2008年09月12日

性について 42

1898年に、発表された、神経症の病因論におけるセクシャリティという、論文で、フロイトは、神経衰弱、ヒステリー症候群、不安神経症における、マスターベーションの、病因的役割を、明らかにした。

そこでは、また、強迫神経症の、発生における、マスターベーションの、重要性も、指摘された。

強迫観念の発生は、マスターベーションとの、熾烈な戦いの後に、一定の潜伏期間をおいて、表面に現れるという。
そこでは、マスターベーションが、見かけ上、負けただけで、単に抑圧されているにすぎない。
そこから、生じる、不満足感による抑制は、知的抑制ともなるという。

フロイトの手紙に、
マスターベーションこそ、唯一にして最大の習慣であり、根源的欲求であると、そして、アルコールとか、モルヒネ、タバコといった嗜好品への欲求は、その代替物、代用品に過ぎないという結論に達したのです。
とある。

1919年、子供が叩かれる、との、題された論文で、フロイトは、その頃、一般的だった、性的空想について、論じている。

この空想には、それに続く、マスターベーションによる、甘美な感覚と、羞恥心、罪悪感という、激しい感情とが、混合しているというもの。
そして、最初は、自発的に、やがて、強迫的になり、空想は、果てしなく、反復されてゆく。

更に、マゾヒスティックな空想による、マスターベーション以外では、性的快感を、得られないという、マゾヒストもいるとされた。

フロイトは、男女を問わず、成人の中でも、頻繁に、マスターベーションが行われてると、考えていた。

それに、付随した、羞恥心のせいで、隠されることにより、様々な、神経症の原因となると、判定した。

患者がつねに自分の性的習慣と闘っていることを、そしていつもその闘いに敗れて絶望に追いやられていることを医者が理解すれば、そしてさらに、患者からその秘密を聞き出し、その重みを軽減し、そこから抜け出すために助力しようと努めれば、治療効果は必ずや報われるはずである。
フロイト

医者は、マスターベーションの告白が、得られたら、その習慣を、改めさせることだというのである。

こうした治療は、病院施設で、監視の元で、行われなければならないのである。
そうしなければ、自慰者は、安易な充足手段に戻る。

フロイトは、自慰者を、モルヒネ、コカイン、睡眠剤の中毒患者と、同じように、考えた。

つまり、自慰というものが、為されない場合は、薬物に頼るという、考えだったといえる。
今なら、笑い話である。

医者は、夫婦の、一方あるいは、両方を神経症の危険に晒したくない場合は、夫婦の性生活を、問い、新婚初夜から、妊娠の回数を減らすという目的で、中絶性交、つまり、オナニズムに頼っていないかを、知るべきであるとする。

フロイトは、避妊手段に、経口避妊薬が、発明されることを、願っていたという。

フロイトも、矢張り、古い人間で、
苦労することなく、安易な方法で、大きな目的が達成できるということを、教える、この悪癖によって、人格を堕落させる。
と言うのである。

それに対して、作家、カール・クラウスは、シニカルに、論理を逆転させる。
性交とは、マスターベーションの不満足な代用品に過ぎない。

この言葉は、実に、的を得ている。
現在、マスターベーションの、優位性というものは、セックスを考える上で、重要なものになっていると、思われる。
セックスとは、何かと、問う時、マスターベーションとは、何かを、問うことで、理解される。
そして、性的満足というものは、何かと問う時も、である。

さて、1910年、ウィーンにて、精神分析学学会で、オナニズムおよび、その他の自己性愛的行為についての、議論が交わされた。

それは、自慰論という、題で、その年に、刊行されている。

全員が一致した意見
オナニズム行為に伴う、あるいはその代わりをする空想の重要性について。
M・クラインは、子供の遊戯をマスターベーション的空想の表現と見なす。

オナニズムに起因し、それに結びついた罪の意識の重要性について。
どのような条件においてオナニズムが有害であるかを定性的に決定することの不可能性について。

一致を見なかった種々の見解
オナニズムの身体的影響の否定に関して。
オナニズムの有害性全般の否定に関して。
罪悪感の起源に関して、不満足感から直接に由来するという見解と、そこに社会的要素を認める、あるいはそれぞれの場合について、幼児期オナニズムの偏在性に個人的差異を認める見解とがあった。

最後に、不確かなままに残ってしまった重要な問題
それが確認されたとして、オナニズムの有害性のメカニズムについて。
現在の神経症とオナニズムとの病因論的関係について。

フロイトは、神経症の発生に関して、容易に満足が得られるせいで、幼児的性目標の固着と、心的幼児性の中に、停止したままでいることが、可能になるという点で、明確に、オナニズムの有害な影響を、認めている。

能力が有り余っているとき、高潔であることは、なかなか難しい。オナニズムは、美徳の欠如であると同時に、逆に、欠如の美徳ともなる。
フロイト

それは、
マスターベーションの有害性は、それに伴う罪悪感と結びつき、そこには悪循環のようなものができあがり、罪悪感をなだめようとしてマスターベーション的満足に回帰し、それがまた罪悪感を生み出してしまうのだ。
要するに、思春期以前の子供のマスターベーションは有害ではないとしても、青春期を過ぎて成人の年齢に達してもなお持続する場合には、必ずしも害がなくはないということである。
オナニズムの歴史 ジャック・デュシェ

この後、フロイトの、弟子達の時代が、来るのである。



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2008年09月13日

性について 43

フロイトの弟子たちは、それぞれに、マスターベーションに関する、提案ないし、理解を示したが、それを、一々取り上げることは、省略する。

ここで、マスターベーションを禁止するということについて、時代に先駆けて、精液漏、という著作を出した、マルコ博士の、考え方を、紹介する。

禁欲は、生理的法則に反すると、マルコは述べた。
マスターベーションを覚えてから、それを、禁欲することは、かえって害があると、主張するのである。

以下、彼の文を転写する。
禁欲している青年は、すぐに、何となく気分がすぐれず、不安で、悲しい気分に襲われる。やがていらいらしてぼんやりと夢見がちになり、満たされぬ欲望に心は絶え間なくつきまとわれ、眠りはエロティックな夢に頻繁に乱され、夢精したりすることもある。さらに禁欲を続ければもっと重大な障害を引き起こしかねず、この点から考えると、何も知らぬうちの禁欲のほうが、快楽を知ってしまってからの禁欲よりは、害は少ないということになろう。というのも、後者の場合、本能の力と習慣の頑固さに、さらに性器感覚の後天的活動が付け加わるからである。すでに述べた性格の変化に続いて、脳にも重い障害が起こる。神かがり的な思想、性欲異常、強姦、男色、獣姦・・・

最後の方は、蒙昧である。

マスターベーションを快楽と、認めているのが、決定的である。
ただ、快楽を知ってからの、禁欲が、脳の障害や、性欲異常、男色、獣姦とは、行き過ぎである。

ただし、精神分析時代以降は、マスターベーションに対する、タブーというものが、消滅しつつあったということは、言える。

ただ、フロイトの影響は、長く続く。
結果、性欲行動に対しては、社会が、何らかの、抑圧を加えることであると、その理論による、教育のあり方が、推奨された。
つまり、抑制、禁止、抑圧である。

