2007年12月10日

神仏は妄想である 11

神奈川県警の、警備部長である、警視が、神世界という会社の、霊感商法に、関与したとして、事情聴取を受けている。

ヒーリングセラピー等々の言葉での、勧誘である。
最初は、1,000円からで、次第に、金額が上がる。しまいには、先祖が憑いているとか、祟りがある等の言葉での、お守り商法である。

感心するのは、宗教法人ではなく、単なる、物売りの会社であるということだ。
物売りの会社が、神世界と、名乗っても、問題ない。宗教の、騙しより、よほどいい。

これらを、霊感商法というならば、宗教の金集めは、何と言うのだろう。
お布施、供養、献金、維持費、管理費、特別供養、先祖供養、塔婆代、何から何まで、金である。

昨年の、文字に、偽、という文字が選ばれて、京都、清水寺の管長が、その文字を、認めた。
そして、書き終えて言う。
日本人として恥ずかしいと。
偽、という文字に表される、今年の、偽装事件などに、言うのであろうが、清水寺は、どれほどの永きに渡り、人々を騙し続けているのか。

京都、清水寺は、有名な、寺である。
観光名所でもある。
一度は、京都を訪れる人は、お参りする。

管長の立派な僧衣姿を見て、何とも、複雑な心境である。
僧衣と、袈裟の立派なものは、僧の位を表すのであろう。
勿論、管長であるから、偉い。立派な袈裟をつけての、詭弁である。しかし、本人は、詭弁などとは、思わない。

冬は、ぬくぬくと、温かい部屋にいて、夏は、涼しい部屋にいて、のうのうとして、仏の教えなるものを、餌にして、金集めをする。
それは、宗教法人であるから、税金から、免れる。

京都は、僧の町である。
彼らの、遊び方は、尋常ではない。金に飽かせて、遊び。
学僧も、多くいる。
親の寺から、仕送りを受けての、豪華な暮らしをして、修行とは、笑わせる。

いつの時代も、僧は、堕落していたが、今は、堕落ではない。明らかに、詐欺行為である。

千日行という修行をする、宗派もあり、それが満願に達すると、マスコミまで、取り上げて、修行を賞賛する。
私に言わせれば、遠洋漁業や、厳寒の冬の海に出て、漁をする、漁師達とは、比べ物にならないのである。

一体、いつから、あのような、アホなことをやって、修行というのか。
荒行とも言う。実に、馬鹿馬鹿しい。
厳寒の海に、漁に出てみよ。
命懸けでの、操業である。
命を落とした漁師も多い。

私の故郷は、そういう町である。
そういう、漁師たちの姿を見て、育った。
だから、宗教家たちの、嘘が、すぐに、見破れる。

A宗という、密教の新宗教の創立者が言う。
守護霊を持て。守護神を持て。
何を言う。
守護霊も、守護神も、すでに、皆を、守護しているのである。

心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真が歌う。

真っ当に生きていれば、つまり、蒔いて刈り取り、漁をして、作るという、生き方をしていれば、祈らずとても、神は、守るのである。
その間に、不幸があっても、それは、宿命であるとして、受け入れる。そこに、生きる妙味がある。

人生が、変わるということより、人生が、変容すること。それは、何も変わらないが、生きるという、心根が、強固になるということである。

神仏に、頼み、奇跡が起きたら、それは、魔の仕業である。
何故なら、神仏というものは、妄想だからである。
それ、奇跡を起こすのは、魔と、相場が決まっている。

奇跡を起こして、幸福になっても、人は死ぬ。
死から、免れた者は、いない。
人は、実に、平等な存在である。

マルコ福音書で、イエスキリストは、少女と、ラザロという男を、生き返らせている。
少女の、生き返らせは、正しい。が、ラザロの死は、後の作者の願望である。
少女は、眠るだけであると、主イエスは、息を吹き返えらせた。
ラザロの場合は、完全に死んでいた。
完全に死んだ者を、蘇らせるというのは、僭越行為である。

死とは、厳粛な、霊界入りの作法である。
これについては、後で触れるので、省略する。

霊感商法に騙されるのは、騙される者が、悪い。
騙す者は、騙す意識がある。それに、気づかない程、アホであるという、我が身の不徳を、嘆くことである。

騙されたいほど、滅入っているのである。

騙されたいほど、迷いにあるのである。

それを、自分で、解決出来ないという、因縁である。
それを、嘆くことである。

いつも、思う。
霊感商法に、騙される人の弁護をする、弁護士の方々である。
ホント、ご苦労さんである。

アホの、世話ほど、大変なことは無い。

騙される人は、また、騙されるのである。
何となれば、そういう、エネルギーを出していると、気づかないのである。

騙してくれと、顔に書いてある。

熱心な、宗教信者の顔は、皆、騙されたことの、喜びである。
信仰に、喜んでいるのではない。
騙されたことに喜んでいるのである。
本人は、救われたと、思い込む。
ホント、救いようがない。

人生とは、思い込みによって、出来上がる人が、多いということであろう。

宝くじは、買っても、なかなか、当たらない。
ところが、信じると、買わない宝くじが当たったと、思い込めるという、幸いである。

仏陀の、最後の言葉は、己を信じ、真理の法を、拠り所とせよ、である。
決して、私を奉り、拝めと言わない。

真理の法とは、日本の心、大和心、大和魂にある。
自然との、共生、共感のことである。
そこに、真理というものがある。
何となれば、自然を離れて生きられないのである。

真理を、言葉遊びにあると、勘違いしないように。



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2007年12月12日

神仏は妄想である 12

12月22日、毎日新聞朝刊に、親鸞、教行信証書き入れ、という記事が一面に載った。

親鸞とは、現在の浄土真宗の開祖である。
東、西本願寺というのが、それである。

国宝である、坂東本の、修復に伴う調査で、つめ跡のように、紙面を、凹ませて、文字や、印を記す筆記具、角筆による、書き入れである。

約700箇所に及ぶという。
親鸞が、解釈などを示すために、書き入れたものである。

毎日新聞によると、わが国最大の、伝統仏教勢力である、真宗教団の僧侶や門信徒の信仰のよりどころである、根本聖典とある。

これにより、解読結果を反映するよう、再検討を迫られると、書く。
更に、これまでの、研究が根本から、見直されることになるとある。

親鸞の思想の、理解が覆るほどのことである。
つまり、今までの教えには、嘘があったということになる。
しかし、面の皮の厚い、本願寺の、主たちは、平然として、構えることであろうと、推察出来る。

元大谷大学の広瀬という、学長の談が載っている。
親鸞が私たちに問いかけてきたようだった。私の考えをきちんと理解しているのか、と。

今更、何を言うのかと、私は言う。

教行信証については、別の機会に書く。

今回は、親鸞の信仰について言う。

親鸞は、法然の、念仏唯一という、浄土教に入門した。そして、言う。
法然に、騙されても、いい、と。
弥陀の本願に賭けるというのである。
弥陀の本願とは、最後の一人の人間が救われるまで、つまり、仏になるまで、救いを得ないという、願である。
無量寿経や、阿弥陀経という、仏典からの教えであり、それが、中国にて、浄土教として、始まったものである。

ただ今、浄土三部教という、経典に、まとめられている。
私も、時々、取り出して、読経する。
その度に、何とも、滑稽で、おかしいのである。
延々と、極楽の様を、説明する様は、実に、暇つぶしである。

