2010年01月10日

最後の沈黙を破る 40

今の、日本で、最も、守るべきものは、日本語と、天皇陛下である。

英語教育を推し進めるならば、より日本語教育を、推し進めるべきである。

英語教育で、幸せにならないのは、フィリピンを見て、思う。
精々、外国に出稼ぎに、出掛けられる程度なのである。

英語教育は、中学からで、十分良い。
これは、脳科学者も言うことである。
母語を、しっかりと、身につけなければ、精神的に、怪しくなる。

何故なら、言葉は、精神だからだ。

民族の、精神である、言葉を、守るべきことは、必至である。

更に、日本語は、大和言葉からなる。
大和言葉は、漢字の訓読みである。

音読みは、漢語読みであり、それを、大和言葉にすると、訓読みになる。
そのような、言葉の使い方をするのは、日本人のみ。

そして、天皇陛下の存在である。

日本人は、空気のように、感じる存在であるが、陛下が、国際社会で、最も、評価が高く、歓迎されるのを、知らない。

社会、共産国に出かけても、天皇陛下は、とても、人気があるのだ。

それは、歴史と、伝統を、有するからである。
天皇陛下の、歴史は、今年、2670年、つまり、日本建国から、2670年を経ているということ。

そんな、歴史的な存在は、世界に、日本の天皇しか、いないのである。

更に、世界で、唯一、無私の存在としてあるというのは、驚嘆する。

日本は、日本語と、天皇を、守り続ければ、事足りる。

この、無私の存在とは、私が無いというのであり、私が無いということは、日々が、公なのである。

通常の者が、陛下の生活をすれば、狂う。

いまや、天皇陛下は、日本のみならず、世界の国々の、様々な、動きに、心を動かす存在になっている。

自然災害などが、起これば、誰よりも、先に、人々の無事を祈られるのである。
そのような、存在を、日本が有しているということ、幸いの限りである。

私は、陛下に、お会いすることは、ないだろうが、それでも、私は、天皇陛下に、対して、無上の崇敬を持つ者である。

その、長い歴史を、負われ、なお、これからの、歴史的存在にならせられるという、自覚は、通常の人間の、思考を超えている。

日本は、この二つを、守らなければならない。

そのために、軍隊が必要ならば、天皇の軍隊を、創設するべきである。

タイの、軍隊は、明確に、タイ王国の、王の軍隊であると、言う。
王様が、タイを、守りなさいと、指示すれば、そのように、働く。
国民の、九割の、支持を受けるタイ王の、国であることが、解る。
それほど、王様を、大切にしている。

タイ王の、歴史は、約260年ほどである。
それでも、タイ国を、まとめるために、必要不可欠の存在である。

その、タイの国王、プーミポン国王は、日本の天皇を、非常に、重んずる。
王家であるから、天皇家の、歴史の存在と、その意義が、よく解るのである。

王は、国民を思い、国民は王を、思う。

絶対君主制云々のお話ではない。

タイは、民主化を、王自身が、勧めている。

そして、日本も、民主主義の国である。
民主とは、民が、主である。

そして、日本の天皇は、国民の総意で、ただ今は、日本国の象徴として、あらせられる。

天皇も、人間であるが、天皇のように、生きることは、通常の人間には、出来ないことである。

そして、言う。
天皇は、日本国の、祭司である。

それは、宗教を超えたところの、祭司なのである。

日本国は、祖霊を神、カムとして、奉る国である。
その、祭司という、特別の、任務を持たれるのが、天皇陛下である。

日本は、人は、かむながらの道を、歩む国であると、明確にしている。

祖霊に対する、不敬は、許されない。
祖霊を、不敬に扱うことは、我が身を、貶めることであり、我が身の、存在を、否定することである。

日本国の、祖霊を、奉り、日々、祖霊に対して、言挙げを、申し上げる、お方が、天皇陛下である。

この、日本は、祖霊の、国である。
祖霊は、また、国である。

日本語と、天皇を、守ること、それは、日本人になるべく、日本人に、与えられた、義務である。
この、二つを、守れない場合、日本は、壊滅する。
それは、祖霊不敬と、同じことである。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月11日

最後の沈黙を破る 41

病気は、治すものではなく、治るものである。

名医は、治すためではなく、治るために、薬などを、処方する。
そして、患者が、治ると、薬が合ったのですねーーーと、ぼんやりと、言う。

気功、スピリチュアル治療などと、馬鹿なことを、言う、馬鹿な、気功家や、スピリチュアル治療家がいる。

患者は、彼らの後ろに、控えている、目に見えない存在を知らない。
ゆえに、治ると、その先生を、奉じるようになる。

へびや、狐、犬、猫の霊でも、病気を治す。
瞬間的に、治すのは、天狗のような、霊である。

その人の力で、治すというのは、すなはち、背後のものによる、関与による。

真っ当な、気功家や、心霊治療家は、治すものではなく、治るように、指導する。

また、治るという、手前まで、導いて、その本人の、自覚により、治るということを、教える。
だから、治らない人もいる。
それは、治っては、いけない人である。

私は、病を、治せない。
医者ではないから、ではない。
治す必要が無いからである。

私が願えば、病は、癒える。
しかし、それは、私の命との、交換である。
命と、交換するほどの人は、親以外に無い。

だが、親の病を、治して、私が、先に死ぬと、どうだろうか。
逆縁の、悲劇である。

治療家は、治すのではなく、病にある人が、自ら、治すために、するべくの、手当てをするのみである。

病になるのは、病になる、理由がある。

その理由が、問題なのである。

その、理由を、問わず、知らず、病を、治してもらい、感謝して、その治した人を、信仰するようになるならば、誤りである。

それならば、死んだ方が、マシである。

病に至る、その道を、病になった人は、観想しなければ、ならない。

それを、教えたのは、釈迦仏陀である。
どうして、そのような病になったのか。
そして、その原因を知り、そこから、病を癒す方法を、指導して、自ら、治すという、行為に、生きるということの、意義と、意味を、教えたのである。

