2009年09月02日

伝統について 32

高山の 峯行くししの 友を多み 袖振らず来ぬ 忘ると思ふな

たかやまの みねゆくししの ともをおみ そでふらずこぬ わすするとおもふな

高山の、峰を行く、けもののように、連れの友が多かったので、袖を振らなかった。しかし、お前を忘れているとは、思うな。

勇ましい恋心である。
袖を振れば、知られてしまう。だから、振らなかったのだ。



大船に 真かぢしじ貫き 漕ぐ間も ここだく恋し 年にあらば如何に

おおふねに まかぢしじぬき こぐほとも ここだくこひし としにあらばいかに

大船の、両端に楫「かじ」を一面に通して、漕ぐ、その櫓「ろ」さばきの僅かな間も、これほどに、恋しい。一年も間があったら、どんな思いか。

細やかな感情を、比喩にて、表現する。

大きな船の、舵を取るために、漕ぐ、楫「かじ」を取る間も、思い出しているのである。それが、一年も、会わずにいたらと思うと、堪らない気持ちだという。

つまり、一瞬も忘れていないと、言いたいのである。
それほど、好きなんだと。


たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り 隠れる妹を 見むよしもがも

たらちねの ははがかふこの まよこもり こもれるいもを みむよしもがも

たらちねの母が、飼う、かいこが繭「まゆ」にこもるように、家に隠れる、あの娘に、逢う術が、欲しい。

中々、逢うチャンがないのである。
何とか、逢えないか。逢いたい。

大切にされている、娘に逢うための、方法を、探している。
これも、片恋。片思いである。


肥人の 額髪結へる 染木綿の 染みにしこころ われ忘れめや

こまひとの ぬかがみゆへる しめゆふの しみにしこころ われわすれめや

肥人が、額の髪に結ぶ、しのゆふのように、あの人に、染まってしまった、私の心は、忘れられない。

初恋か。
髪が色に染まってしまうように、好きな相手に、心が染まったのである。
もう、忘れられない。

肥、とは、細やかな、という意味。


隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく わが名は告りつ 妻とたのませ

はやひとの なにおふよごえ いちしろく わがなはのりつ つまとたのませ

隼人の、名にそむかぬ、夜警の声のように、はっきりと、私は名乗りました。妻として、頼りに、してください。

男の、求愛に対して、女は、はっきりと、自分の名を名乗ったのである。
揺ぎ無い、女の心。
あなたの、妻となります。

恋の成就である。

何とも、気持ちの良いほど、明確な歌である。
頼ってください、着いてゆきます、である。
頼もしい、恋人である。



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2009年09月04日

伝統について 34

解衣の 恋ひ乱れつつ 浮沙 生きてもわれは あり渡るかも

とききぬの こひみだれつつ うきまなご いきてもわれは ありわたるかも

解衣、とききぬ、とは、解いた、衣である。
そのように、乱れて恋しつつ、流れに浮く砂のように、生きて、私はゆくのだ。

誰が、歌詠みしたのか、分からない歌を、人の口から、口に伝えられて、万葉恋歌として、残っている。
確かに、似たような歌が、多い。しかし、だからこそ、貴い。

人も、我も、同じ人間である。
人類の進化は、共感能力によって、なったという、説がある。
私は、賛成する。

同じ思い、更に、相手の身になって、考える能力、共感性は、人間だけが、持つ能力である。

解いた布のような、気持ちになり、流れに浮かぶ砂のようにでも、恋して、生きるという。それは、恋すれば、誰もが思うことであろう。

人の体験を、詳しく聞いて、それを、経験に高めることが、できのも、人間である。

この、人間の、能力を、歌い上げたものが、万葉集であり、更に、それが、日本の伝統である。そして、ひいては、人類の伝統となる。

人の口から、口へと伝わるということは、共感に他ならない。

その歌の、心に、共感するから、口から口へと、伝わるのである。

梓弓 引きて許さず あらませば かかる恋には 逢はざらしものを

あづさゆみ ひきてゆるさず あらませば かかるこひには あはざらしものを

梓弓を引いて、緩めずに、心を許さなかったならば、これほど、苦しい恋に、逢わなかったものを。

恋は、苦しい。だから、恋はしない。
そんなことは、出来ない。
それが出来るという人は、余程、偏屈なのだろう。
つまり、宗教というものは、皆、偏屈なのである。
恋を、迷いと、断定して、そこから、離れよと、教える。
更に、貴い人間の、欲望を、否定するのである。

