2010年08月01日

天皇陛下について

アインシュタインが、日本を訪問した後で、次の感想を述べている。


近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一ヶ所くらいなくてはと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後は戦いに疲れるときがくる。そのとき人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まりアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを・・・。
1922年 アルバート・アインシュタイン

私は、上記の、アインシュタインの日本に対する、感想を、より深く、深めて、これから、天皇陛下について、書く。

現在の天皇陛下ではない。
天皇の存在について、知るうる限りのことを、書く。

私は、日本人として、生まれたことに誇りを持つ、その一つの存在が、天皇陛下である。

先に、最も、通俗的な言い方をする。
天皇は、人間である。

キリスト教のように、主イエスは、神が人間になった、つまり、神が受肉されたという、考え方は、無い。
天皇は、人間であらせられる。

昭和天皇が、人間宣言をする前も、天皇は、人間である。

今年は、建国から、2670年を経る。
神武天皇から、現在の天皇の、歴史である。

更に、私の、古史古伝の、教養から、日本の前進である、富士王朝から、9060年の、歴史がある。
いや、これは、私の計算違いである。
いずれ、正しい、計算をする。
それでは、きっと、12000年を超える、歴史を、有するはずである。
何故なら、日本列島が、大陸から、離れたのが、12000年ほど前であるから、それ以前であるはずだと、考える。
富士王朝は、日本列島で、建国されたものではないからだ。

いずれ、それについては、徐々に書きつけてゆく。

世界最古の、民衆歌集、万葉集は、舒明天皇御製から、1382年を経る。
天皇から、庶民に至るまで、歌の道では、平等であるという、日本の伝統であり、宝である、万葉集である。

そして、世界最古の小説、源氏物語は、成立から、1001年を経た。
それも、天皇の存在なくしては、生まれなかった物語である。

アカデミズムでは、天皇制という言葉があるが、あれは、あれである。
天皇制という、言葉は、日本には、無い。

制度ではない。
自然発生的に、天皇家が、成り立った。

富士王朝では、大政頭、おおまつりことかしら、である。
それが、すめらみこと、と、呼ばれるようになった。
漢語による、天皇である。

最初は、漢語の大王であったが、読みは、おほおみ、である。

大和言葉を、すべて、漢語にするという、推古天皇時代の、試みがあったが、それでも、大和言葉は、捨てられなかった。

漢語を書いて、これは、大和言葉では、つまり、わが国では、このことであると、解説した。
だから、今でも、音読みと、訓読みがある。

訓読みは、すべて大和言葉である。

和歌は、すべて、大和言葉による。
どんなに、優れた、漢詩を詠む者も、和歌は、大和言葉になるのである。

この、大和とは、現在の奈良県辺りである。
しかし、大和が、日本を示す時代が来る。

富士王朝、高天原王朝の天照が、即位した時期から、とよあしはらのみずほのくに、と、称した。
更に、太陽の光を紋章にした、国旗が、出来上がる。

天皇家の、御紋は、菊の御紋だというが、実際は、太陽の光である。

富士王朝から、血族である、天皇が、九州王朝を築いて、天都とし、富士王朝を、神都と、称して、日本という国の概念が、広がる。

さて、それは、以後、詳しく書くことにする。

先の、アインシュタインの、言葉の中に、この世界の盟主なるものは武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。
とある。

武力を持つことの無かった天皇家。
これは、奇跡である。

一時的に、天皇が、武力を持って、戦いを起こした時期があるが、それは、瞬時のもの。
天皇家は、武力を持つ家ではなく、国民の、敬意によって、無形の権威によって、成り立った家柄である。

