2007年12月15日

神仏は妄想である 15

僧侶も、人間であるからといって、許せることと、許せないことがある。

例えば、密教系の宗派の、僧侶は、大寺院を経営し、幼稚園、墓地を所有し、土地も、多く持つ。
しかし、その本性は、娘を、性的虐待するのである。
近親相姦である。
その、娘は、意識にトラウマを持ち、家を出て、SMの世界に入り、仕事をした。拭い切れない、記憶を、SMにより、解消しようとした。
勿論、解消できるものではない。

日蓮宗の大僧侶は、手伝いの女に子を産ませて、その後は、その女を寺から追い出した。
その、母子は、辛苦の人生を、歩んだ。

真言宗の、地元では、有名な寺の、住職は、愛人を作り、それによって、妻を自殺に追い込み、妻が自殺すると、早速、愛人を寺に入れて、結婚し、先妻の息子を寺から出して、愛人の子供に、寺を継がせた。

まだまだ、ある。

僧侶も、人間だからといって、良いものか、どうか。

仏教の僧とは、妻帯せずに、仏の悟りを悟り続ける者であり、日本以外の仏教の僧は、妻帯しないのである。

妻帯を始めたのは、親鸞が、最初である。
その、師である、法然も、妻帯していない。

親鸞は、僧にあらずなのである。
ところが、勝手な解釈をして、勝手に、堕落した僧であると、酔いしれ、私のような、罪びとは、地獄が、住処である、などいう、勝手な、作家のようなことを言うのである。
作家であり、僧ではないということ、明白である。

浄土真宗の開祖として、奉られて、その派閥は、十派ある。
その中でも、大きいのは、東西の、本願寺派である。徳川家康の宗教政策により、分けられたのである。
この、真宗は、信長、秀吉等々、戦国大名を、悩ませたのである。
信徒を、兵士にして、大名と戦わせるという、仰天する行動をさせたのである。
最も、戦いに、遠い者のはずが、戦うという。
何ゆえか。
支配欲である。

教団が、大きくなれば、さらに、その支配を広げるべく、とんでもないことを、始めるのである。
今も、政治団体を持つ、新宗教がある。

親鸞の書いた、教行信証を、彼らは、信仰の骨子とする。
更に、絶対他力というから、呆れる。

その、帰依するモノは、阿弥陀如来である。

教行信証の中でも、特に大切にされる、文句が、ある。

帰命無量寿如来
南無不可思議光
きみょうむりょうじゅにょらい
なむふかしぎこう

無量寿如来に帰依し、不可思議光に南無したてまつる。
帰依も、南無も同じ意味である。

この、阿弥陀仏というものは、寿命無量、アミターユス、と、光明無量、アミターバという、観念である。
寿命も、光明も、無限に永遠であるという、観念である。
ご存知、大乗経典のお話である。

初期、仏典には、そんな話は、無い。

仏陀滅後、700年ほど経て、南インドにて、龍樹という者が、抱いた妄想、創作である。

大乗経典には、この、妄想、創作の仏や、如来が、数多出てくる。
暇に任せて、よくもまあ、続々と、創作したものである。

親鸞は、サンスクリット語を知らない。
漢語の、仏典を持って、ただ、妄想に邁進したのである。

その思索の、深みは、理解するが、あまりに、臭いのである。

念仏のみで、救われるという、法然の教えは、私一人のためのものだとか。
救われない私をも、救うという、弥陀の本願に、ただ、頼るしかないだの。
まあ、兎に角、文学者や、ぶった思想家、知識者に、好まれるような、文句を多々言う。

歎異抄の中で、親鸞は、弟子の唯円に言う。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり

そこまで、思索するのは、いいが、弥陀の本願というものは、作り事なのである。
騙されているのである。

しかし、法然に、騙されて、地獄に落ちいてもいいのだと言う。何故なら、自分は、地獄にいるのが、当然な者だからであるという。

こういうのを、罪悪観念意識拡大という。

複雑怪奇に、陥ってしまったのである。

親鸞の筆跡を見る。
考えすぎで、神経症になる、タイプである。
更に、単純な欲望が強かったせいで、相当に、悩んだであろう。
少しばかり、頭が、働いたせいで、とんでもない、妄想の世界に、意識を、遊ばせたのである。

どうも、哀れである。

阿弥陀仏という仏になるのは、法蔵菩薩である。
無量寿経の中に出てくる。

ダルマカーラと名乗る求道者の時に、53の仏が、すべて、この世に出現していた。
法蔵菩薩は、54番目となる、ローケーシュヴァララージャという、仏に会い、師と仰ぎ、自分も、その仏のようになろうと、願を立てる。
その時に、師を、褒めるだけ、褒める。そして、48の願を立てる。
その願の中に、阿弥陀仏という仏になるというものと、一切衆生を救うための、極楽浄土を、建立するというのである。

この、御伽噺を、信じたのである。

空言、戯言、夢事である。
インド人が、好むお話である。奇想天外であるということだ。

一切の人が、仏にならないならば、云々という、願を立てるというのである。

大乗仏教とは、小乗、上座仏教に対する、対抗として、発生したものである。
つまり、仏教の大衆化である。
それは、理解するが、その経典となると、あまりに、作り事なので、辟易する。

仏説という、冠をつけて、仏典と称するが、何のことは無い、空想である。

仏陀でさえ、そんなことは、言っていないと言うほどである。

大乗経典を、学ぶために、天竺に渡った、三蔵法師で有名な、玄奘は、救われない者もいると名言している。

どう、転んでも、救われない者がいるというのである。
つまり、成仏も、往生も、出来ない者である。

すべての人が、救われるまでは、云々というならば、阿弥陀仏は、まだ、極楽浄土を、建立していないということである。

何せ、世界では、救われない人が、多すぎる。
更に、日に日に、救われない人が、多くなっているのである。

浄土真宗とは、惰性である。
惰性の信仰を、掲げている。
勿論、浄土宗も、然り。

いやいや、法華経を掲げる、天台も、日蓮宗も、その他の、日本仏教というものは、すべて、惰性と、怠慢の一言。
役立たず。
用無し。
アホ、馬鹿、間抜け、糞ったれ、である。

