2009年12月15日

もののあわれ 445

明石には例の秋は浜風の異なるに、ひとり寝もまめやかにものわびしうて、入道にも折々語らはせ給ふ。源氏「とかく紛らはして、こち参らせよ」と宣ひて、渡り給はむことをばあるまじう思したるを、正身はたさらに思ひ立つべくもあらず。「いと口惜しき際の田舎人こそ、仮に下りたる人のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふわざをもすなれ。人数にも思されざらむものゆえ、われはみじき物思ひを添へむ。かく及びなき心を思へる親達も、世籠もりて過す年月こそあいな頼みに行く末心にくく思ふらめ、なかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「ただこの浦におはせむ程、かかる御文ばかりを聞え交さむこそ疎ならね。年頃音にみ聞きて、いつかはさる人の御有様をほのかにも見奉らむなど遥かに思ひ聞えしを、かく思ひかけざりし御住まひにて、まほならねど、ほのかにも見奉り、世になきものと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御有様おぼつかなからで、かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ、かかる海人のなかに朽ちぬる身にあまる事なれ」など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆも気近き事は思ひ寄らず。





明石では、いつものように、秋は、浜風が、身に染む季節であり、ひとり寝も、つくづくと、わびしい。入道にも、折を見て、催促される。
源氏は、何とか、人目に立たぬようにして、こちらに連れてくるようにと、仰り、お出かけすることは、有り得ないことと、思っているのだが、本人は、進んで出掛けるはずがないのである。
取るに足りない、賤しい身分の、田舎者なら、かりそめにも、下ってきた、都の人の、嬉しい一言に乗って、そのような、軽々しく、懇ろになりもするだろうが、人数の中にも、入れてくださらないだろうに、私は、大きな、煩悶を抱えるばかりである。このように、及びもつかない、望みを抱く、親たちも、私が、まだ年のゆかないうちは、あてにもならないことを、頼みにして、将来に望みをかけてもいいが、なまじ苦労の限りを尽くすことだろうと、思い、ただこの浦に、お出でになる間、こういう御文の、やり取りだけをさせていただくのが、幸福というもの。長年、お噂にだけ、聞いて、いつかそのようなお方の、ご様子を、ほんの少しでも、拝みたいものだと、遠く離れて、お願いしていたところ、このように、思いもよらない、お住まいで、少しでも、拝見させていただき、世に類のないと、伺っていた、お琴の音も、風の便りに、漏れ聞いて、明け暮れのご様子なども、拝し、その上、自分のようなものを、こんなにまで、尋ねていただくのは、この土地の海人の中に交じり、朽ち果てる身には、過ぎたこと、と、思うのである。すると、いよいよ、きまりが悪い。仮にも、お傍に、近づこうと思っても、みないのである。

ここでは、娘の心境が、語られる。




親達は、ここらの年頃の祈りのかなふべきを思ひながら、「ゆくりかに見せ奉りて思しかずまへざらむ時、いかなる嘆きをかせむ」と思ひやるに、ゆゆしくて、「めでたき人と聞ゆともつらういみじうもあるべきかな。目に見えぬ仏神を頼み奉りて、人の御心をも宿世をも知らで」など、うち返し思ひ乱れたり。君は、「この頃の波の音にかの物の音を聞かばや。さら゛はかひなくこそ」など常は宣ふ。




親たちは、長年の祈りが、いよいよ叶うのではと、思いながらも、うかつに、お見せして相手にも、してくれなければ、どんなに悲しい思いをするだろうと、思うと、心配で、いくら、ご立派なお方と申しても、そうなれば、みじめで、なるまいものを、などと、悪い想像をして、心を乱す。
君は、この頃の、波の音につけても、娘の、琴の音を聞きたい。こんな季節だからこそ、聞かせてくれなくては、何にもならない、などと、いつも、仰っている。




忍びてよろしき日見て、母君のとかく思ひわづらふを聞き入れず、弟子どもなどにだに知らせず、心一つに起居、輝くばかりしつらひて、十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ、入道「あたら夜の」と聞えたり。君は「すきの様や」と思せど、御直衣たてまつり引きつくろひて、夜ふかして出で給ふ。御車は二なくつくりたれど、「所狭し」とて御馬にて出で給ふ。惟光などばかりを侍はせ給ふ。やや遠く入る所なりけり。道の程も、四方の浦々見渡し給ひて、思ふどち見まほしき入江の月影にも、先づ恋しき人の御事を思ひ出聞え給ふに、やがて馬引き過ぎておもむきぬべく思す。

源氏
秋の夜の つきげの駒よ わがこふる 雲居をかけれ 時のまも見む

と、うちひとりごたれ給ふ。



入道は、密かに、吉日を選び、母君が、何かと心配するのも、聞き入れず、弟子たちにさえ知らせず、自分だけの、考えで、世話を焼き、娘の部屋を輝くばかりに、飾り立てて、十三日の夜の月が、華やかに、差し出たころ、源氏に、ただ、あたら夜の、とだけ、申し上げた。源氏は、風流ぶっていると思ったが、御直衣をお召しになり、身なりを整えて、夜更けになってから、お出かけになる。
御車は、二つとないほど、立派に整えてある。しかし、大袈裟すぎると、御馬で、出掛けられる。惟光だけを御供にした。
屋敷は、海辺より、遠く入り込んでいる。途中でも、四方の浦々を見渡して、好きな人と、一緒に眺めたい入江に映る月影を見るにつけ、まず、恋しい紫の上のことを、思い出すのである。そのまま、馬を引いて通り過ぎ、都の方へ、行ってしまいたいと、思うのである。

源氏
秋の夜の、月の光を浴びる、駒よ、私が恋しく思う、雲の彼方の、都の空に、翔けて欲しい。

と、思わず、独り言を仰る。

あたら夜の
美しい月夜の夜である。

すきの様や
風流ぶる。

源氏は、入道の親心に、ほだされて、その娘、明石の上に、逢うことにする。

物語は、また、これで、複雑になってゆくのである。

この度は、源氏からの、積極的な、働きかけではない。
それが、面白い。
好色の、源氏としては、珍しいこと。
更に、都の、紫の上を、恋い慕うという。
身分高き男の、この時代の、定めのようなものに、感じる。
作者は、そんな、不可抗力をも、見つめて、描いたのであろうか。



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2009年12月16日

もののあわれ 446

造れる様木深く、いたき所まさりて、見所ある住まひなり。海のつらは厳しう面白く、これは心細く住みたる様、「ここに居て、思ひ残すことはあらじとすらむ」と思しやらるるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声松風に響き合ひて、もの悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへある様なり。前裁どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこの有様など御覧ず。女住ませたるかたは、心ことに磨きて、月入りたる真木の戸口、けしきばかりおしあけたり。