その、極楽を、観想するというのも、人の修行である。
要するに、妄想、想像しなさいということだ。

法然は、天台に、学び、そして、そこから出て、浄土宗を拓いた。
難行ではなく、易行による、救いであり、誰もが、出来る、念仏に、救いを求めた。そして、得たと、勘違いした。

後に、他力といわれる、信仰形態を生む。

他力本願とういう。

親鸞は、それを、徹底させたと言われるが、何故、師匠の浄土宗を、継がなかったのか。
親鸞に、別に弟子が、出来たからである。
しかし、それでも、親鸞は、法然に帰依していたという事実がある。

教養人や、文学者等々、少しばかり、賢いと、思い込む者が、親鸞の思想、信仰に、酔うのである。
弟子の、唯円の書いた、歎異抄などは、有名である。
私も、その、文章は、名文だと思う。実に、素晴らしい、文である。

歎異抄とは、異なるを嘆くという、意味である。
つまり、親鸞在世当時、すでに、親鸞の思想を、勘違いし、誤って、信仰する者がいたということである。

有名な、文に、善人なをもて往来す、いわんや悪人をや、という。
善人が、往生、つまり、救われるのならば、悪人は、なおのこと、救われるというのである。

成仏するとは、言わない。
それが、ポイントである。

さて、法然は、その信仰により、島流しにされる。
次には、親鸞も、流される。
当時の、既成、仏教教団の僧たちに、嫉妬されるのである。

しかし、法然の前に、空也、良忍なども、念仏を掲げて、行動しているのである。

天台の教えの中にも、また、念仏はあった。

ただ、法然は、そこの、ところのみを、取り出して、救い、他力信仰を説いたのである。
ちなみに、日蓮は、法華経を持って、それが、最高の救いの道だと、題目を考案するのである。

日蓮の題目宗も、念仏宗に、攻撃されることになるのであり、皆々、宗教というものは、新しいもの、また、別の信仰を、攻撃するのである。
似た者同士であるということだ。

親鸞の思想は、キリスト教に似ると、言われることもある。
その救いの感覚が、キリスト教の、恩寵の思想に似るからである。

弥陀を、神を置き換えればよい。

イエスキリストは、言う。
あなたが、私を選んだのではなく、私が、あなたを選んだ。
親鸞も、似ている。
弥陀の本願は、すでに、与えられてあると。
念仏申さんと、思い立つ心の起こる時、すでに、弥陀の本願の救いの中にあると。

まあ、どう考えても、いいのだが、通用しないのである。
霊界では。

私が、言いたいことは、以下である。

思想を、信仰にしてしまうという、誤りである。
救い、救いというが、一体、何からの救いなのか。
女子供の、お遊びのような、救いを掲げて、その人生を、賭けたのである。大変、ご苦労なことであったが、彼らは、蒔きも、刈りも、まして、採ることも、捕ることも、作ることも、せずに、ただ、言葉遊びに始終したということである。

弥陀の本願は、妄想である。

弥陀の本願があるということの、根拠は、何も無い。一切無い。

弥陀というものも、観念である。

アミタという。
アミタは、思想の、総称であり、何か、仏像のようになってあるような、存在ではない。人の頭の中で、想像、妄想された、観念である。
阿弥陀様という、存在は、無いのである。

阿弥陀仏という、存在は、霊界、多次元の世界には無い。

もし、あるというは場合は、自己顕示欲の強い、霊が、そう言うのである。

ちなみに、題目も、言っておく。
題目とは、仏典、経典である、法華経という、それに、南無、帰依するというのである。

マジに、考えれば、頭がおかしいということが、解るのであるが、どうも、解らないらしい。
加えて、おまけに言うが、法華経を唱える者は、地獄に落ちるのである。

念仏も、成仏などしない。
往生するのである。

往生とは、行くということである。
親鸞は、どこに行くのか、解らなかった。
地獄である。

私が言う地獄とは、観念まみれの、多次元の霊界ということである。

行く、生まれる、を、往生という。
地獄に生まれて、行くのである。

ちなみに、当時、鎌倉時代、以前は、ほとんどの人、一般大衆、つまり、農民、漁民は、無学文盲である。

文字が読めない。故に、絵にして、教えたのである。
そういう、素直な、心根の良い人々に、想像の、妄想の、産物を教えて、信仰させたという、罪は、大罪である。

法然も、親鸞も、大悪人である。
詐欺師の上をゆく、詐話師ということになる。

人生が、空言、夢事ではない。彼らが、空言、夢事を、広めた、張本人である。

更に、その、教団を作り上げて、のうのうとして、一般庶民から搾取して、はばからないのである。

浄土真宗の僧侶になるのは、実に、簡単である。
東、西本願寺に行き、金を包んで、講習を受ければいい。

カトリックの司祭になるには、少なくとも、10年程の、学びが必要である。
しかし、僧侶には、本日、ただ今からでもなれる。
勿論、新宗教の開祖や、教祖は、本日、ただ今から成れる。
詐欺師も、同じく。

わが国、最大の最大の伝統仏教教団であると、毎日新聞が書く。
わが国、最大の、詐欺集団とは、書けないのである。新聞が、売れなくなる。

ここで、言うが。
私の実家は、法然の、浄土宗である。
祖父母の時代からの檀家である。今も、そうである。
祖父母は、無学文盲であった。

季節、季節に、その行事を行っていた。
父祖が亡くなり、祖母は、毎日、仏壇に向かって、手を合わせていた。
たまたま、念仏だった。題目だったかもしれない。
キリスト教だったのかも、しれない。

無学文盲の人々を、騙すのは、赤子の手を捻るより、易しい。
私も、仏壇に、念仏を唱える。

その信徒に対して、言うことはない。
彼らは、騙されているのであるから、行くべき霊界に行く。

成仏せずに、地獄に、往生するのは、皆々、妄想に明け暮れた、開祖や、教祖である。そして、それらを支持して、商売する僧たちである。

私の、言うことが、解れば、幸いである。

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2007年12月13日

神仏は妄想である 13

神奈川県警の警視を、巻き込んでの、神世界という、会社の、霊感商法である。

ヒーリングサロンにて、ライセンスと呼ばれる、お札を販売していた。
初級が105,000円。中級が21万円。上級が525,000円である。
つまり、そのお札を持って人を、ヒーリングするというのである。

これは、今に始まったことではない。

世界救世教が、やっていたことであり、更に、それから、分派した、数多くの新宗教が、やっていたことである。

救世教は、大本教から出た。

宗教法人が、やれば、霊感商法ではないということが、ミソである。

昔、私は、分派して、更に分派し、もう一つおまけに、分派して、それをまた、分派しようとして、教祖になった男を知っている。
全く、宗教のことなど、知らない。
ただ、手かざしをすると、相手の、憑物が、出るのである。
それで、驚く。
信じるのである。

救世教の、内部分裂は、凄まじかった。
教団内に、ブルトーザーまで、出しての、紛争だった。

名の知れた、教団で言えば、真光教団、霊波の光教団等々である。

皆、手かざしをして、清めるという。
熱心な、若者信者が、道行く人を、お清めさせて下さいと、呼び止めることもあった。

信じる者は、騙されるから、本気で、清められると、思い込むのである。

また、自分の手から、神の光が、出ると、信じる。
信じることは、問題ないが、それを、人に強制するとなると、暴力である。

手かざしされて、具合の悪くなった人を、私は、多く知る。

特に、その力の強いといわれる者の、背後にいる霊は、動物に姿を変えた、霊である。
つまり、人の霊である。便宜上、動物霊という人もいる。

神世界は、有限会社であり、税金を納めて、堂々として、商売をしていた。
以前も書いたが、騙される人が、悪いに決まっている。

しかし、被害総額が、およそ100億円。被害者が、およそ1000人というと、少し驚く。
警察幹部もいるとの、言葉で、勧誘したというから、詐欺である。
ああ、詐欺ではない。確かに、警察幹部も、関わっていた。