無学文盲、無知、低脳が、信じているのみである。

私の親も、言う。
うーん、檀家だから、ねー、と。

たまたま、浄土宗の寺の檀家になったのである。
祖父母の代である。
つまり、惰性である。

惰性で、持っている、ただ今の、日本仏教である。

手の施しようが無い程、腐っているのである。

科学が、霊界を証明すれば、それらは、すぐさま、捨てられる。

天国、極楽、地獄等々は、ありません。
霊界は、次元の違いの世界です。

という、結論に至る。


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2009年05月01日

最後の沈黙を破る

最後の、沈黙を破る、を、書きたいと思う。
どれくらい、書けば、終わるのかは、解らないが、これを書いて、おおよそ、今までの、総決算としたい。

沈黙を破るは、藤岡亡き後、様々なことを、言われたり、書かれたりしたが、それに対して、私は、何もしなかった。無言で、聞き流していた。

いつまで、人は、何かを言うのだろうかと、沈黙していた。
そして、ある程度になると、波が引くように、消えていった。
物を言った者達は、言って忘れる。しかし、言われた私は、忘れない。

健忘症にはならないのである。

ここで、しっかりと、総まとめをしておかなければならない。
人間の言動には、権利のみか、責任というものも、伴うのである。しかし、匿名の書き込みなどは、どこの誰かが、解らないゆえに、ただ、書きっぱなし、言いっぱなしになって、食い逃げのように去る。
しかし、それは、出来ない。

だから、私は、書くのである。

名指しで、書く場合もある。

名誉毀損で、訴えられたら、私も、名誉毀損で、訴える。

人の死に際して、ただ、哀しみにある者に、様々な憶測、推測、果ては、思い込み、根拠の無い、書き込みなどを、のうのうするという、実に無責任極まりない、言動を取る者がいる。

例えば、自称有名という、ピアノ弾きは、公の雑誌に、堂々と、あれは、事故ではなく、事件であると、書いた。
事件ということは、その場にいた私に対する、憶測の考えである。
即座に、名誉毀損にあたり、雑誌編集の責任者ともども、慰謝料請求が出来る。

戸部警察署、及び、各保険会社などなどが、状況の査定を行い、事故と判断したのである。

しかし、私は、沈黙した。
ピアノ弾きの、言い分は、当日、藤岡と電話で、話して、元気に、次の活動について、語っていた、そんなことを、想像も出来なかった、故に、事件であるという、とんでもない、言い分である。

思い込みのみ。
全くの、勝手な、想像である。
それを元に、事件であると、書くことが、どれほど、おかしいことであるのか。

今更ながら、私は、彼の常識や、頭の中を疑う。

有名であれば、自分の言い分が、世の中に通ると思っているのであろうか。

更に、彼は、自分を有名であると、思い込む。
彼を知る者は、クラシック音楽の、愛好者という、実に少数の人々である。
有名とは、判定できない。
しかし、有名だと、思い込む。
ここに、クラシック、特に、ピアノ弾きの、精神異常がある。

人格障害である。
ゆえに、私は、精神障害として、その言動に、責任は無いと、判定する。
だから、何も行動を、起こさなかった。

実は、法律に詳しい者、私に、雑誌社と、編集者、及び、書いた者に対して、名誉毀損で、訴えることが出来ると、教えた。
しかし、それは、控えた。

その一つは、少なくとも、藤岡が、生前お世話になったという、私の慈悲心である。
勿論、私の心と、彼の言動は、何の関係もない。

社会的に、彼は、責任を取る必要がある。

彼に、象徴されるように、おおよそ、ピアノ弾きというもの、人格障害が多い。

ピアノという、野蛮な楽器に、神経から、精神を、やられるからである。

神経や、精神の、真っ当なピアノ弾きに逢うのは、至難の業である。

例えば、芸高から、芸大へ入学するような、ピアノ弾きは、大半が、狂っている。

作曲科を出たという、ピアノ弾きは、精神異常で、大食いに走り、昔の面影がないほど、太った。
私は、逢う前に、写真を見ていたので、本人だとは、思いもしなかった。

その写真を使用しているという、神経も、異常であった。

勿論、本人は、とっても、自分を偉いと、思い込む。
芸大の、作曲科を出れば、偉いものなのかどうかは、知らない。しかし、彼は、彼のみならず、家族まで、偉いと、思い込む様は、家族全体が狂っていた。

藤岡のみ、彼の伴奏に、文句をつけなかった。

それについては、後で、書く。
他の人々は、皆が皆、次の時は、別の方にして下さいと、言うのである。

要するに、独善の伴奏なのである。
喧しい。
協調するということが、出来ない、人間失格なのである。
しかし、本人が、それに気づかないという、ピアノ弾きに、実に多い、独善体質である。

作曲をするが、どうでもいいような、曲である。が、本人は、得意である。

作曲をする、芸大卒や、作曲家と名乗る者も、終わっていた。
作曲といえるほどのものではない。

寝惚けて、楽譜に、音符を書いたのであろうとしか、思えない代物である。
だが、クラシックの世界にいる者どもは、芸大と、聞けば、それだけで、納得するという、アホ振りである。

信じられない世界が、クラシックの世界では、展開される。

とりあえず、最初は、ここまで。
いつまで、続くか、解らないが、書き続けてみる。

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2009年05月02日

最後の沈黙を破る 2

ピアノコンサートも、多く開催した。
私自身、多くのピアノ弾きの、音というものを、聴いてみたかったからである。

演奏も、人格も、まともな者は、数名程度。後は、アホや、馬鹿か、人格障害であった。

驚きは、いつも、不調と言う者。
調子の良い時はない。
毎回、不調なのである。
つまり、不調であることが、普通なのであり、単なるポーズであった。それは、批判をかわすつもりが、潜在的にあったのだろう。

ところが、自己顕示欲は、人の三倍もあり、甚だしくは、自作自演で、自分の演奏を批判し、さらに、それに反論するということまで、一人でやってのけるという。
呆れた。
兎に角、有名になりたいの、一心。

そしてまた、矢張り、兎に角、有名になりたいという者がいた。
私は、ピアノに関して、また、より良い、音楽活動に関してかと、思いきや、何でもいいから、兎に角、有名にと言うので、愕然とした。

そして、次第に、演奏は、荒れていった。
小手先の器用さが、また、それに、拍車をかけた。

更に、プライドである。
芸大作曲家卒というプライド。
そういえば、芸大卒に、糞プライドの者、多々あり。

芸術に奉仕するという、態度のある者を見たことがない。
芸術に、寄与するなどと言う、考え方は、皆無である。

さて、また、アメリカ帰りの、ピアノ弾きは、最初の三分は、聴いていられる。しかし、それを過ぎると、喧しいの、一言。
本人は、得意である。

それを聴いて感動した、頭の悪い、女のピアノ弾きがいる。
完成度が高く、技術的に、云々。
その解釈が、どこかの、本に書いてある通りで、笑った。
本の数節を、少し暗記できるほどの、頭である。