痛みが、消えた。
治った。
そして、治してもらったと、治した人を、信じる人が多い。
実に、愚かで、誤りである。

それを、治したのは、その人の、背後の霊的存在である。

その霊的存在の、有無を知らない。

更に、その霊的存在の、正体を知らない。
実に、恐ろしいことである。

私は言う。

決して、治るという、治療家の元に、出掛けては、駄目。

大半が、霊的質が、悪い。

であるから、治っても、精神的、心的状態が、悪いはずである。

単に、病気を治すということは、単に、気を紛らわすということと、同じである。それならば、病気を、生きる方が、真っ当である。

何故なら、病気を生きる方が、人間として、真っ当であるからだ。

老いれば、病むのである。

それが、自然である。

更に、病は、気づきの、元である。

病気は、感謝する以外の、何物でもない。

私は、治さないし、治せないし、治す必要も無いと、考えている。

病院に行って、薬を、貰い、楽しんで、飲んでいる。

最後は、絶食して、死ぬ。
断食ではない。
絶食して、死ぬのである。

断食という、蒙昧に、迷うことはない。


posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

最後の沈黙を破る 42

霊能力とは、いまだ、未開の分野である。
だから、当たると、評判になると、人が集う。
また、病気治しなども、然り。

私の知り合いが、気功から、スピリチュアルヒーラーになったと、聞いた。
その彼は、そんな世界とは、無縁の存在だった。

それが、ある気功家との出会い、そして、断絶から、彼自身が、その能力を得たのだろう。

更には、霊払いもするという。

霊能力とは、霊的存在によって、成るというものである。
つまり、その背後にある、霊的存在が、関与する。

そして、その関与する、霊的存在が、何者であるのかを、彼は、また、多くの、霊能者は、知らない。

魔的存在の、霊ならば、どうであろうか。

力は、当然、強い。
だから、未来透視も、よく当たる。
病気も、よく治す。

しかし、未来を知らぬ、病気になったというのは、三次元では、深い意味がある。

未来を予測して、当たったとして、一体、何の利益があるのか。

病になることによって、得るものが、多々ある。

それを、霊能力で、取り払うということは、どこか、おかしい。

更には、彼らの口から、神や、仏という言葉が出るときである。
彼らが言うところの、神や、仏とは、何物かを、誰も判断できないのである。

例えば、仏教を、守護するという、インドの神々は、魔神である。

大乗仏教から、それらの、魔神を、仏の教えを、守護する神々、諸天善神と、名づけた。

とんでもない、誤りである。

日蓮宗系は、それらを、真っ当に、善神として、奉るのである。
知る者にとっては、驚きを通り越し、知らないということの、恐ろしさを知る。

魔神は、ことのほか、力が強いゆえに、奇跡を行う。

本来、神や、仏といわれる、霊的存在は、奇跡は、起こさないと、決まっている。
必要ないからである。
自然そのもの自体、生きていること自体が、奇跡である。

その背後の、霊的存在を知らず、単に、能力があるように、錯覚して、多くの罪を犯す。そして、罪の意識さえも、持たないという、アホなのである。

霊能者と、長く付き合いと、必ず、矛盾が起きてくる。
一年前と、今とで、言うことが、違うのである。
一貫していない。

それは、背後の霊的存在に、支配され、いいように、使われているからである。

よく当たるとか、よく病気を治すという、霊能者ほど、それが、多い。

そして、結果、宗教を起こす者もいる。
新興宗教の、出来上がりである。

その特徴は、先祖供養である。
一番、無難な供養を、掲げる。

先祖は、供養するものではなく、崇敬するものであると、知らない。

先祖が、霊界で、苦しんで、子孫に、それを、教えて、障る、というようにことを、平然として言う。

先祖は、先祖であり、子孫は、子孫である。

つまり、私は、私の、自業自得を生きる。
そして、先祖は、生きてきた人生の、自業自得を、受けているだけである。

誰も、他者、先祖といえども、手出しは出来ないのである。

それが、霊界の、仕組みである。

先祖の、苦しみを、取り除くために、供養するという、話は、成り立たない。

更に、神や仏といえども、霊的存在であり、神でも、仏でもない。
それは、単に、霊なのである。

神仏は、妄想である。

霊を、神とか、仏とか、便宜上、呼んでいるだけである。

このような、啓示を頂きましたというが、それが、どこのレベルの霊界の、霊の情報か、本人も解らないのである。

本当に、霊能力がある人は、奇跡も、予言も、病気を治すこともしない。

それでは、何をするのか。

生きることを、実践しているだけである。
例えば、病気を治す能力のある、霊能者は、治るために、すべき、方法を示すのである。
透視能力のある人は、それを、言葉にすることなく、相手が、知る術を教える。

答えないのである。

答える必要が無い。

この世に生まれて、生きているということは、己の問題なのである。
それに、手を掛けるというのは、傲慢不遜である。

傲慢不遜になれるのは、悪霊、魔神の、類と、決まっている。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月13日

