2008年09月02日

性について 32

受精卵がその発生プログラムを開始するとすべてのことは粛々と進行する。あるタイミングで特別なスイッチがオンになり、次の瞬間にはオフになる。そのかわり前の段階のスイッチオンに反応して、次のスイッチがオンになる。このカスケードは連鎖しながら各細胞に微小な変化をもたらす。スイッチがオンになる、とは特定の遺伝子が活性化されて細胞内に新しいタンパク質が出現する、ということである。スイッチがオフになる、とはそのタンパク質が分解されて細胞内から消えるということである。
福岡伸一

さて、受精後、約七週間を経ると、ある特別なタンパク質が作られる。
それは、細胞核の内部に入り込み、その中を拡散しつつ、自分の居場所を探す。

ここまでは、基本仕様である。

ここからが、初めて、行く先が分かれるという、岐路である。

染色体がXXならば、その岐路は、何の問題もなく、続行される。
だが、染色体XYならば、特別な状況が起こる。

その、特別な状況は、非常に険しい道のりである。
Y染色体の定めである。

SRY遺伝子が、活性化されると、SRY遺伝子のメッセージを伝えるべく、RNAが数多く転写される。
そして、その情報が翻訳されて、SRYタンパク質が作られる。

SRYタンパク質は、DNA結合能を持つ、特殊なタンパク質である。
それは、細胞核の内部に入り込み、拡散しつつ、結合すべき場所を探す。
その場所とは、ゲノムDNA上の、特別な配合である。

SRYタンパク質が、その配合に結合すると、配列の直後に位置する、遺伝子から、RNAの転写が開始される。
それが、更に翻訳されて、タンパク質が、作られる。

SRYタンパク質によって、スイッチが入る遺伝子は、複数あるといわれる。

つまり、情報が、増幅されるのである。
だが、科学では、未だ、SRYの指令を受ける、遺伝子は、解明されていない。
しかし、それが、行われる過程は、明らかにされつつある。

それを、ミュラー管抑制因子と呼ぶ、タンパク質の一種である。
それは、ミュラー管のみに、働くものである。

それは、生殖器を形成している、組織の中にある、細胞に、そのタンパク質を作らせるという、働きを持つ。

ミュラー管は、基本仕様に従えば、何事もなく、プログラムに添って、進行されるが、ミュラー管抑制因子を受け取った、ミュラー管の細胞群は、徐々に小さくなり、やがて消滅する。

こうして、基本仕様の、卵管、子宮、膣になるべき、細胞群を失った、女として、男が、誕生するのである。

そこからが、大変な活動なのである。

つまり、女を壊してしまったのであるから、それを、作り変えることになる。

膣が、開口する必要がなくなった、割れ目を閉じる作業が、はじまる。
肛門に近い側から、細胞と細胞の、接着を行う。
縫い合わせるわけである。

更に、男性ホルモンの生産と、放出である。

更に、ミュラー管抑制因子を作り出した細胞の近くに、別の細胞の一群がある。
この細胞は、SRYの指令を、受けて、テストステロンという、男性ホルモンを、作り出すのである。
それが、付近の細胞に、放出される。

胎児の、生殖器には、ミュラー管とともに、ウォルフ管が、平行してある。

ミュラー管も、ウォルフ管も、発見した人の名をつけたもの。

ウォルフ管は、テストステロンに、晒されると、分化、成長を始めて、精巣上体、輸精管、
精嚢など、精子の輸送を行う管を作る。

ウォルフ管の、奥には、原始生殖細胞が位置する。
この時点で、ミュラー管は、すでに、消滅している。
ミュラー管抑制因子に、晒されると、消えるからである。

基本仕様の場合であれば、卵細胞になるはずだったものが、テストステロンを、浴びることによって、原始生殖細胞は、精子細胞を作る、精巣になるのである。

原始生殖細胞は、左右に分かれた卵管の奥にあるはずだったが、精巣に変わると、徐々に下降をはじめる。

下降した精巣は、割れ目を閉じて、合わせた場所まで、下がる。
その部分は、女性器の、大陰唇を縫い合わせたものである。
こうして、陰嚢が、出来る。

ウォルフ管の、反対側は、外へ通じる出口であるが、精巣で作られた精子を、ウォルフ管が作り出した通路、つまり、精巣上体に入り、輸精管を経て、精子の貯留槽である、精嚢に入る。

射精時に、精嚢は、0,8秒間隔で、強く収縮し、精子を射精管を通して、放出させる。

だが、この時点では、ペニスが、出来ていない。

ここで、解ることは、男は、女の体から、発祥しているということである。
更に、ペニスの作られ方を、みると、男は、女より、不完全であるということが、解る。

次に書くが、尿道は、尿だけではなく、精子も、運ぶ管であるということ。

女の尿道は、尿だけのもの。
男は、それを、兼ねているのである。

人間の、生命基本仕様が、女であること。
要するに、生物学的に、男は、女の、まがい物であるということである。

女に、なれなかった、女、それを、男という。いや、オスといっておく。女になれなかった、メス、それを、オスと、呼ぶ。


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性について 31

精子には、二通りある。
外形は、差がない。

それには、色がついていた。
第一染色体から第22染色体の、22本の染色体と、小さな23番目の染色体に、Y染色体を持つ精子は、青い色である。

第一染色体から第22染色体の22本の染色体と、小さくない、第23染色体を持つ精子が、赤い精子である。

]染色体は、Y染色体の、五倍の大きさである。

男の、源は、実に頼りない、遺伝子レベルで見ると、小さな存在である。
しかし、である。
そこには、何と、一ページにして、約1000字、それが、数万以上のページからなる、情報が、詰め込まれてるという。

Y染色体から男性化の最初の命令が発せられなければ、生命は仮にXYの遺伝子型を持っていても、デフォルトとして女性となる。これが、XY female(男性型女性)だ。これも両性具有の一形式である。
福岡伸一

デフォルト=本来のプログラム。本来のプログラムとは女性を指す。
福岡伸一 できそこないの男たち

私は、これを、書きたいがために、染色体の話を書くのである。

人間の本来のプログラムとは、女性なのである。

生物学、分子生物学から、検証すれば、男は、女の、変形であるということ。
つまり、旧約聖書は、完全に誤っているということである。
アダムのわき腹の骨の、一本から、女を創ったという、神もどきが、嘘八百であること。

