2010年09月25日

天皇陛下について51

17世紀の、オランダの覇権から、次は、18,19世紀と、イギリスの、世紀になる。

イギリスは、この二世紀の間に、大英帝国を築くのである。

オーストラリア、ニュージーランド、インド、ビルマ、マレーシアを、押さえ、そして、カナダ、南アフリカ、エジプトと、七つの海にまたがる、広大な領土を支配する。

1588年、スペインの無敵艦隊、アルマダを、撃破し、スペインを衰退させ、1652年、開戦の、英蘭戦争にも、勝利し、オランダの海上権を奪う。

イギリスの、ライバルは、フランスのみとなる。

両国は、北アメリカで、激しい、覇権争いを行うが、その間、アメリカでは、独立運動が盛んになる。
1776年、アメリカがイギリスから独立する。

北米で、失った利権を取り戻すべく、全力を注いだのが、インドである。

そこでも、フランスと、熾烈な植民地争奪戦を、繰り返したが、イギリスが勝利する。

インド、ムガル帝国を支配下に置く。

イギリスの、植民地統治は、スペイン、オランダのように、十字架を武器にして、支配住民に、強制的に、キリスト教に改宗させ、従わない異教徒には、弾圧を加えるということは、しなかった。

イギリス国教会の下にある、イギリスは、キリスト教を全面に押し出さない。
ただ、教会の組織を作ることに、重点を置く。
信仰を、強要しない。

しかし、一方、エルサレム、メッカ、コンスタンチノーブルなどの、聖地を擁する保護国を、ことごとく、取り込む。
宗教を政治に巧みに、利用するという、したたかさである。

システムとしては、オランダと同じく、会社組織方式を取り入れ、東インド会社を設立して、経営に当らせる。

イギリスは、スペイン、オランダとは、違い、その場限りの、利益を収奪するのではなく、蓄積を図った。

そこで、巨額の産業資本を得たイギリスは、技術革新が、急速に進み、それが、18世紀中期の、産業革命として、花開く。
つまり、植民地からの、利益によって、産業革命を為したのである。

歴史教科書では、それらの、植民地からの、搾取などとは、一言も、書かれない。

あたかも、イギリスが、一人前で、産業革命が、行ったように、書いてある。
嘘である。

産業革命により、機械化が進み、生産量は、大幅に向上する。
他国を圧倒する、武器を大量に生産する。

生産性が、上がれば、原材料の供給と、市場の確保が必要になる。
イギリスは、更に、植民地を拡大し、そこから、富を奪う。

そして、その富で、産業を振興し、植民地で収奪した原料で作るものを、植民地に売りつけるという、重ねた、収奪を行うという、巧妙さである。

侵略、掠奪の、拡大再生産である。

また、恐ろしいのは、ライバルとの、争奪戦で、現地の人々を、傭兵として雇い、イギリス軍として、戦わせる。
それを、また、他国も、見習ったため、植民地争奪戦が、現地人同士で、行われるという、悲惨な状況である。

第二次大戦でも、ビルマでは、イギリス軍として、インド人兵士を、使った。

自らの、手を、一切汚すことなく、植民地から、永遠に、富を収奪する、システム。
これが、200年もの長きに渡る、イギリスの、植民地支配であった。

さて、イギリスの、産業革命は、19世紀半ばになると、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカと、次々に、それに習い、産業革命を、成功させる。

その結果、西欧列強は、資源の獲得と、市場の拡大のために、更に、多くの植民地を必要とした。

そこで、狙われたのが、アフリカである。

最初の、収奪は、人間そのもの。
つまり、奴隷である。奴隷として、アメリカに売り飛ばす、奴隷貿易。
極めつけの、非人道的、行為である。

19世紀になり、アフリカ大陸内陸部の探検により、一気に、植民地争奪戦へと、突入する。

フランス、イギリス、ポルトガル、ベルギー、ドイツ、スペイン、イタリア・・・

先住民など、無視して、次々と、領土を編入するという、暴挙である。

1914年に、独立国として、のこっていたのは、エチオピアと、リベリアの二国のみである。

イギリスが、獲得したのは、エジプト、モロッコ、南アフリカ、ナイジェリアという、資源の豊富な地域。
イギリスは、メリットのある、地域だけを、侵略したのである。

ちなみに、フランスは、アルジェリア、西アフリカ、赤道アフリカである。
面積では、一番だが、大部分が、砂漠である。

アフリカは、西欧列強により、完璧に、白人社会に、蹂躙され、今に至るまで、飢餓と、貧困、搾取を受けると言う、三重苦を強いられた。

果たして、これが、輝かしい、西欧の歴史だろうか。

彼らは、その行為を、一度たりとも、謝罪しない。
反省しない。

更に、未だに、宗主国の傲慢な、気持ちを捨てきれないでいる。
勿論、その、仕返しが、着々と、自然に、行われることになる。

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2010年09月26日

天皇陛下について52

西欧列強の、植民地政策を、見てきた。
白人主義と、キリスト教の、最悪の姿を見た。

そして、19世紀末、その植民地争奪戦に乗り込んできたのが、アメリカである。

その前に、アメリカは、先住民族である、インディアンを、民族浄化と称して、虐殺による、蛮行によって、樹立された国であることを、覚えておくべし。

西部開発という名の、侵略を完了させて、北アメリカ大陸での、膨張にメドがつくと、海を渡り、侵略行為を開始する。

最初は、ハワイである。

19世紀、ハワイには、宣教師を中心とする、アメリカ人が入っている。
宣教師であるから、布教である。
が、しかし、宣教師と、その息子たちは、ハワイの政界に進出する。

更に、要職を務めるようになる。

そして、ハワイ王国の軍隊とは、別に、最新鋭の銃器を装備した、私的軍隊、ホノルルライフル部隊を、編成するという。

1887年に、カメハメハ王朝の、カラカウア国王に、銃を向けたのである。

彼らの要求は、表向きは、近代的憲法の発布である。
だが、実質は、国王の国政への発言を封じ込め、実権を握るためのもの。

彼らが押し付けた憲法は、選挙権は、高額所得者に限る、である。
そして、二重国籍のアメリカ人にも、選挙権を認めるということ。

当時のハワイの人々は、貧しく、高額所得者とは、アメリカ人を指していた。

参政権を現地の人から、奪い、自分たちが、議会の実権を掌握するという、見え透いた行為である。

このように、キリスト教の宣教師、この場合は、プロテスタントであるが、侵略の、さきがけをするというのは、スペイン、ポルトガル以来の、伝統である。

キリスト教というものが、いかに、傲慢な思想を、白人に与えたかが、解るというもの。

カラカウア国王は、その事態を、予想していた。
そこで、実は、日本に助けを求めていたのである。

その六年前、国王は、国賓として、日本を訪れ、明治天皇に拝謁し、日本人の、ハワイ移住を懇願し、更に、国王の姪で、王位継承者である、カイウラニ王女と、山階宮親王の、婚儀を申し出たのである。