警察幹部と、聴けば、安心する。

関わった、神奈川県警の警視は、神世界の神は、本物だっと、思ったと言う。
勿論、全面的、主観である。

また、テレビに出ている、有名霊能者を超える力とも、言う。

低級な霊と、話が出来ることが、有名霊能者であるから、その程度も、知れている。

手かざしをして、病が治ると言われて、薬を止め、とんでもないことになった人もいる。

私に相談に来た、分裂病、今の、統合失調症の、患者が、投薬を止めろと、霊能者に言われたのだがと、言うが、とんでもないことで、絶対に、薬を飲むことと、アドバイスしたが、その女性は、霊能者の色仕掛けに負けて、薬を止め、深夜、自分の胸を、包丁で刺し、重症を負った。

その親から、連絡を受けて、私は、ただちに、精神科医の元に行かせた。

このような、例は、数多い。

年末年始になると、宗教団体も、金集めに奔走する。
最も、危ない時期である。

信仰を、個人的、満足感で、済ませている分には、いいが、人を巻き込むようになると、実に、害である。
今回は、社会的問題になった。

統一教会の、壷売り、花売り、等々の物品販売も、問題になったが、この、紙切れ一枚を、売るという商売は、当たれば、ぼろ儲けである。
免許、資格等々と、同じく、紙切れ商売という。

手かざし、という、行為は、誰もが出来る。
それを、特別のことと言う根性は、ただ事ではない。

それで、世界を救うと、言うから、笑う。しかし、笑ってばかりも、いられない状態である。
何故、このような、騙しに、騙されるのかということが、問題である。

無神論者も、病むが、また、有神論者も病むのである。

だから、私は言う。
人は、霊に成るのであり、神仏には、ならないのであると。

神仏は、妄想である。

そして、最大の誤りは、神を光と、断定することである。
我は、道なり、真理なり、生命なりとは、イエスキリストの言葉である。
光であるとは、説教の方便に、使われる。

神は、光であり、闇である。
神を見たという、有名芸能人が、光であったという。
単なる、勘違いであり、たまたま見た霊が、光を、放っていたのである。一時的にである。

神という、存在は、この宇宙の中には、いない。
その外が、どうなのか、私は、知らない。
宇宙に充満する、エネルギーを神と、総称するというなら、話は、少し解る。

神仏を妄想しなければ、ならない、人間というものの、本質を、観るべきである。

そして、何故、騙されるのかということである。

私は、神棚に、伊勢神宮の大麻、神札を、お祭りしている。
祝詞も、唱える。

しかし、本当は、何もいらない。祝詞も、必要ない。
最も、肝心要は、太陽を拝し、黙祷することである。

それ以上のことは、不遜である。

太陽が、一秒活動を停止すれば、すべてが、死滅する。
真理は、実に、単純明解である。

無いものを、あたかも、在るものの如くにして、仰々しく、行為したのは、空海が、最初である。

秘密である。
秘密の教え、つまり、密教である。
その、声明などに、秘密を隠した。
しかし、空海の、音の、理解は、仏教からではない。

古神道の、言霊を支える、音霊である。
音霊、おとたま、という。

空海は、自分の教義に足りないものを、感じていた。それが、古神道の伝統行為である。
必死に、それを、探ろうとしたが、結局、インド魔界の、呪術をする者である。
次元も質も違う。

それに、逢うはずがない。

真言宗では、今も、空海が生きていると、見立てる。
今も、その自己顕示欲を、顕示しているのである。
恐れ入る。

脳科学に、期待する。
何故、人は、騙されるのか。それは、脳に、原因があるはずである。
ある種の、錯覚を脳の、ある部分が起こすのである。
騙される人は、そこの部分が、肥大化しているはずである。

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2007年12月14日

神仏は妄想である 14

法華経が、悪魔の好む経典である。地獄行きの経典であると、書いてから、私の知り合いから、我が家は、日蓮宗ですとの、話を、多く聞いた。

驚きと、感嘆である。

もし、法華経が、悪魔の好む経典なら、それが、本当なら、先祖たちは、救われない。地獄に落ちいてるのかと、思うらしい。

全く、心配は、いらない。
霊界には、天国も、極楽も、地獄も無い。
あるのは、次元のレベルである。

私も、法華経を唱える。
訳が、見事だからだ。
実に、漢文として、面白い。
あれ程、見事に、漢文に訳すと言う才能は、驚嘆に値する。

方便品第十六の、最初の文句は、自我得仏来である。
じがとくぶつらい、である。
仏が、私に来ると共に、私が、仏を得る。漢字の意味を、探っても、面白いのである。しかし、漢字の意味ではない。内容は、漢字で、探れば、誤る。

ところが、漢字の意味で、解釈する僧、多数いるから、驚く。

日本書記における、仏教伝来は、欽明天皇の時代である。
百済が、初めて朝廷に、仏像を献上したとある。
538年頃である。

その時、天皇は、それを礼拝するべきか、どうかと、皆に、問う。
蘇我馬子の父、蘇我稲目が賛成であり、物部尾輿が反対し、争ったとある。

結果、仏教は、争いの種を、大和にもたらすのである。

物部と、中臣は、まさに今、改めて蕃神 となりのくにのかみ を拝むこと、おそらくは、国神 くにつかみ の怒りを致したまはむことを、と、言うのである。

仏のこと、蕃神 となりのくにのかみ という意識しかなかったのである。

しかし、これから、仏の教えを受け入れる、拒否するということでの、壮絶な戦いが、はじまる。

蘇我馬子と、その三代が、政権搾取と共に、崇仏派として、物部を主とする、否定派と、戦うのである。

結果、大化の改新によって、一応の決着は着く。が、仏教は、伝来以来、加持祈祷という、病に関する、絶大な力を誇り、古代の人の心をつかむ。
病に関しては、無力であった時代である。

仏教は、医師と、薬の、知識を伴ったことが、大きな影響を与えた。

それまでは、神道という言葉さえなく、神ながら、という、おのづからのままに、という、行為であった。
つまり、思想体系も無く、論理的構造の無いという、行為のみの、先祖から伝えられたものであった。

無体系は、そのまま、抱擁のある、ものである。
そこに、病治癒としての、仏教は、自然に入り込むことが出来た。

仏教自体にも、根本の教えは、慈悲であるから、融合することの、ものが、あった。
一神教のように、排他的、非寛容ではない。

ただし、蘇我家のように、政治利用しようとする時に、争いが起こる。

実は、古代史の中でも、蘇我馬子による、崇仏派の争いは、最大である。
宗教戦争は、戦争の最も大なるものである。
仏教伝来の歴史は、流血の歴史でもある。

現代においても、神道の、思想体系は、無いと言ってもよい。もし、それを、あるとして、神道を語る者がいれば、それは、神道ではない。
神道は、語らないものだからだ。
それを、言挙げせず、という。

また、神道を、学ぶのに、古事記等の、歴史書、特に、神話の部分をもって、神学のように、扱っても、詮無いことなのだ。

神道系の宗教、及び、霊能的行為をする者、それは、その者によるものであり、それが、真実、ではない。
何かを限定すれば、それは、神道ではなく、単なる、一つの宗教になる。
故に、神道、古神道として、何かの思想体系を持てば、それは、嘘であるということだ。