万葉は、欲望を、恵みとして、捉える。
それは、実に、正しい。

言霊の 八十のちまたに 夕占問ひ 占正に告る 妹はあひ寄らむ

ことたまの やそのちまたに ゆふけとひ うらまさにのる いもはあひよらむ

言霊の、満ちた、多くの辻に、夕占を尋ねると、占は、正に言う。あの子は、私に、靡くだろう。

黄昏の時刻に、辻に立ち、行き交う人の言葉を聞いて、それを、占いとして、吉凶を判断する。

実に、楽しい遊びである。勿論、当時は、真剣に、聞いたのである。

玉矛の 路行き占に うらなへば 妹は逢はむと われに告りつる

たまほこの みちゆきうらに うらなへば いもはあわむと われにつのりつる

たまほこの道を、歩いて占うと、あの子は、私に逢うだろうと、その言葉は、伝えた。

じつと、道行く人の言葉を、聞いて、自分の知りたい言葉を捜す。
中には、闇に覆われても、納得した言葉を、聞けないことも、あっただろう。

人間とは、何と、愛しいものだろうか。
その、愛しい行為を、誰も、止めることは、出来ない。
いずれ、年老いて、若き日の、ことが、思い出になる。
そして、人生とは、思い出であると、気づくのだ。

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2009年09月05日

伝統について 35

問答
複数の歌が、一組になった組歌。

皇祖の 神の御門を かしこみと 侍従ふ時に 逢へる君かも

すめらぎの かみのみかどを かしこみと さもらふときに あへるきみかも


真澄鏡 見とも言はめ や玉かぎる 石垣淵の 隠りたる妻

まそかがみ みるともいはめ やたまかぎる いはかきふちの こもりたるつま


大君の、神の御殿を、恐れ多いと、お仕えしていた時に、出会った、あなたである。

真澄鏡のように、見たといえるだろうか。玉の輝く、石垣淵のように、籠もって、逢わない妻は。

見るとも言はめ
強い否定を伴う、疑問であるから、見たと言っても、言わないだろう。
 
真澄鏡のように、曇らずに、はっきりと、見た。つまり、逢った。
それなのに、隠れている。
それは、人に知られることを、恐れるからか。

万葉の恋歌は、人に知られることを、恐れる場面が多い。
何故か。

とても、初心で、純粋な心持。

密やかに、隠しているから、恋が成就するという、感覚を感じる。
人の知るところとなると、恋が破れるという、意識があったのか。


赤駒の 足掻速けば 雲居にも 隠り行かむぞ 袖枕け吾妹

あかこまの あがきはやけば くもいにも かくりゆかむぞ そでまけわぎも


隠口の 豊白瀬道は 常滑の 恐き道そ 恋心ゆめ

こもりくの とよはつせぢは とこなめの かしこきみちそ こいごころゆめ


味酒の 三諸の山に 立つ月の 見が欲し君が 馬の音そ為る

うまさけの みもろのやまに たつつきの みがほしきみが うまのおとそする


赤馬の足が、速いので、ただちに、雲居に隠れるように帰ってしまう。さあ、早く、袖を枕としょう、吾が妹よ。

隠国のとよはつせぢは、いつも、足が滑る、恐ろしい道。恋心に、はやるな、決して。

味酒の、三諸の山に立つ、月のように見たいと思う、あなたの、馬の足音がする。

三諸とは、三輪山である。
神のいらっしゃる山という意識である。

逢引の、様子であり、その心である。
女が男を待つのである。

そして、男が、女を求めて、訪ねる。

互いの心が、向き合うのである。
恋、つまり、魂乞いである。

さらにあり
大和心と
人問わば
恋の心と
魂乞いの それ     天山

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2009年09月06日

伝統について 36

雷神も 少し動みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

なるかみも すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ

雷が、少しとどろいて、曇り始めた。雨が降らないだろうか。そうすれば、あなたを、引き留められるのに。

何事もない、歌である。
一晩を過ごした、恋人が、朝帰るのである。
もう少し、一緒にいたい、そんな心境である。

雷神の 少し動みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば

なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとまらむ いもしとどめば

