2009年05月10日

最後の沈黙を破る 10

カウンターテナー藤岡宣男という、天才声楽家と、私は、毎日過ごしていた。
その私は、彼を知る、唯一の人間である。

何故なら、私たちは、ほぼ、毎日のように、喧嘩をしていた。
ことごとく、合わないのである。

しかし、何故、私と一緒にいるのかと、尋くと、藤岡宣男は、必ず、楽しいから、と、言った。
それには、絶句した。

疲れると、私に寄り添うのである。
そう、彼は、私が、磁石のように、人の気を取ることを、知っていた。

二人で、鉢植えを買って、疲れを取るために、両手をあてていると、その鉢植えは、一週間も持たずに、枯れた。

つまり、藤岡宣男も、霊媒体質だったのである。

そして、彼は、実に男気のある男だった。

藤岡宣男の、歌を、部屋で聴くのは、私には、大変なことである。
それを聴けば、様々と思い出し、今でも、聴くことが、出来ない。
だから、ホールにて、彼の歌を流し、無造作に聴くことにしている。

更に、記録録音の、原盤を、時間と、お金をかけて行っている。
最初から、藤岡の、録音を担当としくれた、プロの方である。

いずれ、しっかりとした、藤岡宣男の生きた証として、公開するためである。

今は、だが、まだ、その時ではない。
色々な、法律的問題もある。
すべてが、収まるには、死後、10年ほど経てからである。

私は、一年祭に向けて、どのように、するのかという提言を行った。しかし、誰からも、何の反応も無かった。
それで、去る者は、日々に疎し、という言葉を思い出した。

ところが、である。
ある日、私は、藤岡の、想念を感じた。

私の妄想であると、言ってもよい。
藤岡は、私に、木村さん、僕のために、何もしなくていいよ、と、言うのである。

その意味を、私のみが、理解できる。
つまり、藤岡の潔さである。

あの、バッハでさえ、自分の作曲したものを、次から次と、捨てていた。
残ったのは、それを、拾い集めた、奥さんの、労である。
死後、50年後に、それが、公開され、演奏されて、注目を集めた。

要するに、表現者は、その時、なのである。
その時の、表現で、終わる。
実に、潔い。

踊りの名手は、踊り終えると、すぐに、次の踊りはと、考える。
終わったものは、過ぎたもので、捉われることがない。

だから、芸術活動は、素晴らしい。
勿論、自然に残るものもある。
文芸などは、書き物であるから、残る。
しかし、それが、千年も、二千年も、読まれるか、である。

もう、僕は、この世に、捉われていない、という、藤岡のメッセージである。

どうでも、いいことなのである。
生きたという、ことだけで、足りる。

だが、まだ、生きている私は、そうは、言われても、残すべくの、努力をする。
それは、私のもう一つの、表現だからだ。

生きているということは、我が生きているのであり、他が生きているのではない。

何かのためにという、大義があっても、それは、私のためなのである。
誰のためでもない、私のためである。

それは、私という、存在から、私が、遊離することがないからである。

結果は、わが身のためである。
だから、藤岡宣男の、歌を残すという行為も、藤岡のためではなく、私のために、行うことなのである。

僕のためにすることは、ないよ、と言う藤岡は、もっともで、もう、すでに、終わったからである。
終わったことに、ぐずぐす、捉われていない。すっぱりと、捨てている。

だから、いい。

後は、私が私のために、藤岡の歌を、残すという、段取りである。
それが、私の生きる意味になる。

余裕、ぶっこいて、悠々として、それを、実行する。

もう、あれこれと、言わない。
ただ、実行するのみである。

膨大な、記録録音がある。
几帳面な藤岡は、すべてを、録音していた。
その、練習までも、である。

私は、書いた小説を、平気で、捨てていた。
それは、私のために書いたものであり、他のために書いたものではないし、価値のあるものとも、思わない。
すべて、自己完結しているのである。

そして、それは、私には、潔いのである。

多次元の世界から、この次元の世界を見たら。
それは、想像も出来ない世界である。
しかし、確実に、死ぬから、確実に、それを、見ることが出来る。

多次元の世界から、この次元を見れば、あまりの、不完全さに、愕然とするであろうことは、解る。

また、不完全であるから、面白いともいえる。

ああ、藤岡宣男に逢いたいと、思う。
もう、随分と、逢っていない。

慰め、励まし、喧嘩し、怒り、様々な、感情を二人で、爆発させた。そんな関係を、築くのは、大変なことである。
どうでもいい人には、そんな感覚も、起きない。

どうでもいい人は、どうでもいいのである。

目の前に、多くの人がいても、どうでもいい人だと、それは、無いものと、同じである。

ああ、藤岡宣男に逢いたいと、思う。




posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

最後の沈黙を破る 12

人の人生は、短い。
過ぎてしまうと、あっという間である。

だから、人は、何かを残そうとする。
何も、残さなくても、いいと思う人もいる。
子供を残して、よしとする人もいる。

何故、芸術に関わるのか。
それは、芸術の永遠性を、信じるからである。

更に、時間を超えた、不特定多数の人に、関わることが出来るのである。

そこで、芸術に奉仕するという意識が、芽生えても、当然である。

いつも、思うことは、バッハが、自分の作曲したものを、次から次へと、捨てていたことである。
バッハには、芸術に奉仕するというより、今の、生活のためという意識の方が、強かった。
しかし、奥さんが、それを、せっせと、集めて、保存していたことにより、今、バッハの曲を聴くことが出来る。