例えば、織田信長は、比叡山焼き討ちを行ったが、天皇家を、滅ぼすことは、決してなかった。

どの、軍事政権も、日本の場合は、天皇家を、壊滅させようとする、武将はいなかった。

平家、源氏、戦国時代、信長、秀吉、家康と、軍事を持つ政権が、天皇家に、刃を向けることはなかった。

何故か。
天皇家を、攻撃することは、国民を、国を滅ぼすことであると、知っていたからである。

更に、天皇を敵にすることは、全国民を敵に回すことになるのである。

会津藩主、容保が、降伏する際に、仙台藩から、王氏に歯向かうことは、子孫末代までの、恥であると、説得されたからである。

錦の御旗に、立ち向かうことが、子孫末代までの、恥とは・・・

勿論、その時の、錦の御旗というのは、また、複雑な意味があるが、ここでは、単に、天皇に、刃を向けることは、子孫末代までの、恥であるということに、注目する。

天皇とは、欧州における、王様とは、全く違う、権威である。

王様は、軍隊を持って、王様であり、それは、武力だけではなく、金力も、兎に角、民が、歯向かうことが、出来ないだけの力を、有しての、王様である。

秀吉は、天皇家の、侘びた皇居を見て、即座に、寄進するほど、貧しい時期もあった。

平安京で、その周囲に、何も、壁を作らなかったということに、驚いた中国人がいたという。

日本以外の、盟主で、自分の住まいを、壁で覆い、敵の侵入を防ぐという建物を、築かない盟主は、いないのである。

何故、天皇は、敵を想定しないのか。

国民は、一人として、天皇の敵ではなく、天皇の守るべき、祈るべき、存在なのである。

天皇は、国の、国民の、祈りの、象徴なのである。
つまり、祭司なのである。
それを、国民は、無意識に、理解し、心に深く、刻まれているのである。

それは、歴史である。
遠い、遠い、悠久の歴史から、天皇が、祭司であることを、国民は、無意識下で、知っている。

そんな国民も、また、世界では、皆無である。

天皇を、支持するか、支持しないかと、問うことはない。
天皇陛下は、祖霊と共に、国の国民の、やすらけく、たいらけく、を、祈る存在なのである。

これは、私が、死ぬまでかかっても、書ききれないものである。
未完であろう。


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2010年08月02日

天皇陛下について 2

普段の生活の中で、天皇という存在を、思うことはない。
私も、毎日、天皇陛下を思うということは、ないし、必要ない。

ところが、国事に関わること、国難に関わる時に、天皇を思う。
陛下は、どのように、考えておられるのだろうか・・・

最も、天皇を意識したのは、昭和天皇崩御の際である。

葬送の儀の日は、街が、静まり、森閑としていた。
私は、舞踊教室で、弟子たちと、踊っていた。

昭和天皇のことは、断片的に知るだけである。

それほどの、関心を寄せなかった。
その頃は、自分の生活を、立てるということで、闇雲に突っ走っていた。

ただ、時々、国体などの行事に、今上天皇が、お出ましになられて、お言葉を、述べられるのを聞いた。
そして、ある時から、天皇のお言葉に、興味を持つようになった。

公式の、天皇のお言葉に、必ず、ある言葉があった。
それが、先の大戦で、亡くなられた、320万人の皆さんの・・・である。

更に、天皇の、お言葉を、保存するようになった。

そこに、一環して、流れる、天皇陛下の、先の大戦で、亡くなった、皆さんのことに、私は、惹かれた。

天皇陛下の、生活は、私には、窺い知れないものである。

朝から、寝るまで、天皇は、公的存在であるというのは、どういうことであるのか。
そして、その精神と、心は、どうなのか。

もし、私の、一日が、公的なものだとしたら、私は、狂うと、思う。

昭和天皇は、風呂上りも、スーツを着られて、正装されていたという。
私のように、裸同然で、部屋を歩き回るようなことは、ない。
何と、不自由な生活か・・・

時には、酒を飲んで、二日酔いするようなことは、ない。
殿上人という言葉があるが、天皇は、それであるのか・・・

もう一つの、疑問は、天皇は、汗をかかない。
映像で、汗を拭いているところを、見たことがない。

そして、もう一つの、疑問は、神社などの、神域に入り、その礼拝の様子が、違う。
拍手を打つことはない。

ただ、一礼するのみ。

様々な、儀式を、すべて見ることは、出来ないが、古式に則り、行われているということは、理解する。

だが、何故、古式に則り、今も、その儀式を続けておられるのか。

昭和天皇は、あれほどの、試練を受けられても、報道の質問に、淡々として、時には、笑い声さえ、記者が立てるほどの、健やかさがあった。

その、昭和天皇が、特に、訪問したかった、場所が、沖縄であった。
その願い叶わず、崩御された。

沖縄に対する、深い思いを、私が、考えた事がある。
それは、沖縄戦を調べていてである。

その、地上戦の、凄まじさは、言葉にならない。
犠牲となった・・・

更に、敗戦後は、アメリカのものになった。
昭和天皇は、沖縄を、本土のために、犠牲にしたことは、本人が認めている。

そして、広島、長崎への、原爆投下である。

御前会議が、開かれた。
戦争終結に、誰も、声を上げることができない。

陛下・・・

今まで、天皇は、政治家、軍人の、決定を、承認するという、手続きである。
ご自分の、発言は、一切無い。
そして、それが、伝統だった。

私が、調べたところでは、大和朝廷以前の、ころからである。

その話は、壮大なドラマであり、追々と書くことにする。

昭和天皇は、戦争終結を決定された。

聖断といわれる。

国民皆、玉砕という、考え方があった。
要するに、すべて、壊滅。国民の一人も、いなくなるまで、戦うというものである。

だが、昭和天皇は、それを、支持しなかった。
皇祖皇宗からの、この、日の本の国を、壊滅させることは、出来ない。

伝統。

この、伝統を、すべて、無きものにすることは、到底出来ることではない。

天皇陛下は、国体であると、考えられた。
つまり、国、そのものである。

国、そのものである、存在、天皇は、戦争終結を、ご決断された。

そして、日本は、救われた。

天皇が、はじめて、決められた、決定である。
誰も、戦争終結を、決定することが、出来なかった。

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2010年08月03日

天皇陛下について 3

昭和天皇である、裕仁親王が、初等科五年生のときである。

七月十九日、昼、明治天皇は、皇后と食事をしている時に、突然、テーブルの上に、倒れた。

六十になる、明治天皇は、糖尿病を患い、節制された生活を送っていた。
急に、訪れた、変調に、検査を繰りかえと、腎臓病に、尿毒症を併発していた。

病勢は、悪化し、二十九日、夜、崩御された。

即座に、皇太子、嘉仁親王が、大正天皇となる、践その儀が、行われた。
同時に、裕仁親王は、皇太子になられた。

明治45年は、大正元年と、改められた。

御大葬の儀は、九月十三日である。
その前日、裕仁親王の、教育係りであり、学習院長の乃木大将は、
殿下のご勉学に、もう私は必要ではございません。しかし、私はいつも殿下と、日本の幸福を祈り、見守っております。
と、述べた。

乃木大将は、十一歳の、裕仁親王が、陸海軍の少尉に就任された、お祝いに、東宮御所を訪れ、山鹿素行の、中朝史実と、中興鑑言の、二冊の、書籍を献上している。

乃木大将の、態度に、いつもにない、暗い影を、裕仁親王も気づかれたようである。

御大葬の日、乃木大将は、自宅二階の居間で、静子婦人と共に、自決したのである。

うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり 希典

出でまして 還ります日の なしときく きようの御幸に あふぞ悲しき 静子

明治天皇と、乃木大将の、死は、明治という時代の終焉であり、新たな時代の、幕開けとなる。

GHQによる、大日本帝国解体作業の中で、最も、大きな変革を迫られたのは、軍隊と、天皇家であった。

旧体制は、壊滅的な打撃を受けて、華族廃止、財産税、農地解放、公職追放令などなど、矢継ぎ早に、打ち出された法令により、国民はもとより、国の支配層の人たちも、動揺が大きかった。

その中にあり、天皇制というものは、存続した。

天皇制というのは、何か・・・
この、言い方も、西欧の言い方である。

天皇制という、制度と、捉えている。

私は、天皇制という、制度は、日本には、無いと、考えている。
これは、私の、長い、古代史研究と、天皇陛下に関する、検証による。

戦後の、デモクラシーの時代、身分制度が消滅し、自由と平等が、謳歌された。
それは、とても、良いことだった。
国民に、自由と、平等の精神が、養われることは、理想である。