当時、人間だと、認められていたのは、有色人種の中では、唯一、日本人だけだった。

日本の皇室と、姻戚関係を結び、アメリカを牽制するという、考えである。

だが、当時は、国際社会に、出たばかりの日本である。
西欧列強を敵に回して、などということは、出来ないことだった。

明治天皇は、アメリカと事を構えるのは、日本にとって、危険であるとの、考えで、翌年、特使を派遣して、申し出を正式に、断るのである。

その後、国王は、実権を奪われ、失意のうちに、亡くなる。

代わって、即位したのが、国王の妹である、リリウオカラニである。

彼女は、1893年、最後の抵抗を試みる。
島民にも、選挙権を与える、憲法発布である。
それも、アメリカ系市民の、権利を認めた上でのこと。

しかし、駐在アメリカ公使ジョン・スティーブンは、本国に、血に飢え、淫乱な女王が、恐怖の専制王権を、復活させようとしているとの、大嘘を、喧伝する。

そして、アメリカ市民の保護を目的に、ホノルルに寄航させていた、米戦艦ボストンの砲口を、女王のイオラニ宮殿に向け、海兵隊を出動させたのである。

女王は、強制的に、退位させられた。

その後、民主的な共和国の、看板を掲げて、何と、アメリカ人の大統領を誕生させるという、暴挙である。

ドールという、宣教師の息子、サンフォード・ドールが、初代に就任する。

1898年、ドールは、島民の意思を無視し、アメリカに、国土を寄贈し、結果的に、ハワイを、乗っ取ったのである。

これから、アメリカの、植民地政策が、次々と、行われることになる。

ここでも、解るように、キリスト教の宣教師というもの、いかに、狡賢い者たちかという、ことである。
それは、カトリック、プロテスタントに、関わらない。

十字架を掲げて、人種差別を増長させて、更には、虐殺にも関わり、白人主義を、全面的に肯定するという。
呆れた、行状である。

であるから、イエスと、キリスト教とは、別物だと、考えるべきである。
今、現在も、そのような、差別意識を、キリスト教は、植え付けている。

この、歴史的事実を、彼らは、謝罪も、反省もしないのである。

宗教というものが、如何に、人間を愚かにし、蒙昧にさせるかという、良い見本である。

そして、キリスト教は、政治と、切っても切り離せないものである。
教団は、政治団体と、同じだと、考えて間違いないのである。

ローマ皇帝は、皇帝の地位を、法王に承認させ、皇帝は、法王を、承認するという、茶番を堂々と行うのである。

法王は、手を汚さずに、異端審判を繰り返して、利益を、皇帝と、山分けするという。
それが、いまだに、続いていると、見てよい。

実際、アメリカという国は、イギリス国王から、ローマ法王へ、譲渡されているのである。
アメリカの、大家は、ローマ法王なのである。


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2010年09月27日

天皇陛下について53

アメリカは、ハワイを強奪した、同じ年、スペインに戦いを挑む。
その理由が、スペインの植民地支配に苦しむ人々を、救うというものである。

米西戦争である。

キューバの独立戦争を助ける名目だったが、勝利すると、キューバは、保護領にされる。更に、スペイン領だった、プエルトリコも領土化され、カリブ海が、アメリカのものになるという、始末。

1903年のパナマの保護領化は、アジアの国々にとっても、大きな出来事。
1914年、アメリカは、パナマ運河を開通させ、南米大陸への航海権、通商権を掌握し、東海岸からの、太平洋への航路を確保する。

そして、更に、スペイン領だった、フィリピンにも、艦隊を派遣し、スペイン艦隊を撃破する。

この勝利は、フィリピンの独立革命家、アギナルド、リカルドを指導者とする、独立軍の活躍があった。

海から、アメリカに追い詰められ、マニラに立てこもったスペイン軍は、独立軍に方位され、あっさりと、降伏する。

独立軍が、アメリカに協力したのは、独立支援を約束していたから、である。

しかし、アメリカは、1899年に、戦争に勝利すると、独立軍の報復に恐れる、スペインの要望に応じて、独立軍の入城を禁じ、フィリピンを、アメリカの領土に組み入れる。

ジャングルに追われた、独立軍は、日本に、援助を求めつつ、ゲリラ戦を展開する。

すると、アメリカは、独立軍は、ゲリラであると、宣言し、戦争ではなく、ゲリラ掃討として、対処するという、暴挙に出た。
つまり、ゲリラとの、戦いは、国際法の適用外であるからである。

国際法では、殺傷力の高い非人道的な武器の使用、捕虜の虐待、拷問の禁止などが、定めてある。
ゲリラには、それが、適用されないのである。

とても、ずるい。

であるから、やりたい放題である。
ゲリラ戦で、アメリカ兵が、一人死ぬと、捕虜を一人以上、処刑する。
大量に水を飲ませて、みずぶくれになった、独立軍兵士の腹を、サウンドバッグのように、殴り続けるという。
さながら、中世の異端審判で、用いられた拷問も、行うという。

特に、悲惨だったのは、サマール島である。
島人が、アメリカ兵に、反撃したことで、報復として、女子供を含め、サマール島、隣の島の住民、二万数千人を皆殺しにするという。

更に、田畑、家屋が、焼き払われ、家畜が、殺され、そのため、食糧を失った島人は、飢餓によって、死んでいった。
その数は、五万人といわれる。

1902年、約、20万人の犠牲者を出した末、独立軍は、鎮圧されたのである。

この時、八万の大軍を率いて、乗り込んだのが、フィリピンの初代軍政長官となった、アーサー・マッカーサー陸軍少尉である。
そして、副官は、息子の、ダグラス・マッカーサー中尉である。
後に、日本占領した、連合国最高司令官の、マッカーサー元帥である。