それは、本人の意思に関係ない。

目先の仕事、金が必要なために、せっせと、書いていた物が、後に、偉大なる小説と、言われることもある。

夏目漱石は、新聞小説で、書き続けた。
生活のために、である。

芸術に寄与する気持ちよりも、生活することに、重きが置かれた。

誰も、偉大なる芸術を作る、創造するという意識で、芸術家をするのではないということを言う。

だが、結果的に、芸術に奉仕し、寄与することになる。

そして、更に、それを、意識して、芸術に関わる者もいる。

勿論、最後は、わが身のためであるが、その、わが身のためが、芸術に寄与する行為となる場合は、大変に幸せである。

更に、そこには、プロとか、アマという、意識も無い。

誰もが、皆、芸術に寄与出来るのである。
芸術だけではない。
学問にも、言える。

残されている、芸術作品には、多くの無名の人が、関与することもある。
そして、彼らは、それにより、賞賛されることを、望まない。当然だと、思う。それが、芸術行為だからである。

芸術行為は、行為自体に、帰結する。

古典を再現する、クラシックという、音楽の一つの世界も、そうであろう。
そして、多くの音楽の世界も、である。

行為自体に帰結するならば、それ以上のことはない。
要するに、参加することである。
どんな形であれ、参加することによって、行為することになる。

演ずること、演奏すること、聴くという行為も、芸術に関わる。

その、行為に帰結するから、それで、いい。
そして、伝わってゆく。

伝われること、それが、芸術の運命であり、貴いことである。

一本ヒットすると、云々という世界ではないところの、世界で、出来ることを、するという、ことだけでも、十分に貴いことである。

後世に、残る、残らないというのは、二の次、三の次である。

そして、最も重要なことは、今の評価による、云々ではないということである。
今の、評価が、正当であるなどということは、絶対にない。
時代を超え、時代精神を超えても、残るものを、今の人は、知らない。知る術も無い。

それは、後世の人が決めることである。
だから、50年や、100年の単位、千年、二千年の単位になる。

記録されて、残るものに、すべて価値ありと、認められることはない。
時代と、時代精神によって、それは、移ろう。
だが、それも、超えて、芸術に奉仕し、寄与することが、永遠性というものに、気づく、近づく道なのである。

そして、それには、誰もが、参加出来る。

演奏しても、聴く人がいなければ、どうしようもない。

秋の虫の音は、誰に聴かせるためでもなく、鳴く。
芸術は、人間だけが、参加できるものである。

民族音楽の、源流を訪ねると、必ず、自然の音に、行き着く。
そうすると、過去のリズムは、過去のり自然の音なのである。それで、過去の人が、自然の音を、どのように、聴いたのかということが、解る。
そして、今、また、民族音楽は、今の自然を真似て、作られる。

過去に聴いた音が、正しく、今の音が、間違いだということは、決して無い。

表現形態が、変化する。
それも、芸術である。

おおよそ、芸術という意識は、無意識につながる。

だから、面白いし、貴いのである。
無意識のモノを、意識化する作業が、芸術というものの、本体である。

つまり、無意識に、参加するのである。そして、それが、永遠につながるものだという、確固たる、意識が、また、何とも、人間らしい。

有限な人生を生きる人間の、悲しい行為が、芸術行為である。
そして、それは、永遠というものを、夢見させるものである。

悲しいとは、愛しいとも、書く。
日本人が、かなし、という時は、悲しいのではなく、心のすべての状態を、総称して、かなし、というのである。

漸く、そこで、儚い行為が、輝く。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最後の沈黙を破る 11

藤岡宣男の、歌にある、もののあわれ、というものと、私が言うと、どうも、考え方が、解らないようで、理解されない。

藤岡は、西洋音楽を志した、そして、古楽をはじめ、クラシック音楽の中に身を置いた。
その上で、日本の歌に力を入れた。

それで、私が、もののあわれ、を、歌える歌手というのである。

つまり、もののあわれも、歌えるのである。

それが、どうして、理解されないのか。

彼の歌のすべてに、もののあわれ、が、通じていると、言っても、彼は、西洋音楽の上にいるのである。

もし、私が、有名な評論家であれば、その発見を、素晴らしいと、賞賛されるであろう。

つまり、無名の私が言うから、理解されないし、理解できないのである。

何の権威もない。

だが、私は、死ぬまで、言い続ける。
藤岡宣男は、もののあわれ、を、歌いきる声楽家であると。
それは、私をして、さらに、私の表現芸術である、物を書くという行為を、引き出す。
芸術という、そういうものであろう。

芸術が、互いに、影響し合うということは、また、素晴らしいことである。

彼の歌は、上手い、でいいだろう。
という、アホがいる。
上手いで、話が出来れば、評論活動は、出来ない。

評論活動も、芸術活動である。

と、ここまで、一気呵成に書いた。

つまり、もののあはれ、というものを、知らないし、それは、単に、漠然としたものという、認識しかない。
更に、もののあはれ、というものを、説明せよと、言われれば、尽きない、文を書き続けることになり、私は、もののあわれについて、と題して、書き続けている。