明石の上の、住まいは、庭木も多く、たいそう趣向を凝らして、一段とまさっていて、見所のある住まいである。海辺の家は、堂々として、趣あり、こちらの娘の家は、ひっそりと、もの寂しく住んでいる様子は、このようなところに住んで、物思いをし残すことはないだろうと、女の心境を、推し量るにつけて、しみじみと、胸が打たれる。三昧堂に近いので、鐘の音が、松風と響き合い、もの悲しく聞こえて、岩に生えている松の根の様も、風情がある。庭の植え込みの、あちらこちらから、虫の音が、聞こえてくる。ここかしこの、有様を、ご覧になる。娘を住まわせている、一棟は、特に、美しくあり、月の光が、差し込む木戸が、ほんの少し開けてある。

ものあはれなり
この場合は、女の住みたる様に、心打たれるというのである。

前裁どもに虫の声を尽したり
庭に、虫の音が、響く様子である。

風景描写に、作者の歌心あり、更に、ものあはれ、なる様を、書きつける。
作者の筆自体が、ものあはれ、なのである。

しみじみと、胸が打たれる
それは、ものあはれと、胸が打たれるというのと、同じである。

あらゆる、心象風景が、感極まり、あはれ、との言葉が、使われるのである。





うちやすらひ何かと宣ふにも、「かうまでは見え奉らじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」と妬うさまざまに思し悩めり。「なさけなうおし立たむも、事の様に違へり。心くらべに負けむこそ人わろけれ」など乱れ恨み給ふ様、げに物知らむ人にこそ見せまほしけれ。近き凡帳の紐に、筝の琴のひき鳴らされたるも、けはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、源氏「この聞きならしたる琴をさへや」など、よろづに宣ふ。




君は、しばし、佇み、何かと、お言葉をかける。
女は、こんなに、お傍近くには、あがるまいと、固い決心であったので、自然、悲しくなり、お返事も申さない様子を、源氏は、おそろしく貴婦人ぶっている、男と話をすることなど、ありえない身分の女でも、私が、そばに行き、言葉をかければ、はねつけたりはしないはずだったのに、このように、落ちぶれているので、馬鹿にしているのかと、癪に思う。更に、進むべきか、退くべきかと、迷うのである。
女の気持ちを無視して、無理じするのも、入道の心を思えば、よくないことだ。根競べに負けては、外聞が悪い。などと、心乱れ、恨み言を言う。
その様子は、情趣の解る人に見せたいものだ。
女の傍の、凡帳の紐が触れて、筝の琴が、音を立てる。
焦ることもなく、思うが、くつろいで、爪弾いていたと解り、面白く、いつも噂に聞いている、琴も、聞かせてくれないのか、などと、そのようなことまで、仰るのである。





源氏
むつごとを 語りあはせむ 人もがな 憂き世の夢も なかばさむやと


明けぬ夜に やがてまどへる 心には いづれを夢と わきて語らむ

ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとよう覚えたり。何心もなくうちとけていたりけるを、かう物覚えぬに、いと理なくて、近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにかいと強きを、しひてもおし立ち給はぬ様なり。されどさのみもいかでかはあらむ。人ざまいとあてにそびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契りを思すにも、浅からずあはれなり。御志の近まさりするなるべし。常はいとはしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、人に知られじと思すも、心あわただしうて、こまかに語らひ置きて出で給ひぬ。




源氏
恋の睦言を、語り合う相手が、欲しいのです。この憂き世の辛い夢が、少しでも、醒めるように。


闇の夜に、迷う私には、何が夢で、何が、うつつか、どのように分かり、お話することができましょうか。

物越しの、かすかな感じは、伊勢にいる、御息所に似ている。
何も知らずに、くつろいでいたところ、このような意外な返事で、困ってしまい、近くの部屋に、逃げ込む。
とのように、閉めたたのか、分からないが、君は、無理じいは、しない。
けれども、いつまでも、固くしていられるわけはない。
抱いてみれば、人柄は、大変上品で、すらりとした、体つきであり、源氏が、引け目を感じるほどである。
このようにして、無理に結んだ、契りであると、思うと、愛情は、増すばかりである。
逢って、ひとしお、愛おしさが、深まるのであろう。
人に知られまいと、思うと、気が急いて、心を込めた、言葉を残して、お立ち出でになった。

かうあながちなりける契りを思すにも、浅からずあはれなり
無理に、関係を結んだ、契り、セックスである。それを思うと、浅からず、あはれ、という。
つまり、愛情が湧く。そして、その心が、あはれ、増さるのである。
愛情が、湧くことも、あはれ、なのである。
あはれ、の、風景が、契りの関係にまで、高める、深めるのである。

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2009年12月17日

もののあわれ 448

女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する。行く末短かげなる親ばかりを頼もしきものにて、いつの世に人なみなみになるべき身とは思はざりしかど、ただそこはかとなくて過ぐしつる年月は、なに事をか心をも悩ましけむ。「かういみじう物思はしき世にこそありけれ」と、かねておしはかり思ひしよりも万に悲しけれど、なだらかにもてなして、憎からぬ様に見え奉る。あはれとは月日に添へて思しませど、やむごとなき方の、おぼつかなくて年月を過ぐし給ひ、ただならずうち思ひおこせ給ふらむが、いと心苦しければ、一人臥しがちにて過ぐし給ふ。絵をさまざま書き集めて、思ふ事どもを書きつけ、返り事聞くべきさまにしなし給へり。見む人の心にしみぬべき物のさまなり。いかでか空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれになぐさむかたなくおぼえたまふ折々、同じやうに絵を書き集め給ひつつ、やがてわが御有様、日記のやうに書き給へり。いかなるべき御様どもにかあらむ。




女は、思っていたことが、事実となって、あらわれたので、今こそ、身を投げたいと、思う。行く先の短い親だけが頼りで、いつの日に、人並みになれる、身の上とも、思っていなかった。ただ、何となく、過ごしてきた年月の間、これといって、心を悩ますこともなかった。こうまでして、苦労する世の中だったのかと、いつも、考えていた以上に、何につけても、悲しく思うのだが、穏やかに、振る舞い、憎めない感じで、お相手をする。
源氏は、愛しい女だと、月日のたつうちに、その気持ちが、増すのだが、れっきとした方が、帰京を、いつかいつかと、待っていて、年月を過ごしているので、こちらの様子を、大変、案じているらしい。それも、気がかりで、一人で過ごす日も多い。
絵を、あれこれと、書き、それに和歌をつけて書き付ける。返歌が、付けられるような、趣向にしてある。
見る人は、感動するに違いない、出来栄えである。
お互いの心が、どうして、通うのか、二条の君も、悲しみの慰めに、思いの折々に、同じように、絵を書き集めて、そこへ、自分の有様を、日記のように、書き付ける。
この方々は、どのように、なるのだろうか。

