2007年12月01日

神仏は妄想である

ある新興宗教の、観音経というものを、見て、仰天した。
神仏混合どころではない。実に、稚拙で、お経や、祝詞の継ぎ接ぎであり、内容が、渾然として、こんがらかっている。

どうして、このような、稚拙な文句に、信者が、気づかないのかといえば、単に、知識の不足だけではなく、基本的な、常識的教養を持たないからだと思う。

今、その経典を、ここに書くことは、控える。あまりにも、稚拙であり、また、ここに載せれば、弊害があると思う。

その、新興宗教は、ある、新興宗教から出た。その、大元は、大本教である。
大本教とは、様々な、新興宗教を産んだ、大元である。
つまり、魔界関与であるこというは、このように、証明済みである。

霊団の眷属が、分散したのである。

今は、霊的なことに、触れないが、宗教というものの、原始的姿を観た。

どんな、小さな宗教団体でも、唱える経典を作る。
多くが、既成の経典、特に、仏教経典から、借用する。

例えば、足裏診断で、詐欺罪に問われた、天の声の、教祖は、般若心経を、信者に唱えさせた。
勿論、般若経から出た、般若心経のことなど、知ることもない。
単に、適当に、説得力があるゆえの、盗用である。

現在使用される、般若心経は、玄奘三蔵法師の訳である。
それ以前は、クマラジュウ訳であった。

特徴は、玄奘は、観自在菩薩である。
クマラジュウは、観世音菩薩である。

玄奘は、自在と訳した。観世音とは、違う。
つまり、お経には、訳した者の、思想が入る。当然である。
玄奘は、自在というように、我が内に在るものと観た。
外に在るものではない。内にある存在である。

しかし、これは、梵語からの訳である。それを、漢訳した。
さらに、それを、日本では、漢読みする。要するに音読みである。訓読みすれば、大和言葉に成る。

これ程、不自然なものはない。
それを、読経するのである。

内容は、あたかも、深遠で、壮大な思想を語るようであるが、単なる、言葉遊びである。
大乗思想は、空の思想であるが、その空の思想とは、実に、妄想である。
この宇宙に、空という空間は無い。
宇宙を出て初めて、空という空間がある。

大乗の空観は、インドの言葉遊びに始終する。
それを、皆々、真理だの、なんだのと、勝手に解釈する。
大般若経を読まなければ、実は、般若心経も、理解出来ないはずである。

色即是空 空即是色
物即是無 無即是物である。

何のことは無い。
桃太郎や、浦島太郎の、物語も、読む側の問題である。つまり、解釈の仕様で、如何様にでも、なる。それと、同じである。

漢字の難しいイメージが、深遠さを、語るようだが、軽薄である。

仏典とは、多くの人によって、書き足し、次々に加えられて、膨大になっていった。
般若経というものも、八千の章があるという。
大乗仏典は、その般若経から、出た。維摩経しかり、法華経、華厳経である。また、それとは、異質な、浄土経典も、はやり、それを母体にしている。

そして、その元は、二世紀の、インド哲学というか、仏教学というか、何ともいえないが、龍樹・ナーガールジュナによって、説かれ、更に、五世紀の世親・ヴァスバンドゥによって説かれた、世界には、固定した実体は無いとした、あらゆるものは、空であるという、思想からである。

彼らの、死ぬまでの暇つぶしに、付き合う必要はないが、あまりに、人々が愚かに、唱える故に、書くことにした。

甚だしい場合は、浮遊する霊を成仏させるために、唱えるというものもあり、驚くのである。また、霊の供養のためにという場合もある。

更に、甚だしいのは、霊能者と言われる者も、平然として、唱えるのである。

唱える方も、解らない。唱えられた方も、解らないという、滑稽な展開である。
笑うに、笑えないのである。

更に、読経した後の、功徳という。
功徳とは、功績とか、お返しとか、褒美である。
そんなことが、ある訳が無い。

更に、日蓮などは、法華経でなければ、救われないというから、また、とんでもなく、おかしくなる。

経典は、あくまで、本である。
本を読んで。お勉強になるということは、理解するが、それが、唯一絶対のものとなれば、言わなければならない。

小説を読むと同じように、経典も、読むべきである。
何故なら、書かれたものである。
書かれたという、時点で、それは、過ぎ去るものである。
過去の、考え方である。

過去の考え方に、普遍的なものがあるというのも、一つの思想である。

書かれたものは、お話である。

更に、古いものであり、云々ということの、話は、何の真理も無い。
それが、妄想のものであれば、妄想に過ぎないのである。

更に言うが、漢訳されたということは、漢訳した人の思いが入り、書かれていないことまで、書き足すということもあるということである。
特に、仏典の場合は、そうして、書き足されて、膨大なものになったのである。

浄土経典などは、付き合い切れない程、アホらしい話が延々と続くのである。
そんなものを、死者に唱えて、成仏も何も、あったものではない。
有り難迷惑というものである。

しかし、実際、日本仏教では、それを、唱えて善しとしているのである。
マジである。

信じられないの一言。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月02日

神仏は妄想である 2

観音様という、菩薩がいる。
架空の存在である。

仏陀在世当時の、修行者だという説もあるが、作り事である。

観音様には、様々な観音様がいる。
私は、その一つも否定はしない。
ただ、観音経という、お経から出たものであり、その実体は無いということである。

観音経は、大乗仏典の、法華経の中に入っている。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品、かんぜおんふもんぼん、である。
現在使用されている、法華経の漢訳は、名訳である、鳩摩羅什、クマラジュウの訳である。

勿論、別の訳のものもある。
例えば、正法華経とか、添品妙法蓮華経というものである。

この、妙法蓮華経に、帰依するという、南無妙法蓮華経というのが、題目である。
念仏は、阿弥陀に帰依すると、南無阿弥陀仏と、唱える。

一つは、お経に帰依するといい、一つは、観念に帰依するというから、おかしい。

兎に角、鳩摩羅什という人は、文学の天才であった。
内容より、素晴らしい漢訳をした。
読経するには、最高の訳をしたのである。
その人の話を書けば、先に進まないので、省略する。

日蓮は、すべての、宗派を否定し、妙法蓮華経により、救われると、説いた。
非常に排他的で、非寛容である。ただし、内輪には、大変、寛容で、やさしい。

御伽噺のような、法華経を、格調高く訳した、鳩摩羅什の訳に、取り込まれたのである。

その姿は、一神教に似る。
私は、すべての宗教を否定する。しかし、日蓮のように、だから、これによって、救われるというものを、提示しない。
後々に、本当のことを、書く。

さて、私の前に、仏教の様々な仏を、徹底否定した人がいる。
江戸時代の、儒者である、山方播桃、やまがたばんとう、である。
著書の、夢の代、という本に、霊魂の否定、神、仏の否定、更に、仏教批判を展開している。
仏教に、教義なるものは、皆無であるが、彼は、仏教の教義を、徹底否定し、批判した。

