2010年08月12日

天皇陛下について 12

ハワイ奇襲は、日曜日ということもあり、米軍の被害は、戦艦、巡洋艦、駆逐艦を含めて、十八隻の、撃沈爆破である。
日本軍の損害は、飛行機、特殊潜航艇をあわせて、五隻である。

香港攻略部隊も、シンガポールを目指す、マレー半島上陸部隊も、それぞれ、奇襲作戦が、功をはくして、守備する、イギリス軍を打ち破った。

17年1月2日は、フィリピン、マニラ陥落。
ここには、米極東司令官として、ダグラス・マッカーサー中将がいたが、作戦のために、
アイ・シャル・リターン
の、名文句を残して、姿を消した。

2月15日、シンガポール陥落。

日本軍は、破竹の快進撃を続けた。

陛下は、あまりにも、早く戦果が、上がりすぎると、仰せられた。

一方、山本五十六大将は、戦局、決戦段階に入るとして、米軍は、電撃に壊滅したりといえども、いずれは、長期持久を策し、あるいは、大挙反撃を企図する、恐れあり、と部下に警告していた。

4月18日、B29による、本土空襲が行われた。
東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などに、銃爆撃を加え、そのまま、中国に飛び去った。

日本海軍の、敗北は、6月4日の、ミッドウェー海戦にあった。

海軍は、赤城、加賀、飛竜、蒼竜という、四隻の空母を失い、制海権を奪われた。

続く、ガダルカナル島の、戦闘では、陸軍が、米軍の、物量作戦と、密林内での、餓死のため、日本軍は、地獄の苦しみを、味わう。


大本営は、それらの、事実を、ことごとく、国民に隠した。

だが、陛下は、耳に届けられる情報を、分析して、前途は、決して明るくない、と、判断された。

統帥部は、陸海軍ともに、必勝の信念で、戦い抜くというが、ミッドウェーで、失った、航空勢力を回復することは、難しいと、語る。

もし、制空権を敵にとられると、広大な地域に展開している、戦線の維持も、困難となり、多々、破綻が生ずると、木戸内大臣に、申された。

木戸は、陛下に、終戦を望むお気持ちがあると、察し、
敵に大損害を与えて、それを、機会に、戦争を終結する、努力をするほかにありません
と、述べている。

戦争が、持久戦となれば、日本の不利は、目に見えている。

18年4月18日、ラバウルを飛び立ち、ブーゲンビル島上空で、山本五十六の乗った飛行機が、P38戦闘機16機に発見され、攻撃を受けて、戦死した。

それから、以後は、負け戦続きである。
アッツ島、タワラ島、サイパン島、グアム島、硫黄島・・・

雪崩て、崩れるように、玉砕である。

マッカーサーも、マニラに戻り、威勢に乗り、空と海、陸から、猛攻撃を加えてきた。

昭和20年3月10日、東京に、かつてない、大空襲が行われた。

天皇陛下におかれては、空襲の後を、視察され、関東大震災のときよりも、はるかに、無残である、姿を見て、東京も、焦土になったと、漏らされた。

だが、続いて、4月14日は、327機の、来襲をうけ、更に、5月24日、562機の、B29が、東京を爆撃の嵐に、晒した。

翌日も、東京を502機が、狙い撃ちした。

この時、皇居正殿の屋根が、火を吹いた。
5527坪を、焼かれた。

天皇皇后陛下は、防空壕の中にいて、難を逃れた。

だが、御殿の炎上は、陸軍の火事によるものと、陸相阿南大将が、辞表を出したが、陛下に、国家存亡のときなり、よろしく、現職に、留まるようにと、仰せられて、留意した。

更に、鈴木首相も、まげて頼むという、陛下の言葉に、首相指名を受け、組閣声明で、
行け一億よ、余の屍を越えて
と、主戦論を展開したが、それ以前には、
この戦争は、王がとられても、気が付かない、へぼ将棋である
と、否定的立場にいた。
その、老獪さを発揮して、終戦にこぎつける。

4月29日、イタリアでは、ムソリーニと、その愛人の死体が、ミラノで、晒された。
そして、30日、ドイツでは、ヒトラーが、自殺した。

戦況は、終盤にかかり、6月23日、悲劇の沖縄が、陥落した。

日本軍死者、約六万五千人、米軍の死傷者は、七万六千七百人。
連合軍の、総動員数は、日本軍の、十倍である。

悲劇なのは、沖縄県民の死者、十万人である。

急ぎ足で、書き続けたが、まだまだ、悲劇は、多い。

この状態は、アメリカ側に、深刻な波紋を投げ掛けた。
つまり、日本本土上陸を目の前にして、一般市民の自殺行為、更に、戦争終結までに、払われる、異様な犠牲に、戦慄を、覚えたという。

しかし、米英合同作戦計画委員会では、七月四日、日本攻撃に、原爆の使用を確認したのである。

7月26日、ポツダム宣言が発表された。

発表は、米英中の、三国の名がつらねられた。



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2010年08月13日

天皇陛下について 13

日本は、和平工作として、ソ連に期待していた。
しかし、ソ連は、期待できる国ではない。
確実に、日本が負けた戦争と確信してから、ソ連は、参戦したのである。

だが、そのため、交渉をかさね、天皇も進言されて、近衛文麿の、特使派遣をソ連に申請していた。

さて、鈴木首相は、政府見解として、
あの共同声明は、カイロ会談の焼き直しにすぎない。政府として、なんら重大な価値があるとは、考えられない。ただ、黙殺するだけである。われわれは、戦争完遂にあくまで邁進する。
と、述べた。

これが、問題となる。

黙殺という、言葉が、誤訳されたのである。
IGNORE、無視するが、REJECT、拒否すると、訳されたのである。

連合国に、全く違った、印象を与えた。

カイロ会談とは、1943年11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が、日本の無条件降伏と、その後の、領土決定事項を含み、要求したものである。

8月6日、広島に原爆投下される。

翌日、ソ連が、参戦する。
満州の関東軍が、奇襲されたのである。

そして、9日、長崎に、原爆投下される。

その日、午前11時過ぎ、鈴木首相は、ポツダム宣言を受諾するか否か、最高戦争指導者会議を、御前会議として、開いた。

鈴木首相、東郷茂徳外相、米内海相、阿南陸相、参謀総長梅津大将、軍司令部総長豊田大将、六名である。

鈴木、東郷、米内は、受諾する終戦賛成派。
他の三人は、反対派である。

それ以前の、閣議でも、平行線を辿っていた。

平沼枢密院議長も、同席したが、作戦上の有無により、戦争継続も可として、確答を避けた。

阿南陸相は、
最後まで、戦うことこそ、日本の道義と勇気を永久に残す
と、一歩も引かず、梅津、豊田も、同調した。
更に、本土決戦の必要を説く。

押し問答は、延々と続く気配に、鈴木首相は、
それでは、まことに、畏れ多いことですが、かくなるうえは、陛下の聖慮をえて、本会議の、決定といたしたいと、存じます
と、いい、陛下の前に立ち、頭を垂れた。