最後の沈黙を破る 43

新興宗教が、隆盛を極めるのは、おおよそ、60年間である。
その後は、次第に、衰退する。

ある宗教が、隆盛を極め終わるということは、その背後についた霊団が、離れるということである。

何故、離れるか。
次に乗り換えるためである。

その、霊団は、いくつかある。
それらが、新しい、霊能力を持つと、自称する者の背後に、憑く。
そして、急成長する。

すべては、魔界関与のものである。

その証拠は、建物を建てる。
建物を建てるには、お金が必要である。
信者から、搾取すするのである。

背後の霊団は、それが、楽しいのである。

一つの街を作り上げた、宗教がある。
搾取の宗教と、言われた。

その教組は、奉仕と、与えることに生きた。
だが、その後の、教団が、逆を行うのである。
それで、背後の霊団が、本当の、姿を現したということである。

教組の生き方は、素晴らしかった。だが、その後が、よろしくないというが、それは、違う。教祖も、おかしかったのだ。

慈悲魔というのである。

人を助けて、慈悲魔になる。

それも、背後の霊団のゆえである。

宗教を造るためには、背後の霊団は、人を容赦せず、使う。使い切るのである。

亡き人の、霊からの言葉を、多く語る教祖がいる。
有名人の、霊からの、コンタクトであるというが、その証拠は、無い。

全く、別の霊が、それであると、名乗っている場合、多々あり。

本人が、そう信じているだけである。

インドの、サイババに似た霊能力を持っていた、日本人の教組がいた。

彼も、背後の霊団を、見抜けなかった。
だから、その後の、宗教法人は、衰退してゆくのである。
すでに、他の宗教団体の背後に、回った。

インドに、聖者が多く出現するのは、インドが、魔界に取り込まれている、ゆえである。
そのインドから、日本にも、多くの、神なるものが、乗り込んできた。

仏典と一緒に、である。

大乗仏教経典は、それらの、魔界の神々を、仏の守護とした。
釈迦仏陀が、最も、嫌ったことである。

釈迦仏陀は、霊、霊界などについて、一言も、言わない。
更には、霊能力も、無視した。

徹底して、人間としての、心のあり方を、見詰める方法を、伝えた。

更に、超越した存在も、置かなかった。
置く必要が無いのである。

自然に、満ち溢れるものを、見詰めて、内省してゆけば、自ずと解ることだからだ。

釈迦仏陀は、一言も、信じることを、勧めなかった。
ただ、心を静かに、整えることのみに、専念するようにと、教えた。

勿論、念仏も、題目も無かった。
怪しい、加持祈祷なども無かったどころか、それらを、否定した。

呪術を否定し、あらゆる、妄想を否定した。

仏滅後、しばらくは、それが、続いたが、その教えを、整理して、統一する段階に入り、おかしくなる。

インド伝統の、思想などの影響にもよるが、屁理屈になっていった。

ただ、救いは、釈迦仏陀の、瞑想法が、生き残っているということだ。
それは、宗教組織と関係なく、行われている。

宗教組織になると、誤るということ、明白である。

さて、日本の神社神道系ではない、教派神道といわれる、新興宗教の、一つから、多くの、新興宗教が生まれた。

背後霊団の、分裂が激しく、如何に、その二人の、開祖が、魔物に冒されていたかということだ。

更には、古神道の復興と称して、多くの誤った情報を、信者に伝えた。
信者の中には、そこから、霊的能力を得た者も、多い。

魔物だから、いくらでも、増える。

更に、更に、分派していった。
彼らは、宗教がいかに、金を得るかを見て、独立していったのである。
魔物の世界である。

そして、信じる者は、騙されて、更に、騙され続けるのである。

メシアとして、名高いのは、主イエスである。
しかしそれは、キリスト教という、魔物に化けた。
政治権力と、結託して、世界宗教に、のし上がった。

主イエスは、ユダヤ教の改革者であり、キリスト教を創設したのではない。
初期、キリスト教とは、ユダヤ人のものだった。

キリストとは、メシアという意味であるから、メシアであるイエスの教団である。

日本語に訳すと、救世主教である。
昔は、天主教といったが、違う。

初期キリスト教徒を、皆殺しにして、ローマカトリックが、成り立った。

さて、今、世界で、急速に信徒が多くなっているのが、イスラム教である。

魔力の力が、強力だということである。

初期イスラム教は、武器を持って、信者を増やした。
そして、政治権力と、結びついて、確実なものとする。

為政者、支配者にとって、宗教ほど、都合の良いものはない。

日本でも、大型の宗教は、政党を掲げている。
政治権力と、宗教を持って、世に臨んでいる。
それは、上の者の、野心に他ならない。

釈迦仏陀も、主イエスも、政治に関与せず、また、建物を造らなかった。
釈迦仏陀は、寄進された場所で、教えていた。

しかし、本人は、徒歩で、教えを伝えていた。

見事なことは、書き物を残さなかった。
何故か。
その解釈により、教えが、歪むことを、知っていた。

現に、今では、解釈で、本当の教えさえ、分からないのである。

釈迦仏陀は、太陽系の霊系であり、主イエスは、ユダヤの神の、使者としてきたが、途中で、転向したゆえに、ユダヤ教を、改革できず、その神と、対立した。

その背後の、霊団は、凄まじいばかりの、戦いを行ったはずである。

そして、ついに、ユダヤ人によって、十字架刑に及んだ。
それによって、ユダヤ教から、独立して、イエスの教会が出来たが、それも、奪われることになった。

ヒマラヤ霊系である。
そこから、ユダヤ、キリスト、イスラム教が、起こっている。

旧約聖書を、念入りに読めば、それらの、関係が、理解される。

この宇宙に、超越した、絶対者は無い。
つまり、絶対的、神とか、仏は無い。

存在するのは、霊である。

主イエスは、だから、聖霊に対する罪は、許されないと、言明した。

すべては、霊のなすことだからである。

日本の伝統は、祖霊崇敬である。
信仰ではない。

更に、日本の伝統には、宗教という、概念がない。
ゆえに、教組も教義もない。
ただ、所作だけがある。

言挙げせず、なのだ。

大切なことは、すべて、所作を持って伝えた。
言葉の世界が、いかに、変化し、歪なものになるかを、知っていたようである。

更に、日本の伝統所作のみに、清め祓いというものがある。
それは、見事に、優れたものである。
国の祭祀は、天皇が行い、それぞれの、地域では、神職をおかず、皆が、それぞれで、祭祀を行った。