日本の生んだ、天才的思想家としての、一人であるといっても、過言ではない。人が知らないだけである。

観音、薬師、地蔵、阿弥陀等々を、坊主の作り事と、断定したのである。
確かに、それは、作り事である。

ただ、日本に、仏教が入ってきた時に、教えより先に、仏像製作が行われた事実がある。つまり、造形の方が先になった。
それを、拝む行為としての、仏教であった。
要するに、像を拝む宗教だった。

教義等々は、後の話である。

実は、観音様というのは、仏教のものではなかった。
西アジアで、拝まれていた神の一つであった。それが、変形して、仏教に取り入れられたものである。

現在、日本で、拝まれている、仏教系の、帝釈天や、弁天様なども、インドの神々である。
混在しているのである。
要するに、適当なものである。

観音様というものは、その像を通して、認識された。
つまり、人間の芸の技である。
・・・のような、美しい観音様、である。
この、何々のように、美しい観音様と、人間の想像の産物である。

それでは、観音経では、観音を、どのように説明するのか。
ただ、一心に観音を念ずれば、すべての問題は解決し、観音の力によって、奇跡が起こるという。念彼観音力、ねんぴかんのんりき、である。

例えば、こうである。
もし是の観世音菩薩の名を持する者あらに、たとい大火に入るとも、火も焼くこと能はず、是の菩薩の威神力によるが故に、もし大水の漂はす所となるも、その名号を称せば即ち浅き所を得ん。
というのである。
火にも、焼かれない。水にも溺れないという。

ところが、人は、観音様を唱えても、火に焼けるし、水にも、溺れるのである。
それに対して、宗教家は、言う。
観音様の、実相は、無想であると。
つまり、人の心の様を言うと。

信心が薄いから、云々という言い方もあるが、少し、知恵がつくと、うまく、逃げるのである。

確かに、観音というものは、人の心の在り様である。

火に焼かれても、水に溺れても、死んでも、無想であることを観ることが、観音を観ることだという。

実に、良い説明である。

とすれば、観音でなくても、いいのである。
何故、観音様を掲げるかといえば、人間は、弱い者だからである。
何かに、縋る、すがりたいという時に、目に見えるものが欲しいのである。

彼ら、宗教家は、何とでも言うことが、出来るというのが、ミソである。

実際、私も、観音経を上げることもある。
その、音が好きだからである。

その名を称するが故に即ち解脱することを得ん。
そのように、書かれている。
書かれているから、事実ではない。
要するに、そう思うことであるというのだ。

思い込みという、心の状態が、信仰というものを、確たるものにする。

一度、信じたものは、嘘と、解っても、捨てきれないというのが、人間の、悲しさである。たとえ、捨てたとしても、別の神様を拝みたくなる。
何かを、拝みたくてしょうがない人も、いるのである。

観音が、心の無相であれば、何も実体が無いということである。
また、観音自体も、無相である。
これは、つまり、大乗の教えの、空から、出るものだ。

空という、人知では、計ることが出来ない、境地、空間をもっての、解説である。何を、どのように、説明しても、成り立つという。

私は、宇宙の外でなければ、空という、状態は、無いと言う。

話を元に戻すと、観音というのは、我が内にあるものである。
我が内にあるものを、観音という、総称にするということである。
それは、観音でなくてもいいということだ。

何でも、いい。

昔の人は、言う。
いわしの頭も、信心から、と。

すると、キリスト教徒は、言う。
何でも、信じれば、いいというものではない。
正しい神のみを、信じることであると。
すると、イスラム教徒は、言う。それが、アッラーの神であると。

一向に、妥協しない、強い信仰というものが、それぞれで、出来上がっている。

私は言う。
そろそろ、そういう時代に、別れを告げるべきである、と。

妄想の観念に、心を捕らわれにしている様は、愚かである。

まず、ここに、気づくことである。
話は、それからである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月03日

神仏は妄想である 3

仏典、大乗仏典というものは、次々と、書き足されていった。
要するに、様々な人の、意見が取り入れられて、しまいに、訳する者が、また、手を入れるという、とんでもないことをしているのである。
経典、果たして、そんなものが、経典と成り得るのか。
成り得ているのが、仏教である。
故に、支離滅裂になる。

しかし、宗教家というのは、本当に、おめでたいというか、抜書きして、勝手な解釈をする。
何とでも、言えるのである。
それが、ミソ。

例えば、禅というもの。
何とでもいえる。
言葉で、人を煙に巻くのである。

だが、これからの時代は、かろうじて、その、禅が、残りそうである。
後は、子供の遊びのようなものであり、時代に、対処出来ない。

禅というのは、言葉遊びの、骨頂である。

至道無難という禅者の歌。
草木も国土もさらに なかりけり
ほとけといふも なおなかりけり

どうであろうか。
つまり、すべての観念は無い。あるのは、仏のみであるという。
すべてが、仏であるというのだ。
絶対否定から、悉皆成仏、つまり、すべてが、仏であるという。

こういうのを、言葉遊びという。

いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも
志貴皇子 万葉集

なかりけり なおなかりけり
それも、観念である。
それでは、志貴皇子の歌は、どうか。
目にした、春先の様を、そのままに、歌う。どちらが、自然か。
これを、古神道という。
自然と共感、共生している。

国土も草木も、仏も無いなどという、浅はかな、歌は、読まないのである。
言葉遊びと、神、自然に遊ぶのとは、違う。
自然は、神であった、日本民族である。
そこに、あたかも、在るかのように、思想という言葉が、入ってきた。それは、文明の進化としては、善し。しかし、それを、信仰という形に、観念に、置き換えたところが、勘違いである。

それを、後押しした、哲学者、西田幾太郎がいる。

宗教的意識においては、我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一するのである。そこには真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。

というのである。
呆れる。
加えて、無も無いと書けばよかったのに。

死ぬまでの、暇つぶしにはしては、凝っている。

こういうのを、西洋かぶれ、と言う。
西洋哲学の方法を、持っての、言葉遊びである。

それなら、道元に適わない。
道元の言葉は、見事な、実存哲学である。

その、道元も、仏の家に投げ入れて、と、仏の家の観念を持つ。
要するに、心身脱落を言うのであるが、心身を脱落して、どうするのか。

大悟するというのであろう。
天地宇宙と、一体になるのである。

こういうのを、アホ、バカという。
天地宇宙と、一体になり、糞小便、垂れ流して生きるのである。

それを、言うなら、いない方がよいということになる。

こういう、たわけたことに、真剣になる者もいるのである。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

大悟する人は、大悟しか、生きようがないのである。
更に、悟るということも、観念である。
自己満足の、一点に尽きる。

ところが、禅では、考案といって、師匠から、師家から、問題を出されて、それに、答えて、悟りありと、認められるというから、また、笑う。

両手を打つ。どちらの手が鳴ったか。
右でも、左でもない。
心が鳴ったのである。

船が通る。
船が動いたのか、海が動いたのか。
心が動いたのである。

アホらし。

蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることも、せず、言葉遊びである。そして、托鉢というから、さらに笑う。