しかし、歴史家たちは、怠慢であり、そのように、分析するが、身分制度がなくなったのであり、身分は、厳然として、存在した。
今も、である。

更に、戦前の、軍人、政治家が、天皇の名の元に、自己の正当化を図り、とうてい、考えられない、分不相応な態度を、取っていたことは、事実である。

とても、信じられない、時代が、戦前である。
彼らは、天皇の存在の、意味を知らない。
それが、悲劇を生んだ。

簡単に言えば、彼らは、天皇も、人間だという、単細胞的、思考能力である。
天皇も、人間であるが、天皇という、立場が、歴史上に、どのような、意味を持つものかを、忘れた。

それほど、軍人や、政治家が、アホになっていた時代が、戦前である。
更に、戦中も、である。

民主化という、耳障りの良い言葉によって、天皇家の、防壁を、すべて取り払った罪は、重い。

どのような、政治形態でも、日本の天皇は、存在するのである。

それは、これを、読み続ければ、解る。

さて、敗戦時、宮家は、14家存在した。
それが、昭和21年5月に、総司令部が、宮家の特権を剥奪する、指令を出した。

残ったのは、秩父、高松、三笠の、三宮家である。

11の、宮家は、臣籍降下である。

更に、華族は、皇室の藩屏と、呼ばれていた。
皇室の守護に当たるという意味である。

華族といっても、色々な、立場がある。しかし、説明は、省略する。

更に、宮内省は、宮内庁に、格下げされた。
宮内大臣も、内大臣も、廃止された。
戦前、戦中、天皇を、輔弼した、枢密顧問官などの、重臣制も、消滅した。

明治政府は、旧幕藩勢力の残滓を一掃するために、天皇を維新以前より、遥かに、神格化する必要を感じて、それが、意図的に行われた。

これは、天皇の意思ではなく、明治政府、政治家の、意思である。

マッカーサーの、作業は、この、神格化した、天皇の、否定である。
人間であるという、もの。
単なる、人間の一人。

彼らは、日本の歴史を知らない。天皇の存在の意味を知らない。知るはずがない。
アメリカは、原住民である、インディアンを、皆殺しにして、建国した国である。
歴史など、理解できるはずが無い。

当時、皇室民主化という、言葉が、生まれたというが、全く、意味不明である。

今では、開かれた皇室などと、マスコミが、表現するが、彼らは、その意味さえ、知らないで、国民に迎合するようである。

つまり、あまりに、歴史を知らない。そして、それを、教える者がいないのである。

もう一つ、おまけにいう。
象徴という言葉である。

これを、正しく、明確に、説明出来る人がいるのか。

日本国の、象徴であると、私も、便宜上使用するが、それは、とても、意味を考えると、困難なことである。

国旗も、国の、象徴である。
天皇は、国旗と、同じように、象徴ではない。

天皇は、国の頭、かしら、である。
それは、富士王朝の、高天原府の時から、大政頭、おおまつりごとかしら、である。

その下に、政頭、まつりごとかしら、が、いたのである。

それから、何も、変わっていないのが、日本の歴史である。

つまり、西欧の言葉を使えば、元首である。

いや、私は、矢張り、国体と、いう方が、合っている。

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2010年08月04日

天皇陛下について 4

天皇は日本民族の家長であって、任期もなければ交代もない。共和国の大統領は、その地位を維持するためには、常に民衆と接する必要に迫られているが、天皇にはその必要がない。更にいえば、一般国民のプライバシーが尊重されるのと同様に、天皇家のプライバシーもまた尊重されなければならない。
今上天皇 藤島泰輔 総監修

私も、上記に賛成である。
更に、加えて、いえば、日本民族の、家長、それは、国体であり、民衆の決定ではなく、自然発生的に、出来上がったものであるということ。
そして、それが、民衆に、受け入れられてあったこと。
つまり、日本人は、自然に、民の上という意識を持って、天皇を見ていたこと。

昔、天皇を、天子様と、呼んでいた。
更に、そのお姿さえ、見る事が出来なかった。
それが、理想的だった。

天皇陛下を、見る必要は無い。

その存在だけで、十分だった。

上記の本を、引用する。
天皇制という制度は、ごく短い親政の期間を除いて、天皇が現実の政治と無縁だったから今日まで続いて来た。これは長い歴史の間に日本人が体得した「知恵」である。将軍家が日本を統治していた時代に、天皇家は京都の御所に在って、名目的に将軍や諸侯に官位を授与する立場でしかなかった。その時代、御簾の彼方の天皇を垣間見ることさえ、民衆には機会がなかった。それでも天皇家が常に将軍家の上に存在したのは、存在が見えなかったからである。

あの、戦国時代でさえ、天皇家を、攻撃するものが、無かった。
あの、信長でさえ・・・

何故か。
天皇を敵にするということは、民衆、国民を敵にすることだと、知っていたからである。

貴い身分の天子様という、存在を置いたのは、日本人が体得した、知恵であるという。
和を貴ぶ、日本民族の、知恵なのである。
その、和の、象徴が天皇であり、その天皇が、国体なのであるという意識。
つまり、元首であるという、意識。

その、元首である天皇は、武力を持たない存在である。
つまり、敵を想定しない、存在なのである。

国民の一人に、敵を想定しない存在である、人がいる。
そういう人を、上に、頂くというのが、知恵だというのである。

名目的に、官位を授与する立場でしかなかった、というが、違う。

それは、大きな勘違いである。
確かに、行為としてみれば、そのようである。

しかし、明治維新前後、会津藩主、容保が、孝明天皇から、御製、お歌を、贈られている。彼は、その後、生涯に渡り、その御製を、胸に、掲げていたという。
肌身離さず、御製を抱いていた。

武士には、武力があるが、権威が無い。
そこで、無形の権威ある、天皇の名の下に、大義名分を欲した。

会津藩を打つために、薩長は、錦の御旗を作ったほどである。
そして、容保が、降参したのも、仙台藩の、王氏に逆らうのは、末代までの、恥であると、説得されてである。

それが、民族の、知恵であると、看破したのは、見事である。

戦をしないように、殺しあわないように・・・

ただ、平清盛のように、一時的に、上皇を追放するという、暴挙に出た、傲慢なものもいる。

驕れる平氏は、矢張り、滅んだ。

源頼朝も、天皇から、官位を頂いて、鎌倉幕府を開いた。

日本には、そういう、伝統と、知恵がある。

大化の改新の前に、丁度、舒明天皇の時代である。
蘇我氏の勢力と、今風に言えば、連立政権を、天皇家、大王家が結んでいた。

しかし、蘇我入鹿の、目に余る、暴挙を見て、このままでは、大和の国が、蘇我王朝になると、舒明天皇の、皇子である、後の、天智天皇が、立ち上がって、大化の改新を遂げた。