雷が、少し轟いて、雨が降ることがなくしても、私は、留まる。妻が、留めるなら。

上記、二首で、組になっている。

そんな、やり取りをする。
今の時代も、同じだろう。
出来るだけ、一緒にいたいのである。
一緒にいても、飽きない。
好きだという、気持ちに、飽きはこない。

しきたへの 枕動きて 夜も寝ず 思ふ人には 逢はむもの

しきたへの まくらとよきて よるもねず おもふひとには あはむもの

しきたえの枕が、動いて、夜も寝られない。思う人に、あとで、逢うからだ。

しきたえ、とは、上等な布で、作った枕である。

逢わずとも、心が通い合うという。
次の歌は、その女の気持ちに、応える歌。

しきたへの 枕に人は 言問へや その枕には 苔生しにたり

しきたへの まくらにひとは こととへや そのまくらには こけむしにたり

しきたへの枕に、人は、言問いをするでしょうか。あなたを恋しているのに、お出でもなく、こちらの枕には、苔が、むしている。

男の方が、女が来ないという。
これは、おかしい。
この男は、女の元に、通わない、口実をいうのか。

いや、男も女も、それぞれの関係で、通い合うのであろう。
妻の元に通う、夫の元に、通う。それぞれの、理由がある。

次は、
正に心緒を述べたる
歌である。
ただにおもひをのべたる
思いを、心緒と、書く。

思いは、心の中に結ぶもの、または、心を結ぶものと、考えた。

漢字は、日本に輸入されて、更に、その意味を深くしたといえる。
漢字は、日本にて、完成したともいえる。

たらちねの 母に障らば いたづらに 汝もわれも 事は成るべし

たらちねの ははにさやらば いたづらに いましもわれも ことはなるべし

たらちねの、母に拘っていたら、あなたも私も、事は、ならないだろう。

母親に、妨げられることで、二人の関係が、成らないのである。
ことはなるべし、が、障らば、ならないのである。

当時は、母親の、思いが、とても強く、影響した。
つまり、母系社会である。

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2009年09月07日

伝統について 37

吾妹子が われを送ると しろたへの 袖漬づまでに 泣きし思ほゆ

わぎもこが われをおくると しろたへの そでひづまでに なきしおもほゆ

妻が、私を送るといって、しろたへの衣の袖が、濡れるまで泣いたであろう。

奥山の 真木の板戸を 押し開き しえや出で来ね 後は何せむ

奥山の まきのいたどを おしひらき しえやいでこね あとはなにせむ

奥山の、真木で作った、板戸を押し開きて、出てください。後は、何事があろうか。

しえや
捨て鉢な気持ちである。えいい、出てきなさい、である。

何せむ
後は、どうにでもなれ。

恋する者の、心の乱れ。いつの世にもある。

かりもこの 一重を敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし

かりもこの ひとへをしきて さねれども きみとしねれば さむけくもなし

かりもこの、たった、一枚でも敷いて寝ても、あなたと、寝るなら、寒いことはない。

説明するまでもない。

杜若 丹つらふ君を ゆくりなく 思ひ出でつつ 嘆きつるかも

かきつばた につらふきみを ゆくりなく おもひいでつつ なげきつるかも

杜若のように、ほんのりと、美しい紅色の頬の君を、突然、思い出し、更に、思い、嘆いた。

何故か。
一目惚れである。

単純素朴。突然、稲妻のように、思い出して、恋に陥る。
その訳は、誰にも、解らない。勿論、本人にも。

万葉人は、つまり、私たちの、先祖たちは、このように、人を好きになり、そして、妻として、愛した。
何の、抵抗なく、好きだと、告白する。

それが、片思いでも、叶う恋でも、兎に角、歌にした。

生命エネルギーは、また、性的エネルギーでもある。
そして、それは、大らかである。

好きだ、一緒に寝たい。
この、単純で、素朴な感情が、原始的感情であり、それが、いつしか、複雑な感情へと、生まれ、生まれてゆく。

民族の、原風景である。

それは、それ以前の、弥生、縄文から、脈々と、続けてきたものである。

とても、大らかな、性的エネルギーを、発散して、生きるエネルギーを得ていた。

万葉集は、人々が、歌い続けてきた、歌を、収録してある。
つまり、誰のものかもしれないが、皆、共通に、思うものである。

ここでも、解ることだが、人は、一人では、生きられない。
誰かとの、関わりを作ることで、生きられる。
だが、そこには、ある種の、不安があった。
それを、見たのである。