つまり、言い続けることなのである。

膨大な原稿になるであろう、もののあわれについて、は、未完で終わることも、知っている。
日本人は、それを、描くために、時代を超えて、創意工夫してきたのである。

万葉集から、和歌、連歌、能、茶の湯から、俳句、文学等々、様々な形で、日本人は、伝統として、もののあはれ、というものを、見つめてきたのである。

例えば、能の幽玄という、世界も、語れば、きりが無く、語り続けなければならない。そして、それも、もののあはれ、から、発しているのである。

茶の湯の、心も、そうである。

雪間の草の春を見せばや
雪の間にある、春の芽吹きの草の芽を、茶の湯の心に喩える。
これも、もののあはれ、からなる、心象風景である。

世阿弥の、秘すれば花、というのも、そうである。

風流、風情という言葉も、そこから出る。

哀れ、でも、憐れ、でも無い。
あはれ、なのである。
漢語、漢字では、表せない心象風景である。

茶の湯の、堕落は、禅に、その心を求めたことである。
禅語に、それを、託したことから、堕落の一途である。

そして、女子供の、遊びと、堕落して、久しい。

エロ小説のような、物語、源氏物語は、エロの部分が、皆無である。
しかし、恋をテーマにして、人の心の微妙な動きを、描く。

その、描く行為に、もののあはれ、というものが、表される。

歌に、もののあはれ、というものを、感じて、何が悪いのか。
つまり、藤岡の歌、声にある、微妙繊細な音に、私は、あはれ、というものを、感じたのである。

それが、私の藤岡の歌に対する、評価である。

その評価に対して、一体、何事を言うのだろうか。
更に、何の議論もなくである。

一方的だと言うが、何の議論もなく、上手いでいいというのは、それこそ、一方的である。

藤岡の歌に対して、真っ当に、評した、評論家は、一人のみである。

その、評論家は、シルクトーンと、称した。
それで、いい。
私も、それを、受け入れた。

つまり、絹の音である。
絹、シルクという、生地のように感じる音なのであろう。
そのように、感じたと、評論家は、言うのである。

私は、もののあはれ、というものを、感じた。
それで、いいだろう。

延々と繰り返される、日本の芸は、もののあはれ、というもの、一筋に、向かっている。と、私は、感じでいる。
それは、私の感性である。

更に、感受性である。

西洋の音楽学なるものを、読むと、こけおどし、である。
そうして、西洋音楽を評する人は、そこから、評論の文を書く。
だから、へんてこりんな、日本語になる。

最後まで、何を言いたいのか、解らない、音楽学というものもある。
その、音楽学というものについては、何も、言えずに、私の、もののあわれについて、は、何かと言う。

僭越行為の何物でもない。

藤岡の歌を、一冊の本にして、下さったという人は、未だいない。

芸大教授率いる、音楽団体の、評論は、いつ、誰のを、読んでも、同じ評価で、同じ調子で、べんちゃら、である。
べんちゃら、とは、おべんちゃらを、振る、ということである。

西洋音楽の世界は、実に、狭く、井の中の蛙大海を知らずを、地でゆくのである。

音楽は、西洋音楽が、元ではない。
民族音楽が、元である。

更に、西洋音楽の、発祥は、ユダヤ教の、祈り、唱え文句からである。
それが、カトリック教会の、グレゴリオが、取り出して、勝手に、我が物としたのである。

ユダヤ教から、逃れられないのである。

勿論、西洋音楽をやるもの、それを、知らない。知らないことは、無いことであるから、救いようがない。

正統ユダヤ人こそ、西洋音楽が出来るという、からくりである。

西洋音楽史の、誤りは、それを、棚上げしていることである。

決して、キリスト教ではない。
ユダヤ教である。
ユダヤ教といえば、勿論、悪魔教である。
準じて、キリスト教、イスラム教も、その上にある。

西洋音楽は、悪魔からのものである。

彼らが言う、神とは、悪魔のことである。

終わっている。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

最後の沈黙を破る 13

世の中の人、大半は、毎日、同じ言葉を使い生活する。
その、語彙は、甚だしく、少ない。

その程度の、語彙で、多くを考えることは、できない。
精神活動とは、言葉の世界のことである。

勿論、アホな宗教修行は、言葉では、計りきれないとか、語りきれないというが、それでも、語っている、アホ。

少ない語彙で、考えると、ほぼ、想定しての、考えしか浮かばない。だが、本人は、考えているつもりでいる。

解らないことを、解らないと、中々、言わない。
それで、分析をよくする。

分析をすることが、頭がいいと、思う根性が、また、愚かである。

頭が悪くて、粘着タイプの人間は、一度、何かに、囚われると、そこから、抜け出すことができない。

それに、加えて、自己幻想が、甚だしい。

たかが、一人の人間の考えることである。
勿論、天才という人がいる。
しかし、天才は、死後に認識される。
生きているうちに、天才と、言われるのは、天才でもなんでもない。
ただ、乗せられて、金にされているだけである。