天智天皇は、天皇家の、中興の祖であると、いってもよい。

そして、天武天皇により、天皇家の、位置が、更に確定する。
だが、それで、納得しては、いけない。

天皇家の、地位の確定は、その以前にある。

少し、話は、変わるが、天皇家が、常に、イギリスの王室と、比べられたり、そこに、学べという、勘違いする者たちがいる。

全く、イギリス王室と、天皇家は、異質である。
その、歴史は、滅茶苦茶である。
更に、彼らは、海賊から、成り上がった、王様である。
つまり、地主の、親玉である。

成り立ちが、全く違う。

イギリス王室は、いくらでも、庶民的になってもよいが、天皇家は、庶民的になる必要は無い。

タイでは、ウィリアム王子の、裸体の写真が、出回るほどだ。
それほど、あちらの王室というものは、天皇家とは、異質過ぎる。

園遊会などで、高齢の昭和天皇が、各界の著名人たちと、言葉を交わすのを、見るたびに、何故、このような、馬鹿下駄ことをするのかと、いつも、思った。

天皇陛下は、そんな必要は無い。
ただでさえ、天皇の、一日は、忙しいのである。
つまり、朝から、国と、国民のための、祈りを、御行為される。

特に、昭和天皇から、それが、多くなったという。

御簾の向こうから、その御声が、洩れ聞こえるだけで、よい存在である。


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2010年08月05日

天皇陛下について 5

権力闘争によって王位を得たヨーロッパの王朝は、かつてどの王朝でも栄耀栄華を極めている。日本の皇室にはその経験がない。明治維新までも、富と権力は将軍家にあって天皇家にはなかった。日光東照宮の絢爛と、伊勢神宮の素朴さを比較するだけでも明らかである。
藤島泰輔

豊臣秀吉は、天皇家の、垣根が荒れ果てているのを、見て、即座に、手直しを命じたという。

天皇家は、少しばかり、庶民の上の暮らし振りだった、時期もある。
ただし、その権威だけは、失わない。

天皇が、病にある時は、京の花僧が、快癒の祈りで、天皇家の前に、花を立てた。
更に、庶民も、手を合わせて、快癒を祈る。
そのような、存在だった。

決して、栄耀栄華を、謳歌したという、事実はない。
ただ、国と、国民のために、祈る存在だった。

天草島原の乱の際に、幕府は、不気味な自然状況から、朝廷に、特別祈願を願い出ている。

そのような、存在が、朝廷だった。
そして、天皇の祈りも、である。

さて、日本の皇室は、一度たりとも、閉ざされた皇室を、目指したことはない。
ただし、皇室の周辺に、皇室への道を閉ざして、自らの権力の道具に利用した、勢力が存在したのは、事実である。

開かれた皇室を、唱える人々に言う。
皇室は、一度たりとも、閉ざした事実は無い。
今更、何をいうのか。

ただ、その無形の権威に、国民は、畏敬の念を抱き、恐れ多いと、畏まっていただけである。
開かれた皇室を、目指せとは、お勉強をしていない、証拠である。

更に、王は、作ることが、出来るが、天皇は、作ることが、出来ないものであることを、肝に銘じるべき。

西欧の、王室と、皇室の違いは、天地の差ほどある。

比べる対象ではない。

日本人は、天皇の存在を、忘れて、生活していて、いいのである。
天皇は、君臨も、統治もしない存在である。

だが、国難、政治が不安定など、大きな出来事の際に、天皇の存在に、安堵するのである。

再度言う。
皇室は、一度たりとも、閉ざされたことはない。

開かれた皇室などを、掲げる、連中は、何かの魂胆があってのこと。

陛下は、日本国中の、出来事に、心を砕く。
毎日。
朝から、晩まで、いや、24時間、心を砕く。

そのような、無私の存在は、世界に二人と、いない。

更に、勉強不足なのは、現人神という言葉である。

これは、国民のことを、言う。
皆が、現人神なのである。

古来の、伝統である。
それを、天皇のみに、当てたというのは、間違いである。

正式に、天皇を、いう場合は、現人御神、あらひとみかみ、と、お呼びする。

大和朝廷以前の、富士王朝では、国民を、皆、神として、呼んだ。
その、伝統を忘れたのである。

更に、加えて言う。
君とは、あなたと、私との、関係で、使われる。

君が代という、国歌は、あたなの、幸福と長寿を願う、歌である。

天皇は、大君と、呼ばれる。
おほきみ、である。

それも、お勉強不足である。

どこの国に、私の大切な人が、幸福で、長寿でありまように、という、歌詞の国歌があるか。
日本の国歌こそ、世界国歌に、相応しい。

これほど、平和な内容の、歌詞の国歌を、私は知らない。

それで、天皇は、国歌を変更せよと、仰せられたか。
そのままである。
それは、国民、皆が幸福で、長生きして欲しいと、思うからである。

無形の権威は、そのように、ある。
我が身は、無私なのであるから、平然として、君が代を、受け入れている。

これが、王室になると、とんでもないことになる。
王の権威と、権力を、謳いこまなければ、納得しない。
それほど、王位というものは、不安定なのである。
つまり、作られるからである。

天皇は、作ることが出来ない。

今年、建国から、2670年を、迎える。
その長きに渡る伝統があるから、首相が、コロコロと、変わっても、国民は、平然としていられる。
天皇陛下の存在があるからである。

海外の要人は、陛下に逢えば、それで、納得する人たちが、多い。
今や、天皇は、キングでも、エンペラーでもない。
世界の、天皇なのである。

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2010年08月06日

天皇陛下について 6

大正10年3月3日、ロンドン・タイムスは、次の社説を掲載した。

三月三日は日本の歴史上最も記念すべき日の一つとなるであろう。裕仁殿下は、きょう横浜からわが国訪問の旅に出られる。日本の皇太子が国外へ出られるのはこれがはじめてである。これは世界最古の皇室の歴史の中で明治維新にも匹敵する大きな出来事である。