最後の言葉は、作者の言葉である。

あはれとは月日に添へて思しませど
ものあはれになぐさむかたなくおぼえたまふ折々
共に、何となく、心に浮かぶ、心境である。

月日が経つと、愛しい女だと、思う。
何となく悲しい気分を、慰める折々に。

あはれ、と言う言葉が、自在に変化するのである。




年かはりぬ。内に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる。当帝の御子は、右大臣の女、承香殿の御腹に男御子生まれ給へる、二つになり給へば、いといはけなし。東宮にこそはゆづり聞えたまはめ。おほやけの御後見をし、世をまつりごつべき人を思しめぐらすに、この源氏のかく沈み給ふ事いとあたらしうあるまじき事なれば、つひに后の御いさめをも背きて、許され給ふべき定め、出で来ぬ。去年より、后も御物の怪になやみ給ひ、さまざまの物のさとし頻り、騒がしきを、いみじき御つつしみどもをし給ふしるしにや、よろしうおはしましける御目の悩みさへこの頃重くならせ給ひて、もの心細く思されければ、七月廿日余日のほどに、また、重ねて京へ帰り給ふべき宣旨下る。





年が改まった。
御所では、主上のご病気とあり、世間では、あれこれと、取り沙汰する。
今上天皇の皇子は、右大臣の姫、承香殿の女御を母君として、男御子が、生まれた。二つになったことで、たいそう幼く、当然、東宮に譲ることになろう。その時に、後見役となって、政治を治める人を、求めると、源氏が、今のような、境涯に沈んでおいでになるということは、誠に、惜しいことであり、不都合なことであるから、とうとう、皇太后の注意にも背いて、お許しが仰せられた。
去年から、皇太后も、物の怪に悩んでいる。あれこれと、前兆が多く、世間が騒がしかったので、厳重な、物忌みをされて、一時は、快復に向かっていた眼病までもが、この頃、また、重くなった。心細く思われて、七月二十何日に、改めて、重ねて、京に、帰られるようにとの、宣旨が、下った。

さまざまの物のさとし
天変地異である。

帝は、源氏に、二度、帰京を、仰せられたのである。
また、重ねて京へ帰り給ふべき宣旨、である。




つひの事と思ひしかど、世の常なきにつけても、「いかになりつべきにか」と嘆き給ふを、かうにはかなれば、うれしきに添へても、また「この浦を今はと思ひ離れむ事」を思し嘆くに、入道、「さるべき事」と思ひながら、うち聞くより胸塞がりて覚ゆれど、「思ひのごと栄え給はばこそわが思ひの叶ふにはあらめ」など思ひ直す。その頃は夜がれなく語らひ給ふ。六月ばかりより心苦しき気色ありて悩みけり。かく別れたまふべき程なれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれに思して、「あやしう物思ふべき身にもありけるかな」と思し乱る。女はさらにもいはず思ひしかど、「遂には行きめぐり来なむ」と、かつは思しなぐさめき。この度はうれしき方の御出で立ちの、「またやはかへりみるべき」と思すに、あはれなり。





結局は、こうなるだろうと、思っていたが、世の中は常ならず、どういうことになろうかと、嘆いていた折に、急な宣旨が下り、嬉しいと共に、一方、この浦を今を限りに離れてしまうことを、嘆き悲しむのである。入道は、当然、そうなるだろうと、思いつつ、帰京の話を耳にすると、胸が潰れる思いであった。
だが、思う存分に、栄えてくださり、自分の望みも叶うのだと、思い返すのである。
その頃は、毎夜、毎夜、欠かさず、女のところに、通われて、語らうのである。
女は、六月あたりから、気がかりな、兆候が現れて、苦しんでいる。つまり、妊娠したのである。
このようなお別れになる、間際であり、益々、愛情が増すのか、以前よりも、愛おしさが、勝り、不思議に物思いの絶えない、我が身と、心が、騒ぐ。
女は、更に、物思いに、沈む。
無理も無いことである。
思いもかけない、悲しい旅路に、浦へと、ご出立となったが、結局は、都に帰って来るだろうと、一方では、心を慰めていた。
ところが、今度は、嬉しい都への、出立であり、二度と、ここに、来るはずがないと、思うと、胸がいっぱいになる。

後半は、源氏の複雑な心境である。
悲しい旅路であるが、また、嬉しくもある。

それが、あはれ、なのである。
その、複雑な心境さえも、あはれ、なのである。



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もののあわれ 447

御文いと忍びてぞ今日はある。あいなき御心の鬼なりや。ここにも、「かかる事いかで漏らさじ」とつつみて、御使ことごとしうももてなさぬを、胸いたく思へり。かくて後は、忍びつつ時々おはす。程も少し離れたるに、「おのづから物いひさがなきき海人の子も立ち交らむ」と思し憚る程を、「さればよ」と思ひ嘆きたるを、「げにいかならむ」と、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただこの御気色を待つことにはす。今さらに心乱るも、いといとほしげなり。





御文は、ひっそりと、今日、おつかわしになる。訳も無く、気が咎めるようである。
女の方でも、このようなことは、世間に知られたくないと、思い、お使いを、仰々しく、持て成さないので、入道も、心苦しい。
その後は、こっそりと、時々、通われる。距離も少し離れているので、自然口から口へと、伝わる海人の子もいるかもしれないと、つい、お控えらなることを、女の方では、やはり、思ったとおりだと、嘆いているので、まったく、どうなることかと、入道は、極楽往生の願いを忘れて、ただ、君の、お越しを待つばかりである。
今となって、心を乱すとは、いかにも、気の毒な様子である。

最後の言葉は、作者の思いである。





二条の君の、風のつてにても漏り聞き給はむ事は、戯れにても心の隔てありけると思ひ疎まれ奉らむは、心苦しう恥づかしう思さるるも、あながちなる御志の程なりかし。かかる方の事をば、さすがに心止めて恨み給へりし折々、などてあやなきすさび事につけても、さ思はれ奉りけむなどねとりかへさまほしう、人の有様を見給ふにつけても、恋しさの慰むかたなければ、例よりも御文こまやかに書き給ひて、奥に
源氏「まことや、われながら心より外なるなほざりごとにて、疎まれ奉りしふしぶしを、思ひ出づるにさへ胸いたきに、またあやしうものはかなき夢をこそ見侍りしか。かう聞ゆる問はず語りに、隔てなき心の程は思し合わせよ。誓ひしことも」
など書きて、
源氏「何事につけても、
しほしほと 先づぞ泣かせる かりそめの みるめはあまの すさびなれども」
とある御返り、何心なくらうたげに書きて、はてに、

紫、「忍びかねたる御夢語りにつけても、思ひ合わせらるること多かるを、

うらなくも 思ひけるかな 契りしを まつよ波は 越えじものとぞと」

おいらかなるものから、ただならずかすめ給へるを、いとあはれにうちおき難く見給ひて、名残り久しう、忍びの旅寝もし給はず。




二条の君が、風の便りにでも、耳にされるとしたら、冗談にせよ、隠し立てをしたと、嫌がるだろうとも申し訳なくも、面目もなくもある。そんな、懸念をよそに、よくよく愛情が深いのであろう。
このような方面のことにかけては、さすがに、気にして、恨みになった、折々、どうして、あんなつまらない、忍び歩きをして、苦労させたのかと、もう一度、昔に、戻りたく思い、こちらの、女の有様を、ご覧になるにつけても、恋しさは、慰めようもないことで、いつもより、お手紙を、細々と書いて、奥に
源氏は、本当に、我ながら、心にも無い、浮気をして、嫌がられたときの事を思い出すのさえ、胸が痛みます。またしても、不思議な儚い、夢を見てしまいました。こんな風に、お尋ねもないのに、申し上げるのですから、隠し立てはしない、胸のうちを、お察しください。誓いは、忘れません、などと、書いて、
何事につけても

