2009年08月21日

伝統について 21

白真弓 石辺の山の 常盤なる 命なれやも 恋ひつつをらむ

しらまゆみ いそへのやまの ときはなる いのちなれやも こひつつをらむ

白真弓とは、弓である。それを射る石辺の山の、岩のような命ならば、こうして、恋に苦しみ続けていられるだろう。

しかし、命なれやも、は、否定を伴う疑問である。
つまり、自分は、常盤の命ではない。だから、恋に死ぬ。

単純明快ではない。
万葉人も、このような、複雑な歌を詠んだ。

淡海の海 沈く白玉 知らずして 恋せしよりは 今こそ益れ

あふみのうみ しずくしらたま しらずして こひせしよりは いまこそまされ

淡海の海底に沈む、白玉のように、人に知られず、契りを交わさず恋した時より、今こそ、恋しさが増すのだ。

恋せしよりは、つまり、契りを結んだのである。すると、その恋心が、益々と、燃え上がるのである。

契るとは、情を交わす。訳ありの関係になる。
肉体を交わす。
そうして、増す増すと、恋心が、燃えるという。

和泉式部日記では、情交を、契りて、と、表現するのみだった。

恋心深ければ、深いほど、その快楽は、深い。
その快楽こそ、生きるエネルギーになる。

白玉を まきて持ちたり 今よりは わが玉にせむ しれる時だに

しらたまを まきてもちたり いまよりは わがたまにせむ しれるときだに

白玉を手枕にしている。つまり、白玉は、恋人である。
今から、私の玉にする。こうして、わが手にある時だけでも。

しれる
知れる、とは、知ることであり、知ることは、我が物になったことである。

女を知った、男を知った、つまり、情を交わしたということ。

知る者は、言わず、知らぬ者は、言う。という、ことわざがあった。
知る者は、知るゆえに、言わない。何故か。知ることが、とても大切なことであるから。

知らない者は、平気で、言う。知らないからである。

知るということの、重大性は、万葉時代からあった。
何せ、相手に、名を名乗ることだけでも、相手に、気を許すことになった。

知る者が、言うときは、覚悟がある。
相手に、知って貰いたいという、強い希望があって、いうのである。

学習とは、自らが、学ぶことであり、人から、何でもかんでも、教えてもらうことではない。
学習の、基本は、独学である。

独学から、新しい学問が生まれる。
オウムのように、教えられていたら、ただ、それだけの知識である。
その、知識を得るための、努力の中に、新しい発想と、新しい、目覚めがある。
それが、学問である。

そして、学問は、その名の通り、学の門であるから、終わることがない。
それからは、道になる。

学問が、学道にならなければ、意味が無い。





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2009年08月22日

伝統について 22

白玉を 手にまきしより 忘れじと 思ほゆらくに なにか終らむ

しらたまを てにまきしより わすれじと おもほゆらくに なにかをはらむ

白玉を、手にまいてから、忘れまいと思う。
どうして、この恋が、止むことが、あろう。

なにか終らむ
どうして、止むことが、あろうか、であり、忘れることは、ないのである。
忘れないと思う心に、更に、追加して、そんなことは、あり得ないというのである。

鳥玉の 間開けつつ 貫ける緒も 縛り寄すれば 後に逢ふものを

ぬばたまの あいだあけつつ ぬけるをも くくりよすれば のちにあふものを

黒玉の間を隔てて、通した紐も、くくり寄せると、結局は、逢うものだ。

ぬばたま、とは、鳥扇の実である。
白玉の両端に、黒玉を置くのである。
それを、縛ると、黒玉が、合うことになる。

その形に、恋心を、重ねるのだ。

くくりよすれば のちにあふ
必ず、逢うことになるのだという、祈りに似る歌である。


香具山に 雲居たなびき おははしく 相見し子らを 後に恋ひむかも

かぐやまに くもいたなびき おははしく あいみしこらを のちにこひむかも

香具山に、霞が、たなびく。そのように、ぼんやりと逢う子にも、後に、恋をするのか。

おははしく
ぼんやりと、出会う娘に、いずれは、恋をするのだろうか。
何とも、和やかな歌である。


雲間より さ渡る月の おははしく 相見し子らを 見むよしもがも

くもまより さわたるつきの あははしく あいみしこらを みむよしもがも

雲の間を、渡る月のように、ぼんやりと出会った子に、もう一度、逢う術が、欲しい。

よし もがも
縁であり、もがも、は、願望である。
縁を持ちたい、つまり、逢いたいのである。

見るということは、逢うということである。


天雲の 寄り合ひのきはみ 逢はずとも 異手枕を われまかめやも

あまくもの よりあひのきはみ あはずとも ことたまくらを われまかめやも


天雲の、寄り合う果てのように、遠く、離れて逢わずとも、他の手枕を、どうして、できようか。

寄り合いの極み、である。
つまり、天の雲が地上に、見えるほど、遠い風景である。
それほど、遠い、恋人の存在である。
その替わりに、他の手枕を、求めることは、できるはずもないのである。

