2010年08月22日

天皇陛下について 22

大東亜戦争を、長い歴史の、見方をすれば、五世紀に渡った、西欧列強、白人の、有色人種に対する、解放の戦争であったと、いえる。

有色人種が、到底適わないであろうと、諦めていた、白人支配、植民地化に、唯一、歯向かい戦った戦争が、日露戦争である。

世界史上、特筆すべき、戦争である。

そして、大東亜戦争により、それを、更に、具現化した。

人権の国というのは、日本のことを、言う。
アメリカが、自由と、人権の国ではない。

大東亜戦争は、自存自衛の戦争であり、アジアの開放という、崇高な目的を掲げて、戦った戦争と、今こそ、意味づけがされる。

更に、日本は、最初に、人種差別の撤回を求めた。

日本軍によって、シンガポールが、陥落したとき、当時、ロンドンに亡命していた、フランスの、ドゴール将軍、後の、大統領は、日記に、綴った。
シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉を意味する、と。

日本の敗戦後、アジアは、続々と、独立国が誕生した。
フィリピン、インド、パキスタン、ビルマ、セイロン、マレーシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、インドネシア・・・

そして、アジアの、民族自決運動は、アフリカをも、動かした。
アフリカ大陸でも、続々と、独立国が生まれた。

これにより、五百年の間続いた、白人による、有色人種の植民地支配は、幕を閉じたのである。

1957年5月に、来日した、インドネシアの、ブン・トモ情報・宣伝相は、次のように日本政府の要人に語った。
われわれアジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパの人に対して何度となく、独立戦争を試みたが、すべて、失敗した。インドネシアの場合は、350年間も、である。それなのに、日本軍が、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスを、われわれの面前で、徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは、白人の弱体と、醜態ぶりを見て、アジア人全部が、自信を持ち、独立は、近いと思った。一度、持った自信は、決して崩れない。日本が敗北した時は、これからの独立戦争は、自力で遂行しなければならないと、思った。しかし、独力でやれば、50年は、かかると思っていたが、独立は、意外に早く勝ち取ることができた。
そもそも、大東亜戦争は、われわれの戦争であり、われわれが、やらねばならなかった。そして、実は、われわれの力で、やりたかった。それなのに、日本だけに、担当させて、少ししか、お手伝いできず、誠に、申し訳なかった・・・
である。

更に、タイの、ククリット・プラモード元首相は、次のように述べている。
日本のお陰で、アジア諸国は、すべて、独立した。日本という、お母さんは、難産して、母体を損なったが、生まれた子は、すくすくと、育っている。今日、東南アジア諸国民が、米、英と対等に話ができるのは、一体、誰のお陰であるか。それは、身を殺して、仁をなした日本という、お母さんがあったためである・・・

更に、である。
あの、マッカーサーまでが、東京裁判の最終判決の、わずか二年後、1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、その途端に、戦前の日本が、恐れた、北からの脅威の意味が、解ったのである。

マッカーサーは、日本を、ナチスと、同じような、軍国主義、邪悪な民族という、イメージを持って対処し、戦争を犯罪として、日本を裁こうとした。が、
侵略戦争の共同諜議なるものを、証明できなにかったのである。

だが、当時の、マッカーサーは、戦争裁判で、日本を裁く事が、使命と思っていたのである。

ところが、共産軍の、侵攻を放置すれば、朝鮮半島が取られ、更には、日本が危ないということを、身を持って知ったのである。

マッカーサーは、全力を挙げて、朝鮮半島を守ろうとした。結果は、第二次世界大戦に、匹敵するほどの、兵士の死者を出すことになったのである。

彼が、気づいたのは、ソ連や、中国をバックにした、北朝鮮と戦う場合は、朝鮮半島だけを、考えては勝てないということだった。
弾薬、武器は、中国、ソ連から、続々と、補給される。
つまり、補給源を断たない限り、降伏しないということだった。

勝つためには、補給基地となる、満州を空襲しなければならない。また、東シナ海に面した中国を、海上封鎖しなければ、ならない。

マッカーサーは、戦争中、その考えを、トルーマン大統領に進言したが、これを拒否された。それは、トルーマンが、ソ連と、原爆戦争に突入することを、恐れたからである。

そのために、朝鮮半島を、守りきる事が出来ず、アメリカは、北緯38度線から、北を敵に渡して、休戦協定を、結ばざるを得なかった。

この体験から、戦前の日本が、あれほどまでに、満州に執着したのか、北の脅威が、如何なるものかを、明確に、理解したのである。

連合国最高司令部、最高司令官を解任されて、帰国後、上院で、演説したときに、
日本の戦争は、侵略戦争というより、自衛の戦いであった、
と、語ったのである。

つまり、ソ連の脅威が、なければ、満州事変は、起こらなかった、ということである。

だが、マッカーサーが、更に、驚くべきことは、アメリカ内部にあったのである。
今まで、書きつけた事柄である。

悪と言うものも、国際社会では、相対的なものであろう。
しかし、相対的として、判断しても、白人主義は、矢張り、悪というしかない。

アメリカや、フランスなどが、いうところの、自由と人権などは、その国内における、言葉である。
日本のように、国際的感覚ではない。

国際連盟の、人種は平等であるとの、原則を打ち立てようとした、日本の提案に反対したのは、イギリス、アメリカ、ポーランド、ルーマニア、ブラジルの、五カ国である。

11対5であったが、議長であった、アメリカの、ウィルソン大統領が、全会一致、少なくとも、反対者がいないこと、との、論理を振りかざして、否決したのである。

よくよく、鑑みてみれば、アメリカには、自由も、人権も無いのである。

だから、オバマ大統領誕生が、嘘のようであった。
つまり、アメリカは、死んだのである。
新たなる、アメリカが、生まれるためには、数百年の歴史が必要である。

つまり、建国からの、年月と同じ、年月である。
世界一の、軍事大国として、それでも、世界に君臨するのか。

その、軍事を、売ってでも、経済の建て直しを迫られるはずである。
アメリカには、もはや、力は、無い。

とことん、日本に、見破られたからである。
次は、日本が、アメリカを、どのように、導くかが、問題である。




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2010年08月23日

天皇陛下について 23

昭和20年8月15日正午
天皇陛下の、御声は、全国に、ラジオ放送された。

朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せむと欲し、ここに忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英紫蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり・・・
堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。

慟哭と、動揺が、日本中を、震わせ、将兵の自決が続いた。

宮城、皇居前でも、集団自決が、行われるなどの、悲惨な事件が続いた。

鈴木首相は、戦争を終結させて、即日、辞職し、後継には、非常の措置として、東久邇宮稔彦王が、任命された。

皇族が、政治に関与するのは、天皇に、塁を及ぼす惧れがあり、明治以来、タブーとされてきたが、敗戦という、未曾有の危機を乗り越えるために、皇族の権威が、俄かに、要請された。