男は、女から、生まれ出るものであり、更に、男は、女という、基本形があって、成り立つという、遺伝子学である。

それでは、生命誕生、受精の瞬間から、眺めてみる。

受精卵の、プログラムは、一瞬も止まることなく、不可逆的な進行を開始する。
その時、卵子に飛び込んだ精子が、赤いものか、青いものかは、解らない。
この時点では、染色体が、XXなのか、XYなのか、判別できないということである。

受精卵のプログラムは、生命の基本仕様によって、進められる。

受精卵は、分裂を繰り返し、瞬く間に、膨大な数に、膨れ上がる。
球状の細胞塊となる。

塊は、ボールのようであり、中空の、がらんどうの構造である。

ボールの皮にあたる部分は、細胞で、埋め尽くされる。
やがて、ボールの皮の一部が、内側にめり込むように、侵入する。
この、侵入路に、原腸と、名をつけた。

つまり、それは、身体を貫く、腸になるのである。

人間は、管であると、言う。
口から、肛門までの、管を持つ者が、人間である。

さて、U字にめり込んだ皮は、向こう側の皮に達すると、皮と皮が、融合して、そこに、口が開く。その瞬間、侵入路は、開通して、最初に侵入が始まった部位が、肛門となる。

この、管に、皺が出来たり、くびれたり、突起が出来、前後左右が、区別される。

受精後、六週間で、生き物は、一センチになる。

不釣合いな、大きな頭、目や耳などの、くぼみ、突起ができる。
背中の曲線は、短い尾まで続く。
しかし、一週間もすると、急速に、ヒトらしくなる。

頭が丸くなり、首が出来る。体調は、二センチちかくなる。

さて、そこである。
この時に、股を見ると、そこには、染色体が、いかなる形でも、同じものが見える。

割れ目である。

すべての、胎児は、染色体の型に、関係なく、受精後、約七週目までは、同じ道を、辿るのである。

生命の、基本仕様は、女である。

基本仕様のプログラムのままに、進行すれば、割れ目は、女の生殖器になるのである。

その、割れ目から、ミュラー管という、細い陥入路が、奥に伸びて、膣になり、奥に行くに従い、広がり、子宮、卵管を作る。

卵管の一番奥には、原始生殖細胞が現れて、それが、卵子を作るのである。
卵巣である。

更に、割れ目の中央に出来た、膣口の上に、腎臓に伸びる尿道が開通する。
そして、上方の舳先には、とがった、陰核が作られる。

これが、生命発生の、基本仕様である。

それでは、男の場合は、どうなのであろうか。

それが、女の変形になるのである。

割れ目を閉じ合わせることから始まる。
その跡が、見える。
睾丸を包む、陰嚢の、袋の真ん中に、肛門からかけての、一筋の縫い目がある。
それは、何と、ペニスの付け根にいたり、ペニスの裏側、亀頭まで至る。

蟻の門渡り、といわれる、部分である。

この筋こそ、生命の基本仕様に、介入して、カスタマイズされたことを、示す痕跡である。割れ目の。
誰が、それを、行ったのか。

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2008年09月03日

性について 33

割れ目を、閉じてしまえば、出口がなくなる。
ペニスは、どうして、作られるのか。

尿路の形成についても、女の構造の、基本仕様なのである。

ミュラー管は、膣、子宮、卵管を作る。
そして、ミュラー管と、平行に走る、ウォルフ管は、男では、精管になるが、女では、無用である。

だが、一つだけ、用途がある。
それが、尿路の形成である。

ウォルフ管の開口部に近い場所に、そこから別の分岐路が奥へと陥入をはじめ、通路を形成する。
これが、尿路、尿道である。

この、通路は、膀胱という、貯水槽を作り、上へ伸びて、後に、腎臓となる細胞になる、地点まで、達する。

膀胱から、腎臓までの、尿路を、輸尿管という。

さて、この女の、ウォルフ管は、尿道との、分岐以降は、使用用途がないゆえ、退縮していく。

男の場合は、精管になる。

尿路は、精管から派生し、出口付近では、尿路は、精子の通り道として、使用される。
尿路が合流した、女のウォルフ管の出口は、割れ目になって、外に通じる。男の場合は、割れ目を、肛門の側から、縫い合わせて、膣口を閉じたゆえに、左右の、大陰唇を閉じ合わせた、陰嚢、玉袋を作ったのである。

そして、男の場合は、ウォルフ管を完全に縫い合わせると、尿も、精子も、出るところが無くなるので、尿と、精子の出る通路が出来る、細い空洞を残しつつ、割れ目を閉じていったのである。

このとき、使用された、組織は、女の小陰唇である。
小陰唇は、柔らかい、海綿状の組織で出来ている。
その、網目の毛細血管に、血液が流れれば、海綿体は、膨張して、大きくなる。
それが、ペニスである。

さて、内部に、細い管を作りつつ、小陰唇を左右に、縫い合わせると、三角形の突起に、突き当たる。

小陰唇を縫い合わせた、棹は、最後に、三角形の突起を拾い上げて、その先に、乗せた。そして、その下に、通路を空けた。テストステロンの作用が、これらの企画に、影響を与えて、細胞の増殖を促進し、造形を太く、長くした。
これが、ペニスである。