ある、馬鹿が、キリスト教新興宗教に、のめり込んだ。
馬鹿だから、手が付けられない。

エホバが唯一の神である。
エホバ以外を拝むな。
偶像崇拝は、罪である。

私の、神仏は妄想であるに、キリスト教については、間違いである。あなたは、本当のキリスト教を知らないと言う。

それでは、他の宗教に関しては、どうなのかと、問うと、他の宗教については、よろしい、とのこと。

馬鹿馬鹿しいが、もう少し、書く。

それでは、彼は、家族を信仰に導いたかというと、家族の一人も、入信していないという。

愚か者である。

本当に、救いたい人は、まず、家族からであろう。
要するに、家族に信頼されていないのである。
万事休す。

赤の他人に、エホバを説いて回るほど、アホなことはない。

彼は、聖書というものを、読まない。読むのは、エホバの教義である。
話にならない。
更に、聖書の部分を取り上げて、云々する。

旧約新約聖書の全編を読まずに、どうして、聖書解釈が成り立つかということが、解らない。頭の悪い証拠である。

矛盾だらけである。

面白いのは、同じキリスト教に対する、批判は、激しい。
これは、どこも同じである。

法華経を捧持する、宗教は、我らが、正しい、日蓮の仏法であるという。
土台、仏法なんて、ものはないのに、である。

イスラムなどは、シーア派と、スンニ派が、殺しあう。

唯一の神というが、エホバは、数人いる。
時々、それぞれが、違うことを言うから、矛盾が生ずる。

日本には、無いが、ようやく、欧米に悪魔学なるものが、出来た。
悪魔とは、何かである。

勿論、旧約聖書の神々である。
一つではない。
彼らは、複数である。

だが、エホバは、一つと思い込んだ者には、通用しない。
真実を知るのではなく、今の私の知性のレベルに合わせた、教えなるものを、受け入れるからである。

アホは、アホの、馬鹿は、馬鹿、アンポンタンは、アンポンタンの、である。

天使、ルチフェルが、嫉妬によって、悪魔になったと、教えられる、キリスト教では。
ところが、出たこところは、同じである。
つまり、同じ穴の狢である。

人間の想念が、それらを、作り上げたということもある。

さて、どうでもいいが、韓国の、キリストの生まれ変わりだという、統一教会が、大聖堂を建設している。
それだけで、生まれ変わりが、嘘だと、思うが、信者は、本当だと、思う。

勿論、頭が悪いからである。

イエス・キリストは、布一枚で、生きた。
狐には、ねぐらがあるが、私には、寝る穴もないと、言った。
実に、単純明快である。

ところが、統一教会の、教科書を読むと、とんでも議論が、展開され、更に、決して、意味が解るように書いていない。
馬鹿は、決して、解らないようになっている。

その、難しい言葉を、一つ覚えると、賢くなったと、思う。そして、洗脳の前に、自己洗脳するという、段取りである。
これも、先祖の因縁が悪いのか。

以下省略。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月14日

最後の沈黙を破る 14

カウンターテナー藤岡宣男は、何をしたのか。

一言で言うと、音楽馬鹿ではなかったということである。

音楽する者は、大半が、馬鹿である。
音楽しか知らない。
そして、知る必要が無い。

そのように、育てられるのである。

知識と、教養とは、程遠い人間が、音楽人間である。

勿論、中には、音楽の世界を超えて、知識と教養を持ち、音楽を深める音楽家がいるが、実に、数えるほどである。

ただ、藤岡の、その教養の程度を、見抜く人は、少なかった。

語学堪能であることも、藤岡は、自慢することもなかったし、逆に、いつも、駄目だと、私に、こぼしていた。

だから、これぞと思う人に、習いに出掛けた。それも、大したものだと、私は、思っている。

藤岡は、最初の、リサイタルから、歌の説明をした。
それは、意外なことだった。
中には、コンサート後に、説明は、必要でしょうかという、お客もいた。

藤岡の考えは、クラシックに、馴染みの無いお客さんにでも、分かるようにしたいということだった。

ところが、クラシックファンは、これまた、私は、音楽の知識があって、聴きに来ていると、思い込んでいる。
甚だしいのは、評論家ばりに、アラを探そうとするアホもいる。

そういう連中が、多いのが、クラシック音楽の世界である。

音楽家も、お客も、勘違いする者、多数。

もっと、お馬鹿なのは、格式が高いのが、クラシック音楽だと、信じるアホである。

他の音楽は、下の下と思い込むのである。
そういう、ソプラノ歌手に、多く出会った。
いやいや、テノールも、バスも、色々いる。

ああそうだ、ピアノ弾きもである。
いやいや、管弦楽器奏者もである。

ジャズだけが、音楽だと、思い込むアホと、同じである。

民謡、歌謡曲などは、下の下と言う。

歌謡曲、演歌を、雑音と言って、憚らない、音楽家もいる。
その成立過程など知らずに、平然として言うのが、アホである。

そういう、連中が多いので、私は、西洋音楽史と、音楽学なるものに、目を通した。

そして、笑った。

私は、中学、高校と、熱心な、カトリックであったから、宗教音楽などは、日常だった。
そして、その出所を知っていた。

ユダヤ教の、祈り、詩篇の朗唱である。
グレゴリオ聖歌などというが、何のことは無い、ユダヤ教徒から、盗んだものである。

つまり、初期、ユダヤキリスト教徒は、ユダヤ教の中で、礼拝していたのである。
ところが、ローマカトリックに、皆殺しに遭う。

今の、カトリックは、ユダヤキリスト教から、奪ったものである。

さて、藤岡は、宗教曲を歌う、理解するために、私から、聖書の講義を受けた。
勿論、藤岡が、望んだことである。

そこで、私は、毎日、一時間ほど、ヨハネの福音書を、読んで、話した。
最初は、藤岡も、理解出来ないと、言っていたが、半ばを過ぎる頃には、キリスト教を理解していた。

知らないことを、知らないと、言えるのが、藤岡宣男だった。

ちなみに、聖書解釈というのは、自分勝手な解釈である。
どうにでも、解釈出来る。

聖書自体が、解釈による、聖書創作なのである。

そのことも、藤岡に話した。

そのうちに、藤岡は、宗教の原理に興味を持った。
原始宗教の、あり方などを、話した記憶がある。

太陽と、火の神格化である。
それから、自然のありとあらゆるものに、人は、畏敬の念を覚えて、宗教的情操を、作り上げてきたこと。

そして、それは、人間の大脳化の証である。
大脳化を、授受することによって、人間は、あることに気づいた。
それが、孤独である。

それを、超えるべく、自然を畏敬した。
その、畏敬が、宗教の根本原理である。

孤独の扱い方を、知る者にとっては、宗教は、必要ないのである。

釈迦仏陀の行為を、見ると、それは、宗教ではない。
生き方である。

釈迦仏陀は、孤独の扱い方を、知ったのである。
そして、オリジナルである、仏という、象徴を、築いた。

そこまで、藤岡は、宗教に関して、理解した。

藤岡の、発声法も、根気よく、身体機能について、学び、そして、作り上げたものである。
そこまで、理解する、能力があった。
また、才能があったといえる。

ピアノ指導にも、発生法を取り入れた時は、驚いた。

つまり、ピアノは、身体で、弾くものであるという、原理である。

その他、色色あるが、この辺で、止めておく。

惜しい人を、亡くしたとは、思わない。
人は、いずれ、死ぬ。
生き恥を晒して生きるより、見事に、我が人生の、生き場所を、生きて、死ぬ。
これほど、幸せなことがあろうか。