厚木航空隊の反乱などの、抗戦派の不穏な動きの、鎮圧と、占領軍受け入れ態勢の準備、外地の三軍への、勅旨伝達と、慰撫、ポツダム宣言に基づく、措置、国内の、治安維持、陸海軍の解体と、復員、戦犯問題、思想警察の解散などのほかに、経済再建、平和国家の青写真作り、など、なすべきことは、山積みしていた。

それは、天皇の権威を背景に、強力な、推進力となった。

だが、昭和6年以来、連続14年に渡る、戦争で、国民の、厭世観、無力感も、無視できなかった。

8月28日に、米軍の第一陣が、到着し、その二日後、8月30日に、マッカーサー元帥が、東京への途は遠かったと、降り立った。

米軍は、横浜、横須賀へ陸続と、陸軍部隊、海兵隊が上陸し、東京をはじめ、全国に進駐した。

9月2日、戦艦ミズーリ号のデッキで、降伏調印式が行われた。
義足を引きずり、首席全権重光外相が、出向いた。

横浜の、ニューグランドホテルに、仮滞在していた、マッカーサーは、9月8日、米国大使館の公邸に入り、17日、皇居のお濠ぎわの、第一生命館を、連合国軍総司令部、GHQとした。

いまや日本は、四等国に転落した。
マッカーサーの言葉である。
非常に、日本に対して、不敬な言葉を、吐いたが、マッカーサーは、日本のことを、知らない。多く勘違いしていたと、思われる。

日本にとって、幸いだったことは、軍政を敷く予定を、変更して、日本政府の、行政権を認めたことである。

GHQは、日本を解体すべく、復仇のメスを揮う。

その第一は、東条英機ら、39名の、戦争犯罪人を、巣鴨拘置所に、収容したこと。

東条は、逮捕のために、将校らが、自宅に来ると、自ら、拳銃で、心臓を撃ち、自決を計ったが、かすかな、狂いで、心臓を外れて、肺を貫通し、瀕死の重傷を負った。

戦犯の、逮捕は、その後も、続々と行われた。
軍、政、官、財、文化各界の要職にあった者たちは、戦々恐々と、息を潜めるように、日を送っていた。

天皇陛下は、
昨日まで、股肱と頼んだ者たちを、戦争責任者として、引き渡すのは、まことに、苦痛であり、忍び難いところである。自分ひとりが、引き受け、退位でもすることで、納めるわけにはいかないだろうか。
と、木戸内大臣に、諮ったが、木戸は、
いま退位を、仰せられては、皇族の基礎に、動揺をきたします。
と、反対した。

責任者たちの逮捕は、たしかに天皇にとって身を切られる苦痛であったろうが、じつは天皇自身、明日にもどんな過酷な運命に見舞われるか、予測もつかぬ身の上だった。
天皇裕仁の昭和史 河原敏明

そんな中、二人の、米英の、記者が、ジープで皇居に乗りつけ、天皇への、インタビューを申し込んだ。
驚いたのは、総務課の人たちである。

対応したのは、英語が得意な、黒田秘書官である。
天皇に会って、この戦争への感想と、今後の考え方などを、インタビューしたいという。

黒田は、唖然とする。
何ということか。記者の分際で、陛下に、拝謁したいとは・・・

黒田は、大臣と協議の上、
陛下とのご会見は、外務省を通して、手続きを踏んだ上にして、いただきたい。それに、陛下は、終戦時の過労で、目下、健康をそこねていらっしゃると、丁寧に、断る。

だが、彼らは、あれこれと、手を尽くし、ついに、UP社長と、ニューヨーク・タイムズ記者の二人が、9月25日に、空前のインタビューに成功した。

それは、事前に提出した、質問に、天皇が答えるもので、それは、拝謁の形をとった。

天皇が戦犯として逮捕されるか、退位を要求されるか、五里霧中の不安感にさいなまれていたが、GHQからはなんの音沙汰もなく、当たってみても手探りの域を出なかった。マ元帥は獲物が網にかかるのを待つように、余裕綽々としていたのである。
河原敏明

マッカーサー回顧録
「天皇に出頭を命じたり」すれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の前に殉教者に仕立て上げることになる・・・私が待っていれば、やがて、天皇は自発的に、私を訪問するだろう。
とある。

それを、知らない、宮内省は、藤田侍従長を、天皇の使者として、元帥を訪ねさせた。

藤田は、天皇のお言葉として
元帥は、開戦以来、ほうぼうの戦場で戦ってこられたが、健康は、どうであろか。灼熱の南方諸島で健康をそこなうようなことは、なかったろうか。また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に、健康にご注意ありたい。
と、伝えた。

元帥は、
私のことを、種々心配してくれて、感激にたえない。どうか陛下に、よろしくお伝え願いたい。
と、答えた。

それ以上の、進んだ話は無かった。

その仔細を聞いた、吉田茂外相が、元帥に会い、
天皇陛下には、閣下を、ご訪問したいとの、お気持ちをお持ちです。
と、伝えた。
すると、
日本の進駐がスムーズに進んだのは、天皇の協力が大きいと思う。訪問されるなら、喜んで、お迎えする。
との、返答を得た。