ここで、かりそめに出会った人は、いわば海人の私の、遊びですが、それにつけても、あなたの事が思い出されて、とめどもなく、涙が、こぼれ泣いてしまいます。

と、書いてある。そのお返事は、何の拘りもなく、愛らしいもので、最後に、

堪えきれずに、打ち明けてくださった、夢のお話を伺うにつけ、やはりと、思います事が、多いと思われますが

堅い約束をいたしましたので、末の松山より、波が高くなることは、あるまいと、真っ当に信じております。

と、鷹揚な中にも、一言、恨みをおっしゃつているのを、下に置くことも忘れて、しみじみと、ご覧になり、その感慨の気持ちは、長く尾を引いて、久しい間、岡辺の宿にも、お出でにならないのである。

作者の解説と、物語とが、渾然一体と、なっている。

また あやしうもの はかなき夢を こそ見侍りしか
愛する、相手がいても、遠く離れていれば、浮気の一つ、二つもする、というのは、今も昔も、変わらない、男の性である。

それを、見事に、あやしうものはかなき夢を、と、ぬけぬけと、言うことが、出来るのも、男である。

更に、歌にして、あまの すさびなれども、と、言い訳をする。

だが、紫の上も、なかなかの、やり手である。
鷹揚に構えて、一言で、源氏の心を、射止める。

うらなくも
疑う心はないと、いう。
そして、
契りしを まつより波は 越じものぞと
あなたとの、契りは、末の松山が、波を越えないように、決して、揺るぎません、と、いうのである。

時代は、変わったと思う。
一昔前までは、このような、やり取りが、出来た時代である。
平安期の、男女の在りようが、昭和初期まで、続いていたような、気がする。

敗戦後から、見る見ると、日本人が、変化した。
勿論、恋愛の様も、である。

今は、不倫の時代を終えて、女が男を、買うまでの、時代である。
さて、そこから、芸術、文学が、生まれるのか。
楽しみである。

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2009年12月19日

もののあわれ 449

侍ふ人々、ほどほどにつけては喜び思ふ。京よりも御迎へに人々参り、心地よげなるを、あるじの入道涙にくれて、月も立ちぬ。程さへあはれなる空の気色に、「なぞや心づから今も昔もすずろなる事にて身をはふらかすらむ」とさまざまに思し乱れたるを、心知れる人々は、「あなにく、例の御癖ぞ」と見奉りむつかるめり。「月頃は、つゆ人に気色見せず、時々はひ紛れなどしたまへるつれなさを、この頃あやにくに、なかなかの、人の心づくしに」とつきじろう。少納言、しるべして聞え出でし初めの事などささめきあへるを、ただならず思へり。




家臣一同は、それぞれの、身分に応じて、喜んでいる。
京からも、お迎えの人々が、参り、愉快そうにしているが、家の主の入道は、涙にくれて、その月も、終わった。
季節は、秋である。
胸を締め付ける、空を仰いで、何故、自ら求めて、今も昔も、たわいない恋のために、我が身を捨てて、省みないのかと、あれこれと、思い、心が騒ぐのである。
事情を知る人々は、困ったお方だ、いつもの癖なのだと、むつかるめり、呆れている。
家臣は、一年近く、全然、素振りも、見せず、時々、人目を忍んで、お出かけになる、冷淡な、扱いであったが、この頃になり、あいにく、構わずに、置かれればいいのに、女の嘆きの種になろうと、互いに、頷きあう。
少納言は、自分が、娘への道を、噂し、手引きしたことの、初めのことを、囁きあうのを、聞いて、心穏やかではない。

程さへあはれなる空
季節も秋であり、空も、あはれ、を、誘う。

空模様も、あはれ、に、覚えるという。
程さへものあはれ、とは、言わない。
空が、もの、である。
空、あはれ、なのである。


もののあはれ
もの の あはれ
もの、とは、何か。
あはれ、とは、何か。

しばし、検証してみる。

もののあはれ、に、注目した、本居宣長も、それについては、明確にしていない。

日本国語大辞典から、あはれ、についてみる。
心に愛着を感じるさま。いとしく思うさま。また、親愛の気持ち。
しみじみとした風情あるさま。情趣の深いさま。嘆賞すべきさま。
しみじみと感慨深いさま。感無量のさま。
気の毒なさま。同情すべきさま。哀憐。また、思いやりのあるさま。思いやりの心。
もの悲しいさま。さびしいさま。また、悲しい気持ち。悲哀。
はかなく無常なさま。無常のことわり。
神仏などの、貴いさま。ありがたいさま。
殊勝なさま。感心なさま。

原文の、あはれ、を、訳すときに、これらを参照して、訳している。

しかし、上記は、多数の、あはれ、という言葉の、使われた、場面、場面による、言い換えである。

その場の、訳語を、並べただけでは、一つの、単語の意味記述としては、適切を欠くものとなる。

アハレのような心情表現を理解する一つの手立ては、いきなりそれを分解しようとせず、アハレがどんな言葉と対になって使われているかを見ることである。
源氏物語のもののあはれ 大野晋 編著