勿論、私にとっては、四年祭を迎えても、あの日の、心境と、全く変わらない。

悲しみは
なお深くして
悲しくて
果て無き空の
彼方を見上げる

私は、藤岡宣男によって、死ぬことが、待ち遠しくなったのである。
死を迎えることが、楽しくて・・・楽しくて、である。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月15日

最後の沈黙を破る 15

テラの会の、活動主旨は、戦争犠牲者の追悼慰霊である。

準じて、衣服支援を、行う。

私の、それは、長年の希望だった。

その時期が来たので、行っている。

戦争を反対する前に、するべきことは、その犠牲者の追悼慰霊以外に無い。
死ねば、終わりと思い込む人には、分からないし、それを、説得もしない。
死ねば、解ることだからである。

死んで、行くところ無く、浮遊して、はじめて、死の世界を知る。

タイ・チェンマイ在住で、昨年の暮れに亡くなった、兵士の生き残りの方がいた。
彼は、戦友の遺骨収集を行い、12000体ほどの、遺骨を集めて、慰霊碑を自宅近くに、建てた。

それから、毎晩のように、戦友たちが、現れたという。
霊である。

彼は、そこで、提案した。
俺は、クリスチャンだから、クリスマスイブに、皆のために、ご馳走を用意し、向かえるから、その時に、来てくれと、頼んだ。
すると、翌日から、戦友の霊は、出なくなった。

彼の潜在意識が、云々かんぬんという、問題ではない。

戦地にて、そういう現象に、見舞われる人は、多々いる。

ある、精神科の医者である。

相談に訪れた患者は、沖縄の女性だった。

治療を続ける、うちに、ある日、彼女の口から、私たちは、と、出た。
医者は、驚いた。
私たちとは・・・

どうしました
私たちは、沖縄戦で、死んだものです
どこですか
・ ・・・です。

医者は、理解不能に陥った。

だが、彼女の口から、それを聞いた医者は、・・・と、言われた場所に出掛けた。
そして、感得した。

霊がいる。

彼は、それから、毎年、そのための、慰霊を行っている。

私の友人の、知り合いの、精神科医である。

一人密かに、感じ取って、慰霊を行う人は、多くいる。
しかし、それを、私のように、人に語ることはしない。
ただ、黙々と、行為するのみである。

憑依現象の大半は、精神的なものである。
しかし、中には、稀に、本当に、霊が憑依する場合がある。

私は、それを、知っている。

さて、戦争犠牲者の追悼慰霊が、平和への、近道であること、それは、明白である。

何故なら、彼ら、戦死者は、二度と、戦争などしたくないと、思っているからである。

その彼らを、その場に、留めおいては、危険である。

事故多発地帯と、同じである。
戦争の想念を、持ち続けることは、戦争を呼び込む。

兎に角、霊位の行くべき場所に、案内するべきなのである。

それは、簡単なこと。
故郷に帰りたい霊は、故郷に、靖国に奉られたい霊は、靖国に、母の元に帰りたい霊は、母の元に。
母は、すでに、亡くなっていても、霊位の想念は、母に会う。
それで、彼らは、目覚める。
死んだ我という、自覚である。

後は、それぞれが、それぞれに、自ら、その先を行く。

それが、伝統行為である、神送り、清め祓いの行為である。
日本には、古から、その所作がある、唯一の国である。

言霊を語る人、音霊、おとたま、を、知らない。
更に、音霊には、数霊、かずたま、がある。

宇宙には、音と色がある。
色は音であり、音は色である。

白地に赤い、日の丸も、清め祓いの象徴である。
富士王朝時代に、それは、成った。
太陽の光を、真似て、創作された。

薩摩藩の、旗を国旗にしたのではない。
知らないゆえである。
元から、あった。

天皇家の、菊のご門というが、あれも、菊ではない。本来は、太陽と、その光を、映したものである。

日の本とは、日本のことである。

その象徴が、日の丸である。
私は、追悼慰霊、特に、日本人の追悼慰霊の際に、日の丸を持参することにしたゆえである。

沖縄戦で、犠牲になった、皆様は、明確に、日本人としてという、意識がある。

薩摩藩と、中国に、搾取され続けた歴史があるが、沖縄の人は、大和の国を、日本を、善しとした。

今の沖縄の人のことは、知らない。

ただ、戦争犠牲者は、確実に、日本人であるという、意識がある。

集団自決で、名高い、渡嘉敷島に出掛けたとき、案内してくれた、タクシーの女性から、単独で、単なる慰霊に、来られた方は、はじめてですと、言われた。

そして、その島の、当時のことは、話したくないのです、誰もが、と、言った。
しかし、私には、尋ねないことも、話した。

更に、集団自決跡には、島の人も、行かないと、聞いた。思い出したくないのである。更に、いまだに、迷う霊がいますと、言う。
その日も、彼女は、自決跡に、近づくと、朦朧とするという。