それは、孤独である。
万葉集の別の価値は、孤独を意識し始めた、私たちの、先祖たちの、歌である。

それが、あはれ、という、心象風景を、作り上げてゆく。

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2009年09月08日

伝統について 38

恨じと 思ふさな磐 ありしかば 外のみそ見し 心は思へど

うらめじと おもふさないは ありしかば よそのみそみし こころはおもへど

恨めしいと思う、磐があった。だから、外からだけ見ていた。心に思っていたのに。

この、磐は、恋の障害である。妻の存在があったのかもしれない。

男は、正妻の他にも、女の元に、通っていたのかもしれない、時代である。
浮気者は、いつの時代にも、いる。


さ丹つらふ 色には出でね 少くも 心のうちに わが思はなくに

さにつらふ いろにはいでね すくなくも こころのうちに わがおもはなくに

赤味を帯びたように、面には、出さないが、心の中では、思っていたのだ。

さ、とは、接頭語である。
丹つらう、は、赤味である。
表には、現さなかった。でも、好きだった。

わが背子に 直に逢はばこそ 名は立ため 言の通に 何そ其ゆえ

わがせこに ただにあはばこそ なはたため ことのかよひに なにそそこゆえ

私の恋人に、直接逢えば、浮名は、立つでしょう。でも、言葉を通わせるだけでも、噂が流れた。

思いを、人に隠すことが、恋の成就に、つながったのか。
人に、噂されることを、皆、嫌うようである。

ねもころに 片思すれか この頃の わが心神の 生けりともなき

ねもころに かたもひすれか このごろの わがこころど いけりともなき

心を尽して、片思いをする。この頃の、私は、生きている心地がしない、思いだ。

片恋という。かいこひ、である。
片思いの、心境は、辛い。
それも、生きている心地がしないほどの、恋である。

恋につける、薬は、無いと、昔から、言われた。
しかし、どうすることも出来ない。
その、心の嵐を待つしかない。
そして、その間に、物思うのである。
それは、憂いになる。憂いは、人の心を、病ませるが、そこに、言葉の世界が、出来上がる。思想である。