をかしうもあはれにもおぼゆるかな

あはれにもをかしうも聞え尽くしたまへど

さまざまにをかしくもあはれにもあるかなと

あはれ、と、をかし、が、対になっている。

をかし、とは、興味がある、面白い、美しい、変わっている、笑うべきだ、という、訳語になる。

アハレは平安女流文学では陽性ではない、むしろ悲しさを底に持つ感情を表すのではなかろうか。
源氏物語のもののあはれ より

あはれに悲しきことども書き集めたまへり
あはれに悲しき御事をさしおきて
あはれに悲しう思ひあへり
悲しうあはれに

あはれ、に、近い意味の言葉として、悲しい、という言葉がある。

悲しいとは、源氏物語では、八割が、別離に対して、使われる。
それ以外の、二割は、生きている人間に対する、愛情を表す。

わがかなしと思ふむすめを
うつくしくかなしと思ひきこえたまへり

愛しい、とも、書く事が出来る。

悲哀と、愛着の、かなしい、は、基底が同じといえる。

悲し、を、あはれなり、と、見ると、対象が、全く相違している。

秋になりゆけば、空のけしきもあはれなるを
かやうなるけはひは、ただ昔の心地して、いみじうあはれなり
寺のさまもいとあはれなり

あはれ、の、対象が、実に、広いのである。
目に見える気色、雰囲気、建物のさま、相手の心遣いなども、あはれ、なのである。

その対象に、共感しているさまを、あはれ、と表現する。

悲し、は、無力の自覚があるが、あはれ、は、常に対象に、共感して、対象と、一体化するような、状況である。

この、共感能力こそ、あはれ、の、重要な働きであると、いえる。

現在でも、人の、不幸や、痛ましい出来事に、共感して、あはれ、だと、言う場合がある。

それでは、もの、とは、何か。
そして、もののあはれ、とは。
それについては、明石の段が、終わった後で、検証することにする。

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2009年12月20日

もののあわれ 450

明後日ばかりになりて、例のやうにいたくもふかさで、渡り給へり。さやかにもまだ見給はぬかたちなど、いとよしよししう気高きさまして、「めざましうもありけるかな」と、見捨て難く口惜しう思さる。「さるべきさまにして迎へむ」と思しなりぬ。さやうにぞ語らひ慰めたまふ。男の御かたち有様、はたさらにも言はず。年頃の御行ひにいたく面やせ給へるしも、言ふかたなくめでたき御有様にて、心苦しげなる気色にうち涙ぐみつつ、あはれ深く契り給へるは、「ただかばかりを幸にても、などか止まざらむ」とまでぞ見ゆめれど、めでたきにしも、わが身の程を思ふもつきせず。波の声、秋の風にはなほ響き異なり。塩焼く煙かかにたなびきて、とりあつめたる所のさまなり。






出発が、明後日という日になり、いつものように、夜が更けないうちに、おこしになった。
まだ、はっきりと、ご覧になったことがなかった、女の器量は、大変に、気高い様子をしている。
生まれには、過ぎたものだと、見捨てにくく、名残惜しい気持ちになる。
しかるべく計らい、都に呼び迎えようと、決心する。
そして、その約束をするのである。
男の顔立ち、お姿は、改めて、いうまでも無い。久しい間の、勤行にひどく面やつれていることすら、いいようもなく、素晴らしいお姿であり、痛々しい様子であり、涙ぐみつつ、心を込めて、約束するのは、これだけの、お情けでも、幸せだと思い、諦めようと、思うが、その立派さに、我が身分を考えると、思いは、尽きないのである。
波の音も、秋風の中で、ひとしお、格別に響く。塩焼く煙が、かすかにたなびき、何から何まで、悲しみを集めた、この地の、趣である。

あはれ深く契り給へるさま
心深く約束する様であり、契りは、交わりでもある。

性描写を、ここまで、格調高く表現するのも、源氏物語の、骨頂である。




源氏
このたびは 立ちわかるとも 藻塩やく けぶりは同じ かたになびかむ

と宣へば、

かきつめて 海人のたく藻の 思ひにも 今はかひなき 恨みだにせじ

源氏
今は、別れても、藻塩焼く煙が、同じ方向に、靡くように、やがては、また、一緒になりましょう。

と、のたまえば、

藻をかき集めて、海人たちが、炊いている火のように、思いは、一杯ですが、申しても、かいないことです。恨みは、しません。


身分とは、身の程である。
実は、日本の身分制度は、他の国の、身分制度とは、違う。
江戸時代に、士農工商という、身分制度が、幕府によって、作られたが、そこには、皇室が、除外されている。
更に、将軍を、お上と、呼ばせた。
実は、日本には、お上とは、ただ、お一人であり、それは、天皇のことである。
将軍も、天皇からの、勅命を受けて、征夷大将軍という、位を得る。
戦国時代、京に上るというのは、それであった。
唯一の、権威である、天皇の命を、いただき、国民の信を得る。

皇室により、身分というものが、はじまるのである。

人は、皆、平等ではない。
そして、それがあるから、国が、定まる。
天皇は、武力を持たない、権威の象徴である。

武力で、統治しなかったとは、世界で、唯一の、家柄である。
それを、今、誇りにして、いいのである。





あはれにうち泣きて言少ななるものから、さるべき節の御答など浅からず聞ゆ。この、常にゆかしがり給ふ物の音などさらに聞かせ奉らざりつるを、いみじううらみ給ふ。「さらば形見にも忍ぶばかりの一ことをだに」と宣ひて、京わりもておはしたりし琴の御琴取りに遣して、心ことなる調べをほのかに掻き鳴らし給へる、深き夜のすめるは譬へむかたなし。入道え堪へで、筝の琴取りてさし入れたり。自らもいとど涙差へそそのかされてとどむべきかたなきに、誘はるるなるべし、忍びやかに調べたる程いと上衆めきたり。入道の宮の御琴の音をただ今のまたなきものに思ひ聞えたるは、今めかしうあなめでたと、聞く人の心ゆきて、かたちさへ思ひやらるる事はげにいと限りなき御琴の音なり。これはあくまで弾きまし、心にくく妬き音ぞまされる。




あはれに、泣いて、言葉少ないが、このような、返歌などは、情を込めて、申し上げる。
この、いつも聞きたがっていた、琴の音を、とうとうお耳に、入れたかったものを、大変、恨むのである。
源氏は、それでは、あなたの形見として、思い出になるように、一節だけでも、是非に、と、仰り、京から持ってきた琴の、お琴を、取りにやらせる。面白き、一曲を低く、掻き鳴らすが、夜更けの澄んだ、風の中では、たとえようも無い。
入道は、たまりかねて、筝の琴をとって、娘の御簾の中に、差し入れた。
娘は、涙を流しての、お願いに、その気になったのだろう。
音も低い、調べだが、まことに、貴婦人と感じられる、奏法である。
入道の宮の、お琴の音を、今の世に、類のないものと、聞いていたが、それは、今風で、結構なと、誰もが皆、感じ入り、お弾きになる、ご器量さえ、目の前に、浮かぶ気がするのである。実に、無上のお琴の音である。
どこまでも、冴えた弾き方で、奥ゆかしく、憎らしい程の、音色が、得意なのだ。

今めかしう あなめでたと
今風であり、とても、素晴らしい。
筝の琴とは、十三弦であり、琴、きんの琴は、七弦である。
七弦の琴は、弦楽器の中でも、最も重んじられた。しかし、一条天皇の頃には、奏法が、途絶えていた。物語の中では、源氏が、最後の名人とされている。

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2009年12月22日

もののあわれ 452

今日たてまつるべき御装束に、


寄る浪に たちかさねたる 旅ごろも しほどけしとや 人のいとはむ

とあるを御覧じつけて、さわがしけれど、

源氏
かたみにぞ 換ふべかりける 逢ふ事の 日数へだてむ 中のころもを

とて、「志あるを」とて、奉り換ふ。御身になれたるどもを遣す。げに今ひとへ忍ばれ給ふべき事を添ふる形見なめり。えならぬ御衣ににほひの移りたるを、いかが人の心にもしめざらむ。



今日、お召しになる、狩衣に、


用意しました、旅の御装束は、寄る波に濡れております。お気持ちが、悪いと仰いますか。

とあるのを、ご覧になり、騒がしいが、

逢うときまでの、形見に、着ている衣を、あなたの贈り物の衣と、交換しましょう。何日かかるか、わからない、二人の仲の、この中の衣です。

と、おおせられて、心が、こもっているのだからと、お召し換えになる。
御身に、つけていたものを、おつかわしになる。まことに、今ひとへ忍ばれ給ふべき事、もうひとつの思い出の、種を加える形見になるだろう。
え、ならぬ、つまり、言い表せない、立派な御衣に、君の、移り香が、匂う。
どうして、相手の心に、染み入らぬことが、あろうか。

