2009年08月13日

伝統について 13

少女らを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけりわれは

おとめらを そでふるやまの みづかきの ひさしきときゆ おもひけりわれは

乙女たち、その袖振る、ふる山の、瑞々しい垣根のように、長く久しい間、彼女たちに、憧れてきたのである、私は。

垣根とは、樹木で作る垣根である。その葉の、瑞々しい様子に、乙女らの、姿を重ねている。

袖を振るという、神事のようである。
巫女として、役目をしている、乙女たちである。

淡い恋心を抱いた、青年の、憧れの的だった。


ちはやぶる 神の持たせる 命をば 誰がためにかも 長く欲りせむ

ちはやぶる かみのもたせる いのちをば たがためにかも ながくほりせむ

ちはやぶる、とは、速ぶる神の如くの、命を、誰がために、長くありたいと、願うことだろうか。

その後に、それは、愛する人のため、と、続く。

あなたのために、この強き命を、長く保っていたいものだ、ということになる。

それほど、あなたのことを、慕い、思うのである。
恋の告白。


石上 布留の神杉 神さびて 恋をもわれは 更にするかも

いそのかみ ふるのかみすぎ かむさびて こひをもわれは さらにするかも

石上神社の杉である。
石上の、ふるの神杉のように、神さびても、また、私は、恋をするのだろう。

神さびて 
かむさびて、と、読む。かみ、ではない。

人間離れして、神々しくなる状態である。
また、自然そのものを、かむさびて、とも言う。

人間として、素晴らしくなり、恋という、人間らしい心を失うほど、かむさびても、私は、更に、恋をするのだろうと、歌う。

するのだろうか、と、訳す人もいるが、恋をするだろう、である。

如何に、神々しいばかりの、人間になったとて、恋をするのである。
それは、恋は、生きると、同義語なのである。

恋こそ、命。
恋こそ、命の発露なのである。

万葉人は、そのように、恋する心にある、燃え滾る、熱意を、生きることと、考えたのである。

恋の原始化である。

要するに、神も、恋をして、神となるのである。

日本民族の、心とは、恋する心である。
やまと心にあるものは、大いなる和らぎと共に、燃える情熱である。
その、情熱を、恋する心に、観た。そして、それが、生きることなのである。

簡潔明瞭。
生きる。恋をする。

だから、恋に死ぬのである。

さらにまた 大和心を 人問わば 恋生き恋を 恋に死ぬなり 天山



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2009年08月14日

伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。

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伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。

