2010年10月06日

天皇陛下について 62

人類はじまって以来の、大戦・・・
それは、太平洋戦争ではない。

第二次世界大戦であり、大東亜戦争である。

今年、開戦から、70年、敗戦から、66年。いよいよ、戦争に関する、様々な、資料や、考え方が、出てきた。
再度、何故、戦争に突入したのかを、考えてみることにする。

筆の向くまま、気の向くまま、である。
ただ今、色々なものを、読んでいるので、後に、それらを、評価、批判する。

さて、昭和24年4月11日、マッカーサー元帥、罷免の臨時ニュースである。

権威に従順な日本人は、この旧敵国の総司令官に、いつしか尊敬と畏怖とを感じていた。
河原敏明

昭和天皇は、しばし、呆然とする。
そして、三谷侍従長により、詳細を報告される。
改めて、驚きを露にしたという。

六年前の、昭和20年、天皇の命運は、元帥の胸先三寸に、委ねられていた。
その元帥が、大統領電報で、罷免させられたのである。

25年6月に、勃発した、朝鮮動乱で、北朝鮮を後押しする、中国に対して、満州の爆撃と国府軍、台湾軍の、投入を強く主張して、ことごとく、トールマン大統領に反対した。
結果は、罷免である。

トールマンは、ソ連の介入により、第三次大戦に、発展することを、危惧したというが・・・

だが、それにより、マッカーサーは、日本の戦争の意義を、理解し、更に、納得したのである。

日本が、行った行為は、防衛上、必要不可欠だったということだ。

プライドの高い、マッカーサーは、皇居には、一度も、天皇を訪ねなかった。そして、その帰国に際しても、天皇がご訪問されて、その労を労ったのである。

老兵は死なず、ただ消えてゆくのみ
マッカーサーの、最後の言葉である。

日本国民への、メッセージは、なかった。
だが、マッカーサーが、米国議会での、帰国報告で、
日本人の精神年齢は12歳である、と、放言したのである。

熱烈だった、日本人の元帥敬慕も、一瞬にして、醒めたのである。

傲慢不遜・・・
という、イメージが、広がった。

実は、この言葉は、それ以後、欧米人によって、繰り返し語られたのである。

私も、ドイツ人司祭たちから、何度も、それを、聞かされた。
日本人の精神年齢は、少年だ・・・

それが、一体、どんな意味なのかを、理解することが、出来なかった。

つまり、欧米人とは、違うということが、第一なのであろう。
野蛮で、傲慢ではなく、曖昧、たゆたふ心を、持ち、意見を明確にしない。
何となく、場の空気に従う。
自己主張が無い・・・

上げれば、キリが無い。
そこで、精神的に、成長した、欧米化した、日本人は、精神的に、成長したのか・・・

国民意識希薄で、兎に角、日本は、遅れている。日本は、悪い。日本は、駄目だ。日本に希望は、無い・・・
まだまだ、ある。
そして、精神的に成長したのである。
つまり、日本人であることを、否定して、成長した・・・

反吐が、出る。

私は、マッカーサーが、日本に対してしたことの、貢献を挙げることにする。

日本の食糧難を救い、共産革命を抑え、経済を再建し、天皇の存在を認めた。
北海道の占領統治を、強引に要求した、ソ連に対して、それを、抑えた。
特記すべき、功績である。

それが、12歳の精神である、と言う言葉で、かき消されたことは、残念である。

私は、人が何を言うか、より、何を、行ったかを、重視する。
よって、マッカーサーには、感謝する。

マッカーサーの、後任は、リッジウェイ中将である。すぐに、大将となる。

彼は、実に、ヤンキー気質で、開けっぴろげだった。
自ら、天皇を表敬訪問し、気軽に、国民と、付き合った。

彼は、日本を、朝鮮動乱による、目覚しい経済発展と、アジアの安定勢力となる、日本の存在に対する、再認識があったといえる。

そして、九月に、講和条約が、サンフランシスコにて調印され、昭和27年、4月28
日、日本は、七年ぶりに、独立を回復する。

その以後の、日本の復興は、目を見張るばかりである。

ただし、戦争の傷跡は、深く、未だに、残っている。
敗戦から、66年を迎える、今年、平成23年、2011年の、今も、それは、存在する。

すべての、戦争犠牲者の数は、320万人である。
更に、兵士の遺骨は、114万人が、異国の地に眠る。

いや、眠ればいい。
もし、行くべき先を知らず、浮遊しているとしたら・・・
そんな、悲しいことは、無い。

今こそ、戦争犠牲者の追悼慰霊を持って、日本を新たに、創造しなければ、ならない。
日本の伝統は、祖霊、亡き人に対する、鎮魂の法である。
それは、天皇陛下によって、為される。

その、陛下の、御心を、国民が、祈りと共に、支えることである。

あらゆる、考え方を、認めた上で、国民が、心を、一つにし、慰霊の行為を、行うべきである。

国民は、鎮魂の法は、行えないのである。
みたましづめ、という。

皇祖皇宗の、威徳を持って、なされる、行為である。

国民は、追悼慰霊を実行する。
追悼とは、思い起こし、それを追体験する。
そして、慰霊とは、霊位に対して、真摯に対処することである。





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2010年10月07日

天皇陛下について 63

昭和30年代後半、日本は、神武景気に沸き、昭和元禄を謳歌した。
つまり、国民に、ようやく、ゆとりが生まれたのである。

そして、宮内庁は、懸案の新御所の建築に向けて、準備を進めた。

当時、昭和天皇の御文庫は、大戦中の、突貫工事で、二重天井の間隙に、雪混じりの、砂を詰めたせいか、湿度が異常に高い。
時期によっては、露が、壁や、コードを伝わり落ちるほどだった。

これでは、お上のご健康がと、側近たちが、憂慮したが、天皇陛下は、その時期にあらずと、断り続けた。
そこで、新築は、見送り、28年に、大改修を加えた。
側近用の、数部屋も、増やした。

宮内庁が、新御所の、建設を決めたのは、昭和34年である。

また、吹上御所と、平行して、新宮殿の造営も、進められた。

これについては、省略する。

それより、昭和天皇の、御心に、思いを馳せる。

敗戦後の、陛下の生活は、実に、質素であった。
それは、国民を、思えばこそ・・・

新しい御所に、移られる時に、陛下の手にあったものは、スリッパである。
すでに、そのスリッパは、減り続けて、半分ほどになっていた。

それでも、まだそれを、使用するという、お言葉に、側近たちも、意見が出来なかったと言う。

この身が、いかになろうとも・・・
それが、敗戦後の、昭和天皇の御心だった。

天皇陛下に、パチンコの玉を発射した者がいた。
正月と、天皇誕生日に、陛下が、国民に姿を見せて、手を振って、答える、一般参賀である。

ニューギニア戦線で、想像を絶する、飢餓と、酷熱のジャングルで、九死に一生を得て帰国した、奥崎謙三である。

戦争の最高責任者であり、超A級戦犯である天皇が、相も変わらず大きな顔で日本国民の象徴として認められ、マスコミがチヤホヤしていることに対して、私は飢えて死んでいった多くの戦友や無数の戦争犠牲者を考え、いつも我慢ならない激しい怒りをもやしていた・・・
奥崎