裕仁殿下、つまり、後の昭和天皇である。

世界最古の皇室。
日本の歴史上最も記念すべき日。

イギリスでさえ、皇室に対して、最大の敬意をはらう。何故か、世界最古の皇室としての、認識である。

イギリス王室が、決して、適わない歴史と、伝統を有する、皇室の存在である。
そして、イギリスは、それを、歓迎すると共に、誇りにしたのである。

当時のイギリスは、暗黒時代の只中にあった。
失業者は、180万人を数えたという。

そんな中、日本の皇太子の、訪問は、イギリスの、国力を示す良い機会だった。

バッキンガム宮殿をはじめ、多くの場所で、歓迎式典が、催された。
その際の、殿下の、お姿は、多くの人に、感銘を与えたという。

殿下は、目の上が発達されていて、観察力の鋭さをあらわしている。快活で気取らない、礼儀正しい態度は、感謝の気持ちに満ちている。
との、評である。

ただし、国内では、殿下の御外遊に対して、右翼団体の黒竜会のリーダー頭山満などが、過激な反対運動をしていた。

要するに、野蛮な外国へ行くことは、自分と、日本をいやしめる、という、内容である。

それは、知らないゆえのこと。
イギリスでの、歓迎の様を、見たら、如何に、それが、愚かなことか、解るのである。

ここで、特記すべきことは、オランダにて、第一次世界大戦の戦場を、訪れ、殿下は、戦争は、本当に酷い、可愛そうだと、しみじみと、感想を漏らしたということである。

大和言葉でいえば、あはれに儚きことなつかしくも哀しく思われた、のである。

ここに、昭和天皇の戦争に対する、思いが、象徴される。

9月3日、半年間の外遊を、終えて、日本に戻られた裕仁殿下は、二十歳を過ぎたばかりである。

帰国して、次々と、事件が起きる。

安田財閥の頭首、安田善次郎が、刺殺された。
天誅をくわえられたのである。

そして、11月4日、東京駅構内で、原敬首相が、暗殺された。

11月25日、殿下は、摂政に就任された。

父親の、大正天皇の、病状が優れず、執務は、不可能で、皇太子である、殿下が代行していたのである。

時代が、変わろうとしていた。

権威と名声を欲しいままにしていた、山形有朋公爵が、病死した。
明治維新から、日清、日露戦争を戦った、幾多の志士たちの、時代が終わりを告げる。

そして、青天の霹靂、関東大震災が、大正12年9月1日に、起きた。

大変な被害を出した。
東京市内でも、五万数千人が、焼死したという。

損害総額は、推算で、65億円。

流言蜚語が飛び交い、朝鮮人虐殺事件が起こった。

無政府主義者、大杉栄が、憲兵隊の手で、殺された。

摂政宮である、裕仁皇太子は、救済基金として、一千万円を寄付された。
現在では、一千億円に相当する額である。

更に、殿下は、被災地視察に出られ、大災害の状況を、目の当たりにした。
更に、殿下にも、災難が襲った。
難破大助という、凶漢による、皇太子狙撃事件である。

彼は、孤独な共産主義者であった。
特権階級にたいする過酷な警告の一つとして、皇族にテロリズムを遂行する、というものだった。

今でも、共産主義者は、特権階級云々をいうが、一番、特権階級を作るのは、共産主義であろう。

邪な、考え方を持つゆえに、そのような、考え方に染まる。
先祖の因縁が、悪いとしか、いいようがない。

その後、ご成婚、そして、大正15年12月25日、大正天皇が、崩御される。
47歳で、あられた。

皇太子裕仁殿下は、即座に、第百二十四代天皇に、なられた。

昭和が、はじまる。

大正天皇の、御大葬は、翌年、2月7日に、夜を徹して行われた。
宮城から、新宿御苑の斎場まで、50万人の参列者が、街道を埋めた。

イギリスでも、ウエストミンスター大寺院にて、追悼式が、しめやかに行われたという。

東京聖公会の、サザンプトン司教は、日本語で、祈りを上げたという。
ラテン語以外の、言葉が使用されたのは、はじめてである。

それから、天皇陛下としての、即位の大礼が、一年九ヶ月後に、京都御所にて、盛大に、行われた。

当時は、銀行閉鎖や、企業の倒産が、相次ぎ、失業者が、巷を埋める、暗い時代であった。しかし、皇室尊崇の篤い国民は、喜び、慶祝の声が、通津浦浦に満ちたという。

ここで、今上天皇の、生誕を書く。
第四子まで、内親王、つまり、女の子だった。

昭和8年12月23日、皇太子継宮明仁親王が、誕生された。
つぐのみやあきひと親王である。

この年に、月の砂漠という、歌が流行したのが、印象的である。

王子様と、お姫様が、砂漠をラクダに乗って、旅をする。

月の砂漠を はるばると 旅のラクダがゆきました
先の鞍には、王子様、後の鞍には、お姫様

皇太子を、連想させる歌詞が、この歌を、人々の口に上せたのだろう。


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2010年08月08日

天皇陛下について 8

昭和初期の、軍部は、とても、傲慢不遜だった。
これが、後々に、日本の命取りになるとは・・・

当時、思想的には、どのような状況にあったのか。
東京帝国大学教授、美濃部達吉博士の、「天皇機関説」の、是非が、国会で、議論されたという。

それは、主権在民か、天皇主権をとるかの、憲法論争にまで、発展した。

美濃部は、国家を一つの法人として、見るならば、天皇の統治権も、司法・立法・行政とおなじように、国の機関であり、大日本帝国憲法を擁して、立憲君主制をとっている、日本に、天皇の主権を、専制君主制のごとく、とらえるのは、おかしい、ということになる。