陛下は、
それでは、自分の意見をいうが、自分は、外務大臣の意見に賛成する
との、言葉である。

更に
本土決戦に備えながら、九十九里浜の防備でさえ、予定の、十分の一もできていない。決戦師団の武装、飛行機の増産も遅れている。このように、計画と実行が伴わないのに、どうして、戦争に勝てるだろうか
と、仰せられた。

そして、厳しく、
この状態で、本土決戦になれば、日本は、どうなる。日本民族は、みな死んでしまわなければ、ならなくなる。
忠誠な軍隊の降伏、武装解除、あるいは、戦争責任者の処罰を思うと、実に、忍び難いが、いまは、忍ばなければならない
と、仰せられた。

最後に、
明治天皇の三国干渉の際の、御心を偲び、自分は、涙をのんで、外相の意見に賛成する
との、御聖断を、下された。
加えて、自分一身のこと、皇室のことを、心配しなくてもよいとの、お言葉であり、一部の者、感動のあまり、嗚咽したという。

三国干渉とは、日清戦争で、勝利した、日本に対して、ロシア、フランス、ドイツから、講和条約で、清国から割譲をうけた、遼東半島の領有破棄を、申し入れてきた。
これは、ロシアの策である。
日本は、代償金を得て、やむなく、三国の勧告を受け入れたのである。

会議場に、嗚咽が洩れる。
鈴木首相は、
ただいまの思し召しをもって、本会議の決定と致します
と、宣言した。

ここにおいて、敗戦を受け入れ、ポツダム宣言受諾が、決定された。

その後も、阿南陸相は、
皇室保全の確証がないかぎり、陸軍は、戦争を継続する
との、強硬意見を発した。
国が滅んで、何の国体か・・・

陛下は、
将兵の動揺は、大きいと思うが、そのためにも、自分は、いつでも、マイクの前に立つ。自分が、いかようになろうとも、との、決意を示された。

天皇陛下は、皇室の保全に関しては、一言も、言葉を発していない。
つまり、皇室存続より、国民のことを、主に考えていたのである。

歴史に、もし、は無い。

だが、陛下が、皇室保全を全面的に、考えたら・・・

一億、総玉砕も、ありえた。

また、亡命を考えたら・・・

日本国民は、絶望の果てに、多くの国民が、自決しただろう。
そして、更に、今の日本は無い。

時に、八月十日午前二時二十分である。

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2010年08月14日

天皇陛下について 14

敗戦国の、主たる、責任者、王や、大統領・・・
敗戦後には、自殺する。亡命を願う。亡命する。
それが、大半の、主たる者の、取るべき道である。

しかし、昭和天皇は、ただ、日本に留まり、更に、その身を、国民の前に晒し、退位もしなければ、責任回避の行動も、取らなかった。

後に、日本の天皇に、多くの国の、訪問者が、日本で天皇に、お逢いすることを、兎に角、光栄に思い、喜んだ。
それは、国の主としての、無形の権威を、生きたからである。

更に、その後の、天皇の、歩みを見れば、それが、よく解る。
兎に角、皇祖皇宗の、子供である、国民を守り、国民を滅ぼすようなことは、出来ないと、考えた天皇の、支えは、その歴史にある。

天皇は、作られるものではない。
日本以外に、天皇は存在しない。
作れないからである。

そして、その支えは、天皇の歴史にある。
日本の歴史にある。

敗戦、65年の年は、神武天皇、建国より、2670年である。

この、長きに渡る、歴史を有する国は、日本のみ、である。

また、その歴史を、支えたのは、天皇という、存在である。

もし、大化の改新なく、蘇我王国が、誕生していたら、今の日本は無い。
武力政権は、必ず、交代する。

敵を想定しない、無形の権威を、天皇が、抱くゆえに、日本という、奇跡の国が、出来上がった。

西欧の歴史と、比べてみれば、一目瞭然である。

それでも、彼らは、王を戴いた。
武力を持つ、王を、戴く。
現在は、王室とは、それぞれの、国の、ある種の、飾り物である。

または、支配者として、君臨と、統治を行う。

無力になった、王は、国民からの、支持を失い、姿を消す。

日本の天皇は、君臨するが統治は、せず、存在する。
更に、天皇の軍隊も持たない。

その存在意義は、権威である。
その権威は、作ることが出来ない。

人の世は、一時期に、何々の権威であると、称するが、天皇は、一時期ではない。
何代にも渡る、権威である。

伝統には、適わないのである。
歴史に、裏付けられた、伝統であり、権威である。

さて、昭和天皇は、玉音放送を、行う。

それ以前の、日本国民は、陛下の声を聞くことも、なかった。

陸軍内部には、天皇制がなくなれば、国体も、失われるという、危機感があった。

陛下の意思に、背いても、皇祖皇宗の元に、辱めを受けないように、最後まで、戦うという、意思である。
阿南陸相、梅津参謀総長のところには、そのような、クーデター計画が、届けられていた。

ここでは、便宜上、天皇制と、書くが、天皇は、制度ではない。
これは、西欧の、考え方である。
後々に、それについて、書くことにする。

8月14日、東郷外相は、午後十一時、スイス、スウェーデンに向けて、ポツダム宣言受諾の、電文を発信した。

その夜、宮内省政務室にて、天皇陛下の、「終戦の詔書」の朗読の、録音が行われた。

大和言葉で、読めば
いくさのおわりの みことのり の おみかき
となる。

一度目を、取り終える。
陛下は、今のは、声が少し低かったと、もう一度、取り直すことになった。
再度の、朗読は、読み違いがあり、また、取り直すという時は、深夜12時を過ぎていた。

陛下は、当時、いつなんどき、上奏があるか、わからないために、執務室にお出ましになられるため、更に、御用の時間帯は、深夜から、明け方が多く、連日の睡眠不足で、あらせられた。

見かねた、藤田侍従長と、石渡宮相の、勧めで、三回目の、録音は、中止された。

録音版は、徳川侍従の手により、侍従職事務官室にある、軽金庫に、納められた。

天皇陛下が、就寝されると、宮城内に、事件が発生したとの、報が、届けられ、再び、眠られぬ夜となった。

陛下の、放送を阻止しようと、青年将校たちが、決起したのである。

陸軍省軍務室の、畑中健二少佐などが、中心になり、クーデターでは、国民の支持は、受けられないと、反対する、阿南陸相の、意見を聞かず、単独行動に、踏み切ったのである。

一団は、宮城内で、共に、決起を促した、近衛師団長、森中将から
われわれは、天皇の御親兵である。事の、理非によらず、大御心で、動くのである。陸軍大臣の命令があっても、聖旨に添わねば、拒否する
との、言葉を受けた。