最もなことである。
彼は、強度の偏執病と、診断されたが、違う。
真っ当である。

私の、父は、少年志願兵として、木更津に出向いた。
そこで、敗戦を、迎えた。

父は、私に、よく、言った。
天皇・・・・そんなもの
どれだけの人が、死んだか・・・殺されたか・・・
皆、天皇陛下のためだと言って、死んで、殺された・・・

あっくたらもの
方言で、あんなもの、という意味である。

最後まで、天皇に対する、敬意を、見せなかった。

当然である、
父の、上の世代が、皆、帰国しなかったのである。
死んだ。
戦争で、死んだ。

あのまま、皆、漁師や、田圃で、働いていた。平和に、貧しいが、幸せに。
誰が、あれを、破ったのか・・・
その、怒りが、父を、天皇存在への、怒りに代えた。

当然である。

私も、多くの戦地に追悼慰霊に、出掛けて、思う。
何故、こんな所まで、来て、死ななければ、いけなかったのか・・・

救いは、母の言葉だった。
天皇だって、利用されたんだ・・・

誰に、利用されたのか・・・
母も、はっきりと、解らない。

生きて帰った者は、皆、そのように、思うだろう・・・
その感情を、止めることは、出来ない。
だから、天皇を、憎むことである。

憎んで、憎んで、憎む・・・
天皇の御心は、それを、十分察知していた。

だから、この身を裂いても・・・
国民を救いたい・・・

君主というものは、何と、憐れで、哀しいものか。
天皇陛下は、何と、憐れで、悲しいものか。
そして、最も、国民の中で、不遇である。

そんな、状況と、心境を、一人の国民として、想像出来ないほどの、お方なのである。

そして、更に、である。
もし、天皇の望む通りに、その身を、八つ裂きにされていたら・・・

国民の目の前で、ギロチンに掛けられ、その首が、飛んだら・・・

憎みは、解消されたただろうか。
決して、解消されない。
益々、憎みは、高まり、皇室全員を、殺しても、まだ、足りないだろう。

それも、昭和天皇は、察知していた。

そして、最も、恐ろしいことは、国内の混乱と、内戦、更に、国が、滅びることである。

そうなれば、天皇は、死んでも、死に切れないばかりか、皇祖皇宗に対し奉り、断腸の思い激しく、進んで、地獄、地下に、霊位は、赴くだろう。

それならば、生きて、天皇という、身分によって、国を、立て直すことである。
最も、辛い、苦しい道を、天皇の御心は、感受した。

歴代天皇は、国民の平和と、豊かさを、祈っていたのである。
それを、そのままに、引き継ぐこと。
それ以外の、方法を、考えては、ならない。

ポツダム宣言受諾の、後で、涙を流す戦争責任者たちに、必ず、私が、日本を、立て直すと、言明した。

この、天皇の決意。

私は、恐れ多いことだが、見事だと、思うし、この国の君主たる、天皇が、このようなお方であることに、誇りを持つ。

奇麗事なら、何でも言える。
天皇の継続は、奇麗事ではなかった。

針の筵に座って生きることだった。

その、御心、あまりにも、貴く、高く、久しく、広く、懐かしいのである。

世界の、為政者で、戦争責任を、その身で、負った者は、いたか・・・
ギロチンに掛けられたり、亡命して、難を逃れる。

日本の天皇にして、君主たる道、示されたのである。

恐れ多くも、この、陛下の御心に、叶う国民の一人でありたいと、願う。

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2010年10月08日

天皇陛下について 64

昭和天皇の、地方巡幸は、21年2月から始まり、26年までに、本州、四国、九州を終えた。

そして、29年の、国体を機に、北海道巡幸が、実現した。

28年には、奄美大島などの、南西諸島、続いて、43年に、小笠原諸島が返還され、沖縄の返還運動も、年々、盛り上がっていた。
だが、沖縄は、米国の対ソ連、対中国の政略上、極東における、重要な位置にある。それを、返還すると言うのは、米国の、国防を危うくする恐れがあった。

47年5月、沖縄が返還された。
実に、27年ぶりに、日本に復帰した。

ここで、少し沖縄の歴史を、言う。

沖縄は、14世紀以来、独立国であったが、薩摩藩の侵攻により、圧制と搾取により、苦難の時代が、続いた。
そして、明治維新を迎える。

久米島には、久米島紬という、織物がある。
日本で、最初の、織物産地である。
そこから、八丈島に、その技術が、伝播された。

薩摩藩の時代、久米島の人々は、久米島紬を着ることは、出来なかった。すべて、薩摩藩に奉納である。
もし、着ていることが、見つかれば、即座に、斬られた。
そんな、悲しい歴史がある。

更に、与那国島では、人頭税に苦しんだ、人々が、悲惨な行いをした。
妊婦を、崖から、崖へと、飛ばせて、落ちた者は、死んだ。
そうして、人の数を、減らす。

そして、戦争では、唯一、戦場と、なったのである。
子供たちから、女学生まで、銃を取り、担架を担いで、苛烈な戦場を駆け巡ったのである。

9万4千人の県民が、亡くなった。
ちなみに、軍人は、9万数千人である。

昭和天皇は、何故、すぐに、沖縄に巡幸しなかったのか・・・

疑問である。
そこに、昭和天皇の、重大な秘密がある。

筑波大学、進藤助教授が、米国、国立公文書館から、発見した。
22年9月18,あるいは、19日、寺崎英成宮内省御用掛が、GHQ外交局長シーボルトを訪ねて、沖縄についての、天皇の意向を伝えている。

天皇は、米国が今後25年から、50年ほど、日本に主権を残した形で、沖縄諸島を軍事占領することを、希望している。米国の利益になり、日本を守ることにもなるからである。

それを、シーボルトは、9月20日に、マッカーサーに、伝えている。
更に、二日後、米国の、マーシャル国務長官に送付したのである。

新憲法により、政治権力を失った天皇が、この提言をしたということは・・・

この、世界、54年4月号の、雑誌を見た共産党が、衆院で取り上げ、この事実は、沖縄を見捨てるものであり、かつ、天皇の国政関与を禁じた、憲法に違反する、と、追及したのである。