学校は、桐ではない、トウホーである。
こんな、アホでも、音大を卒業すると、大卒になるという、結果。

更に、お馬鹿な、ピアノ弾き。
私のコンサートでは、ホールに人が溢れるという、のである。
よく聞いてみると、区役所などの、公的機関が、開催する、無料コンサート。地元の人に、クラシック音楽をという、触れ込みで、さんざん、クラシック音楽の場にあるものを、こき使う。

交通費程度で、皆さんに、音楽の素晴らしさをと、とって付けたような、詭弁で、誘われる。

公的機関は、育てるなどという意識は、皆無。ただ、かれらの、自尊心をくすぐり、金をかけずに、何かイベントをと企画する。
それに、乗せられる、乗るのが、頭の程度の低い、ピアノ弾きたちである。

そして、今は、相場を壊して、自分達の首を、自分達で、絞めているという、有様。
気の毒。

果ては、霊感があるという、ピアノ弾き。
常識知らずの、大ばか者であるが、本人は、堂々として、霊の結界を張り、云々というから、終わっている。

霊感があるが、自分のピアノの音の拙さは、解らない。

藤岡宣男に、指導を受けて、周囲から、音が変わったと、驚嘆された。しかし、本人は、馬鹿だから、ロシア奏法を学んでみるとやったが、元の木阿弥。
こういう者、救い難しという。

結局、バタバタ奏法に逆戻りして、全く意に介さず。

一度、ギターと、ピアノのアンサンブルをしたのを、聴いたが、あまりのことに、某然、唖然とした。
互いの音を、殺しあって、アンサンブルも何も無い。
結局、音楽というものを、何も解っていないのである。

では、真っ当な感覚の者は、いないのかと言われれば、いる。
しかし、彼らは、非常に控え目であり、他のピアノ弾きとは、距離感を置く。当然である。馬鹿の波動を受けると、自然、馬鹿になるからである。

控え室でも、他のアホピアノ弾きと違い、静かに、順番を待っている。余計なことは、言わない。
礼儀正しい。
その親、先生も、主催者の私に、わざわざ、お礼を言う。

アホ、馬鹿な、ピアノ弾きの、親、先生は、偉いと思い込み、主催者に、挨拶などしない。
出てやっていると、思い込む。

一般の社会では、通用しないのである。

ピアノは、野蛮な楽器であることは、西洋音楽史を少し学べば、解ること。
更に、西洋音楽は、心を狂わせる。
人間の心の、音は、五線譜に入りきらないのである。
しかし、五線譜に入れ込むことが、至上命令である。
狂うはずである。

しかし、狂った人、病識が無いゆえ、我が身の、狂いを認識できない。
そして、狂ったまま死ぬ。
だが、別の人もいる。

すべてを、金に換算した、芸術大学、音楽大学の、教授たちである。
彼らは、狂わない。
金というので、狂いを止める。

狂いを、金に転化するのである。
よって、見事な、金権体制が出来上がる。

コンクール入選も、500万円から、1000万円程度を、用意しておけば、そのようになるという、世界である。

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2009年05月03日

最後の沈黙を破る 3

藤岡宣男が、東京に出て、声楽家を目指すとした、一つの根拠は、森某という、発声指導者である。

下品な、天狗がついている、その森某は、催眠術のような、指導をする。

人々の前で、声を変えるのである。
勿論、それは、手である。
弟子を増やすための、手段である。

全国に、多数の弟子を持つ。
藤岡も、札幌にて、この森に、師事することになった。

そして、この森の、東京に来い、である。
何の根拠もなく、一人前にしてやるという言葉。

勿論、森某の所から、一人前になった、声楽家は、いない。
脅しと、洗脳であるから、その手が、知れる。

藤岡は、森の言葉を信じて、会社を辞めて、東京に出て、森に師事することにした。
およそ、10ヶ月を、通った。

何事も無く、発表会には、チケットノルマを持って、対処する。それの繰り返しである。

私が、藤岡に、森先生の所を止めると、言われた時、即座に、そうした方がいいと、言った。

私も、何度か、発表会で、見ている。
本人は、舞台で、歌うことが出来ない程の、小心者である。しかし、教える段になると、天狗が、憑く。

30分一万円の、セミナーである。
占い師に似る。

藤岡は、週に二度三度と、通った。
特別待遇を受けたようである。
当たり前である。才能があるからである。

今でも、人を脅して、発声を教えて、大枚の金を得ている。

その弟子が、私の主催する声楽セミナーに来た。
おどおどして、見るも、哀れであった。

森先生に脅されて、云々。しかし、止めることも出来ないでいるという。
これこそ、哀れ。

発声指導とは、詐欺のようである。
明確に、発声などを、教えることは、出来ない。
上手くなるのは、生まれつきのものである。

それから、藤岡は、古楽系の指導を受けるために、先生を替えた。

古楽とは、クラシックのジャンルの一つである。
中世の西洋音楽であり、カウンターテナーの、得意とするところである。

その先生は、声楽ではなく、楽器奏者である。しかし、古楽の造詣深いということで、師事した。
ところが、古楽というもの、誰にも、分からない。
バッハ・コレキュウム・ジャパンという、団体が、古楽を得意とするが、あの、鈴木某という者、古楽を分かっているのではなく、古楽を創造しているのである。
だから、世の人は、誤解する。

世の人と言っても、少数である。
古楽など、誰も聴きたくない。
偏屈な者が、好む。

創造しているのは、評価するが、それを古楽とは、笑わせる。
まさか、霊能力で、中世の古楽を知っているとは、言わないだろう。

その、鈴木という、某にも、藤岡は、二度、三度、呼ばれた。
しまいに、芸大の古楽科に、入り云々と言うから、呆れた。
自分の弟子にすれば、安く使える。

芸大、音大の、教授というのは、その程度であり、学生のことなど、眼中に無い。
自分の、名声と、利益のみを、考える。

さて、古楽の先生は、藤岡に、CD政策を、持ちかけた。
作ってよろしいという、ご託宣である。

その金額を、聞いて、私は、藤岡に、少し待てと、言った。

翌日から、私は、CD制作の、料金を調べた。
そして、分かったことは、その先生が言った、四分の一の料金で、作ることが出来ると、知った。

君のCDを、作ろうと、その先生が言うと、凄いことらしい。
私は、呆れて、笑った。
馬鹿馬鹿しいのも、程がある。

私は、藤岡に言った。
私が、作ると、その先生の言う、四分の一の金額で、作れると。

その先生は、あの、物の怪姫で、有名になった、物の怪のような、カウンターテナーの、最初の、CDを制作したという。

私には、関係ないことである。

藤岡は、その先生からも、離れることになった。
それは、実に、よいことだった。

今頃は、脳軟化症になっているであろう、親の財産で、生計を立てている、ばか者である。

クラシック関係の者、大半が、親の財産を食い潰す者、多し。

聴いたこともない、古楽という、音楽を、云々する者は、大半が、詐欺師のような、者である。
解釈とは、良くぞ言ったものである。
聴いても、いないものを、解釈するという、蒙昧は、計り知れない。