帝国憲法では、君臨すれども、統治せず、の、配慮がされていた。
日本が、天皇の国のためだとは、言わないのである。

ところが、天皇ありて、国家があるのであり、国家があって、天皇があるのではないとの、激した、考え方が、多数を占めた。

天皇陛下の、存在を絶対視、神聖視して、他の価値観を、否定した。
それが、矢張り、後の軍部に採用される。

それでは、昭和天皇は、どのように、考えたのか。

天皇は、憲法擁護の立場で、君主主権より、国家主権のほうを、認めると、いう。
君主主権は、専制になりやすい。
わが国のように、君国一体ならば、天皇機関説でもよいという、見解であった。

更に、美濃部博士を擁護して、不忠ではない、あのような学者を、葬ることは、惜しいことだと、述べられた。

逆に、右翼化している、反機関説のほうが、天皇の、御旨に、背いている。

このように、天皇陛下は、国民を信じていた。
国民が敵ではないのである。

敵を想定しない、天皇家の伝統は、限りなく、深いものがある。

美濃部博士の、起訴猶予が伝えられた時、陛下は、よかったと、側近に、仰ったという。

昭和11年2月のことである。
東京は、53年振りの、大雪に見舞われた。

そして、国体を揺るがす、突然の事態が、発生した。
政府、軍部は、震撼し、市民も、恐怖に陥れた。

2,26事件である。

皇道派と呼ばれる、急進派で、天皇を絶対視する、過激な青年将校の、一群が、中心となり、統制派と呼ばれる、政策論を建前に、中国などへの、対外戦略を推進し、国内に、疲弊を招いて、私腹をこやす、時の、政財界人に、天誅を加えるために、決起したのである。

昭和維新を旗頭に、天皇陛下の、直接裁可を仰ごうとしたものである。

天皇の、統帥権を勝手に利用する、統制派に対して、青年皇道派は、武力に踏み切った。

何と、総勢、1400名である。

皇軍の、同士討ちを恐れた、軍部は、逆賊扱いせず、認める方向に、考えた。

しかし、理由の如何を問わず、陛下の、許すところではなかった。

朕が股肱の老臣を殺戮す。このごとき凶暴の将校ら、その精神においてもなんの恕すべきものありや

陛下は、速やかに、暴徒を鎮圧せよとの、勅命を下された。

軍は、慌てふためいた。

陛下は、再び、朕みずから、近衛師団を率いて、鎮定にあたらん、と、申された。

決起部隊は、彼らの信奉する、天皇陛下自身から、逆賊の汚名を着せられ、そこで、有名な、兵に告ぐ、の、言葉に涙を呑んで、投降することになった。

いまからでも遅くないから原隊へ帰れ
抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する
おまえたちの父母兄弟は国賊となるのみでみな泣いておるぞ

参加した、兵士は、青少年であり、上官の命令は、陛下の御命令でもあると、教えられていたものである。
これは、天皇を父親以上に、更に、神として、崇めていた考え方を、天皇によって、否定されたことになる。

一体、どちらが、正かったのか・・・

統帥権干犯問題の決定的努力が、完全に失敗した。

直接参加しなかったが、首謀者として、北一輝が、処刑された。

ただし、軍部は、天皇絶対視、神聖視を、止めなかった。
兵士を、思うがままに、使役するため、天皇の、威光を建前とて、掲げたのである。
それが、大東亜戦争の兵士たちの、悲劇となる。

天皇みずからが、それを否定した。

つまり、天皇は、極端を嫌った。

たゆたふ、曖昧な心にある、大和心というものを、その身で、示されたと、私はいう。

これが、王ならば、王の絶対視、神聖視する、兵士たちは、王の最大の、軍隊になるのである。
しかし、日本の天皇は、決して、王ではない。

なる必要もない。
伝統として、天皇家は、国民、国家を、見守り、その平和と、繁栄を願う存在である。

軍が、慌てたのは、同士討ちである。
天皇が、恐れたのは、内戦である。
それは、もう、歴史が証明していた。
天皇は、内戦を認めない。
内戦に至るのであれば、我みずから、兵を率いて、鎮定に当たるという、その心は、天皇陛下に、備わる、天皇の御心である。

大和魂とは、そういう心、魂を、いう。


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2010年08月09日

天皇陛下について 9

昭和天皇
その心、血の抗争を、忌み嫌われた。
解りやすい言い方をすると、強烈なヒューマニズムであるといえる。

その天皇が、何故、大東亜戦争を、承認したのか。
私自身も、大変、興味があるものだ。

その、昭和天皇は、後年、私は、二度、立憲君主としての、道を踏み間違えたと、仰せられた。

2.26事件と、敗戦の時である。
私は、これから、終戦とは、書かない。
日本は、終戦したのではない。敗戦したのである。

だが、それは、内閣と、軍部の、優柔不断に対する、天皇の、決定要求であったと、いえる。

そして、時代は、軍部の力が、どんどんと、強くなってゆくのである。

軍部の意向に反する、内閣人事をするが、軍部の反対が強烈だった。

何度か、内閣総辞職が、行われ、決定的な、事態になったのは、林銃十郎陸軍大将が、首相にたてられた時である。

彼は、軍国主義を堂々と、鼓舞して、敬神尊皇、祭政一致の精神、を、うたい、当時の、あらゆる分野から、時代錯誤と、批判された。

結果、林内閣は、解散である。

その後、近衛文麿公爵が、登場する。
一旦、軍政に歯止めが、かけられたが、貴族にありがちな、無欲と、ひ弱さを指摘され、次第に、軍部の、強硬路線に、屈するようになる。

昭和12年7月7日の、盧溝橋事件である。
北京郊外の、永定河にかかる、盧溝橋で、突如、中国軍から、実弾が発砲された。

日本軍の、夜間演習が、行われた際に、その、空砲の音に、呼応するかのように、射撃があった。
実は、これには、裏がある。それは、後に書くことにする。

被害は無いが、事実上の攻撃である。
夜の演習は、白日の攻撃に変えられた。

日本軍の攻撃にあい、中国軍は、撤退し、北支駐屯軍は、城内に侵入した。
満州事変の、関東軍に、継ぐ、陸軍の独断専行である。

事件の報を聞いた、陛下は、ソ連軍の反応を心配された。

そして、陛下は、それは、陸軍の独断であり、もし万一、ソ連が立ったら、どうするのかと、仰せられた。

陛下の懸念をよそに、戦火は、拡大した。
日本軍は、蒋介石軍を追って、戦域を広げ、ついに、南京を攻略する。
そのときは、中国共産党も、抗日を旗印に、蒋介石率いる、国民政府軍の、第八路軍として、共同戦線をはっていた。
つまり、日本軍は、全中国を敵に回したことになる。