畑中、椎崎中佐の二人が、発砲し、森師団長を、射殺した。
更に、その場に、居合わせた、白石中佐を、斬殺した。

徳川侍従は、彼らに、道案内を強要されたが、巧みに、拒絶して、難を逃れた。
金庫室は、防空壕にもなっており、徳川侍従は、その扉に、「女官湯殿」との、表札をかけていた。

青年将校たちが、頼りにしていた、阿南陸相は、姿を見せず。
阿南陸相は、事件を聞いて、失敗を予期し、酒を飲んだ後、割腹して、果てた。

青年将校たちは、クーデターの拠点となると、期待した、東部軍の、司令官、田中大将に、逆に、大喝されて、クーデターは、失敗に終わった。

陛下が、藤田侍従長に、漏らした。
あのものたちは、どういうつもりで、あろう。私の、この切ない気持ちが、どうして、わからないのであろう。

翌日、15日、古賀少佐は、森師団長の遺体の前で、割腹し、畑中、椎崎少佐は、二重橋の前で、拳銃による、自決である。

この日、正午、天皇の声は、全国にラジオ放送された。

天皇を守ろうとした、青年将校たちである。
しかし、陛下の御心の、真意が、理解出来なかった。
だが、それは、彼らのせいではない。

そのように、教育されたのである。
国体であらせられる、天皇を、守り抜くことが、使命であると。

天皇陛下のために、命を、捧げることが、兵士の誉れであると。

その後、その教育の現場を、昭和天皇は、多々見ることになる。
それは、断腸の思いであったと、思われる。

天皇陛下のために、死にました。
これを、聞かれた陛下の、お気持ちは、いかばかりか・・・

一身に、昭和天皇は、戦争責任を、生涯に渡り、負い続けたのである。
処刑されるよりも、それは、生き地獄であろう、と、私は、察する。
それを、思えばこそ、私は、天皇陛下について、を、書くのである。

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2010年08月15日

天皇陛下について 15

天皇陛下を書いている。
そこで、少し外れて、世界から、日本を、俯瞰してみる。

新たらしい、事実が、明るみにされている、現代は、過去の、蒙昧を、打ち砕く。

日露戦争について、からで、である。

日本の勝利は、アジアの人に、希望を与えた。
今までは、決して、白人に勝つということは、考えられないことであった。
そして、それが、観念となっていた。
それゆえ、いくら、植民地にされ、利益を剥奪されても、どうすることも、更に、方法さえも、見えなかった。

だが、日本が、ロシアに勝ったのである。
希望が、見えた。

ところが、である。
白人世界、つまり、欧米列強は、黄色人種が、将来、白人人種を、おびやかす存在になるとの、警戒感が、強まり、更に、広がるのである。

ドイツの、カイゼル皇帝が、黄禍論、こうかろん、を唱える。
黄色人種の、禍説である。

対等な人間と、見なしていなかった、有色人種の国、日本が、日英同盟のおかげとは、いえ、白人の、大国ロシアと戦い、勝利した。
白人世界は、危機意識を感じた。

日本が、日清、日露の、歴史的戦勝を感じていた頃である。

アメリカでは、着々と、将来に向けての、世界戦略作りが、進められていた。
ルーズベルト大統領の手により、日露戦争中の、1904年、陸海軍統合会議が「オレンジ計画」の作成に着手する。

それは、日本を仮想敵国と定めて、封じ込めるとの、長期戦略計画である。

つまり、大東亜戦争の、35年前から、日本壊滅計画が、練られていたということである。

米西戦争で、フィリピンを獲得した、アメリカは、極東の権益に、意欲を見せ始めるのである。

行き着く先は、アジア唯一の、自主独立国である、日本との、決戦である。

セオドア・ルーズベルトは、日米開戦に、備えて、戦略構想を立案する、布石を打った。

それは、日清戦争が終わった、二年後の、1897年に、対日戦略プログラムの策定が、行われたといわる。

その後、何度か、改定され、戦略方針が、次第に、明確になってくるのである。

アメリカという、国が、いまでも、戦争を続けているのは、業であろう。

オレンジ計画は、アメリカ政府内の、委員会で、検討された、「カラープラン」と呼ばれる、アメリカの、対仮想敵国戦略の一部であり、その名は、ドイツが黒、イギリスが赤、メキシコが緑、日本はオレンジである。

中でも、主たるものは、フランス、ロシア、日本である。

オレンジ計画、その第一の理由は、地政学的前提である。
地理的に、いつか、戦争が勃発するであろうという、予想。

極東の小国である、日本は、人、資源のための、領土拡大政策を取るものである。

アメリカは、西欧諸国の守護者となり、民族の自活と、貿易の自由を重んじるがゆえに、開戦は、必至である。
そして、日本は、その戦争で、国の命運を賭けて、国力を総動員するだろう。

だが、海上封鎖を強めて、補給路を遮断すれば、日本は、孤立し、アメリカが、勝利する。

人類はじまって、以来の、大戦が、このように、練られていた。
いかに、日本が、戦争回避をしても、そのように、進行したであろうことは、難くない。

そして、日本は、朝鮮半島に迫る、ロシアが、仮想敵国だった。

欧米と違い、日本は、戦争というものを、体験していない、国である。

世界史として、見ても、日本ほど、平和国家は無い。
例外中の例外であると、歴史家は、言う。

だが、そのために、陰謀渦巻く、国際情勢に、疎いのである。

今に始まったのではない、日本は。
平和国家、お人よし国家、である。

だが、日露戦争勝利によって、日本は、大陸への、進出を急激に、始める。
それは、ロシアの脅威から、日本を守るための、防衛意識である。
しかし、軍部の暴走も、拍車をかけた。

ただし、韓国合併、満州国の建設に当たったが、西欧列強が、アジアの植民地で行った、支配のようではない。
資源の収奪、住民の奴隷化などは、一切、行わなかった。

逆に、教育、インフラ整備、と、韓国、満州の、近代化に、乏しい財政の中から、巨額な、資金をつぎ込む。

それを、忘れている、韓国が、日本の統治時代を、酷く、批判するという、愚劣である。
もし、日本が、そうしていなければ、韓国は、国も、造ることが、出来なかった。

その、たった、一つの例を上げる。

韓国を併合した、日本が置いた、朝鮮総督府が、一番困ったことは、教育レベルの低さである。
朝鮮半島では、科挙を目指す、上流階級のものであり、民衆は、全く教育を、受けなかった。