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2009年05月04日

最後の沈黙を破る 4

藤岡 崩 かむあがり 1275日祭を過ぎて、つまり、三年と、半年を過ぎてである。
突然、ホームページに、遺骨のこと、墓のこと、お参りのこと、などが、書き込まれた。

私は、三年祭を過ぎて、藤岡の遺骨は、未公開であり、お参りは、遠慮していただくことを、提示していた。

お墓を、どこに建てようが、私の判断である。
バリ島に社、やしろ、を建てて、お祭すると書くと、藤岡は、東南アジアを、好まず、また、活動していた付近に、建てるのが、云々という、アホが、書き込みした。

書き込みはするが、お墓を建てるために、お布施をしますなどとは、書かない、書けない。

世の中は、このような、へんてこりん、この言葉は、藤岡が、特に好きだった言葉であるが、へんてこりん、な、人が多い。

三年祭を過ぎても、一度も、お参りしたことの無い人が、未公開とは、どういうことでかと、書き込みする。

面倒なので、すべて、くくって、言えば、要するに、暇潰しに書き込んでいるのであり、何ら責任の無い言葉を、書き込むのである。
世の人、多くそのようである。

自分勝手、自分の顕示欲のみ。
勿論、死んだら、浮遊霊になる。

ただ、実に、数少ないが、きちんと、メールで、問い合わせてくる人もいる。
お参りがしたかったが、辛い思いがあり、中々出かけられなかった。今、ようやく、お参りが出来るようになった。
そこで、お参りをしたいのですがと、ある。

私は、それでは、三年祭が済みまして、今は、未公開とさせていただいています。もし、追悼慰霊の気持があるならば、藤岡の歌声を聴く会に、いらっしゃり、十分に、慰霊をしていただきたいと、返事をする。

すると、矢張り、自分は、恥ずかしいことを、申し出ましたと、返事が来る。
これが、常識的という、行為である。

後のモノは、アホ、馬鹿、間抜であり、自害して果てた方がいい。ただし、死んでも、浮遊霊になる。

例えば、二年祭の時に、どうして、来なかったのかと、私は、問う。
その日が駄目なら、別の日でも、どうして、コンタクトして来なかったのか。
また、三年祭まで、どなたでも、受け入れて、お参りをしてもらっていたのである。

何を、今更、言うのかである。

お墓に、お参りして、自分の言いたいことだけを、くだくだ述べて、慰霊だと、思っているのが、見え見えである。
慰霊の行為自体も、知らないのである。
笑う。

私は、お参りにいらした方に、どのような、方法でも、結構ですと、言った。
ある人は、遺骨の前で、歌った。
ある人は、お経を上げた。
ある人は、じっとして、涙を流していた。
ある人は、神道の作法で、礼拝した。
ある人は、キリスト教の祈りを上げた。
ある人は、じっと、遺影を見詰めて、過していた。

規則作法守り通すのもよし、捨てるのもよし、である。

線香も用意していた。

藤岡とは、死後の話をしていたので、宗教作法には、全く関係なく、藤岡は、人の心を、頂いていた。

さて、それで、今まで、来なかったモノが、何を言うのかである。

三年と、半年を、過ぎてから、思い出したかのように、である。
笑う。

そして、墓を建てるの云々と、言った。
藤岡の墓を、無縁墓にしない人が、いれば、名乗りでよと、私は書いた。
結果は、誰もいないのである。
居る訳が無い。
自分の墓でさえ、無縁になるのである。
ましてや、浮遊霊である。

そんな、気の利いたようなモノは、いない。

実に、馬鹿馬鹿しいのである。

そして、それが、世の中である。

藤岡が、亡くなり、利益を得られないと、思った、偽善者たちは、一度も、お参りに来ないのである。
名前を書けば、ああー、あの人という人が多い。
これが、世の中である。

世の中が、こういうものであるということ、藤岡の死によって、理解し、知った私は、どうするのか。

それらに、関わる必要は無いと、思う。
そして、我が日の本のために、命を捧げた、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行う。

すると、また、詮索好きのモノが、私の行為を、藤岡に対する、疚しい気持、贖罪の気持で、行っているのかと言う。

自分が、そうであるから、人もそうだと、思う。

人は、人を判断する時、人の判断ではなく、自分の判断でする。当たり前である。
自分以外の人の、考え方など知らないのである。

それを、主観という。
主観でしか、物事を見られないのが、世の中の人である。
その主観を、徹底的に、観察して、分析し、それを、限りなく、主観から、遠ざけて、客観というものに、行き着く人もいるが、稀である。
科学的に、行動する人は、真実、稀である。

藤岡が、よく言っていたことが、ある。
木村さんを、どう見るのかで、その人が、分かると。

つまり、私には、何も無い。
ただ、受付したり、裏方で、作業をしたり、何も、特別なことは、しない。しかし、私の存在に対して、云々する人が、多々いる。
それらは、私の存在に、自分の心の内を、写して、判断するのである。

だから、藤岡は、木村さんに対する言葉で、その人が分かると言った。

そうして、藤岡は、信用できる人を、正しく選択していた。

あの事故の日も、ピアノ弾きの、某とは、予定していた、リサイタルで、終わりにするということを、言うために、わざわざ、部屋に戻っての、事故である。

某は、藤岡を、見抜けなかった。
私の批判と、批難を、散々したのだろう。

まだ、生きているのか、私は、知らないが・・・
未だに、野蛮なピアノを、弾いているのだろうか。
噂も聞かない。

世の中の人は、騙されて喜ぶようである。
宗教団体を、観察していれば、よく解る。
明らかに、騙されていると、第三者は、解るが、本人は、進んで、騙されるのである。

そして、身も心も、神や仏に捧げて、死んで、浮遊霊になる。

一部の神社、多くの仏閣、宗教施設は、ほとんど、信者の浮遊霊が、たむろする。
私は、近づかないのである。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