政府は、それを、裏付ける資料は、日本側には無いとのこと。

確かに、日本側には、無いのである。

それに関しては、あまりに、重大なことゆえに、自然消滅してしまった。

だが、一面、私は、昭和天皇に関しては、実に、鋭い感性を持ち、多々、日本復活のために、様々な方法を、考えていたということを、付け加えておく。

情報は、新しくなる。
つまり、情報は、刷新され、事実が、よりよく、見えるようになるのである。

沖縄、巡幸・・・
昭和天皇は、希望されていた。
しかし、その御心には、拭い難い、核心があった。

耐え難きを、耐え、偲び難きを、偲ぶ。

どんなに、優れた人間であろうとも、過ちや、どうしても、という、決断がある。

確かに、政治権力を失った、天皇の言葉は、事実としても、権威の無いものとなる。
だが、それを口にしたと、仮定してみると、天皇の御心の痛みである。

敗戦を体験して、国を守るということは、軍事力でしかない。
守るということは、現実なのである。
理想を夢見ている、暇は無い。

では、沖縄の人たちは、どうだったのか・・・
実に、複雑な心境であろう。

沖縄の人から来て欲しいという、話しは、聞いていない。だが、沖縄の置かれている立場など、難しい問題もあるので、今は、行くとか、行かないといえない。
天皇陛下の、実に苦しいお言葉である。

確かに、革新勢力が強く、反天皇の嵐が吹き荒れていた。
警備当局も、反対している。

父天皇に代わって、復帰三年後に、それを、成したのは、皇太子殿下である。
今上天皇陛下である。

今上天皇陛下は、
たとい、石をぶつけられてもいい、それでも、地元の人たちの中に入ってゆきたい
との、決意であった。

そして、ひめゆりの塔で、花束を捧げて、黙祷したとき、突然、火炎瓶が、火を吹いた。
石が投げつけられ、炎が燃え上がった。

しかし、陛下は、微妙だにせず、泰然として、他の二つの塔に参拝された。

更に、遺族団を慰問されたのである。
過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望しつづけてきた沖縄が、さきの大戦ではわが国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日に至ったことは、忘れることのではない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方がたのことを思うとき、悲しみと痛恨の思いに浸されます。
私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、県民の傷痕を深く省み、ともに力を合わせて努力してゆきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、いっときの行為や言葉によって、あがなえるものではなく、人びとが長い年月をかけてこれを記憶し、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ・・・

この、誠実に満ちたお言葉は、天皇陛下からの、搾り出す、痛恨の極みであったと、考える。

記憶し、深い内省の中にあって、この地に、心を寄せる。
追悼慰霊である。

私は、自決の島、渡嘉敷島の、慰霊碑を、訪れたときに、天皇陛下を、拒絶する、風を感じた。
だから、昭和天皇を、お呼びした。目に見えない霊位であれば、この祈りに、応えていただくという、思いである。

上記の、今上天皇の、お言葉は、県民の琴線に触れたが、癒されない、そして、尽きない恨みというものがある。

その代表とされるのは、天皇陛下の、存在である。

昭和天皇は、恨んで、恨んで、恨んで、下さいと、仰せられるだろう。

この世には、どうしようもないことがある。
その、どうしようもないことを、どのように、生きるか。

天皇という、存在の悲しみは、計り知れない。
それを、歴史を通して、見て行くことにする。


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2010年10月09日

天皇陛下について 65

私は、天皇陛下について、書いている。
昭和天皇だけの話しではない。

ただ、昭和天皇ほど、世界的に知られた天皇陛下は、いない。
それでは、世界的に、どれほど、昭和天皇は、興味や関心を、持たれたのか。

国内の資料だけでは、それは、分からない。
そこで、公開された、イギリスの秘密文書から、天皇陛下を観察したものを、見ることにする。

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎著、から、それを取り出す。

はたして日本は、国家として統一した意思を持っているのか。昭和天皇は、軍や政府を掌握しきれているのか。
盧溝橋事件やヒューゲッセン事件を経て、英国政府は疑念を抱きはじめた。
秩父宮が日本へ出発した直後の1973年9月24日、英国外務省が作成したレポートは、彼らの疑念を如実に表している。天皇を頂点とする、日本の政治システムの分析だった。
徳本栄一郎

憲法の理論上、大元帥の天皇は陸海軍を統帥しているが、実際には、皇族や宮内庁省、軍部の意見を受けて行動する。・・・したがって、天皇を取り巻くアドバイザーが、その意思に影響を及ぼし、日本の政策を決定していく

昭和天皇の性格分析
周囲の人間の操り人形とならないためには、強い個性が求められるが、今の天皇は、それを持ち合わせていない。彼は気立てが良く、従順な性格だが、特に知的で明敏には見えない
天皇は弟の秩父宮のような自由を与えられず、自分の意見を形成する機会も持てなかった。・・・・大正天皇が発狂した時、彼は摂政に就任し、二十五歳で天皇に即位した
個人としての天皇は、自由主義や穏健主義の傾向が見られる。重大局面では、軍部に対抗して行動し、1932年、上海からの日本軍撤兵は、天皇によるところが大きかった
1937年9月24日 英国外務省報告

イギリスは、明治維新の頃から、情報を収集し、日本の権力構造を、見抜いていたという。

上記を見ると、天皇陛下は、強い意思や権力を持たないという、分析である。

1938年2月、新しく就任した、外務大臣、エドワード・ハリファックス卿の元に、10ページの文書が届けられた。
日本支配における水面下の分裂、その内政・外交上の影響、である。

そこには、宮中での、昭和天皇と、秩父宮を中心とする、二大勢力が対立を深めているとのこと。

更に、事態を複雑にしているのは、大正天皇の皇后である、貞明皇太后の存在である。

彼女は、秩父宮を贔屓し、昭和天皇には、しばしば政治的助言を与えているというものである。

その上で、昭和天皇は、周囲の環境の産物として、指摘された。
自分の地位の危うさ、目前の見えざる敵の存在に、昭和天皇は精神的に不安定になり、疑い深くなっている。・・・ニ・二六事件は、力ずくで彼らを追放しようとして失敗した企てだった
1938年3月12日 英国外務省報告

報告書は、秩父宮を黒幕と名指しはしないが、彼を擁立して、体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると、結論づける。

人間、天皇の、その危うさ・・・
激動の歴史の中にある、昭和天皇というお方の、状況が、実に、危ういものであることを、見せ付ける。

ここには、大君であらせられる、天皇陛下の・・・
という、姿は、無い。皆無である。

当時の、在英大使は、吉田茂である。
吉田は、昭和天皇の側に立つ人間である。

しかし、イギリスは、その対応にも、不信感を抱いていた。

日本大使に関する限り、その文書が、日本に自由主義政府を作る成算を高めるというのはナンセンスだ
吉田は、日本ではあまり重く見られていない。彼が帰国を希望している事は理解できない。それにより、何を達成しようとしているのかも分からない
1937年1月27日 英国外務省報告

吉田は、中国問題で、日英の協調による、十の具体案を提出していた。
日英協調の協定締結を、強く望んでいたのである。

そこには、英米との和平を望む、リベラルな穏健派が存在し、その中核が、天皇陛下であると示唆するものである。

だが、イギリスは、日本軍の中国での行動を見て、穏健派が、本当に存在するのかを、探っている。

そして、決定的なことが、起こる。

1937年6月2日、吉田が、第二次覚書を、英国外務省に提出した。
日本は、中国華北地方を分離し、外国利権を排除する意図はない。日英の通商、財政面での協力を進めることが、柱だった。