動悸が激しくなり、フラフラらしい。

大丈夫ですよ、すぐに終わります

私は、慰霊をしてから、はじめて、昭和天皇を、御呼びした。

そんなことは、何も考えていなかったことである。
皇祖皇宗を御呼びし、その地の、産土の神を御呼びして、慰霊なのであるが、昭和天皇を、御呼びすることになった。

あまつのりとの ふとのりとごと
これは、神道では、極秘にされている、唱え言である。

私も知らない。
ゆえに、その時、口から出る音に、任せる。

・ ・・・・・・
すべてが、終わり、私は、時間が迫るので、港に戻った。

何か、ありましたら、お電話くださいと、彼女に言われた。
携帯電話の、番号を聞いた。

自決の後、島の川の水が、血で、染まったという。

更に、スパイ容疑で、日本軍兵士に殺された人もいる。

無念の思い、満ち満ちてあり。

島には、神社しかないという。

葬儀は、昔ながらの、島民による、お別れの式である。

次に、私は、隣の島、座間味にも、行く。
ケラマ諸島は、アメリカ軍が、最初に上陸した、場所である。

勿論、他の沖縄戦場にも、出掛ける。

追悼慰霊なくして、平和は、無いのである。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月16日

最後の沈黙を破る 16

若い声楽家たちの、歌を聴いた。
とても、素晴らしい声である。

声質が、また、優れている。
しかし、日本語になると、何故、あのように、母音に戻れなく、更に、折角の、歌詞が、日本語に聞こえないのか。

この期に及んでも、まだ、それが、成されないということは、ただ、ただ、指導者に問題があると、思うのだ。

要するに、指導者が、アホなのである。

もし、藤岡宣男に、指導させたら、皆、日本語として、歌えるようなったと、思われる。

アォアォーーーー オァオァーーー
としか、聞こえない。
ゆえに、非常に疲れる。
何を言っているのかを、聴こうとすると、断然、疲れる。

母音に、戻せば、日本語になる。
何故、それが、出来ないのか。

藤岡の場合も、しイ、ひイ、とが、非常に微妙だったことがある。
ひ、が、しに、聞こえることもあった。
ただし、私は、何も言わなかった。
その時の、指導者に任せていた。

だが、我慢が出来なくて、言った。

思いいずる日
おオもオいいずウるウひイ
と、歌うのである。

その指導者は、口さえ、ひ、の口をすれば、いいと、教える。
それでは、声にならない。
それで、息を出せば、ひイになると、信じている。

イ音だけ、強調しても駄目。
ひ、も、い、も、出す。二つの音である。

それを、瞬時にする。
それが、芸である。

ちなみに、私は、今、舞台で、歌う。
声楽の発声法ではない。
生声で、歌う。

生声で、歌って、日本語になっているということを、実感している。
つまり、出来ないことではないのだ。

もし、どうしても、彼らが、日本語で、表現したいというなら、馬鹿でかい声を出すことをやめて、マイクを使うといい。
その方が、大声で、わけのわからない日本語で、歌うより、遥かにいいのである。

といっても、生声で、聞かせる声楽発声なのであるから、出来ない相談だろう。

藤岡宣男は、母国語で、歌うことは、日本人声楽家として、当然のことであると、言った。その通りである。

母国語を、しっかり歌えない者が、あちらの言葉で歌う。では、その言葉が、出来るのかといえば、会話は、おろか、何も喋れない、意味が、解らないと、話に、ならない。

だから、声楽家は、馬鹿だと、言われる。

精々、舞台が、終わって、乱交パティーをするのが、関の山。

それにしても、馬鹿は、指導者である。
大枚な、給与を得ているのだろうし、指導料を取っているのだろう。
この場合は、取るのである。
つまり、金を奪う。

教えられるものが無い人が、指導料を、頂くとは、言わない。
取る、奪うのである。

自滅を願う。

知り合いの、カウンターテナーの方は、日本語の歌は、歌えませんという。
その方が、すっきりしていて、実にいい。

彼は、世界的レベルに達している。


posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月17日

最後の沈黙を破る 17

藤岡宣男の、崩 神上がり かむあがり祭、四年祭を迎える。

藤岡の歌を残すという、人の気持ちは、よく解る。
私も、その一人で、藤岡の録音を、すべて、所有し、保存しているのは、私である。

そこで、藤岡を、忘れない、忘れ去られないようにという、人の気持ちも、また、解る。

しかし、藤岡の歌を、残すという時、それは、藤岡の生き様を、残すということでもあると、私は、考える。

藤岡宣男という、人間は、人間としての、欲望を持ち、個人としても、生きたが、その他に、志というものを、持って生きた。
その志というものを、見つめて、それを、受け継いで生きるという人もいる。

そこで、単に、歌を残すということより、私は、藤岡の、生き様を、志を、残す、受け継ぐという、考えに、多く、共感する。

一つの例を、上げる。

私は、日本舞踊を、ある、歌舞伎の名門の方から、習うことが出来た。
その方は、女性であるから、歌舞伎の世界には、生きられなかったが、父親の芸を、受け継いでいた。

更に、実家が、日本舞踊の家元であるが、彼女は、父親の芸風を、持つ、別の流派に属していた。
それも、偉いことである。
実家の、流派の、教授をしていれば、もっと、彼女は、楽で、名誉を、受けられたはずである。

さて、その師匠が、私に、いつも、言った。
私は、あなたに、父親の芸風を、伝えている。
それを、あなたが、受け継いで、伝えてくれれば、父親の名前など、どうでもいい。
その、芸風こそ、父の、残すものであるから、あなたによって、伝えられれば、私は、本望だといった。