その日程は、9月27日、午前十時、米国大使館において、ということになった。

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2010年08月24日

天皇陛下について 24

マッカーサー元帥を、訪問される日、陛下は、車四台という、前例のない、簡略な行態で、御文庫を出発された。

玄関を出る際の、陛下は、いとも御深刻な御表情に拝したと、総務課長筧の手記にある。

警備配置は、一切しないこと、随員の数は、少なく、元帥は、玄関で送迎せず、会見室の入り口の、廊下で迎えることなどを、言い渡されていたのである。

元帥の宿舎である、虎の門の大使公邸に到着。
玄関には、副官らが冷厳さを、たたえて、並んでいた。
車を降りられた陛下は、一瞬、気負わされた戸惑いを見せた。

その時、陛下の前に、出た、フェラーズ代将は、
ようこそ、いらっしゃいました、陛下
と、にこやかに、笑顔で、手を差し伸べた。

この、フェラーズ代将の、いとこが、外務省の寺崎英成参事官の夫人グェンであった。
寺崎は、後に、御用掛となり、陛下と元帥の会見の通訳をする。

会見にあてられた、ホールは、二階にあり、元帥は、笑みもなく、陛下とは、事務的な握手をした。

米軍の写真班員が、二人の写真を三枚写した。

マッカーサーは、この時まで、日本を誤解していた。
ナチスと同じく、全体主義、軍事国家であり、悪魔の国と、想像していたのである。

陛下と、元帥が、卓をはさみ、通訳の奥村勝蔵が、その中間に座った。
宮内大臣と、侍従長ら五人は、別室に入れられた。

さて、ここで、会見の内容は、謎とされている。

様々な資料を、基に、私は、想像する。

まず、随員たちは、予定時間を過ぎても、陛下が、お戻りにならないので、気をもんだが、十分もオーバーしたころ、二人の声が、廊下に聞こえた。

二人の、表情に、一同は、歓喜したという。

元帥には、先ほどとは、打って変わって、温和さがあり、陛下も、いつもの温顔を取り戻されていた。

更に、随員たちを、元帥に紹介した。
驚くべきことは、次である。
元帥は、公邸玄関の、車の前まで同行した。

玄関での、送迎は、しないとの、申し渡しを、元帥自らが、破ったのである。
そして、最高の敬意である、ドアを開けて、陛下を乗せた。

ただ、元帥は、陛下と握手をして、車が発車するのを、待たず、身を翻して、引き返したのである。

これは、元帥が冷静に戻り、あまりの、感激に、度を逸したと、思ったのだろう。
だが、別の書き物には、陛下に近い側近が、語ったこととして、元帥は、車が去るまで、敬礼していたとも、ある。

帰りの車中で、陛下は、嬉しさを堪えきれず、極めて異例なほど、侍従長に、語りかけたという。

元帥が、天皇に、好感を持ったことは、占領下の日本に、大変な好結果をもたらすことになった。
通訳を務めた、奥村勝蔵の、まとめた、会見録は、正副二部あり、外務省と、慣例に反して、そのまま、天皇の私室に保管された。

会談の内容については、他言しないという、約束だった。
昭和天皇は、それを、生涯、守られた。
ただ、元帥は、回想録で、ある程度、披露している。

だが、何がしかは、洩れる。

昭和30年9月14日の、読売新聞に、重光元外相が、渡米時に、元帥から、聞いた話として、陛下が、
私は、日本の戦争遂行にともなういかなることにも、また、事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても、直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断がいかようのものであろうとも、それは自分には問題ではない。私は全責任を負います。
との、談話である。

二人の会談により、以後の、占領政策、天皇の存在、戦争責任に、大きく係わっている。

さて、再度、元帥と、陛下との、会談の前の、元帥の心境を、推察する。

天皇が、会見を申し込まれた。
元帥は、天皇も、命乞い、あるいは、亡命を願い出るだろうとの、思いがあった。
何故か。

陛下会見の、前には、元帥に、ツテを求めて、多くの、指導的立場の者たちが、元帥の下を、訪れていた。
そして、
自分だけは許して欲しい
自分は戦争に協力しなかった
自分は親米主義であり、大東亜戦争には、反対し続けた
日本は駄目な国、アメリカは、素晴らしい国、自分はアメリカのために何でもする
それらは、軍の高級幹部、政治の表舞台で、活躍していた者、財界のボスといわれた人、言論界の重鎮・・・

彼らは、
戦争は悪かった。自分は戦争に反対していた。だから、自分に罪は無い。自分の命だけは、助けてくれ、という、者ばかりだった。

彼らは、元帥の、靴に、頭を擦り付けて、頼み込む。中には、元帥の靴に、しがみ付いて、哀願する者もいた。

これらは、今まで、書かれなかったことである。

こうした、日本人の姿を見た、マッカーサーは、どのように、日本人を、理解したか・・・

所詮、日本人といっても、他の国の者たちと、何の変わりも無い者たちである。
マッカーサーには、日本人に対する、侮蔑の思いが、広がった。
そして、日本に対する、先入観である。

天皇をお迎えした時も、マッカーサーは、彼らと、同じ人間であると、見ていたのである。

しかし・・・

しかし、である。
天皇陛下は、違った。
全く、違った。
どこの国に、いる者たちもと、違った。

マッカーサーは、最初、倣岸無礼な姿勢だった。
天皇の、お言葉が、通訳されると、話の途中から、組んでいた足を、解いた。
更に、ソファーに座りなおした。
そして、最後になると、陛下と、同じく、直立不動の姿勢を取った。

黒色のメガネを外し、パイプを口から外し、そのすべてを、応接台の上に、おいた。

陛下の、お言葉の通訳が、終わると、両手を陛下に差し出し、陛下に握手を、求めた。

これは、陛下に近い方々の、証言として、聞いたものを、私は、書いている。
まだ、それを、続ける。

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2010年08月25日

天皇陛下について 25

今日は閣下に、御願いの議があって、参りました。
陛下が、マッカーサーに、仰せられた。

マッカーサーには、侮蔑の色があった。

天皇も、命乞いに来たのだと、思ったのだ。

陛下は、姿勢を崩さず、
実は、本日参りましたのは、今回の戦争のことについてであります。
今、多くの将兵や文官たちが、戦争犯罪人として、身柄を拘束されておりますが、このことについて、説明と、御願いを、申し上げたいのです。
実は、今回の、大東亜戦争については、その責任の一切は、この私にあります。
閣下の部下の兵士の方々の中にも、多くの犠牲者が出ました。
そして、我が国でも、今回の戦争で、三百余万の、尊い命が、失われております。
これは誰の責任であるかといえば、全く、私の責任であります。
閣下には戦争ということの、本質はご承知でいらっしゃるでしょうが、十数百万の人たちが、命を失ってしまったということに対して、限りない痛みを覚え、日夜、この罪業に責められ、この五体は、張り裂けんばかりであります。
特に、戦場に我が夫を送り、我が子を送り、戦死をしていった将兵に対し、戦死せり、との、一片の通知によって、永く別れねばならない、遺族のことを、思うとき、この苦痛は、更に、深くなるばかりです。しかも、家を焼かれ、家族を失い、路頭に彷徨うもの、幾十幾百万の国民の上に思いを、いたすとき、この償いを如何に、すべきかということに、五体を裂いても、足りない思いです。
閣下、今回の戦争の責任は、すべてこの私にあるから、どのような処罰を受けようとも、そのことを厭うものではありません。
例え、この身を、八つ裂きにされようとも、それはかまいません。
それで、どうぞ、戦争の責任は、私に負わせて、将兵、文官の戦争責任を、お許し頂くよう、御願い申し上げるものであります。