生きている価値があるのか。
無い。
死ぬべきである。

坊主のところには、金が集る。
その、金を目当てに、また、それを持ち上げる、思想家がいる。
今は、宗教評論家である。

心の軽くなることを書いて、本を売る。
実に、宗教の堕落である。

舒明天皇の歌。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
ゆうされば をぐらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも

あるがままを、歌う。
自然と、共感、共生する。
何事も無い。
観念の遊びがない。

道元の歌。
峰の色 谷のひびきも 皆ながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

すべては、釈迦であるという。つまり、仏の姿であるという。
観念にやられたのである。
釈迦という、観念である。

私は、
今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
である。

我が釈迦牟尼という、妄想は、無い。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月04日

神仏は妄想である 4

長野県小諸市の、新興宗教の殺人事件で、解ったことは、暴力が、常態化していたということである。

単なる水を、奇跡の水として売っていたというのは、可愛げがあるが、結果、暴力常態化という、状態に陥るのである。

すべての、宗教が、そうであると、断言できる。

小諸の新興宗教の話ではない。
皆々、宗教とは、そのような状態に陥るのである。
何故か。
そこに、魔がいるからであり、魔が、宗教を作るからである。

野心の強い、霊、この場合は、悪霊、邪霊、浮遊霊、そして、魔界の霊団である。

ちなみに、言うが、宇宙には、神ではなく、霊がいるのである。
その霊体が、便宜上、神と名乗ることもある。
特別な場合である。
そういう霊体は、高い次元の空間にいる。
次元の波動が、違う。

また、そのような、高い霊の世界に在る霊は、基本的に、奇跡ということを、起さないのである。

さて、宗教団体の暴力である。
背後の霊団が、暴力団のような霊団であるから、結果、信徒が、その波動に、凶暴化する。
そして、他の宗教をはじめとして、自分たちに反対する者、逆らう者、批判する者、等々を、暴力にて、抹殺しようとする。

あの、O教団は、武器まで製造して、国内戦争をしようとしていた。
驚くべき、暴力の、様である。

ここ数年でも、小さな教団、新興宗教による、殺人事件や、奇怪な事件が多かった。
すべて、邪霊、悪霊の類が、憑いたのである。

そのような霊が憑けば、当然、威力を増し、信者をどんどんと、増やす。
人は、悪に惹かれる。勿論、信じる人は、悪霊などとは、思わない。それを、神だと、信じるのである。

新興宗教から、また、新宗教が、続々と現れるというのも、霊の分散である。

邪霊、悪霊、まして、魔界の霊団が、調和することなどない。
分裂に、分裂を重ねる。

大本教から、分散した、宗教は、数知れない。
それほど、大霊団による、宗教創作だった。

勿論、仏教系も多々ある。

そして、キリスト教系である。
続々と、新宗教が、創作された。日本的に、変形してである。
牧師が、少女たちに性的暴行を加えていたという、事件もあった。

婦女暴行事件は、宗教内では、数限りない。
マスコミが、書かないだけである。
いや書けないのである

小諸の宗教を見れば、宗教というものの、いかがわしさが、よく解る。
巨大な神社を建てた。信者の金である。それで、更に、金を集める。
騙される信者が、アホだが、信じ込むのであるから、救いようが無い。

しかし、皆々、宗教というものは、その程度であるということ。

神社などは、誰でも建てられる。
教祖になるもの、いつからでも、なれる。
適当に、寄せ集めた教えを述べていれば、事足りる。

簡単な祝詞一つで、般若心経一つで、新宗教を起せるのである。

祝詞も、人の作ったものである。
霊感に導かれて、言葉が出たと言えば、それも、事足りる。

兎に角、騙されたい人がいるということである。

長年に渡り、精神的放浪をしてきた人が言う。
様々な、宗教や、精神世界の集いに出たが、結局戻ったところは、自分の心だったと。
そして、伊勢神宮にお参りに行きたくなりましたと言う。
それは、よいことである。
お参りするには、何の問題も無い。

伊勢神宮では、神道の布教もない。強制も無い。
ただ、拍手して、お辞儀をして、拍手をして終る。
後は、古代の森を、歩けばいい。

それが、伝統である。

日本には、このように、自然な伝統がある。

狂信、盲信の類は無い。

伊勢神宮に病気治しや、奇跡を求めて行くこともない。
ただ、お参りなのである。

世界中から、ルルドの聖水を求めて、巡礼するというが、聖母出現で、奇跡の水が出るということに、不思議は無い。
魔の力であれば、そんなことは、朝飯前である。

聖母が魔であると言うのではない。
聖母である、証拠は無い。
ただ、現れた姿を見て、聖母マリアだと、信じたのである。

ルルドの水で、治る人より、死ぬ人の方が多いこと、誰も言わない。

心底、騙されたいのである。
それを、総称して、愚かという。

ちなみに、私は、出現した聖母が、祝福したという、蝋燭を持っていた。
今は、使い果たして、無い。
その預言が、1999年の、世の終わりの時に、世界が暗闇に陥るため、その蝋燭で、光をというものだった。

聖母の出現について言う。

その姿を現している霊は、何物であるかということである。

同じく、神や、仏、も、そうだ。

我は、観世音菩薩であるというならば、真っ赤な嘘である。
そんな存在はない。
観世音菩薩は、それを訳した、クマラジュウの言葉である。

強力な霊能力を持った、新宗教がある。
それは、また、分散して、宗教を科学として、教団を立ち上げ、大々的な広告宣伝により、立派な建物を建てている。

教えは、漫画である。
耳障りの良い言葉を並べての、教えは、頭の弱い人を、取り込んだ。

多くの霊言集を出した。
そんなに多くの神様、仏様が、懸かるというのである。
魔としか、いいようがない。

昔から、多くの神、仏を祭ると、悪いことばかりが起こると言われることを、知らないようである。

一人の霊が、分裂的に、語ることを、信じ込んでしまったのであれば、哀れである。
他の宗教の、教祖の霊言集まで出して、信者を獲得しようとしたことも、見え見えである。

こうして、低レベルの霊から、通信を受けて、それを、布教するという、哀れさは無い。そして、その信者である。
さらに、もし、それが、単なる創作ならば、更に悪いのである。
人の心を、玩ぶ、商売とするのである。
すべての宗教が、そのようである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月05日

神仏は妄想である 5

この一年ほどの間に、ある、新興宗教の勧誘をされて、迷惑しているという人の、相談を多く聞いた。

その教団は、新しい伽藍を建てて、必至の金集めをしているのである。
つまり、信者獲得のために、信者を最大限利用している。

信じる者は、騙されるので、信者は、すべて、騙されている。

仏教を掲げるが、全く仏教とは、異質のものである。
まず、密教から出ている。
教祖は、天台の資格を得て、仏像製作にいそしみ、新宗教を立てた。

天台密、真言密、そして、S如密というから、密教である。
密教は、仏教ではない。
天台も、真言も、そうである。
インド、バラモンの呪術を主にした、仏教に似せた、魔界からのものである。
それでは、チベット密教はと、いうことになる。
チベット密教も、仏教ではない。
土着の信仰に、インドバラモンの、呪術を重ねて、更に、独特の、教義を打ち立てたものである。