最後の沈黙を破る 5

ゆえあって、音大の、トーホーという学校のことを、知ることになる。
トーホーとは、桐の方であり、もう一つの、トーホーは、馬鹿、アホの集いである。

と、思いきや、桐のトーホーも、アホ、馬鹿の集いであったという、顛末。

桐ではない、トーホーの方は、単に、頭が悪過ぎでも、大学卒になるという、だけの話。
しかし、桐の方は、それなりに、世に認められているというが・・・

大半は、子供時代から、ピアノを習い、親が、必死になって、お金を注ぎ込んだ、という、それだけの話である。
お金を、注ぎ込むと、囚われる。
何とか、元を取りたいと、あり地獄の、クラシック音楽界という、世界に入らざるを得ない。

馬鹿に、いくらお金をつぎ込んでも、馬鹿なのであるから、いい加減にすれば、いいものを、親は、無心に、悟ったかの如くに、我が子を、信じている。

学生には、三通りいる。
孤立する者。
暇潰しの者。
金を使う者、である。

孤立する者は、本当に音楽をやりたいがために、孤立する者と、某然として、孤立する者がいる。それは、痴呆に似る。

暇潰しの者は、遊びに学校に来ている。
親の財産を食い遊ぶ者である。

金を使う者は、大半が、セックス三昧である。それにまつわる、行為にのみ、エネルギーが出る。
暇潰しの者と、似ているが、時に、セックスの技で、大物と、出会う場合もある。

幼い頃から、ピアノを習わされていたゆえに、大半が、その精神を破壊している。
習いたかったのではなく、習わされていたということが、不幸である。

中には、数少ないが、自ら、ピアノを、習いたいと、志願した者もいる。
それらは、ピアノの、良し悪しを、少しは、知る者である。

日本のピアノ演奏は、世界的レベルである。
それ程、ピアノの演奏技術に高い者がいる。

だが、それは、ほんの一部であり、全部ではない。
一部を、全部と、勘違いする者多く、自分も、その一人だと、思うから、また、思い込むから、救われない。

数学の出来ない者は、音楽、特に、西洋音楽は、出来ない。
西洋音楽は、数学の世界である。

芸大、桐のトーホーが、この程度なのだから、後の、音大は、押して知るべし。

世の中の、ゴミである。

和芸の場合は、下手でも、爪弾いてくれれば、それなりに、風情になるが、ピアノは、風情も、へったくれも、無い。ただ、喧しい。

だから、大半が、耳をやられる。
音楽をやってはいるが、耳が悪いというのは、致命的である。

更に、頭が悪いから、世の中の、害である。
ガ鳴り立てるというのが、関の山の、ピアノ演奏を、堂々として、意気揚々としている様には、呆れる。

長い、分節を覚えられないがために、曲の説明も、演奏技術の説明も、舌足らずであり、少し、難しい言葉を使うだけで、我、賢いと、信じる様、あわれである。

曲の完成度が、高く、技術的にも、熟練している。

これで、評価して、満足げにしている。

洗足とか、フェリスという、金儲けの学校の、ピアノ弾き達は、指導者も、迷っているのか、いつも、迷うのである。
音楽に迷う。
更に、頭の悪さが、拍車をかけて、何を、何処を、目指しているのか、解らない、演奏を、平気でする。

それらが、また、集いを作り、なにやら、分かったような、演奏会を開催して、身内で、納得し、満足する。
つまり、自己満足の何物でもないことを、やって、世の害になっている。

さらに、拍車を、掛けるのは、頭の悪い声楽家という、勘違いの面々である。

それらが、一緒に集うから、益々、馬鹿の集団になる。

歌をやりたいというのと、聞かせられる歌を、歌うのとは、違うことを、知らない。
勿論、参加費を払って、舞台に出る者に、言うことも無い。

お金を払っても、聞きたい歌と、お金を貰って聞きたい歌と、お金を貰っても、聞きたくない歌がある。

私は、ある時から、無料コンサートのみ、開催することにした。
理由は、無料であるから、嫌になれば、いつでも、会場を出られる。更に、招待しないので、嫌な人は、出で行く。
それでいい。

音楽芸術は、西洋でも、東洋でも、すべて、あるモノに、捧げて行われていた。それを、私も、やっている。

私の、場合は、神や仏に、捧げるモノではなく、追悼慰霊をした場所の霊位に、捧げる。
お客が、数名でも、甚だしくは、誰も、いなくても、それを、捧げる。

無理やり、誰かに、聞かせることもない。
更に、素人であるから、自己満足である。

そうして、すべて、納得して、開催する。

ピアノコンサートも、然り。

一度、誰も、お客がいないコンサートになったことがある。
実に、有意義だった。
スタップが、一生懸命に聞いて、注文をつけて、弾き方を替えさせたり、同じ曲を、もう一度と、聴いた。

通常のコンサートでは、出来ないことである。

その曲は、もういいから、あの曲を、もう一度などとは、コンサートでは、出来ない。

そろそろ、そのような、コンサートに戻して行きたいと、思っている。

あれあれ、あの曲弾いてと、いわれて、答えられるピアノ弾きの登場を願う。

一度、さくらさくらの、メロディーだけ、聞かせてと言うと、弾けないという、ピアノ弾きがいた。練習していないからと、言う。
驚いた。
桐のトーホーではない、トーホーである。

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2009年05月06日

最後の沈黙を破る 6

世の中が、不況になり、格差が広がると、落ちこぼれは、ストレスが溜まり、発散するために、インターネットの書き込みに、そのストレスを、ぶつける。

単純に、感情的な、言葉を書き付ける。
更に、弱いと、思った者には、また、容赦しない。
この世は、地獄である。

藤岡宣男が、亡くなった時間は、夜の、十時十分頃である。
深夜、零時には、ニュースになった。

それからである。
多くの、憶測、妄想の数々が披露された。
これも、有名であることからだと、黙っていた。

しかし、中には、聞き捨てならない言葉があった。

木村天山が、殺したというものである。

事件の、顛末については、詳しく書いたので、省略する。

藤岡を生かすために、五年間、様々に行動していた私が、殺したと、言われた時の気持ちは、たまらないものである。
それを、理解してくれとは、思わない。

この世は、地獄であるから、それも、あり、だと、思っている。
しかし、私が、腑に落ちないのは、そういう言葉を、吐いた者が、平穏無事に暮らせるということである。

そんなことは、ないはずである。

私が、呪って、悪いことが起こるというのではない。
自業自得で、その言葉を吐いた者は、七転八倒するはずである。

今でなくても・・・

勿論、私は、どうとも、思わない。

書き込みで、警察が、動くようになった。
例えば、芸能人などに、殺すと、書くと、警察が動くのである。
それほど、何でも、書くことが、出来るようになった。

誹謗中傷で、自殺する者も、出る。

そんなことを、許しておいていいのだろうか。
道徳ということの意味を、知らないと言える。また、それを、教えられないのである。

道徳教育をすると言うと、馬鹿な、日教組が、良心の自由だの、何だのと、煩いのである。

君が代、国旗掲揚も、良心の自由を、掲げて、歌わない、起立しないという、馬鹿までいる。

それが、公立学校の教師であるから、笑う。

私と、公という、世界を、区別出来ない者が、ガッコの先生に、なってはいけない。

このような、教師に、教えられた、皆々が、この、道徳破壊の、書き込みの行為を、平然として、する。
更に、このような者達に、教えられた者が、今、無責任な、書き込みをして、平然としている。