しかし、折衝が続く中、7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中は全面戦争に突入する。
中国中枢への、日本軍の南進は、英国権益への挑戦を意味した。

すべてが、水の泡となった。

吉田は、本国から正式の指示ではなく、上層部の人々から非公式、個人的に、英国の仲介を探るように指示されているようだ。・・・日本の華北や上海での英国民の扱いを見ると、英国が日本を経済支援すべきとの吉田の憶測はナイーブである。現地で一体何が起きているか、彼は無知に違いない
1938年4月13日 英国外務省報告

確かに、吉田の背後には、天皇をはじめとする、英米協調派が存在するが、前年からの、日中戦争の経緯を見ると、東京の政府と、現地の日本軍は、全く意思が統一されていないとの、判断である。

何故、大戦に到ったのか・・・

歴史は、必然的なものであると、仮定する。
どれほど、人間が、心を砕き、和平を望んでも、歴史が、それを、許さないとしたら・・・

いまだ、誰も、そのように、考える者がいない。
それで、私が言う。

様々な、分析をする。
そして、それが、実に有意義に、生きる場合がある。
しかし、生きない場合もある。

私は、そう思う。

イギリスから、見れば、天皇陛下も、一つの駒である。

実際、戦争責任などとは、実に、あはれで、愚かなことである。

ただし、人間の英知による、努力を否定するものではない。
運命論を言うのではない。


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2010年10月10日

天皇陛下について 66

ロバート・クレーギは、駐日英国大使として、1937年9月に、赴任した。

10月14日、クレーギーは、天皇陛下に、拝謁する。
その際の、天皇陛下のお言葉が、残る。

日中事変で日英関係が急速に悪化している事に、私は深い懸念を持っている。それまでのロンドンでの対話に、大きな期待を寄せていただけに真に残念である。
この関係を食い止め、かつての良好な日英関係に戻すのを、自分は心から願っている。その事を、日夜考え続けている。どうか、大使も力を貸して欲しい。

クレーギーが、答えた。
両国の困難を取り除きたいとの真摯な願いはよく分かりました。私も両国の関係改善に全力を尽させていただきます。ただ、良好な日英関係を築く唯一の基盤は、中国を敵ではなく友人にする事です。

天皇が応じた。
その方向に、すべての努力を傾けねばならない。
1937年10月23日 英国外務省報告

ただし、日本の軍部は、日中戦争の士気高揚に、しきりに反英感情を煽るのである。
英国が、南京政府を支援し、日本を牽制しているというものである。

だが、皇族は、英国への愛着と、忠誠心を捨てては、いない。今後の、対日外交で、重要な武器となると、クレーギーは、漠然とした、期待を抱いた。

ところが、10月28日の夜、宮城と向かい合う、英国大使館の正門に、若者たちが、集まりはじめ、「英国は中国から手を引け」「英国と徹底抗戦すべし」などの、垂れ幕を持っている。

アジア主義を唱える団体であり、やがて、若者たちの、一群が、敷地内に侵入した。

大使館は、国際法上、外交特権を持ち、その敷地は、不可侵である。

更に、若者たちは、大使を出せと、要求する。

若者たちが、残した声明である。
欧州の抑圧を取り除かない限り、アジアに平和と繁栄は実現しない。・・・日中戦争は日本と中国の戦いではなく、南京政府を支援する英国やロシアとの戦いである。これはアジア開放の歴史的闘争で、われわれは日本の政策を全面的に支持する。
1937年11月4日 英国外務省報告

日中戦争の開始以来、日本軍は、南京の国民政府に圧力を加えるため、空爆を行ってきた。南京、上海、漢口などの、主要都市を空爆した。この都市空爆は、民間人の大量の死者、負傷者を出し、連日、世界のマスコミで報道された。それが、欧米での、反日運動を激化させていた。

しかし、実は、それは、中国側の報告なのである。
当時の、蒋介石政権は、積極的な欧米メディア工作を行っていた。
中国側の被害を、大きく誇張するという。
それに、日本政府は、翻弄された。

中国のプロパガンダへの対応で、外務省と参謀本部は、意見が異なる。外務省は中国の虚偽に具体的に反論する意向だ。一方、参謀本部は、中国の主張はあまりにグロテスクで、反論するのは時間の無駄としている。
1937年10月6日 英国外務省報告

今も、昔も、中国の、嘘八百は、変わらない。

日本では、次第に、アジア主義者が、活動を起こし始めた。

新聞も、連日、ブリュッセルの九か条約国会議の、欺瞞を指摘し、雑誌なども、戦慄する大英帝国、日英戦わば・・・などの、特集を組んだ。

国民は、強烈な、反英感情を持つことになる。

過去六年の日本は、軍備拡張の予算を確保するため、(外国の脅威を煽る)プロパガンダを行ってきた。・・・これらの扇動行為に深い根拠があるとは思わないが、危険な側面も抱える。神秘的信念を持つ青年将校が、中国の戦局に大きな影響を持ち、深刻な事態を起こすリスクがある。・・・彼らの行動を強く支持する群集心理も働いている。
1937年12月2日 英国外務省報告

英国は、天皇、要人が、英国との関係改善を望んでいることを、理解したが、現実には、日中戦争に続き、英国の権益にも、脅威となっている、状態である。

英国が、注目したのが、日本の、金保有量である。
結果は、日本政府は、日銀の金には、手をつけていないが、他の在庫から、五億円相当の金を輸出している。
この戦争は、永遠に続けられず、いずれは、終結させなければ、ならないだろう。
という、英国側の、考えである。

1938年1月、近衛首相は、国民政府を相手とせず、との、声明を発表した。
これにより、日中戦争終結の交渉は、頓挫した。

英国は、そのネットワークを最大限に生かして、日本の内情を、探った。

日中戦争の長期化に伴い日本は疲弊し、いずれ英米に頼らざるをえない。日本は国力の全てを投入して、華北地帯への侵攻、上海と南京の支配を達成したが、その結果に落胆している。今後、金のかかる戦争を継続しなければならない事に不安も感じている。
中国やドイツやソ連の助言を受け、戦力を立て直しつつある。・・・日本が本気で仲介を求めるまで、今後も中国を支援し、彼らが望む限り戦闘を続けみさせるべきである。その上で適正な平和を達成できる。
1938年4月13日 英国外務省報告

英国政府は、誠実な紳士を演じていた。
日本と中国、双方と、関係を維持してきた。

その上で、日中の思惑、軍事力、経済力を分析し、英国にとって、最大の、メリットを探っていたのである。

現時点では、さらなる犠牲者が出ても、日中戦争を続けさせた方が、得策である。
やがて、日中が疲弊しきったところで、善意の仲介役として、登場するという、英国のシナリオである。