国内では、戦勝気分が高まり、更に、危機意識もあり、非常時の体制は、天皇陛下の周辺でも、叫ばれた。
宮中には、大本営が、設けられた。

歴史は、どのようにして、作られるのか、と、私は、考える。
時代性と、時代精神が、要になる。

阻止する勢力が、強ければ、それは、阻止されるが、弱ければ、続けられる。
その、根拠は、時代性と、時代精神である。

ドイツでは、ヒトラーが、第二次四ヵ年計画を実施、イタリアでは、ムソリーニが、スペイン内乱などを、通じて、より強固に国家体制を整える。

日本でも、国家総動員法が、公布された。

そして、陛下の懸念されたとおり、昭和13年7月、ソ連と、満州の国境付近で、戦火が上がった。

ソ連軍が、国境沿いに、勝手に、鉄条網を張り巡らして、陣地を構築しはじめたのである。

その一端は、日本側の、満州領内を侵していた。

これに対する、武力行使に対して、ひとまず、天皇の、大命を待つことになる。

陛下は、武力行使を許せということなら、自分は、絶対に、許す意思は、無いと、侍従武官長に、伝えていた。

参謀本部作戦課長、稲田正純大佐は、ソ連の出方を見るチャンスとし
「実力行使の大命を仰ぐ見込みなし・・・
状況は百八十度の転回をきたし、われらの責任や独断の範囲をすでに超越しあり。考えをあらたにして状況に善処せられたし」
と、前線基地司令部に、電報を打った。

陛下は、陸軍に対して、非常に、不満を募らせていた。
満州事変の柳条溝、盧溝橋事件、中央の命令に服さず、出先の、独断で、朕の軍隊にあるまじき、卑劣な方法を用いること、しばしばある、と。

今後は、朕の命令なくしては、一兵だに、動かすことならん、と、陸軍大臣に申し付けた。

しかし、前線部隊は、またも、大命を無視して、攻撃を開始した。
結果は、ソ連軍より、三倍の被害を出した。
日本軍は、やむなく、撤退。
なんとか、停戦にこぎつけた。

近衛首相は、辞職し、続いて、平沼枢密院議長が、内閣を受け継いだ。
彼は、軍人ではなかったが、右翼の代表と目されていた。
以後、日独伊三国同盟を、推し進めてゆくことになる。

どうしても、時代が、その方向に進むという、状況が見える。
それは、進化を促すために、その経験をさせるようである。

日独伊三国同盟は、ファシズムによる、世界制覇を目指したのである。
1940年、昭和15年、9月、ベルリンで調印された。
日中戦争、ヨーロッパ戦争に不参加の国からの攻撃に対する、相互扶助を約したものである。
だが、1943年、イタリア、45年、ドイツが、降伏して、同盟は、崩壊した。


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2010年08月10日

天皇陛下について 10

大東亜戦争に、突入せざるを得ない理由を、渡辺昇一氏の、日本史快読、から、見る。

第一には、アメリカの人種差別と西進政策から来た対日敵視政策、また、それに関連しての日英同盟の廃止、第二には、日本経済を危機に追いやったアメリカ、イギリスのブロック経済への突入、第三には、北から迫るソ連の共産主義の脅威、そして、第四は、元老という歯止めを失った明治憲法の欠陥であった。

実に、明確なものである。

軍部が暴走したのは、憲法に、軍部を制御できる条文がなかったのである。
そして、元老という、歯止めがなかったという、渡辺氏の、通りである。

今も昔も、日本は資源がなく、貿易なしには成り立たない産業国家である。自由貿易は、その相手国と友好的でなければ続けられるものではない。それもあって、満州事変までの日本は対外的に協調路線を採っていた。ところが、いったんブロック経済が始まり、貿易の途が危機に曝されるならば、まず生存する方針を考えざるをえない。平和的な貿易ができなくなれば、戦争を歓迎する人間が現れてくる。
渡辺昇一

いち早く、明治憲法の欠陥を、補っていれば、軍部が暴走することもなかった。
世界には、日本に、二つの政府があるように、見えたのも、軍部と、政府との、二つの見解があったからである。

世界から、孤立。
それを脱するために、ヒトラーや、ムッソリーニと同盟することもなかった。

つまり、時代は、戦争を求めていた。

アメリカをはじめ、ドイツと対立する、イギリス、フランス、オランダなどからの、禁輸、貿易の縮小という、経済措置の危機に、日本は、ついに、物資不足に陥る。

それを、打開するためには、ドイツの欧州制覇を背景に、東南アジアに進出をせざるを得ないのだった。
これについては、後で、詳しく検証する。

昭和15年は、建国、2600年に当たる。
11月、10,11日と、二日間、奉祝行事が、行われた。

天皇の、御前に、各国大使が、招かれて、アメリカの、ジョセフ・C・グルー大使は、平和と相互協力の挨拶をした。

翌年、16年、3月、松岡外相は、ソ連、ドイツ、イタリアに向かって、旅立った。
電撃外交である。

スターリン、ヒトラー、ムッソリーニに会うためである。

その使命は、ソ連、ドイツ、イタリアの世界分割を明確にし、日本の南進政策を容認させることにあった。

すなわち、侵略協定である。

帰路、モスクワで、日ソ中立条約を締結する。

だが、独ソ開戦の危機が、濃厚で、そうなれば、戦域の拡大が予想された。
その年、矢張り、ドイツは、ソ連に、宣戦布告する。

松岡外相は、日本軍の、シベリア派兵を主張し、自ら結んだ条約に、手のひらを返したのである。

この年の暮れ、真珠湾攻撃の直後、外相の座を降りた松岡は、病床で、三国同盟は、最悪のミスだった。
陛下、お許しくださいと、慟哭したという。

アメリカ大統領、ルーズベルトは、日本が、仏印に進駐する前から、インドシナを中立にし、米英仏中も、これを占領しない方針を説いていた。

また、二人のアメリカ人神父が、来日し、両国関係改善案を持参して、平和外交の努力は、みられた。

日本が開戦に至るひとつの原因は、ヒトラーがヨーロッパを戦場にしてしまったため、世界情勢が一気に緊迫したことが挙げられる。それを背景にして、ますます情勢は険悪となり、1941年には、アメリカ、イギリス、オランダが国内にある日本資産を凍結し、通商条約の破棄を通告してきた。
しかし、最大の原因は1941年8月、アメリカが日本に対して石油の輸入をストップしてしまったことであった。
このため、最後まで開戦に抵抗していた日本海軍が決意を固め、これで開戦は避けられないことになったのである。
渡辺昇一