恋から、出た思想は、人の心を、打つ。
恋から、出ない思想は、単なる、言葉の羅列である。

様々な、思想家の、著作には、恋心がある。
また、それに、近いものがある。

憂いである。
憂いの無い、思想家の、著作は、人を不幸にする。
人を物として、扱う。

更には、機械的になる。
山川草木に寄せる心が、あれば、思想は、生きたものになる。
それは、慈しみである。

憂いは、慈しみを生む。
人を支配するような、著作は、結果、大きな不幸を、作り出す。

万葉集を、一つの、思想の著として、考えた時、日本の先祖たちの、心根に、実に、憐れみ深いものがが、解る。

民族の心象風景、もののあはれ、が、見えてくるのである。

それは、これである、と、取り出せないものである。

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2009年09月09日

伝統について 39

待つらむに 到らば妹が 嬉しみと 笑まむ姿を 行きて早見む

まつらむに いたらばいもが うれしみと えまむすがたを ゆきてはやみむ

待っているだろう。着いたら、その嬉しく笑う姿を、早くいって、見たいものだ。

早見む
はやみむ、と、省略する。
早く見たい、のである。
こういう言い方は、方言などで、残っていると、思われる。

誰そこの わが屋戸に来よぶ たらちねの 母にころはえ 物思ふわれを

たれそこの わがやどにきよぶ たらちねの ははにころはえ ものおもうわれを

誰が、この我が家に来て、呼ぶだろう。たらちねの母に、叱られて、物思いする私なのに。

ころはえ
叱り責める意味である。

母に叱られては、男も、来るはずがないのである。

当時は、母親の理解が、大切だった。
恋人を、母親が、気に入らなければ、成就しないのである。
母系社会である。

さ寝ぬ夜は 千夜もありとも わが背子が 思ひ悔ゆべき 心は持たじ

さねぬよは ちよもありとも わがせこが おもひくゆべき こころはもたじ

共に、寝る事が無い夜が、千の夜があろうとも、あなたが後悔するような心は、持たない。

さ、とは、美称である。
寝るを、美称する。

心変わりはしないと、歌うのである。
強い愛情表現である。

家人は 路もしみみに 通へども わが待つ妹が 使来ぬかも

いへひとは みちもしみみに かよへども わがまついもが つかひこぬかも

家に出入りする人は、路に、一杯に行き来しているが、私が待つ、あの人の、使いが、来ないのだ。

しみみに
ぎっしりと、満ちる。

恋する人の、使いが来ない。手紙が来ない。
このように、普通の感覚を、歌にする。それほど、来るのを、待っているのだ。

あらたまの 伎戸が竹垣 網目ゆも 妹し見えなば われ恋ひめやも

あらたまの きへがたけがき あみめゆも いもしみえなば われこひめやも

あら玉の、伎戸が作る、竹垣の網目のような、隙間からでも、妻が見えたらいい。こんなに、恋に苦しんでいるのだから。

伎戸
渡来系の、機織部の人々が、作る、荒い竹垣。

兎も角、何気ない、日常の気持ちを、詠むのである。
心の、発散でもある。

歌の道は、そんな、何気ない気持ちを、表現するものから、生まれた。

万葉が、基底にあり、古今、新古今と、歌が、変転してゆく。
それは、良し悪しを、判断するのではない。
そのように、生成発展していったのである。

万葉は、実に、素朴である。


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2009年09月10日

伝統について 40

わが背子が その名告らじと たまきはる 命は棄てつ 忘れたまふな

わがせこが そのなのらじと たまきはる いのちはすてつ わすれたまふな

私の背子の、その名前を、人にはいうまいとして、私は、魂極まるいのちを、捨てた。忘れないでください。

身を捨てて恋する、意気である。
愛する人の名を、言わないと、決めた。それほど、当時、人の名を呼ぶということは、大切なことだった。決して言わないと、魂にかけて、あなたを思う。実に、烈しい女の恋心である。

凡ならば 誰が見むとかも ぬばたまの わが黒髪を 靡けて居らむ

おほならば たれがみむとかも ぬばたまの わがくろかみを なびけてをらむ

普通のことならば、誰が、見ようとしても、この黒髪を靡かせることは、ありません。
つまり、あなたに、見せるために、黒髪をなびかせているのである。

これは、共寝をしているのである。
一人寝の時は、髪は束ねるのである。
愛する人と、一緒に寝るときは、黒髪を、靡かせる。
なんとも、色っぽい。

面忘れ 如何なる人の 為るものそ われは為かねつ 継ぎてし思へば

おもわすれ いかなるひとの するものそ われはしかねつ つぎてしおもへば

顔を忘れるなんて、どんな人がするのだろうか。私は、いつも、思い続けているから、顔を忘れるなんて、考えられない。

あなたの、顔を忘れるなんて、できることではない。
毎日、朝夕、そして、夜も、四六時中思い出している。

相思はぬ 人のゆえにか あらたまの 年の緒長く わが恋ひ居らむ

あいおもはぬ ひとのゆえにか あらたまの としのおながく わがこひをらむ

私の、片恋、つまり、片思いの人。ゆえに、あらたまの年月を、長く、私は、恋し続ける。

あらたま、とは、新年である。
年の緒、とは、長年という意味。

片思いを、月日をかけて、思い続けているのである。
辛いことだが、それが、その辛さによって、生きられる。

時代を経ても、万葉時代と、恋は、同じ心境である。
恋心による、たゆたふ心という、心象風景を、養ってきた。

その、たゆたふ心が、あはれ、との、風景となり、ものあはれ、となり、そして、もののあはれ、という、心象風景に、結実する。

あはれ、を、知るとは、恋を知ることである。

恋に死ぬ
いつの世も、それに、生きた男と女がいる。

失恋は、人の心を、成長させる。そして、生きるに、強くなる。
真っ当な人ならば、失恋を、次の恋の成就へと、駆り立てる。

失恋の度に、人は、死の、訓練をするのである。

万葉の、恋心が、平安期の、色好みとして、昇華し、女房文学が、生まれる。
女は、恋に生きられる。
恋の物語を書くのは、女なのである。

圧倒的に、恋に死ぬのは、女である。

江戸時代になると、心中物が、物語を作る。
ともに、命を絶つことで、恋の永遠性を、願う。

恋とは、死でもあり、生でもある、そして更に、何か、である。

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2009年09月11日

伝統について 41

おほろかの 行とは思はじ わがゆえに 人に言痛く 言はれしものを

おほろかの わざとはおもはじ わがゆえに ひとにこちたく いはれしものを

通り一片のことは、思わない。私のために、人から、あれこれと、噂されたことを。

恋人が、自分のことで、色々と、うわさされている。辛い。だから、思わない。
当時の、噂は、もっぱら、人の恋のことである。
それは、皆が、とても、興味のある話なのだ。