更に言えば、学生運動をした、世代の、アホが、親として、教育した者どもが、こうして、無責任な書き込みをする。

犯人探しをすれば、そこに行き着く。

権利の主張こそが、正しいと、言う、アホ、馬鹿、間抜けである。

それらの、学生運動時代の、アホが、今では、体制側について、のうのうと、ゴルフ三昧であるから、言葉が無い。

革命であったはず。
しかし、今、彼らの生活を、見ていると、セックス三昧、ゴルフ三昧、果ては、田舎暮らしを、満喫するという、アホもいる。

私の、問題は、それ以上にあるが、今は、この辺で、やめておく。

要するに、自分で、何事かを、行っているように、思えるが、実は、自分ではないモノに、動かされているということに、気づかないのである。

自分の意識で、行っていると、信じているだけで、それは、無い神仏というものを、信じる行為に似る。

本当の、意識というものを、持たないのである。

しかし、それを、言っても、何のことか、解らないだろう。
それほど、我という、意識を、失っているということである。

問題は、それである。

霊の、憑依現象というものがある。
今の、人、おおよそ、憑依現象にある。

如何ともしがたい、思いを、抱く。
それが、我のものだと、信じる。しかし、それは、憑依現象なのである。

無責任な書き込みを、する者を、追跡して行くと、必ず、目に見えない世界に、行き着く。そして、その者の、背後にあるものを、認識する。

多くは、浮遊霊である。
そして、そういう者は、そういうモノを、信じないのである。

だが、それは、すぐに、解る。
人は、すぐに、死ぬからである。

浮遊霊に、憑依された人は、また、浮遊霊になる。

死ねば、解ることだから、説明するまでもない。
死は、すぐ、目の前にある。

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2009年05月07日

最後の沈黙を破る 7

藤岡の、母親と、私の関係は、実に淡々としたものだった。

時に、私の体調が悪いときなどは、私に、頼っている人なんで、困ると、端的に言っていた。

藤岡曰く、母は、木村さんが、あまり好きではないと。
母は、面食いだから、とも。
要するに、私が、男前ではないということ。

一年間、母が、鎌倉に暮らし、横浜に迎えた日に、食事に出掛けた。
めったに、外に食事に出ない人である。
その一度だけだった。

何度か、誘ったが、もったいないと言い、外食は、しなかった。

その一度だけの、中華料理の店で、母は、とても喜び、はしゃいだ。
支払いの時に、私に、高かったじゃろうと、心配していた。

買い物に出た時も、一度だけである。
冷蔵庫が、壊れて、私と藤岡と、母と、三人で、冷蔵庫を、買いに出た。

その時も、大変、喜んだ。
大型のものを、買って、大喜びだった。

私が、カードで買うと、そんなんで、買えるの、と、心配した。

藤岡が亡くなる一年ほど前から、母の様子に変化が、出ていた。
痴呆である。
しかし、藤岡も、気づかなかった。
ただ、時々、私に、母親は、大丈夫だろうかと、私に、尋ねるようになった。
私は、その度に、大丈夫と言っていた。

年金を貰うと、一週間で、使ってしまうと、言った時は、私も、心配した。
藤岡が、毎週、五千円ずつ、渡すことにしたという。
そして、毎朝、算数のドリルを、させることにすると、言った。
ボケ防止である。

だが、行きつけの、内科医は、見抜いていた。
後で、知るのだが、カルテに、認知症と、書いていた。
それが、ホームに入る時に、助けになった。

藤岡は、その医者に、告げられていなかったのだが、ある日、母を、藤岡が、連れてゆくと、入院しますかと、言われたと、私に告げた。
そんなこと、何言ってんのーと、思ったと、藤岡は、言ったが、先生は、認知症に関しての、アドバイスだったと思う。

私は、それに、一切、触れなかった。
藤岡は、母が、認知症になっても、僕が世話をすると、言っていた。

勿論、現実的には、それは、無理である。
世話をするとなると、歌など、やっていられない。

藤岡が、生きている間は、まだ、それでも、緩やかに、推移した。
しかし、事故である。

あの日から、母は、急激に、認知症が悪化した。
それは、哀しみからの、脱出である。

あの日から、ホームに入るまでの、時間は、私の、悪夢である。

毎朝、食事を持って、部屋に言った。
ほんの目の先の、マンションであるから、安心していた。

雨の降る夜に、警察から、連絡が入った。
母が、荷物を抱えて、歩いていると。

徘徊である。

深夜、零時を過ぎていた。

部屋に連れて、戻り、何事もなかったかのように、風呂に入った。
私は、それを、見届けて、戻った。

翌日、伺うと、夜のことを、忘れていた。
更に、今、宣男ちゃんは、出掛けていると、言った。

もう、完全に、過去を、忘れた。

遺骨も、あれは、誰なのかと、問うようになる。

それから、私は、迅速に行動した。
実に、三日で、ホームに入ることが、出来たという、僥倖だった。

順番待ちだった、ホーム長と、面接した時、私は、部屋にあった、お金を、すべて、握り締めて、即座に、入居金を、払いますと言った。
ホーム長は、兎に角、明日の朝、連絡するということで、母を、病院に連れた。