だが、それとは、逆に、その、抑圧により、神経症の原因となるというもの、である。
結局のところ、フロイトは、制御と強制を選ばざるを得なかったといえる。

そこで、反旗を翻したのが、弟子の、ウィルヘルム・ライヒである。

彼は、オーガズムの治療的効用を説き、性的抑圧を、権威主義的社会に連なるものとして、見たのである。

マスターベーションを、小児期および思春期のセクシャリティにおけるまったく正常な過渡的一形態であると、強調する。
彼は、それは、全くの無害であると、主張した。

青少年が、マスターベーションを始めるにさいして、両親や教会の偏見に毒されずにいるかぎりにおいては、無害であると、画期的な見解を、述べた。

初めは、誰もが、健全であったのに、それが、脅されて、酷い悪いこと、更には、罪意識まで、植え付けられるということに、反論したのである。

更には、マスターベーションには、何ら害がないのに、それに対する、罪悪感を植えつけるために、身体的、心理的な障害をもたらすのであると、述べた。

更に、性的、社会的秩序が性的関係の障害となるという問題が、問題であると言う。
そうした、障害のせいで、若者は、退行し、実現可能になった、自然目的から、逸脱した行為、小児的な空想に、後戻りすると。

つまり、マスターベーションは、開放的機能を果たすと、掲げたのである。

私は、ここに、初めて、マスターベーションの、目的、更に、マスターベーションの人間性というものを、発見したと思う。

動物は、基本的に、マスターベーションをしない。
更にである。
マスターベーションの歴史の豊かな民族の、芸術性は、実に高いのである。
それは、つまり、マスターベーションとは、人間としての、証であるともいえるのである。

その他、フロイトの弟子達は、様々な、見解を述べるが、ライヒで、十分であろう。

だが、結果的に見ると、社会は、マスターベーションに対しての、偏見と、禁止解除が、遅々として進まなかった。
私は、それは、宗教ゆえであるという。

宗教の基本的姿勢は、人間の欲望を、手玉に取り、それを、握ることで、支配するという、実に、悪知恵の持ち主たちが、支配する。
罪悪感を、植えつけて、信者を、威圧するというのは、特に、キリスト教の、お得意な、やり口である。

あなたは、罪人であると、堂々と言うあたりが、実に、傲慢不遜である。
人の罪など、構っている暇がない程、罪深い者が、指導者なのであるから、手がつけられない。

さて、罪悪感と、不安に結び付けられた、マスターベーションの有害性が、最終的に、放棄されるのは、1940年の、ホルトの論文である。

子供の病気、という本である。

それが、テキストとなり、ついに、「こうした禁止は、教養のない人々の間ばかりではなく、時して、医者の間にさえも見られる、という、見解になったのである。

そこに、至るのでには、様々な人たちの、努力があった。

例えば、古代ギリシャ、ローマでの、頻繁に行われた、オナニズムの歴史を説く者。

1947年の「児童および青少年の心的発達」という本を書いた、ピションは、「男性のマスターベーションは、かつて言われていたような恐ろしげな障害をもたらすものでは決してない。しかし、それには疲労が伴う。児童や青少年においては、やり過ぎれば、心臓にいくらか負担がかかることになる」と書く。

実際、心臓に負担がかかるのは、45歳前後からの、マスターベーションであることは、現代の、日本社会である。

ストレスの多い、中高年が、マスターベーションをして、心臓発作を起こすことは、有り得る。
一回の、射精にかかる、体力消耗は、100メートルを、全力疾走した時の、ものと似ていると言われる。
中高年の、マスターベーションは、その感触を楽しむことを、主にした、マラソン型マスターベーションが、理想である。

射精をしない、マスターベーションを、楽しむべきである。
後で、マスターベーション、及び、セックスの最高指導の、手引きを紹介することになるが、中高年、高齢者も、性を楽しむべきなのである。

しかし、それは、若者時代の、回想ではない。
新しい、性の楽しみ方である。

中高年の場合の、マスターベーションは、射精しない、感触の楽しみを続け、何度かに、一度、射精の快感を得るという、マスターベーションの、極意がある。

もう少し、この歴史を俯瞰してみる。

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2008年09月15日

性について 45

1968年の、革命的理論支柱の、ライヒの思想から、マスターベーションに関する、意見が、それに、準じて、出された。

禁止することを、禁止するというような、過激なものまである。
マスターベーションを禁止することを、禁止するというのであるから、穏やかではない。

しかし、フロイト、スピッツなど、初期の精神分析学者たちは、行き過ぎた、禁止と、その悪影響を告白した人たち自身が、矛盾した、折衷的態度を余儀なくされたという、見方もある。

衝動の抑圧こそが、神経症の危険を伴うとした、精神分析学が、解決の糸口を、見つけ出すには、大変な、努力がいる。

地獄の罰という、呪いと、脅迫によって、強化された、罪悪感の、マスターベーションは、フロイトの発見に至るまで、更に、それでも、それ以降続いた、罪悪感の後に、新しい考え方が、セクシャリティの好ました進展のために、ある種の、バランスの取れた、適度のフラストレーションが必要であるという、考え方が、登場したのである。

フラストレーションが、人格を形成するものである。

突然の、宣言のような、言葉が飛び出す。

アンナ・フロイトは、人格形成にとって、その価値を強調し、子供も、納得しうる、マスターベーションに対する、闘いを重視したのである。

かつてのように、野蛮で、サディスティックなものではなく、フラストレーションの修練は、漸進的で、各人の感受性と、忍耐力に合わせて、勧められるものである、という。

面白い議論は、成人になっても、オナニーが続けられ、性的結合を目的とする、成人の唯一の、セクシャリティ表現を、回避するまでに至る、反抗的オナニー、それは、まさに、無意識のうちに、留められた心的幼児性への、固着であるというものだ。

病理学からの、対応は、性器的快感の発見という過渡期の現象として、全く正常なものであるという、見解である。

ただし、マスターベーションは、性的能力の十全たる表現と、見なしえないという。
それは、せいぜい待機行動、思春期の初めての興奮から、十全な性生活へ至るまでの、道において、不可避なものである、待機行動にすぎないとも、いう。

いまだ夢の中でしか実現でなかった性関係の先取りする代用品のようなものにすぎない。
ジャック・デュシェ

精神分析から、性感帯の、暫時的発見と、それらの部位の興奮は、リビドーが、どこかに、固着してしまわない限り、段階を追って、やがて、性器的セクシャリティに、到達すると、考える。

ここで、リビドーの固着が、うまくいかなかった場合や、歪んだ場合などに、成人になってから、性的事件の引き金になったりする。
性的的快感を、全うに体験することが、大切なことなのである。

でなければ、生き物を、殺すことによって得る、快感を、性的快感として、持つ場合もあるということだ。
または、色々に変形して、性器的快感を得ることになる。
異常性愛と、言われる行為になるのだが、日本には、異常でもなんでもない。そのように、成長させてしまったのである。