アメリカは、更に、ずるいことを、考えた。

フィリピンに、独立を約束させたが、独立後も、支配するために、憲法に、戦争放棄の条項を、盛り込んだのである。

フィリピンも、日本も、占領政策で、独立後も、アメリカの支配下に、置かれ続けているのである。

アメリカは、その後も、グアム、サモア郡島と、太平洋の島々を手中に収めて行く。

そして、東アジアに迫るのである。

日本は、フィリピン人からは、裏切り者と、言われる。
侵略しないと、言ったのに、一時期、侵略し、占領したからだと。

しかし、アメリカは、どうか。
あまりに、事が大きいと、見えなくなるようである。

フィリピンの、知識層や、若者たちは、アメリカの文化を取り入れ、アメリカを目指した。ここでも、完璧に、アメリカに精神が、やられたのである。
英語教育も、その一つ。

領土だけではなく、精神も、その求めるものも、アメリカ追従になってしまったのである。
そして、それに、気づかず、現在まで、至る。

そして、豊かになったか。

英語は、外国に、出稼ぎに行くために、必要なものとなり、自国の文化は、衰退し、フィリピンには、何が、あるのか。

フィリピン精神を見たければ、マニラのある、ルソン島以外の、島々に出掛けなければ、見えないのである。

更に、である。
フィリピンから、何も得るものがなくなると、アメリカは、軍隊まで、引き揚げた。

金食い虫となった、フィリピンに、用は無いのである。

残虐の限りを尽くした、米西戦争・・・
アメリカでの、評価は、この戦いに参加し、外国人の人々に自由の手を差し伸べたアメリカ軍兵士たち、とある。

人権と、自由の国、アメリカとは・・・
人権は、同じ白人、キリスト教徒に言えること。

それ以外は、人間ではないのである。
そして、その感覚は、今でも続いている。

白人、キリスト教徒・・・
死ぬまで、傲慢不遜である。

ちなみに、フィリピンの戦争放棄の憲法は、そのまま、日本にも、適用された。
素晴らしい、平和憲法であるとは、何も知らない者の、たわ言なのである。

アメリカ憲法に、戦争放棄があるか。
無い。
アメリカに、楯突かないように、戦争放棄を憲法に、制定するという、ずるさ、である。

私は、個人的に、戦争放棄という、思想は、理想であると、思う。
そして、それは、世界のすべの国が、そうなるべきであり、限られた国にのみ、あるというのは、それは、策略であると、気づいた。

アジアは、言論にて、白人社会に対して、徹底抗戦すべきである。
一切の、武器は、使用せず、言論にて、白人、更には、その元である、キリスト教に対して、徹底抗戦すべきである。

主イエスは、彼らを受け入れるであろうか。
彼らは、神の国に、入るのだろうか。
天の国に、彼らが、入るというならば、その天の国は、全く、別の世界であろう。

余計な一言を、付け加えておく。
アメリカは、無限魔界の世界のみ、存在する。
霊界も、無い。
人権と、自由の、裏は、魔界なのである。


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2010年09月29日

天皇陛下について55

1894年、日清戦争勃発。

アヘン戦争で、完璧なままで、敗北した、清は、軍事的に弱く、西欧列強に、めためたにされるのが、目に見えていた。

イギリスは、アヘンを清に、売りつけて、膨大な資金を得ていた。
そこで、起こった、イギリスへの、戦争である。

上海では、今でも、バンドと呼ばれる、地区があり、イギリス統治時代の、そのままである。
イギリスに徹底的に、負けたせいか、現在の中国も、イギリスには、頭が上がらないという、逆説である。

さて、清は、属領と見なしていた、朝鮮半島の、併合を企てる。
清の、朝鮮出兵は、朝鮮南部の農民暴動「東学党の乱」である。

東学党は、西洋のキリスト教に反対する、宗教、東学を信仰する集団で、外国人と、腐敗した、役人を追放するための、暴動である。

当時、日本と清の間には、朝鮮半島を巡り、微妙な関係が生じていた。

日本は、開国した朝鮮の近代化を、援助すべく、軍政改革を推進させた。
朝鮮が、西欧列強の支配に、屈しない自衛力のある、近代国家になるべく、日本は、援助したのである。それは、また、日本の、重要なテーマでもあった。

日本の、安全保障の上で、朝鮮半島は、重要課題であったのだ。

もし、朝鮮半島が、西欧列強の支配に入れば、日本攻撃の、基地となる。

しかし、朝鮮の、宗主国を自任する、清にとっては、日本の影響力が強まることを、恐れる。

1881年、軍政改革に取り残された、朝鮮の一部軍人の、暴動が発生する。
これに乗じた、清は、数千人の軍隊を派遣して、暴動を鎮圧する。

その二年後、明治維新にならって、近代化を計ろうとした、金玉均、キンオクキュン、らが、クーデターを起こそうとする。
この時も、清は、軍隊を派遣する。
そして、親日派を排除しようとした。

日清の確執は、いよいよと、深まる。
そして、1886年、親善を名目にした、清は、購入したばかりの、軍艦「定遠」からなる、北洋艦隊を、長崎に入港させ、日本を威嚇する。

そこで、清の出兵に危惧を抱いた日本は、半島に、軍隊を派遣し、ここにおいて、日清の激突が、起こるのである。
日清戦争の、始まりである。

当時の、国際社会は、日本は、太刀打ちできないと、考えていた。

しかし、予想に反して、日本は、連勝連戦である。
わずか、一年で、清を破り、下関条約が締結された。

明治は、欧米の侵略から、国を守るために、呻吟し、苦悶を重ねた時期である。
そして、懸命に、西洋から学び、防備を固めたのである。

国を守るという、気概のある時代である。

明治政府は、大国清が、何故、西欧に蹂躙されたかを、考え、それは、科挙により、極端な、文民統治を行っていたこと。
中国の古典に精通している、エリートが、君臨して、武力に、関心を払わなかったゆえであると、結論した。

更に、朝鮮半島も、その文明を長い間、無条件に取り入れて、小中華主義に、陥っていたのである。
日本は、武力なき、中国、朝鮮は、このままでは、あえなく、西欧にやられてしまうと、考えたのである。

そこで、明治政府は、富国強兵を持って、国家の目的とした。
軍事力を、蓄えて、西欧列強の侵略に備えたのである。

実に、正しい、先見の明である。

しかし、西欧は、日本開国に対して、日本に、侵略の手を伸ばしていた。
江戸幕府は、開国にあたり、欧米列強から、飲まされた、条項がある。

一つは、プロシア、ドイツが要求した、北海道七重村の租借、二つ目は、アメリカによる、東京と、横浜の鉄道敷設、三番目は、イギリスと、フランスの、横浜への、軍隊駐屯である。

アメリカの場合は、東京と横浜間の、鉄道敷設では、駅、路線の周辺は、治外法権にするとあり、明らかに、植民地化しようとする、意欲である。

ドイツの租借、更に、イギリス、フランスの、横浜の軍隊駐屯は、自国の軍隊を配備するのであるから、すなわち、植民地支配である。

もし、徳川時代が、続けば、確実に、日本は、植民地にされていたのである。

明治政府になり、それらを、白紙にしたのである。

江戸時代の、後半は、イギリスの植民地だったという人も、いる。

明治は、このような、西欧列強の、包囲網にあった、時代なのである。

日清戦争は、そういう意味でも、原因は、西欧のアジア侵略にあると、いえる。

この、わずかな、差を見逃してはならない。
あのまま、国内紛争が、続いていれば、日本は、西欧列強に、食い物にされていたのである。

大政奉還が、いかに、大切なことだったか。

更に、被害の拡大を抑止したのは、天皇、王氏に逆らうことは、子々孫々まで、末代の恥であるという、感性である。

錦の御旗の元では、剣を収める。
最後まで、戦った、会津藩も、その言葉で、降伏を申し出た。
会津藩士は、城を枕に、討ち死にと気勢を、上げたが、藩士以下、家族全員が、死んでは、日本にとって、大損害だった。