三角形は、チンチンの、亀頭である。

これが、女から男へと、カスタマイズされた、明々白日な、証拠である。

すなわち、生命の基本仕様は、女であるということ。
そして、それゆえ、女の方が、完全であるということ。
男は、不完全なものであるという、生物学的検証である。

人類の、進化の過程と、合わせて、考えると良い。

どこの、地域でも、長寿は、女である。
男より、五年から、十年以上長い。つまり、生命力が強いのである。

そして、それは、精力が強いということである。

一人の男が、二人の女を相手に、セックスをすると、とんでもなく、疲れる。
しかし、女は、三人相手にしても、たいしたことはない。

サンピーという、乱交があるが、その常識的関係は、男一人と、女二人である。

経験者からの、話を聞くと、体力だけではなく、精神的にも、気を使い、大変であるという。勿論、個人差があるから、楽しむ男もいる。

一日、別々の時間帯で、三人の女と、セックスは、出来るが、同時にするということは、大変な労力である。

何を言いたいか。
女の方が、強いということである。
セックスも、である。

更に、後で、性差による、脳の働きを見るが、そこでも、女の能力は、男より、現実的で、優っている。

では、男は、すべてにおいて、女より、劣るのかといえば、そうではない。

男は、その弱さゆえに、言葉という、観念を作り上げ、更に、欲望の強い女に、媚を売りつつ、支配者として、立ったという、歴史的事実がある。

ただし、権力者となった、男たちは、実に、男を愛したという、事実がある。
何ゆえか。
女は、信用出来ないからである。

女の操という、考え方は、後々のこと。
男は、女の膣に、飲み込まれてしまうという、恐怖をいつも、持ち続けていた。

女は、魔物だとは、宗教の愛好者がよく言うことである。
女の膣にかかれば、男の気など、いくらでも、抜くことが出来る。それを、智慧のある男は、知った。

知るということで、男は、女と、距離を置いた。

女を恐れるあまりに、少年を愛し続けた、男たちも、大勢いる。
宗教愛好者は、女を恐れて、いつも、少年の、お尻を使用していたのである。

更に、女色、にょしょく、にょじき、と言って、それを、罪と定めたのも、女の膣が、怖いからである。

女の膣の、感触を、ペニスで覚えた男は、そこから、離れられなくなる。
そして、捕らわれ、拘り、自縛する。

強きものは、女。
弱きものは、男。

女の解放か、はじまった、今、女が、男を買う、求める。
私のアドレスには、毎日、百件程の、あなたを、買いますという、案内が来る。
童貞募集というものまである。

セレブな人妻、経営者、その他大勢の、女たちが、男を漁り始めた。
男は、無料でいいですよ。
女の会員が、維持しています。

そこで、男たちは、どうしているか。
セックスは、御免だ。
ごく普通の男は、そのように思う。
少し、知能の低い男が、やって、金をもらえるぜ、と、チンチン立てっぱなしで、励むという。

兎に角、セックスペットがあれば、いいというから、時代である。
ついに、男が、女の、セックスペットにされるという事態である。

更に、である。
決して、女は、セックスペットの男の、子供は産まない。
精子バンクから、優秀な男の精子を買う。

あれ程、励んで、射精しても、それが、結果にならない、セックスを男が、繰り返すと、狂う。

この、進化を、誰が、どのように、導くのか、非常に興味がある。

しまいに、男は、いらない。
女だけで、子供を産むという、時代、世紀が登場する可能性もある。

精子を、複製して、子種をいつも、キープするという、女の作戦である。

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2008年09月04日

性について 34

分子生物学からの、男女の生物学的、成り立ちをみた。

驚かれた方もいると、思う。
男は、女から出来たという、事実である。

勿論、これで、男と女の脳の仕組みについて、書きたいところだが、後日に譲る。

そこで、女のエロス、エロティズムというテーマに、移ってみたい。というのは、生物学的に、女が、主体であれば、その女のエロスに対する、情動がどんなものかを、知りたくなるのである。

ここで、明確にしておきたいことは、男と、女の世界は、それぞれ、固有の世界であるということだ。
エロスに対しての、情動は、あまりにも、乖離していると、私は、考えている。
溝が小さいが、それは、埋めることの出来ない、溝である。

端的に、セックスとは、勃起したペニスが、女の膣に入る、男のペニスを、膣に入れるという行為である。

よって、不能の男、つまり、インポテンツの男は、セックスが出来ないということになる。

勿論、例外はある。
性器結合だけが、セックスではないという、考え方もある。
それは、また別に論じることにする。

男には、不能があるが、不感症ということは、有り得ない。

そして、女には、不感症というものがあるが、性交不能ということは、有り得ないのである。

女の肉体は、いつでも、受け入れることが、出来るが、男は、勃起していなければ、挿入は、出来ない。
女は、どんな場合でも、男によって、肉体を開かれることが、可能である。

男は、勃起さえすれば、眠っている女とでも、死んだ女とでも、セックスは、可能である。
更に、男は、女を強引に、強姦することが、出来るが、女は、男を基本的に強姦することは、出来ないのである。

男が、その気にならなければ、女は、性的満足を得ることが出来ない。
それは、男の欲望が、攻撃的であり、能動的であるということである。逆に、女は、受身でいるしかない。
女が、攻撃的であるということは、男を、その気にさせるという、媚態のみである。

更にである。
セックスは、男の射精によって、終わるという、動かしがたい事実がある。
女が、エクスタシーを、感じなくても、男が、射精をすれば、セックスは、終わる。
更にである。
女が、満足しようが、しまいが、射精されてしまえば、女は、妊娠するという、生物学的、結果が、表れる。

男の性的満足が終わった後から、女の性的歩みが、始まるという、事実を無視出来ない。
女のエロスとは、何か。

男の、ペニスが、面に出ているということは、実に、男と女の関係に、不思議な、陰影を与える。

男は、物心ついた時から、ペニスを見て育つ。しかし、女は、ペニスが無く、膣は、体の中にあるという、決定的な、生物としての、違いがある。
これを、理解しなければ、話は先に進めない。

当たり前ということだが、その当たり前を、理解し、受容するには、時間がかかる。

女の子は、自分にペニスというものが無いということで、劣等感を抱くという、報告がある。

これから、女の性的役割が、受動態であり、女は、男の、能動態、つまり性的欲望の、客体になるという、事実が解る。

フロイトが言う、リビドーという観念は、性的欲望であり、それは、男に対するもので、女の、リビドーという観念は無い。

それでは、女に、欲望は無いとかといえば、そんなことはない。しかし、男の欲望とは、異質であるということだ。

男の欲望の元は、ペニスである。
ペニスの、リズムが、欲望である。

女の、セックスの主体性を、確立しようとすると、必ず、躓く。

女にも、色情狂という者がいると、言われるだろうが、女の色情狂の、裏には、不感症という、病理があるのだ。
奔放な性的行動を取る女は、その時期、不感症であると、言える。

奔放な女が、不感症ではないとすれば、そんな行為を、続けていれば、死ぬ。

男の、エロティズムを知る女は、レズにしか、見出せないはずである。
しかし、これは、特殊な場合であり、別に同性愛を書く時に、論ずることにする。

それでは、女のエロスに対する、本質的な、ものは、何か。

まず明らかなことは、女のエロティズムを支配する本質的な要素の一つが、自己の内部に欲望の芽を育てることではなくて、むしろ相手のうちに欲望を掻き立てることだ、ということである。まず相手の欲望を生ぜしめ、次いで自分もそれを共有する。だから女における欲望とは、一般に、彼女が相手の男の中に目覚めさせる欲望の函数である、と言うことも可能だろう。
澁澤龍彦

つまり、どんな、積極的な女でも、我が身を、客体化させて、はじめて、自身の欲望を達成させることが、出来るというもの。

女のセックスとは、だから欲望するものではなくて、本質的に欲望されるところのものである。
澁澤龍彦

女の、欲求不満は、一つの男の愛情と、その肉体と、ペニスによって、満たされる。しかし、男の場合は、そうではない。肉体の満足だけではなく、精神的、頭脳的な、満足を求めるのである。