さて、欝状態の若者の、マスターベーションは、主題を欠き、陰鬱で、罪悪感を伴った、快楽という、気分的不安定さを、帯びることになる。
それは、強迫観念の部類になり、また、脅迫行動に至ることもある。
更に、それに、サディスティックや、サドマゾヒスティックな、色調を帯びることもあり、そうなると、治療が必要となる。

幼児期の、多機能的、多種多様のセクシャリティが、徐々に、整ってゆく過程における、性器的成長の過程で、起こるものを、心理学で、探っていたようである。

それに、深入りすると、性についての、論旨が、更に広がるので、止めておく。

さて、どの調査も、女子より、男子の方が、頻度が高いという、結果がある。

男子の場合は、明確に、性器を意識でるのに対して、女子は、性器が、内に在るという感覚なので、その意識は、顕著ではない。
ただし、女子も、自然のうちに、マスターベーションの行為を、多く体験する。
女子の、マスターベーションは、曖昧という言葉が、合う。
意識して、明確に、マスターベーションとい行為に、至るには、それなりの、年齢が必要である。

マスターべションは、男子にとっては性的成熟のために重要な役割を演じるが、女子の性的発育においては事情は異なる。両性間の解剖学的差異が、おそらく、そこで部分的に何らかの役割を果たしているのであろう。男の子は、自分の身体の特徴と、それを際立たせる生理反応に気づかないわけにはゆかないし、必要とあらば勃起がそのことを思い出させてくれる。女の子の場合は市場が違い、欠如しているもの、切断されてしまったものとして確認することしかできない。
デュシェ

そして、男が、思春期で、最も、激しい性的衝動を覚える。
愛情的交歓や、性行為の優しさなどを、知るのは、後のことである。
しかし、女は、それと、逆になるのである。
男が、異性関係に至るまで、マスターベーションによって、満足しているのに大して、女は、マスターベーションをするにしても、欲望ではなく、相手のためという、感情的なものが、先になる。

つまり、女は、欲望よりも、最初は、情緒による性的満足感を、求めるというのである。
それに対して、男は、欲望が先に立つ。

そこで、どうしても、その性的行為には、差異が出る。
そこが、男と女の溝なのである。

性行為を、早く求めるのは、男である。
女は、性行為より、情緒的関係を求める。

しかし、只今の、中学生、高校生の付き合いという前提は、性行為に、結び付けられているのが、現状であり、それを、大人が、理解し、把握できないでいる。

マスターベーションの歴史を、俯瞰してきたが、今なら、この過程自体が、お笑いものである。

20世紀後半の、性行動の、目まぐるしさといったらない。
男のマスターベーション入門などの、記事が、その手の、雑誌に載るほどになり、フリーセックスを経て、更に、マスターベーションの効用が、語られる。

マスターベーションで、痩せるなどという、歌い文句で、女のマスターベーションを、推奨するという、記事なども、雑誌に載せられた。
それが、今は、中国、上海で、流行っているというから、驚く。

現代の語るマスターベーションの、新しい展開を見て、更に、マスターベーションの効用というものを、見ることにする。

そして、飽くなき性の快感の、追求というものを、見ることによって、人間の性とは、何かを、問うことにする。


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2008年09月16日

性について 46

キンゼイ博士の、セクシャリティの研究は、性行動に他ならず、統計的数字に基づき、その多様性を、明らかにしたといえる。

マスターズとジョンソンは、性関係の生理学を研究し、その臨床的記述から、性的障害の、プロトコルを作成した。
機能不全に関しては、カップルを切り離せない単位とみなして、治療を行った。

その治療に当たり、マスターベーションが、一定の役割を演じることから、マスターベーションの研究が、セクソセラピーに、直接連動するものとなった。

マスターベーションは、種々の性的機能不全に対する行動療法の一部とされ、射精不全、自己刺激によって、射精を促すという、初歩的治療と、オーガズム不全に対しては、ロ・ピッコロが、十二段階の、マスターベーション・プログラムを開発したのである。

自己肯定に基づいたテクニック、起こりうる葛藤の軽減、寛容さ、そうしたことの積み上げによって、マスターベーション行為は、相互的な性関係へのいわば端緒となる優れた「教育的経験」として再発見され、そういうものとして実践されてゆくことになる。膣性交によってはオーガズムに達することのできない人たちでも、マスターベーションのような他のタイプの刺激によってそれが可能となるのである。
ジャック・デュシェ

私の手元には、アメリカの、セックスセラピストの、本がある。
驚くべき、その、セックスマスターを、後で、公開することにする。

さて、性の解放から、すでに、30年以上を経ようとしている。
現代は、性の百花繚乱である。
フリーセックスなどいう、言葉も聞かれないほど、性は、解放された。

中高生が、付き合うということは、セックスがあるということである、という時代になった。

それは、簡単な、避妊法によって、更に、拍車がかかったといえる。
これで、セクシャリティと、生殖の分離が可能になり、今まさに、性というものを、新しい思想、言葉で語る時代に突入したといえる。

更に、ビルという、避妊薬の登場で、それが、加速したのである。

人間の性は、どこへ行くのか。

セクソロジーという、新しい学問が、登場した。
日本では、まだまだ、それが、遅れているが、最早、遅れていい訳ではない。

セクソロジーは、まさに、オーガズムを目的とする、学問である。
共有された、より良いオーガズムと、最高の調和の究極的段階としての、オーガズムの一致を、掲げる。

オーガズムの権利である。
ところが、それが義務化することで、新しい悩みが、起こる。
もし、それが、満たされない時、誰もが、快感を感じるという、様々な性感の探求という形で、具体化されるようになる。

一時期、女の性感帯の、震源地である、Gスポットの体系的探求という、提唱がなされた。

膣壁にある、Gスポットの位置確認まで、されるようになった。

さらにである。
大人のオモチャの開発による、更なる性的刺激の、探求である。
ここまでくると、何といってよいのか。

いかがわしい広告の、文句を見てみると、それは、一目瞭然である。

このように、見てゆくと、マスターベーションは、いつでも、手軽に、本質的、基本的、探究の要素となりえるのである。

要するに、マスターべーションというものに、新しい価値づけを、与えることになったと、考えてよいのだ。

マスターベーションも、十分満足を得る性的行為であるということだ。

そこで、オナニストという、言葉が出来たくらいである。
男とも、女とも、関係しない、自己性愛型人間である。

ある若者は、女との付き合いの、煩雑さに、うんざりして、自ら、オナニストと、任じて、女からの、誘いを断るという。
彼、曰く、女との、セックスに至るまでの、過程における、諸々の、手続きが、面倒であるとのこと。