会津藩士から、多くの偉人が、出ている。

ここで、日本の伝統である、天皇の存在が、いかに、大きく、そして、国を救うことになったかということ。

全く対立する意見を、治める時の、方法を、日本人は、知恵として、天皇の存在の下では、陛下の、お言葉に従うという、伝統である。

勿論、明治維新には、様々な、思惑があった。
正邪共に、あった。
しかし、結局、王氏、天皇の、御名により、江戸幕府は、身を引き、新しい時代を、創設することが、出来たのである。

国が乱れた時こそ、天皇陛下の、お言葉が、必要になる。
そして、国難を乗り越えるのである。

日本の伝統は、知恵なのである。
国家という、幻想を、支えることの出来る、存在、そして、神話が必要なのである。

昔、父親が、家の柱であり、家族の意見が、乱れた時には、家長である、父親の言葉に、従う。
それが、伝統であり、知恵だった。

建前というものを、置かなければ、前に進まないのである。
平たく言えば、ルールである。

その、ルールを、日本は、2671年、有しているという、奇跡である。

それを、日本辺境論、として、著したのが、内田樹、である。
彼の、その論調を少し、紹介したい。

2010年の、新書大賞に、輝いたという。
あまりに、饒舌で、人を引き込むが、ある面から、見ると、よく、書けている評論である。
新しい、反日という人もいる。
日本では、日本人が、反日的言動をしても、許される。

それは、言論の自由を、認めるということ。
素晴らしい、国である。

私のような、チンケな者でさえ、天皇陛下を、論じられるのである。
この自由を、守りたい。
そして、守るべきである。

天皇陛下とは、国民の声に、耳を傾ける、国唯一の、公人なのである。
決して、それを、遠ざけることは、しない。

その存在も、また、素晴らしい。
日本民族の、知恵の、結集が、天皇陛下で、あらせられる。


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2010年09月30日

天皇陛下について56

ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意思に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以降「辺境人」と呼ぼうと思います。
日本辺境論 内田 樹

そして、辺境人の、定義をする。
辺境とは、中華の対概念であると、言う。

世界の中心の「中華皇帝」が存在する。そこから「王化」の光があまねく四方に広がる。
内田

要するに、その概念は、歴史的に、
日本列島は少なくとも中華皇帝からは久しく朝貢国と見なされていました。朝貢国は皇帝に対して臣下の礼をとり、その代償に「国王」は冊封される。朝貢国は朝鮮、ベトナム、ルソン島、シャム、ビルマ、パレンパンまで広く東アジア、東南アジア全域に拡がってしました。
内田

日本列島の住民たちが彼らを「東夷」と格付けするこの宇宙観に同意署名したのは今から千八百年ほど前のことです、列島の一人の王が実効支配しているという事実について公的認知を中華皇帝に求めました。そして、皇帝から蕃地の自治領の支配者の封爵を授かりました。それが卑弥呼と呼ばれる女王です。
内田

ここで、日本列島における民族意識の発生について私たちがとりあえず言えることは、この地に最初の政治単位が出現したその起点において、その支配者はおのれを極東の蕃地を実効支配している諸侯の一人として認識していたということです。列島の政治意識は辺境人としての自意識から出発したということです。
内田。

これは、非常に説得力がありそうだが、内田氏の、一つの考え方である。

そして、聖徳太子の隋の煬帝に出した、親書について、それを象徴するという。

聖徳太子は、対等外交を目指した。
ところが、その親書を見た、隋の人たちは、激怒した。最も、激怒したのは、煬帝である。二度と、そんなものを、見せるなと、言った。

そこで、内田氏は、
私はいささか危険な思弁を弄したいと思うのですが、これは先方が採用している外交プロトコルを知らないふりをしたという、かなり高度な外交術ではないかと思うのです。というのも、先方が採用しているルールを知らないふりをして、「実だけは取る」というのは、日本人がその後も採用し続けてきた、今日に至る伝統的な外交戦略だったからです。
内田

と、一つの考え方である。

相手を激怒された親書を持参したのは、小野妹子である。
だが、小野妹子が、帰国する際に、あちらの、政治家が、同行してきたのである。
ハイセイセイ以下、数名の政治家たちである。つまり、煬帝の家臣たちである。

更に、その時に、彼らと、対面したのは、推古天皇ではなく、聖徳太子である。
日本の帝として、である。
更に、彼らは、一度目では、会えなかった。
二度目にして、聖徳太子と、対面する。
それを、指示したのは、小野妹子である。
あくまでも、対等外交を推し進めた。

そして、彼らが、帰国する際に、小野妹子は、再度、隋に同行している。

その、何故かは、私の解釈では、当時、煬帝が、高句麗攻めを行っていて、日本にも、援助をと、考えていたからと、私は、思う。

知らないふりをして、実だけを取る、というのは、今日に至る、伝統的な外交戦略と、内田氏は、言う。
それも、一理ある。

私が、興味を惹かれたのは、内田氏の、戦争の際の日本の対処の仕方を、論じているところである。

例えば、明治維新後、新政府は対馬藩主を介して、李氏朝鮮に政体の変換について告知の文章を送りましたが、これに朝鮮は返信しませんでした。文言が間違っているという理由で無視したのです。「本邦、頃、時勢一変、政権一ニ皇帝に帰ス」という文中の「皇帝」が非礼である、と。李氏朝鮮は太祖李成桂以来五世紀にわたって明、清の冊封を受け、みずからを「小中華」「東方礼儀ノ国」と自称するほどに華夷秩序を内面化していた国です。彼からすれば、「皇」は清国皇帝以外に存在しない。なぜ朝鮮半島よりさらに辺境の蕃地の支配者が「天皇」などという称号を名乗ることができるのか、彼らには信じられない非礼と映ったのでした。
内田

それは、内田氏も、同じである。

何故、日本という、中華と、外れた、東の島国の主を、天皇と、呼ぶのか・・・
これが、日本人の気概だとは、考えないのである。

何をやっても日本人がやることは無知ゆえに間違っている。これは華夷秩序イデオロギーが導く自明の結論です。そして、日本人の側もそういうふうに自分たちが見られているということを知っていた。
内田

「知らないふり」をすることで、こちらの都合に合わせて好きなことをすることができる。これを辺境ならではのメリットとみなすことが可能です。
内田

文明化の、進んだ、中華に対して、そこが、中心で、そこから、遠のくと、辺境なので、辺境人と、日本人を、定義して、内田氏は、書く。

否定は、しないが、別な見方もあるということを、言う。

とても、饒舌で、読んでいて、楽しいし、別の見方からの、日本人というものを、見せてくれるので、それも楽しい。
しかし、それ、一辺倒ではないのである。
日本が、中心であると、考えてもいいのである。

今の、韓国などは、世界の中心である、歴史も、韓国から、始まったと、叫んでいる。
過去、中国の朝貢国だとは、決して言わない。

更に、中国は、朝鮮半島も、わが国の領土であると、平然として、言う時期がくる。

更に、内田氏は、司馬遼太郎氏の、書いたものを掲げている。
李氏朝鮮は、平俗にいえば、中国に在す皇帝をもって本家とし、朝鮮王は分家であるという礼をとった。地理的には蕃であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一部をなすという考え方だった。
それだけに朝鮮儒教では華夷の差を立てることは過敏だった。当然ながら、この「理」によって日本は蕃国であらねばならない。ただ朝鮮という華に朝貢しに来ないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になる。
と、書いている。