それが、男と女の乖離である。

浮気は、男の性的特徴である。
どんなに、愛する女がいても、男は、別の女と、セックスすることが、可能である。
また、その、セックスは、愛する女とは、別のものなのである。
これが、男と女の、埋められない、小さな溝だと、私は言う。

セックス時における、男と、女の違いに、それが、明確にされる。
男は、眼を開いて、女の姿態を見て、興奮し、満足感を高めるが、女は、眼を閉じて、その快感に身を浸すのである。

これは、どうしようもない、溝である。

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2008年09月06日

性について 36

人類史上、男と女の分化はおよそ対立というものの最もきわだった投影の一つであり、男性的・女性的という観念は初期の人類にとって対比対立のそもそもの原型にほかならない。
エーリッヒ・ノイマン 女性の深層


今では、男性的、女性的という象徴的表現を、誰もが受け入れるようになっている。

更に、心理学では、男性的なものを、意識、女性的なものを、無意識と、同一視する場合もあるほどだ。

これも、原初的状況である、男性的意識というものが、母性的無意識から、誕生するという局面から、発生しているという、驚きである。

心理学も、その、男性性というものを、母性から、発するものと、認識するのである。

母なるものとは、そういうことである。
すべては、母から生まれるのであり、父からではない。

旧約聖書の神という、意識が、父なるものということには、実に作為があるといえる。
男性原理により、支配を企むという、作為である。

更に、それから、派生した、キリスト教も、イスラム教も、男性原理としての、神の意識を、言うのである。
決して、母なるものを、重大視しない。

作為を、持って書かれたものは、すべて、男性原理である。
古事記なども、高天原を、治める、天照大神は、イザナギから、生まれでた。つまり、イザナミではなく、父から、生まれでたものである。
実に、作為がある。

だが、生物学でも、心理学でも、結果は、母なるもの、女性から、すべが始まることを、教える。

男の子は、母親に対する、最初の関係で、男性的・女性的という、対立原理を経験し、男性的なものが確立されて、男として、自己自身との同一性に至る。また、至ろうとする。そして、原初の母との、関係を放棄するのである。
しかし、矢張り母から出たものである。

男としての、同一性に至らない場合、男の子は、そのセクシャリティに戸惑う。
少年期の、一時期、男の子は、男でも、女でもない時期を、過ごす。
中性期間とでもいう、時期である。

それが、第二次成長が、著しくなり、男性としての、機能が、発達して、自分が、男であることに、目覚める。気づくのである。
女ではないと。

しかし、その過程で、どうしても、違和感を持つ男の子もいる。
トランスジェンダーといわれる、男の子たちである。
勿論、女の子にも、ある。

トランスジェンダーについては、別に、詳しく書くことにする。

男の、変化は、女のそれとは別に、実に大きな差異が存在する。
少年から、青年、成人、そして、老年に至る、肉体的変化は、精神的な変化が、伴う。
女の、発達の推移とは、明らかに、異なるのである。

性ホルモンによる制約は心的な制約と密接につながっているのである。
エーリッヒ・ノイマン

母親との、原初の関係から、身を引き離して、それに対する、客観的認識に至ることにより、初めて、男性的といわれるものが、自己発見と、自己確立を達成する。
これが、うまくいかない場合は、母権的な近親相姦の段階で、去勢されると、いわれる。

意識の発達における最初の段階というものは、そもそも女性的なものから男性的なものが、母親から息子が、離脱することにほかならない。
エーリッヒ・ノイマン

これにより、男は、深い孤立感というものを、抱くようになる。
孤立感は、自我の目覚めである。
男は、自分が、孤独な存在であることに、気づくのである。

母からの、分離が、男の成長であり、男の孤立感を深め、更に、孤独感に至るのである。
だが、逆に、この孤独感が、男を、生きようとさせる原動力にもなるといえる。

それでは、女は、どうか。

女性においては自己発見は始めから存在している。なぜなら、女性にあっては自己発見と本源的関係とは一致することができるからである。
ノイマン

女は、本源的関係の中に留まり、その中で、自己を発達させ、自己に到達できる。
つまり、生きやすいのである。
自己疎外という感覚も、抱くことがない。

男が、この状態に置かれることは、去勢の危機に晒されるが、女は、それでいいのである。

女性における根本的状態が、自己発見と本源的関係との一致である以上、女性は初めから、自然のままなる全体性と完結性に恵まれているのに対して、男性はこれが欠けているのである。
ノイマン

男の中にも、女性性があり、女の中にも、男性性があると、発見したものは、ユングである。

その、男性性と、女性性というものも、母性というものから、生まれている。
生む力のあるものは、母性なのである。
つまり、母性からは、逃れなれないのが、人間の、セクシャリティであると、いえる。

母性からの分離が、男性であり、母性との、同一性が、女性である。

肉体的にも、心理的にも、完全な男というものは、存在しないと、早々に結論づけておく。

それでは、男性性は、何によって、支えられるのか。
私は、それは、マスターベーションであると、言明する。

マスターベーションにより、男性性は、回復する。
この、エッセイは、性について、である。
性から見た、男性性というものを、掲げるならば、それ以外に無い。
女が、唯一、理解できないものは、射精感覚である。
それが、また、男の唯一の、頼みの綱でもある。

射精感覚を、追及して、男が、築き上げたものとは、何か。
それが、人類史を、創ったとも、いえる。

射精感覚が、無ければ、男は、すでに、この世に、いなかったと、いえるのである。


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2008年09月07日

性について 37

我が指の
天翔ける淵に蟻が一匹
なんとキモチの良いことよ
良いことよ

古代アテネの詩人アマリウスは、手をつかうオナニーを、このように絶賛している。
指先でペニスの、様々な箇所を自由自在に愛撫できることの、喜びを表現する。

へのこ良か
良か泣くべな
左手(ゆんで)のよ
左手の
夜なべ

日本、中国地方の、俗謡である。
手のオナニーの素晴らしさが、歌われている。

キリスト教とセクシャリティは、伝統的に相性が悪かった。他方、脱宗教化を目指した社会の歴史においてもつい最近に至るまで、こと自慰に関しては、やはり道徳的断罪だけが問題だった。保守主義から、共和主義者、カトリック信者から自由思想家に至るまでの、こうした自慰断罪の執念は、十八世紀のティソーのベストセラーによって口火を切られた反自然キャンペーンを経て、十九世紀に最高潮に達した。
オナニズムの歴史 ディデエ・ジャック・デュシェ