そんなに、苦労せずとも、マスターベーションで、十分に満足し、セックス、つまり、性交する、相手というものの存在を、置かないという、スタイルも、ありなのである。

オナニズムの、歴史は、抑圧の歴史であった。
しかし、今、いや、すでに、オナニズム、マスターベーションの解放である。

それに対する、宗教、特に、ローマカトリックなどの、見解などは、省略する。
未だに、カトリック教会は、マスターベーションを否定するという、時代錯誤である。

勿論、その根拠は無い。
単に、快楽は罪である、のである。

少年が、マスターベーションを覚えた時の感激を、芸術文芸家は、大地との、交わりと、称賛する者もいる。

五本の指で、乙女を作り
マスターベーションをしよう。それは神の快楽だ。

歌いたいのは、孤独な愛
たった一人で、誰の助けも借りず
自立した愛、それがマスターベーション

私たちはみんな、子供のときからマスターベーションをし、そして、死ぬまですることができる。方法、程度、頻度などは問題ではない。それは汚れたことでも、危険なことでも、非難すべきことでもない。むしろそれは、自分自身の身体と、そこから引き出しうる快感を知るための訓練である。そのことは、他者の身体を理解するために、そして、セックスで与え、与えられる快感を理解するためには不可欠のことである。
ハウ・ツー・セックス

ちなみに、日本のマスターべーションの歴史は、実に、古い。
西洋のような、抑圧の時代が無いのである。

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2008年09月17日

性について 47

私の知り合いの、整体師が、大学に依頼されて、身体についての、講義をした。
その時、マスターベーションについて、触れたらしい。
すると、講義が終わって、一人の男子学生が訪ねてきたという。

彼は、マスターベーションを知らないと、言った。そして、先生、それを、教えてくださいと言うので、驚いたとのこと。

受験勉強に明け暮れて、更に、過保護な母親に育てられ、彼は、自分の性器にさえ、興味を持つことが無かったのである。

整体師は、丁寧に、方法を教えたという。

過保護、過干渉は、このような男を、作るのである。
実に、それは、不自然なことである。

マスターベーションはセックスの基本です。なにも子供やどっちつかずの愛人やひとり暮らしの老人のためにあるわけではありません。マスターベーションとは、生涯を通じて自分で自分を愛することなのです。
と、始まる、画期的な、本を書いたのは、ベティー・ドットソンである。
アメリカの、画家、作家、セックス教育家である。

特に、彼女は、女性に、マスターベーションを勧めた。

エイズの時代とあれば、せめて安全なセックスの代表としてマスターベーションが脚光を浴びてもよさそうなものですね。けれど、ひとりでセックスを楽しむことはいまだに白眼視されています。
と、続ける。

社会がマスターベーションを否定するから、性的な抑圧が生まれるのです。子供から大人にいたるまでみんながマスターベーションをうしろめたく思っています。マスターベーションがだめとなれば、パートナーとセックスするしかありません。わたしは性的抑圧を解く鍵がマスターベーションにあると信じています。「不感症」だと思い込んでいる女性、パートナーとのセックスでオーガズムを得られない女性にはとくにいえることです。

こうして、彼女は、女性のための、マスターベーションについて書き続ける。
更に、その方法まで、伝授するという。

先の整体師も、身体感覚のためには、マスターベーションが必要であという。更に、男女の交わりというものを、男が本当に知るためには、異物を入れるという、女性の心理を、理解するために、男は、まず、自分の尻に、指でも入れて、どういう感覚か、知るべきだとも言うのである。

女の八割から、九割の、不定愁訴は、セックスの問題であると、言明もする。

人間の体は、セックスをするために、作られてもある。
更に、性的快感を得るためにも、作られてある。
それを、抑圧しようとするのは、大半が宗教である。何故か、それは、人間を支配するに、最も弱い部分を握れば、いとも簡単に、支配できるからだ。

ゲイバッシングが激しい地域は、宗教家や、政治家が、こぞって、率先的にそれを、行う。何故か。ゲイ集団が、立ち上がれば、革命さえも、起こり得るからである。
差別し、その動きを止めておかなければならないのである。

為政者や、支配者にとって、恐ろしいのは、個人が、目覚めることである。
個に目覚めてもらっては、困る。集団として、扱い、集団として、支配したいのである。

人間の性本能を握れば、その人間のすべてを、掌握することにもなるのである。

マスターベーションを、抑圧し、罪と定めた、特にカトリック教会は、それで、多くの人を、恐怖に突き落とした。更に、それを罪意識と認識させることで、告白室にて、自白させ、えげつない好奇心の司祭が、その細部に渡って、信者の語らせるという、趣味の悪いことをする。

懺悔をするほどの、罪意識とは。
非常に恐ろしい、支配欲である。

しかし、時代は、それに勝った。

マスターベーションはこのうえなく自然な性行為です。エロティックな気持を引き出す方法、自分の性器を好きになり性的な自信をつける方法―――性的な目覚めを高め、性の不安やタブーをなくす最良の方法といえるでしょう。とくに女性は、愛する人にはっきり意思を伝える勇気をつちかうことができます。どうしてほしいかと訊かれたとき、「まあ、貴方のしてくれることならなんでもいいの」なんて見えすいたうそはもうたくさん。
ドットソン

セルフラブ
私が私を愛するとき
ベティードットソン著

欧米の文化とは、違い、日本には、明確に、マスターベーションを抑圧し、禁止するものがなかった。
非常に解放されたものだったことは、幸いである。
ただし、明治期に、西洋文化と、キリスト教文化の輸入で、それらが、タブー視される。
西洋の医学の権威もあり、自慰は、体に悪いものという、イメージを持つようになり、更に、罪悪感をも、植えつけるようになる。

日本の性は、おおらかであり、華やかだった。
しかし、明治期からの、影響は、昭和初期、戦後まで続く。
そして、セックス解放の波がきた。
フリーセックスで、抑圧されていたものが、爆発した。

しっかりと、マスターベーションをしない者が、性行為をするということになった。
更に、現代は、中学生、小学生にまで、セックスは浸透している。
決して、セックスによって満足感を得られない、未熟な女の子が、セックスを求めて、生涯に渡って後悔するであろう、行為に身を委ねる。

更に、援助交際という、耳障りの良い、売春行為である。

妊娠中絶と、年端も行かない女の子が、悲劇を体験するという、悲劇的時代である。

何事も、順序というものがある。
手続きを、踏まなければ、解らないことがあるのだ。
性は、正に手続きを、踏んで、成長するものである。

性は、生そのものに、密接に結びつくものである。
自分の性を、扱えない者は、自分の生を扱えないとも、言えるのである。

愛するとは、知ると、同義語である。
私を愛せないで、どうして、他者を愛することが、出来るだろうか。

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2008年09月19日

性について 49

ベティー・ドットソンの体験を、そののまま、書き写すことで、十分に効果があると、思うので、少し、拾いつつ、書き写す。

離婚後初めて結んだ関係が、わたしにとって性のターニングポイントとなりました。――

わたしが結婚時代のうしろめたいマスターベーションについて話すと、彼も自分の体験を語ってくれました。十七年間の結婚生活のあいだにじょじょに「色あせていった」セックスのこと。性行為はまったく型どおりのものとなってしまい、性的な抑圧とコミュニケーションのなさもたまらなかったこと。その分バスルームでこっそりマスターベーションをしてオーガズムを得ていたこと。
ドットソン

私の相談者も、一時期、若いと呼べる年齢の、オーガズムの問題が多かった。
結婚、独身共に、最後まで、セックスを持続出来ない問題、つまり、中折れと、彼女との、セックスで、満たされなく、一人マスターベーションにのみ、快感を得るというもの。