その、お言葉が、通訳されると、マッカーサーの態度が、徐々に変化してゆく。

マッカーサーも、陛下と同じく、直立不動になり、両手を差し出して、陛下の手に、握手を求めた。

わかりました。
陛下、陛下の仰せになることは、このマッカーサーによくわかりました。
陛下の仰せを、生かすべく、全軍に、指令を出したいと思います。
ただ、すでに、リストに載っているものについては、致し方ありませんが、これからの、新たな戦争の犯罪人は、載せないようにします。
私は、天皇陛下を、見誤っておりました。
私のところに、命乞いに来られると、思っていたのに・・・
私の認識は、間違っておりました。
私は、世界各地で戦争を続け、いろんな国の指導者を捕らえて、処罰してまいりましたが、どの、指導者も最後は、哀れなものでした。
泣いて罪を認めないもの、最後まで、偽りを押し通すもの、部下に、責任を転嫁しようとするもの、色々見てまいりました。
天皇陛下、あなたほど、立派な方に、お目にかかれたのは、最高の幸せです。
あなたは、神の思し召しを、身を持って示される、尊い方です。
陛下の御意を生かすべく、努力をします。

陛下は、ご自分の手を、握り締めていた、マッカーサーの手を握りかえすように、更に、申された。

閣下、ただ今、有難いお言葉を頂戴し、喜び、これに過ぎたるはありません。
大変ありがとうございました。
厚くお礼を申し上げます。
今一つ、閣下に御願いが、あります。
それは、閣下も、ご承知のように、今、この日本は、打ち続いた、戦乱によって、家を焼かれ、子供を奪われ、また、親に別れた寄る辺無き、子供たちら、実に、多くの国民が、路頭に迷っております。
この、多くの国民たちは、食べる食べ物にも、事欠いております。
そして、迫り来る冬に、厳寒の中に、どう生きていくかということに、不安の思いに、苛まれています。
これを思うとき、この私の力では、どうすることも出来ない悲しみを、覚えるものです。
皇室には、若干の、財産があります。
この皇室の、財産を閣下に差し上げますので、多くの日本の国民を、救ってください。
明日の食事に、事欠いて、泣き叫んでいる子を思う、母親のために、一食の食事を与えてください。
また、今宵、寒さのために、凍えて死にそうになっている、老婆のために、一枚の着物を与えてください。このことは、私が命をかけても、しなければならない大切なことであるので、閣下、是非、日本国民のために、お力をお貸しいただくよう、御願いをします。

陛下は、ここまで、申し上げられて、応接台の上に、手をつかれて、深々と、頭を下げられた。

しばらくは、お顔を上げることがなかった。
応接台の上には、陛下の涙が、流れていたのである。

通訳を受けた、マッカーサーは、陛下を、包むように、再び、その手を握る。

そして、
わかりました。
わかりました。
日本国民の、安全と生活を守るのは、今は、私の責任です。
一人の餓死者も出ないように、一人の凍死者もでないように、全力を挙げて、努力をいたします。
陛下、どうぞ、案じられよ。
このマッカーサーが、陛下の、お心に、報い奉るように、努力いたしますゆえに、ご心配なく、宮中へ、お帰りください。

陛下が、マッカーサーに、お別れを告げて、玄関に、お出ましになると、MPが、直立不動の姿勢で、挙手の礼をした。
最初の無礼さが、消えていた。

天皇陛下の、お言葉が、マッカーサーの、翌日の行動に現れる。

一切の、公務を差し置いて、アメリカに帰国したのである。

アメリカ大統領に、会い、日本占領の方向の変更を、報告し、関係諸方面に、呼びかけて、日本救済のための、一大運動を展開した。

それは、アメリカからの、救援物資として、日本に送り込まれたのである。

日本では、一人の餓死者も出す事がなかった。

敗戦の、最中、日本を困窮の中から、救ったマッカーサーを、動かしたのが、昭和天皇である。

これは、侍従長、侍従たちと、親しいものが、聞き取って書いたものを、私が、読みやすいように、書き改めた。

秘密は、洩れるものである。


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2010年08月26日

天皇陛下について 26

マッカーサー回想録より

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の手にゆだねるためおたずねした」
私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。

元帥夫人の、ジーンも、この光景を、会見室のカーテンの影から、覗いていたという。

その当時は、天皇の、戦争責任と、処遇について、内外から、多くの意見と、関心が、寄せられていた。

中華民国、ソ連、オーストラリア、ニュージーランドなども、戦争犯罪人の中に、天皇の名を、つらねていた。

マッカーサーの天皇との、会見は、その滞在中に、11回も、行われたと、いわれる。

回想録より

天皇は私が話し合ったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。



最初の会見が、終わると、マッカーサーは、即座に、ワシントンに、天皇を戦争犯罪人にしては、ならないと、報告した。

トルーマン大統領と、米政府は、しかたなく、元帥の意向を受け入れたと、いわれる。

天皇と、マッカーサーの会談の際には、卓上には、戦犯容疑者リストが、置かれていた。

さて、東久邇首相と、前首相の近衛文麿公は、天皇退位説を、唱えていた。

近衛公は、統帥権に関しては、政府は、全く発言権がなく、政府と、統帥部の両方を、抑えることが、できたのは、天皇だけで、その権限行使に消極的なために、陛下には、責任があるとした。

だが、近衛公にも、戦犯の逮捕状が出され、みずからの、政治的過誤と、和平交渉にも努力したアメリカから、裁かれることの、屈辱に、耐えかねて、抑留される、前夜、青酸カリを飲んで、服毒自殺をしたのである。

回想録より

一つの国、一つの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈伏したことは、歴史上に前例をみない。・・・・
幾世紀もの間、不滅のものとして守られてきた日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去ったのである。近代史において、これほど大きい破滅の衝撃を味わった例はおそらくあるまい。

マッカーサーは、日本人は、封建的指導者による、伝統と伝説と神話と統制の、完全な奴隷化の、所産だと、みなしていたのである。

しかし、マッカーサーは、天皇との、会見で、天皇陛下に対しては、その、先入観を改めた。更に、個人的に、好感を持ったのである。

しかし、マッカーサーの仕事は、日本解体である。
日本を、作り直すという、仕事であった。

それには、容赦なかった。

皇室財産の発表と、その、封鎖、皇室予算の、GHQの承認制、皇室財産の開放と、皇族の、経済特権の剥奪、宮内省職員の削減・・・

更に、天皇の、災害などの、見舞金、賜与も、禁じた。
つまり、民に施すのは、政府であり、天皇ではあってならない、という、考え方である。

天皇は、全皇室財産を、政府に渡し、賠償に当てると、希望したが、GHQは、許さなかった。
皇室財産は、国に属すると、大部分は、国庫に帰属させたのである。

ここで、解るとおり、天皇陛下は、すべての財産を、政府に受け渡すと、考えられていたということである。

前代未聞の、ことである。
帝が、全財産を、国民に渡すと、同じである。

敗戦した、その主は、その財産を、隠す。そして、亡命して、安穏として、暮らす。

昭和天皇には、一切、そのような、邪な、考えは無い。

世界一の、富豪であった、天皇家は、千五百万円の、現金と、一部の、貴金属、宝石、美術品を、残すのみとなった。

吹上の御文庫も、那須、葉山の御用邸も、所有者の政府から、無料で、借用するという、形にされた。

ただし、宮中の三殿だけは、私的な、宗教建造物として、除外された。

国民からは、気の毒すぎるとの、声が上がる。

衆議院で、新憲法の、草案が審議された中で、皇室財産から、生ずる収益は、すべて国庫の収入として・・・という、文言を、削除すると合議された。
が、即座に、GHQより、
連合国間には、天皇制を全廃すべしとの、強い意見がある。もし、日本国民が、天皇制の維持を、図るなら、政治的には、天皇の一切の統治機能を廃し、経済的には、皇室財産を、国に、属せしむべきだ。天皇財閥を解体することにより、天皇制の存在が、将来の禍根にならぬように、憲法で、明確にすべきである。
との、命令である。