唯神 神ながら かんながら という道は、多神教、汎神論などというものでもない。
要するに、宗教体系にあるものではないということである。

神々は、先祖であり、自然現象の神格化である。

本居宣長は、道々しき意 こころ も語 ことばも見えず、という。

実は、神道ですら無いのである。

在りて在る如く なのである。

百済から、最初に仏像が、もたらされたということが、象徴的である。
拝む対象を、像として、造るという行為は、日本の伝統には無い。

行為のみである。
そして、言霊の宣言のみである。

あえて言うならば、三種の神器があることである。
玉と、鏡と、剣である。

兎も角、日本古代史、最大の戦争、同族間の争いを、誘発したということが、問題である。
それは、宗教の、最大のテーマである。
何故、争うのか。

その後の、日本は、神と仏との融合をして、長きに渡る歴史を持つ。
神仏混合というが、それは、神道は、宗教ではないと言うことが、ポイントである。
そして、仏の教えにある、寛容性である。
勿論、戦争は大罪である。殺生という、殺しを、最も、戒めた教えである。

これは、私の霊学であるが、仏陀は、日本民族と同一の部族であったということである。
それについては、日本の歴史についてで書くことにする。

日本の王朝の歴史は、9,000年程の歴史を有する。
列島が、分断される前に、一度、日本から、大陸へ、旅をして、王朝を立てている。
その、王朝が、再び、故郷帰りで、富士王朝を建てたのである。

大陸から、列島が、切り離されたのが、1万2千年前である。
つまり、日本の歴史は、それ以前からあると、考えられるのである。

仏教からの、最大の影響は、思索であった。
人生を見つめる、手立てとしての、思索を与えたのである。
勿論、中国を通してのものであるから、中国思想に、大きく拠るものである。

しかし、それは、仏教の断面である。
奈良の仏教により、より深く、仏教を知ることになる。
だが、平安時代初期、最澄と空海によって、仏教から離れ、密教へと、変化してゆく。つまり、仏教から、大きく離れた新宗教であり、更に、鎌倉時代になると、鎌倉仏教と言われる、新興宗教が、生まれる。

それらは、仏教とは言えないのである。
仏典をダシにした、思想であり、文学という芸術活動である。

天竺が、日本から遠いように、仏陀の教えから、遠く離れて、名のみ、仏教と言われるが、全く、別物として、考えるべきである。

今は、それすらも、無く、形式に堕し、教義も、空虚であり、実体は、何も無い。
実に、神道化しているのであるが、それに、僧侶たちは、気づくことも無い。
ここで言う、神道化しているというのは、ある種の、体系的神道であり、唯神、神ながらの道ではない。

先にも言うように、体系化する神道とは、神道ではない。
日本の伝統行為には、名は無いのである。
在りて在るように、なのである。
例えで言えば、花が咲くように、である。
花は、咲くのである。咲くものを、花と言う。
日本の伝統行為とは、そういうものである。

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2007年12月16日

神仏は妄想である 16

私の近所を歩くと、天理教の教会が、四件ある。
一丁にも、満たない場所に、四箇所もの、教会である。
戦後、天理教は、国会議員を出した程、隆盛した時期がある。

現世利益の、最もたる宗教であった。

私の、母方の祖父母は、熱心な天理教信者である。
私も、子供の頃に、教会に、何度となくつれて行かれた。
その頃の、町の天理教の教会は、実に、大勢の信者を、擁していた。

しかし、私がカトリックの洗礼を受けてから、祖母は、別にして、祖父は、非常に嫌った。ヤソ教として、嫌った。
それは、戦争体験からも、頷ける。

ただ、私は、祖父母の信仰深い行為を、尊敬していた。

悪しきをはらうて 助けたまへ てんりんおうの みこと
その祈りの言葉を、当たり前に聞いて、子供の頃を、過ごした。

教祖、中山みき、という、婆さんに関しては、その、奉仕と、施しの精神には、感服するのである。

しかし、教祖の生き方のみで、終われば、問題はなかった。
教団としての、組織を作ることから、教祖自身の、良き行いも、無に帰すのである。

現在の天理教の信者は、中山みきを、神と、思い込むのである。
それは、みきの体に、神が、懸ったからである。

みきが、三日三晩、錯乱した時、天の将軍と名乗る霊が、懸る。
霊に、憑かれたといってよい。

そして、その霊の正体が、何かである。

実に、愚鈍な霊である。

ただし、霊は、霊である。
その霊が、天の将軍と、言ったところで、勝手に言うことである。
一体、天の将軍とは、何か。
ここで、教祖となった、中山みきという、婆さんの、知的レベルが、解る。

信仰深い、婆さんであったことは、確かである。
念仏宗である。

江戸時代末期の、大和地方は、数多くの仏教寺院が乱立していた。
その中で、抜きん出ていた宗派は、宗教ヤクザの、浄土真宗である。

体制に、しっかりと、寄りかかり、磐石な、組織を作り上げていた。

しかし、組織が大きくなると、必ず、反体制の運動が、起こる。
本願寺に対する、反体制の、念仏の集いが起こるのである。
隠れ念仏ともいう。

後に、みきも、その隠れ念仏の様式を、取り入れていることが、解る。

私が、いいたいことは、宗教評論家ではないから、その神の正体である。
それは、現在の天理教の教団を、見れば、一目瞭然である。

その後、中山みきは、死後、幾人かの、人にコンタクトをしている。
それにより、天理教から分派した、グループもいる。
更に、それにより、霊能力を発揮して、活動している者もいる。

祖父母が、熱心に信仰していた、宗教であるが、その程度の、教祖が、死後に人に懸る程度の宗教だということだ。
次元のレベルが、解る。

そして、驚いたことは、祖母が亡くなる前、朦朧とした意識の中で、屋根に、阿弥陀様が、迎えに来ているというのである。
これは、完璧に、天理王という神の正体が、丸見えである。

要するに、単なる霊なのである。
自己顕示欲の強い、少しく、迷う霊である。
その、物言いから、武士の霊であり、更に、その背後に、野心の強い、霊体の集団がある。

大変申し訳ないが、動物の霊の集団を、司る、霊の一味である。
修験道系の、天狗等々の、霊団といえる。

ある、神道系の、霊能者は、亀であると、判断した。
霊界の亀である。
言うほうも、言うほうだが、愚鈍な亀である。

大本教の、出口ナオのものも、中山みきの、お筆先も、実に、くどいのである。
岡本天明という、日月神示という、お筆先などは、具合が悪くなるほど、くどいのである。

頭の悪い霊が、喋るのを、書くからである。

神が、憑いたということは、理解するが、神という、存在は、霊界には無いのであから、霊なのである。
霊を、神と、誤る程、ボケているということだ。

みきの、口から出る霊の言葉を、鵜呑みにしたという、愚かさである。
勿論、霊が、みきの体から、抜けなかったということもある。
実に、しつこい、レベルの低い霊である。

解りました、みきを、差し上げますと、言うと、霊が抜けた。
霊媒体質と、言ってられないのだ。

教団設立に関する歴史等に関しては、いずれ、また、書くことにするが、現在の天理教の、行為行動である。

一時期、搾取の宗教と、言われた程、信徒から、献金を集めた。
教祖の、行為とは、全く別で、屋敷を払って、教会に金を入れるということである。
本部には、お金を入れる柱がある。
仰天する。
あまりにも、愚かである。