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2009年08月15日

伝統について 15

来る道は 石踏む山の 無くもがも わが待つ君が 馬躓くに

くるみちは いはふむやまの なくもがも わがまつきみは うまつまづくに

あなたが来る道には、岩を踏むような道のある山が無くて欲しい。私の待つ、あなたの馬が、つまずかないように。

そして、帰りの道もである。
無事を祈る心は、恋心でもある。


岩根踏む 隔れる山は あらねども 逢はぬ日まねみ 恋ひわたるかも

いわねふむ へなれるやまは あらねども あはぬひまねみ こひわたるかも

岩根を踏むような、険しい隔てる山は、ないけれど、あなたに逢わない日が、続くので、恋渡るのである。

恋渡る、とは、慕い続ける、恋し続ける。

隔てる山は、ないけれど、逢わないでいることは、隔てる山があるようである。

逢はぬ日まねみ、とは、まねし、という古語から、出る。


路の後 深津島山 しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり

みちのしり ふかつしまやま しましくも きみがめみねば くるしかりけり

深津の島山、しばらく、あなたにお会いしていないので、苦しいことです。

海上から、島のように見える山を、島山という。
その、島山が、相手を象徴するのである。
あなたと、呼びかけずに、島山として、相手を慕う。


紐鏡 能登香の山は 誰ゆえか 君来ませるに 紐解かず寝む

ひもかがみ のとかのやまは だれゆえか きみきませるに ひもとかずねむ

結んだ紐が解けない、鏡のような能登の山は、誰のために、君がいらしても、紐を解かずに寝るのでしょうか。

あなたが来たら、紐を解かずにしられましょうか。
実に、意味深な歌である。

私見である。
あなたが来たなら、体の交わりをしないで、いられましょうか。
紐を解くのは、交わりのためである。

能登香の山を、自分と、見立てて、歌うのである。


山科の 木幡の山は 馬はあれど 歩ゆわが来し 汝を思ひかねて

やましなの こはたのやまは まはあれど かちゆわがこし なをおもひかねて

山科の、木幡の山は、馬で越えるのが普通である。しかし、近道を、歩いてやってきた。お前のことを、思い続けて。

汝を思ひかねて
色々に、訳すことができる。

逢わずにいられなくなって、やってきたのである。
近道を歩いて。
本当なら、馬で来る方が、早いし、便利だが、歩くという、行為に、思いの深さを、乗せている。

逢うためならば、千里も、一里なのである。
その、情熱を、持ち続けること。
万葉集は、その情熱の、ままにある。


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伝統について 15

来る道は 石踏む山の 無くもがも わが待つ君が 馬躓くに

くるみちは いはふむやまの なくもがも わがまつきみは うまつまづくに

あなたが来る道には、岩を踏むような道のある山が無くて欲しい。私の待つ、あなたの馬が、つまずかないように。

そして、帰りの道もである。
無事を祈る心は、恋心でもある。


岩根踏む 隔れる山は あらねども 逢はぬ日まねみ 恋ひわたるかも

いわねふむ へなれるやまは あらねども あはぬひまねみ こひわたるかも

岩根を踏むような、険しい隔てる山は、ないけれど、あなたに逢わない日が、続くので、恋渡るのである。

恋渡る、とは、慕い続ける、恋し続ける。

隔てる山は、ないけれど、逢わないでいることは、隔てる山があるようである。

逢はぬ日まねみ、とは、まねし、という古語から、出る。


路の後 深津島山 しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり

みちのしり ふかつしまやま しましくも きみがめみねば くるしかりけり

深津の島山、しばらく、あなたにお会いしていないので、苦しいことです。

海上から、島のように見える山を、島山という。
その、島山が、相手を象徴するのである。
あなたと、呼びかけずに、島山として、相手を慕う。


紐鏡 能登香の山は 誰ゆえか 君来ませるに 紐解かず寝む

ひもかがみ のとかのやまは だれゆえか きみきませるに ひもとかずねむ

結んだ紐が解けない、鏡のような能登の山は、誰のために、君がいらしても、紐を解かずに寝るのでしょうか。

あなたが来たら、紐を解かずにしられましょうか。
実に、意味深な歌である。

私見である。
あなたが来たなら、体の交わりをしないで、いられましょうか。
紐を解くのは、交わりのためである。

能登香の山を、自分と、見立てて、歌うのである。


山科の 木幡の山は 馬はあれど 歩ゆわが来し 汝を思ひかねて