日本と、同じように、義務教育を施すにも、何も無い状態。
呆れた。

文字も、漢字のみ。
何せ、中国一辺倒であるから、その先が無い。

民族の、精神であるのは、言葉である。
日本は、足利時代に、朝鮮の、世宗という、王が、ハングル文字を考えたことを、突き止めた。

総督府は、この、ハングル文字を、復活させ、義務教育を実施した。
一気に、ハングル文字が、民衆に普及する。

そういう、恩を、忘れて、韓国は、発展するだろうか。
兎に角、先に、恨みが、先行する。
恨みは、成長も発展も、妨げる。

日本も、古代から、中国に、学んだが、日本は、それを、単に受け入れるのではなく、生成発展させて、我が国独自の、文化を作り上げた。

中国には、文明があった。
そして、日本も、文明を作り上げた。

韓国は、中国の、文明の、枠から出る事が無かった。
中国文明圏の中にある、韓国である。

韓国は、そういう意味では、日本に、適わない。
それが、歴史的、ものの見方である。

悪いものは、すべて、日本の統治時代のもの、良いものは、すべて、韓国が、作り上げたという、嘘を、子供たちに、教育する、その姿勢が、韓国を、滅ぼす。

必ず、歴史は、明確に、なるのである。

隠されていたものが、明るみに出る、それが、歴史である。


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2010年08月16日

天皇陛下について 16

1914年から、始まった、第一次世界大戦に、日英同盟により、日本も、参戦した。

連合国からは、ヨーロッパにも、参加して欲しいとの、要望あり。しかし、日本は、それを、断り、シナのドイツの租借地に、軍艦を派遣して、占領する。

大戦後、戦勝国の一国として、パリ講和会議に、出席し、日本が要求したのが、何と、人種差別撤廃である。

パリ講和会議では、国際連盟の、下準備も進められ、その、規約作成する当たり、第二十二条に、人種差別撤廃の規定を、盛り込むように、提案した。
だが、圧倒的な反対に遭う。

否決である。

信じられるだろうか。
いかに、白人というものが、それを、恐れたか。

アメリカ奴隷制を、廃止した、リンカーンでさえ、実は、真っ当な感覚を持っていなかった。つまり、明確に、黒人を差別していた。
公務員には、黒人を起用しないと、言明した。
それは、劣っているから・・・

色付き人間は、劣っている。
長い間、そのように、信じられてきた、歴史がある。

今なら、どうだろうか・・・
通用するか・・・
しない。

その、報いを受け始めている。
ドイツでは、移民を大量に受け入れた。

そして、学校では、ドイツ人の子供たちが、少数になり、トルコなどの、イスラム系移民の子供たちから、いじめを、受けている。

色付き、人間が、いよいよ、本領発揮である。

いつも、足元が、揺れているとは、仏陀の言葉。
いつも、歴史は、揺れている。

アジアを、植民地化した、白人たちは、未だに、謝罪は、しない。
当然だと、無意識に思うのである。

白人至上主義は、今も、生きている。
キリスト教の、キリスト像を、見よ。
あれは、白人のイエスである。

イエスは、アジア人である。
色付き人間である。

日本は、諦めなかった。
西園寺公望を団長とする、日本代表は、
大戦に勝ったのはインドがイギリスに協力し、ベトナムがフランスに協力したからではないか。日本も戦ったではないか。だから、人種差別は、撤廃して、人種は平等という原則を打ちたてようではないか。国際連盟規約の前文でもいい、人種は、平等であると、一行を加えて欲しい。
と、何度も、訴えた。

日本は、粘りに粘った。

世界史初の、日本の、この人種差別撤廃は、最大に評価されていい。

小委員会では、賛成11、反対5である。
反対は、イギリス、アメリカ、ポーランド、ルーマニア、ブラジルである。
よくよく、これを、覚えておくことだ。

それなのに、議長であった、アメリカ、ウィルソン大統領は、
全会一致、少なくとも、反対者がいないこと、
が、必要だとの、詭弁である。

そして、否決とした。
これも、よくよく、覚えておくべきことである。

一番、人種差別を恐れたのは、誰か、である。
色付き人間は、劣っていて、更に、白人より、動物に近いとの、認識。

私は、オーストラリア、アボリジニ民族について、旅日記に、書いた時、差別の思想を少し説明した。
そちらを、参照してください。

実は、この時の確執が、国際連盟脱退に、つながる。
勿論、その他、様々な、問題もあるが・・・

100年ほどの前の、白人の、有色人種に対する、差別は、想像を絶するものである。

世界の、列強の仲間入りをした、日本ですら、同じ人間として、扱われなかったのである。

一つの例を上げる。

日露戦争の翌年、カリフォルニアで、サンフランシスコ大地震が、発生した。
日本政府は、苦しい財政の中から、当時の国家予算の、千分の一以上に当たる、五十万円、現在の価値では、六百億円という、巨額の救援資金を、サンフランシスコには、五万円を、在留邦人に送った。

多額の見舞金は、日露戦争の際の、アメリカの、仲介に対する、お礼と、日本人移民への、差別を緩和させたいとの、思いである。

しかし、サンフランシスコは、どうしたか。
地震によって、崩壊した、公立学校が、無くなったとして、日本人、朝鮮人、中国人を、焼け野原に建つ、ボロ小屋に、押し込め、隔離したのである。

新しい学校に、入れる余地はないとの、理由は、詭弁である。
日本の児童は、百人にも、満たない。

有色人種の隔離政策の、口実だけである。

その後も、アメリカは、排日政策を、次々と、実施する。
1913年、カリフォルニア州に、外国人の土地所有を禁ずる土地法案を成立させる。
そこは、最も、日本人が多い地域で、明らかに、排日政策である。

それ以後も、日本人が、アメリカ生まれの子、つまり、アメリカ市民の名義で、土地を取得すること、土地を所有する会社の社員や、株主になることさえ、禁じられる。
農地の借地権も、禁止された。

更に、1922年、日本人の、帰化権が、剥奪される。

黄色人種は、帰化不能外国人であり、帰化権は、無いとされた。

第一次大戦で、アメリカ兵として、兵役に服した、アメリカ市民となった、五百名以上の、日本人も、帰化権を剥奪された。

それゆえに、80パーセントの、日系移民が、築き上げた、農地を残し、帰国せざるを、得なかったのである。

その上、1924年、絶対的排日移民法を、可決し、日本人を、完全に排斥した。
オーストラリア、カナダ、ニュージーランドも、白豪主義を掲げて、日本移民を、拒否した。

このことも、覚えておくことである。

日本は、一気に、反米感情を抱くようになる。
その上、貧乏である。
移民の道を、閉ざされて、いよいよ、満州が、日本の生命線と、なってゆく。

帝国ロシアの、ニコライ二世も、日本人を、終生、マカーキ、サル、と呼んで、憚らず、公文書にも、マカーキと、書き続けた。

これも、忘れてはならない。
勿論、恨みのためではない。
事実確認のためである。

それなのに、である。
昭和天皇、皇后両陛下が、アメリカご訪問の、際の、晩餐会で、天皇陛下が、突然、アメリカの皆さんに、お話したいと、席を立った。
皆、驚いた。
予定にないことである。