若者、三十前後の、中折れの問題は、深刻だった。
途中で、セックスが不可能になるのである。

上記、十七年間の、夫婦生活を、続けている者は、大半が、すでに、セックスなどしていないか、おざなり、パターン化、男だけが、満足して、妻は、体を提供する、単なる、性処理の道具と、化すのである。

彼は目先の変わったセックスに焦がれていたましが、浮気はしないと約束していたし、浮気相手を見つけるにはあまりにも理想が高すぎました。残された道はマスターベーションしかありません。楽しく出来ればそれはそれでかまわなかったでしょう。ところが、わたしと同じように彼も欲求不満と罪悪感にさいなまれたのです。やがて自尊心がむしばまれ、自分のことを薄汚い中年男と思うようになったのです。

彼と語り合ううち、セックスに否定的な社会がいかにわたしたちを抑圧しているかわかってきました。自分の体に触れて快感を得るのでさえ、うしろめたく思わずにはいられないなんて。そう考えると怒りに駆られ、わたしは金輪際、性的な罪悪感を抱くのはやめにしようと決めたのです。もううしろめたいなんて思うもんですか。教会や国家のいうことなどおかまいなしに、情熱的にセックスの奥義を探ってみせる。セックスや快感について学ぶなら、心の広い恋人をもつのがいちばんです。

ブレイクとわたしはじきに伝統的な性的役割を乗り越えました。どちらも健全な好奇心に駆られ、上になったり下になったり、交互にオーラルセックスやエロチックな「手淫」をするなどして、受け身や攻めの実験に励んだのです。

ここで、彼女は、教会と、国家のいうことなどと、言う。
いかに、教会と、国家意識が強いことかが、解る。
日本人は、宗教や、国家意識を、セックスと、結びつけることは、数少ないクリスチャン以外にいないだろうと、思える。

セックスは、宗教と、国家とは、別物であると、考える。

一神教の世界は、個人の生活の中に、確実に、侵入している。勿論、夫婦のベッドの中にも、侵入しているのである。

彼女は、ブレイクと、伝統的な、性的役割を乗り越えたと、書いている。
つまり、男は、女を道具とし、更に挿入して、セックスが成り立つという、考え方である。

性関係の上でも、同等の関係を築くというもの。
これは、多分に、彼女の、女性解放、つまり、ウーマンリブ運動、フェミニストとしての、活動参加に刺激を受けている。
全米女性機構というものに、参加していた。しかし、そこでも、セックスに関しての、意識は、低いものだった。

アメリカでは、60年代、セックスパーティーがたけなわになる。そこでは、女同士が、セックス遊びをする機会もあった。彼女は、そこで、女とも、楽しめることを、覚えて、バイセクシャルと、称するようになる。

更に、70年代、ヘテロセクシャル・フェミニストと、レズビアン・フェミニストとの、内ゲバが、起こる。

自称バイセクシャル・フェミニストのわたしとしては、どちらとも決めかねました。純粋なレズビアンになって男性に対するエロチックな感情を抑えるのはいやだったし、かといって、純粋なヘテロセクシャルになって女性に対するエロチックな感情を抑えるのもいやでした。

ここに、欧米人と、日本人との、大きな差があることが、解る。
セックス、性的な関係における、捉え方が、全く違うのである。

日本人は、秘め事として、深める。
例えば、バイセクシャルであっても、その行為は、極めて個人的な、行為にあるのだが、彼女のように、公言して憚らないように、自己主張しなければならない、社会である。

抑圧が、強い分だけ、自己主張も、強くなる。

しかし、いずれにせよ、差別意識は、ある。

男と、女の性的関係を、ヘテロセクシャルと呼び、同性愛を、ホモセクシャル、更に、バイセクシャルと、区別を置くのである。
ただし、いずれは、その垣根も、取り払われる時期、時代がくる。

その魁は、試験管ベービィーである。
妊娠に関しての、意識が大きく変化すれば、もはや、セクシャリティに関しての、差別意識も、薄まる。ただし、宗教が、それをどのように、位置づけるかは、不明である。

彼女は、年下のセックスフレンドとの、関係で、強制的な一夫一婦制、理想化されたロマンチックな恋愛、依存したセックスを、女性の禍の元と、認識する。

その、ローラとの関係から、抜粋する。

わたしたちはだんだとおたがいに楽しめるようなテクニックを身につけました。カトリックの家庭で育ったせいで、ローラのセックスはみじめなものでした。わたしとつきあうようになってはじめてマスターベーションでオーガズムに達する方法を学んだのです。初めはオーラルセックスをしてみましたが、ふたりとも不安になってしましいました。わたしがやってあげているとき、ローラはつぎは自分の番だとプレッシャーを覚えるし、わたしはローラにやってもらっているとき、こんなに時間をとらせていいのかと心配になるし。そこでおたがいにオーガズムを与えてあげるのはあきらめ、かわりにマスターベーションをすることにしたのです。

そして、二人は、充実した性的関係を築くことになる。

ローラとわたしはロマンチックなセックスのイメージを抱くのではなく、エロチックな愛のイメージを描いたのです。いよいよ別れの日がきたときも、愛は憎しみに変わらず、かけがえのない友情をいまもなおつづけています。

その方法は、マッサージとマスターベーションを組み合わせ、交互に相手のオーガズムを高めるというもの。
一人が、バイブレーターを使い、もう一人が、官能的な愛撫をして、ヴァバナやアナルに挿入する。
時には、一つのバイブレーターを同時に使うなど。

下になった者がバイブレーターを感じる位置にあて、上になった者は快感を得るために体を動かさなければなりません。わたしたちはいつもかわるがわるやったものです。

女同士でも、十分に、性的快感を得て、そして、十分に満足した、オーガズムを感じられるという。
つまり、性の解放である。
更に、性とは、何かということを、考える、きっかけになる行為である。


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性について 48

ロミオのペニスがジュリエットのカントに入ったらオーガズム、なんてロマンチックな幻想を抱くのはもうやめにしょう。女性が自分でオーガズムに達することができれば、それで感度は抜群なのです。「不感症」は男性の作った言葉。正常位でたった二、三分のうちにオーガズムなんか得られるもんですか。いい思いをするのは男性だけです。実際、性行為だけでいつもオーガズムに達する女性など、ほとんどいません。(男性が亀頭をいじらずにオーガズムを得ようとするようなもの)。セックスはいつも楽しいものとはかぎらないけれど、オーガズムとはほとんど無縁の女性に、セックスを楽しめるといっても無理な話です。
ドットソン

挿入で、オーガズムに達する時間は、およそ、20分程度である。
しかし、20分という時間は、長い。
初心者、更に、結婚生活が長くなると、男は、さっさと、射精して終わるセックスである。

キンゼイ博士の報告によると、挿入してからの、ピストン運動は、全米平均で、たったの二分半である。
アメリカのポルノ映画などで、延々とピストン運動を繰り返しているのは、理想なのである。