勿論、今も、人の恋愛に関しては、人が、色々と、噂をする。
今も、昔も、変わらない。


息の緒に 妹をし思へば 年月の 行くらむ別も 思ほえぬかも

いきのをに いもをしおもへば としつきの ゆくらむわきも おもほえぬかも


妻は、わが命。年月が、どのように経とうが、それは、変わらず、考えられないこと。

年月が、どのように、経てゆくのか、解らない。しかし、私は、妻を、愛し続ける。それは、変わらない。
結婚の、誓いのようである。

息の緒、とは、命のことである。
息の緒が、切れることは、死を意味する。

人を、命と、思う程に、恋い慕う。
まさに、生きるということは、恋すること。

人を思うことが、生きることと、いう、生きる基本である。
それは、恋人だけではない。
親の子を思う心。子の親を思う心。皆、同じである。


たらちねの 母に知らえず わが持てる 心はよしえ 君がまにまに

たらちねの ははにしらえず わがもてる こころはよしえ きみがまにまに

たらちねの母にも、知られないで、私が、抱いている、心は・・・
あなたの思い通りに。

心はよしえ、とは、捨て鉢な気持ちである。
どうでもいいの、あなたの思いのままになれば、である。

恋する者の、強さは、いつの世も、恋人に、任せる心。
あなたに、私を任せるという、諦観。

何故、万葉集には、恋歌が、多いのか。
お分かりの通り、人間は、恋に生きて、恋に死ぬ存在なのである。
古代であれば、それは、実に、純粋だった。

同じような、歌が多い。
私は、それが、救いである。

日本人の、心象風景は、恋心である。
その、喜怒哀楽から、生まれた、風景がある。
もののあはれ、である。

人の命が、限られているように、人の思いも、限られる。
永遠不滅なものは、無い。

だからこそ、人が、最も、大切にしたのは、人との、出会いと、つながりである。

人は、人によって、人になる。

親の愛情を、存分に受けて育つ子は、絶望からも、立ち上がる。
それは、自分を信じられるからだ。

自分を信じられるのは、愛されたからである。
愛とは、思われることである。実に、簡単なことだ。

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2009年09月12日

伝統について 42

独り寝と 薦朽ちめやも 綾蓆 緒になるまでに 君をし待たむ

ひとりねと こもくちめやも あやむしろ おになるまでに きみをしまたむ

独りで寝ても、こもが、朽ちることはない。それほどの床。綾織の、むしろが破れて、緒になるまでも、私は、あなたを待つ。

緒とは、糸。
綾織のむしろが、破れて、糸になるまでも、あなたを待っている。

何とも、激しい恋心である。しかし、歌は、静かである。

待つことに、耐えること。それが、人生だと、思ったことが、何度もある。
生きるということは、何かを待つ行為なのかもしれない。

万葉人の、待つとは、人である。


相見ては 千歳や去ぬる 否をかも われや然思ふ 君待ちかてに

あいみては ちとせやいぬる いなをかも われやしかおもふ きみまちかてに

逢ってから、千年も経つようだ。違うのだろうか。私がそう思うだけか。あなたを、待ちかねて。

出会ってから、千年も経ったと思う。それは、あなたを待ち続けたからだろう。
恋する者は、誰もが、そう思う。

これは、二つの意味があると、思う。
出会いから、千年を経た。
逢った日から、千年も、経ったようだ。そうして、今日も、待ち続けているのである。


振分の 髪を短み 青草を 髪にたくらむ 妹をしそ思ふ

ふりわけの かみをみじかみ あおくさを かみにたくらむ いもをしそおもふ

振り分け髪が、まだ短いのだろう。青草を髪につけて、束ね上げている。そんな娘のことを、思う。

一目惚れであろうか。
可愛い少女を、見て、青草と共に、髪を束ねている姿が、忘れられない。

女になる前の、女の子。
いつの時代も、女の子は、可愛い。そして、恋をして、女として、成長する。
その、成長が、男によるもの。男に、恋することで、ある。

恋を通して、大人に成長する様を、万葉集に見る。


徘徊り 往蓑の里に 妹を置きて 心空なり 土は踏めども

たもとほり ゆきみのさとに いもおきて こころそらなり つちはふめども

あちこちと、歩いて行く、ゆきみの里に、妻を置いて、私の心は、上の空だ。土を踏んでいるのに。

しばしの、別れも、辛い。
恋女房である。

妻の方も、夫を思う。
相思相愛である。

だから、風が吹くと、妻のため息かと、思う。
咲く花を見れば、妻の心を見る。
行く雲を見ては、夫の、行方を心で、追う。

その積み重ねが、心を育てた。
そして、民族としての、心象風景が、生まれた。
もののあはれ、である。
すべてのものに、心を寄せる心の有様。
共感能力である。

posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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