やましなの こはたのやまは まはあれど かちゆわがこし なをおもひかねて

山科の、木幡の山は、馬で越えるのが普通である。しかし、近道を、歩いてやってきた。お前のことを、思い続けて。

汝を思ひかねて
色々に、訳すことができる。

逢わずにいられなくなって、やってきたのである。
近道を歩いて。
本当なら、馬で来る方が、早いし、便利だが、歩くという、行為に、思いの深さを、乗せている。

逢うためならば、千里も、一里なのである。
その、情熱を、持ち続けること。
万葉集は、その情熱の、ままにある。


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2009年08月16日

伝統について 16

遠山に 霞たなびき いや遠に 妹が目見ずて われ恋ひにけり

とほやまに かすみたなびき いやとほに いもがめみずて われこひにけり

遠山に、霞がたなびき、いっそう、遠くに思われる。それと、同じように、妻に、遠く離れて、逢わずにいる。ああ、恋しい妻よ。

通い婚である。
だから、逢わずにいることが、辛い。
そして、それが、また、更に、恋心を募らせる。


宇治川の 瀬瀬のしき波 しくしくに 妹は心に 乗りにけるかも

うじがわの せせりしきなみ しくしくに いもはこころに のりにけるかも

宇治川の、寄せては返す波のように、幾重にも、幾重にも、妻の存在が、私の心を、占めているのだ。

瀬瀬のしき波
しくしくに
この、言葉の、連なり、繰り返しにあるのは、思いの深さである。

しくしくに
しきりに、絶えず、である。
いつもいつも、妻を思うのである。

生きるとは、思うこと。
何を思うか。
好きな人を、思い続ける。
これほど、単純明快なことはない。


ちはや人 宇治の渡の 瀬を早み 逢はずこそあれ 後もわが妻

ちはやびと うじのわたりの せをはやみ あはずこそあれ のちもわがつま

ちはや人の、宇治の渡りが場の瀬が早いので、今、ひとときは、逢わずにいるが、後々までも、我妻と、思うことだ。

逢はずこそあれ
今のひとときは、逢わないけれど、後々には、妻として、逢うのだという、強い、希望である。


愛しきやし 逢はぬ子ゆえに 徒に 宇治川の瀬に 裳裾濡らしつ

はしきやし あはぬこゆえに いたずらに うじがわのせに もすそぬらしつ

愛する、逢えない子のために、宇治川の瀬に、空しく、裳裾を濡らして、佇んでいたのである。

愛しき
かなしき、とも、はしき、とも、読む。

いたずらに
ただの、空しさではない。いずれ、逢うべきときのことを、思いつつ、いたずらに、なのである。
その、いたずらは、祈りである。

ぼんやりとして、空虚なのではない。
その、空しさの中に、激しく燃える想いがる。

愛する、慕わしい人を、思う気持ちは、今も、昔も、変わらない。
万葉の時代と、人の心は、大差がない。
あるとすれば、一途さである。

一途に、生きられる時代であった。
そして、また、それが、生きることであった。
いずれ、この心象風景が、あはれ、という、言葉に、昇華してゆくのである。



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2009年08月17日

伝統について 17

宇治川の 水泡逆巻き 行く水の 事反らずそ 思ひ始めてし

うじがわの みなわさかまき ゆくみずの ことかへらずそ おもひそめてし

宇治川の、水泡が、逆巻きつつ流れてゆくように、恋に目覚めた心は、後戻りすることは、できないのだ。

恋の芽生えである。
後戻りできない、恋の初めである。
何とも、初々しいのである。

誰もが、一度は、こういう経験をするだろう。


鴨川の 後瀬静けく 後も逢はむ 妹にはわれは 今ならずとも

かもがわの のちせしずけく あともあはむ いもにはわれは いまならずとも

鴨川の、下流の瀬のように、静かに、後々に逢おうと、妻に私は。今でなくても、いいのだ。

後瀬静けく
のちせしずけく、という、逢引である。
今でなくても、いい。後で、逢うのだ。

きっと、今は、逢えない理由があるのだ。下流ということが、それを言う。


言に出でて 言はばゆゆしみ 山川の 激つ心を 塞かへたりけり

ことにいでて いはばゆゆしみ やまかわの たぎつこころを せかへたりけり

言葉に出して言うことは、恐ろしい。山川のように、激しい心は、抑えて、言わない。

言はばゆゆしみ
言えば、言うことは、恐ろしいのである。
だから、山川のように、激しく内部は、動いていても、言わないでいる。
その心は、恋なのである。

恋心を、堪えているのである。

水の上に 数書く如き わが命 妹に逢はむと 祈誓ひつるかも

みずのうえに かずかくごとく わがいのち いもにあはむと うけひつるかも

水の上に、数を書くと、消えてしまう。そんな、私の命でも、妻に逢おうと、占いをして、確かめるのである。

祈誓ひつるかも