天理教教会が、よく、火事を起こすということは、知られていない。
あれは、霊的障害である。
信徒の少年によって、本部の神殿まで、焼けたこともある。
教祖の代々の者、真柱というが、それも、幹部も、霊的障害と、見抜けない程、霊的に未熟である。

血縁が、代々継ぐということから、誤った教団であるということが、解る。
世襲制になって、仏教教団も、どこも、かしこも、おかしくなっている。
血縁は、有り得ない。

古事記を真似た、勝手解釈の、開闢物語を、平気で、信徒の子供たちに、教えるという、馬鹿馬鹿しさである。
古事記の、嘘が、見破れないほど、霊感が無いということを、証明するのである。

そして、いつの間にか、教派神道ということになっている。
教派神道とは、神道に、準じたものということであり、教団設立のために、考えた方便であるはずが、教義になったという、仰天である。

私の、祖父母は、天理教が言う、神の世界には、入らなかったことが、幸いである。
小さな、天理教の霊界を、作って、そこを、天の国だと、思っているのであるから、哀れである。

だいたい、本部に、信徒の霊が、集うのが、関の山である。
何しろ、行くところが無い。

天理教の霊界は、本部教会という、アホらしさである。

故に、益々、霊的障害が、起こる。
お参りに行き、気分の悪くなる人、異常に疲れる人が、大勢いる。

死んだ信徒が、生きている信徒に、憑くのである。

死ぬことを、出直しと言うが、出直しする信徒は、霊界で、天理教から、全く隔絶された、次元に行く。

死んだ信徒が、生きている信徒に憑いて、せっせと、金を、運ばせるのだから、終わっている。

ちなみに、天理教の大教会という場所に行くと、寒々としたものを、感じる。それなら、小さな、熱心な信者の教会の方が、温かい。
つまり、知らないゆえに、信じて、拝む、熱心な信者のいる方が、まだ、真っ当であるということだ。

こういうことである。
誤った神というものを、拝んでも、拝む者の心が、天理教の神もどきの波動を受けないことにより、真っ当な、信仰行為を、行っているといことである。

真っ当な、信仰行為とは、何か。
それが、問題である。
以下、省略。

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2007年12月17日

神仏は妄想である 17

神仏は妄想である、というエッセイを書いている。
これからも、各宗教のことを書くが、実は、本質的問題がある。

今回は、少し、それに、触れる。
そのために、社会的地位のある方、つまり、私のような、無名の者、学者でもなく、素人が書くものより、説得力があるだろうと、思われる方の、論文から、紹介する。

神学学者であり、大学の教授でもある、田川健三氏の、宗教批判をめぐる、から、引用する。

つまり、結論から言えば、人間の生の原因は人間の生であり、人間の生の結果として人間の生が生み出される。因と果は分けることができない。そして、この複雑多岐な働きかたの総体が人間の歴史である。

宗教を越える、という中の、人は何のために生きるか、という題の文章からである。

人間が何かのために生きる、などということがあってはならない。人間の生は「何か或るもの」などをはるかに超えた巨大な質のものである。人間の生をけちくさい「何ものか」のために犠牲にしたり、縮小したりしてはならない。

この、或るものとは、宗教である。と、私は、解釈する。
生を、けちくさい、何ものかのために、犠牲にしたり、縮小してはならないと言う。
実に、真っ当な感覚である。

さて、続きを読む。

ところが、人は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。あるいは、人間の生のごく一部を外に投影して、そこから人間の生が生まれて来るの如くに錯覚する。人間の生の「原点」などという発想は、その種の錯覚から出発して、それを哲学的もしくは文学的にこねくりまわしたものにすぎぬ。

まさに、多くの新興宗教が、成すことである。
また、伝統宗教というものも、それに尽きるのである。
哲学的、文学的に、こねくり回すというのである。

こういう場合、「根拠」は目的と大差なくなる。「何によって」がいつのまにか「何のため」にすりかえられる。人間の生の外にあるもの、あるいは外にあると錯覚した人間の生のごく一部の抽象、によって人間の生の全体をとりしきろうとすれば、人間の生に対していやらしいゆがみをもたらすことになる。

ここまで、読んで理解出来ない人は、宗教に騙される。
要するに、頭が悪い。
信仰深い人に、頭が悪い人が大勢いるのである。
ある程度の、思考に耐えられないのである。故に、お任せのような、信仰にのめり込み、そして、また、頭の悪い人を、勧誘して、仲間を作ろうとする。

ある、題目を唱える、巨大宗教団体は、敵を倒せ、味方を増やせと言う。そうして、はっぱを掛けられて、仲良しクラブを作るのである。
支配者には、都合がいい。人が集えば、金が集まるのである。
それに、アホだから、自分を捨てて、自分の外にあると思う、ご本尊に、身を預けるのである。

続けて読む。

そういうゆがみに我慢することができる人がいるとすれば、その人は、思想においてはそういうことを真理として説きながらも、自分自身の食って寝る現実の生活の思想と切り離してある程度円満に充実していとなむことができているからである。あるいはむしろ、そのゆがみをもたらす思想の現実的影響とは無関係に円満に充足させているからである。

これは、宗教指導者のことである。
宗教の組織にある、支配者層のことである。
教祖や、幹部、会長や、それに、付随する、ずるい者どもである。

自民党・文部省のたくらむ道徳教育や生きがい論、それと本質的にはほとんど変わらないキリスト教仏教その他の宗教家の宣伝する生きがい論、あるいはそういったもののたいこもちをやらかす作家や哲学者、評論家や大学教授の語る人生論的説教など、いずれも、自分ではその思想のもたらすゆがみの被害を蒙ることなく、多数の大衆にはそのゆがみの結果を押し付けるものである。

要するに、生計を立てるべくの行為行動である。
自分は、痛くも痒くもないのである。ただ、金を得ることができるのである。
特に、巨大宗教団体などから、賞賛されると、本は売れる、講演依頼は来る。そういう、輩は、また、有名になることを、求める。
大河の一滴、などで、僧侶のように、エッセイを書く作家もいた。今も、生きている。恥ずかしげもなく、堂々として、迷いの言葉を書き続けているが、読む人は、それによって、安心を得るという、不思議な現象を起こしている。
つまり、戯言、なのであるが、本人は、信じている振りをするのである。
そこまで、言うなら、すべてを捨てて、出家してもいいはずである。
要するに、面倒なことは、したくないが、尊敬は受けたいのである。

そういった説教家たちも、本当は、必ずしも円満に充足した生活を送っているわけではないだろう。彼らなりにゆがんだ生活の中に沈んでもいよう。しかし少なくとも彼らは、自分たち自身の生活については、自分たちが他人にむかって説教する人生の目的だの根拠だのに本気になって全生活をかけようなどとしているわけではない。毎日の食って寝る生活の大部分かつ最も重要な部分は、人生の目的だの根拠だのということに無関係に維持しているのである。

僧侶になった、見苦しい女性作家がいる。
堂々として、宴席では、上座に座り、特別扱いをされて、平然としている。
自分のやってきたことは、棚に上げて、人に、説教、それも、仏のお話をするという、仰天である。
裏の話を聞けば、人は、信じられないだろうが、信じられないような、人間である。
天台宗というから、頷く。
権威の何ものでもない。
僧侶ということは、少なくても、世の中の、どうでもよいことに、関係なく過ごすはずであるが、世の中に、幅かって、平然としている。
ファンが多いから、また、驚く。
大衆は、本当に騙されるのが好きである。