天皇というものの、存在を、理解し得ないのは、アメリカが、新興国だからである。
更に、その他の国も、理解できないのである。

オーストラリア、ニュージーランドなどは、イギリス王室を、承認しても、日本の天皇は、承認しないのである。

王室には無い、遥かな、歴史を、認めたくなかったのである。

更に、皇室のみか、宮家にまで、それが、適用されて、平宮家十一家は、皇籍離脱となる。

臣籍降下の方針といわれた。

天皇陛下は、各宮家の当主を招いて、皇族会議を、開いた。
ところが、三直宮以外の、一斉降下に、侃々諤々の意見が、出された。

いつ果てるともない、議論に、無言で耳を傾けていた、陛下は、大声で、一喝した。
机上の空論はよしなさい
そして、穏やかな口調で、
このような時代になり、まことに、忍び難いが、この際、一同に、臣籍降下を御願いするほかはなくなった
と、仰せられて、十一宮家、五十一人が、降下したのである。

この、決断も、国を思えば、こそのものである。

敗戦から、何十年を経ても、天皇戦争責任云々が、議論されるが、この天皇を、日本人が、裁けば、ただちに、皇祖皇宗以下、祖霊から、列島が沈没させられるだろうと、私は、思う。

下々の、民が、天皇の、身の上を、想像できない。
天皇は、いつも、お一人であらせられる。

言論の自由により、天皇陛下に関しても、勝手放題なことが、言える。

しかし、その御心を、察することが、できるか・・・
出来るわけが無い。
天皇に、ならなければ、天皇の、御心を察するなどいう、不敬が出来るはずもない。

すべてを、取り上げられようが、日本が、日本国民が救われればよい

こんな指導者が、この世界に存在するということが、私には、救いである。

今上天皇は、日本の象徴であらせられる。
しかし、実質的精神指導者として、存在すると、私は、考えている。


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2010年08月27日

天皇陛下について 27

敗戦後の、混乱は、甚だしい。
筆舌に尽くし難いものがある。

貧しさの中で、まず、一番に必要なものは、食料であり、次に、衣類であり、そして、住まいである。

今でも、東南アジアの、スラムや、山岳地帯に、向かうと、日本の敗戦を思わせるような、様子を、見る。

勿論、私は、当時を知らない。

父から、敗戦後の、話で聞いた言葉は、たった、一言。
それは、私の祖母、父の母親の、話である。

食うものがなくて、農家に行った。
手に入れたのは、芋だった。
だが、少しである。
それを、自分は、食べずに、父に、食わせたという。

ただ、それだけである。

食うものがなくて・・・・

そこに込められた、当時の、様子。
私は、その言葉で、察するしかない。

父も、母も、敗戦後の様子を、一切話さないのである。
つまり、いかに、辛かったかということ・・・

思い出すのも、嫌なのである。

母は、着の身着のままで、樺太から、引き上げた。
その話も、一切しない。
出来ないのである。
私は、少しばかり、母の、妹から、無理に、聞きだしたことがある。

昼間、捨ててある、ゴミを、見て、必要なものは、夜になってから、取りに出たという。昼間は、恥ずかしくてね・・・

下駄さえもなかった・・・
おばさんから、それ以上を聞けなかった。

昨日まで、政府要人だった、者たちが、入獄する中で、逆に、胸を張って、出所したのは、共産党員を、主とする、三千人近い、政治犯である。

12月8日、徳田球一ら、共産党幹部は、早速、戦争犯罪人の追及人民大会を開き、気勢を上げた。

乱立する、赤旗の中で、天皇、皇族以下、1600名の、リストを発表する。

天皇を、戦犯として、起訴せよ、天皇制を、廃止し、民主人民政府を、樹立せよ。
その、絶叫が、異常だった。

国民の多くは、その、有様には、共感できなかった。

昭和21年1月、中国にて、反戦運動を、展開していた、野坂参三が、帰国すると、国を挙げて、沸きかえったという。
売国奴が、一転して、救国の英雄と評価された。

本当は、どこから、どう見ても、売国奴なのであるが・・・

更に、共産党主義者たちによって、暴露雑誌、真相、が、発刊された。

暴露といっても、これ以上は、醜悪な書き方は、できなにいと、思われるほど、エゲツない、あること、ないことを、書きたてた。

皇室を、こき下ろすことには、命がけだった。

不敬罪、名誉毀損にもならぬ、言論の自由に、国民は、驚き、最初は、興味で、近づいたが、あまりの、行き過ぎに、次第に、引いてゆく。

共産主義というものは、人をして、品格を人格を、堕落せしめるようである。
過去の、すべてを、否定し、抹殺する。
雑草を、抜くのではない。
稲穂も抜くという、自体である。

彼らの、歩いた跡には、草も、生えない。

GHQは、政治犯の即時釈放と、山崎内大臣の罷免、思想警察、特高の廃止と、警察首脳の罷免、市民の自由を弾圧する、一切の法規の廃止、停止を、指令した。

ただ、未曾有の混乱にありながら、政府自体に、混乱が少なかったのは、皇族内閣、東久邇内閣によるものだった。
50日という、短命内閣であったが。

後継首班は、幣原喜重郎で、マッカーサーは、内政干渉はしない、経歴から、幣原が良いとの言葉があった。

幣原は、自由主義で、新英米であり、占領下の首相としては、打ってつけの人物だった。

治安維持法や、天皇の、政治上の、輔弼機関である、内大臣府が、廃止された。

陸海軍の、葬送も、この内閣の下で、行われた。
復員、軍の解体作業も、ひと段落し、11月30日には、陸海両省が、廃止された。

明治、七十余年、栄光を誇った、帝国陸海軍は、消滅した。

天皇陛下も、この日から、軍服を、脱ぎ、海軍士官型の、天皇服が、制定された。

だが、11月12日、伊勢神宮へ、敗戦奉告のために、その服で、西下したところ、評判が、悪く、軍服のイメージに、つながるとの、批判だった。

宮内省は、しぶしぶと、天皇の服装を、背広と、モーニングに改めた。
相手が、国民ならば、聞き流すところ、GHQに、騒ぎを与えるとの思いである。

そして、天皇のお写真である、御真影にも、影響が、及び、軍服から、天皇服に交換するとの、旨を、発表すると、世論が、今更、御真影とは、何か・・・ということになり、中止になったのである。