つまり、吉凶判断の占いである。

占いをして、心を静める。
深い思いを、凝らして、妻を思い、占う。占う行為に、恋を託すのである。


荒磯越し 外ゆく波の 外ごころ われは思はじ 恋ひて死ぬとも

ありそこし ほかゆくなみの ほかごころ われはおもはじ こひてしぬとも

荒磯を越して、外に溢れるようなふた心を、私は待たない。恋に死んでも、本望なのだ。

つまり、他に、心を動かさないのである。
この恋に、死んでもいいのである。

他の人を、恋することなんて、無い。
この恋にこそ、命を、賭けている。

自己決定の強さ。自分に言い聞かせるようである。

ここでも、また、一途な恋の心が、ある。
万葉の恋は、兎に角、一途であり、それは、純粋無垢である。


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2009年08月18日

伝統について 18

淡海の海 沖つ白波 知らねども 妹がりといはば 七日越え来む

あふみのうみ おきつしらなみ しらねども いもがりといはば ななひこえくむ

淡海の海の、沖の白波のように、家路を知らずとも、妻の元に行くならば、七日かかろうと、越えて行く。

琵琶湖のことである。
知らないとは、場所を知らないのではない。
可能性のことである。

平たく言えば、恋の告白である。
あなたとの、恋が成就するかどうか、分からないけれど、私は、あなたとの、恋を成就させるために、超えられないところも、超えてゆきます。

七日とは、象徴である。
何日かかろうと、越えてゆくのである。

大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か 物思はざらむ

おおふねの かとりのうみに いかりおろし いかなるひとか ものおもはざらむ

大船が、香取の海に、碇をおろすように、どんな人でも、深く物思わずには、いられないだろう。

物思はざらむ
強い否定の疑問である。

恋の一言もない。
ただ、物思わずには、いられないというのである。
物思う、すなわち、恋を思うのである。

恋は、人を、憂いに誘う。
人を思うと、人の心は、しばし、憂いに沈む。
センチメンタルに近い。
それほど、心の襞が、複雑になる。

何を見ても、あの人のことが、思われる。
一瞬一瞬、恋に死ぬのである。

沖つ藻を 隠さふ波の 五百重波 千重しくしくに 恋ひわたるかも

おきつもを かくさふなみの いほへなみ ちへしくしくに こひわたるかも

沖の藻を、隠すように、いほへ波が、幾重にも重なる波模様である。
私の恋心も、そのように、恋続けるのである。

それが、重なるように、しくしく、と、擬態語である。

しくしくと、思い続ける、恋と言うもの。
日本人の、心象風景は、恋の心にある。

しくしくと、思い続ける心模様を、後に、あはれ、と表現するようになり、その、あはれ、が、更に、すべての、心象風景に、言われることになる。

すなわち、もののあはれ、である。

喜怒哀楽という、人の心のみならず、自然の風景にも、更には、生き物すべてにも、あはれ、という言葉で、くくることになる。

もう、これ以上に、言い表しえないという、場面で、あはれ、が、出てくる。

可愛くても、極まると、あはれ、なのである。
愛おしさが、極まると、あはれ、なのである。

人の悲しみを、思って、極まると、あはれ、なのである。

そして、人生は、あはれ、なものなのである。

それは、恋心から、発したもの。
もののあはれ、なのである。


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2009年08月19日

伝統について 19

人言は 暫し吾妹子 縄手引く 海ゆ益りて 深くしそ思ふ

ひとごとは しましわぎもこ つなでひく うみゆまさりて ふかくしそおもふ

人の言葉は、一時的なもの。私の恋人よ、綱手で、船を引く海の深さより、君を思う。

人の噂話は、一時的なものである。
そんな言葉など、平気である。
私は、海の深さより、思っている。愛しているとは、言わない。思うのである。つまり、思いの深さこそ、恋なのである。

思いは、思念である。
思念は、相手に伝わる。
意識下の思念は、草木にも、伝わる。

万葉人は、生きているもの、すべてに、思いがある、意識があると、知っていた。

淡海の海 沖つ島山 奥まけて わが思ふ妹が 言の繁けく

あふみのうみ おきつしまやま おくまけて わがおもふいもが ことのしげけく

淡海の、沖の島山の奥の如く、私の思う恋人。
その、恋人に関しての、噂がうるさいのである。

芸能人の恋愛沙汰が、人々の関心を集める。
実に、馬鹿馬鹿しいことだが、人のことに、興味を持つ人々がいる。
それを、笑うのであるが、しかし、自分のことになると、俄然、真剣になる。だが、それも、人の口に上ると、単なる興味になる。