明治以降、西洋から、入ってきた、思想は、いやがおうにも、日本人に影響を与え、更に、今までになかった、道徳的という行為にまで、発展した。
それ以前の、道徳とは、儒教による、公的生活の規範だった。
個人の生活の、更に、個人の性的関心ごとには、触れることは、少なかった。
それゆえ、西洋のオナニーから、眺めてみることにする。

西洋人のオナニーの定義を見る。
勿論、文献は、聖書である。

旧約聖書に、登場する、オナンである。

オナンの兄、エルは、子を残さぬままに、死んだ。
婚姻制度によって、ユダの二番目の息子である、オナンが兄嫁のタマルを娶るのである。
創世記第38章

直系の子孫を遺すことが、目的である。

ところで、聖書によれば、オナンは、生まれてくる子供が、自分のものとはならないと、知って、兄嫁と、交わる度に、精液を地に漏らすのである。
それが、エホバの神の怒りに触れた。
そして、死んだ。

未完の中絶性交が、神の怒りに触れたのではなく、掟に従わなかったことが、怒りに触れた。
ちなみに、エホバの神とは、実に、殺しの好きな神である。

そこから、オナニズムという言葉が、現れ、更に、それが、マスターベーションとつながる。しかし、マスターベーションの、言語学的起源についての、定説は無い。

手と汚すという言葉に、由来するといわれるが、男性生殖器と、興奮、刺激という、言葉に由来するというものがある。

16以前のフランスの辞書には、どちらの言葉も、見当たらない。
15680年に、モンテーニュが、マスターベーションは、1787年に、サドが使ったことが、最初だと言われる。
つまり、自慰者である。

更に、この間に、刊行され、ディドロとダランベールの百科事典に、医学病理用語として、マスターベーションとして、長い記述がある。

オナニズムと、マスターベーションという言葉の、混乱が何故起こったのかということは、解明されないままである。

1715年に、オナニアと、題された匿名の本が、ロンドンで出版された。
そこには、セルフ・ポリューションという言葉が使われている。
オナニズムという言葉は、無い。

1758年に、ラテン語で、書かれた、ローザンヌの医師、サミュエル・オーギュスト・ダヴィド・ティソーによって書かれた、マスターベーションに伴う病気についての論考、との題での、論文がある。

それが、1760年に、フランス語で、訳されてから、決定的な、第一歩を踏み出すことになった。
その、題名は、オナニズムーあるいはマスターベーションによって引き起こされる病気についての生理学的論考、である。

その後は、オナニーと、マスターベーションは、混同されて、今に至る。

同じ意味合いで、使用される言葉と、なった。

神学より、先に、医学が、一歩を踏み出した。そして、それに、神学が、追い込むようにして、定義を始めたと、言ってよい。

そうして、恐ろしい時代の幕開けが始まるのである。

教会はつねに、人間の身体に疑いの目を向け、それを価値の低いものと見なし続けてきた。身体が復権され、性欲と性的行為とが認められるようになったのはつい最近のことにすぎない。それがはりか、自慰に伴う罪悪感に、医学的な理由づけが大きな影を落としてきたことも事実である。「肉欲の罪」は、とりわけ、個体と種の保存のための衛生規則に対する違反と結び付けられることになる。医者と神学者は、こうして、救済の問題、医学の証明を媒介にして天から地に戻された救済の問題を前にして、一致協力しあったのである。
ジャック・デュシェ


ちなみに、1995年に、出版された、英語版の日本語訳、セルフ・ラブという、本を手にしている。

副題は、私が私を愛するとき、である。
これは、捨ててしまう可能性があった。しかし、今手元にあり、利用価値が、見出されて、私は、満足している。

著者は、ベティー・ドットソンで、画家、作家、セックス教育家であり、マスターベ-ションや、セックステクニック指導者としても、名高い女性である。
特に、女性の、マスターベーションを推奨している。
マスターベーションが、特に、男性向きだったものを、女性に解放した、貢献は、大きい。

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2008年09月08日

性について 38

1926年の、カトリック神学辞典の中で、十戒の六番目の、戒律に対する違反として、色欲の罪が上げられる。
その中では、男色と獣姦と並び、遺精とオナニズムが大きな位置を占めている。

純潔というものに対する、罪は、細かく分類されて、外的罪と、内的罪とが、区別され、完遂された罪と、未完の罪とに、分けられた。

更に、完遂された罪の中でも、自然に合ったものと、自然に反するものとに、分けられた。
遺精と、オナニズムは、自然に反するものである。
ここでは、遺精は、マスターベーションを意味する。
オナニズムは、婚姻における、生殖の義務から、逸脱とされた。つまり、中絶性交である。

批判を、加えずに、キリスト教の経緯から、その罪の有様を見ると、教団の創成期の頃は、周囲の状況から、キリスト教は、諸々の異端と、対決しなけばならなかった。

そのために、使える哲学的道具をすべて駆使するということになる。
古代教会における禁欲運動の、エンクラティス主義、グノーシス派、マニ教は、人間を、神と、悪とに、引き裂かれた犠牲者と考えた。それを、キリスト教も、採用した。

しかし、そうすれば、この世を拒否し、否定することしかなくなるのである。

初期の、キリスト教の神学者たちは、悪の根源を説明することが、要求された。
そこでは、プラトンの、イデア論が、採用されることになる。
また、古代ストア学派も、参考にされた。

それから、数世紀を経て、人間の体というものに対する、議論がはじまる。

紀元5世紀になると、アウグスティヌスによって、人間の罪は、その体にあり、人間は罪を持つが故に、その性的本能を支配できないものであると、される。

この場合の、悪とは、性のことである。
ここで、性は、悪であるとの、徹底した決定がなされたといえる。

西洋キリスト教の、原罪いという意識は、端的に、性を中心とされた。
実に、聖アウグスティヌスの、悲観的見解に、陥ってしまったのである。

かくして、人間の本性が性的快楽を恥じるものであることは疑いようもない。そうであればこそ、生殖器をそのただ一つの衝動に服従させ、意志の権威から引き離す、この情熱の激しさを見れば、最初に不服従の罪を犯した人間に対する罰がいかなるものであったかは十分に察しがつく。身体の中でもとくに、最初の大罪によって汚された人間の本性がはびこるこの部分に、罰が与えられねばならなかった。
アウグスティヌス

キリスト教の第一世代が、体験した、この性の悲劇は、その後の、キリスト教の、底流を流れるものになる。


単なる、一人の聖職者の、思いつきでの、悪と性と、罪と性と、さらに、罰などが、語られるという、悲劇である。
ちなみに、アウグスティヌスは、聖職者になる前は、さんざんに、彼の言葉で言えば、不道徳な生活に、堕落していたのである。