当時の、状況から、そのようであったという、判断である。

辺境人という、その価値判断は、あくまでも、中国を中心とした、歴史観が、主体であるというもの。

私は、素直に、それを、受け入れることは、できない。

だが、書いている、中身は、面白いので、続ける。

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2010年10月01日

天皇陛下について57

たしかに、いろいろ言い分はあるでしょうし、そのうちのいくつかには説得力もあります。けれども、どういう理屈を立てよとも、「どこかから起こって来たもの」が戦争の主因であるというスキームだけは変わることがありません。「大東亜戦争」を肯定する、ありとあらゆる論拠が示されるにもかかわらず、強靭な思想性と明確な世界戦略に基づいて私たちは主体的に戦争を選択したと主張する人だけがいない。戦争を肯定する誰もが「私たちは戦争以外の選択肢がないところまでに追い詰められた」という受動形態の構文でしか戦争について語らない。思想と戦略があって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。どれほど好戦的な核武装論者でさえ、彼らのロジックを支えているのは「被害者意識」なのです。「北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくるかもしれない」「中国が東シナ海のガス田を実効支配するかもしれない」そういうことにまで追い詰められたらこちらの軍事的な力がなければ話にならない。そういう被害者の構文でしか「現実主義者」は軍事について語らない。日本をいつ、どうやって、どういう方法で「追い詰める」のかを決定する権利は専一的に「あちら」にある。・・・・「追い詰められない」ための予防的手立てを講ずるということについてはほとんど知的リソースを投じない。まず、「あちら」が先手を打つからゲームが始まる。自分から「打つ手」というものは何も考えていない。現代日本のミリタリストたちもまたその発想においては、まことに「辺境」の伝統に忠実であると言わねばなりません。
日本辺境論 内田 樹

この方の、日本辺境論の、元は、中華主義から、発している。
歴史的に、日本は、中華の辺境地だったという、発想からの、評論である。

実に、面白いが、ここに、隠れた、反日思想がある。

実に、巧妙に、書かれているが、最終的に、辺境人でいいのである、ということになっている。

確かに、中華は、ある時期、世界の中華という、意識で、勿論、今でも、そうであるが、そのような、時期があった。
それは、それで、確かなこと。

そこで、日本人の、発想は、その歴史的事実から、今の今まで、逃れられないという、持論なのか、問いかけなのか・・・

であるから、この方の、戦争に対する、見方を、紹介する。

華夷秩序の物語以外のほとんど唯一の例外的な外交関係として日英同盟があります。この世界最強の海軍国との同盟関係を抜きにしては、日露戦争の勝利はありえませんでした。第一次世界大戦後に「五大国」の一国として国際社会に登場することもありえなかったでしょう。けれども、近代日本の礎石となったこの貴重な同盟関係を日本はその後解消します。解消したことが悪いと言っているのではありません。問題は、このような重要な外交上の決断にどれほどの積極的な理由があったのか、史料を読んでもよくわからないということなのです。
内田

それは、自分の想像力の欠如であるとは、考えない。
あくまで、中華主義の、日本論であるから、見えないのである。

日本の、文は、行間を読むという、伝統があり、今のように、西洋思想の、論理立てなど、発展していない、時代である。
そして、発展しなくても、よい時代が、続いていた。
それも、この方は、肯定している。

この方は、戦後の、思想家、識者たちの、文を、基底にして、論ずるのが、説得力があるので、明確な、ものの見方を、持っていない人は、やられる。

ヴェルサイユ講和条約の日本全権大使は西園寺公望でした。彼は自国権益にかかわること以外、会議でほとんど発言しませんでした。その日本代表の行動は会議参加国の多くを失望させ、それがやがて日英同盟の破綻へと繋がってゆきます。
どうして、日本の代表団はヴェルサイユ条約で自国権益の話しかしなかったのでしょう。たぶん、他国の首脳たちが何を話しているのかがよく理解できなかったからだと私は思います。もちろん、言葉や理路は理解できたのでしょうけれど、どうしてそういうことを言い出すのかそのモチベーションが実感できなかった。華夷秩序の物語世界の住人には「国際新秩序」という概念そのものが、なぜそのようなものが必要なのかが、理解できなかった。私はそうではないかと思います。
内田

明治維新以後、二度の、戦争に勝ち、二度と、戦争を起こしてはいけないと、日本人は、別に思っていなかった。そして、新しい世界新秩序の必要性を、感じていなかった・・・
確かに、その通りであろう。

内田氏がいう、世界の新しい秩序とは、何か・・・
ヨーロッパの人たちは、第一次大戦により、決定的打撃を受けて、戦争を、しないことを、考えた。当然である。

だから、もう、戦争をしなくてもよい、新秩序を、考えるという時に、日本は、何も、発言しなかったと、言う。

これは、事後予言である。

国際社会のために自分たちは何ができるのか、という問いを、自らに、向けた政治指導者は、日本には、いませんでした。と、この方は言う。

歴史の格差の、問題である。

そして、今も、いないことになる。

辺境人である、日本人は、国際社会のことを、考える、素地が無い。
更に、考える必要は無い・・・
とも、考えているようである。

この辺り、この本が、売れた理由であろうか。

勿論、本人も、これは、多く欠陥があり、批判されるものだと、述べている。
更に、最初に、結論を書いている。

日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しないということなのです。
内田

そして、丸山眞男を引用して、日本論を、はじめるときの前提として、これに付け加える言葉を、持ちませんと言う。

まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変わるけれども、にもかかわらず一貫した云々―――というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。前に出した例でいえばよその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が「伝統」化しているのです。

という、上記が、結論なのである。

それを、能力と、考えると、日本人は、とてつもない、才能に恵まれていると、言える。
変わり身の、早さ自体が、伝統化しているということは、適応できるということであり、変動する世界において、日本人ほど、素早く対応できるということである。

ということは、辺境人としての、日本を、論ずる、この方は、少し矛盾しているのか、私が、頭が悪いせいか、そう思うのだろうか。

もう少し、続ける。

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2010年10月02日

天皇陛下について58

日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」であると看破したのは山本七平でした。
私たちはきわめて重大な決定でさえその採否を空気に委ねる。かりに事後的にその決定が誤りであったことがわかった場合にも、「とても反対できる空気ではなかった」という言い訳が口を衝いて出るし、その言い訳は、「それではしかたがない」と通ってしまう。
内田

そこから、戦争のことに、言及してゆく。

戦艦大和の沖縄出撃が軍略上無意味であることは、決定を下した当の軍人さえ熟知していました。しかし、それが「議論の対象にならぬ空気の決定」となると、もう誰も反論を口にすることができない。山本七平はこう書いています。
「これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の評論に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう。彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから・・・」