最後は、作者の言葉である。





入道「今はと世を離れ侍りにし身なれども、今日の見御送りに仕うまつらぬ事」など申して、かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。

入道
世をうみに ここらしほじむ 身となりて なほこの岸を えこそ離れね

心の闇はいとど惑ひぬべく侍れば、境までだに」と聞えて、入道「ぎきしきさまなれど、思し出でさせたまふ折り侍らば」など、御気色賜はる。いみじう物をあはれと思して、所々うち赤みたまへる御まみのわたりなど、いはむかたなく見給ふ。源氏「思ひ捨てがたき筋もあめれば、今いと疾く見なほし給ひてむ。ただこの住みかこそ見捨て難けれ。いかがすべき」とて、

源氏
みやこ出でし 春の嘆きに おとらめや 年ふる浦を わかれぬる秋

とておしのごひ給へるに、いとどものおぼえず、しほたれまさる。起居もあさましうよろぼふ。




入道は、今は、世の中を離れて生きる身でありながらも、今日は、見送りに、お供しませんこと、などと、申して、かひをつくるもいとほしながら、泣きべそをかいているのである。
若い人は、笑うだろう。

入道
世の中が、嫌で、この海辺に逃れて、長年、潮風を受けた、この身ですが、未だ、この岸を離れられずに、生きています。
えこそ 離れね
この岸は、あの世、彼岸に対する、この世である。そこから、離れられないというのは、迷いにあるという。

この世の闇とは、子に対するゆえに、益々、迷う闇のことである。
境までなりとも、と、申し上げて、入道は、仇めいたことでが、思い出す折がありましたら、娘に便りを、などと、御意を、伺う。
大変悲しみに、沈み、所々、赤くしている、目元のあたりなどから、言いようも無く、見える。
源氏は、思ひ捨てがたき筋もあめれば、と、いう。
これは、女の妊娠であろう。
すぐに、私の、本心も解っていただけます。ただ、この住まいが、見捨てにくいので、どうしたら、いいのかと、仰り、

源氏
みやこを逃れた、あの春の嘆きに、劣らず、住み慣れた、この明石の浦に、別れを告げる、この秋も、悲しいもの。

と、涙をぬぐう。入道も、ひとしお、分別無く、涙を流す。立つ姿も、よろよろとして、転げそうだ。



物語には、主語が無いゆえに、迷うこと、多々あり、
先人たちの、研究によって、多く、それを、知る事が出来るが、物語は、楽しむもの。
何度も、読み進めるうちに、自ずと、理解されることも、多々ある。

一体、これは、誰のことを、いうのか。更に、誰の、気持ちなのか・・・と、戸惑うこともある。

現代人に、努力を強いる、古典文学であるが、そこには、脈々として、日本人が、築き上げてきた、精神の、歴史がある。

古典文学に、意味も、意義も、見出せないという人もいる。
だが、それは、あまりに、短絡的だ。

日本人の、精神の岐路が、ある。
言葉は、精神である。
日本語、大和言葉は、民族の精神である。
単なる、情報を得るための、言葉の世界もあるが、古典は、精神を、見詰める手立てと、なるのだ。

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2009年12月23日

もののあわれ 453

正身のここち、たとふべきかたなくて、かうしも人に見えじ、と思ひしづむれど、身の憂きをもとにて、わりなきことなれど、うち捨て給へる恨みのやるかたなきに、おもかげそひて忘れがたきに、たけきことはただ涙に沈めり。母君も慰めわびて、「何にかく心づくしなる事を思ひそめけむ。すべてひがひがしき人に従ひける心のおこたりぞ」といふ。入道「あなかまや。思し捨つまじき事もものし給ふめれば、さりとも思すあらむ所あらむ。思ひ慰めて、御湯などをだに参れ。あなゆゆしや」とて、かたすみに寄り居たり。乳母母君など、ひがめる心を言ひ合わせつつ、「いつしか、いかで思ふさまにて身奉らむと、年月を頼み過ぐし、今や思ひかなふとこそ頼み聞えつれ。心苦しきことをも、物の初めに見るかな」と嘆くを見るにも、いとほしければ、いとどほけられて、昼は日一日寝をのみ寝くらし、夜はくよかに起き居て、「数珠の行くへも知らずなりけり」とて、手をおし摺りて仰ぎ居たり。弟子どもにあはめられて、月夜に出でて行道するものは、鑓水の倒れ入りにけり。よしある岩のかたそばに、腰もつきそこなひて、病み臥したる程になむ、すこし物まぎれける。





本人の気持ちは、たとえようも無い、悲嘆さである。明石の君である。
このような、嘆きを、人に、知られまいと、気持ちを、静めようとするが、身分の違いが、元で、言うことも、無理なのだが、置き去りにされた、恨みの、やり場もない。それなのに、面影が、ちらついて、片時も、離れることがない。さしあたり、泣くことしかないのである。
母君も、慰める言葉無く、どうして、このような、気の揉めることを、考えたのか。それもこれも、偏屈な、この人に、従ったからだと、言う。
入道は、やかましい、捨て置かれない訳も、おありだ。幾らなんでも、お考えがあろう。安心して、薬でも、召し上がれ。縁起でもない。と、言いつつ、隅に引っ込んでいる。
乳母、母君などは、入道の、偏屈な心を、そしりあいながら、少しでも、早く、と、願い通りの、姿で、お世話をと、長い年月を、お待ちして、今、やっと、その願いが叶いましたと、君も、頼もしく存じ上げたのに、ご結婚早々、気がかりなことと、嘆くのを、見るにつけ、可愛そうで、いよいよ、呆然としてしまい、昼は、一日、寝てばかり、夜は、起きて、座り、入道は、数珠が、どこにあるやら、わからなくなったと、手を摺り合わせて、本尊を仰いでいる。
弟子どもは、馬鹿にされて、月夜に、外に出て、行道したところ、鑓水に落ちる始末である。
風流な岩の片隅に、腰を打ち、患い、寝ている間だけは、少し、気が紛れるのだった。

入道の、滑稽さが、描かれる。






君は難波のかたに渡りて御祓へし給ひて、住吉にも、たひらかにて色々の願はたし申すべきよし、御使して申させ給ふ。にはかに所せうて、自らはこのたびえ詣でたまはず。異なる御逍遥などなくて、急ぎ入り給ひぬ。二条の院におはしましつきて、都の人も、御殿人も、夢の心地して行き合ひ、よろこび泣きもゆゆしきまで立ち騒ぎたり。




源氏は、浪速に渡り、お祓いをされて、住吉の神にも、無事であり、改めて、色々な願を立てるべく、参内する旨を、お使いの者を通して、申し上げる。
にわかに、お供の者たちが、増えたので、ご自身では、お参りできない。更に、特別な、遊覧などはなく、急ぎ、御入洛になった。
二条の院に、着かれて、都の者も、御殿に仕える者も、道で顔を合わせると、夢のような気持ちがして、喜び泣きなど、ゆゆしきまで、騒ぐのである。