その、教団の主たる経典は、涅槃経である。
最高の経典であるとする。
創作の経典であり、全く、何の根拠も無い。

最も、恐ろしいのは、教祖一家を奉ることが、主であり、仏陀などは、論外なのであるから、仰天する。

教団独自の、用語を作るのは、どこも皆同じであるが、あまりに、低級である。
また、教団の霊能者を養成する。

その、養成所に、勧誘されて、困って、私に、相談に来た人もいる。

名刺大の、特別お札が、三万円である。
特別な人しか、手に入らないという。
私の手元に、それがある。
護摩焚きをして、作ったものである。

お守りであろうが、何の波動も無い。

さて、本部に行った。
立川から、八王子という土地柄は、インド魔界の神々に、占領されている場所である。
あの辺りにある、宗教施設は、その通り、魔界からの、関与が大きい。
魔界の関与の大きなところは、人の心を惹きつける。

正しく次元移動しない、霊の溜まり場になっているのである。
本部を、極楽だと、信じている霊が、多数、漂う。

後に、あれを、清め祓いするのは、大変なことになると、感じた。

タイ・バンコクの有名寺院から、仏舎利を頂いたというが、金にあかせて、手に入れたものである。

信徒は、兎に角、毎月、小銭を多くの人から、徴収させられている。
ご供養と称して、一人五百円を徴収するのである。
広く、信徒に、そのような、行為をさせている。
信者ではない人からの、金集めである。

信じる者は、騙されるから、せっせと、人から、五百円を集めて、それを、本部に奉納するというか、吸われる。

信者の一人が言う。
法華経は、書き上げられて、500年の効力しかない。最後は、涅槃経によって、救われると。
しかし、何からの救いなのか、誰も知らない。

生長の家と、同じく、宗教の関わらず、入会することが出来るという、許容範囲である。一見、拘りがないように見えるが、それは、手である。
兎に角、信者、会員を、一人でも増やしたいのである。

人が増えれば、金も集る。

本当に、現世の人を救いたいと思うならば、宗教など、作らない。
教祖にも、ならない。

信仰は、迷いだからである。

仏陀、イエスキリスト当時の、時代は、今と違う。
その土地だけの、情報の中に、生きて、その現状に、沿って生きるしかない時代である。
そこに、いながらの、生きるということである。

イエスの言葉も、拡大解釈されて、イエスの本当の真意を知る者は少ない。
世界の、果てまで行き、教えを伝えよとイエスは、聖書の中で言うが、創作である。また、世界の果てなど、当時の人は、知らない。
限定された世界の中である。

自己顕示欲。教祖の、資質は、それに尽きる。

三蔵法師玄奘が、億万の衆生を救わんがために、と、天竺に、教えを求めて行った、精神とは、根本的に違う。
死ぬまで、求道の旅をしたのである。
ただし、法相宗という、一派を立てたことは、事実であるが、教祖ではない。仏陀の教えの一端を、明示しただけである。

その、法相宗も、滅びたと言ってよい。
日本では、薬師寺が、それである。
いつも、寝ぼけたことを説教している。

そこの、教団に入信して、良いことづくめだと言うが、悪いことづくめになった人の話は、無い。
どこの、宗教も、そうであるが、良いことづくめを言うが、それ以上に悪いことづくめになった人の方が、多いのである。

法華経系の宗教団体の、新聞を見ていると、必ず、苦難苦悩から、法華経によって、宿命転換をして、今に至るという、記事が載る。

順風満帆だった、人生が、離婚によって、最悪なものになり、家のローンだけが残り、悲嘆に暮れていた時に、勧誘されて、入信し、それから、どんな困難も、乗り越えて、今に至ったという。
その間には、子宮筋腫、自律神経失調、緑内障、変形性股関節症、硝子体網膜牽引症候群、胆のう摘出等々の病を、克服したという。

違う。
知らずに、法華経の因縁掘り起こしによって、悪因縁ばかりを出した故である。
それを、超えてきたというから、信じる者は、盲目になるのである。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、一万人以上いるのである。

悪くなった人の相談を受けていた私は、それらの、嘘が、よく解るのである。

高僧、老僧といえば、何やら、特別の感慨を受けるが、迷いの、そのままを、生きたということである。
彼らは、言葉遊びに始終して、蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることもせずに、安穏として、あろうことか、苦難の修行をして、と言うから、仰天する。

苦難を生きる人は、蒔き、刈り、捕り、作る人を言うのである。

修行は、好きで勝ってにやっていることであろう。
褒められたものではない。
また、そのようしか、生きられなかったのである。

実に、妄想の仕業をもって、云々する、宗教というもの、皆々、嘘である。

実際、日本には、宗教というものがなかった、世界でも、稀な国である。
日本には、伝統と呼ぶ、自然共生、共感の、有りのままの、所作しかなかった。
その名称さえ、なかった。
仏教により、仕方なく、神道という言葉で、区分けしたのである。

そして、日本の神は、カミであり、欧米のアラブの、様々な神の、唯一のというものはない。

山川草木、すべてが、カミであり、それらは、人間に、分配されるという意味での、カミであった。
言挙げしない、自然が、カミの象徴としてあった。
自然の恵みが、分配される。それを、総称して、神と、呼び、更に、死者を、命、
みこと、として、神と、称したのである。

死者に、命、という、文字を当てたということに、驚嘆する。
命は、いのち、とも、読む。

命は、寿命ではない。
命、大いなる、いのち、のことである。
死者は、大いなる、いのち、の中に、入るものであるという、真実を知っていたのである。

故に、死者を、隠れた存在として、認識した。

そこに、教義という、言葉遊びは、一切無い。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

神仏は妄想である 6

ここで、改めて、断っておくことは、私は、信仰を否定するものではないということである。

私は、宗教団体が、神仏の名を使用して、人を騙すことを、言うのである。

例えば、浄土宗、浄土真宗を言う。

法然や、親鸞が、どのような境地で、念仏信仰を説いたかということである。
今、それを、継ぐ者は、どこにもいないのである。

本願寺というのは、浄土真宗であり、浄土宗の本山は、京都、知恩院である。
それらが、本当に、宗祖の教えを守り続けているのかといえば、全く、逆である。

彼らは、形式と、迷信を配したのである。
つまり、仏壇、仏具等々、先祖供養も、否定したのである。

親鸞は、歎異抄にて、はっきりと、父母のためには、念仏しない。何となれば、自分が救われれば、自ずと、父母は、救われるのであるという。

有名作家が、親鸞の教え、また、その系統を継ぐ、蓮如などの思想を、まことしやかに、語るが、単に、それに、酔うのである。
あたかも、自分も、求道の者であるかのように、装う。あたかも、そのように、演じる。そして、それに、酔うのである。
勿論、本人は、真剣なのだろう。
小説を書く事無く、そのような、教えを書き始めたということ、文学の堕落である。