陛下は、
アメリカ国民の皆様に、一言、感謝の言葉を、述べたいのです。
戦後の、日本に、食料を支援してくださったことに、心から、感謝の意を表します。
と、仰せられた。

戦時中の、日本人が、アメリカ政府にされたことなど、一言の、恨みも、もたずに、大和心で、対処された。
見事な、人間主義である。

アメリカでは、一気に、天皇に対する、敬意と、熱狂が、起こった。

マッカーサーをして、ここに、紳士がいると、絶賛された、陛下の人間性である。


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2010年08月17日

天皇陛下について 17

さらに、当時の、中国の状態を、俯瞰する。

1912年、孫文の辛亥革命があり、清は、滅亡する。
歴史的な、出来事である。
二千年以上続いた、帝政中国が、終焉したのである。

臨時大統領に、孫文が推されるが、まもなく、軍閥の袁世凱が、実権を握る。
孫文は、皇帝の退位と共に、座を退く。

しかし、独裁体制を、固める、袁世凱に対して、民主政府を樹立するため、再度、孫文が、立ち上がる。

その、中華革命党は、袁世凱の死後、1917年、軍閥政府打倒を、掲げて、広東に、もう一つの、政府を打ち立てる。
それが、中国国民党である。
その、軍司令部を務めていたのが、蒋介石である。

1921年、毛沢東、周恩来が、中国共産党を、誕生させる。

二大勢力は、1935年に、戦い、共産党軍は、蒋介石の、国民党軍に、完璧に、叩き潰される。

毛沢東は、北へ、北へと、逃れる。
そして、延安を軽微していた、張作霖の息子を、そそのかし、西安にやってきた、蒋介石を、捕虜にする。
延安から、周恩来の軍政も、駆けつけ、蒋介石の命は、風前の灯であった。

ところが、そこに、ソ連の、スターリンから、電報が入る。
蒋介石を生かして、日本と、戦わせろ、である。

狡猾なスターリンが、考え出した謀略は、戦わずして勝つと言うもの。

敵同士を、戦わせて、出来るだけ、長期戦に持ち込む。そして、両者が、疲れ果てたときに、割って入り、漁夫の利を得る。

スターリンの考える敵は、国民党だけではない。
日本、アメリカ、ドイツ、イギリスなどである。

その後は、そのシナリオ通りに、進む。

最後になって、日本に参戦し、日本から、北方領土、樺太を奪い、中国、東欧などの、共産主義化に、成功するのである。

酷いのは、日本人、百五万人を、シベリアに、長期抑留し、奴隷同然に扱い、酷寒の地で、シベリア鉄道の建設に、従事させたのである。
そして、四十万もの、日本人を、虐殺したのである。

中国の、泥沼の戦い、日支事変に、日本を追い込んだのも、スターリンに、通じていた、共産党である。

義和団の乱の後、日本は、西欧列強と同じように、清国と、条約を結び、北京周辺に、四千人の、駐屯軍を、派遣している。

そして、1937年7月7日、北京郊外の、盧溝橋で、夜間演習をしていた、清水中隊に、何者かが、発砲する事件が起きる。
上官の命令が、なければ、応戦できないと、自重するが、三度目の、発砲により、やむなく、応戦した。

これが、発端となり、日本と、国民党の全面衝突が、始まる。

真相は、わからないが、おおよそ、共産党であろうと、言われる。
事件の翌日、共産党は、国中の新聞、団体に、日本が蜂起した。北京が危ない、戦闘の準備をと、檄を飛ばしている。

共産党とは、手段を選ばないのである。
自分に利があれば、それでいい。さらに、人間主義ではない。
単なる主義、主義である。
宗教と、同じである。

最近の、研究では、共産党は、日本軍にも、国民党軍にも、同時に攻撃したと、言われる。
だから、日本と、国民党は、誤解して、戦う状態になったというのである。

毛沢東在世中に、中国を訪問した、日本の社会党の、議員が、中国を侵略したことを、詫びると、毛沢東は、
日本が国民党と、戦ったおかけで、われわれは、天下を取れたと、答えている。

それでは、アメリカは、何をしていたか。
張作霖の、息子と、手を組み、満鉄包囲網を築き、満州における、日本の利権を圧迫していたのである。

満州を巡る、日米の確執が、始まったのは、日露戦争後からである。

日本が、満州国を誕生させた、1932年、アメリカ大統領に、フランクリン・ルーズベルトが、就任した。
彼は、激しい、人種差別主義者で、日本人を、最も嫌った。

彼も、日本叩きに、利用したのが、蒋介石である。

アメリカ、イギリスは、フランス領だった、インドシナ半島の、ハノイと、ビルマから、蒋介石に、武器弾薬、食糧などの、支援物資を、送っている。
抗日軍事援助を、行っていたのである。

ルーズベルトの、狙いも、スターリンと、同じである。

両者、共倒れになれば、都合がいいのである。

更に、驚きは、1940年、フライング・タイガーと、名付けられた、正規の空軍二百人を、アメリカが、蒋介石に、派遣して、日本と、戦わせるという、暴挙である。

日本とは、中立条約を結んでいるにも、関わらず、である。
これは、重大な、国際法違反である。
宣戦布告なくして、参戦している。

更に、アメリカは、日本に対して、1939年、通商条約の破棄を通告し、その十月には、アメリカ大使が、条約の締結を拒否し、翌年、条約が、失効するのである。

日本は、アメリカに対して、懸命に、関係緩和を、努めていた。
にも、関わらず、アメリカは、日本に、戦争突入を、迫るべく、様々な、形で、追い詰めてゆくのである。

日本は、アメリカと、戦う、戦争を行う意思など、毛頭無かったということである。
これは、覚えておくべきことである。

アメリカは、イギリス、中国、オランダと、交渉を重ねて、共同戦線を張り、日本に対する、経済封鎖を断行する。

軍需物資は、勿論、生活必需品の、日本への、禁輸措置を課したのである。

追い詰められた、日本が、取るべき道は、インドシナ半島への、駐留である。
その動きに、アメリカは、石油の、全面禁輸を実施した。

当時、日本の石油の、99パーセントを、アメリカの輸入に頼っていた。

ここまで、追い込まれると、戦争の道しかなくなる。

何度も、私は言う。
アメリカによって、起こされた、戦争が、大東亜戦争なのである。


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2010年08月18日

天皇陛下について 18

八月十日午前二時二十分の、天皇陛下の、ご聖断により、敗戦を受け入れ、降伏を決定した。

だが、それだけでは、陛下の御心は、まだ、理解できないゆえに、更に、その後の、二度目の御前会議を書く。

午前四時、国体に変更なきことを、唯一の条件として、閣議でも、ポツダム宣言の受諾を決定した。

その時に、阿南陸相が、問題にしたのは、降伏申し入れへの、米国の回答文である。

天皇および日本政府の国家統治の権限は・・・連合国軍最高司令官の下におかれるものとする・・・最終的な日本国の政府の形態は・・・日本国民の自由に表明する意志により決定すべきものとする・・・