更に、加えておけば、新約聖書における、パウロの思想が、悪イコール性というものとして、決定されている。

新約聖書の中で、イエスは、肉からきたものは、肉であり、神の霊によって、生まれ変らなければならないと、言う。
勿論、それは、イエスキリストの言葉ではない。
それぞれの、聖書作家の属する、団体の、思想である。

ただし、精子の存在は、その頃は、知らない。

精子の存在が、明確にされたのは、17世紀後半である。
ハム、レーウェンフック、ハルトゼッカーによって、ほぼ同時に、発見されたのである。

更に、卵巣の発見である。

だが、精子と卵子による、受精の発見は、1875年まで、待たなければならなかった。

キリスト教だけではなく、宗教というもの、全般に渡り、人間の行動に関する禁止要綱を、次々に設ける。
そして、その最も重要視にされるのが、性なのである。
何故か。
要するに、良く解らないからだ。
そして、その欲望を抑えてしまえば、簡単に、支配することが、出来るということである。

その、蒙昧に、瀕して、今でも、宗教というのが、在るという、不思議である。

人間存在の、本源的、根本的な意味に寄与する、性というものを、悪とか、罪に、結びつけるという、傲慢は、計り知れないのである。

マスターベーションの、西洋での、幕開けは、何とも、悲劇的であり、そこからまた、更に、悲劇が、起こるという、悲劇である。

自然に反する行為、マスターベーション行為をめぐる騒動は、婚姻における性についての、古典的見解を見る必要がある。

秘蹟、子孫、信頼が、アウグスティヌスが、言う、結婚の目的である。
キリスト教は、精神性の、重要な要素を、強調していた。

生殖に関することは、単に自然に対する侮辱だけではなく、神の創造行為に対する冒涜なのである。

こうして、精液は、崇められ、その体液を、一滴たりとも、無駄にしないことが、最も重要な関心事となるのである。

中世の贖い一覧表には、驚くべきことに、性交体位まで、細かく忠告するという。
女性器への、正しい精液の拡散を害する、恐れがある、体位を罪とするのである。

後背位や、女上位は、大罪。
更に、性交後、女は、小便をするな。
肛門や、口を使用する行為は、思い罪が課せられる。

ところが、まだまだ、手ぬるいと、夫婦の寝室に土足で上がりこむ程の、性行為に対する、干渉を繰り返すのである。

それは、17,8世紀に、最高潮に達する。
またそれは、20世紀の初頭に至っても、続くことになる。

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2008年09月09日

性について 39

11世紀の、グレゴリウス教会改革に先立つ時代にあって、全般的に罰は、厳しいものだったが、淫らな思いや、マスターベーションは、一番軽い罰が適用されていた。

だが、一般の人々に対する、個人的な性的行為に、教会が、果たして、何事か、管理することが、出来たのかということは、不明である。
信者の多くは、教育の無い農民が主である。

キリスト教、この場合は、カトリックが、結婚を解消できないものとして、定着させる。
それは、教会の、七つの秘蹟の一つとされる。
しかし、それに関しても、どの程度の、強制力があったのかは、不明である。

よって、確実なことは、聖職者に関することである。

1050年頃に、教皇に提出された、改革草案の中に、ピエール・ダミアンが残した、情報がある。
自然に反する悪徳が、癌のように、聖職者たちを蝕んできた、というものである。

一つないし、集団で行われるマスターベーション、太股による男色ないし完全な男色、・・・
それが、八人とか十人とかで行われてきたことは周知の事実である。

西洋の、マスターベーションの歴史を俯瞰してみると、マスターベーションというものが、多くの人々に、盛んになりだしたのは、19世紀になってからである。
それ以前は、マスターベーションも、実に曖昧模糊としている。

つまり、マスターベーションというものも、歴史的社会性というものが、影響する。

聖職者たちの他に、一般信徒の、情報もある。
男性のマスターベーション、女性のマスターベーション、手によるマスターベーション、道具を使用したマスターベーション、相互にするマスターベーションなどである。

しかし、聖職者たちの、マスターベーションの方が、確実であったということが、解る。

一般信徒の生活の中に、入り込んで、その性的行為を見つけ出すことは、大変である。

聖職者たちは、修道院という、場所での生活である。
男性は、男のみ、女性は、女のみである。
更に、当時の、修道院は、食べるに困る者なども、入るのであるから、性的行為は、乱れて当然である。

宗教修行の場所は、宗派問わず、そういう行為に、溢れている。
一時的、男色行為などは、当たり前であろう。

ロシア正教などは、三割が、同性愛者であると、断言できるのである。

同性愛を禁止する宗教の、内の中は、それで溢れているのである。

同性間の、タガが、外れると、それは拡大する。

マスターベーションの、歴史において、サミュエル・オーギュスト・ダヴィド・アンドレ・ティソー博士をおいて、他には、いない。

その過激思想は、20世紀の初頭に至るまで、凄まじい影響力を与えた。
聖職者と、医療関係者によって、熱烈に擁護され、支持された。

若い良心を毒し、精神分析の発見に至るまで、その当初は、ウィーン学会まで、口ごもるほどであった。

ティソーの、その思想の有害性には、異論を挟む余地がない。

神に対する罪であった、マスターベーションが、ティソーによって、医学的に有害であり、更に、社会規範ないし、美学に抵触するものとなった。

18世紀に、病気とされた、マスターベーションは、個人と社会双方の死を意味するものとなると、オナニズムの歴史のデュシェは、言う。

1754年に刊行された、ティソーの最初の、種痘の正しさという著作は、天然痘の種痘の有効性を主張するものだった。

貧民にも、尽くし、ローザンヌの神様と呼ばれたほど、もっとも名の知れた医師であった。

彼の、オナニズムは、天然痘と同じように、災禍と、見なされた事実は、絶大である。
その、著作は、オナニアについてーーーマスターベーションによって引き起こされる病気についての論考、である。

この本は、1760年から、1842年まで、30回以上版を重ねた。

1764年に出たフランス語の、序文である。
私がここで記述しようと思ったことは、マスターベーションによって引き起こされる病気についてであり、マスターベーションの罪についてではない。そもそもそれが自殺行為であることが論証されるなら、もうそれだけで罪の証明は十分ではあるまいか。
こうした事柄においては、理性によって納得させることに過大な期待を寄せるべきではなく、むしろ、集めるのが追いつかないほどの実例によって恐怖を与えることのほうがましである。

