。
何故なら、人間は、自然の中でしか生きられないのである。
宇宙を、含めた自然である。

古代人の、太陽崇拝が、実に、正しいことが、解る。

宗教は、人間の前頭葉に、錯覚を与えるものである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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