天皇制の、存続に関しては、触れず、国民の自由な意志で決める、としていることと、天皇は総司令官に従属する・・・というものだった。

陸相や、両院議員総長は、
これは、日本を属国とすることである。国体に変更を加えないことを、絶対条件にせよ
と、唱えて、譲らない。

陛下は、
阿南、心配するな、朕には確信がある
と、仰せられた。

阿南大将は、かつて、侍従武官として、奉仕し、その忠誠無比な武人気質を、陛下は、深く愛されていた。

統治形態を国民の自由な意志で決める、ということについても、陛下は、
たとい、連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのでは、しようがない。人民の自由意志によって、決めてもらって、少しも差し支えない
との、仰せであった。

しかし、日本始まって以来の、降伏であり、ことは、一気に進まず、更に、八月十四日、再び、御前会議が、開かれた。

新たに、陸海軍省の軍務局長、内閣書記官らも、加わり、首相以下、十一名である。

ここに重ねて聖断を、わずらわし奉るのは、罪軽からずと存じますが、反対の者の意見も親しくお聞き取りの上、重ねて、何分の御聖断を仰ぎたく存じます。

抗戦派は、これが最後の機会とみて、必死となり、涙を交えて、訴えた。
とくに、阿南陸相は、溢れれる涙も、そのままに、時に慟哭して、降伏反対を、訴えた。

一同、寂として、声なく、陛下も、たびたび、眼鏡を持ち上げて、白手袋を瞼に、当てた。

そして、天皇陛下は、
ほかに、別段の発言がなければ、私の考えをのべる。これ以上、戦争の継続は無理だと、考えている。
国体についての不安は、もっともだが、先方も、相当の好意をもつと、解釈し、そう疑いたくない。
自分はいかようになろうとも、国民の生命を助けたい。

更に、陛下は、
このさい、私になすべきことがあれば、何でもいとわない。

一同は、嗚咽しつつ、聞き入っていた。

自分が、いかようになろうとも
そして、陛下が、目頭を、押さえると、全員、こらえきれず、号泣した。

敗戦は、ここで、最終的に、確認された。

天皇の、戦争責任問題という、議論がある。
天皇は、戦争の責任を、一身に負ったのである。

何度も言うが、退位も、亡命も、願わずに、ただ、国民と共にあろうとした。
そして、日本の伝統を、滅びさせることは、出来ないと、決断された。

天皇の、戦争責任を、求める国もあり、天皇死刑を、求めた国もある。
だが、マッカーサーは、反対だった。
それでは、天皇を、更に英雄にしてしまうという、考えである。

今、現在の、考え方で、天皇戦争責任を、問うのではない。
その当時の、あり方で、問うべきである。

もし、天皇陛下が、死刑になった場合・・・
国民は、どうなったのか・・・

あの当時の、天皇に対する思いは、親以上の存在、何よりも、国体であらせられるとの、考え方である。

連合軍の統治は、全く進まず、国内での、内戦状態に突入したであろうことは、難くない。

昭和天皇が、生きて、その、責任を負ったからこそ、現在の日本がある。
そして、立ち直ることが、出来たのである。

天皇は、作られる存在ではないと、書いた。
そして、天皇という、存在は、国民と、共にあるのである。

更に、国民の祈りの対象とされる。
それは、天皇が、国の最高祭祀で、あらせられるからである。

これは、もはや、天皇制云々の問題ではない。
日本は、伝統として、天皇を、そのように、戴いてきたのである。

敵を想定しない、存在が、国の、上、カミに、おわします・・・なのである。

下、シモには、国民が、いる。
そういう国が、日本という国である。

欧米列強は、天皇を、ローマ法王のように、理解した節があるが、全く、異質なものである。

教義による、権威などを、持つものではない。
祖霊に続く、御親、みおや、と、つなぐ存在なのである。
つまり、祖先との、取次ぎ役なのである。
それを、理解できるものではない。

祖霊崇敬など、彼らは、特別の価値を、見出さない。
皆、神の国、天国に入るべきものであると、考える。

神を崇めるが、祖霊を、崇める、伝統は、無いのである。


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2010年08月19日

天皇陛下について 19

よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ   
明治天皇御製

よも、とは、四方、世界のことである。
皆、はらから、とは、縁あるもの。同胞である。兄弟である。

など、しかし、波風が、立ち騒ぐ、とは、争いが、起こるという。
つまり、争いは、しない、という、意思である。

昭和天皇は、その、御製を、朗詠して、平和裏の解決、外交での、解決を、望まれた。

時の、首相、近衛文麿は、陛下の、御意を受けて、アメリカ大統領、ルーズベルトに、連絡を取り、日米首脳会談を開きたいと、申し込む。
それに、ルーズベルトは、機嫌よく応じるが、実際、腹の中は、すでに決まっていた。
開戦である。

1941年八月、プリンスオブウェールズ号艦船で、イギリスのウィンストン・チャーチルと、ルーズベルトは、大西洋会談を行い、日米開戦を密約する。

いかに、日本に、先制攻撃を仕掛けさせるか、すでに、協議を済ませていた。

チャーチルは、焦っていた。
このままでは、ドイツに攻撃されると。
そして、何とか、アメリカに、参戦させようとしていた。

ルーズベルトは、すぐにでも、参戦したい。
だが、彼の選挙公約は、第二次世界大戦の戦場には、アメリカの青年は、送らないとして、当選したのである。

参戦するには、それ相応の、戦争反対に対する世論を、納得させる必要がある。

そこで、ルーズベルトは、ドイツの商船を、二度も沈めたが、ヒトラーは、乗ってこなかった。

かくなる上は、日本に、それを、やらせる、という、魂胆であった。

そんな、謀略など、考えもしない、日本は、十月に入っても、天皇の命で、平和的解決を、模索していた。

10月16日、近衛内閣が、倒れ、東条英機内閣が、出来る。
東条は、大命を拝受したとき、陛下より、9月6日の、御前会議の決定を白紙にし、あくまでも、外交交渉を続けるようにとの、お言葉を賜る。

これを、知った、グルーアメリカ駐日大使も、クレギー駐日イギリス大使も、本国に、日本は、真に平和を望んでいる。今こそ、和を結ぶべきである、と、打電する。
しかし、開戦を決めていた、ルーズベルトも、チャーチルも、取り合わず。

アメリカが、突きつけてきたのが、中国大陸からの全面撤退、日独伊三国同盟の即時破棄という、ハル・ノートである。

ルーズベルトの陰謀は、最高機密であり、それを知る者は、三名だけである。
その中の、一人、スチムソン陸軍長官の、日記には、
われわれが過大な危険にさらされないで、日本の最初の一弾を撃たせるように、どのように誘導してゆくかが話し合われた。
と、書かれている。