職業、宗教家を置かなかったということである。

つまり、何一つの、所有物を持たないのである。
祭りは、奉りであり、奉る、たてまつる、ことである。

それは、自然の樹木などを、依り代にして、つまり、霊の場として、祭祀し、終わると、また、自然に戻した。

社、やしろは、霊の住まいであり、信者を集めて、説教する場ではない。
基本的に、建物を、必要としないのである。

欧米の宗教学で言えば、偶像崇拝ではないのである。

社の中には、大きな、鏡を置いているだけである。
ご神体とは、便宜上である。

あの、伊勢神宮でさえ、皇祖皇宗をお奉りする建物は、高床式の、掘っ立て小屋である。

紙一枚でも、霊は、降臨するという、所作がある。

そして、祝詞を、献上するのみ。
文字の通り、お祝いの詞を、述べるのである。

その言葉が、言霊として、すでに、霊になるのである。

こちらも、霊で、あちらも、霊である。
更に、願い事も、しない。

こころだに 誠の道に かないなば 祈らずとても かむや守らん
菅原道真

神、カミ、ではない。
かアむウ、である。
アは、開く。ウは、お出でを乞う意味である。

そして、お送りる時は、オーーーー、である。

拍手は、清める意味である。

神社神道では、二拝、二拍、一拝である。

私は、2拍で、拝無し、2拍である。
拝は、祝詞を挙げる。

天皇陛下は、拝のみである。
伊勢神宮以外の、社は、天皇陛下より、格式が低いのである。

天皇陛下は、国家の祭祀であるからだ。
伝統である。

これは、宗教という、観念を超えたところのものである。
日本の、政治は、政、まつりごと、といわれるように、祭祀が、中心である。

勿論、今、現代社会に置いては、政治家に、具体的政治を、任せる。
天皇は、それを、国民の総意として、承認される。

昭和天皇が、敗戦によって、退位されなかったことは、奇跡的である。
最後の最後まで、国民と、共にありたいのと、ご意志である。

全国行幸の際に、陛下は、戦争の犠牲の、様々をご覧になり、断腸の思い深くし、日本を立て直すために、全力を懸けた。

小さな子が、肩に、両親の遺骨をかけて、天皇に拝謁した時、天皇陛下のために、死にましたと、言った。
陛下は、絶句したまま、起立して、動けなかったという。

それが、至る所であった。
通常の人間ならば、狂う。

日本の伝統が、陛下によって、示された。

日本に、宗教は無い。
伝統が、息づいている。

天皇の、背後霊団は、皇祖皇宗であり、祖霊である。
ここに、一点の、揺らぎも無い。

私の、古神道の所作も、天皇陛下あっての、所作となるのである。

日本の正式名称は、とよあしはらのみずほのくに、である。
天照るかむの、時代に、制定された。

更に、天皇の、正式名称は、すめらみこと、である。

そして、高天原とは、天照るかむの、都である。
富士山麓に存在した。

これ以上は、天皇陛下について、で、書くことにする。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月14日