それなら、借金返済のために、大作を書いた、ドストエフスキーの方が、まだ、作家として、真っ当である。
ただし、彼のテーマも、手薄なものである。
文章が重厚であるから、騙されているだけである。
キリスト教の、罪と罰を、いくら考えても、詮無いものである。

日本でも、キリスト教の原罪をテーマに、小説を書いて、デビューした、女性作家がいるが、原罪というものは、妄想である。
それを、問うということ、遥かに、おかしい。
人の心の中にある、氷点というらしいが、それは、己にあるのであり、人皆にあると、信じ込むのは、実に、誤りである。

それなら、仏教の、無明の方が、ぴったりとくる。
無明とは、アホであるということである。
人は、皆、アホの境地を持つというなら、話は解る。

生まれ持っての、原罪とは、大嘘である。
アダムとエバなど、存在していないのである。
彼らが犯した罪が、人類の罪であるという、とんでもない、権力者の支配を強めるために、出来た教義は、妄想以外の何ものではない。

さて、念仏宗の、様々である。

今では、親鸞の教えも、廃れて、金ぴかの阿弥陀如来を掲げて、それを、拝むというから、笑う。
そして、それらの、座主である。
僧侶としては、終っている。
始末に終えないのである。

もし、法然や、親鸞が、生きていたら、彼らは、迫害するであろう。

教えの、全く逆を行為行動しているのである。

哀れなのは、それらの、信徒である。
せっせと、寺に、寄進、つまり、なけなしの金を運ぶのである。
それらは、皆、僧侶の、飲み食い、果ては、女を買う金に変わる。
仏に差し上げているというが、仏は、金など、欲しない。誰のものになるかといえば、寺のもの、僧侶のものになる。

僧侶の、割烹での、会話を聞いた。
皆々、ニコニコとして、この商売は、やめられない、と、言う。
仰天するのである。
信徒が、どんな思いで、布施をしているのか、知らない。

信長が、比叡山焼き討ちをしたのは、実に、正しい。
今も、すべての、寺院を、焼き討ちすべき時期が、やってきた。

高僧、老僧の、耄碌した話を聞いて、涙を流す時代ではない。
彼らは、どんなにか、豊かな生活をしていることか。

全く、御伽噺のような、読経をして、平然としていられるという、その根性は、どこからのものか。

鎌倉仏教が、現在の仏教の大元である。
文学としての、鎌倉仏教は、評価するが、完全迷いの仏教を創作したということは、事実である。
また、仏陀の仏教ではなく、漢訳され、仏典の仏教を、更に、妄想逞しく、創作したということである。

ホント、いい迷惑である。

人は、行為によって、成るものに成る、という、仏陀言葉を借りれば、今の、浄土宗、浄土真宗の僧侶などは、自害して果てるべき、罪をを、負うこいうことである。
勿論、死後は、極楽どころか、地獄に落ちるのが、真っ当である。

ちなみに、彼らは、法然や親鸞が、霊界のどこにいるのかを、知らない。

さて、極楽にいるのでしょうか。

何か、聞くところ、法然は、日蓮と一緒にいるようである。
当然である。
念仏唯一、題目唯一と、根は、同じことを言うのであるから。

それでは、親鸞は、どうか。
今でも、地獄は、一定住みかとかいい、思索に耽る、何とも、表現出来ないところにいるようである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月07日

神仏は妄想である 7

佐賀県で、起こった、銃乱射事件である。
二人の方が亡くなった。
実に、痛ましい事件である。

さらに、犯人の男が、自殺した。
その場所が、カトリック教会である。

犯人の母親が、熱心なカトリック教徒だというから、さらに、その母親は、気の毒である。

これは、狂いである。
自殺するならば、一人で、いいが、人を殺しての、自殺であるから、その問題の根は深い。

キリスト教徒に、精神的疾患が、多いということは、あまりに知られていないし、それは、ある種の差別になるので、誰もいえない。

日本は、一応、仏教国である。
その先祖たちは、徳川三代将軍、家光の時世に、皆、寺に属することを強制された。
キリシタン禁制のためである。
それ以後、日本人は、皆、寺に、その名が残ることになるし、全員が、仏教徒としてある。

先祖の、癖である、仏教徒という、感覚を、死んでからも持つ。

それが、不思議なもので、後世の子孫が、宗教を変えるときに、猛烈に、反対することがある。

ある、禅宗の信徒だった、家系の者が、新興宗教に入信した。
しばらくして、異変がおき始めた。
夜中に、仏壇が、動くのである。
毎日続いて、私のところに、相談に来た。

その先祖が、敵対視していた、経典を、その新興宗教は、主として、帰依するのであるから、当然、先祖は、怒る。
だが、怒るということは、まだ、この世に未練があるということである。
未練がなければ、そんなことは、どうでもいい。

結果、その仏壇を、別の兄弟のところに、移すということで、解決した。

キリスト教を、嫌う先祖は多い。

私が、いいたいことは、死後も、自分の宗教に、拘り、捕らわれるということである。

それほど、宗教というものは、潜在意識に、影響する。
さらに、宗教の毒も、影響する。

これから、徐々に書いてゆくが、キリスト教というものは、大きく、カトリックと、プロテスタントに、分かれる。
ローマカトリック、そして、日本基督教団、さらに、アメリカから来た、多くのキリスト教新興宗教である。

新興宗教の方は、エホバの証人、つまり、ものみの搭である。そして、モルモン教である。
その他、日本で出来た、新宗教もある。

それらは、聖書を聖典とする。
モルモンだけは、教祖が、書いた、妄想の聖典を持つ。

韓国から、来た、統一教会という新宗教も、キリスト教の一派である。

事件の裏には、多くの問題が、潜在している。
心理的要素も、大きいが、誰も、先祖の因縁等を観る者は、いない。

問題は、実に、根深いものがある。

宗教は、人の創作したものであるが、それを信じると、それが、真実になる。
その、妄想から、逃れるためには、余程の覚悟が必要である。

先祖が、日蓮宗だった者が、キリスト教徒になると、精神的不安感を増大させて、信号を送るという、例も見た。
結局、神経症になったまま、人生を過ごす人もいる。

だが、その先祖も、初めから、熱心な信徒だったかというと、違う。
囚われた、だけである。

死後も、囚われる。

すべての、宗教にいえることだが、信仰に入ると、特別意識、選民意識を持つ。
自分は、救われる者だという、意識である。
そして、他の宗教の者、その救いに無いと、判断する。
あるいは、自分の宗教が、最高のレベルで、他は、まだ、未熟であるとする。