まかめ やも
強い否定の疑問であり、できるはずがない、というのである。

恋人以外の、人を、求めることは、ない。

純粋に、恋する心を、歌う、万葉恋歌である。


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2009年08月23日

伝統について 23

雲だにも しるくし発たば 心遣り 見つつもせむを 直に逢ふまでは

くもだにも しるくしたたば こころやり 見つつもせむを ただにあふまでは

雲だけでも、はっきりと立てば、それを、見つつ、こころやりを、しようと思うものを。
直接逢うまでは。

雲や、風は、人の存在と、人の息吹と感じていた時代である。
雲を相手に、見立てている。

雲を見て、離れて逢えない、恋する人のことを、こころやり、つまり、逢えないという、憂さを晴らすのである。

雲を見て、憂さを晴らしている。逢うときまでは、である。

亡き人を、雲と、見立てて、歌う、挽歌も多い。

雲や、風という、自然の働きに、人の心、亡き人の霊を、感じるという、能力である。

風が、吹けば、相手の思いが、風になっていると、感じる、感性である。

更に、我が思いが、風になって、相手に伝えよという、心も、起きる。

遠くの、相手に、伝える手段のなかった時代である。
逸る心を、そうして、治めていたのである。


春楊 葛城山に たつ雲の 立ちても坐ても 妹をしそ思ふ

はるやなぎ かつらぎやまに たつくもの たちてもみても いもをしそおもふ


春の楊を、かずらにする、葛城山に、湧き立つ雲のように、立っても、座っても、妻のことを、思う。

素直な歌である。
雲を見て、立っても、座っても、妻を思うというのだ。
通い婚の時代である。

妻の方は、妻の方で、やってくる夫を、待っている。
同じ雲を、見て、それぞれが、思うのである。

少し違う感覚であるが、私は、出掛ける国で、太陽を見て、この太陽を、日本でも、見ている。世界の人が見ていると、思う。
同じ太陽の下で、生きている。

諸々の 人の見るもの 太陽と 思えば思う 日の下の民
太陽の 光届かぬ 所なし 万民浴す 日の光あり

出会った皆さんも、この太陽を見ていることだろうと、連帯感を感じる。

これは、万葉の心に、近い感覚。


春日山 雲居隠りて 遠けども 家は思はず 君をしそ思ふ

かすがやま くもいかくりて とほけれど いえはおもはず きみをしそおもふ

春日山が、雲に隠れて、遠い。こうして、家には遠いが、家のことより、あなたのことを、思うのである。

注釈では、旅に出た者の、歌とある。

段々と、家は、遠くなるが、家よりも、あなたのことを、思うのである。

何の、作為もない歌である。
素直に歌う。

ただ、そのままを、歌う。
古今が、出るまで、そのように、素直だった。
古今、新古今も、また、それぞれの時代性を、歌う。共に、よし。


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2009年08月24日

伝統について 24

わがゆえに 言はれし妹は 高山の 峯の朝霧 過ぎにけむかも

わがゆえに いはれしいもは たかやまの みねのあさぎり すぎにけむかも

私のために、人から、噂を立てられた、妻は、高山の、朝霧のように、去ってしまったのか。

これは、少し悲しい。いや、悲しい歌である。
過ぎにけむかも、とは、死ぬという意味がある。

噂は、中傷だったのか。

人の言葉で、人が死ぬこともある。
現代でも、人の言葉で、死ぬ人もいる。

何気ない言葉が、人の心を、深く傷つけるのだ。


鳥玉の 黒髪山の 山菅に 小雨降りしき しくしく思ほゆ

ぬばたまの くろかみやまの やますげに こさめふりしき しくしくおもほゆ

ぬばたまの、黒髪山の、山菅に、小雨が降りしきり、恋人が、深く思い出される。

しくしく思ほゆ
恋人を思う気持ちを、しくしく、と、表現する。
切なく、思うのである。

漢字にすると、敷く、である。
心に、敷く敷く如くに思うのである。

大野らに 小雨降りしく 木の下に 時と寄り来ね わが思へる人

おおのらに こさめふりしく このもとに ときとよりこね わがおもへるひと

大野の、小雨が降りしきる。木陰に寄っていこう。私の恋人よ。
時と寄り来ね
少しばかり、木の下で、雨宿りしようと、誘うのである。

何気ない、風景である。
その、何気なさが、今でも、心を打つ。
女の歌と、解釈する人もいる。
どちらでも、通じるものだ。

万葉恋歌は、皆、同じようなものと、評した人がいる。
当たり前である。
恋の心に、変わりがあるか。
皆、同じようだから、今も、伝わるのである。

芸術が、何でも、異常事態であれば、それは、芸術ではなく、狂いである。
芸術とは、脱日常であり、日常の中にある、何気ないことなのである。
日常の中にある、当たり前の風景が、特別なものになる、脱日常である。