最後の沈黙を破る 44

いつか、整理して、書きたいと思っていたことがある。
しかし、整理する暇がないゆえに、断片的だが、書く。

日本の伝統に、左右の思想は、無い。
左右の思想があるのは、原理主義のある、国々である。

つまり、右翼、左翼というものである。

ただ今、若者が、右翼化しているとか、極右ぎみだと、言われる。

当然、それは、反動である。

戦後、暫く、左翼化が、進んだ。

極右も、極左も、原理主義である。
原理主義とは、宗教の概念による。

そして、原理主義は、世界を、混乱させる。
何故か。
たゆたう、という、曖昧な、許容範囲、オーブというものが、無い、つまり、余裕が無いからである。

日本の伝統は、上下である。
これを、かみ、と、しも、という。

上は、代表であり、統治する。
下は、上を支える。

武士道では、忠義とか、忠臣と、呼ばれる。

右と左という、横の関係は無い。
それは、邪、よこしま、だからである。

よこしま、とは、横に広がるだけである。

上、かみ、は、天皇を言う。
下、しも、は、国民を言う。そして、上は、国民を、公宝、おうみたから、と、呼ぶ。
そこに、日本の伝統がある。

天皇は、すめらみこと、である。

統べる、命である。
命とは、御言、である。

天皇は、詔を、発する。それは、公宝の、それぞれの、政頭、まつりごとかしら、が、協議して、決めたことを、承認するものである。
それにより、国民は、了承する。

天皇の、前身は、大政頭、おおまつりごとかしら、と、呼ばれた。

それは、武力ではなく、祭祀の力によって、民が認めた家系なのである。

日本には、欧米の神、カミという、存在を置かない。
それは、祖霊であり、かむ、と、呼ぶ。

であるから、上の、かみ、とは、この世の、存在である。

それが、天皇の存在である。

上下邪という、言葉は、無い。
邪は、左右という言葉にある。

自由、平等、博愛という、邪な思想は、日本には、無い。
まして、友愛という言葉も無い。

友愛とは、ギリシャの、少年愛、エロスからのものである。

自由、平等、博愛は、民を、騙すために、造られた言葉である。
何故なら、この世に、そんなものは、無いのである。

自由、平等、博愛という、国に、それが、あるか・・・

人間は、不自由であり、不平等であり、偏愛である。

真っ当に、考えると、それが、解る。
しかし、何かの思想、特に、欧米の宗教的思想に、毒されたものたちは、それがあると、信じる。

神の前に、自由であり、平等であり、博愛があると・・・

その、神の思想は、如何なるものか。

旧約聖書に、すべて、書かれている。

日本には、聖典、経典というものが無い。
当然である。
そのようなものを、必要としない、民族だった。

日本の思想は、恋である。

万葉集を、読めば、それが、解る。

恋心にある、たゆたう心、命をかける存在がある、それが、日本の伝統である。

一番、解りやすい言葉で言えば、男心に男が、惚れるというものである。
そして、女は、その心意気を、裏で支える。

女は、強いがゆえに、男心を、遂げさせる。
それが、女の愛である。

男のために、男が、死ぬことを、よしとする。
左右の思想には、それが無い。
女は、動物以下である。

だから、女を、性の対象としか、考えない。

皇祖皇宗の、代表として、天照大神を、掲げる。
男神だという、邪があるが、天照る神は、女の姿をとる。
太陽を、女神とする。

そこに、日本の伝統の、素晴らしさがある。

母系を、主にする、民族は、すべてに、寛大である。

日本は、母系の民族である。

それを、知らない、それは、違うというのは、お勉強不足である。

天照る神を、男神という、者たちは、原理主義に、とても、似る。

天照大神の、弟である、月よみの命が、天皇の位に就かず、その姉である、天照るに、天皇の位を、譲るのである。

唯一、女が、天皇の位に就いた。
だが、それは、正しかった。
何故なら、人は、女から、生まれるものである。

大和朝廷時代、以前、唯一の、女帝である。

そして、その、崩御により、月よみの命の、家系が、大和朝廷以前の、日本を、統治したのである。

日本には、男尊女卑の思想は無い。
あれは、儒教による。

うちの、カミサンと、今でも、呼ぶ習慣がある。

古い古い、昔の、意識が、そうさせる。

もっと、勉強すべきである。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月15日

最後の沈黙を破る 45

沖縄の問題は、何か。

新しい総理も、日米同盟の合意見直しは、しないという。
そして、沖縄は、基地を県外へとの、願いである。

国民の一人として、考える。
更に、私は、私の霊学をもって、考える。

敗戦から、沖縄は、アメリカ軍の基地を持った。
そして、日本返還後も、そのまま、米軍基地を有したままに、現在に至る。

沖縄返還で、日本は、莫大なお金を出した。
更に、それからも、莫大な、お金を出し続けている。

そして、沖縄は、基地のお陰で、経済の基盤を作っていたはずである。

地主たちは、米軍基地の、地代で、莫大な、資金を得た。

さて、私は、霊学から、見ると、いった。

大東亜戦争の、最後の捨石となったのは、沖縄である。

民間人を、含めても、大変な犠牲を出した。
日本国民は、その犠牲者の、追悼慰霊を、真っ当にしていない。

今でも、戦地、激戦地であった、場所は、沖縄の人でさえ、近づかないという。
本土の、南地区には、お盆の時期、沖縄の人は、出向かないという。

何故か。
幽霊が出るからである。

そんなバカなこと・・・
何とでも、言う。

しかし、あれほどの、悲劇的、死を受けた、霊位の想念というものが、残存している場合は、幽霊が出なくとも、その場には、独特の地場が、出来る。
その、清め祓いというものを、日本人は、していないし、その方法を知らない。
勿論、宗教家、その団体も、である。

昭和天皇の、最後の、願いは、沖縄行幸だった。
だが、その前に、崩御された。

日本の祭祀である、天皇は、沖縄戦の、犠牲者の、追悼慰霊を、自ら、行いたかったと、思う。
その後、現在の、天皇皇后陛下が、ご訪問された。
しかし、その、ご予定では、真っ当な、慰霊は、出来ない。
ご訪問に、終わった。

私は、二度、沖縄に追悼慰霊に、出掛けて、真実、沖縄の、戦争犠牲者の追悼慰霊の、必要を、実感した。

更に、沖縄の基地の問題についても、解決しないと、確信したのである。

沖縄にも、霊的所作をする人々が、多数いる。しかし、彼らを持ってしても、清め祓いが、出来ないのである。

非常に、残念なことである。

まず、沖縄の人々は、日本人として、戦争の犠牲者となった。

それは、日本の作法に、則り、行われなければ、ならない。
だが、真実、その作法で、望んだ、宗教家は、いない。

アメリカが、沖縄の基地を、そのままにするというのは、地理的意味がある。

決して、基地は、無くならないだろう。

台湾と、沖縄の海は、太平洋へ出る、要の場所である。
その海域は、軍事的に、要である。

沖縄で、惨殺された、多くの人々の、霊位が、清められ、祓われ、沖縄の地場を、変容させて、はじめて、アメリカ軍の、移動が、叶えられる。

何故か。
その人々の、想念が、基地を呼び寄せているのである。

つまり、今も、戦争状態にあるということである。
意識の、想念の、刷新がなされなければ、沖縄の問題は、解決しない。

そして、本土から、基地を移転するということは、不可能に近いのである。
だから、自衛隊の基地を、望んだ、与那国島に、希望を見出す。

民主党に、政権交代された時に、与那国島の、自衛隊の駐屯地の話が、白紙になった。

与那国の人たちが、望むのなら、米軍基地を、与那国に、移転することも、可能である。

与那国の人たちは、実感として、国境を意識している。
中国船、その艦隊などが、見える位置にあるのである。

何故、与那国島に、移設しないのか・・・それが、疑問である。

私は、引き続き、時間を見つけて、沖縄追悼慰霊を、行いたいと思う。
そして、日本人として、戦い、更に、日本人として、惨殺された人々の霊位に対して、日本の伝統作法により、清め祓いを、行う。