女君もかひなきものに思し捨てつる命、嬉しう思さるらむかし。いとうつくしげにねび整ほりて、御物思ひの程、所せかりし御髪のすこしへがれたるしもいみじうめでたきを、「今はかくて見るべきぞかし」と、御心落ちいるにつけては、またかの飽かず別れし人の思へりしさま心苦しう思しやらる。なほ世と共に、かかるかたにて御心のいとまぞなきや。





女君も、生きていても、甲斐がないと、思い、諦めていた命であったが、嬉しく思うことであろう。
何とも、美しく成人して、苦労のためか、御髪が、少し減ったようで、それも、かえって、素晴らしく見える。
これからは、こうして、逢えるのだと思うと、心が落ち着くと、また、あの飽きない別れをしてきた、人の嘆きが、胸痛く、思い出される。
やはり、一生、このようなことで、心の休まる暇は、ないようである。





その人の事どもなど聞え出で給へり。思し出でたる御気色浅からず見ゆるを、ただならずや見奉り給ふらむ。わざとならず「身をば思はず」などほのめかし給ふぞ、をかしうらたく思ひ聞え給ふ。かつ見るにだに飽かぬ御さまを、「いかで隔てつる年月ぞ」と、あさましきまで思ほすに、とりかへし世の中もいと恨めしうなむ。程もなく、本の御位あらたまりて、数より外の権大納言になり給ふ。つぎつぎの人も、さるべき限りはもとの官返し賜はり世に許さるる程、枯れたりし木の春にあへる心地して、いとめでたげなり。




その人のことなども、あれこれと、お話になる。
思い出している、様子が、浅からず思えるのは、普通の愛着ではないと、察する。それとなく、身をば思わずと、小声で、仰るのを、可愛らしいと、お聞きになる。
また、目の前の、眺めていて、飽きない、人を、どうして、長い年月を、見ずにいたのかと、呆れるばかりの、思いに、京を離れた当時の、気持ちに戻り、世の中が、恨めしく思われる。
間もなく、元の位に、復帰して、外の権大納言となられる。
次々の者も、しかるべき人々は、皆、元の、官を返し賜り、社会に、復帰したので、枯れ木の春が、巡ったようで、大変、目出度いことである。


身をば思わず
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
拾遺集より


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2009年12月24日

もののあわれ 454

召しありて、内裏に参り給ふ。御前に侍ひ給ふに、ねびまさりて、人々「いかでさるものむつかしき住まひに年経給ひつらむ」と見奉る。女房などの、院の御時より侍ひて、老いしらへるどもは、悲しくて、今更に泣き騒ぎめで聞ゆ。上も恥づかしうさへ思し召されて、御装ひなど、ことに引きつくろひて出でおはします。御心地例ならで、日頃経させ給ひければ、いたうおとろへさせ給へるを、昨日今日ぞすこしよろしう思されける。御物語しめやかにありて、夜に入りぬ。十五夜の月おもしろう静かなるに、昔のことかきくづし思し出でられて、しほたれさせ給ふ。もの心細く思さるるなるべし。主上「遊びなどもせず、昔聞きし物の音なども聞かで、久しうなりにけるかな」と宣はするに、

源氏
わたつ海に しなえうらぶれ ひるのこの 足たたざりし 年は経にけり

と聞え給へば、いとあはれに心はづかしう思されて、

主上
宮ばしら めぐりあひける 時しあれば 別れし春の うらみ残すな

いとなまめかしき御有様なり。





お召しがあり、御所に、参上する。
御前に、畏まる様は、いよいよ、ご立派である。
人々は、どのように、辺鄙な田舎で、過ごされたのだろうと、拝する。
女房などの中には、故院の御世から、お仕えしている、老いぼれている者などは、胸が一杯になり、泣き騒いで、感嘆している。
主上も、顔を合わせられないほどの、お気持ちで、御装束も、ことさらつくろって、お出でになる。
この間中、ご病気気味で、酷く衰弱していられたのだが、昨日、今日あたりは、少しよくなった感じである。
十五夜の月、美しく、物静かで、昔の事を、ぽつりぽつりと、思い出されて、お泣きになる。心細く感じられたのであろう。
主上は、管弦の遊びなどもせず、昔聞いた楽の音なども、聴かず、久しゅうなったことですと、仰せになる。
源氏
海辺に流浪して、侘しい思いをしていました。あの、蛭の子が、足が立たぬという年月、三年を、過ごしました。

と、申し上げると、お心が動き、座に耐えられない気持ちで、

主上
イザナギ、イザナミの二神が、宮柱を巡り、行き逢われたように、再会のときがきたので、別れた春の恨みは、忘れてほしい。

とても、優美な主上である。

主上とは、帝である。
源氏の義理の兄である。


いとあはれに心はづかしう思されて
その場に、いたたまれないような、気持ちである。

いとなまめかしき
帝は、優美、優雅である。
平安貴族の、特徴は、この、なまめかしさ、であろう。
いかに、優美で、優雅であろうとしたことか。
しかし、それが、仇になる。
それが、過ぎれば、耽美に堕落する。
あまりに、下々とかけ離れた生活であり、私には、いただけない。




院の御為に、八講行はるべきこと、先づいそがせ給ふ。東宮を見奉り給ふに、こよなくおよずけさせ給ひて、めづらしう思しよろこびたるを、限りなくあはれと見奉り給ふ。御才もこよなくまさらせ給ひて、世をたもたせ給はむにはばかりあるまじく、賢く見えさせ給ふ。入道の宮にも、御心すこししづめて、御対面の程にも、あはれなる事どもあらむかし。




故院の、御追善のために、法華八講の催しを、何より先に、ご用意になる。
東宮に、お目通りになると、大変成長して、珍しく思し召して、喜びになるのを、感無量の気持ちで、拝する。
御学問も、この上なく、上達し、天下を治め遊ばすことに、何の、差しさわりも無いほどに、聡明に見えるのである。
入道の宮にも、お心を少し静めて、御対面の節に、心深いお話があるだろう。


めづらしう思しよろこびたるを、限りなくあはれと見奉り
あはれ、という、心象風景が、至る所に、広がる。
その、東宮の成長の様を見て、あはれ、と、思う心を、感無量と、訳す。心の、深く感じた様を、あはれ、と、言う。

あはれなる事どもあらむかし
切々とした、話しになるのである。それを、また、あはれ、という。




まことや、かの明石には、返る波につけて御文つかはす。ひき隠してこまやかに書き給ふめり。
源氏「浪のよるよるいかに、

嘆きつつ あかしのうらに 朝ぎりの たつやと人を おもひやるかな

かのそちの女の五節、あいなく人知れぬ物思ひさめぬる心地して、まくなぎつくらせてさし置かせけり。

五節
須磨の浦に 心をよせし 船人の やがて朽たせる 袖を見せばや

手などこよなくまさりにけりと、見おほせ給ひて、遣はす。

源氏
かへりては かごとやせまし 寄せたりし 名残に袖の ひがたかりしを

飽かずをかしと思しし名残なれば、おどろかされ給ひていとど思し出づれど、この頃はさやうの御ふるまひさらにつつみたまふめり。花散里などにも、ただ御消息などばかりにて、おぼつかなく、なかなかうらめしげなり。