朝霜の 消なば消ぬべく 思ひつつ いかにこの夜を 明かしてむかも

あさしもの けなばけぬべく おもひつつ いかにこのよを あかしてむかも

朝霜のように、消え果るならば、消えてしまいそうに、思い続けて、どうして、この夜を、明かしたらいいのか。

恋人を、思い続けて、夜を明かした。
目の前には、夜が明けて、朝の霜が、見える気がする。
霜のように、消えてしまいそうになりつつも、思い続けている。

片恋、片思いの恋かもしれない。

片思いの切なさは、また、格別なものである。
誰もが、詩人になるという、片思いである。

万葉恋歌を読むと、時代を経ても、人に大差ないと、思うのである。


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2009年08月25日

伝統について 24

わが背子が 浜行く風の いや急に 言を急みか まして逢はざらむ

わがせこが はまゆくかぜの いやはやに ことをはやみか ましてあはざらむ

あなたが、浜を行くときの、風のように、早くも、噂が立ちました。まして、は、もう、前にも、まして、会えないのでしょうか。


複雑な心境である。
中々、逢いに来ない、恋人に、恨み言を言うのか。

いや急に 言を急みか
風のように、速くも、忽ち、噂が立つ。
そのせいなのですか、あなたが、逢いに来ない訳は、ということにもなる。

遠き妹が 振仰け見つつ 偲ふらむ この月の面に 雲なたなびき

とほきいもが ふりさけみつつ しのふらむ このつきのおもに くもなたなびき

遠くにいる、妻が、振り仰いで、偲んでいるだろう。だから、この月の面に、雲よ、たなびくな。

一緒に、月の面を眺めて、心を一つにする。
雲は、それを邪魔するな、という。

素朴さが、いい。


山の端に 出で来る月の はつはつに 妹をそ見つる 恋しきまでに

やまのはに いでくるつきの はつはつに いもをそみつる こひしきまでに

山の端に、出る月のように、わずかに、妻の姿を見たのだ。恋しいまでに。

ただ、姿を見たことで、心が満たされる。
はつはつに、とは、少しばかりである。
初初と書いてもいいような気がする。

恋しきまでに
恋に苦しむ心なのである。


吾妹子し われを思はば 真澄鏡 照り出づる月の 影に見え来ね

わがもこし われをおもはば ますかがみ てりいづるつきの かげにみえきね

私の妹子が、私を思うならば、真澄の鏡のように、輝きだす月のように、面影に見えて欲しい。

自分が、彼女にとって、一番の相手でいて欲しいのだ。
光り輝く、一人の、男として、見て欲しいのだ。

ひさかたの 天照る月の 隠りなば 何になそへて 妹を偲はむ

ひさかたの あまてるつきの かくりなば なにになそへて いもをしのはむ

久方の、天を照らす月が、隠れたならば、何にたとえて、妻を偲べばよいのか。

夜の光に溢れた、現代では、月の光も、天を照らす光にはならないが、当時は、月の光は、夜の、天を照らしたのである。

闇の中に、煌々と輝く、月の光は、とても、魅力的だった。
その月の出ない夜は、どのようにして、妻を、思うか、という。

天照るといえば、太陽であるが、恋の思いは、太陽より、月の方に、軍配が上がる。
夜の闇の中で、月の光を、眺めて、愛する妻を、思い続ける。

何になそへて
何に、なぞられて、妻を偲ぶのかである。
妻の存在は、闇夜の、月の光なのである。



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2009年08月26日

伝統について 26

若月の 清にも見えず 雲隠り 見まくそ欲しき うたてのこのころ


みかづきの さやにねみえず くもかくり みまくそほしき うたてのこのころ

三日月が、はっきりとは、見えず、雲に隠れる。そのような妻を、見たいと思い、嘆かわしい、この頃である。

清 さや
明瞭な美しさである。

うたて
嘆き、嘆く
うたてし、の、副詞的用法とある。

私は、凄くとも、訳す。

わが背子に わが恋ひ居れば わが屋戸の 草さへ思ひ うらぶれにけり

わがせこに わがこひおれば わがやどの くささえおもひ うらぶれにけり

わが背子に恋してしまうと、家の草までも、物思いに、萎れてしまった。

そのように、見えるのだ。
恋すれば、風景は、一変する。
何気なかったことまでが、恋する心に、響く。

人を好きになって、人は、心を育むのである。
古代の人々は、恋することで、その心を、育てた。
今で言えば、感性を磨いた。

人は、人によって、人になる。それが、恋から、はじまる。

こひ、とは、魂、たまこひ、である。
相手の、魂、たまを、乞う、行為である。

魂恋、たまこい、なのである。

浅茅原 小野に標結ふ 空言も いかなりといひて 君をし待たむ

あさぢはら おのにしのゆふ むなごとも いかなりといひて きみをしまたむ

浅茅原の、小野にしるしの、縄を結ぶという、空々しい言葉を、どう思い、あなたを待てばいいのだろう。

空言
むなごと、からごと
つまり、嘘である。嘘の言葉が、空しく響く。

いかなりといひて
解釈のしようがない、言葉の数々である。
今で言えば、プレイボーイのような、男に恋したのである。

うまいことばかり言う、男は、今も昔もいた。
しかし、それは、見抜かれている。だが、惚れた弱みである。信じたいと、思う。そして、心が、揺れる。
ああ、切ないことである。