ある、ビーチでは、砂と、遺骨が、混じり合い、とても、気味の悪いビーチになっていると、聞く。
さらに、集団で亡くなった人々の場所、そして、洞窟などなど・・・

それなりに、供養という言葉で、行事が行われているが、供養によって、清め祓いは、行われない。
つまり、高位霊位による、導きがなければ、それは、出来ないことなのである。

お経を唱えても、霊位に伝わるだけである。
しかし、霊位は、それでは、ただ、慰められる程度であり、その場から、逃れられないのである。

大切なことは、霊位を、その想念を、解き放つこと。
上位霊位によって、引き上げを願うことなのである。

皇祖皇宗の、名によって、引き上げを、願う行為を、誰も成してはいないのである。

勿論、色々な宗教の、信者がいただろう。
それは、それである。
それぞれの、宗教のいう、天国や、極楽に、行く霊位は、それで、いい。

しかし、日本人として、死んだという意識は、日本の伝統作法により、引き上げることが、最も、理想である。

沖縄の基地の、問題を考える時、決して、多くの人に、理解されない、このようなことを、私は、考えている。

敗戦から、今年で、65年である。
未だに、さ迷える霊位が、想念があるとしたならば・・・

あまりに、あはれ、である。


posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月16日

最後の沈黙を破る 46

霊能力と、悟りは、全く別物である。

更に、霊能力は、大半、魔が、関与する。
釈迦仏陀は、それを、最も嫌い、弟子たちに、霊能力を使うことを、禁じた。

霊能者は、そのレベルで、霊を見る。
そのほとんどが、想念界、幽界であり、地獄界である。

その上の、レベルなどを、見ることは出来ない。
そして、その、人格である。
それも、霊能力とは、別物である。

更に、霊能力の背後にある、霊的存在である。

まともなものは、ほとんどいない。

大乗仏教の、作者たちも、霊的能力に欠けていたゆえに、とんでもない、場所にて、仏陀を登場させるという、お話を書いた。

これについては、神仏は妄想である、に、再度、取り上げる。

修験道という、霊的修行をするもの達がいる。
円の行者が、その、祖である。

山岳信仰ともいう。
確かに、山岳信仰というものは、一つの、形態であるが、とても、ついてゆけない。
彼らは、荒行をする。
そして、性格を頑固にし、偏狭にする。

レベルの低い、天狗に、取り込まれる。

密教系の修行者も、似たようなことをする。
これも、危険である。
しかし、前世の記憶からか、そういう、修行から、抜けられないでいる。

禅による、霊能力もまた、魔境によるものが、大半である。
法華経になると、終わっている。
成仏させるという、とんでもない、妄想に執り付かれる。

成仏とは、本人の問題であり、他者が、どうこうと、出来るものではない。
仏教の、根本を知らない。

払い除けることは、出来ても、成仏などという、境地に達することは、出来ないし、また、そのような世界は無い。

交通事故多発地帯に、幽霊が出ることは、警察署などでは、当たり前の事実。
そこで、秘密裏に、僧侶に頼み、読経させる。
そして、幽霊を、成仏させたと、思い込む。

ただ、浮遊する、霊の、場所を移動しただけである。

日本には、祓い清める、所作が、伝統として、ある。
それは、上位霊位によって、成される。

読経は、一時的なものである。

それならば、心ある人たちが、黙祷したほうがよい。

霊界になると、宗教の所作は、通用しない。

全く、異質の世界である。
想念の世界である。

霊界まで、見渡せる、霊能者は、少ない。

霊能者の、背後を、見ると、魑魅魍魎や、化け物、妖怪のような、存在が多い。
極めて、気持ちの悪い存在が、後押ししている。

はじめは、良いが、次第に、悪くなる。
よい影響は、手始めであり、その後は、徐々に、悪くなるのである。

霊能者と、長く付き合いをする人はいない。

人間の、悩みが、幽界レベルであるから、霊能者という名目で、商売が出来る。
幽界レベルとは、迷える霊の世界である。

また、そこから、情報を得るために、ろくでもない、情報を得る。
恐ろしいのは、宗教に似た団体を、作り、教組になる者である。

それらは、必ず、立派な建物を、作る。
背後の霊が、それを求めるからだ。

稲荷明神ならばいいが、その下の下の、単なる、野狐などは、手に負えない。
それらの宗教は、多く、分派する。
手かざしなどをする、団体に多い。

伊勢外宮の、豊受大神が、その稲荷大明神の大本である。
農耕の神、食べ物の神であり、多くの、幸福を願う事が出来る。

その、豊受大神とは、恐れ多いので、その眷属に、御願いすることになる。
それが、稲荷信仰である。
その、表現は、お狐様である。

昔は、狐が、憑いたといわれて、恐れられたが、今は、そんなことは、あまりない。
現代人は、狐が憑くほど、暇ではない。

しかし、それが霊能力を発揮することがあるから、面倒である。

今回は、龍神の話は、省略する。
龍神とは、とてもじゃないが、格が高いのである。

その辺の、霊能者に憑く、程度の、龍神は、生まれたてのような、ものである。

本来は、龍神と、表現しないほうがよい。
龍は、生命エネルギーの元であり、その姿が、龍の形を取る。
元神と、呼んだ方がよい。
天地自然は、この生命エネルギーの、発露である。