国益。
すべては、それぞれの、国益を、考えての、分析、行動なのである。

相手の、国の事情などは、関係ない。
自国の、国益が、最優先なのである。

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2010年10月11日

天皇陛下について 67

1939年9月、ドイツ軍が、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が、始まった。

フランスが、ドイツに、ソ連が、フィンランドに開戦して、戦火が広がる。

1940年3月28日
帝国ホテルにて、日英協会主催の昼食会が、行われた。
そこで、クレーギー大使が、演説した。

日本と英国は、同盟を結んだ時期、並外れた繁栄と相互協力を実現してきました。・・・
現在の両国間の争いは、多くは誤解と虚偽に伝聞によるもので、それを第三者が増幅させています。
日本と英国は共に、大陸の縁に位置する海洋国家であります。方法こそ違え、両国は共通の目標を目指しています。それは、平和の維持と外部の破壊的影響から制度を守る事であります。

続いて、吉田茂が、スピーチに立った。
吉田も、日英同盟の時代、極東で平和が維持されたことを、強調した。

だが、国内の、情勢は、それとは、完全にかけ離れていた。

反英デモが、繰り広げられた。
内務省、各府県が、指導する、総動員のデモである。
各地の集会で、蒋介石への英国の支援が、非難され、言論界も、反英一色だった。

クレーギー大使のスピーチは、当地で驚きを持って受け止められている。特に「日英は共通の目標を目指している」などの部分で、米国国務省は全文を入手したい意向だ。もし、これが今後、英米は極東で協調行動を取らないとの意味なら、極めて重大だとしている。
1940年3月30日 英国外務省報告

クレーギーの、発言は、米国内では、批判の元となった。

ロイター通信ワシントン支局が、反発の記事を掲載した。
クレーギー大使のスピーチは、米国の孤立主義者が抱く英国への不信を高めたとする有力者がいる。英国は「極東のミュンヘン」を認める事で、これまで米国が中国に行ってきた支援を台無しにしかねない。

ミュンヘンとは、1938年9月、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を、ドイツに認めた件である。
その会議で、ヒトラーは、戦争に訴えてでも、割譲を迫った。
これに対し、英国の、ネヴィル・チェンバレン首相らが、これ以上の領土要求をしないという、条件で、認めたのである。
これが、ドイツを、舞い上がらせ、第二次大戦の、要因の一つとなったのだ。

日本との、宥和政策を打ち出した、クレーギーは、極東で、同じ過ちを犯そうとしていると、判断された。

英国議会でも、この問題が、取り上げられた。

クレーギーは、英国が、対日宥和政策に転じたとは、一言も、言っていないのである。

この、発言が、問題視されたのは、その前月に、米国のジョセフ・グルー大使が、中国の日本軍の行為を、激しく非難する、スピーチを行っていたからで、その内容は、クレーギーとは、全く対照的だったからだ。

更に、日英協会昼食会の直後、南京国民政府が成立した。
これは、日本軍の指導で作られた政府であり、国際社会からは、傀儡政権と、見なされた。

1940年4月9日、ドイツ軍は、ノルウェー、デンマークに、5月10日には、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに、侵攻した。
そして、ドイツ軍は、フランスの最終防衛線、マジノ・ラインを突破した。

ヒトラーの、ドイツ軍は、欧州全域を、席巻しつつあったのだ。

日本は野心的で冷酷な軍人が支配する、危険な潜在国家である。・・・クレーギー大使は、われわれが友好的に接すれば、日本の危険性を取り除けるとの固定観念を持っている。だが、宥和政策で日本の軍国主義者が変質するとは思えない。
1940年5月22日 英国外務省報告

この頃の、英国政府は、一変していた。

日本は、アジアを蹂躙し、英米に戦いを挑む軍国主義国家である。その肩を持つ、クレーギーは、日本の同調者であると、突き放された。

その、直前に、英国の、首相が、ウィンストン・レナード・チャーチルに、変わっていたのである。

チャーチルの名を、世界に広めたのは、その演説である。
首相就任演説を、英下院で行った。

われわれは、どんな犠牲を払ってもこの島を守る。われわれは海岸で戦い、水際でも戦う。われわれは野で、街頭で、丘でも戦う。われわれは決して降伏しない。たとえ、この島やその大部分が、征服され飢えに苦しもうとも、私は降伏を信じない。

更に、再び、議会で、演説した。

われわれは各自奮励して義務を遂行しようではないか。そして、大英帝国がなお千年続くものならば、その時、人々はこう言うであろう。「これが彼らの最良の時であった」と。

まだ見ぬ大英帝国の子孫が、今の自分たちの戦いを見ている。

チャーチルの言葉に、意気消沈した国民は、奮い立った。

日本の政局は、激動していた。
それは、以前に書いている。

クレーギー大使は、第二次近衛内閣の報告書を、本国に送った。

今度の内閣は、明らかに米内内閣より親英の度合いを減らすだろう。近衛はファシストではないが、全体主義を好む傾向があり、今後、枢軸国に接近していく。・・・ドイツに近い東条陸軍大臣は、その手法を賞賛している。厳格で知られる彼なら、青年将校を抑えられるかもしれないが、同時に彼らの志に共鳴している恐れもある。
1940年8月13日 英国外務省報告

近衛内閣の、ドイツへの傾倒に対して、英国政府は、警戒を露骨にした。
彼らが、最も、注目したのは、新外務大臣、松岡洋右だった。

新外相の松岡洋右は、最近の前任者とは大きく異なるタイプの男だ。強烈なナショナリストで、政党政治に抜き難い反発心を抱いている。・・・率直で多弁な男だが、その多弁が時にトラブルを招く場合もある。
1940年9月11日 英国外務省報告

更に、クレーギーは、
ここ数年、日本で広がった子供じみた反英感情の発露を、松岡は忌み嫌っている。それを声高に批判したことで、彼は急進派内での評判を落としてしまった。・・・松岡はかつて自分に「お互い意見が異なっても、紳士らしく異なろうではないか」と語ったことがある。
松岡暗殺の危険も存在する。だが彼は、警備の警官の給料は自分のために命を投げ出すほど高くないとして、護衛を断っている。
同報告


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2010年10月12日

天皇陛下について 68

ドイツ軍が、パリを陥落させた直後、「ジャパン・アドバタイザー」の編集長、ウィルフレッド・フライシャーが、日本の外務省から、呼び出しを受けた。

外務省担当者は、駐日ドイツ大使からの、抗議として、連合国寄りの論調を変更するように、要請した。
ドイツ贔屓の記事を書けとは、言わないが、今の紙面の論調は、見逃せない。応じなければ、新聞発行用の用紙の配給を制限するというものだった。

その場で、フラッシャーは、反論した。
もし、日本の外務省が、そんな行為に出れば、英米との関係悪化は、避けられないと。

だが、外務省の担当者は、聞き入れなかった。

フライシャーは、英国大使クレーギーに、訴えた。
これはドイツ寄りへの急激な転換の徴候です。五月頃には、私達の記事にも陸軍は好意的で、ドイツ大使館の抗議も無視してきました。それが今では様変わりです。ヒステリックな反英米感情が高まっています。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