これに対して、丸山眞男は、「超国家主義の理論と心理」の中で、見事な分析をしていると、この方は、言う。

ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るにわが国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。
丸山

世界的体系や、公権的基礎づけが、ないことに、注目すると、言う。

丸山の言う「ずるずる」というのは、その政治的行為を主宰する主体がいないことを示す擬態語です。ある政治的判断について、その意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪のすべてについて責任を取ろうという人間がいない。既成事実の前には再現なく譲歩し、個人としての責任の引き受けはこれを拒否する。
内田

丸山が、日本人の思考原型は、
「現実的」に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。
と、述べている。

とても、よく分析しているが、これは、頭の良い人の、遊びである。

現実と、現状を、生きていない、頭の良い人は、このように、論理の中に、埋没する。
勿論、彼らは、物を書いて、ナンボの生活をしているので、それが、商売である。

何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した・・・

あれから、つまり、開戦から、70年を経る。
昭和天皇が、どのように、努力されて、戦争回避を願ったか・・・
更には、昭和天皇が、全責任を負うと、言う。

ナチスは、堂々と、その論理を持って、開戦に踏み切ったが、日本は、ずるずると・・・
そして、それは、今も、変わらず。
それで、また、いいのである。
それは、辺境人だから・・・
内田氏は、言う。

ずるずるとが、幸いした、日本だったということだ。

敗戦後に、私は、開戦方針を主導したと、名乗る人間が、大日本帝国の指導部には、一人も、いなかったという。
それが、日本人の思考法であり、それが、辺境人だから、故のものである。
肯定もし、否定もする。という、内田氏である。

日本人は、パーツ主義である。
全体は、別物として、存在する。
その、存在は、空気なのである。

十分に、分析した。

それが、最高の、民主的思考法だと、誰もいわない。

民主的思考法というものは、そういうものであろう。

ポツダム宣言受諾に際して、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限」は「連合国最高司令官に従属」するという条項の解釈をめぐり、これが、国体の変革を意味するかどうか、御前会議の場で、激しい議論になった。

日本国の本体であるところの「国体」というのは他国に従属しても政体の根本理念が変わっても変わらないものとして観念されていたわけです。それは、国体の定義を下す権利は政府にも天皇にも誰にもないと主張した「神州防衛派」の思考ともとは同型のものでしょう。
内田

更に、続けて
でも、私はこの国体規定を「ナンセンス」と哂うことはできないと思います。まさしく、日本の国民的アイデンティティの中心は、この「他国に従属しても政体の根本理念は変わっても変わらないもの」すなわち、「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者である」という自己認識の仕方そのもののうちにあるからです。
と、言う。

その通りだと、思う。
よくよく、分析している。

しかし、その中でも、心身ともに、辛苦し、その身を、引き裂いても、国民を守り、更に、日本を、救おうとした、天皇陛下の、存在には、触れないのである。

この方は、日本の辺境人として、そのまま、辺境人を、貫いてゆこうと、書くが、果たして、痛みというものを、知る者なのかは、解らない。

民主的な、日本の思考法の中で、それを、痛みとして、国の、君主である、天皇陛下の存在を、忘れて、分析など、出来るものではない。

下々の国民、更には、そこから、選ばれた国の、指導者たちの、分析なのであろう。

空気、確かに、空気は、生きている。

議論の末は、天皇陛下に、承認されて、お言葉として、詔として、発令してきた、日本の政治である。

再度、
思想と戦略があって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。
と、内田氏は、言う。

そして、被害者意識によるものが、すべてを、仕切ると、言う。

そして、それでいい、のであると。

それならば、最後まで、外交努力にて、収めたいと、希望された、昭和天皇の、御心は、どうなるのか。

そして、思想と戦略の無い、指導者たちが、この期に及んでは、戦争しかないと、空気で、決めたこと・・・

それほど、おかしなことか。
天皇陛下を、説得した、指導者は、本当に、ずるずると、行為したのか。

それは、日本流の、思考法であろう。
内田氏の言う、辺境人でも、何でもいいが・・・

分析は、よくするが、現実的、更に、現状を、ただ、言語化するという、評論の、限界を、感じてのことか・・・

明確に、言語化しなければ、世界に通用しない。
思想、思考法を、明確にしなければ、ならない。
それでなくては、世界的社会の中では、通用しない。

私は言う。
だから、今までの、思考法では、世界は、いつまでも、同じことを、繰り返し、戦争もまた、繰り返すから、日本的、思考法、真の、民主的思考法を、理解してもらうべきだと、思う。

そのためには、盟主たる、天皇陛下の存在が、必要不可欠である。


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2010年10月03日

天皇陛下について59

ひねくれた考え方ですけれど、華夷秩序における「東夷」というポジションを受け容れたことでかえって列島住民は政治的・文化的なフリーハンドを獲得したというふうには考えられないか。朝鮮は「小中華」として「本家そっくり」にこだわったせいで政治制度についても、国風文化についてもオリジナリティを発揮できなかった。それに対して、日本列島は「王化の光」が届かない辺境であるがゆえに、逆にローカルな事情に合わせて制度文物を加工し、工夫することを許された(かどうかは知りませんけれど、自らに許しました)。
内田 樹

このように、日本を、辺境の地と、捉える考え方から、日本を見詰めるという、作業は、尊敬する。
ただ、それに、いつまでも、拘泥し、さらに、それで、いいではないかという、この方の、論旨には、すべて、賛成できるわけではない。
だが、参考に、見てみる。

この国際社会における微妙な(たぶん無意識的な)「ふまじめさ」。これはもしかすると、辺境の手柄の一つかもしれないと私は思うのです。はるか遠方に「世界の中心」を擬して、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまず確保し、その一方で、その劣位を逆手にとって、自己都合で好き勝手なことをやる。この面従腹背に辺境民のメンタリティの際立った特徴があるのではないか。・・・・例えば、この「コスモロジカルな劣位」を逆手にとって、自己利益の追求に専心するという生存戦略は1945年の敗戦のあとに日本人が採択して歴史的成功を収めたものだからです。
内田

それでは、その後に、書いている、
私たちは現にアメリカの「核の傘」の下で軍事的安全を享受しています。政府は核拡散には反対しても、アメリカが核を保持することに反対したことはない。それどころか、近年では日本の自主核武装の必要を論じる政治家や評論家がおり、その支持者たちがいる。そして、たぶん誰も反対しないのは、第二次世界大戦末期にもし日本が原爆を開発していたら、大本営はそれをニューヨークやサンフランシスコのアメリカの非戦闘員の上に落とすことをためらわなかっただろうし、当時の日本国民はそのニュースを歓呼の声で迎えただろうということです。そういう国民が発信する「核廃絶」のメッセージが国際社会に対して指南力を持つことはむずかしいだろうと私は思います。
内田