しばらく、入院という考えだったが、二日入院して、そのまま、ホームに入居である。
私は、一人で、母の引越しをした。

最初、ホームの部屋で、どうして、私は、ここにいるのかと、問うが、私は、国が、お世話をしてくれるとだけ、話した。

こんな良い所、高いじゃろうと、言うので、大丈夫、すべて、無料なんだよと、安心させた。

兎に角、良いホームに入居して、本当に、安心し、感謝した。

その間、一週間である。
ハイスピードでの、決着。

区役所の、担当の方に、こんなことは、初めてだと、言われた。皆さん、順番を、待つ間に、病院で、亡くなりますと言われた。

藤岡が、関与していると、思うしかなかった。

最初の頃は、週に一度、逢いに行った。
そして、一緒に、散歩した。

記憶が、前後して、昔の話を、聞いた。

藤岡は、生きていることになっていたが、それも、一年を過ぎると、忘れた。

死ぬほど、辛い記憶を、忘れるという、機能が、脳にあることを、感謝した。

私の、親は、弟家族と、暮らす、二世帯家族であり、近くには、妹家族もいて、実に、親密に、付き合いをしていた。
弟と、妹に、実の親を、見てもらい、私は、藤岡の母を、我が母と思い、世話をする。
それで、良い。

父の死も、妹、弟が、しっかりと、サポートして、家族全員で、看取った。

私は、タイ、チェンマイで、父の死を知り、通夜も葬儀にも、出なかった。
そして、妹の死の時も、マニラに出掛けていた。
通夜も、葬儀も、出なかった。

この家族に、私は、育てられて、今、藤岡の母を、大切にしている。
元は、他人である。
しかし、藤岡宣男を、通して、その母を、我が母と思うことが出来る。
これは、人間の特性である。

赤の他人というのは、実は、いないのであるということ。
関わりにより、他人が、他人ではなくなる。

勿論、世の中には、親を捨てる人も、多々ある。
だが、それはまた、因果応報なのである。

昔の人の、言い方をすれば、お天道様が、見ている。
これを、霊学で言うと、先祖、祖先が見ているということになる。

太陽は、祖先の象徴だった。
太陽崇拝は、祖先崇拝である。

勿論、私は、藤岡の母を、看取り、更に、その遺骨も、藤岡と共に、奉る。

そして、それは、二人にとって、良いことである。
何故なら、私は、日本の伝統に、則り、太陽崇拝をし、御親、総称して、天照大神に、祝詞を、献上するからである。

太陽は、どこに出掛けても、照る。
天照る存在である。

私は、藤岡と、亡き人たちに、日に、三度、燈を灯す。
あちらの、世界に、私の燈が、灯る。

藤岡の母を、伺うと、すでに、魂の大半が、あちらに、出掛けている。
それで、いい。

藤岡と、語り合っているかもしれない。

脳を、機能させているのは、気である。
気とは、魂の、一つの、働きである。

心も、魂の働きである。

内臓も、魂の一つの働きである。

肉体も、魂の一つの働きである。

魂を、タマと、呼んで、尊んだのが、日本の伝統である。

タマ乞い、タマ振り、タマ鎮め、そして、タマ懸りである。

気尽きれば、死す。
肉体は、死す。

タマは、上昇する。

タマ上げである。

タマは、カムであり、死は、カム上がりである。
漢字で、書くと、崩、となる。

カムアガリと、読む。

実に、豊かな、日本のタマの、伝統である。

私は、それを、知っている。

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2009年05月08日

最後の沈黙を破る 8

馬鹿は、死んでも治らないとは、昔の人の言葉である。

だが、それは、今も昔も、変わらない。

死後の世界、つまり、魂の世界のことを、無いと判断する者が、死ぬと、突然、焦る。

死んだ肉体を見て、俺は、どうしたのだと、焦る。
そして、身内に、語りかけるが、通じない。
口無しであるから、誰も、気づかない。

そして、通夜、葬儀である。
それを、呆然として、見ている。

俺は、ここにいる。私は、ここにいると、大声で、叫んでも、誰にも、聞えない。

死後の世界は無いと、信じているから、自分の状態が、解らない。

それで、通夜や、葬儀に来た人に、強制的に、知らせるために、事故などを起こさせて、教えるが、下手をすると、その事故で、死ぬ親族もいる。

そうなると、連鎖的に、続くことになる。

量子力学、物理学では、霊界の存在について、相当なところまで、解っている、はずである。だが、すべてを、公開出来ない。
衝撃が、大きすぎるからだ。
更に、宗教の否定につながり、そういう学者は、狂信の信仰者に、殺される。

植物でさえ、切り取った後には、そこに花が、あったという、残像が残る。
勿論、それは、自然消滅する。

人間も、同じである。
残像が残る。
しかし、自然消滅するほど、進化していない。

残像は、霊である。
私は、それを、霊位と呼ぶ。

そして、残像は、この世に残れば、幽霊である。

最も、大切なものは、想念である。
この、想念が、霊位であり、霊界入りするのである。
つまり、死は、霊界に生まれる、戻るのである。

ところが、霊界に、スムーズに行くのではない。
その前に、現世の清算をするため、要するに、人生の、まとめと、反省をするために、幽界に、出向く。
出向く霊位は、よいが、霊というものは無いという、馬鹿が、幽界にも、行けない。

それで、浮遊する。

肉体が骨になると、その骨の周囲で、うろうろしたり、墓の周囲で、おろおろする。
それならば、まだ、いい。
しかし、馬鹿は、騒ぐ。

俺は、ここにいると、叫んで歩く。しかし、誰も、気づかない。
仏壇で、拝まれているのを、見ても、死を自覚しない、馬鹿である。

馬鹿は、死んでも、治らないのである。

その点、宗教を信じていた人は、大半が、本部の建物や、その、宗教の建物の、上空にて、そこを、天国や、極楽だと、思いこんでいるから、まだ、害はない。

しかし、幽界にも、行かない。行けない。

彼らに、最初に言うことは、あなたは、死んでいることが、解るかということである。
解らないという霊は、それを、理解させるまで、説く必要がある。

すると、生前、死ぬことを、学んでいなかったので、死の学びが必要である。
到底、やっていられないのである。

巷の、霊能者は、彼らを、幽界にも、送れないでいる。
では、何をしているのかといえば、居場所を、変更しているだけである。

部屋の整理に、あちらのものを、こちらに、というようなことをして、はい、除霊しました、浄霊しましたと、言う。
そして、大枚な、料金を取る。

まして、お経を読んで、霊が、幽界に行けるものではない。
お経の意味も、知らないのである。

昔は、その音の力により、幽界まで、押し上げた、僧侶もいたが、今は、大半が、寝惚けた、読経であるから、詮無いこと。

読経は、教えを、暗記するための、方法であり、霊の供養など、するものではない。
更に、供養という意味も、全く意味合いが、違う。
供養とは、生きている人にするものであり、死者にするものではない。