さて、明石へは、お送りしてきた者達の帰るのに、言付けて、お手紙を遣わす。
人目を避けて、情け細やかに、お書きになる様子である。

源氏
浪の寄る夜、夜は、どのようにお過ごしでしょう。

嘆きつつ、明かして暮らす、あなたの吐息が、明石の浦に、朝霧となって、立ち上っているのではと、思われます。

そして、かのそちの五節は、つまらないことに、人知れず、好意を寄せていたのに、それも、消えうせてしまい、誰といわずに、手紙を、使いの者に、渡させる。

五節
須磨の浦で、あなたに、お便り申し上げた、船人が、そのまま、涙で、朽ちてしまった、袖を、お見せしたいと思います。

筆跡などは、大変上手になったと、誰からかと見てとり、お返事を、遣わせる。

源氏
お便りくださった、その後で、泣きぬれて、なかなか袖が乾きません。かえって、こちらから、愚痴を申し上げたい気持ちです。

いとしい思いを抱き別れた人なので、手紙を貰っては、ひとしお思い出すのだが、この頃は、そのような、行状は、慎んでおられる。
花散里などにも、ただ、手紙だけなので、心もとなく、帰京してからは、かえって、恨めしそうである。

嘆きつつ あかしのうらに 朝ぎりの たつやと人を おもひやるかな
この源氏の歌は、万葉調である。

嘆くあなたの吐息が、明石の浦に、朝霧となっているのではと、思われます。

女の五節とは、須磨で、歌を贈った、大弐の女である。

明石の段を、終わる。


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2009年12月25日

もののあわれ 455

アハレといえば、「気色」にせよ「けはひ」にせよ「さま」にせよ、その対象が現に存在している。場合によっては、対象は道端の行き倒れの人でもある。それを外から見ている。そこに生じてくる気持ちである。そして、対象を目で見ているだけではなく、基本的に対象に心の底の共感を抱いている。
源氏物語のもののあはれ 大野晋編著

あはれ、が、共感能力であるということを、突き止めた。

ということは、日本人は、共感能力に、長けていたということである。
それが、気色や、気配、そして、様に、至るまで、である。

つまり、あらゆるものに、共感したといえる。
実に、対象の数が、無限にあるのである。

そして、共感する心が、高まったときに、あはれ、という言葉が、でる。

共感能力とは、人間の進化の、最高、最大の、徳であろう。

それでは、あはれ、と、ものあはれ、とは、何かである。
そして、また、もののあはれ、ということは、何か、である。

モノは平安女流文学では軽い接頭語ではない。モノアハレのモノは、ケハヒアハレナリ、サマアハレナリのケハヒ、サマのように、アハレナリの題目・対象である。そして、モノにはきまり、運命、忘れがたい過去の事実、逃れがたく身を取り囲む状況、周囲の状態、という大きな意味がある。モノアハレにはそれがはっきり現れている。
源氏物語のもののあはれ

ものあはれ、という言葉の意味、内容を知るには、その前後の、文脈から、推察する。

そこはかとなくものあはれなるかな
では、もの、という言葉が、なんとなくと、感じる。しかし、その前後の文脈により、何をして、もの、というのかが、解る。

実はモノは長い文脈の展開を受けて、それを運命と見る、動かしがたい成り行きと見るということを表す言葉なのだ。その視覚の欠如からモノを「何となく」と受け取って済ませてきたのではなかろうか。
源氏物語のもののあはれ

視覚の欠如とは、鋭い指摘である。

何となく・・・というのは、日本人に、特有の、曖昧さ、たゆたふ、という言葉にある、心情である。
それで、また、私は納得する。
何となく、伝わる。
しかし、こと、明確にしようとすると、上記のようになる。

そして、もう一つに、もの、という言葉が、動かし難い、成り行きとして、展開する、季節のありようなどを、見る場合も、そのようである。

秋の夕のものあはれなるに
時雨うちしてものあはれなる暮れつ方
荒き風の音にも、すずろにものあはれなり
入り方の月の山の端近きほど、とどめ難くものあはれなり
雪うち降り、空のけしきもものあはれに

この季節を、見ると、おおよそ、秋から冬にかけてである。
自然の推移が、あはれ、として、共感を呼ぶのが、この季節のようである。

秋は、あはれ、まされり、などは、古今でも、新古今でも、詠われる。

人間には、動かし難いもの・・・
不可抗力なるものに、対して、あはれ、という、言葉が使われる。

そして、それが、一つの、心象風景を作り上げて、日本人の心の姿、心性というものが、出来上がるのである。

さて、もののあはれ、という、使い方である。
平安宮廷では、もののあはれ、という、観念が、確立していたのである。

もの の あはれ
の、とは、名詞と名詞の間に、入り、存在の場所、所属の場所を、確定する、助詞である。

もの、とは、動かし難い事であり、人知でも、その力でも、変更できない事柄である。

あはれ、とは、共感能力であり、すべての対象を見るときに、生かされる言葉である。

そして、底流に、人生、不可変のこと、である。
変えられない、運命。
それを、受け入れるしか、方法が無いことである。

どうしようもないことを、どのように、受け入れるのか。
これは、生きる人、皆が、人生のうちに、何度か、経験することである。

春はただ 花のひとへに 咲くばかり もののあはれは 秋ぞまされる
拾遺和歌集

もののあはれも何時かは知らせ給はん
栄花物語

もののあはれ、は、源氏物語以前では、一人前の人として、知っているものとしていた。
それは、人生の、不可抗力と、儚さ、である。

源氏物語では、それに、加えて、過去の記憶にあるもの、も、それなのである。

過ぎにしもののあはれ

過去となってしまった、忘れ難い、事実である。

をかしきことももののあはれも人柄にこそあべけれ
恋のあはれの深さも、その人柄によるものだ。

源氏物語以前の、もののあはれ、というものは、人の世の定めに限られていたという。

しかし、物語によって、男と女の、出会いと、別れにこそ、あるものとの、意思である。
物語は、すべて、男と女の、物語である。

源氏物語は、男と女が、出会い、別れる、話である。

そして、その、もののあはれ、に、季節の移ろいの、もののあはれ、というものを、織り込んで、更に、もののあはれ、という、風景を、深めている。

世界初の小説が、抜き差しならない、男女の関係に、焦点を定めているところが、普遍の意味を持つものとなった。

生きている限り、恋と、関わらない者は、いない。

この、もののあはれ、という、風景が、日本人の心情と、精神の、底流として、そして、文化へと、脈々と、生き続けることになる。

だが、これは、一つの、検証である。
もののあはれ、は、自由自在、そして、無限に広がり行く、日本人の、心象風景になってゆくのである。

私は、万葉集の、挽歌に、その底流を見る。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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