そして、英国大使館に、新たな情報が、もたらされた。

英国系商社ジヤーディン・マセイン商会の神戸支部幹部が、警察に拘束されたというもの。更に、在日英国人の有力者が、スパイ容疑で、続々と逮捕されていたのである。

危機感を強めた、クレーギーは、本国に報告した。
フランスの抵抗の崩壊で、日本の状況は急激に変わってしまった。八月中旬以来の英国本土への本格的空襲で、英国が十日以内に降伏するとの軍事専門家の意見すら流されている。・・・
駐日ドイツ大使館の動きで、少数だが強力な親ドイツ勢力が力を増している。
英国人コミュニティーへの諜報活動もあり、日本の親英勢力は力を失いつつある。枢軸国が欧州で決定的反抗に遭うか、日米開戦が近づかない限り、日本の外交政策は急進派が牛耳るだろう。
1940年10月11日 英国外務省報告

天皇を始め、秩父宮、吉田茂、白洲次郎らが、英米との協調を望んでいるが、しかし、現実は、正反対に向かっていると、クレーギーは、懸念した。

このままでは、日本は、ヒトラー率いる、ドイツと運命を共にする。

ドイツは日本の指導者を催眠術にかけ、三国同盟で米国は怖気づくと吹き込んでいる。実際は、日本は深い泥沼に入り込み、逃げ道のない所まで、身も心もドイツにのめり込むだろう。
大きな惨事がない限り、日本に穏健派政権が出来るのは望めない。・・・いずれ、英国も日本と戦争に突入する事を念頭に、対日本政策を立案すべきである。
1940年12月24日 英国外務省報告

戦争前夜
それは、1941年4月から、始まる日米交渉である。

この交渉は、前年の11月末、二人の米国人神父が来日し、日米関係の正常化を訴えた事が、発端である。

二人は、欧州戦争が本格化する前に、太平洋の日米関係を正常化しておく必要があると、訴えた。
これを土台に、産業組合中央金庫理事、井川忠雄や、陸軍省の岩倉豪雄大佐らが、神父と協議を重ねて、非公式の、日米諒解案が、まとめられた。

この案に、政府、陸海軍も同意し、日米交渉が、進むかに見えた。
ここで、思わぬ、障害が発生する。

ソ連、ドイツ、イタリアの歴訪から帰国した、松岡外務大臣が、猛反対したのである。
それは、日米交渉は、三国同盟の趣旨に反するというものである。

日本政府の分裂を抱えたまま、日米交渉は進められたが、状況は悪化の一途を辿っていった。
徳本栄一郎。

日本軍の南部仏印進駐に対し、7月25日、米国は、在米資産凍結を布告し、8月1日、対日石油輸出を全面停止した。
この、経済制裁は、日本に、大きな打撃を与えた。

10月16日、日米交渉で、行き詰まった、近衛内閣は、退陣し、東条英機が、後を継いだ。

戦争の可能性が、高まる中、クレーギー大使は、本国に、訴えた。
東条を首相に任命する際、天皇は日米交渉を継続し、全力で戦争回避を図る事を条件にした。・・・天皇がどんな形で介入したにせよ、これは前例のない出来事である。また、東郷外務大臣は、急進派が外交政策に介入し続ければ辞任する意思も明らかにした。
1941年10月30日 英国外務省報告

危険なのは、穏健派が次第に力を失いつつある事だ。・・・上層部は、今後数週間に全力で合意に到らないと、どんな展開になるか分からないと非常に危惧している。
1941年11月14日 英国外務省報告

東条内閣が誕生した時に、天皇が、内大臣の木戸幸一に「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」と、語った。
つまり、あえて、開戦論者の東条を首相に任命して、主戦派の軍人たちを、抑えようという、天皇の狙いである。

クレーギー大使の情報源は、確かに日本の立場について権威ある説明を行っている。だが、彼らが関係国は全力で合意に至るべきと言う場合、普通、英米の努力のみを指す。・・・事態の切迫と悲劇の可能性を繰り返すのは、われわれへの精神的脅しである。それに惑わされてはならない。
1941年11月15日 英国外務省報告

だが、英国の反応は、変わらなかった。

天皇自身は日米開戦を望まず、穏健派も必死に和平工作を進めている。だが、これら東京の情報に耳を貸さず、今すぐにも対日宣戦布告しそうな調子だった。
徳本栄一郎

チャーチル首相が、公の場で、対日宣戦布告に言及した。
米国は太平洋の平和を守るため、最大限の努力を続けている。その努力が実るかどうか、われわれには分からない。だがもし、その努力が失敗に終わり、米国が日本と戦争に入るならば、英国は一時間以内にそれに続くであろうと申し上げるのは私の責務である。
新ロンドン市長の就任式での挨拶。
1941年11月10日

事実は、チャーチルが、日米戦争を望んでいたということである。
何としても、米国を参戦させたい、理由があったのである。


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2010年10月13日

天皇陛下について 69

チャーチルの狙いは、何か。

英国が、戦時体制に入ったとはいえ、独力で、ドイツ軍を撃破するのは、困難である。
そのためには、ずば抜けた、工業力、物量を誇る米国の参戦に頼るしかない。

日本の、穏健派の和平工作などに、米国が、応じてもらっては、困るのである。

1941年8月9日より、14日、チャーチルは、カナダ・ニューファンドランド島沖の、大西洋上で、ルーズベルト大統領と、会談した。

そこでは、ナチス打倒、戦後の世界構想が、話し合われた。
大西洋憲章である。

その議事録の、極東の項目である。
大統領は、八月六日に駐米日本大使から受け取った文書のコピーを首相に渡した。米国政府は日本政府に、日本の提案を話し合う用意があるが、その間、南部仏印の支配地域を広げず対中国戦の基地にもしない事が必須条件だと付け加えた。・・・首相はそれ以外に、米国が日本への経済制裁を更に強化するのが不可欠と述べた。

日本大使の、提案とは、事態打開を目指した、近衛首相と、ルーズベルト大統領の日米首脳会談などを指す。
この頃の、日本が米国に行う、和平提案は、逐一、英国のチャーチルに、渡されていたのである。

その上で、日本への、締め付けを強めるように、要請している。
日米開戦を、心から、望んでいる事実である。

日米交渉は、続けられたが、11月26日、米国務長官コーデル・ハルは、日本側に、対日覚書を渡した。
中国、印仏からの日本軍撤退、中国租界・治外法権の放棄、などである。

これを機に、日本が、ハワイ真珠湾攻撃を行ったことは、ご覧の通りだ。

この、第二次世界大戦、あるいは、大東亜戦争の、戦争責任者とは、ヒトラーであり、イギリスの、チャーチルであると、断定できる。

二年後の、チャーチルが、イーデン外務大臣に送ったメモである。
日本の攻撃で、米国が一丸となり参戦したのは天佑だった。大英帝国にとって、これに勝る幸運はなく、真の敵と味方が明白となった。日本が無慈悲に壊滅されることで、英語圏と世界に大きな恩恵を与える。
1943年9月19日