食って寝る生活がとりあえず豊かに、心配なく維持されるように保障されているから、それと無関係なところで抽象的に人生の目的だの根拠だのについての思念をもてあそぶことができる。しかし大部分の人間にとってはそうはいかない。最大限の努力をすることで辛うじて食って寝る生活を維持しているのだし、それすらしばしば不安にさらされる。そういう人たちにむかって、生活の現実から離れた抽象的な人生論を説教して、生活の基盤から目をそむけるようにしむけるのは、思想的な収奪、観念の搾取というべきことである。

もしも人間の生とは何か、などとたずねられたら、それは人間の生の全体である、と答える以外にない。それ以外の答えは危険である。

この文は、田川氏の、最初の切り口である。
これから、延々として、論文は続く。
これは、宗教を越えるという、一説からのものである。
聖書学者、神学者であり、さらに、世界的視点からの、論文は、実に、有意義である。

宗教的感性は知性の退廃を救えない、と、判断する、見識は、実に真っ当である。

宗教家の手口は、簡単である。
言葉にできないものがある、という、手である。
さんざん、喋るくせに、最後になると、語りきれないもの、それが、神である、仏である云々と。
では、最初から、語ることなく、行為のみに、専心すればいいのだ。
しかし、それは、しない。

架空の商売をして、金を得ることを、詐欺という。
宗教家は、その妄想を、詐欺であるとは、全く思いもしない。
知性の無い、善意ほど、迷惑なものはないのである。

自分の外に、超越したものを、置くという、大きな誤りが、宗教というものの、本質である。

だから、言う。
神仏は、妄想である、と。

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2007年12月18日

神仏は妄想である 18

田川健三氏の、専攻は、新約聖書学である。
その、マタイ福音書に関する、論文には、目を開かれた。
すべての、著作を読んではいないが、これから、すべて取り寄せ、学んでみたいと思っている。

近世は知性優先の時代であると考えられてきた。そして近代の矛盾は今やさまざまなところで露出してきたように見える。・・・・まして、その日本その他の比較的少数の経済的先進国の繁栄のために、世界中の大多数の土地では、あらゆる社会的混乱がひきおこされ、貧困が押し付けられ、そして、社会的不正に対して戦う者は痛めつけられている。こういった近代の世界的規模での害悪は、もしかすると人間があまりに「知性」に頼りすぎて、そろばんと電子計算機で何でもやれると思ってきたせいではないのだうろか。

上記は、実に、品のある書き方である。
私なら、感情的に激して、書く。

ある、政治家は、テロの発生の云々は、貧困によるものであり、それを、解決することで、云々と言う、寝ぼけたことを言う。
その貧困を生み出しているのは、ほんの僅かな、日本を含めた、先進国であること、重々証明済みである。

そして、テロは、貧困ではない。
思想である。
テロリストたちは、徹底した、思想教育によって、成る。

搾取を続けている、政治家が、たわけたことを言う。お前が、原因であろう。お前がテロに遭うべきだと思うが、それを、口に出すことは出来ないのである。
お前の所有する、車の台数分の人の命が、貧しい国の人を殺しているとは、想像出来ないのである。
世界が、結び合っているのであることを、心底知らないのである。

知的な合理性だけでごり押しされると、感性が痛みだす。そのうち耐え切れなくなって爆発する。とすれば、爆発する感性が悪いのではなく、そこまで追いつめた方が悪いにきまっている。実際にそのように感性が爆発することによって、ごり押しされていたのだということがわかる。従ってそういう意味で、「合理性」の行き過ぎに対して感性を持ち出すことは、間違っているどころか、正しい叫びである。

宗教家が、突かない、社会問題を持って、宗教批判を展開するという、田川氏の、知性である。
具体的に、彼は、社会生活における、様々な問題を提示する。

日本の宗教団体は、政治家の支援をするが、政治的問題には、問題意識皆無である。

のうのうとして、妄想の教義の上に、さらに、のうのうとして、生活している。つまり、田川氏の言う、食って寝る生活を、平然としているのである。

更に、政党や政治家が、民衆の立場に立ちという、言葉は、詭弁に過ぎない。特に、選挙の時に言う。
しかし、選挙に勝てば、言ったことを忘れるし、実は、民衆の立場に立つという言葉からして、おかしい。
あえて、民衆の立場に立つということは、たっていない、証拠である。

兎に角、国会議員になりたくて、しょうがない。だから、嘘でも、何でも言う。議員になれば、支配層に入る。そして、特権特権、また、特権である。
楽しい、嬉しい、やめられない、議員生活である。
余程、運が悪くなければ、旨い話が、たくさんある。運が悪いものが、たまたま、賄賂などが、発覚して、自滅するのみ。

けれども、このような問題を感性の復権の必要性、という主張にまとめるとしたら、それでは中途半端である。そしてまた、「知性」に対立すねものとして、「感性」をとらえ、両者の関係を見る、という問題のたてかたも間違っている。感性によって知性を克服する、という発想は、どこか正しくない。中途半端だというのは、これではたまらぬと感性が叫び声をあげるのはいわば出発点にすぎないからである。・・・その活動は問題を見通す鋭い知性に支えられねばならないのである。

こうした、序文から、田川氏は、宗教を越えるという、論文の論旨が、展開される。
聖書学者であるから、キリスト教の批判も、さながら、支離滅裂の仏教の教義も、乗せられる。
加えて、利己的な遺伝子の学者の、神は妄想である、を加えれば、キリスト教はおろか、すべての宗教は、壊滅する。

無知蒙昧、あるいは、生まれた時からの、洗脳による、宗教教育の大罪が、明確にされる。

ただし、言っておくが、私は、宗教的行為を、否定するのではない。
宗教を否定するのであり、宗教的、つまり、在るものを、在るままにという、日本の伝統にある、宗教的である行為は、否定しない。

それは、おいおいと書く。
おいおいと書くには、訳がある。
一気に書くと、誤解される。
要するに、神道なのだろうという、短絡的アホがいるからである。

日本の伝統は、神道とも、言わない。
その言葉自体無いのである。

ただかみのみち、かんながら、という言葉も、神という言葉が入る。
唯神、かんながら、と書くと、すでに、神という文字に対する。イメージが先行するのである。

例えば、日本の神とは、今、目の前に生きている者を、神と、呼ぶこともあったという。
尊敬すべき人を、尊、命、みこと、と呼んだ。

仏陀も、生きているうちから、悟った者、覚者、聖者として、語り掛けられた。

神という言葉の、概念、観念が、全く違うのである。

だから、おいおいと、書くのである。
伏線を長くして、理解して貰うためである。

つまり、神仏は、妄想であるという、神仏に、日本の伝統行為は、当たらないということを、言うのである。

それが、この、エッセイの、目的である。

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2007年12月19日

神仏は妄想である 19

あるピアニストから、連絡を受けた。
ある、新興宗教の勧誘があったという。

それが、最初は、先祖の供養である。
500円という、金を集める。最初は、500円だから、まあーと、思う。
それから、何度目かに、何とかの、こんとかで、1500円を払った。そして、いよいよ、近くの支部へとの、誘いである。

ソプラノという、声楽をする女たちが、信者になっているという。
その訳は、コンサートの客である。信者になれば、会員になれば、そこから、客になる、信者が、集うのである。

このように、それを、餌にして、信者や、会員を集める宗教が、多い。

私も、巨大新宗教の勧誘で、コンサートに、お客が、集まるというものだった。

動員するのである。
信者や会員を、である。

芸能人も、それらを、無視出来ず、集いに顔を出す。
あの、有名人も、来ているという、驚きと、感激である。

更に、広告塔になる者もいる。

S苑という、新宗教は、実体の無い教義であるが、入れ込む人がいる。
どう、良く解釈しても、真っ当ではない。
その、団体のみに、通用する言葉多く、霊能者養成には、唖然とする。