事実、日本軍が、進駐した、インドシナ沖に、アメリカは、軍艦に仕立てた、四隻の廃船を、おとりにして、日本が攻撃したら、戦争のきっかけにするという、挑発も、行っていた。

ルーズベルトの、長女が書いた、「操られたルーズベルト」には、家族との会食の席で、ルーズベルトの、発言を、暴露している。

「私は決して宣戦はしない。私は戦争を創るのだ」

更に、真珠湾攻撃の前日は、
明日戦争が起こる
と、つぶやいていた、という。

日本は、考えに考えた末、通常の戦争では、敗戦は、火を見るより、明らかである。この上は、宣戦布告して、奇襲をかけ、多大な損害を与えて、早期に、和睦を申し入れること。
それしか、方法が無いという、ところまで、追い詰められたのである。

それは、日露戦争のときに、考えられた戦略と、同じである。

1941年12月8日、日本の存亡をかけて、ハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争に、突入する。

この、上記のことを、忘れることなかれ。
昭和天皇は、最後まで、平和解決を、希望されたのである。

暗号解読に優れていた、アメリカは、日本の真珠湾攻撃を、事前に察知していた。
それを聞いた、ルーズベルトは、飛び上がり、喜んだだろう。

これで、参戦の大義が、出来た。
日本の、卑怯な攻撃に、アメリカ国民は、参戦に反対するどころか、戦争に、奮い立つという・・・シナリオが、出来たのである。

ルーズベルトは、日本に対しても、自国民に対しても、顔を向けられない、謀略を作り出したのである。

この、大戦により、どれほどの人の命が、失われたか。

ここで、暫く、アメリカという、国と、その国民性について、検証する。

アメリカ人の、前身は、イギリスの、清教徒、ピューリタンといわれる人々である。

清教徒などと、呼ぶことすら、はらわた煮えくり返ることだが、アメリカ大陸の、先住民族、インデアンを、皆殺しにして、成り立った国である。

兎に角、単純である。
そして、憎悪に満ちている人々であった。
その、憎悪の元を、辿れば、古代エジプトにまで、遡る。

差別された、白人の子孫、末裔たちである。
古代、白人は、差別されていた。
その能力が、黒人より、劣っていたからである。

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2010年08月20日

天皇陛下について 20

初期の、アメリカ人と、アメリカという国を、精神分析する、実に、面白い、「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀氏の、著作から、俯瞰してみる。

岸田氏は、白人を被差別民族と、断じている。

その中でも、最も、差別されたのが、イギリスから、アメリカへ渡った、ピューリタンであるという。

これを説明するには、古代エジプトまで、遡る。

古代エジプトでは、高度な文明が築かれ、大帝国を成していた。
その、文化の、担い手は、黒人である。

エジプト帝国は、征服地を北に広げて、そこから、奴隷を連れてきた。
この奴隷が、白人である。

黒人の方が、文明のレベルが、高かったのである。

近代史では、奴隷というと、黒人であるが、それは、白人の、復讐であろう・・・か。

紀元前13世紀あたりに、この白人は、モーゼによって、指導され、エジプトから、逃亡した。
旧約聖書の、出エジプト、である。

この、逃亡奴隷たちは、何十年か後に、カナンに侵入して、イスラエル王国を、創設した。
そして、唯一絶対神の、ヤハウェを信仰する、ユダヤ教を作り上げた。

フロイトは、このユダヤ教を、当時エジプトで行われていた、アテン信仰が、元だとしている。

唯一神、アテンの信仰は、エジプト第18王朝の、アメンホプ四世が、突如として、はじめたものである。
その子である、ツタンカーメンの時代に、衰退する。
これを、モーゼ一行が、受け継いだと、ユダヤ人の、フロイトは、考えた。

旧約聖書の、最初の部分は、モーゼの手によるものであり、モーゼによる、妄想が、大半であると、いえる。

イスラエル王国は、紀元前10世紀に、南北に、分裂し、北が、イスラエル王国、南が、ユダ王国となった。だが、それぞれ、紀元前8世紀と、紀元前6世紀に、滅亡した。

その後、ユダヤ人たちは、カナンの地に戻るが、ペルシャや、マケドニアなど、様々な帝国に、支配される。
そして、最後に、ローマ帝国の、属州とされて、過ごすことになる。

紀元一世紀初めに、その属州に、イエスが、生まれる。
そして、イエスを奉じる、一派は、ローマ帝国に迎合するユダヤ支配層に、反抗し、そのため、不穏分子として、イエスが処刑される。

イエスの、死刑は、純粋に、宗教的なものではない。
多分に、政治的なものである。

処刑されたことにより、イエスは、神格を持つことになる。
そのように、イエスを奉じる一派が、考えたのである。

この辺りについては、神仏は妄想である、私のエッセイを、参照してください。

その後、イエスのグループとは、別のユダヤ人グループが、二回にわたり、反乱を起こす。
第一次、 第二次ユダヤ戦争といわれる。

しかし、惨敗して、ユダヤ民族は、離散することになる。
これが、ディアスポラである。

イエスをメシアと仰ぐグループは、この反乱に参加せず、パウロを指導者として、キリスト教を創始した。

キリスト教とは、実は、パウロ教なのである。
イエスは、教団を、作らなかった。
更に、このキリスト教は、最初は、迫害を受けるが、政治的利用が得策だとして、紀元380年、ローマ皇帝により、認証されて、ローマの国教となる。つまり、ローマカトリックである。

だが、その頃の、信者には、ユダヤ、キリスト教徒は、少なく、新しい集団になっていたと、解釈する方が、真っ当である。

ユダヤ、キリスト教徒は、迫害によって、おおよそ、皆殺しにされたのである。

だが、それまでの、ローマは、多神教である。
ローマ人には、受け入れ難いことであったが、ローマ皇帝は、自身を唯一神と、重ねて合わせて、支配力を強めるために、不合理な教えのキリスト教を、強制したのである。

ローマ帝国は、広大である。
当然、ローマの属州にも、キリスト教が、押し付けられた。

ドイツなども、深い森があるように、本来は、多神教である。
一神教とは、無縁な民族だった。
しかし、権力によって、キリスト教を押し付けられ、受け入れざるを得ない。

だが、納得しないものを、受け入れた場合、無意識の世界に、その抑圧が、押し込められる。
決して、それは、消えない。

それが、異端となって、現れる。

異端は、様々な形があるが、一番、キリスト教に多い、異端は、一神教に対する、反発である。

甚だしいものは、創造主を、悪魔扱いする。

その、人々の、不満が、爆発したのが、16世紀の、宗教改革である。
文句をつける奴、つまり、プロテスタントである。
ドイツの、マルティン・ルターが、ローマカトリックに対して、反旗を掲げた。