英語圏と、世界という、チャーチルの意識は、実に、傲慢極まりない。
イギリス
それは、人種差別主義の、権化である。

イギリスが、植民地にした、あるいは、掠奪した、土地の、原住民は、未だに、その差別主義の痛手から、開放されず、更に、その有様は、悲惨である。

一体、歴史というものを、どのように、見るか。
その見方には、歴史史観というものがある。

今までの、日本人たちは、歴史史観に、大きく縛られてきた。
日本が、無謀な戦争を起こしたこと、それが、悪だった。

天皇の戦争責任を問う。

冗談ではない。

日本が、侵略戦争をしたからの、悲劇である。
日本以外の、侵略大国は、そこでは、皆無である。

アメリカ、イギリスが、どほどの、侵略国家だったのか・・・

日米開戦の、翌年、英国駐日大使、クレーギーは帰国し、報告書を執筆したが、そこには、英米政府に対する、猛烈な批判を展開したとある。

クレーギーは、天皇を中心とする「穏健派」に注目し、彼らに軍部「急進派」を牽制させ、対英米戦を回避しようとした事を強調した。さらに、近衛首相とルーズベルト大統領にトップ会談計画は天皇自らの指示だった事、日米交渉で米国が何らかの妥協をすべきと報告しながら、本国政府が無視した事を指摘した。
また、真珠湾攻撃直前の11月20日、日本が米国に渡した和平提案は、天皇と穏健派の最後の賭けだったとして、それを拒絶した米国政府を強く非難していた。

「当時の日本に関する知識を持つ人間が、(ハル・ノート)受け入れの可能性があると信じたことは、私には理解し難い」

「この日本提案を活用しなかったのは、米国政府の失敗である。この時、強硬姿勢を変えていれば、開戦は少なくとも三ヶ月遅らせられた。この期間にドイツ敗北の可能性が出れば、対日戦争を回避する可能性も高まったはずだ」

「1941年秋の時点で、米国政府は日本の情勢を見誤っていたか、すでに日米開戦を決意していたかのどちらかである。

クレーギー大使の「最終報告」

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

この報告書は、チャーチルを、狼狽させ、激怒させた。
英国王室にも、回覧されるのだが、国王が目を通せば、どんな反応になるのかとの、恐れから、チャーチルは、厳重な機密扱いにするように、外務大臣に、命じた。

ところが、その報告書は、すでに、1942年2月11日に、報告書として、外務省に提出していたのである。
そして、その内容から、上層部が、文書の配布を禁止し、外務省独自に、太平洋戦争の原因のレポートを作成したのである。

過去十年間の、日本を巡る情勢は、戦争に向かい、穏健派への期待は、全くの幻想と、一蹴したのである。

如何に、昭和天皇が、戦争回避を行っていたか。
つねに、外交を、つねに、和平をと、願いつつ、日々を送られていたのである。

320万人の、犠牲者を出した、第二次世界大戦。
更に、関係各国の犠牲者を含めると、膨大な犠牲者を出した戦争。

更に、日本兵の、114万人の、遺骨が、未だ、戻らないのである。
断腸の思いに、尽きる。

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2010年10月14日

天皇陛下について 70

半世紀以上前、世界を戦雲が覆う中、懸命に戦争回避を図った人間たちがいた。生命の危険を冒し、敵・味方を超えて連携した人々だった。
しかし、その彼らも、時代の流れを変える事は出来なかった。
日本は太平洋戦争に突入し、国中が焦土と化し無条件降伏した。日本人は初めて、外国の占領を体験し、良心と信念に従った者の記憶は、人知れず埋もれてきた。
歴史の重さ、はかなさ、虚しさ、全てが凝縮されたような想いに襲われていた。
しかし、戦争回避に向けて築かれた人的つながりは、戦後になって重要な意味合いを持つことになる。戦前、水面下で連携していた昭和天皇、吉田茂、白洲次郎たち。敗戦と占領という舞台で、彼らは第二のドラマが幕を開けるのであるーーー。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

米国政府は承知していたはずだ。私がこの文書の存在を教えられた時、国務省は、これを極東問題の理想的解決、ユートピアとして扱っていた

われわれは米国と密接に連絡、協議してきた。しかし、最後の決断と行動は、米国政府が独自に取ったという事を、未来の歴史家は認識すべきである
1943年9月18日 英国外務省報告

文書とは、ハル・ノートのことである。
アメリカは、日本が、ハル・ノートを受け入れないことを、知っていた。
知っていながら、要求を突きつけた。

結局、クレーギーの最終報告書は、外務省のレポートと併せて、国王を含む要人に、配布された。
そして、戦争に至る英米政府の責任は、巧妙に、ぼやかされた、のである。

チャーチル首相は、歴史家としても、知られ、戦後は、第二次大戦回顧録、にて、ノーベル文学賞を受賞した。

反する、クレーギーの最終報告書は、注目されず、片田舎のコルチェスターと英公文書館に眠っていたという。

1998年、今上天皇が訪英した際に、クレーギーの息子、その孫の、親子が、ロンドン市内のレセプションに、招待された。

その時に、二人を含む、出席者に、天皇は、1953年の、エリザベス女王の戴冠式出席のために、初めて訪英したときの思い出を、語り掛けたという。
以下
当時は平和条約が発効してちょうど一年後のことであり、英国民の日本に対する感情の厳しいときでもありました。しかしその中にあってサー・ロバート・クレイギー・日本協会会長・・・はじめ会員の温かいおもてなしを受けたことは心に残るものでありました。日英関係の断たれた絆を修復するために力を尽された人々の努力を忘れることは出来ません
1998年5月29日

軽々と、天皇の戦争責任を口にする者たちに、言う。
歴史の事実を知ることである。

これに関して、更に深く、私は、追及してみたいと、思う。

以前に書いた、大筋の、流れを前提にして、読むことで、更に、深く理解されることと、思う。

天皇陛下について、であるから、歴代の天皇陛下、更に、古代史からの、天皇について、書く予定である。

しかし、最後まで、書ききれるか、どうかは、解らない。
富士王朝からの、天皇の歴史を書くまでと、思うが、死ぬまでに、書くことができれば、幸いである。

もし、天皇が開戦の詔勅に判を押すだけの、そけだけの存在だったにしても、その「御名御璽」がなければ、国家の国民への戦争命令が発動されないのである。そうだとしたら、そういう重大な命令に判を押したことへの責任がある。しかし、昭和天皇は軽々しく判を押して済ますような無責任な人ではなかった。それゆえに、開戦に同意した(同意せねばならなかった)ことへの、みずからの責任を十分に認識していた。
畏るべき昭和天皇 松本健一

ポツダム宣言が発表されたとき、かつて、三度首相を勤めた、近衛文麿は、敵から無条件降伏を突きつけられた天皇は、戦争責任を負って、退位、もしくは、自決すべきだと、激しく、述べた。