兎も角、天台密、真言密、そして、S密というから、密教のようである。密教の新宗教は、他にも、ある。
阿含経を信奉する団体である。

何度も言うが、密教は、仏教ではない。
とすると、天台なども、仏教ではないと、根本から、覆る。しかし、誰も、それを、言わない。権威を持ったからである。
最澄は、国の命を受けての、留学である。
そして、野心家の、空海である。

中国から、とんでもない、教義と、霊団を引き連れてきている。

その末裔の、野心ある、霊団の一つに、罹られたといってよい。
単純に、ご供養を、ご供養をと言い、金を信者に集めさせているのである。
そうして、多くの因縁を集めて、一体、誰が、それを、清めて祓うのかという。
そんなことが、出来るはずもない。
単に、浮遊する霊を集めているのである。

そんな場所に行けば、どこかが、必ず狂ってくる。
まず、目である。
涙もろくなるのか、変に、潤む。
空の元気が出る。
そして、次第に、心が空虚になり、ついには、心が占領される。

それも、一つの洗脳である。

そして、稚拙な用語に、深い意味を感じるという、狂いである。

ある、巨大教団の、トップの歌である。
仏法は 勝負なりせば 勝ちまくれ 豊かな喜び 今日も明日も

新年の歌である。
あまりに、稚拙で、唖然である。
仏法というものは、勝負なのであるから、勝ちまくれ。豊かな喜びは、今日も明日もあるという意味なのであろうが、それにしても、稚拙過ぎる。

ところが、その方の、文章は、皆々、そのようである。
世界の偉人たちの言葉を、引用するが、言うことは、いつも同じ。
そのせいか、その団体の新聞には、いつものように、勇敢に語れ、大誠実を尽くせ。打って出よ。一人また一人と味方を。友情の拡大は仏縁の拡大等々。
民衆と共に苦労せよ、などというと、一体、何を持っての、論調なのか、理解に苦しむ。

小学生の標語のようにして、気勢を上げるのである。

国民を誤魔化す、中国共産党のような、スローガンを、平気で掲げるという、稚拙である。

余程、青少年の頃に、読書をしてないのだろうと、思う。
多くを読んでも、思索の方法を知らなかったのだろうと思う。
つまり、字義にのみ、囚われて、完全に文章の意味するものを、読み解けなかったのである。

短歌の一つも、満足によめないのであから、日本人としては、全く欄外である。

悔いもなく 万歳叫ばむ 元朝に 偉大な勝利の 人生楽しく

ああっー、である。
学童以前の、この稚拙さは、救いようがない。

叫ぶというのを、叫ばむという。叫ばん、ということだろが・・・元朝とは、造語なのであろう。悔いなく、万歳と叫ぶ、元の朝とは、元旦に、叫ぶのだろう。偉大な勝利の、とは、一体、何の勝利なのか。信者から集めた金を、世界にばら撒き、一人、世界の精神指導者だと、信じ込んでいる様、哀れというしかない。

それならば、まだ、大本教、天理教の、婆さんたちの、お筆先の方が、真っ当である。
あの、低能レベルの、お筆先の方が、まだ、余情がある。

明治、大正、昭和天皇、等々の陛下の歌の数々とは、天地の差であり、実に、恥ずかしいのである。あれを、世界中に、披露していると、思うと、ぞっとする。

偉大な勝利の人生楽しく、などとは、完全、トチ狂っている。
自分は、そうして、楽しいのであろう。
末端の信者は、年末に、支部の目標額を、献金するために、せっせと、金を集めているというのに。

兎に角、PL教団なども、金集めに、必死だった。
当初の、あの、紙袋は、仰天したものである。
毎日、その袋に献金を入れて、収めるのである。

その教祖が、ローマ法王に、謁見した時に、車椅子に乗り、何と、法王に、意見するような、写真を、教団の新聞一面に載せて、カトリックと、結ぶPLと書くから、ローマカトリックが、教団の目標なのであろう。

もう、35年以上前のことである。

一人の人間の、野心の犠牲になる、愚かな人々。
実に、宗教というもの、悪どいものである。

皆々、妄想である。
言語同断に、神は、無い。
仏も、無い。

仏は、仏陀で終わった。
永遠の仏など、無い。

神もどき、仏もどきになりたいというなら、話は解る。
食って寝るのに、困らない者が、神や仏を、いくら叫んでも、詮無い、詮無いことである。



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2008年01月01日

神仏は妄想である 20

田川健三氏の、宗教を越える、を、読み続ける。

近代的技術や資本の論理による暴力に対して立ち向かい、反撃し、克服するには、彼らが考えてもいない数多くの水準にわたって深く鋭い洞察力を持つことが必要なのである。

いよいよ、宗教というものの、姿が見えてくるのである。
宗教的思考とは、このようなことを言うのである。
誇大妄想の、云々ではない。
そういう意味では、日蓮など、当時の不安感と、恐れによる予言、立正安国論については、実に、理解する。ただし、彼は、遂に、ただ、唱えるだけの、詭弁になったということである。
軽薄だったのは、誤った神や仏を拝むから、日本は滅びるといったような、短絡思考である。結果は、田舎者の、戯言になってしまったのは、劣等感のみの故であることが、判明した。
しかし、今も、その日蓮のように、法華経を奉じる国でなければ、滅びるという、アホがいるから、世話がない。
国立戒壇を設けよと言うから、頭の程度を疑う。
日蓮正宗の、信徒の団体である。ケンセイ会といったようであるが、忘れた。
会員獲得のための、行為で、警察沙汰になったのは、昨年である。

確かに相手は暴力なのだから、それに立ち向かうにはこちらも持続する力を持たねばならぬ。ただの知性からは力は出て来るまい。しかし、その力は深く鋭い洞察によって支えられねばならぬ。この洞察を知性と呼ぶか、合理性と呼ぶかといったことは本当はどうでもよい問題である。ただ、合理主義ではだめだったから今度は非合理で行こうかとか、知性ではだめだったから感性で、というようなことでは、初歩的な力にはなっても、問題のひろがりは見えてこないのである。

大半が、この程度のところで、何とか、議論を続けようとするが、それでは、駄目だと言う。
問題の広がりと、田川氏は、言う。
問題の広がりこそ、宗教の務めであるが、宗教は、全く、逆である。
問題を、逆に狭めるのである。
宗教家が、特に、巨大教団のトップが、いくら、メッセージを発しても、何の役にも立たないのである。
それは、偏狭だからであり、全く、自分の身には、関係ないからである。
痛みを知るはずの、宗教家が、実は、一番、大衆の痛みを知らないのである。

感性と感性でむき出しに押し合ったら、少数者の感性がいかに正しくとも、暴力的に押し流されてしまう。いわゆる近代的合理主義が何のかのと言っても強いのは、決して感性を無視してそろばんづくで押し通しているからではない。むしろ多数の者、あるいは少なくとも何らかの意味で立場の強い者たちの感性をうまく自分の側にひきつけ、彼らの感性を実現する合理性を作り上げてきたからである。そろばんやコンピューターが知性なのではない。むしろそろばんやコンピューターこそが多数の感性を代弁する。

実は、地球が危ないと言って、様々な試みが、開始されているが、嘘である。
本当に危機感を感じているならば、事は、もっと、迅速である。
環境云々という話は、実に、荒唐無稽なものである。
私に言わせれば、今更、何を言うということである。
一々、例を上げないが、嘘だらけである。