かろうじて、回向という行為は、あるにはある。

回向とは、死者を思い出し、黙祷することである。

自業自得の世界が、宇宙であるから、死者のために、何事かをしても、死者自身が、行わなければ、どうしようもないのである。

私が、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行うのは、供養でも、回向でもない。
言えば、黙祷である。

そして、語り掛けである。
日本に、お戻り下さい。
靖国に行きたい方は、靖国に、故郷に戻られたい方は、故郷に、である。

そこで、霊位の意識を、ワープして貰うのみ。
私は、幽界にも、上げられないことを、知っている。

故郷に戻る霊位は、自ら、死を悟り、死後の世界へ、目指すのである。
それを、促す行為が、私の追悼慰霊である。

救うなどいう、僭越行為は、無い。

その地に、留まり、未だに、戦争をしている霊位もいる。
死んだ意識無く、未だに、戦っているのである。

実に、哀れである。

勿論、死んだら、何も無い、無になると、言う人に、私は、何事かを説くことはしない。

この世が、有で、あの世が無という、相対的な、考え方に気づいていないのである。
アホである。

無という、世界があるということを、言うのであるが、アホだから、無、とは、何も無いと、信じている。

霊界には、無、という、空間もある。
別名、地獄と、言う人もいる。

本当に、何も無い空間。
想像出来ない。
想像すると、狂う。

だから、そこに行く人は、狂っている。

人間は、すぐに、死ぬ。
だから、別に説明する必要は無い。

説明しているのは、商売の宗教団体である。
旅行会社の、死後のツアーのような業務を、行っている。

しかし、それを行う人も、知らないから、行って見て、仰天する。

下を見ると、自分とおなじような人が集う、宗教施設の上空なのである、から。

終わっている。

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2009年05月09日

最後の沈黙を破る 9

前回、霊的なこと、霊界について、書いた。
それで、もう少し、書くことにする。

というのは、神仏は妄想である、という、エッセイでは、書き足りなく、実は、まだまだ、書きたいことがある。

そこで、このエッセイで、少し、そこでは、書けないことを、書く。

霊能という、能力がある。
霊感と、然り。
それを、主にして、教えを伝える人や、宗教団体がある。

多くの、宗教の創立者は、大半が、一度は、霊能や、霊感に、触れている。そのうちに、それが必要なくなり、教えのみに、移行して、物を書く。

伝え続けて、30年という、ベンジャミン・クレームという、イギリス人に関して、少し書く。

大いなる接近という、タイトルで、出した本が、反響を呼んだ。
それに、共感した人々が、伝道瞑想なる、集会を持っている。

私は、否定はしないが、批判する。

何でも、彼は、ヒマラヤ山脈の霊界からの、キリスト・マイトレーヤーとか、大師と言われる霊からの、メッセージを伝えているという。

土台は、キリスト教と、仏教系の、混合した、教えであるが、きわめて言えば、キリスト教に母体を置く。

愛と、分配の法則云々とは、まさに、キリスト・イエスの、教えに順ずる。

彼は、多くの世界の状況を、予言して、その通りに、世界が、動いているという、信じる人が言う。

世界を、予言して、当てている人は、世界に大勢いる。
何も特別なことではない。
しかし、彼が、霊とか、神に近い者から、メッセージを受けているということが、ポイントである。

世界の貧困や、経済格差などの、解決を求める人々に、メッセージをいう、傲慢極まりない、発言は、単なる、妄想の瞑想を、冗長させるだけであるとは、考えていない。
つまり、祈りは、聞かれると、発信する。

更に、神人が、世界の人に、直接的に、メッセージを送ると、言い続けて、今も、それが、成されない。つまり、彼が、その、神人なのであろう。

それか、彼は、夢を見ているのかもしれない。

幼児期の、脳のままであることも、考えられる。

先進国の人に対する、分かち合いの精神により、云々というが、それは、多分に政治的行為にある。

それを、瞑想により、つまり、祈りにより、成すというのは、単なる、気休めである。

人類は、地球という、ひとつの惑星に住む、兄弟姉妹であり、云々とは、アシジのフランシスコの言葉である。

何も、特別なことではない。

世界全体が、相互に深く関わっているという事実に、気づくべきである、云々も、当たり前のことである。
それが、彼に、メッセージを与える霊的存在の、云々となると、人は、信じるという、不思議である。

結果、メッセージを、発信しているのは、彼自身なのである。

目新しい、メッセージは、何も無い。
更に、オリジナルは、何も無い。

覚者方との、協力により、温暖化や、大気汚染、放射能の影響も中和できる、テクノロジーの出現を可能にするとの示唆であるが、そんなことは、当たり前のことであり、どこに、覚者方が、出てくるのか。

更に、温暖化、大気汚染というが、もし、地球が、それを、避けるとするならば、地球は、自ら、そのように、働くのである。

彼が、大師たちの、メッセージを、受け取っているとしたら、あまりに、ポーズの付け過ぎである。

それなら、仏陀が、集う弟子たちに、生活指導をした方が、実際的である。

大袈裟すぎる。
つまり、ヒマラヤ山脈の霊界は、いつも、大袈裟に、メッセージなるものを、与えるのである。

信じる人は、偉大なる、霊に、そして、瞑想という、よく解らない、祈りの、方法に、取り入れられているだけである。

更に、奇跡の水などという、愚かな真似は、レベルの低さに、笑う。

新しい、社会運動という方が、すんなりくるのである。

キリスト教世界や、日本のように、宗教感覚曖昧な場所に、受け入れられるものであり、到底、全世界に、メッセージを、送るという、代物ではない。

瞑想は、祈りである。
祈りは、行為である。

ユリゲラーという、超能力者という、者が、その能力で、世界の核を消滅させ得ると、言っていたが、その後は、何も無い。
単なる山師であったと、思える。

ベンジャミン・クレームの、小粒な活動をしている人は、大勢いる。
日本でも、山のようにいて、出来れば、大きな集団になりたいと、目指している。

気功と、瞑想によって、世の中を良くするとか。

すでに、神人は、イギリスに、日本にも姿を持って、現れているという。
是非とも、全世界に向けて、メッセージを発してもらいたいものだと、思う。

すでに、世界の中で、それらの神人は、活動しているという。
そいう、言葉も、単なる、戯言に、聞こえる、彼の、メッセージである。

何故なら、今までに、そういう、予言や、メッセージを発した人は、実に多い。

ちなみに、ヒマラヤ山脈の霊界は、あまり、良い霊的存在を有していない。
こけおどしが、多いのである。

一応、大いなる接近、に期待しておく。

posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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