相手の反応など、眼中に無い男が、多くなるし、多いのである。

更に、女が、セックスで、快感とか、楽しみを覚えるのは、そうとうの、熟練が必要である。
成熟しない体での、セックス行為は、全く、論外である。

女の体を、成熟させるほど、男は、時間を使えるだろうか。
それは、宗教の修行にも似る。

女が、自分で、自分の体を、成熟させるには、マスターベーションが、一番の方法であると、いえる。

セックスには「正しい」方法も「最高の」方法もないのだとわかってしまえば、あとはあふれんばかりの愛とオーガズムが待っています。
ドットソン

百人百様の人の、性があり、セックスがあるということ。
それを、知るためにも、マスターベーションは、欠かせない。
勿論、性にも、セックスにも、興味の無い人には、必要なことではない。
稀に、そんな人がいるものである。
それが、不感症として、男に判断される場合が多いが、お門違いである。単に、興味が無いのである。

クリトリスの決定的な役割はもう周知の事実。ヴァギナの内側にあってオーガズムを引き起こすという最近の「Gスポット」理論にもかかわらず、クリトリスはやはり第一のセックス器官です。わたしはこれまでのところまだGスポットなるものが見つかっていません。でも一方では「Gスポット」が大好きな友人もいますから、それはそれで素敵なことでしょう。
ドットソン

女の膣にある、Gスポットは、自分でも、解らないことが多い。
上向きで、膣の上部を撫でてゆくと、ある箇所に、ザラザラとした、部分がある。それが、Gスポットと呼ばれる地帯である。
そこに、ペニスの摩擦が、加えられて、オーガズムに導くのである。

勿論、それは、また、人それぞれの形や、位置がある。
それを、自分で探す女もいる。
また、男もいる。
そこへの、ペニス以外の刺激は、端的に指である。
その部分を、軽く撫でる、軽く叩くのである。

ヴァギナへの挿入はとてもエロチックなこと。わたしたちの性器は外部も内部もすばらしい感覚をかもしだしてくれます。挿入だけでオーガズムを得たい人、性行為の最中に直接クリトリスを刺激してほしい人、オーラルセックスを好む人。そして、わたしのようになにもかもほしい人だっているのです。もちろんマスターベーションも含めて。
ドットソン

性、セックスに貪欲になることを、淫乱と認識するのは、男の理論である。
性、セックスを楽しむ、求めることは、生を、豊かに求めることでもある。

ドットソンは、ボディーセックスの、ワークショップを開始した。
ヨガ、カンフーの運動、食べ物、健康についての話し合い、性器の検討、マスターベーション歴の披露、自分のオーガズムの説明であり、彼女は、更に、マスターべションの実技指導も、行う。

ある晩、マスターべションの実演が終わったあと、いかにも内気そうな女性がいつか本物のクライマックスを見てみたいといいだしました。ローラとわたしはすかさずバイブレーターのスイッチを入れ、オーガズムへとまっしぐら。事が終わると、いっせいに拍手喝采がわき起こったのです。ほかのグループでも好評を博し、こんなことをして大丈夫かしらという不安も、取り越し苦労に終わりました。
ドットソン

実は、オーガズムというものも、人それぞれである。
小さな山が何度もおとずれるタイプと、一度に、ドカンとくるタイプなどである。

延々と、クリトリス刺激を、繰り返して、延々と、オーガズムを楽しむという、タイプもいる。

オーガズムの話になったとき、みんなのイメージはどうもあいまいでした。オーガズムはおもに感情の問題だとか、取るに足らない快感とか、まったくの謎とか、ありもしないロマンチックな期待を抱いていた女性。イッたことがないと思っていたら、じつはオーガズムが小さなだけだった女性。これはポルノ小説の読みすぎです。
ドットソン

ドットソンの結論も、オーガズムは、人によって、随分と違うということだった。

以前、私は、できそこないの男たち、という本を紹介しつつ、男の体を、解説した。
女の体の未分化なもの。
女の、陰部を縫い合わせて、作られた、男性器であると。

ペニスは、クリトリスから、出たものであり、クリトリスの特大型である。
逆にいえば、クリトリスは、ペニスの、亀頭部分である。

クリトリスマッサージこそ、マスターべーションの基本である。

もう少し、ドットソンの試みを見ることにする。


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2008年09月20日

性について 50

女性解放、つまり、フェミニストとして、ベティ・ドットソンは、セルフ・ラブ、つまり、女性のマスターベーションを勧める。

相手が恋人であろとう、バスタブであろうと、ぬいぐるみのクマであろうと、張り型であろうと、指であろうと、舌であろうと、バイブレーターであろうと、オーガズムはオーガズムでありオーガズムでありオーガズムなのです。
ドットソン

そして、自分のマスターベーションを記述するのである。

ある晩、メークアップ用の鏡についている拡大鏡を使い、自分がマスターベーションしている姿をのぞいてみました。まさに絶景で、エロチックな映画をミニチュアスクリーンで見ているような感じではありませんか。そこでいつもと違う方法も試してみました。陰唇が濃い赤に変わり、興奮するにつれクリトリスが大きくなっていくのがわかります。ヴァギナに指を三本入れてマッサージするとますます潤い、愛液が光を浴びてきらきらと輝きます。最後には激しく手を動かし、イク寸前には意識がもうろうとした状態。オーガズムに達したとき、まぶたを閉じて映画の幕は降りました。

それから、彼女は、自分のマスターベーションの高まりゆく、過程を書き付ける。

女性の、マスターベーションの様子を、ここまで、書きつけたものを、私は知らない。
ポルノ小説ではない。あくまでも、実践であり、本当のことなのである。

更に、それを、公開して、女性にオーガズムをと、唱える行為は、女性解放、フェミニズムという、思想に裏付けられたもの。
それでなければ、ここまで、赤裸々に、自分のマスターベーションを語らない。そして、語らないことが、彼女以前の、女性たちだった。

それは、語らないこと。秘密であり、タブーだった。
女が、性の楽しみを、求めるということは、あらゆる意味で、画期的なことであり、すべての、タブーを破る行為でもある。

だが、その後、アメリカでは、セックスカウンセラー及び、セックスセラピストという、職業が、現れるのである。

マルチプル・オーガズム革命と、言われる。
略して、MO革命である。
それも、紹介することにするが、もう少し、ドットソンの、進展を見る。

70年代の終わりまで、わたしはマスターベーションでバイブレーターしか使ったことがありません。その後また、挿入のほうも試してみることにしました。シリコンの張り型にオイルを塗り、ヴァギナの入り口にあてがい、同時にバイブレーターでクリトリスを刺激します。ゆっくりとじらすように挿入しながら、ヴァギナの筋肉を締めたり緩めたり。イキそうになる直前、張り型を中に入れたまま、両足でぎゅっと締めつけます。両手でバイブレーターをつかみ、お尻に力を入れ、オーガズムへと駆けのぼります。

更に、驚くべきは、マスターベーションに、二時間をかけるということだ。

十五分間の小休止のあいだに訪れるさざ波のようなオーガズムも大好きでした。それでまた元気になるし、緊張感をやわらげてくれます。二時間にわたる儀式のしめくくりは大波のようなオーガズム。エロチックな想像にふけりながら、体のありとあらゆる部分を使って波に乗るのです。これぞ快楽主義の極地。大きな波がくるたびに、私は笑い、泣き、うめきました。三回か四回これがつづいたあとは、もうオーガズムを越え、エクスタシーの境地に入っていきます。そして10分後、ようやく夢の世界から現実の世界へと戻ってきます。