もう、こうなったら、天皇は退位するべきですね。そうすることによって皇室を護ることができるでしょう。やはり、陛下にはこの戦争に責任がある。戦艦に御座乗いただいて、戦死していただくのが、一番よい。自決していただくのが、もっとよいと思いますがね。そのうえで国民も、軍も、無条件降伏をすることに納得がゆくでしょう。

松本氏は、この発言に、近衛の、みずらの責任を回避する、方便に近い言い方だという。

近衛こそが、東条英機にもまして、戦争へと、日本を引きずり込んだ、政治責任者であるというのだ。

天皇の宮家に連なる、五摂家の一つである、近衛家の当主たるものとして、天皇陛下に対し奉り、あまりに、不遜な言葉である。

近衛の、考え方は、戦争の責任を、すべて昭和天皇一つに還元して、守るべきは、皇室と、そのシステムであり、一人の天皇の地位や命なのではないということである。

昭和天皇御自身は、一度、退位を考えている。
しかし、はじめは、内大臣だった、木戸幸一が、これに反対し、のちには、首相の吉田茂が、断固認めなかったのである。

松本氏は、天皇が近衛の言うような、自決を一度も、考えなかったのは、開戦に際して、出来る限り、それを回避しようと努力し、それでも、立憲君主として、内閣が決めたことには、拒否を言わないという、立場を正しく守ったと、考えたからだと、言う。

近衛は、GHQに、戦犯として逮捕されることを嫌い、服毒自殺をした。
その手記に対して、昭和天皇は、
どうも、近衛は自分にだけ都合のよいことをいっているね
と、仰せられたという。

近衛の手記には、戦争に突入し原因を、統帥権の独立、つまり、軍の統帥が、国務から、独立して存在することが、原因だと、見ている。

そもそも統帥が国務と独立して居ることは、歴代の内閣の悩むところであつた。今度の日米交渉に当っても、政府が一生懸命交渉をやっている一方、軍は交渉破裂の場合の準備をどしどしやっているのである。しかもその準備なるものがどうなっているかは我々に少しも判らぬのだから、それと外交と歩調を合わせる訳に行かぬ。船を動かしたり動員したりどしどしやるので、それが米国にも判り、米国は我が外交の誠意を疑うことになるという次第で、外交と軍事の関係が巧く行かないのに困ったものであった。
旧仮名遣いを改めて書いた。

当時の、政治家は、この統帥権の独立に、大いに悩んだと言う。


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2010年10月15日

天皇陛下について 71

近衛は、日中戦争のはじまる昭和12年から、対米英戦争のはじまる、昭和16年にかけて、三度内閣を組織し、都合二年十一ヶ月に渡り、政権を掌握している。

その、近衛の天皇批判は、深く慎重に受け止めなければならない。

近衛は、日本が日英と、戦争に突入した最大の原因を、統帥権の独立、とした。
そして、その問題を解決しなかったのは、昭和天皇であるという。

この局面を打開するには、陛下が屹然として御裁断遊ばされる以外に方法はなしと・・・
陛下には、自分にも仰せられたことであるが、軍にも困ったものだということを、東久邇宮にも何遍か仰せられたと拝聞する。その時、殿下は、陛下が批評家のようなことを仰せられるのは如何でありましょう、不可と思召されたら、不可と仰せられるべきものではありますまいかと申上げたと承つている。
このように、陛下が、御遠慮勝ちと思われる程、滅多に御意見を御述べにならぬことは、西園寺公や牧野伯などが英国流の憲法の運用ということを考えて、陛下は成るべく、イニシアチーブをお取りになられぬようにと申し上げ・・・
現代仮名遣いにした

日米開戦を阻むためには、天皇が断固として、御裁断遊ばされる以外に方法が、なかったというのである。

それは、天皇が専制的な君主であるべきだということである。

これに対して、昭和天皇は、
どうも近衛は自分にだけ都合のよいことをいっているね
と、批判のお言葉である。

政治の最終責任者が総理大臣であることを考えてみれば、イギリス風の「立憲君主」たらんとした昭和天皇に責任を帰すよりも、まずは近衛文麿に政治の責任を問うべきだろう、とおもわれる。
畏るべき昭和天皇 松本健一

確かに、天皇は、和戦何れか、と言う際に、開戦を回避する努力をしたが、消極的とも見える態度をとったとも、いえる。

その、天皇の消極的と見える態度は、皇太子時代の訪欧に反対する右翼、ニ・ニ六事件のような軍事クーデター、そして、敗戦時の徹底抗戦派によるクーデター計画などに対する、恐れがあった。

天皇陛下の独白録
開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何等異なる所はない。

近衛の言う、天皇親政を否定し、それでは、専制君主と何ら異なるところはない、というわけになる。
立憲君主としての天皇は、内閣の決定を裁可して、開戦に同意するしか方法がないということである。

天皇陛下独白録
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら無条件降伏に対し、「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に私が「ベトー」を行ったとしたならば、一体どうなっていたであろうか。・・・
国内は必ず大混乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったであろうと思う。

私は、色々と、調べる前に、この陛下の言葉の通りのことを、思った。
当時の状況では、戦争に反対すれば、陛下のお命さえも、危ういものだったと、思うのである。

松本健一氏は、
つまり、天皇の怖れはーーーもしじぶんが開戦の閣議決定を裁可しなかったら、ニ・ニ六事件のような軍事クーデターが起き、果ては軍人たちに受けのよい秩父宮を皇位につけて、やみくもに開戦に走ったのではないか、というものだった。
と、言う。

近衛は、GHQから逮捕状が出ると、服毒自殺をした。
それを、聞かれた陛下は、
近衛は弱いね
と、仰せられた。

天皇とすれば、じぶんの一存で進退を決する近衛を羨ましいとおもう一方で、民族を戦争へと引き込んだ政治に対する「責任」というものは、一人が「自決」すればすむような軽いものではないぞといいたかったにちがいない。
松本健一

天皇の戦争責任問題は、敗戦後の、一つの大きなテーマになっていた。
声高に、天皇の戦争責任を言う者も、多数いた。
しかし、今、歴史の史実が、明るみにされて、更に、敗戦後60年辺りから、どんどんと、資料が出てきた。

皆さん、お勉強不足ではなかった。
事実の、情報不足だったのである。

これから、しばらく、松本氏の、畏るべき昭和天皇から、事の次第を見て行く。

以前に書いたことが、更に深まるはずである。

そして、もう一度言う。
歴史は、必然か、偶然か・・・
歴史に、必然的なものがあるならば、戦争という、ものも、その一つにある。
歴史の進化が、それを求めることもある。

更に、偶然の産物だとしても、そこに、人間の意志が介入する。
矢張り、必然というしかない。

人間が、起こすことは、必然なのであり、そこに、偶然というものが、介入するならば、それは、偶然性という、不可抗力である。

その、不可抗力を、どのように、捉えるかに、人間の人生力がある。

偶然を内的必然と、捉えるとき、人間は、人間としての、知性、理性を持って、思索することができる。

歴史を、内的必然として、捉える。
そこから、歴史が輝くように、見えてくる。
私は、そのように、思う。

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