上記は、とても、おかしい。

日本国憲法は日本人が書いたものではありません。これは護憲派も改憲派も事実関係ではもう争ってはいません。GHQのニューディーラーたちがその当時の憲法学の最先端の知見を総動員して、人権宣言や独立宣言やワイマール憲法やソ連憲法を素材にして起草したものです。間違いなく、理念としては実にすぐれたものです。でも、これは日本人が作ったものではない。日本人がそれまでの歴史的経験を踏まえて、その叡智を集結して、長期にわたる国民的合意形成の努力の果てに、振り絞るようにして世界に宣言したものではありません。敗戦の結果、われわれよりも文明的な上位にある国から「下賜品」として与えられたものです。
内田

「コスモロジカルな劣位」を逆手にとって、自己利益の追求に専心するという生存戦略は1945年の敗戦のあとに日本人が採択して歴史的成功を収めたものだからです。
と、書いている先から、上記のような、実に多弁な、論理的な、意見を書くという、姿勢に、私は、頭だけの、思考作業と、判断する。

文明的な上位にある、国から、下賜されたとは・・・
文明的に、上位にある国とは、アメリカ、その他西欧諸国のことか・・・

中華の、辺境、更に、アメリカ、連合国の文明を上位として、解釈するという・・・

更には、原爆が日本にあれば、当然使用した・・・

それを、前提にして、論理的に、書く、思考するというのは、血の通わない、人間が、頭脳だけで、言葉を、遊ぶものだということを、知らない。

敗戦後の、思想家たちの、基本を踏まえて、辺境論を論じるのだろうが、辺境意識を、いつまでも、持つというような感覚に、私は、この方の、知性の、辺境と、偏狭を、見るのである。

そういう国民が発信する「核廃絶」のメッセージが国際社会に対して指南力を持つことはむずかしいだろうと私は思います。
と、何故、そのように言えるのか。

そういう国民・・・
つまり、原爆を持っていたら、使用したであろう、国民が・・・
ということ。
信じられない、蒙昧である。

もし、歴史が、こうであれば、云々・・・という、お話しに、現実味を感じて書くと言う神経は、ただ事ではない。

原爆は、無かったのであり、使用したくても、出来なかったのである。
現実は、原爆を使用しなかったのである。

それを、前提として、書くことが、出来るならば、何とでも、書ける。

更に、
日本人がそれまでの歴史的経験を踏まえて、その叡智を集結して、長期にわたる国民的合意形成の努力の果てに、振り絞るようにして世界に宣言したものではありません。
この方は、一体、何を言いたいのであろうか・・・

敗戦後の、日本の状態を、何も、把握せずに、いや、その前に、
この「コスモロジカルな劣位」を逆手にとって、自己利益の追求に専心するという生存戦略は1945年の敗戦のあとに日本人が採択して歴史的成功を収めたものだからです。
と、書いているではないか。

劣位・・・
この方の、書いたものは、反日精神であると、判断するしかない、のである。

そして、読者を、騙すのは、辺境人で、いいじゃないか・・・
そうして、これからも、生きてゆこう、である。

自虐史観と、何の変わりも無い。

思想的にも、戦略的にも、何もなく、ずるずると、戦争に突入した。
そういう国が、日本という国である。

生存者の、戦記を読んでいて、そのような、書かれているのを、読む時に、私は、そこに佇むが、この方は、戦争体験もせず、単なる、言葉の寄せ集めを、読んで、更に、遊びとして、このようにして、日本を、堕落させるのである。

それに関しての、具体的な、この方の書いた戦争の分析を、読んでみることにする。

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2010年10月04日

天皇陛下について60

相違点は本質的には一つしかありません。幕末の日本人に要求されたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、明治末年の日本人に要求されたのは「世界基準を追い抜くこと」であったということ。これだけです。
日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。あたかも、そのようなことを日本人はしてはならないとでも言うかのように。あたかも、他国の範となることが日本人だけには禁じられているとでも言うかのように。そのようなことをしたら日本人はもう日本人ではなくなってしまうとでも言うかのように。
内田

鋭い分析。

更に、
この脊髄反射的な無能化から、私たちはこれが民族のアイデンティティにかかわる問題だということを察することができます。というのも、長期にわたる国益を損じても守らなければならないものがあるとすれば、それは論理的には一つしかないからです。それは国益を享受すべき当の主体です。日本人が国益を損なっても守ろうとするものがあるとすれば、それはひとつしかありません。それは日本です。
内田

そこから、日清戦争後の、日本の、歩みを、
日本はそのあと韓国を併合し、満州国を建国し、インドシナを抑え、フィリピンを制し、大東亜共栄圏と称して「あまねく東洋を威服せん」としました。私たちが忘れてはならないのは、その行為の邪悪さや愚かしさではなくて、それらの行為がすでにその三十年も前に国際世論によって正確に予測されていたという事実です。・・・どうして予見できたかというと、それら一連のアジア戦略は「帝政ロシアが日露戦争に勝って、そのまま満韓を支配した場合にしそうなこと」だったからです。事実、日本は「ロシアだったらやりそうなこと」をほとんど一字一句たがえずにそのあと満韓において再演したのでした。
内田

更に、
だから、この作業は本質的には「キャッチアップ」なのです。ロシアが制定してくれた「世界標準」に追いつこうとするとき、日本人はきわめて効率的に知能を使うことができる。指揮系統が機能していなくても、出先機関が動けたのも、出先機関の「暴走」を参謀本部が糊塗し、軍略全体のうちに位置づけることができたのも、彼ら全員が「見えざる台本」を共有していたからです。
内田

陸軍の、暴走も、然りであると、言う。
このまま、この方の、論調に、のめり込んでしまいそうである。

確かに、
その中に「諸国民に先立って、日本が人間としての範を示すべきこと」を提言している人は一人もいません。もし「日本が諸国民に卓越している」というのがほんとうなら、これまでどの国みのどの国民も思いついたことがないような種類の、真にオリジナルな、そして同時に真に普遍的な、国際社会の行く末をあかあかと照らし出すような理念やプログラムが日本人によって提言されていていいはずです。でも、この「世界に冠絶する」日本のナショナリストたちが提言しているのは「他の国が「こんなこと」をしているのだから、うちも対抗上同じことをすべきである」という提言だけです。それだけです。・・・
内田

要するに、日本人は、他を見て、これからの、行為を思考するというのである。
一見、胸のすくような、観察と、洞察である。
さらに、批判である。

だが、そこにある、共生と、調和ということを、考える日本人という、評価は無い。

ヨーロッパ思想史が教えてくれるのは、社会の根源的な変革が必要とされるとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想を今ここで実現しようとする強靭な意志を持った人々です。
内田

これは、比べられないものを、比べるという、あまりに、無謀な、考え方である。

この方も、辺境人の一人であるから、最もなことであるが・・・

日本の、適当な、識者や、思想的偏りの、人々に対して、の、批判なのであろう。

幕末から後で、自分の言葉であるべき社会像を語り、それを現実に繋げ得たのは坂本竜馬の「船中八策」くらいでしょう。
内田

この方は、横の、関係のみ、見るが、上下の関係は、見ない、見えない。

天皇のお言葉・・・
明治天皇の、五箇条のご誓文に関しては、見ない。

真にオリジナルな、そして同時に真に普遍的な、国際社会の行く末をあかあかと照らし出すような理念やプログラムが日本人によって提言されていていいはずです。
と、言うが、それでは、ご自分が、打ち出してみると、いい。