ティソーは、1715年に出版されたオナニアという匿名のものに、ベッカーズ博士という名を与え、加えて、オナニアは、罪、悪徳、そしてその恐るべき結末に対する強烈な呪詛の書である。それが罪であるのは、この行為が精液の喪失によって生殖を損ない、もって、人間そのものを損ない、ひいては、種の破壊につながるゆえんである、と書く。

そこで、掲げられた、項目である。
すべての知的能力の衰弱
体力の完全な衰退
合併症としての激しい苦痛
顔面の膿庖
その第一原因である生殖器官自体の障害
腸機能に破綻をきたすケース
である。

彼は、何の根拠もない、精液の喪失における、去勢と同じ影響を掲げた。

その一つ一つの事例は、省略するが、何の目的で、それを書いたのか、不思議である。
悪魔憑きとでも、言い得る、その姿勢は、如何ともし難い。

私が、悪魔憑きという理由は、その後、聖職者、医学者だけではなく、思想家たちにまでも、大きな影響を与え、更に、その影響は、第二次世界大戦後になるまで、定説として、続いたことである。

1965年の、アメリカ、ジュンソンによる、言葉が出るまで、続いたのである。

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2008年09月10日

性について 40

1965年、アメリカで、ジョンソンが書いた。

マスターベーションは身体に何ら害を及ぼすものではないし、精神病の原因になるものでもない。それは、後の結婚生活の中での性的な悦びを妨げるものではない。

ここに、はじめて、マスターベーションに関して、光が、射した。
いかに、蒙昧な認識が、まかり通っていたかである。

私は、その歴史を見て、唖然とした、呆然とした。
何ゆえに・・・
これ程まで、マスターベーションを血祭りに上げたのか。
その最初は、勿論、宗教である。
そして、最も、その宗教の中で、マスターベーションが、華やかだったかということも、である。

こういう、蒙昧を、糞でも、食らえという。

社会全体がこぞってマスターベーションの追及に血道を上げる、そこにある種の自己満足が伴っていた。描写する自己満足、そして、鞭打つという自己満足が。その執拗さの中に、改悛した大人たちの側からの声が、自分たち自身の古傷がより強く痛みをもって感じられるほどに、その言葉と方法がよりいっそう斬新なものになってゆくおとなたちの声が聞き取れはしないだろうか?
ジャック・デュシェ

更に、続けると

十九世紀の思想に染み付いた個人と社会の堕落という観念が目に見える形になったもの、それがマスターベーション行為の咎で、有罪とされた人間、死を宣告された人間の典型的なプロフィールに他ならないのだ。彼らを慄かせ、自分自身で恐がるために、見たと信じることを微に入り細に入り描写する、それはもはやほとんど除き趣味であり、時代の文化を映し出した幻想によって育まれた覗き趣味である。

それを、推し進めたのが、医学という名の、科学であるから、手が付けられない。

例えば、仏教思想は、すでに、医学、科学の、発見したものを、見ていたのだという、アホ、馬鹿、間抜けたちがいる。
事後預言のように、後で意味をつけて、仏教思想は、すでに・・・云々とやる、アホ。
般若心経を、科学で、論ずるという、アホ。

桃太郎でも、浦島太郎でも、何でも、科学で、解説出来るのである。
どんぐりころころ、どんぐりこ、という、歌でも、である。

話が、大きくずれたので、元に戻る。

さて、マスターベーションが、付帯現象でしかなく、その観察記録という、信憑性も、客観性もない、記録を見ると、今では、全く、原因とは、考えられないもの、例えば、身体的障害、知的障害、道徳的障害、などなと、きりがないのである。

マスターベーションは、素人目にもすぐ見てとれる。顔色は蒼白くくすみ、目は窪み、周りには隈ができ、表情には、羞恥と悲哀と不安が混然となって現れている。
ガルニエ

更に、
衰弱し、生気を失い、身体的にも精神的にも虚弱になった人たちをどれほど見たことだろうか。
と、続くのである。

西洋骨相学のガルの考え方を、取り入れた、モレルという、有名な変質理論の中にも、マスターベーションは、人間性を密かに侵し破壊する災禍の一つに数えられる。ペストにも戦争にも、天然痘にも、いや、同様の病気が一塊になっても、この致命的な悪習のもたらす惨状には太刀打ちできないと、言う。

それらが、聖書による、権威で、基礎づけられるという、仰天である。

ちなみに、旧約聖書の中には、夢精を対象にした、清めの規則について書かれているが、マスターベーションに関する、記述は、無い。

更に、新約聖書の中にも、無い。
カトリックの教義の元となる、パウロの書簡の中にも、不道徳に関することは、書かれていても、マスターベーションについては、明確な、記述は無い。

ただし、欲望に身を任せることの、一つに、マスターベーションを当て嵌めると、それは、不道徳になる。

パウロは、男と男が、淫らなことをするという、行為を罪であると、書くが、マスターベーションについての、言及は無い。

何事も、罪とか、やってはいけないという事は、多くの人が、やっていたということであり、男と男が、淫らなことをするという、風習があったということである。

無知蒙昧の、一端を、ランダムに書いてみると、まず、マスターベーションは、インポテンツの恐れあり。
ひ弱で、虚弱で病弱な子供が出来る。
死が、堕落した自慰者の不可避的な末路となる。
これは、お馬鹿としか、言いようが無い。自慰が、死ぬに結びつくのではなく、誰もが、死ぬ。

十九世紀の、精神医学というものは、知的障害者を、堕落した人間であると、判断した。
そこで、過度のオナニズムが、原因であると、言われた。

ただ、中には、フランスの医師、アルノー・ド・ヴィルヌーヴのように、長く溜まった精液は、毒になるとして、健康のために、マスターベーションを勧めた者もいる。
これは、極めて、稀なケースである。

性的機能の不充足、禁欲が、精神異常の原因となるとも、考えた者もいる。

ただし、多数は、過度のマスターベーションによって、卒中、咳、微熱、過剰発汗、栄養失調、肺結核、あらゆる精神病を経て、死に至るという、考え方であった。

精神異常の他に、更に、細分化された、障害の原因にもされた。

真性てんかん、幻覚、妄語、ヒステリー様痙攣、心臓、肺、生殖器官。
面白いのは、陰茎と、陰嚢の肥大、陰唇と陰核は、長くなる。
自慰者の特徴は、しゃがれ声である等。

1855年に、パリにて行われた、裁判があった。
女性教員が、折檻で、生徒の一人を殺したというものである。

死んだのは、五人のイギリス人少女の、一番年長の少女だった。

内容は、悪い習慣に染まっており、それを矯正するために、折檻したというものである。
悪い週間とは、勿論、マスターベーションである。

日本では、女の子の、マスターベーションの報告より、圧倒的に、男の子の、オナニズムが、多数である。
西洋は、女も、性的快楽を、思う存分に楽しむという、民族性を、感じる。