多くの取り組みが成されているというが、その実、何も意味無いことかもしれない。
矛盾するが言う。
地球が、謀反を起こせば、すべては、無に帰す。

植林、緑の運動等々は、素晴らしい。
水没する島を救えというのもいい。

だが、肝心なことは、地球、すなわち自然の働きに、適わないということである。
何も、自然破壊を推し進めてもいいと言うのではない。

後戻り出来ない程、自然を破壊して、何を言うということである。

霊学から言えば、自然破壊は、自然汚染であり、それは、汚れである。汚れは、穢れである。穢れは、清め祓いが必要である。
それを、せずに、自然を守ると言っても、詮無いこと。

これは、たった一つ例であるが、日本の伝統は、まず、穢れ祓いから、始まる。
穢れを起こした、私が、まず、身を清めて、それから、取り掛かるのである。
目に見えない、自然の脅威と、自然の恵みに報恩感謝の行為である。
もう、この辺から、意味が解らなくなるだろうが、言う。

自然というものは、目に見えないものである。
山川草木という、目に見えるものの、後ろにある、目に見えない働きが、自然である。
その、目に見えない自然に対して、執り行う行為を、日本の伝統は、受け継いでいる。

植樹する前に、何をするのか。
日本の伝統は、祝いの言葉を、宣べるのである。つまり、祝詞である。
寿ぎの言葉、つまり、言霊があってはじめて、その行為が、目に見えない自然を、動かすということである。

もし、宗教というものが、私の概念での、宗教というものがあるとしたら、それである。

アフリカの、マータイさんという、おばさんが、もったいない運動を展開していると、喧伝するが、彼女は、もったいないという、心を知るはずがない。
もったいない、という言葉は、世界に発信するものではなく、言語同断に、実践するものだからである。
それで、有名になっているとしたら、嘘である。

実に、実のものは、秘するものである。

あれには、作為がある。
勿論、喧伝することには、何も問題は無い。
勝手にやっていれば、よい。それなのに、誰かが、それを、宣伝する。おかしい。
ある宗教団体が、特に、彼女を取り上げている。

他人の苦痛を共感しうるようになるためには、深く鋭い知性が必要である。というよりも、深く鋭い知性ならばそのように共感して動き出す感性にまでとどくはずだと思う。深いところでは、感性は知性によって動かされ、知性は感性によって支えられる。両者は混然として共鳴する。

そして、いよいよ、本題に入ってゆく。

圧倒的多数の人間は、地球の裏側の人々の餓死と自分自身の生活とが、感性的にすぐにつながって自分の胃袋がおのずと働かなくなる、というような感性の鋭さは持ち合わせていない。

そのために、知性の働きが必要だという。知性によって、感性の幅を広げることが出来るという。
これが、宗教の根本命題である。

仏陀の悟りというものも、知性が、感性を無限に拡大したものである。

既成の宗教は、知性を抑制し、感性を取り押さえて、本当の自分に、どこかで、引っかかるようにして、神や仏を、拝ませる。
更に、人権まで、蹂躙して、平然として、神や仏の名によって、信徒を、兵隊のように、扱うのである。
そして、支配する者は、神も仏も、全く意に介さないという、仰天である。

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2008年01月03日

神仏は妄想である 22

それまでは「知」の最高形態としての位置を確保していた宗教が、いつのまにか「知」の対立物として、「知」の虚妄の意味を打破するはずの「感性」として登場するようになったのか。答えは簡単である。近代になって、知の領域においては宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった。知に関しては、近代科学がそれまでの宗教のしめていた位置にとって代わった。その結果宗教は逆に、「知」に対立する領域へと逃げ込んだのである。それまでは、宗教知を克服すべきものとして出てきた「霊」も、やはり宗教的なものであった。つまり、「知」も「知の克服」も宗教の枠内にとどまった。ところが近代においては、領域が分断されて、近代科学が「知」の領域を、そしてその対立、克服の課題は「宗教」が担うようになった。近代科学は「知」の領域では宗教にとって代わることに成功したが、かつての宗教のように全人間的な支配の座につくことはできなかったからである。

田川健三氏は、一言も言わないが、宗教というものは、妄想であるから、どうにでも、理屈をつけることができるのである。あちらが駄目なら、こちらで、という風に。
兎に角、労働は、しないが、その代わり、屁理屈だけは、三人前である。

近代的な、合理主義に対して、宗教は、感性と、結びつけて、そこにこそ人間性と、宗教の根源的な、何かがあるというような、大嘘を言うのである。
宗教の本体は、虚、である。
虚、であるがゆえに、何とでもいえる。

その点、田川氏も、宗教にそのようなものを期待する、というところに近代の病根があるという。

その期待を、病根を裏返しに投影した虚像という。
病根を取り除けば、虚像も、自然消滅するという。

ここまで、分析されても、宗教家たちが、理解するのは、難しい。
要するに、彼らも、洗脳されているからである。
自己洗脳である。
一度、信じたものを、捨てる訳には、いかない。
疑惑が起こっても、安楽な生活を捨てられないのである。そして、今のところ、宗教は、潰れない。破産しないのである。

勿論、過疎地域の寺等々、田舎の寺は、廃墟になっているところ、多々ある。
また、新宗教に、取られて、信徒少なく、維持できないという。

巨大な、信徒の団体であったものを、破門した、日蓮正宗などは、最早時間の問題で、壊滅する。
トラック何台で、運んで来ていた、布施金の団体であった。
今更、悔やんでも、どうしようもない。
それのみか、宗門の方は、墓穴の堀り続けである。

その団体は、口汚く、宗門を攻撃するから、同じ穴の狢である。

要するに、座主からはじめ、信仰など、露ほどもないのである。
単に、支配欲と、金目当てである。
そんなことは、100年も前から、解っていたことである。

信仰と唱えていれば、それで、事足りた時代とは、少し変化している。
時代は、宗教の本質を、見極めてきたのである。

しかし、それだらかといって、霊感なるものも、矢張り時間の問題である。

オーラ測定器が出来て、オーラを見れるという人が少なくなった。
もう、誰も、有り難がることがない。
ただし、医者がそうであるように、矢張り人間の体温というものが、必要である。
その体温をあるように、見せかけて、詐欺をする者が、多数出てくる。
霊感、霊能商法である。

田川氏の論文は、一部のインテリに向けたものであり、下々の、騙される大衆には、効果が無い。

要するに、思考力が、非常に低く、知能のレベルも、低い故に、考えることが出来ないのである。
信じていれば、楽だから、信じるというのが、精々である。

すべてを、神に任せないさい。
髪の毛一本も、人間はどうすることも出来ない存在です。しかし、イエス様は、云々かんぬんと、勝手放題を言うのである。それに騙される者。

後々で、キリスト教全般に渡って、徹底的に、書くが、兎に角、カトリック、プロテスタント、聖書主義、新宗教等々、まあ、あれ程、勝手なことをよく、言うと思うのである。
その、聖書自体に、作為があり、イエスの言葉ではないと知ったら、どうするのだろうか。
しかし、大丈夫。
信じる者は、確実に、騙されるのである。

私は、実に、信仰深い者であるが、神仏は、妄想であることを、知っている。
神仏のみに、信仰という姿勢があるかといえば、全く違う。

神仏を信じて、騙されることが、信仰ではない。

信仰とは、生命への畏敬であり、それは、自然への、畏敬であり、全人的なものへの、畏敬である。

追々と書くことにする。

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