更に、驚くべきことは、天皇の人間宣言と、いわれる、行為である。

天皇陛下は、人間であらせられる。
ご本人も、そのように考えていた。
ところが、現人神との、軍部の喧伝により、それを、国民の前で、否定することを、暗に、GHQから、要求された。

漏れ聞く話は、陛下が、人間宣言をされた、その日に、皇后に、私は、どこか、変わりましたか・・・と、お尋ねになったという。
神であるなどとは、陛下自身、考えたことはなかったのである。


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2010年08月28日

天皇陛下について 28

大君は神にしませば天雲の
   雷のうへにいほりせるかも  柿本人麿

おおきみは かみにしませば あまくもの 
いかづちのうへに いほりせるかも 

遠く古事記、万葉の古から、天皇は神として国民の崇敬を一身にあつめてきた。
自然発生的な貴種賛仰の心が、素朴で敬虔な天皇観を民族の血のなかに伝承させたのである。
武家の台頭とともに、朝廷の権威は衰退したものの、根づよい尊皇心は民草一人一人の胸に宿りつづけていた。
それが明治以降は「現御神」「現人神」の美称そのまま、天皇を雲の上におき、超人間的な存在として、国民に畏服を強制するようになった。
天皇裕仁の昭和史 河原敏明

自然発生的とは、古事記、万葉の時代を、遥かに、さかのぼるのである。
富士王朝として、富士の裾野に、高天原府を拓いた、王朝からの、伝え、である。

万葉の歌の、神とは、美称であり、尊称である。
崇敬の念を持って、歌にしていたのである。

超人的な存在だとは、一言も言わない。

明治期に、現人神と、呼んだというが、それは、明治の人たちが、伝統を知らないゆえのものである。

現人神とは、日本国民すべての人を言う。
天皇は、現人御神、あらひとみかみ、と、お呼びする。

明治維新は、日本の近代化を進めたが、その伝統を、詳しく学ぶ暇がなかった。
それゆえに、勝手な解釈をしたのである。

大半の、国民は、天皇の姿さえ、見なかった。見えなかった。
そして、見てはいけない存在だった。
それで、良かった。

つまり、どんなに、武力政権が、現れようと、日本には、天子様が、おいでになり、国民に、一大事があれば、国民のために、お言葉を、述べられる存在として、在ったのである。

決して、武人たちが、天皇の、命を受けなければ、国民が、受け入れなかった。
帝の、許しにより、国を、治めることが、できたのである。

あの、信長でさえ、京に上ることをして、天下を治めると、認識していた。

武田信玄も、信長が、破った北条も、その他、皆々、京を、目指したのである。

どうしても、朝廷、天皇の命を受けなければ、天下を治められないのである。

尊称としての、神という、言葉。それは、尊と、呼ばれることからも、解る。

そして、その後、カミとは、守のことを意味するようになる。
播磨の守・・・
大岡越前の守・・・

治める者を、カミと、呼んだ。

天皇は、大君であり、神という、字は、尊称である。

昭和の軍国的高揚が、天皇を更に、怪しくした。
天皇の、絶対性を、掲げて、兵士を、動かす。
天皇の、絶対性を、強調するあまり、天皇という、名を、利用することになる。

天皇は、何も変わらない。
生まれた時から、人間として、育つ。

作られた観念である。
そして、それは、宗教に、多く現れる。
作られた観念により、人は、混乱の迷いの中に入ってゆくのである。

軍国主義は、そのように、天皇の名を利用して、更に、掲げて、行われた。

誤りである。
完全な、誤りである。

国民が、崇敬した、天子さまは、超越した、存在ではなく、宮廷にいらして、祈る存在であった。
それは、日本の先祖、祖霊を、お奉りして、祈る存在、つまり、祭祀としての、存在である。

雲の上の人。
確かに、普段は、見ることも無い。
また、お会いすることも、叶わない存在である。
ただ、存在していることが、国民の安心だった。

天皇の、人間宣言とは、実に、おかしなことである。
人間が、あえて、人間宣言するという、実に、馬鹿下駄ことである。

だが、昭和天皇は、全国を、行幸して、特に、戦争犠牲者の言葉を、聞かれて、愕然としたことだろう。
天皇陛下のために、死にましたと、父母を、失った子供の言葉を、聞いた時、そこから、動けなくなったという。

その、全国行幸については、後で、書き記すことにする。

GHQの要求と、天皇の思いが、共通のものとなった。
天皇の神格化の、否定である。

天皇の神秘性を、GHQは、恐れた。
彼らは、従来の天皇観を一変させる内容を考えていた。
更に、それは、押し付けではなく、天皇自身の発意として、である。

それを、お聞きになった、陛下は、即座に、賛意を示されたという。
つまり、昭和天皇は、我が身を、神などとは、考えてもいなかつたのである。

崩御された、天皇は、神として、お奉りされたが、生きている、人間が、神になることは、ないとの、考えであり、当然のことであった。

国民も、亡くなれば、神と、呼ばれる存在になることも、伝統である。

しかし、生きているうちの、カミは、役職上の、守、カミしか、いないのである。

幣原首相は、わが意を得たりの、感慨だった。
時代錯誤と、感じていたのだ。

幣原は、得意の英語で、下書きを書いたという。
詔書を出す真意は、国内よりも、外国向けだった。

原文を見た、陛下は、とても良いと、大きく頷いたという。
実に、真っ当な感覚を、お持ちだったのである。


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2010年08月29日

天皇陛下について 29

朕は、なんじら国民と共にあり、常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕となんじら国民との間の紐帯は、始終相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず。天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有するとの架空なる観念に基づくものに非ず。
私が、読みやすいように、書き改めた。

上記、天皇の、人間宣言として、認識された。

ここにおいて、天皇はご自身で、神格否定をし、マッカーサーからも「国民の民主化」を促し「将来の天皇の立場は自由主義的な線にそうもの」を示したとして高く評価された。
今上天皇 藤島泰輔・総監修