路の辺の 草深百合の 後にとふ 妹が命を われ知るらめや

みちのへの くさふかゆりの ゆりにとふ いもがいのちを われしるらめや

道端の、深草に咲く、百合の花。後々には、必ずと言う妻の命は、わが手にはないのだ。

後にとふ
ゆりにとふ
今は会えないが、である。
必ず逢うというのである。
それを、信じて待つ心。

妻は、草深い、道端に咲く、百合の花の存在なのである。
命が、手に無いとは、存在そのものをいう。存在そのものを、欲する恋と言うもの。

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2009年08月27日

伝統について 27

湖葦に 交れる草の 知草の 人みな知りぬ わが下思

みなとあし まじれるくさの しりくさの ひとみなしりぬ わがしたおもひ

湖の、葦に混じってはえる、草の、知草のように、私の思いを、人は皆知ってしまった。
つまり、私の恋の思いを、知られたのである。

隠せようにも、隠せないのが、恋心である。

下思い、とは、心の中の思いである。

山ぢさの 白露しげみ うらぶれて 心も深く わが恋ひ止まず

やまぢさの しらつゆしげみ うらぶれて こころもふかく わがこひやまず

山ぢさという木が、白露で、しとどに濡れるように、心の深くで、私は、恋し続ける。

うらぶれて、は、しおれて、という意味である。
恋に、うちしおれて、という意味になり、恋する心の、切ないさを歌う。

湖にさ 根延ふ小菅 しのびずて 君に恋ひつつ ありかてぬかも

みなとにさ ねはふこすげ しのびずて きみにこひつつ ありかてぬかも

湖に、盛んに根を張る、小菅のように、堪えずに、君に恋して、過ごしたい。

恋を思う、その相手を思う。それが、楽しい。
恋する事が、切ないことばかりではない。
切ない中に、楽しくてしようがない、気持ちがある。

それは、生きていることが、楽しいのだ。
生きていればこそ、恋することが、楽しいのだ。

山城の 泉の小菅 なみなみに 妹が心を わが思はなくに

やましろの いずみのこすげ なみなみに いもがこころを わがおもはなくに

山城の、泉の小菅が、靡くように、なみなみに、妻のことを、思わないことはない。

思はなくに
思うわけはないのだ、が、それは、思うからなのだ。
思いに溢れる心なのだ。

見渡しに 三室の山の 巌菅 ねもころわれは 片恋そする

みわたしに みむろのやまの いはほすげ ねもころわれは かたこひそする

見渡せる、三室の山の岩にはえる菅が、根を張るように、私も、根を張るように、片思いをする。

一方的に好きだと、思い続けるという。
その心が、生きることになる、という、万葉人の恋に対する思いである。

菅の根の ねもころ君が 結びてし わが紐の緒を 解く人はあらじ

すがのねの ねもころきみが むすびてし わがひものをを とくひとあらじ

菅の根のように、心から、あなたが結んだ、私の紐を、解く人はいないだろう。

愛する人に、結んでもらった、紐は、その人でなければ、解けないのである。
つまり、相思相愛だからである。

妻が、結んだ紐は、妻の思いに結ばれている。

単なる、結びという行為に、思いを乗せたのである。
これが、生かされて、伝統が出来る。
逆に、囚われすぎると、迷信になる。

その、結びが、解けると、二人の間が、解けるなどという、迷信である。

万葉は、日本人の心の、原風景である。
祖先たちは、そのように、生きていた。

