近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一ヶ所くらいなくてはと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後は戦いに疲れるときがくる。そのとき人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まりアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを・・・。
1922年 アルバート・アインシュタイン
私は、上記の、アインシュタインの日本に対する、感想を、より深く、深めて、これから、天皇陛下について、書く。
現在の天皇陛下ではない。
天皇の存在について、知るうる限りのことを、書く。
私は、日本人として、生まれたことに誇りを持つ、その一つの存在が、天皇陛下である。
先に、最も、通俗的な言い方をする。
天皇は、人間である。
キリスト教のように、主イエスは、神が人間になった、つまり、神が受肉されたという、考え方は、無い。
天皇は、人間であらせられる。
昭和天皇が、人間宣言をする前も、天皇は、人間である。
今年は、建国から、2670年を経る。
神武天皇から、現在の天皇の、歴史である。
更に、私の、古史古伝の、教養から、日本の前進である、富士王朝から、9060年の、歴史がある。
いや、これは、私の計算違いである。
いずれ、正しい、計算をする。
それでは、きっと、12000年を超える、歴史を、有するはずである。
何故なら、日本列島が、大陸から、離れたのが、12000年ほど前であるから、それ以前であるはずだと、考える。
富士王朝は、日本列島で、建国されたものではないからだ。
いずれ、それについては、徐々に書きつけてゆく。
世界最古の、民衆歌集、万葉集は、舒明天皇御製から、1382年を経る。
天皇から、庶民に至るまで、歌の道では、平等であるという、日本の伝統であり、宝である、万葉集である。
そして、世界最古の小説、源氏物語は、成立から、1001年を経た。
それも、天皇の存在なくしては、生まれなかった物語である。
アカデミズムでは、天皇制という言葉があるが、あれは、あれである。
天皇制という、言葉は、日本には、無い。
制度ではない。
自然発生的に、天皇家が、成り立った。
富士王朝では、大政頭、おおまつりことかしら、である。
それが、すめらみこと、と、呼ばれるようになった。
漢語による、天皇である。
最初は、漢語の大王であったが、読みは、おほおみ、である。
大和言葉を、すべて、漢語にするという、推古天皇時代の、試みがあったが、それでも、大和言葉は、捨てられなかった。
漢語を書いて、これは、大和言葉では、つまり、わが国では、このことであると、解説した。
だから、今でも、音読みと、訓読みがある。
訓読みは、すべて大和言葉である。
和歌は、すべて、大和言葉による。
どんなに、優れた、漢詩を詠む者も、和歌は、大和言葉になるのである。
この、大和とは、現在の奈良県辺りである。
しかし、大和が、日本を示す時代が来る。
富士王朝、高天原王朝の天照が、即位した時期から、とよあしはらのみずほのくに、と、称した。
更に、太陽の光を紋章にした、国旗が、出来上がる。
天皇家の、御紋は、菊の御紋だというが、実際は、太陽の光である。
富士王朝から、血族である、天皇が、九州王朝を築いて、天都とし、富士王朝を、神都と、称して、日本という国の概念が、広がる。
さて、それは、以後、詳しく書くことにする。
先の、アインシュタインの、言葉の中に、この世界の盟主なるものは武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。
とある。
武力を持つことの無かった天皇家。
これは、奇跡である。
一時的に、天皇が、武力を持って、戦いを起こした時期があるが、それは、瞬時のもの。
天皇家は、武力を持つ家ではなく、国民の、敬意によって、無形の権威によって、成り立った家柄である。
例えば、織田信長は、比叡山焼き討ちを行ったが、天皇家を、滅ぼすことは、決してなかった。
どの、軍事政権も、日本の場合は、天皇家を、壊滅させようとする、武将はいなかった。
平家、源氏、戦国時代、信長、秀吉、家康と、軍事を持つ政権が、天皇家に、刃を向けることはなかった。
何故か。
天皇家を、攻撃することは、国民を、国を滅ぼすことであると、知っていたからである。
更に、天皇を敵にすることは、全国民を敵に回すことになるのである。
会津藩主、容保が、降伏する際に、仙台藩から、王氏に歯向かうことは、子孫末代までの、恥であると、説得されたからである。
錦の御旗に、立ち向かうことが、子孫末代までの、恥とは・・・
勿論、その時の、錦の御旗というのは、また、複雑な意味があるが、ここでは、単に、天皇に、刃を向けることは、子孫末代までの、恥であるということに、注目する。
天皇とは、欧州における、王様とは、全く違う、権威である。
王様は、軍隊を持って、王様であり、それは、武力だけではなく、金力も、兎に角、民が、歯向かうことが、出来ないだけの力を、有しての、王様である。
秀吉は、天皇家の、侘びた皇居を見て、即座に、寄進するほど、貧しい時期もあった。
平安京で、その周囲に、何も、壁を作らなかったということに、驚いた中国人がいたという。
日本以外の、盟主で、自分の住まいを、壁で覆い、敵の侵入を防ぐという建物を、築かない盟主は、いないのである。
何故、天皇は、敵を想定しないのか。
国民は、一人として、天皇の敵ではなく、天皇の守るべき、祈るべき、存在なのである。
天皇は、国の、国民の、祈りの、象徴なのである。
つまり、祭司なのである。
それを、国民は、無意識に、理解し、心に深く、刻まれているのである。
それは、歴史である。
遠い、遠い、悠久の歴史から、天皇が、祭司であることを、国民は、無意識下で、知っている。
そんな国民も、また、世界では、皆無である。
天皇を、支持するか、支持しないかと、問うことはない。
天皇陛下は、祖霊と共に、国の国民の、やすらけく、たいらけく、を、祈る存在なのである。
これは、私が、死ぬまでかかっても、書ききれないものである。
未完であろう。