キリスト教徒や、イスラムの場合は、特に、それが、強い。

勿論、救いというものが、妄想であることを、知らない。
流れる雲に、救いを説くことは、しない。
しかし、人間の生きるということは、流れる雲に変わらないのである。

ここが、問題である。
キリスト教は、人間は、生まれた時から、罪があるという。
原罪というものだ。
真っ赤なうそである。

兎に角、何からの、救いかということを、創作した。
原罪意識である。

日本でも、親鸞が、それに似た、意識をもった。
それは、作家の太宰治も、そうである。
しかし、それは、病である。

救いではなく、その、病を治すことを、考えるべきである。

原罪説の、嘘は、アダムと、エバという、存在が、嘘であるということからも、解る。
創作である。

あえて、罪意識の創作をするというのは、単に、支配するための、教義である。

ユダヤ人キリスト教から、奪って、白人のキリストを掲げて、ローマカトリックが、興った。それは、時の、権力者、皇帝と結託して、出来たものである。
本当の、キリスト教徒は、異端として、退けられ、さらに、殺された。

その、発生過程を見れば、嘘が、解るのである。

明らかに、宗教には、作為がある。
組織を作り、体制を整えるということは、大きな作為がある。
権力志向である。

キリスト教国、イスラム教国ともに、政教一致である。
為政者には、宗教が、最も良い、支配の手段になる。

無いものを、あるものと、信じ込ませて、支配するのである。
実に、利用価値のあるもの、それが、宗教である。

さて、事件によって、亡くなった方の霊位である。
突然の死に対して、どのような、感覚を持つか。

霊学から言う。
ただ今は、気絶している状態である。
それが、いつまで、続くのかは、解らない。
意識が、昏睡状態である。

多くの人の、慰霊の思い深くして、早く、目覚めて、霊的存在であることに、気づくことである。

このようなことの、起こらないような、政府、行政の、あり方を考え、そして、更に、日本の伝統的考え方である、罪を憎んで、人を憎まずという、実に、人道主義といえる、考え方をもって、望むことである。

日本の伝統的考え方は、生きるに、実に、豊かな、ものの考え方である。
それは、決して、教義とならないのである。
自然に、人が生きるために、あるべき思考法をもって、望むのが、日本の伝統である。

ちなみに、どんな、宗派の先祖でも、神道の祝詞に対しては、抵抗しないということである。
神道は、宗派とは、別して、当然であるという、伝統にある。

それは、皇祖皇宗による。
天照大神に対しては、宗派の如何に関わらず、抵抗しない。
私は、清め祓いを頼まれると、必ず、その家の宗派の経典を、読経し、最後に、祝詞をもって、清め祓いを、行う。

そして、ちなみに、日本の古神道には、妄想は無い。
教義も、教祖も無い。
宗教ではない。
それは、日本人の自然観であり、その自然観が、そのまま、自然崇敬に至り、それが、神道という形で、現されるのである。
自然崇敬は、先祖崇敬と、同じである。
死ぬということは、自然に隠れる身とするからである。
死ぬのではなく、隠れた存在になると、観る。
実に、真っ当な感覚である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

神仏は妄想である 8

宗教というものを、検証してゆくと、本当に、人間の愚かさを知る。
それ、愚かさを、無明というが、宗教自体が、無明であることを、知らない不幸である。

さて、私は、多くの教祖から、成り立つ宗教を知るが、面白いのは、教祖より、高い次元にいる、信徒の霊位である。
これは、どういうことか。
教祖は、自己顕示欲旺盛に、宗教を立ち上げる。しかし、信徒は、ただ一筋に、信仰の道に生きるのである。
すると、教祖より、高い境地に至る場合、多々あり。

こうして、教祖というものの、正体が解るのである。

例えば、誤った教えであったとしても、信徒が、その誤りに入らず、次元の高いレベルの心を、培えば、その信仰を通して、高いレベルに行くということである。

であるから、すべては、一つの方法であるということである。
何も、信仰行為を行わない者でも、高いレベルの霊位にある人もいる。

宗教というものは、方法に過ぎないのである。それも、たった、一つの、である。

とんでもないのは、矢張り、教祖や、開祖、そして、その団体の代表にある。

ある、新宗教の、新聞等を読むと、至るところに、勝ち負けという言葉が使われる。
勝ち抜け。信仰とは、勝つことである。
そして、師弟の関係である。
師弟関係の、尊いことを、くどいほど言う。

つまり、代表者と、信者の師弟関係である。

190カ国に、布教を展開して、宗教研究者にも、注目される宗教である。

果たして、その実態は、どうなのか。
代表は、世界各地から、顕彰され、世界各地の大学の名誉教授を受ける。
その訳は、簡単である。
金にあかせて、寄付をするのである。
現金でなければ、物である。
ワシントンに、会館を建設することになり、祈りの場として申請したが、住民が、反対運動をした。その、団体は、日本では、政党を持つからである。
会館が、単なる、祈りの場にならないとの、懸念である。

信者から、金を巻き上げて、我が身の、名誉のために利用するという、手である。しかし、信者は、喜んで、お金を出すというカラクリ。
信じられないが、サラ金から借りても、支部の目標額に、皆々、布施をする。

その、団体が唱える経典は、悪魔の好む、法華経である。
また、別名、地獄行きの、法華経である。

その代表の書き物には、いつもながら、民衆を救うのだ。敵を倒すのだ。味方を増やすのだ。と、ある。
随分と、単純明快であるが、だからこそ、人が集うのだろう。
宗派から、破門されて、益々と、その威力を増した。
実に、魔の経典の力である。

宗派とは、宗門である。
その宗門は、他の同じ宗派より、重要な教え、つまり、秘伝があるとされる。
勿論、秘伝といっても、しょうもない、拘りである。
三重秘伝なるもの。文底秘沈といい、法華経本門寿量品の文底に三大秘法の御本尊を、秘し、沈められているという。

兎に角、勝手な想像であるが、その宗門の、信徒の団体が、破門されて、益々、勢いよくしている様、何とも、理解し難いのである。
しかし、公宣流布を掲げて、勝ちまくれという。

唯一の宗門から、離れて、ついに、我らこそが、仏意仏勅の、宗教だと言うから、頭が変になる。
では、その宗門の、秘伝等々の教えは、どうするのだろうか。
どんどんと、簡略化して、世界に流布させている、仏の教えというもの、本当なのであろうか。
仏教というものを、どうも、知らないようである。

勿論、出たところは、日本仏教であるから、最初から、誤っているのである。

何度もいうが、日本の仏教とは、中国思想による、仏教であり、天台という僧から、多くを受け継いでいる。
言えば、三千大千世界という。
心の世界を言うが、それは、五千大千世界と言ってもいいのである。
何とでも、言える。

代表者が、言う。
まず、組織を作ることからだと。
そして、それ以前の代表者は、30名ほどの信者を集めれば、食っていかれると言うのである。
すべては、明らかにされる。

公宣流布というのは、組織を支配する者の、自己顕示欲であること、明々白日である。
そして、名誉欲である。

私は、宗教者が、単に、人を助けるために、布教をせずに、淡々として、各地、各国で、奉仕活動をしている様を知る。
それは、その働きで、教えというものを、実践しているのである。