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2009年08月28日

伝統について 28

山菅の 乱れ恋ひのみ 為しめつつ 逢はぬ妹かも 年は経につつ

やますげの みだれこひのみ せしめつつ あはぬいもかも としはへにつつ

山菅のように、心乱れて、恋する苦しさばかりを、させて、逢うこともない、妹よ。何年も、経っているのに。

片恋、つまり、片思いの歌である。
これは、辛い。
恋しても、会わないのであるから、辛さは、激しい。
乱れ恋のみ、とは、恋の苦しみに、心が乱れ、悶えているのである。


わが屋戸の 軒のしだ草 生ひたれど 恋忘草 見るに生ひなく

わがやどの のきのしだくさ おひたれど こいわすれぐさ みるにおひなく

わが家の、軒の、しだ草は、はえるばかりなのに、恋の忘れ草は、見ていても、はえる気配がない。

これも、片思いの歌。
恋忘れ草というものが、あるのか、どうか。
カンゾウという花との、解釈である。
黄色で、儚げに咲く花である。

打つ田にも 稗は数多に ありといへど えらえしわれの 夜をひとり寝る

うつたにも ひえはあまたに ありといへど えられしわれの よをひとりねる

耕す田に、稗は、沢山あるのに、選び、捨てられた私は、夜を、一人寝るのだ。

失恋である。
選ばれなかった。
えられしわれの
選ばれなかった私は、である。

万葉の時代も、今の時代も、同じである。

あしひきの 名に負ふ山菅 押しふせて 君し結ばば 逢はざらめやも

あしひきの なにおふやまげ おしふせて きみしむすばば あはざらめやも

あしひきの、山を名に持つ、山菅を、押しふせるように、契りを結ぶというなら、どうして、逢わないわけはないでしょう。

押しふせて、という、強い気持ちがあれば、私は、会いますというのである。

ここでは、あなたが、そうであるならば、ということである。
つまり、自分は、その用意が、いつでもあるということ。

実に、激しい恋である。


秋柏 潤和川辺の 小竹の目の 他人にはしのべ 君にあへなく

あきかしは うるわかはへの しののめの ひとにはしのべ きみにあへなく

秋の、柏が潤う、潤和川辺の、小竹で編んだ、目のように、他人には、思いを隠していられるが、あなたには、隠せないのだ。

一人、静かに、熱い思いを抱いている、その心は、あなたには、隠せないという。
目が合えば、隠せるものではない。

小竹で、編んだ目のように、という、比喩である。
その目のように、思いを隠しているという。

何一つをも、彼らには、喩えにする。・・・のように、である。
恋する心は、すべてが、新しく見える。
すべてが、新鮮に見える。

恋心、大和心である。
それが、普遍的になると、おおいなる、やわらぎの、こころ、となる。

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2009年08月30日

伝統について 30

君来ずは 形見にせむと わが二人 植えし松の木 君を待ち出でむ

きみこずは かたみにせむと わがふたり うえしまつのき きみをまちいでむ


君が、来なければ、形見にしようといいつつ、二人で、植えた、松の木。君を
待つことにする。

あなたが来なければ、形見として、松の木にしようと、二人は、言いつつ、植えたのである。だが、君を待ち出でむ、とは、待っているという、準備である。
二人で、植えた松とは、二人を、繋ぐものである。