自慰者の救済のために、互いに協力し合うという、驚きの事実もある。
監視し、躾、治療するというのである。


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2008年09月11日

性について 41

それでは、19世紀の、精神分析を開始した、フロイトを見ることにする。

フロイトは、初めて、子供のセクシャリティを発見した。

幼児の旺盛な、セクシャリティ、多形倒錯的なセクシャリティの、発現があり、五歳くらいから、思春期に至るまでの、潜在期となる。
この間に、子供は、知的、道徳的に著しい成長を遂げて、セクシャリティに関する、すべてのことを、抑圧するという。

その抑圧は、フロイト以前は、性生活、セクシャリティは、生殖能力と混同され、更に、性というものが、思春期から始まるものと、されていた。

勿論、フロイトは、幼児のセクシャリティが、成人と同じような形で、発現するというのではない。

幼児の、性衝動は、多種多様で、発現は、うつろいやすい。
厳密な意味では、エロティックなものとは、いえない。

それを、前提にして、幼児にも、性感帯たる性質を備えているという。
そうした刺激は、まず、口腔領域、次に肛門領域に移り、さらに、身体全体にまで、広がる。

口は、口唇的性器である。
おしゃぶりが、性的能力の、発見への道を拓き、肛門部位を、制御する練習が、マスターベーション的なものと、見なされた。

これら、性的刺激の最初の諸形態は、前性器帯と、呼ばれるものである。
口と、肛門という、消化器の、両極に関わる。

人間は、考える葦ではなく、人間は、考える、管なのである。

口唇期、肛門期、その次が、性器である。
性器が、支配的な役割を、演じる、男根期が、続く。

ここに至り、マスターベーションを、免れることが、出来なくなる。

1905年に、刊行された、セクシャリティの理論に関する三つのエッセー、とともに、マスターベーション、1910年のウィーン精神分析学会での十四の議論と、題された、論文は、マスターベーションを、精神分析学から、捉えようとした、新しい試みである。

三つのエッセーで、子供のセクシャリティを、擁護し、マスターベーションが、重要な位置を占め、自己性愛的快楽の、特権的な表現であると見なしている。

子供の、オナニズムは、子供に普遍的に見られる、性活動の一つに他ならないということである。

この、基本概念を維持しつつ、思春期のマスターベーションと、それに、伴う空想の問題にまで、広げてゆく。

フロイトによれば、男根期は、同時に、エディプス・コンプレックスの時期でもある。
そこには、去勢不安が、隠される。
性器に手を触れる、子供に対してされる、脅迫によって、誘導される不安である。

何らかの、混乱により、この、コンプレックスの解消が、妨げられると、この時期を、越えて、マスターベーションが持続すると、考えた。

フロイトが、提示した、マスターベーションの、三つの段階である。

幼児のマスターベーション
性的充足のための、すべての自己性愛的活動がある。
小児のマスターベーション
四歳くらいからはじまり、すでに明確に、性感帯に固定される。
子供の第二期、四年目くらいに、はじまるマスターベーションを、尿道性愛的なものと、見なしている。
この期間は、フロイトが、後に、男根期として、記述することになる。

尿道性愛と、男根性愛とは、非常に密接に関連しあうのである。
子供の、遺尿は、マスターベーションと、同じものと、解釈される。
フロイトは、夜尿は夢精に対応すると、言う。

さらに、肛門括約筋の収縮に付随した、快感の性化と、マスターベーションの快感とが、大便を漏らす子供と、肛門粘膜の快感とが、関連づけられてゆく。

思春期のマスターベーション
子供のオナニズムと、関連するが、潜在期によって、隔てられ、性の発展段階は、潜在期によって、二つに、分けられる。
男根期と、思春期に、確立される、本来の意味での性器体制の二つである。

思春期には、それまでの、部分的性感帯の優位の下に、服従して、部分衝動は、最終的快感の達成のために、協力するとなる。
思春期の、マスターベーションは、小児期の、マスターベーションの、延長にあると、いう。

更に、フロイトは、マスターベーションに伴う、空想に、とりわけ重要性を、認めた。
神経症患者の多くが、その障害の原因を、思春期のマスターベーションに、起因する傾向があることに、注目したのである。

この、空想に、大きな問題がある。
その、有害性も、その空想にあるとしたのである。
マスターベーションという行為、以前に、その空想に、注目したといえる。

それは、他の方法では、不可能な、エディプス願望の、現われである、近親相姦的空想を想像して、満足せしめる行為であり、それは、後に、性的不能症の原因となるなど、すべての、想像の産物をして、強烈な罪悪感の、源流になるというものである。

今では、フロイト流も、一つの見方として、冷静に判断できる。
この、空想力が、芸術にまで、高まるということを、知らない。
すべて、病理として、扱ったのである。

日本の、精神分析も、欧米から、見習ったものであるが、そのまま、使用することに、無理があった。
一時期、それだけに、絞って、判断しようとしたが、破綻した。
それは、たった一つの方法だったのである。

例えば、フロイト流に、言えば、口唇期が、一生続く人もいる。また、男根期が、肛門期が、一生続く人もいる。

飛躍するが、ウォシュレットという、トイレの機能が、ついて、肛門感覚が、退化してしまったということに、気づく人は、少ない。

あれは、非常に、機能として、賛美されるものだが、使用を始めると、肛門が、鈍化して、肛門に、最初に水をあてないと、便意が、起こらないという人が出てくる。

五十代からの年齢の人は、特にそうである。
更に、一見、清潔に思えるが、全く逆である。

肛門には、それなりの、菌があるゆえに、菌から守られるという。それを、綺麗にするのであるから、非常に、他の菌に、弱くなる。

更に、直腸の動きを、鈍化させるので、直腸癌にも、かかりやすくなるのである。

便をするわけではないが、肛門に、水をあてて、ストレスを解消する人もいる。つまり、肛門性愛の変形である。

慣れると、肛門の中に、水が入るようになり、一種の肛門性交のような、具合になり、その、快感が、たまらなくなる。
要するに、アナルセックスの、変形である。

入れる快感と、排泄する快感を、味わうことが出来るのである。

東南アジアの国々で、便の後で、左手で、尻を拭くというのとは、根本的に違うのである。

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