マザーテレサが、偉大であるというのは、その奉仕活動ではなく、彼女は、助けた人に、キリスト教、カトリックの信仰を、強要しなかったことである。
後の行為行動は、多くの宗教家たちも、やっていることである。それが、大であるか、小であるかの、違いである。

だが、カトリックは、彼女の死後、速やかに、聖人の手前である、福者という、称号を与えて、カトリックの広告塔にすべくの、処置であるから、情けない。
カトリックの、イメージアップに、利用するという、浅ましさである。

世界に、広げるが、決して、ただで金をばら撒くのではない、その新宗教である。
代表者は、ガンジー、キングと、自分の名前を並べての、展示会をするという、傲慢である。
結局、ノーベル平和賞を狙うのであろうが、叶わないだろう。
その心の、秘法を、実に、世界は、見抜いているのである。

人間が、あのように、厚顔に成り切れるという、見本を見るのである。

勿論、多くの世界では、金に結びつく故に、顕彰、顕彰、また、顕彰して、更に、感謝状授与等々、限りなくやるのである。
それだけ、組織を作り上げて、金の流れを作ったのである。

実に、上手な商売である。
勿論、信者は、それを善しとしている。

日蓮は言う。
南無妙法蓮華経と唱えるわが弟子の位は、諸宗の元祖よりも勝れたること、百千万億倍である。
さらに、わが門下は過去世を尋ねれば、八十億劫もの長い間、無量の仏に仕えた大菩薩である。

改めて、日蓮の、誇大妄想の様を知るのである。

このようなこと、多々、教祖という人々は、平然として言う。

八十億劫もの間、仏という、妄想に仕えたということなのであろう。
今に至るまで、その妄想から、抜けきれないでいるのである。

実に、哀れである。

再度、確認の意味で言う。
仏典は、漢訳されたものである。
訳したということは、訳した者がいる。
そして、訳されたものには、訳した者の、思想が混入する。
付け加え、付けたし、更に、手を加えて、上質な、文学とするのである。

仏典は、文学である。
文学は、迷いである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 9

これは、笑えない話である。

昔、私のところに、お寺の奥さんが相談に来た。
その内容である。

寺に、幽霊が出るというものである。
冗談ではない。本当の、ことである。

寺に幽霊が出るのは、当たり前で、他の家に出ないのであれば、それは、実に良い事である。寺に出るということは、何らかの救いを求めているのであろう。

幽霊が出るという、相談は多々あった。
それを、否定する何物も無い。
幽霊は、存在するからだ。

しかし、僧侶でも、霊を否定する者がいるのである。まして、死後の世界までも否定するとなったら、一体、何ゆえに僧侶をしているのか、解らない。
商売である。
宗教法人という、税制を免れて、商売をするのだから、やめられない、商売であろう。

霊や死後の世界を否定して、人間の霊的指導をするのなら、いっそのこと、株式会社にするとよいが、そんなことは、しない。要するに、ずるいのである。

今では、幼稚園経営からはじまり、墓地経営である。
そして、あの、意味不明の永代供養ということをするというから、呆れる。
また、それを、テレビに出る、傲慢不遜な占い師が、後押しするという図である。

先祖供養ということの、意味を、明確にしたものはない。
また、そんなことは、出来ない。

先祖とは、どの当たりまでの、先祖を言うのか。
それさえも、明確ではない。
アフリカの、人類発生の頃からの、先祖供養を言うならば、狂っている。

精々、先祖とは、200年300年ほど前の人のことであろうが、今なら、それさえも、明確ではない。
これほど、愚かなことは無い。

私は、墓参り等々の、伝統的行為を否定するものではない。
私も、墓参りに行く。
亡くなった、婆さんが、よく私に、墓に参ってくれと言っていたので、その通りに、墓参りをする。その程度で、十分である。それ以上の、先祖となると、もはや、解るものではない。

僧祖父母までが、限界である。
それを、永代供養とは、笑わせる。

また、どこに、そんな保障があるというのか。まして、偽の仏教である、日本に寺が、いつまでも、続くわけが無い。

科学は、もう、多次元の世界を、証明しつつある。つまり、霊界の存在を証明する。
宗教の時代が終わる時である。

ただし、単細胞の頭の人には、必要である。

手かざしで、興った新宗教は、大本教から、出た。そこから、竹の子のように、分派して、多くの新宗教が起こった。
手かざしを続けている団体もある。

一つの団体に、ある婦人が、その母親と、入信することになった。というのは、彼女は、生まれつき、手かざしで、病を癒す力を、得ていたのである。それを、言えば、誤解されるゆえに、人には言わず、柔道整復士という資格を持って、治療に当たっていた。

さて、入信して、手かざしが始まった。
彼女は、元からある力であるから、他の信者より、強烈である。

次第に、信者たちが、彼女を、救世主と呼ぶようになる。ある種の、敬意を表したのである。しかし、彼女は、完全に嫉妬されて、教団から、抜けざるを得なくなった。
誰が、嫉妬したのか。当然、それは、幹部から、教祖の跡継ぎであろう。

彼女が、そこから抜けたのは、正解であった。
それらの、手かざしの、新宗教のバックの霊団は、ほぼ、間違いなく、邪霊、悪霊、これを言うには、抵抗があるが、動物の霊たちである。

実は、手かざしというのは、誰もが、出来る。それの、強弱はあるが、親が子供に手を当てることで、子供が、癒えるのが、基本である。

そういえば、矢張り、一つの大きな教団になった、新宗教も、その教祖の書物を読めば、病が癒えるということから、広がった。
その教えの、根本は、万教一致である。つまり、すべての宗教は、一つになるというものである。だから、書籍には、すべての宗教の、教えを通して、実相世界を述べている。

理に適う教えであるが、如何せん、組織を作り、巨大化して、教団となり、信者が、寄付をするようになるのである。
有り難いから、寄付をするのであるが、書籍販売だけで、十分に生活が出来るはずである。しかし、組織を持った。

そして、建物を建てて、今に至る。

この、教祖、創立者は、霊界の高い次元に進んだという人がいる。
それを、私は、確かめる方法を持たない。

しかし、教祖の手本である、イエスキリスト、仏陀を、見る。
彼らは、建物を持たない。
イエスキリストに至っては、寝る場所も無いという。仏陀は、寄進されて、修行の場を得た。自分から、建物を立てて、組織を作ることもなかった。

ただ、弟子たちが、伝承しただけである。
伝承したものが、八方に広がり、今に至る。
嘘の伝承も、本当のようになっている様である。

それら、多くの新宗教は、素の神という。
素とは、元である。

神は、何と呼んでも、波動により、答える。
しかし、霊界には、神という存在は無い。
もし、神というならば、宇宙が神である。
一定の存在たる、神というものは、どこを探してもいない。

ただし、霊界でも、レベルの低い霊界というか、迷いの霊界には、自分を神と、名乗るものがいる。
それに、コンタクトされて、神と、つながったと思い込む者もいる。
それが、教祖になるから、極めて危険にことになる。