袖振らば 見ゆべきかぎり われはあれど その松が枝に 隠らひにけり

そでふらば みゆべきかぎり われはあれど そのまつがえに かくらひにけり

袖を振ると、見えている間は、いいのだが、その松の枝に、隠れてしまった。

昔、袖振りは、招魂の意味あり。
別れて行きつつ、袖を振るとは、相手の魂を、呼び寄せるのである。

別れて行く、恋人の魂を、招くために、袖を振るが、恋人の姿は、松の枝に、隠れてしまったのである。

何のことは無い、風景である。
だが、歌にすると、それが、一つの形となる。

別れても、魂は、一緒にいると、信じた時代である。

血沼の海の 浜辺の小松根 深めてわれ 恋ひわたらむ 人の子ゆえに

ちぬのみの はまべのこまつね ふかめてわれ こひやわたらむ ひとのこゆえに

血沼の、海の海岸の、小松のように根も深くして、私は恋する。あの、人の子のために。

海岸に、根付く小松の、根のように、深く、深く、恋し続けるのである。

当時は、同じ心境の者が、この歌を歌い、その思いを深くしたのである。

波に洗われても、小松の根は、強く深く張っているのである。
恋の心も、それと、同じだと詠う。

奈良山の 小松が末の うれむぞは わが思ふ妹は 逢はず止みなむ

ならやまの こまつがうれの うれむぞは わがおもふいもは あはずやみなむ

奈良山の、小松の末とは、小松の先のことである。
小松の、先、うれの、うれむぞは、私の思う妻に、逢わないことが、あろうか。

うれむぞは、つまり、どうして、である。
どうして、逢わないということが、あろうか。

小松の先は、いつも、成長している。
それは、恋心の喩えである。

小松の、葉の先のように、である。

だが、この歌は、解釈が、難しい。

逢えなくて、嘆いているのかもしれない。

逢わないわけがない。
否定の、反語になるのか。
願望である。

小松の、うれに、願いを込める。
これも、魂乞い、たまこい、である。
恋は、相手の、魂を、乞うもの。だから、魂恋なのである。
恋愛の、原始の姿。


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2009年08月31日

伝統について 31

磯の上に 立てるむろの樹 ねもころに 何か深めて 思ひ始めけむ

いそのうえに たてるむろのき ねもころに なにかふかめて おもひそめけむ

磯のほとりに、立つ、むろの木の根のように、ねもころに、ねんごろに、どうして、こんなに深く、思いはじめたのか。

何か深めて
恋である。
自分の心境を、受け入れる戸惑い。
心の何を深めてしまったのか・・・理屈なく。


橘の 下に吾を立て 下枝取り 成らむや君と 問ひし子らはも

たちばなの もとにわをたて しづえとり ならむやきみと とひしこらはも

橘の木の下に、私を立たせて、下枝を取り、恋は成就するでしょうか、橘の実りのように、と、あなたと言った、あの子は。

成らむや君と
実りますか、あなた。
すでに、心は、通い合うのである。


天雲に 翼うちつけて 飛ぶ鶴の たづたづしかも 君坐さねば

あまぐもに はねうちつけて とぶたづの たづたづしかも きみいまさねば

天雲に、翼を打ち付けるように飛ぶ、鶴のように、たどたどしいこと。あなたが、ここに、いないから。

たづたづしかも
心細いのである。


妹に恋ひ 寝ねの朝明に 鴛鴦の ここゆ渡るは 妹が使か

いもにこひ いねぬあさけに おしどりの ここゆわたるは いもがつかいか

妻に恋して、寝つけない朝、おしどりが、ここを通り渡るのは、妻の使いだろうか。


当時、鳥は、何かの使いと、考えた。
前触れとも、思った。

思ふにし 余りにしかば にほ鳥の なづさひ来しを 人見けむかも

おもふにし あまりにしかば にほどりの なづさひこしを ひとみけむかも

思い募り、耐えられずに、にほ鳥が、水に浸かって、苦しむように、来たことを、人は見ただろうか。

思ふにし 余りにしかば
思い高ぶり、その思いに従い、逢いに来たと、告白する。

歌に詠むだけではなく、行動したのである。
それほどに、思いが、高まった。

この、余りにしかば、は、あはれ、である。
耐えられずに、という、心の、強い働きは、あはれ、となる。

思ふにし あはれまされり、なのである。

思いつめ あはれまされり 行く春の 名残の花の 後追う我は
天山

あはれなり 増される心 何あらむ 亡き人偲び 今日に至りて
天山

幻の 影を慕いて あはれなり 行けども尽きぬ 花の散るごと
天山

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