更に、名取など、取る必要は無い。
時代が、変わるのだから、あなたが、家元を、名乗り、舞踊を、するべきだと。
信じられない、考え方だった。

家元制の中に所属する、舞踊の師匠にあるまじき、思想だった。

私が、死んだら、私のすべての、振り付けの、保存したものを、あなたに上げるから、それで、家元を、やりなさいとまで、言われた。

勿論、私は、いまは、それら、和芸の世界、つまり、家元制の世界から、遠のいた。
我勝手に、やるという、ところに、身を置いている。
それで、いい。

芸というものは、そういうものであり、名前など、どうでもいいのである。

その、芸風とは、生き様である。

藤岡宣男は、三十にして、歌の道に、志した。
出世が、約束されていた社会から、出て、最も、厳しい世界に、身を入れた。また、入れざるを得ない、志を持ったということである。

それで、ある。
それを、伝えること。
それを、残すこと。

勿論、歌は、残っているが、その志を、受け継いで、残し、更に、それを、生きるということを、実践する人を、育てることが、最も、藤岡の意に、適うことなのである。

藤岡宣男の名前が、消えても、その志が、生きていれば、いいのである。

そうして、伝われるものが、伝統にまで、高まる時、藤岡宣男の、生き様が、輝く、そして、普遍のものになる。

芸術の道でなくても、いいのである。

生き方の、ことである。

人に、多大な影響を与える、生き様というものは、凄まじいことである。

私の、生き方は、父母の、祖父母に、大きな影響を受けている。
彼らの、名前など、誰も知らない。しかし、私の生き方によって、彼らの、生き様が、生きているのである。

更に、私の生き方に、藤岡宣男の、生き様が、生きているのである。

だから、人生が、素晴らしいものになる。

私の生き方に、多くの亡き人の、生き様が、生きている。

それ以外に、言うべき言葉は、無い。

一人で、生きているかに見えるが、私の生き方に、多くの人の、志が、生きているのである。

人は、歴史と、断絶して生きられるものではない。
歴史から、生き様を、受け継いで生きるものである。

人は、人の生き様と、断絶して、生きられるものではない。

多くの亡き人の、志を、抱いて生きるのである。

人間の存在は、絶対孤独でありながら、生きられるのは、志の、受け継ぎがあるからである。
つまり、一人ではない。

その志の道を、多くの人が、生きたのである。

それを、生きた哲学、生きた思想という。

そこには、言葉遊びは、無い。

藤岡宣男の、生き様の志を、受け継いで生きる者は、誰か。
それが、問題である。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

最後の沈黙を破る 18

今更ながら、苦労知らずに、お勉強できた人、苦労知らずに、働ける人は、アホだと、つくづくと思う。

敗戦から、64年を、経て、反戦の思想、大いに結構であるが、現実というものを、捉えることが、出来ない。

何故、今もって、内戦が、あるのか。
話し合いが出来ないから、戦うのである。

更に、核廃絶を話し合いでという、アホは、死んでも、解らないだろう。

精神を病む人とは、話し合いが出来るはずが、ないのである。
例えば、北朝鮮と、話し合いで、事が、うまく行くのだろうか。

話し合えば、核廃絶は、可能なのか。
決して、それは、有り得ない。

アメリカが、その核兵器の半分を、放棄したら、すぐに、世界は、混乱する。

核兵器廃絶を訴えても、北朝鮮は、もとより、ミャンマー、イランは、核開発をする。

どうして、止められるのか。
話し合いをするというのか。

更に、決して、核廃絶をしない、中国などが、その後押しをしている。
それを、どう判断するのか。

人権無視の、中国が、ミャンマーの人権無視を、後押しする。
甚だしい中国の、傲慢な支援である。

アウンサンスーチさんを、拘束したことを、決定した、裁判を、支持するというのであるから、話し合いなど、出来るわけがないと、知るべきである。

テロ組織の者たちと、話し合いが出来ないから、アメリカ軍は、市民を巻き込んでも、アフガンでの、攻撃を続ける。
その、大統領が、どんなに、核廃絶を唱えても、信じられはずがない。

詭弁である。

更に、注目である。
オバマの後ろに、何が控えているのか、解らない者達が、発言を評価している。

核兵器を使用しない。
つまり、日本が攻撃されても、核兵器は、使用しないと、私には聞こえる。

つまり、どうぞ、日本を攻撃して下さいと、言うようなもの。
日本には、核兵器が無いのである。
丸腰という。

精々、迎撃ミサイルを用意するのみ。

北朝鮮に対する、対応も、中国と、ロシアは、実に、曖昧である。
つまり、日本を早く攻撃させよと、私には、思える。
何故なら、兵器を持った以上、攻撃したいのであるから。
特に、北朝鮮は、日本を攻撃したくて、たまらないのである。

それに、誰も、その長が、ボタンを押さなくても、その下の馬鹿者が、押す危険も、十分にある。
あれほど、日本帝国主義を、仇として、教え込まれた者たちである。
戦争したくて、うずうずしている。

国民は、腹がすいているが、軍部、軍人たちは、たらふく食べている。
戦争だけが、彼らの、楽しみである。

日本にいて、その彼らの、心境など、分かるはずもない。

身を守るということ、これほど、おざなりに、考える国民も、いないだろう。
ただ、原爆を落とされた唯一の国であるから、原爆投下は、反対であり、ゆえに、戦争反対であり、核兵器廃絶である。
二度、繰り返してはならない。
それは、その通りだが、その他の国は、二度も、三度も、繰り返していいと、思っている。