そして、彼女は、いつに、マスターベーションによる、瞑想法を獲得するという。

確かに、体力的にも、非常に興味深いものがある。
民族的な、体力なのかと、考える。
ここまで、徹底したマスターベーションの、行為には、脱帽する。

ただし、彼女は、単なる淫乱ではないということである。
淫乱と、彼女のオーガズム追及は、根本的に違う。
それは、彼女には、思想があるからである。

「よい子」になりたいと思うがゆえに、性欲は文字どおり見殺しにされがちです。抑圧が高じれば、性器で受ける感覚は脳へ伝わらなくなります。有名な心理学者、ウィルヘルム・ライヒは自著「オーガズムの機能」のなかでつぎのように述べています。「オーガズムとは、なんの抑圧もなしに性的エネルギーの流れに身をまかせること、つまり、無意識のうちに全身を快感に襲わせ、完全な性的興奮状態に陥ること」いいえて妙ですが、長いことわたしにはあてはまりませんでした。ご多分にもれず、わたしも完全なオーガズムに達することができなかったからです。

彼女は言う。

30代半ばまで、わたしは始終二日酔い、慢性的な筋肉痛、運動不足、栄養不良に悩まされていました。どれもエロチックな感覚の妨げとなるものばかりです。精神的にも罪悪感、恐れ、怒り、自己憐ぴんなどに駆られ、エロチックな思考どころではありません。心身ともにこのありまさでは、性的エネルギーの流れは食い止められてしまいます。オーガズムはしゃっくりみたいに小さなものしか得られませんでした。

彼女も、長年、性的抑圧に悩み続けたのである。
世の中全体の、性的なものに対する、抑圧は、自然、子供の頃から、覆いかぶさるのである。

彼女の言う、開放とは、無意識の解放でもある。
ライヒの言う、何の抑圧もなく、性的エネルギーに身を任せること。
それを、実行するには、今までの、観念を捨てつくすことなのである。

ただ、ここで、無意識の解放というのは、実に、難しく、人によっては、恐ろしいことである。
無意識とは、普段、表に出ないものであり、それは、夢などで、解消されるものである。それが、性によって、解放されたとすると、社会的にも、混乱が生じることもある。つまり、無意識の解放は、支配からの解放である。

教義や、社会システム、国家からの、解放も意味する。

これは、精神、心の解放であり、そのまま、主張になる。
性感の解放から、社会運動へと、発展することもある。

ゲイ運動を恐れるのは、何も、ノーマル、ヘテロセクシャリティの人ではない。
宗教や、国家であり、支配者、為政者たちである。
更に、差別主義者である。

たった一人の女の、オーガズムが、世の中を動かすこともある。
社会学の立場から、この、マスターベーションというものを、見つめてみたいという、欲求に駆られるのである。

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2008年09月21日

性について 51

子供時代と結婚時代のマスターベーションは、とにもかくにも「見つからないこと」。わたしは物音を立てずにさっさとイケるよう、自分を訓練しました。恋人や夫と一緒のときは、荒い息づかいを避け、ほとんど体を動かさず、けっして汗をかかず。「女らしいオーガズム」のために、いつも自分を抑えたのです。セックスをきまり悪く思っていたから。
ドットソン

こういう、女性は、多い。
私も、多く聞いた。
恋人とのセックスの後、恋人が、寝息を立てると、自らマスターベーションで、イクというのである。
つまり、セックスでは、得れらないのだ。
また、それを、相手が知らないともいえる。
女の演技に、男は、騙される。

さて、ドットソンのボディーセックス・ワークショップに参加した、女性達の報告である。

48歳にして初めてオーガズムに達したという、女性は、
ある晩、新しいバイブレーターをクリトリスにあてること二時間、ベッドから放り出されそうなほど激しいオーガズムにいたったのです。バイブレーションこそ彼女の体が求めていた刺激でした。彼女の夫も二時間がんばれるほどスタミナはありません。ふたりは新しいセックスライフに胸はずむ思い。性行為は前戯となり、夫がイッたあと、キスしたり抱き合ったしながら、彼女はバイブレーターでイク。かくしてふたりは性の蜜月にひたりました。

次は、結婚して、10年、子供は一人、オーガズムはゼロの女性、
絶望的な気分だというのです。最後の望みをバイブレーターに託し、夜な夜な性器にあてがいました。今度こそ絶対に快感を体験してやるんだとばかりに。最初のうちはひりひりし、快感どころか苦痛でしかありません。彼女はいらだちました。けれど、少なくとも苦痛があるということは「あそこ」にも感覚が宿っているということ。あきらめるわけにはいきません。さらに練習を重ね、バイブレーターをそっとあてるようにすると、少しずつ快感が得られるようになりました。

レズビアンの友人は30代半ばで初めてバイブレーターによってオーガズムを得ました。それから一年と経ないうちに、恋人とのオーラルセックスでもオーガズムが得られるようになりました。五年後、手によるマスターベーションを覚えたときはそれこそ大はしゃぎ。もう機械や相手に頼らなくてもいいとわかったのだから。彼女はもう自分でオーガズムをつくりだすことができるのです。

32歳になる女性は、
10年間、バイブレーターでしかオーガズムが得られませんでした。やっと結婚相手にめぐり合ったとき、セックスの際にもオーガズムを得たいと思うようになりました。まずはマスターベーションのパターンを変え、バイブレーターとクリトリスのあいだに手をいれてみることにしました。じょじょに軽い刺激にも反応できるようになりました。半年後、自分の手でイクことを覚え、ついには夫の手でクリトリスを刺激してもらいながら、セックスの最中に難なくオーガズムが得られるようになりました。

さて、そのうちに、ドットソンは、あることに、気づく。
セクシャルというものについて、その区別的差別に、気づくのである。

股のあいだの性的なレッテルにこだわるなんてばかげています。

更に、彼女の意識が、解放されたといえる。
要するに、
たんに「セクシャル」といえばいいものを、ヘテロセクシャル、バイセクシャル、ホモセクシャルなどと称するかぎり、わたしたちはいつまでも分断されたまま。自由な幸福を追い求めるためなら、どんな形の性的快楽であろうと、応援しようではありませんか。オーガズムはオーガズムでありオーガズムなのだから。

キリスト教という、世界にあって、この発言は、画期的過ぎるのである。

教会を代表する、ローマカトリックは、快楽、更に、快感というものを、禁止するのである。キリスト教原理主義なども、そうである。
つまり、夫婦のセックスも、生殖のためのものであり、快感や、快楽を感じる行為は、禁止するのである。