万葉時代も、人の恋愛沙汰を、噂したのである。

近江の海 海沖漕ぐ船の 碇おろし 隠りて君が 言待つわれぞ

あふみのうみ うみおきこぐふねの いかりおろし こもりてきみが ことまつわれぞ

近江の海の、船が、碇をおろして、港に、籠もるように、私は、あなたの言葉を、待っている。

人目を避けて、恋人の言葉を、待っている。
待つこと、それが、恋だった。

その、待つ姿を、比喩で、歌う。
船が、碇を下ろして、隠れるように、私も、隠れて、あなたの言葉を待つ。
この、待つ時間に、恋の熟成がある。

時間をかけて、思いを凝縮する。
まさに、祈りである。

相手の心に、祈る。それが、恋である。

現代は、もはや、そんな、悠長なことは、無いと思われるか・・・
そんなことは、無い。

その心を、隠しているだけで、万葉人と、大差ないのである。
相手を大切に、思えば、思うほど、肉体の欲望は、制御される。

激しい性欲の、欲望が、更に、心を燃えさせる。
だが、それは、相手を、陵辱することではない。
相手から、向かってくる。それを、待つのである。そして、願いが、叶うとき、恋が成就するとき、無上の喜びと、歓喜がある。

セックスが、限りなく、輝くときである。

欲望が、恵みであることに、気づくとき。
現代は、それが、希薄になったのである。
つまり、それは、恋の希薄さである。

心を込める思いを、忘れて、単なる、エロスに行く。
エロスは、エロスに、帰結する。
勿論、それはそれで、いい。
だが、一人の女を知ることによって、すべての、女を知るという、奥深さは無い。


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2009年08月20日

伝統について 20

隠沼の 下ゆ恋ふれば すべを無み 妹が名告りつ 忌むべきものを

こもりぬの しもゆこふれば すべをなみ いもがなのりつ いむべきものを

こもりぬの下に、籠もるように恋していると、どうしようもない気持ちになり、妻の名を告げてしまった。それは、言ってはいけないことなのに。


名を名乗ることは、当時、大変なことだった。
名を名乗ることは、相手に、我が身を許すこと。
この場合は、妻の名を言ってしまったことの、重大さである。

言ってはいけないことだった。
それほど、名を名乗る、名を言うというのは、重大なこと。

大地も 採り尽さめど 世の中の 尽し得ぬものは 恋にしありけり

おほつちの とりつくさめど よのなかの つくしえぬものは こいにしありけり

大地の土でも、採り尽くすことがあろうが、世の中で、採りつくすことが、出来ないものは、恋の心尽くしだ。

恋の心には、際限が無い。
思っても、思っても、これでいいということは、無い。
人を好きになるという、感情、気持ちは、一体なんだろうか。
それが、不思議であると、当時の人も思う。

物思いとは、恋心なのである。
何故、人は、恋に陥るのか。

人は、人によって人になる。
男は、女によって男になる。その逆も、である。
説明抜きに、そのようである。

隠処の 沢泉なる 岩根をも 通して思ふ わが恋ふらくは

こもりどの きはたつみなる いわねをも とおしておもふ わがこいふらくは

人目に、つかない、沢の泉の、岩根までも、通し貫くほどの、我が恋の激しさ。

その思いは、岩根をも、通すという、激しい恋心である。
それほど、思うのである。

つまりは、死を賭けても、恋するのである。
恋に死ぬ。

小細工した、心では、このような、恋などしない。
小細工、つまり、性欲、欲望の恋である。

恋する相手は、命を、賭ける相手である。
人は、最も、大切なものに、命を賭ける。

捧げ尽くして、納得し、満足する。

その恋の、相手に相応しくなろうとする、心。
それを、あはれ、という。

あはれ、の、心象風景は、恋心にある。

時に、男は、それが、大義に向かうこともあり、女は、子供を守ることに、向かうこともある。

人が生きられるのは、あはれ、なのである。
大和心とは、あはれの心。

万葉人が、行き着いた、あはれ、の、心象風景を、平安期は、物語として、表現し、更に、歌道は、いつも、あはれ、という、心象風景を持って、続けられてきた。

日本人とは、歌道にある、あはれ、を、見つめて生きるのである。

言霊とは、それなのである。


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