プロテスタントは、カトリックと、袂を分かつが、その結果、皮肉なことに、ユダヤ教に近づくことになる。

それは、カトリックを批判する運動であったがため、プロテスタントは、聖書を第一に掲げた。

潜在的に、キリスト教に、反発していた闘争が、かえって、キリスト教の源流となった、ユダヤ教に近づけることになったのである。
聖書第一主義が、最も、ユダヤ的である。

このために、一層、ヒステリックになった彼らは、仲間内でも、激しく対立することになる。

そして、この宗教改革が、イギリスへと、飛び火した。

丁度、ヘンリー八世の再婚問題がこじれて、カトリックから、分かれた、英国教会も、両者の間で、揺れ動いたのである。

そこで、英国教会から、カルヴァン主義の、ピューリタンが誕生する。

これも、プロテスタントで、清教徒と、呼ばれる。

その、清教徒が、ジェームズ一世の、王権神授説の立場から、弾圧、迫害されるのである。

1642年から、清教徒革命が始まるが、その前の、1620年に、弾圧を逃れたピューリタンたちが、メイフラワー号に乗って、アメリカの、プリマスに、上陸したのである。

これが、アメリカの、創始者たち、ピルグリム・ファーザーズ、である。


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2010年08月21日

天皇陛下について 21

アメリカに渡った、ピルグリム・ファーザーズは、一版に言われる、信仰の自由を求めて、イギリスから、脱出したのではない。
彼らが、体制側の人間ではないことは、確かで、心の奥底に、深い抑圧を感じていた、人たちであった。

キリスト教徒であるが、キリスト教に対して、深い、恨み、辛みの心があったのである。

それで、岸田氏の、言葉で、まとめる。

アメリカ合衆国は、エジプト帝国で差別されたユダヤ人がエジプトから逃亡して、パレスチナに渡り、その先住民を追い払って国をつくったが、そこでさらにあれこれの異民族に、ついでローマ人に差別され、その上、ユダヤ人を差別するローマ人に迎合する支配層のユダヤ人にもさらに差別された下層のユダヤ人がキリスト教を信じるようになり、そのキリスト教がローマ皇帝の下層民に普及し、その結果、ローマ帝国の国教となったキリスト教が、ずうつと昔、アフリカの黒人に差別されて北の寒冷地に追い払われていたヨーロッパ人に押し付けられて普及し、キリスト教徒となったヨーロッパ人のなかで更に差別されたキリスト教の一派のピューリタンがヨーロッパから逃亡してアメリカ大陸に渡り、その先住民を追っ払って建国した国である。
と、なる。

要するに、四重の被差別の、どんづまりにある、民族なのである。

このような、歴史背景により、その抜群の軍事力で、気に入らない、他民族に対して、徹底的に攻撃し、虐殺する。

岸田氏は、
先住民族虐殺は四重被差別に対する最初の報復であった。
と、する。

四重の差別を書くと、
黒人―白人―ユダヤ人―キリスト教徒―ピューリタン、と、なる。

ヨーロッパの歴史は、キリスト教の分裂と抗争の歴史である。
組織は、分裂して、更に過激になる。
分派して、原理主義も生まれる。

ピューリタン、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントという、支配層は、紛れもなく、悪魔的である。

それでは、それからの、歴史により、その残虐性を、検証する。

テキサスが、まだメキシコの領土だった時代、入植した、アメリカ人は、1835年、独立戦争を起こした。
だが、劣勢となった、アメリカ義勇兵たちは、翌年、155人が、サンアントニアの、アラモ砦に立て籠もり、応戦する。
それでも、メキシコ軍に、壊滅させられた。

この時、アメリカが、掲げたのが、「リメンバー・アラモ」の、合言葉である。

アメリカは、復讐に燃えて、総力戦を展開する。
そして、独立を勝ち取る。

1846年、併合して、テキサス州としたのである。

そればかりか、余勢をかって、メキシコに宣戦布告して、勝利し、当時の、メキシコ領の、およそ半分に当たる、領土を、手中にする。

この時、奪取したのが、現在の、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ネバタ、ユタ、ワイオミングである。

ただし、アモラ砦の、アメリカ義勇兵は、メキシコ侵略の、囮だったと、いわれる。

これに、味をしめて、アメリカ政府は、19世紀末、同じ手口で、スペインを相手に、侵略を企てる。

スペイン領、キューバで起こった、独立戦争に乗じて、ハバナ港に、軍艦メーン号を、派遣する。
だが、何者かによって、爆破される。
260人の、犠牲者が出た。

この爆破事件を、スペインの陰謀と断じた、アメリカは、「リメンバー・メーン号」の、合言葉で、アメリカ国民の敵愾心を煽り、1898年、宣戦布告して、米西戦争に、入る。

勝利して、キューバ、フィリピン、グアム、プエルトルコを、奪うのである。

だが、しかし、この時の、メーン号の爆破も、アメリカが、画策したものだという、見方が、根強く残る。

そして、リメンバー・パールハーバーも、同じく。
伝統の手法に則って、仕組まれた陰謀。

12月1日、ルーズベルトは、各地の軍司令部に、戦争準備の指令を出している。だが、ハワイの軍司令部だけは、除いた。

そして、肝心な、二隻の空母と、新鋭艦19隻は、あらかじめ、移動させて、老朽艦16隻だけを残し、日本の先制攻撃を誘導した。

日本の、急襲によって、アメリカ兵の、約2400人が、死亡した。

戦争を仕掛けるためには、自国民さえも、このように犠牲にするという、悪魔的発想である。

さて、当時の日本は、そういう、欧米の国々の、成り立ちを知らず、その陰謀逞しい様も知らない。
日本人ならば、考えないような、陰謀である。

戦国時代の、国内戦ではない。

汚い、卑劣な行為は、日本の精神、武士道にはないものである。

白人が、軸となっている、国際社会の、有様を知らなかったのである。

アメリカは、自国の、国益に沿って、用意周到に、戦略を練った。
日本は、優勝劣敗の白人の、倫理と、国際社会の、現実を、知らなかった。

今でも、謝罪外交を掲げる、日本だが、大航海時代からの、欧米列強の植民地政策に、一度も、謝罪などしないのである。

東南アジアに、出掛ける私は、時々、小耳に挟む、彼らの言葉を聞いて、驚く。

昔は、ここは、俺たちの、国だったんだぜ、である。
全く、謝罪など、思い浮かばないのである。

白人であるという、だけで、傲慢不遜になれる、その民族の元を、見直すべきである。

更に、言えば、真珠湾攻撃当時の、アメリカは、レーダーの技術が進んで、暗号の解読技術も、発達していた。
アメリカは、日本軍の動向を、すべて、お見通しだったのだ。

その、あまりにも、うまく出来すぎた、攻撃に、警告を発した人物がいた。
東郷平八郎元帥である。
だが、日本の軍部は、慢心した。

大東亜戦争を、振り返り、検証することは、これからの日本の、国益を考える上で、最も大切なことである。
昔のことではない。
今も、国際社会は、そのようなのである。


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