この方も、辺境人なので、それは、出来ないらしい・・・

今まで、様々に、分析された、戦争のことがらに、対して、新しい思考法で、論じているが、軍部の暴走などは、何故、そのようになったのか、実によく分析されている。

日本は、激しい利害関係を、体験しないできたのは、島国だからであり、それは、何も、卑下することではない。
さらに、空気で、決めるということも、問題ない。

歴史は、確定しているのである。
その、確定している、歴史の事実を、どのように、理解するのも、自由である。

日本の右翼左翼に共通する特徴は、どちらも「ユートピア的」ではないこと、「空想的」でないことです。すでに存在する「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。
内田

右翼左翼を、相手に、こんなことを言うのは、辺境人らしい。

そんなもの、ことを、相手にしていられないのである。

兎に角、横にしか、批判が向かないのである。
上下というものの、感覚を見失っている。

勿論、その分析は、聞くに価する。
しかし、分析は、分析で、終わる。
最後まで、分析して、そして、辺境人の、特徴をさらに、生かすことだとは、いい気な、商売である。

物書きの、限界を、示した意味では、とてもよい、評論である。


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2010年10月05日

天皇陛下について 61

戦後も事情は変わりません。日本が世界に向けて「私が世界標準を設定するので、諸国民もまたこれに従っていただきたい」という文型で教化的メッセージを発信した例を私は知りません。
内田

この方は、実に鋭い分析をするが、唯一、欠けているのは、宗教に関して、である。
宗教的要素を、すべて除外して、分析する。
諸国民とは、ユダヤ、キリスト、イスラム教に対してを、言うのか・・・
世界は、民族と、宗教が、実に密接に関わっている。

そんな中で、諸国民に、メッセージをという、辺りは、いかがなものか。

それで、
「教化」というのは、「諸君は私のメッセージを理解せねばならない。なぜなら、諸君が私のメッセージを理解せねばならない理由を諸君はまだ知らないが、私はすでに知っているからである」というアドバンテージを主張できるものだけがなしうることです。人々がまだ知らないことを、すでに知っている人間にだけできることです。そして、私たちはこういう言葉を口にすることができない。どれほどつよく望んでも口にすることができない。
内田

それを、出来るのは、金をふんだんに使い、世界にメッセージを発信する、宗教団体、S会であろう。
会員の、金をふんだに使えば、どんなメッセージでも、出せるのである。

私たちにできるのは「私は正しい。というのは、すでに定められた世界標準に照らせばこれが正しいからである」という言い方だけです。それ以外の文型では「私の正しさ」について語ることができない。
内田

そして、次ぎの分析は、学者らしい。
「日本は世界に冠絶するすばらしい国だ」と揚言する人がたまにいます。けれども、彼らはつい日本がいかにすばらしい国であるかを挙証してしまいます。誰にも納得できそうな実例を挙げて、「ほら、日本はこんなにすばらしい国でしょう」と胸を張る。その人たちが忘れているのは、「世界に冠絶する国」は世界に冠絶する所以を挙証しないということです。「「私が世界に冠絶している」ということについて、ぜひみなさんの同意を賜りたい」という態度そのものが「世界に冠絶している」という前件と背馳するからです。
内田

実に、論理的であり、論理破綻をする、私には、さすがと、思わせる。

「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を設定することはできない」、それが辺境の限界です。
内田

この方は、運命論者のようである。
辺境の、限界です。
私は、時代性と、時代精神だと、言う。

日本が、一時期、辺境と、言われる所以は、理解する。しかし、それは、その時代性の問題である。更に、今も、それが、続いている。
この方は、おおよそ、1500年前から、であると、言う。

推古天皇辺りからの、ことである。

ですから、知識人のマジョリティは「日本の悪口」しか言わないようになる。政治がダメで、官僚がダメで、財界がダメで、メディアがダメで、教育がダメで・・・要するに日本の制度文物はすべて、世界標準と比べものにならないと彼らは力説する。そして、「だから、世界標準にキャッチアップ」というおなじみの結論に帰着してしまう。
内田

その通りである。

学ぶべき見本が外部にあり、それと比べて相対的に劣位にあるわが国の諸制度を改善せねばならない。そういう語法でしか、右翼も左翼も中道も知識人も非知識人も語ることができない。そして、そういう語法でしか語ることができないということに気づいていない。
内田

全く、その通りである。

指南力のあるメッセージを発信するというのは、「そんなことを言う人は今のところ私の他には誰もいないけれど、私はそう思う」という態度のことです。自分の発信するメッセージの正しさや有用性を保証する「外部」や「上位審級」は存在しない。そのようなものに「正しさ」を保証してもらわなくても、私はこれが正しいと思うと言いうる、ということです。どうして言いうるかと言えば、その「正しさ」は今ある現実のうちにではなく、これから構築される未来のうちに保証人を求めるからです。私の正しさは未来において、それが現実になることによって実証されるであろう。それが世界標準を作り出す人間の考える「正しさ」です。
内田

実に、教育的発言である。
私も、賛成する。

そろそろ、この方の、一部をもって、終わりたいと思う。

私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。
そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています、千五百年前からそうなんですから。ですから、私の書いていることは「日本人の悪口」ではありません。この欠点を何とかしろと言っているわけではありません。私が「他国との比較」をしているのは、「よそはこうだが、日本は違う。だから日本をよそに合わせて標準化しよう」という話をするためではありません。私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。
内田 改行は、私

そこには何か固有の召命があると考えることは可能です。
とも、言う。

私は、戦争に関しての、記述のみを、取り出してと、思ったが、この方の、結論までをと思い、引用してきた。

大東亜戦争は、ぶっちゃけて言うと、欧米が日本の台頭を、極度に恐れたのである。
ずるずると、戦争に突入したのは、日本ではなく、あちらなのである。
今のうちに、潰しておかなければ、えらいことになる、との、あちらが、日本を、ずるずると、戦争に引き込んだのである。

昭和天皇は、最後まで、戦争回避で、外交努力でとの、御心だった。

それから、空気で、決まる・・・
冗談ではない。
空気で、決まって、320万人も、死んだ。

更に、兵士たちは、空気で、決まって、いのちを、国のために、捧げた。
冗談ではない。

一人の人間を、殺したり、殺されたりしても、大騒ぎである。

あれだけの、人間の死が、空気で、決まる。
いい加減にせーーーーと、私は言う。

生きている者は、本当に、いい気なものである。
死人に口無しである。

内田氏の、分析は、論理的かつ、敗戦後の、思想家たち・・・の、考え方を、踏襲して、書いている。
だが、私から、言わせれば、単なる、金になる、暇つぶしである。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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