霊能力を求めて、インドなどに、行くと、必ず、大半の人は、狂う。

その手前で、帰国した人は、賢い。
私は、何人も、危ないと感じて、インドから、戻った人を知っている。正解である。

幽体離脱をして、戻れなくなり、精神病になる者、多々いる。

釈迦仏陀を、尊敬するのは、そのような、インドという地にて、あの心を見詰める、あり方を、説いたからである。

その、苦労は、計り知れない。

後、一年生きられるはずが、遂に、魔にやられて、命を落とした。
仏滅である。

その魔は、共にいた、弟子から、発せられたものである。
あの、仏陀にしても、そのようなのである。

読経をして、霊能者を任じる者には、特に、注意すべきである。
霊界に向かう霊位には、読経は、単に、喧しい音となる。

心霊の知識を知らない、宗教というのは、本当に、手が付けられない。
以後、また、書き付けることにする。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

最後の沈黙を破る 47

8月3日、北海道教育委員会が、北教組の違法献金事件を受けて、道内の公立学校の、教職員を対象に、政治活動の実態などを、たずねた調査結果を明らかにした。

教職員は、地方公務員法、教育公務員特例法などで、特定政党を支持するための、政治的活動や、政治目的の、選挙運動への参加などが、禁止されている。

具体的内容に、関しては、省略するが、道教委は、北教組に対して、聴取や、文書回答に、応じるように、求めているが、現時点では、回答がないという。

その、北教組の、言い分である。

調査は組合活動へ介入する、不当労働行為で、教職員の思想良心の自由を侵害している。再調査や処分に反対し、道教組への、要請を強化していく・・・・

日教組、然り、北海道教職員組合も、全く、意味不明の、発言をする。

自分たちの、活動は、当然であり、教育委員会の、調査が、不当であるという。
そして、いつも、思想良心の自由を侵害すると、繰り返しいう。

問題が、何かという、ことではなく、常に、思想良心の自由の、侵害であると、掲げるのである。

それは、何も、今回に限らない。

国旗掲揚、国歌斉唱でも、そうである。

それは、思想良心の侵害であると、いう。

指導部が、多くの、組合員に対して、思想良心の自由など、認めないが、国や、その、機関には、思想良心の自由をと、謳う。

決して、人の話を聞かないタイプの人間というものがいる。
自分の価値観のみ、正当であるとする。

未熟な人間が、そうである。

共産主義思想というものが、そうなのである。

宗教から、生まれた、思想であるから、宗教と、同じような、思考になる。
私たちが、正しいのである。
まさに、一神教と、変わらない。

行けども、行けども、話しが、噛み合うことがない。

彼らは、子供たちに、国歌斉唱では、歌いたくなければ、歌わなくてもいいと、小学低学年の子供たちに、平気でいう。

それ以前に、国歌を、教えない。

子供は、家に帰り、親に、国歌って、何と、問う。

歌いたい子供たちをも、戸惑わせる。
実に、罪深いのである。

国際的な、礼儀作法も、教えないのであるから、始末に終えない。
そして、言う。
思想良心の自由を侵害すると。

兎に角、自分たちに、都合の悪いことは、思想良心の自由を侵害すると、言い続けている。

こういうのを、手に負えないという。
加えて、アホ、馬鹿、間抜け、に入る。

政治的行為は、法律により、禁止されている。
それを、前提に、調査するというものを、不当労働行為で、云々・・・

つまり、視点を、ずらす。
相手の、言い分など、聞き入れない。
そして、逃げ道は、いつも、同じである。

思想良心の自由を侵害する。

国旗、国歌法案を作り、法律で、やるしかないと、思ってしまう。
それほど、彼らは、不自由な、組織にいるのである。

自分たちは、どんな命令も従わせる。
しかし、相手の、命令には、従わない。

下手をすると、違法献金も、思想良心の自由であると、言いかねないほど、蒙昧なのである。

選挙運動は、今に始まったことではない。
すでに、何十年も前から、共産党支持を、訴えていた。

彼らは、何十年も、法律を犯している。
しかし、それが、彼らの、思想良心の自由なのである。

法律より、組合の規則が、先行するのである。

それらが、子供たちに、教育しているのである。
そして、60年ほどを、経た。

義務よりも、権利のみを、主張する、者が、多々存在する国になったのである。

悪いことは、すべて、国の問題であり、良いことは、我々の・・・なのである。

ここまで、頭が悪い者たちを、どのようにして、導くか・・・

組合は、本来の目的を、忘れて、久しい。

組織の力を、脈々と、作り上げて、一体、何をしようとしているのか。

偏狭教育を、正すべく、国会議員は、調査すべきである。
そして、法律によって、規制しなければ、ならない。

それでも、彼らは、いうだろう。
思想良心の自由を侵害する、と。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

最後の沈黙を破る 48

テラの会として、活動している、中に、衣服支援をしている。
更に、その時々に、合わせて、食料支援なども・・・

東南アジアは、貧しい国が多い。
そこで、多くの、ボランティア団体、個人が、学校を建てる、施設を建てる・・・

建物を造るために、募金活動を始める者もいる。

私は言う。
九割は、嘘である。
いや、嘘になる。

建物を造るということは、そこで、継続的に、支援を続けるということになる。
それを、維持するために、大変な、困難が伴う。

ネグロス島の、トゥマゲッティという町で、農場を経営し、街中で、食堂を営む、ジョンソンさんという方と、話す機会があった。
私が、ストリートチルドレン三人に、ジョンソンさんの、店から、チキンと、ライスを買って、公園で、食べさせていた時である。