何度もいうが、天皇陛下は、はじめから、神格などを、有するとは、思っていない。
しかし、当時の状況から、そのように、人間宣言をしなければ、ならなかった。つまり、当時の、軍部の造り上げた、天皇像を、否定する、姿勢を示されたといえる。

昭和21年5月24日の放送であった。

その時、強烈な天皇批判の声が、共産党をはじめとする、政治犯の釈放などにより、上がった。

この月に、中国から野坂参三が、帰国し、国中で、待ちわびたような、騒ぎになる。
英雄登場のような、観である。

この、スパイであり、売国奴が、英雄視されるという、混乱である。

天皇の前身は、富士王朝、高天原府からの、ものである。
大政頭、おほまつりごとかしら、と、呼ばれた、存在が、天皇の前身であり、その下には、政頭、まつりごとかしら、が、多数存在し、彼らが、協議して、決めたことを、承認するという、立場が、大政頭であった。

この、富士王朝から、九州へと、都を遷都して、政と、祭祀を別にすることになる。
それについては、後々に、書くことにする。

日本の古代の歴史ほど、民主的であったものはない。
改めて、民主化などと、マッカーサーが、納得したというのは、日本の歴史を知らないからである。

一体、アメリカは、民主国家だったのか。

昭和22年当時、皇室財産は、37億7500万円とされ、百三十万町歩という、御料地の面積は、全国の、3パーセントを占めるものだった。

陛下は、皇室財産を、すべて、政府に明け渡そうとするが、GHQは、許可しなかった。

逆に、33億4千万円の、財産税を課し、国が所有することになる。
つまり、その大半が、政府の手で、管理されるようになったのだ。

そして、戦時中は、8700人の皇室職員も、4700人に、減らされた。
だが、6千人にものぼる職員が、仕事を失い、路頭に迷ったといわれる。

さて、当時は、大変な食糧難である。
勿論、皇居も例外ではない。

マッカーサーは、皇族に対して、缶詰などの食糧を当てていた。
だが、陛下は、手も触れず、弱っている、職員たちに、それを、回された。

天皇家の食事は、政府から、無料借地とされた一角に、侍従たちが栽培する、畑の芋などだった。
更に、それでも、陛下は、入江侍従長に、お前たちが、困るのではないかと、仰せられ、側近たちの勧めで、ようやく、召し上がられたという。

そんなさなか、野坂参三、共産系の人々による、「米よこせ区民大会」の一群が、宮内省に乱入する。職員の調理場を、荒らして、引き上げる。
真っ当な常識を、持たない人々というものが、必ずいる。
それらは、思想教育を受ける。
その思想教育は、破壊の思想である。

それにより、宮内省は、保存用の米、小豆など、五十俵ずつ、他の施設に寄付するのである。

上記の、彼らは、陛下の、台所を見ることなく、職員の台所を、見て、喚いた。
こんないい物を、食っているんだと・・・

もし、彼らが、陛下の台所を、見たら何と言うか。
破壊の思想を持つ者は、天に唾する行為だとは、知らない。
自分たちの、祖先が、崇敬した、天皇という、存在に対する、不敬が、そのまま、祖先に対するものだとは、決して気づかない。

だから、次の話しは、矢張りと、思わせる。

宮城県栗原郡の、青年有志たちが、皇居広場の掃除奉仕をしたいという、申し出があった。

宮内省では、宮殿の焼け跡を、片付けてもらうことにした。

一行、60数名は、超過密状態の、汽車に乗り、宮城、皇居に到着した。
おそるおそる、坂下門から、中に入ると、天皇の御座所は、累々とした瓦礫となって、崩壊していた。

一行が、様々な思いで、清掃に励んでいると、突然、団長であった、鈴木徳一が、
気をつけ、天皇陛下にたいしたてまつり、最敬礼
と、大声を張り上げた。

一行の、目の前に、ソフト帽をかぶられた、背広姿の、陛下が、立っておられたのである。

陛下は、奉仕団の話を聞いて、彼らに会うために、仕度をするようにと、側近に命じて、彼らの元に、いらしたのである。
汽車が混雑して、酷いと、聞いているが、どうだったのか
言葉を、かけられた一行は、陛下のお言葉に、声なくして、ようやく、
はい、大変混雑しておりますが、大丈夫でございました
そう答えるのが、精一杯であった。

皆、体を大切に、お元気で
陛下の立ち去る姿を見て、一行は、君が代を、斉唱したが、次第に、その声は、涙に曇る。

陛下は、その後で、皇后陛下にも、奉仕団に会うことを、勧められた。
皇后陛下も、彼らの元に来て、ねぎらいのお言葉を申されたのである。

それから、毎年、皇居の清掃という、奉仕団が、出来る。
毎年、二万人が、参加するほどの、規模になった。
全国各地から、出て来るようになるのである。

現在は、慣例化されて、希望者が後をたたない。
奉仕者には、天皇皇后両陛下、皇太子ご夫妻が、ご挨拶される。

皇居は、こうして、国民の意思によって、次第に、整えられていったのである。


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2010年08月30日

天皇陛下について 30

昭和21年4月、極東軍事裁判、いわゆる、東京裁判がはじまった。
それは、ドイツの、ニュールングベルク裁判と並んで、世界的に注目された。

法廷の中心は、A級戦犯となった、28人の閣僚と、幕僚たちの証言である。

その、論点は、天皇の戦争責任である。

各国の、検事たちは、それぞれの遺恨を持って、天皇訴追の姿勢を、崩さない。
オーストラリアの、ウェッブ裁判長や、アメリカのキーナン首席検事も、当初は、その方針を貫く構えを示していた。

だが、キーナン検事は、急転直下、天皇を擁護する側に回った。
それは、マッカーサーの意向もあるが、宮内省松平康昌総裁の、働きかけも、大きかったという。

松平は、キーナン検事と、友好的外交を展開していた。
検事側が、天皇の法廷出頭を叫んだときに、彼らの主張を跳ね除けたのも、キーナン首席検事だった。

キーナン検事が、
誰の意志によって、戦争を行ったのか
と、法廷で、問いただしたとき、東条は、
私の進言により、しかたなく、同意された。これが、事実だ。陛下は、最後まで、平和外交を求められた。逆に、意志に反したことになる
と、全責任を負う答えをした。

東条の答えは、嘘偽りがない。
陛下は、最後まで、平和外交を、望まれたのである。
だが、私は、天皇陛下について、を、書くに当たり、調べていて、解ったことがある。

追い詰められた日本の、あの当時の、状況下で、絶対戦争を反対すると、天皇が、意見を差し挟むことは、専制的な議決権を持つということで、それは、あり得ないこと。更に、尚も、戦争に反対すれば、暗殺の危険もあったと、私は言う。