最後まで、開戦に反対していた、海軍も、石油が、半年で、一滴もなくなるという、状況に、自滅する道を選ぶわけにはいかない。

アメリカの意図は、日本を屈服させることにあった。
絶望感から、大戦に突入することは、ないと、考えていた。との、見方があるが、後に、これについて、詳しく見ることにする。

アメリカ側は、譲歩する気はなかった。
1941年、11月26日、国務長官、コーデル・ハルは、それまでの日米交渉の経過を一切無視する、ハル・ノートを突きつけてきた。

その内容は、日独伊同盟の事実上の破棄、蒋介石政府だけを日本が、承認すること。
シナや、インドシナからの、日本軍の、即時無条件撤退である。

石油を断ち、そして、すべてを捨てよという、アメリカの言い分は、日本は、潰れよということと、同じである。

ちなみに、日本は、人種差別に関して、世界ではじめて、国家は人間の肌の色をもって差別を行わない、と、国際連盟創設の時に、提案した、国である。

結果は、退けられた。

日本敗戦後の、国際連盟は、人種差別の撤廃が、掲げられ、ブロック経済を導入した、アメリカ、イギリスも、責任を認め、深刻に反省した。

あの、戦争は、何だったのか・・・
簡単である。
日本の、自衛の戦争である。

それは、後々、マッカーサーも、認めたことである。

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2010年08月11日

天皇陛下について 11

日本の南進政策は、徐々に、具体化され、軍部と、政府は、「帝国国策遂行要領」を作成し、9月6日の、御前会議で、決定すべく、近衛首相が、天皇に、上奏する。

陛下は、それを、見て
これでは、戦争準備が第一で、外交交渉を、第二にしている。戦争が主で、外交が従ということか。
更に、
外交と戦争準備は平行せしめず、外交を先行せしめよ。
仰せられた。

そして、杉山参謀総長を、呼び、南方作戦の、予定を、質す。
三ヶ月から、五ヶ月で、解決するとの答えに、
おまえは、日中事変を、一ヶ月で終結させるといったが、四年以上も、続いているではないか、仰せられた。

すると、シナは、奥地が広いものですから・・・と、答えた。

陛下は、
シナの奥地が広いというなら、太平洋は、なお、広いではないか。
と、仰せられる。

絶対に勝てるのか。
と、陛下が、尋ねる。

絶対とは、申しかねますが・・・
何とか、勝てる公算があります・・・

ああ、わかった
陛下の声が響いた。

四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらむ
明治天皇御製
その日、陛下は、その歌を胸ポケットに入れて、それを、二度、朗詠されたという。

それは、平和希求の心情が、歌われる。

陛下により、戦争回避の空気に包まれたが、日米交渉は、実る事がなかった。

開戦は、目の前に迫った。
近衛首相は、辞職し、東条英機陸相が、首相の座に就いた。

そして、アメリカの、コーデル・ハルからの、親書である。
アメリカの、宣戦布告をいうものである。

宣戦布告と、同じ程度の条文である。

決して、日本が、呑むことの出来ない、和平条件、つまり、宣戦布告と、同じである。

12月1日、御前会議で、最終決定が、下される。

帝国は、米英蘭に対し、開戦す

陛下は、義山参謀総長、永野修身軍令部総長に、
このようになることは、やむをえぬことだ。どうか、陸海軍は、よく協議してやれ、と、おおせられた。

12月8日、開戦の指令を受けて、山本五十六連合艦隊司令官は、
ニイタカヤマノボレ1208
の、電文をハワイ空襲に向かう、南雲忠一機動部隊に送った。

また、杉山も、南方軍司令官内寿一に
ヒノデハヤマガタ
を、発信。
シンガポール、香港攻略を、命じた。

真珠湾攻撃。
日本の駐在大使館員らの、不手際で、奇襲攻撃が、完了したころ、ようやく、ハル国務長官のもとに、届けられたという。
が、真実は・・・

アメリカが、すでに、それを知っていたことと、日本の駐在員らの、怠慢ではない。

日本大使を、足止めしたのは、結婚式に、出席していた、牧師の、長い、説教である。
それは、時間を遅らせるための、作戦、策略である。

兎に角、アメリカは、国民に、日本に対する、戦争への、気分を盛り上げるために、奇襲攻撃があったという、事実を、アメリカ国民に示したかった。
このことについては、後で、じっくりと、書くことにする。

トラ、トラ、トラ
アメリカは、日本軍の、暗号解読に成功して、その後も、つねに、傍受していたのである。

アメリカは、一環して、戦争を続けている国である。
何故か。
すべて、利益のためである。

日本の、開戦の、最大の、テーマは、石油を、断たれたこと。

そして、昭和天皇は、大東亜戦争の遠因として
この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認するところとならず、黄白の差別感は依然残存しカリフォルニア州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。
と、仰せられた。

平和条約とは、国際連盟の結成を決定したものである。
黄白とは、黄色人種と白色人種である。

第一次大戦が、何故、起こったか・・・という、疑問に答えられる歴史家が、いるだろうか。
誰も、いないし、もし、解っていても、口に出せない。

私は、知る。
それは、ホモセクシャルが、原因である。

性について、という、エッセイに、それを書くので、そちらを、参照。

さて、この、大東亜戦争は、世界に、多くの、教訓を与えた。
それは、追々と書いてゆく。
日本は、戦争によって、世界に貢献したのである。
それ以後、あのような、大規模な戦争は、起こらない。
起こしようが無いのである。


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