国民のことなど、何とも思わない国々が、多数ある。

それさえも、知らない者が、何を、たわけたこと、つまり、話し合いで、などというのか。

力を見せて、暴力で、示さなければ、解らない人も、世界には、大勢いるということ。

イラクが、少し平穏にしていられたのは、フセインという、力で、暴力で、抑えていた者が、いるからである。
今は、混乱の極みである。

同じ、イスラム同士が、テロを起こして、戦う。

どうしても、暴力にて、抑えなければならない人たちも、いるのである。

そうでなければ、皆殺しにされる。
殺されてもいい、それでも、核兵器は、反対である。と、言うつもりならば、それでも、いい。

是非、イラクに出掛けて、殺されて欲しい。
殺されるという、心境を感じて欲しい。

人が殺されるのは、いいが、自分は、嫌だと言うならば、話し合いで、解決が、つかないこともあるということを、知るべきである。

殺されたら、終わりなのである。
生きているから、反戦行動も、行える。

先の大戦で、亡くなった、兵士の方々は、日本が、平和であるようにと、戦った。つまり、戦うことでしか、平和が、得られないと、悟ったのである。
それを、生かすには、相当な、思案と、駆け引きと、脅しが必要である。

その、脅しが、核兵器なのである。今は。

核兵器を失うほど、人類が、心的進化を、遂げることを、祈る。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月19日

最後の沈黙を破る 19

信じる、信じないというのは、願望であることに、気づいていない。

信じるというのは、信じようとする、願望である。
そして、信じないというのも、信じないという、願望である。

人は、願望以外の、確信を、持つことは、出来ない。

昔々、私は、ハウツー物の、経営の著作を、読んで、感激、感動して、壮大な計画を、立てた、アホを、知っている。

その名は、未見塾と、命名していた。
未だ見ぬ、私のことであろうと、思うが、実に、稚拙だった。

思想的基盤の無い者が、そのような、壮大な計画を立てる。

更に、バブルの頃に、金融で、伸し上がり、成り上がりになった、アホも、見た。
今は、新興宗教のようなことをして、教祖の真似事をしているらしい。

皆々、知能の低い者である。

しかし、信じる、信じないというのは、知能の高い人の中に多いから、驚く。

占いは、信じないというのは、信じたくないという、願望である。
占いは、信じるもではなく、利用するものであると、説いても、理解できない。

私は、長年、占い師を、やっていいたが、占いを、信じる、信じないという、カテゴリーに入れて、考えたことはない。
要するに、先人の残した、知恵として、対処した。
つまり、利用するものであるということ。

私は、中学の時から、キリスト教の神を信じた。
それは、信じたかったのである。
つまり、願望である。

今は、何も、信じるものは、無い。

そして、信じる、信じないという、心の、有り様を、必要としない。

私は、私を、信じている。これは、願望ではない。
極めてゆくと、そこに、突き当たった。
私以外を、信じることは、出来ないと。

そして、私を信じるために、私は、私自身に、約束したことを、確実に、実行した。

それは、持続である。
その時が、くるまでは、続ける。
ただ、それだけである。

さて、信じない人は、幽霊を、見ても、信じないという。
これは、性格である。
目に見えないものは、信じないと、あたかも、科学的である自分を、演じる。

死んだ人を、はっきりと、目の前で、見ても、信じないというから、世話がない。

しかし、また、見ないで、信じる人もいる。

イエス・キリストは、見ないで信じる者は、幸いであると、言ったが、それは無い。
それでは、何でもかんでも、信じればいいのかというと、そうではなく、イエスの神を、信じることである。

大半の、宗教は、まず、信じてみることだと、説く。
兎に角、信じて、実行しなさいと、言う。
それは、単なる、一つの手である。

信じるうちに、信じている自分に、妥協する。

納得して、信じるのではない。妥協して、信じるのである。

鎌倉仏教以前の、仏教には、それなりの、伝統的な、かかわりがあり、信じる、信じないの問題ではなく、その、組織に、組み入れられた。

しかし、新興宗教になると、信じるということが、前提になる。

そして、信じて、人生を、狂わせる。
狂ったことを、喜ぶという、体たらくである。

神よ、今日、ここに、集う、兄弟姉妹を、祝福し・・・・

仏法とは、戦うことである。勝利こそ、仏法であるゆえに・・・

親神様は、陽気暮らしを、人々と、共に、云々かんぬん・・・

この、幕屋に集いし者、主なる神の、祝福を受けて・・・

上記は、皆々、狂いである。
しかし、それを、狂いとは、知らない。
信じる、信じようとする、願望に、身を委ねる。

もっとも、悪いのは、前世の因縁、先祖の因縁、供養を云々・・・・
すべて、嘘である。

先祖の因縁は、私に関係無い。
それぞれが、それぞれで、それぞれの、行為を負う。
自業自得が、宇宙の法則である。

釈迦仏陀も、そのように言ったが、彼らは、知らないようである。
更に、釈迦仏陀は、供養は、生きている聖者にせよ、と言う。

前世というものは、次元の質も、違うゆえに、誰も、それを、説くことは、出来ない。

誰々の、生まれ変わりであるというのは、完全完璧な、嘘である。

それらは、霊界の、分霊ということを、全く知らない。

ここにいる、存在する、私は、二度と、無いものである。
更に、ここにいる、私が、そのまま、生まれ変わるということは、無い。あり得ない。

少しの、注意力を、もってすれば、解ることである。
この、人生は、二度と、無いものである。
転生輪廻を、理解するほど、人類は、成長していない。

異次元を、通過しての、出来事である。
解るはずがない。

死ぬまでの、暇を潰すために、人は、信じているのであり、信じないのである。
そして、大半は、何も解らずに、生きる。そして、それは、正解である。

酒に酔ったようにして、生きているのが、人間だと、空海は、言うが、彼こそ、酒に酔いすぎて、とんでもない、化け物を、生み出した。

一体、空海は、何を、誰の、作ったものを、食べて、生きていたのか。
そして、どこから、生まれたのか。
空海によって、彼の一族は、未だに、浮遊する。
頭の良い人は、そのようになる。

よく解らないわーーーー
それが、いい。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。