再度、戦争に至る、状況を読み直すがいい。

天皇が、専制的な議決権を、持たないという、専制君主ではないということは、明確である。

政府、統帥権の決定を、天皇は、承認するという、天皇の存在の核心である。

昭和23年12月23日、東条英機をはじめ、七名の戦犯が、絞首刑に、かけられる。

判決の後で、キーナン検事が
証拠を見ると、われわれ西洋人の概念からいえば、天皇は、意志の弱い人間に見える。だが、天皇は、つねに平和を望み続けたという、明確な証明が得られた
と、述べる。

私は言う。
日本の天皇は、どこの国より、民主的で、あらせられたのである。
西洋人の概念から、言えば、意志の弱い人物・・・
それは、西洋には、国王という、絶対主権の、専制的支配があったからである。その、概念みから、見れば、意志が弱いとなる。
全く、違う。
その根本からして、違う。

日本国の、天皇を理解できるのは、日本人だけである。
更に、今 、現代、ようやく、そのことが、世界的に、理解されつつある。

世界の盟主となるべき、お方であるというのは、ユダヤ系、共産系からでさえ、認識されるようになった。

天皇は、作られる存在ではない、
天皇は、歴史と、伝統が、作った成果なのである。

それでは、陛下は、後年
終戦のときは、御前会議で、意見が、三対三と、分れ、困り果てた鈴木首相が、問うたので、賛成したが、開戦は、政府、統帥権の、決定であり、立場上、容認するほかはなかった。
と、証言されている。

天皇の、戦争責任問題は、陛下個人の人間性を認める方向で、幕が下ろされた。
更に、これが、引き金となっての、国際紛争には、至らなかったのである。

更に、ソ連をはじめとする、諸外国も、マッカーサーの主張するように、占領軍の、75パーセントを出している、アメリカに、屈伏せざるを得なかった。

ちなみに、戦犯に対する、罪状である。
平和に対する罪は、A級。
通例の戦争犯罪は、B級。
人道に対する罪は、C級。
絞首刑は、七名。
終身禁固は、十六名で、全員が有罪である。

ただし、この、東京裁判が、いかに、無法なものであるかを、これから、検証する。

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2010年08月31日

天皇陛下について 31

日本には、戦犯という、罪状は無い。
これを、明確にしておく。

これは、後の法律でも、謳われた。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が、独立国に復帰した。
この時点で、自由に発言できるようになった時、不当な東京裁判の判決に対して、激しい、批判と、抗議を行っている。

それは、国内から、自然と、湧き起こったものである。

戦犯とされた英霊たちの、名誉回復が叫ばれた。
戦犯釈放は、国民運動となり、四千万人もの、署名が集まった。

英霊の、汚辱を晴らせとは、与野党を問わず、国会でも、湧き起こり、1953年8月3日の、衆議院本会議にて、
戦争犯罪による受刑者の赦免に関する議決が、全会一致にて、採択されたのである。

その結果、戦勝国の一方的な、東京裁判によって、有罪判決を受けた、すべての人々は、日本の国内法では、犯罪者と見なさないとの、基準が出来るのである。

更に、A級戦犯とされた人々は、1956年3月31日までに、B、C級戦犯とされた人々は、1958年5月30日を、もって、釈放された。

つまり、日本には、戦犯という、罪状はないのである。

だが、何故、今でも、戦犯という言葉が残り、更には、日本人までが、戦犯云々を言うのか。
それは、マスコミ、識者たち、左翼系の人々・・・
呆れる。

政府要人の、靖国神社参拝が、近隣諸国から、激しい抗議を受けるが、それを、最初に、行ったのは、国内からである。

その国の、伝統行為について、他国が、干渉できないことは、自明の理である。

大半の人は、日本人であるが、靖国神社のあり方を、知る者は、少ない。

神社とは、通称名である。
社でいい。
神社という言葉が、神道に結びつくという、感覚なのだろうが、靖国神社は、神道というより、英霊を、お奉りする、社である。

大東亜戦争の英霊たちだけではない。
明治維新の志士たちも、お奉りされている。

罪人とされた、松田松陰を、はじめ、坂本竜馬、中岡慎太郎、高杉晋作、橋本佐内・・・
加えて、獄中で、斃れた、志士たちの、妻、従軍看護婦、沖縄で、戦没した、ひめゆり部隊・・・
女性の、御祭神は、五万七千余柱。
総数、二百四十六万六千余柱の、御祭神である。

御祭神というのは、戦没して、亡き後は、神との、尊称を持って呼ばれる。それ、伝統である。

通常の神社とは、訳が違うのである。

今一度、それを、明確にしておく。
更に、日本では、罪人であろうが、亡き後は、神と、尊称を受ける。素晴らしい寛容の精神である。世界の、どこに、そのような、感性があるか・・・

さて、東京裁判に関して言う。
私は、素人であるから、言いたい放題言う。

実に、馬鹿馬鹿しい裁判である。

戦勝国による、報復裁判である。

マッカーサーは、極東国際軍事裁判条例を、発布して、1946年、日本解体の、ハイライトともいうべき、東京裁判を開廷する。

戦犯のみならず、日本を、侵略国家として、裁いたのである。

侵略国家・・・・
信じられない言葉である。
それでは、侵略国家の、多くの西欧の国は、どうなるのか・・・

その行状については、後で、徹底的に、書く。

東京裁判の目的は、日本という、国を、裁くという、前代未聞の、茶番劇を、行ったのである。

戦勝国の狙いは、何か。
とても、尋常ではない。

復讐
それは、唯一、白人に歯向かった、有色人種に対するもの。
日本人の洗脳
日本に、侵略国の、レッテルを貼り、贖罪意識を、植え付ける。
白人のアジア侵略の帳消し
連合軍の、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスは、アジアを、分割して、植民地化し、搾取のし放題だった。
自分たちの、悪行を、すべて、日本に負わせるという、白人主義の旺盛さに、呆れる。

東京裁判の、筋書きは、あらかじめ、決められていた。
それに、沿って、行われたのである。
つまり、結論は、すでに出来ていたということ。

判事たちは、インド代表のラダ・ビノード・パール判事以外は、すべて、国際法の、素人である。

占領軍の、多数派工作による、茶番劇を、演じたといえる。

平和に対する罪
人道に対する罪

バカ馬鹿しくて、話にならない。
もし、それが、認められるならば、西欧列強の、アジア、アフリカの侵略行為こそ、裁かれなければならないのである。

戦勝国側は、自分たちの、罪状には、一切、触れることなく、日本のみを、侵略国家として、断罪したのである。

日本が、侵略したといわれる、国や、地域は、国際法により、認められていたものであることを、彼らは、忘れたようである。

いかに、白人主義というものが、勝手気ままなものかということを、忘れるなかれ。


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