ここには、旧約聖書から続く、女性蔑視、いや、女性奴隷化の考え方がある。
女は、子供を生む為の道具なのである。
家畜と同じように、数えていた時期が長いのである。

女には、性の快感を、与えない。しかし、男は、どうしても、射精時の、快感がある。それで、よしとする。
甚だしい、女性奴隷化である。

イスラムでは、女性に、ブルカをかぶせて、男を、その気にさせるな、という。
決められた男だけに、体を晒せである。
ここにも、女性奴隷化がある。

しかし、アラブの性愛は、実に凄まじいものがある。
ドットソンの考え方を、すでに、超えていたのである。
イスラム以前の、アラブの性愛は、多様だった。

イスラム圏の国では、同性愛者を、死刑にするが、実際、アラブの性愛には、同性愛の快楽の華やかな歴史がある。

セックス、及び、その快楽を禁止するのは、ただ、為政者と、宗教指導者の、支配欲なのである。

仏教にも、性に対する、抑圧がある。
釈迦仏陀が、修行者たちに、女の膣に、ペニスを入れてはならないと、言明した。
そして、一般信者にも、性欲の抑制をした。

心と、魂の救いを説くという、詭弁で、体というものを、蔑ろにした罪は、甚だしく重い。
体の救いは、心と、魂の救いでもあるはずだ。
体を、厭うという、考え方は、大きな誤りである。

体と、心は、連動している。
それは、脳科学よっても、解る。
更に、それによって、禁欲、修行の激しいものは、脳内に特別な快楽物質を出すことが、解った。
抑圧によって、得られるという、快感である。
勿論、それが失敗すると、人間喪失、人格破綻に陥る。

性的快楽も、修行という、我慢の行でも、快楽物質が、脳内に出る。

性的快感でも、悟りの境地に達することが出来ると、言える。
そこで、ドットソンは、セックス、オーガズム瞑想というものに、気づくのである。

勿論、悟りとは、何かと、問われれば、解らないと、私は言う。

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2008年09月22日

性について 52

女性解放に傾倒しだしたころ、わたしはロマンチックな恋人そのものでした。つまり「すべての女性」を理想化していたのです。フェミニストは選ばれし者であり、世界を窮地から救いだしてくれると信じ込んでいました。新しいエロチックなイメージが開けるまで、わたしたちは軍隊みたいに「前線」「敵」「性差別の戦争に打ち勝つ」などと口走っていました。楽しみなんかどこにもありゃしない!

やがてフェミニストが完璧ではないことに気づきました。そして人生が公平でないことにも。性革命はぱっと花咲き、ぱっと散ってしまいました。連綿として尽きないのはひとりひとりの進化だけ。
ドットソン

フェミニストが、完璧ではないと、気づいた。
当たり前のことだが、彼女は、行動することによって、それに気づいた。

頭で、捏ね繰り回した思想ではないということだ。

女性解放とは、何かという問題に、云々すると、性についてという話が、とてつもなく、広く大きくなるので、省略する。
ただ、一時期、日本にても、女性解放と、叫ぶ女性達がいた。

それは、一見、奇妙な感覚を、人々に与えたと、思われる。
そんなことは、当たり前のことだからだ。しかし、彼女達は、男女平等を、掲げて、何事か、言うのである。

区別を、差別に、置き換えてしまった感がある。
確かに、至るところに、女性蔑視の要素があった。
男達の、優位性が、男達を、男たらしめていた要素もある。しかし、今や、男の優位性などという者は、いない。
能力のある者は、男も女も無い。

そういう意味では、男女平等になったと、思われる。
ただし、男と、女の性差というものを、無視は、出来ない。

今では、公務員や、大企業などでは、男も育児休暇を取ることが、出来るまでになった。それも、女性解放の一つの、手柄であろう。

さらに、らしさ、の問題も、セクシャルの混雑化、つまり、ジェンダーの理解により、無くなりつつある。勿論、まだまだ、それは、解放されてはいない。

女らしい少年が、いじめに遭い、登校拒否になり、通信教育にて、学んでいるという現実を私は、見た。
どうしたらいいのか。
公的機関が、ジェンダーの相談を行うようになった。

このように、らしさ、の、問題も、進化している。

女の子でも、男らしいのである。
生まれ持っての、性ではない、性差というものもある。

そして、性同一性障害という、認定である。
更に、手術によって、それを、解決するという、方法も出た。

これらは、すべて進化である。

ドットソンは、女性解放の、フェミニスト運動ではなく、個々人の、感性の解放に気づいたのである。

自分の人生をエロチックなものにすれば、ほかの人の励ましになります。ポルノに反対するかわりに、性表現、新しいエロチックなイメージに賛成する女性になりましょう。セックスや喜びを進んで芸術の域に高めましょう。新しい個人の解放を模索しながら、ラディカルフェミニズムをエロチックフェミニズムへと転換させようではありませんか。
ドットソン

セックス、オナニズムを、世間に公表して、それを、堂々と問うという、姿勢は、アメリカ人ならではのことなのか。
日本では、このうような女性は、世の中に出にくいし、また、出たとしても、無視される要素が強い。

お茶の間のテレビに、そのような女性が、出ることは、躊躇われるだろう。

性教育ということに関しても、意見が分かれて、侃々諤々なのである。
露骨過ぎる、性教育の問題もあった。
性というものを、子供達に、どのように、教えるのかは、まだまだ、未開である。

だが、子供達は、いや、田舎の子供達は、知っている。
自然の中にある、性の有様である。
昆虫達の、交尾の様子に、それを見たり、花と蝶の関係から、それを知る機会を得る。

トンボや蝶、雀や犬の交尾から、私は、それを知った。

更に、犬を飼っていたことにより、犬の交尾から、犬の子供たちが、生まれる等々。
誰に教えられずとも、それを、知ることになった。

改めて、セックスなどという、お勉強は、必要ではなかった。

更に、昔は、私の子供の頃は、年長の子供が、それを、教えた。
友人で、マスターベーションを、兄から教えられた子も、沢山いたのである。
兄でなくても、従兄弟たちから。
人の関わりが、非常に密だったこともある。

さて、ドットソンは、極めて個人的に、マスターベーションによる、瞑想法に気づいてゆく。
世の中に、広げるのではなく、自分に深く入り込んでゆくのである。
勿論、彼女は、それをも、公開した。

我が身を、晒して、科学的に、それを、実証するという、試み。
科学的に、実証されることほど、説得力のあるものはない。
今や、科学が、すべての先端を行く。
ただし、それがまた、間違いの元でもあるのだが、いずれ、別の機会に書く。

彼女の活動に、多くの人が、共感、感謝した。
一人の、手紙を、紹介する。

ベティーへ
あなたは精神衛生のセラピーに多大なる貢献をしてくれました。去年の夏、わたしはメキシコから来た中年夫婦の治療にあたりました。夫のほうは重い病気を患ったせいで性欲が減退し、いわばインポテンツの状態でした。妻のほうはまだ精力旺盛なのに、外で楽しみを得ることはできない。ふたりとも信仰心が厚く、おたがいに愛し合っていたから。しかも、どちらも性欲を捨て去るつもりはない。わたしは一緒にマスターベーションをする方法を紹介し、バイブレーターの使い方を教えました。わたしにとっては胸のすくような経験でした。ふたりの人間が絶望の淵から這い出て、また笑ったり遊んだりするようになるとは。「カント肯定論者」は男女の関係に福音をもたらします。よくぞ社会のためになることをしてくれました、どうもありがとう。


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