彼らの、祈りの言葉が、狂っていることは、その祈りの言霊を知れば解るが、今は、それに触れない。

その、言霊は、万葉集の一首にも、及ばないこと、知らない。

日本には、これほど、多くの新宗教があるが、宗教の無い国と言われる。
何故か。
欧米の宗教は、哲学と思想が、完備されている。
それに、対抗出来るほどの、哲学も思想も無いということであるが、それを、心配する必要は無い。
それで、欧米の宗教が明確に、観念の賜物であることが、解る。

日本の宗教観は、何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる、というものである。
つまり、自然崇拝である。

山川草木の前に、佇んだ時に、自然に感動する心を持って、宗教観とするのである。
それ以外に、無い。
そして、それは、実に、正しいのである。

今のところ、地球以外の惑星に、このような、美しい自然の様は見当たらない。
宇宙というものは、果てなく、その先の先までを知らない。
空を見上げて、その星空に、感動する心を持って、宗教観とすることで、成り立つのが、日本の伝統である。

そこに、教義なる、観念は無い。
ただ、生まれて、生きて、死ぬことに、在るものが在るのである。
在るものとは、私の存在である。
行き着くところ、この、私の心以外のものを、人は、見ることも、観ることも出来ないのである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

神仏は妄想である 10

神という文字は、最初は、稲光の様を言う。つまり、自然の、異様な光景をもって、神という文字が生まれた。
雷神というものが、象徴している。
後に、天の神なる、観念が生まれるが、中国思想に、基本的に、神という観念はない。
あるのは、孔子の言う、天の思想である。

道教で言うところの、ものは、神というより、精霊である。あるいは、化け物のことである。
神仙の思想は、あくまで、生きている人間のことであり、通常の人間の限界を超えた者、仙人による。

日本ではじめて、神道という言葉を使用したのは、有間皇子の父である、孝徳天皇である。
仏教という概念が、輸入されてから、日本の国の、本来の伝統行為を、神という言葉で、表現したのである。

ちなみに、孔子は、知らないことを、知らないという。それが、立派である。
鬼神を語らず、というのである。
孔子は、三次元以外の世界を、知らないと、明言した。
故に、孔子の思想は、平面的である。
人の道の先にあるものは、天であるという。
決して、超越した、次元にあるものではない。

孔子の論語は、道徳を言うのであり、それ以上ではない。
生き方の、規範を示したのである。
それはそれで、有意義である。
一つの方法として、利用出来る。

中国に、仏教が輸入された時に、ある混乱が起こる。
道教、儒教との、関わりである。
どちらが、上かという議論に、沸いた。
結局、皇帝により、等分という判定を下される。
それぞれを、尊重するというものである。

しかし、仏という、存在は、中国になかった。
故に、仏を論じるのに、多くを費やすことになる。

梵語の仏陀の音訳を、佛に当てることになる。
元は、人と、音を表す文字の組み合わせである。人に似たものという意味である。
音訳で、仏という文字を仏陀に当てたのである。

仏陀の略称を、仏というのである。

ここでも、解るとおり、梵語を、音訳するということである。
音訳するので、漢語に意味の無いこともある。しかし、日本に、漢語の仏典が、輸入されると、漢語の意味で、仏典解釈を行うという、過ちを、多々犯すのである。

要するに、仏典解釈ではなく、漢語解釈である。
ここに、大きな問題がある。

音訳しただけであるのに、その音訳された、漢字を持って、解釈に当てると、とんでもない、意味解釈になるのである。
ところが、それが、大手を振って、行われた。つまり、創作である。
本来の、梵語の意味など、どこ吹く風である。

当然、ずれずれに、ズレるのである。

そして、訳した者の、作為が入るのである。

さて、それでは、日本の伝統としての、神という言葉についてを、検証する。

柿本人麿の歌から見る。
吉野の宮に幸でましし時、柿本人麿の作れる歌

やすにしし 吾が大君 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳はる 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉ふる 神の御代かも

ここで、神ながら 神さびせすと
山神、川の神、神の御代
神という言葉が、このように使われる。

神ながら、とは、神にましますままに。
神さびせす、とは、神としての、振る舞いをなさる。
山神は、やまつみ、と言う。山祇である。山々を、支配する神である。
ちなみに、海神は、わだつみ、といい、海を支配する神である。
そして、川の神という。

ここで、解ることは、日本人の神というものは、人間と隔絶されたもの、対立したものではない。
大君という、天皇も、また、神と、呼ぶ。

つまり、ある働きを、神と呼ぶのである。

それは、列島の民族が、見出した、真理である。
働きが、神なのである。
それは、広義に解釈して、いいのである。
この、宇宙の働きも神である。
そして、自然界のすべての、働きも神である。
さらに、人間の社会を治める働きをする人も、神である。

キリスト教、イスラム教の言う神とは、全く違うのである。
さらに、多くの宗教が、掲げる神というものとも、完全無欠に、違うのである。

もし、一神教が、宗教であるというならば、日本には、宗教はない。あるのは、伝統行為のみである。
そして、唯一神というものは、必要ないのである。

更に言えば、何故、仏教の仏に対しても、受け入れたのかといえば、仏も、神と、同じく、働きと、観たからである。
特に、天武天皇は、国民に仏を奉ることを詔したのは、仏の働きに、真理を観たからである。
それは、働きである、神というものを知るゆえである。

ここで、新宗教が言うところの、神とは、働きであり、それが、様々な形を持つゆえに、多神教というものも、一に帰すのであるという、詭弁に騙されてはならない。

万教帰一を言う新宗教は、一見して、正しく見えるが、それは単なる詭弁である。
書籍販売で、巨大教団になった、宗教の教祖は、多くの宗教の教えを取り入れて、それが、実相世界を言うものであり、実相を知ることで、すべての病が癒え、完全無欠な人間、つまり、神の子としての、完全な生き方が、出来ると説く。
一見して、なるほどと、思わせるものの、実は、大きな誤りを犯している。

完全無欠ではなく、不完全なものとして、この世に生まれたことを、謳歌するために、生まれたのである。
仏陀が言う、生老病死という、定めを、あえて知り、この世に、生まれたのである。

物質は、無いといっても、目の前には、物資がある。
それを、無いとは、いえない。
本来は無いものであると、言っても、今、目の前にあるのである。
在る物を、無いと、言い聞かせて、無い、無い、と思い込む方が、誤りである。

病も無いという。それは、影であるというのである。
それならば、生まれて生きる、意味が無い。
何故、自害して果てなかったのか。
それは、教祖の自己顕示欲と、生に対する、執着であろう。

その、教団は、次に三代目が、教祖の跡を継ぎ、更に、宗教として、活動を続けるのであろう。
それが、嘘である。

神ながら 神さびて、に、非常に近いように見えるが、実態は、宗教団体である。

病が癒えても、人間は、死ぬのである。
10年長く生きようが、20年長く生きようが、大差無いのである。

日本の伝統にある、神というものを、再度、考察することである。
万葉集を読めば、それが、解る。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。