その中の、子供が、昨夜、店に盗みに入り・・・という、話から、はじまった。

私の行為は、傷口に、一時的に、バンソウコを貼るのに似るという。
その通りである。

だが、彼は、まず、私の行為に、敬意を表した。
ありがとう

そして、彼は、話し始めた。

食料、衣服を渡すと、次に、彼らの住む場所を造ることになる。
そして、教育の必要性。
彼らは、大人になっても、働くことが出来ないという、実に、厳しい現実がある。

親がいても、貧しいあまり、子供に暴力をふるい、子供が、ストリートに住むようにもなるという。

だが、建物を造り、大きな、意思で、フィリピンのストリートチルドレンに対する、環境を整える人たちの、大半が、途中挫折してしまうと、いう。

何故か。
続かないのである。

財力も尽き、更に、支援も、長くなると、減る。
志は、いいのだが、継続することが、如何に、難しいことかと、いう。
しかし、それを、やらなければ、フィリピンは、救われない、という。

そして、私に、出来れば、そういう施設、学校に、支援をして欲しいという。

私は、最初から、そのつもりだった。
建物を建てて、それを、維持するというのは、至難の業である。
今、現在、ある、団体や、学校、施設に、支援をすることの方が、現実的なのである。

建物を造るという、大志を掲げて、最初のうちは、燃えるが、それが、時間と共に、消えてしまう。
情熱も、消える。

嘘ではなかったが、続かないという、現実がある。

私は、どこの地域でも、まず、それらの団体、支援を求めている、施設、学校を、探す。そして、そこを、中心に、支援をする。

だが、まだまだ、そういう建物が、足りない国がある。
だから、私は、通りに出て、子供たちを、見つけて、衣服を手渡すのである。

更に、スラムに入り、人々に、手渡す。

ジャカルタには、世界最大の、スラム街がある。
とてもじゃないが、死ぬまでかかっても、支援しきれないほどの、広い地域である。

東南アジアの国々には、必ず、スラム街がある。
勿論、南アジアにも。

ラオスでは、少し田舎に出ると、学校はあるが、教師も、教科書も、ノートも無い。
無い無い尽くし、である。

建物は、あるが、これでは、どうしょうもない。

だから、私の基本は、ただ今、存在する、建物、団体、施設に、支援をするということ。それが、一番、現実的な方法である。

万が一、私が建物を建てるとするならば、全く、それらが無い場所だろう。
だが、私の死後の存続も、考えて、行わなければ、ならない。

建物を造るという、人たちの、話は、信じても、協力しないほうがいい。
途中挫折が、一番、悪い結果を生む。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

最後の沈黙を破る 49

沖縄、普天間飛行場の、辺野古への、移転の問題は、何か。
何故、突如として、辺野古が、反対するに至ったのか。

私は、この話を、聞いて、驚いた。

地域住民に対して、政府は、一世帯の保証金を、五千万円支払うと、提案していたのである。

過疎地帯である。その程度で、妥協できると、政府は、信じていた。

ところが、この話しを、聞きつけた、または、誰かが教えたのか、本土の、ヤクザ集団が、我も我もと、引越ししてきたのである。

新住民として、住み着くようになる。
ヤクザは、所詮、ヤクザである。
真っ当に働く意欲がない、
暴力で、金をせびるのが、唯一の、仕事・・・・

政府は、慌てた。
そして、保障対象を、居住年数十年以上の世帯とする、制限を、新たに設けた。

すると、ヤクザたちである。
基地移設反対運動をはじめた。

すると、政府は、苦肉の策として、全住民に、対して、一律、二、三百万円とする、案を提示した。

大幅なダウンである。
旧住民と、新住民から、猛烈な、不満の声が上がり、ついには、旧住民まで、加わり、反対運動となった。

自民党時代に、根回しして、更に、根回しして、十年をかけての、準備期がある。

それが、これである。
要するに、金の問題である。

ヤクザの行動は、論外である。が、旧住民も、金に目が眩んだ。

沖縄は、いつまでも、犠牲を払うことを、求められる・・・
本当に、そうだろうか。
どれほど、沖縄に、税金が、投入されたのか。

日本には、ヤクザが、野放しになっている。
歴代政権と、ヤクザは、腐れ縁である。
今も、ある、大物議員との、つながりがある。

更に、ヤクザの中には、在日も多いという、事実。
外国人参政権を、謳う者を、疑う。

日本人も、中国人と、同じように、拝金主義に陥って、久しい。

その一例は、亡くなった、高齢者を、部屋に放置したまま、その、年金を貰うという行為である。極まれり、である。

それで、平然として、生きられる神経が、理解できない。
死んだことを、隠して、年金を貰うという、根性は、見苦し過ぎて、言葉も無い。

日本人の精神は、予想以上に、悪化していると、考えてよい。

金儲けのための、テキストが、多くは、詐欺だが、絶える事が無い。

何の創造性も無いものが、大枚な金を得るという、へんてこりんな、時代である。
金を持って、金を得るという。それで、大金を手にした人を、成功者と呼ぶ。

命の次に、大事な金だからといって、命がけで、金を得るのではない。

マネーゲームで、世界が、混乱しているのは、リーマンショックを、見れば、解るはずだが、それでも、マネーゲームを止めない。

金で、金を得ることが、実に、浅ましいことであるとは、考えないという、魔物が、世の中を、跋扈する。

しかし、時は、過ぎ行く。
それを、知る者は、知恵のある者である。

生きている間だけが、この世の春ではない。
死という、冬が、やってくる。

そのための、準備など、思いもつかないだろう。

勿論、死後の世界も知らない。
また、信じない。

死んでみて、初めて、驚愕する。


posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。