2008年12月21日

もののあわれ362

ほどほどにつけて、装束、人の有様、いみじく整へたりと見ゆる中にも、上達部はいと異なるを、一所の御光にはおしけたれためり。大将の御仮りの随身に、殿上の丞などのすることは、常のことにもあらず、珍しき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の蔵人の丞仕うまつれり。さらぬ御随身どもも、かたち姿まばゆく整へて、世にもてかしづかれ給へるさま、木草も靡かぬはあるまじげなり。



行列の人々は、身分に応じて、装束や、供廻りを立派に、整えている。その中でも、上達部は、際立つのであるが、お一方の、輝く美しさには、圧倒されていた。
大将、つまり、源氏の、一日だけの、随身として、殿上人である、丞などが、供奉することは、普通のことではなく、特別の、行幸の時のことであるが、今日は、右近の蔵人の丞が、お仕えしている。
その他の、御随身たちも、顔、身なりも、整えて、このようにして、世の人々から、大切にされているという様には、草木も、靡かないものはないと、思われる。

源氏の称賛である。

殿上の丞
近衛将監で、昇殿を許された者である。





壷装束などいふ姿にて、女房のいやしからぬや、又尼などの世を背きけるなども、倒れまろびつつ、物見に出でたるも、例は、「あながちなりや。あなにくし」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪著こめたるあやしの者どもの、手を作りて、額に当てつつ見奉りあげたるも、をこがまし。あさましげなるしづのをまで、おのが顔のならむ様をば知らで、えみ栄えたり。何とも見入れ給ふまじきえせ受領のむすめなどさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、様ことさらび、心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの物見なりける。



壷装束などという、姿で、女達の賎しいものや、また、尼などで、世間を捨てた者なども、人波に倒れ、転ぶように、よろめきつつ、物見に来ている。
いつもなら、でしゃばり過ぎるとか、憎らしいことと、思われるが、今日は、皆、無理もないと思うのである。
口がすぼんで、髪を、うちぎに、着込んでいる、賎しい身分の者達が、手を合わせて、額にあてつつ、行列を見上げているのも、滑稽である。
酷く、身分の低い男までが、自分の顔が、どんなものかを知らずに、顔いっぱいに、笑みをたたえている。
君の方は、全然、お目を止められるはずもない、国司の娘などまでもが、思い切り飾り立てた、車に乗り、わざとらしく、何かと、思われないかと、澄ましているのは、それぞれに、興味深い見物である。





まして、ここかしこにうち忍びて通ひ給ふ所々は、人知れずのみ、数ならぬ嘆きまさるも多かり。式部卿の宮、桟敷にてぞ見給ひける。「いとまばゆきまでねび行く人のかたちかな。袖などは目もこそとめ給へ」と、ゆゆしくおぼしたり。姫君は、年頃聞えわたり給ふ御心ばへの世の人に似ぬを、「なのめならむにてだにあり。ましてかうしもいかで」と、御心とまりけり。いとど近くて見えむまではおぼしよらず。若き人人は、聞きにくきまでめで聞えあへり。




まして、こんなもの以上に、忍んで、通われる先の、方々は、我が身の、数ならぬ思いを知り、人知れず、嘆く者も、多い。
式部卿の宮は、桟敷の方で、御覧になっていた。
真に、眩いばかりになってゆかれる、ご器量だ。神なども、目をつけるかもしれないと、不気味に思われた。
姫君は、長年、お手紙を差し上げ続ける、源氏の愛情は、普通の人と違い、並々の人でさえ、これ以上の愛情なら、心引かれるものを、こんなに美しくあれば、と、お心が、動いた。
しかし、今以上に、打ち解けて、逢うようなことは、考えない。
若い女房達は、聞き苦しいまでに、口々に、源氏の姿を、誉めそやすのである。

式部卿
源氏の父の、弟宮。
姫君とは、その宮の姫であり、朝顔の君と、言われる。




祭の日は大殿には物見給はず。大将の君、かの御車の所争ひを、まねび聞ゆる人ありければ、「いといとほしう、憂し」とおぼして、「なほ、あたら、重りかにおはする人の、物に情遅れ、すくずくしき所つき給へるあまりに、自らはさしも思さざりけめども、かかるなからひは、情かはすべきものともおぼいたらぬ御掟に従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし。御息所は、心ばせのいと恥づかしく由ありておはするものを、いかにおぼしうんじにけむ」と、いとほしくて、まうで給へりけれど、斎宮のまだ本の宮におはしませば、榊の憚りにことづけて、心安くも対面し給はず。ことわりとはおぼしながら、「なぞや。かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶれやかれ給ふ。




祭りの当日は、大臣家では、見物をしない。
大将の君は、あの、車争いを、ちくいち申し上げる人があり、実に気の毒なこと、困ったことだと、思い、やはり、惜しいことに、重々しくしている姫であるから、物事に、情けが乏しく、無愛想なところがあるため、自分では、それ程にと思っていないが、こういう、間柄の関係は、お互いに、同情しあうべきものだとも、思わない。そういう性格で、次々と、不心得な者がさせた結果だろう。
御息所は、心遣いが、立派で、上品であるが、どんなに、嫌な思いをされたただろうと、気の毒に思い、御息所に伺われたが、斎宮が、まだ、本の御殿にお出でになるので、榊への、憚りを口実にして、簡単に、対面されないのである。
無理もないと、思いつつ、なんとしたことか、お互いに、角突き合わせないで、欲しいものだと、独り言が出るのである。

本の宮
御息所の邸である。

車争いの話を聞いて、源氏が、訪ねるが、まだ、邸には、戻っていないのである。
それは、無理もないことだと、源氏は、思う。

正妻と、愛人の、争いである。



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2008年12月22日

もののあわれ363

今日は、二条の院に離れおはして、祭見に出で給ふ。西の対に渡り給ひて、惟光に車のこと仰せたり。源氏「女房、出で立つや」と宣ひて、姫君のいと美しげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見奉り給ふ。源氏「君は、いざ給へ。もろともに見むよ」とて、御髪の常よりも清らに見ゆるを、かき撫で給ひて、源氏「久しうそぎ給はざめるを、今日はよき日ならむかし」とて、暦の博士召して、時間はせなどし給ふ程に、源氏「先づ女房でね」とて、童の姿どもの、をかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかにそぎわたして、浮紋の表の袴にかかれる程、けざやかにみ。源氏「君の御髪は、我そがむ」と、そぎわづらひ給ふ。源氏「いと長き人も、額髪は少し短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情なからむ」とて、そぎ果てて、源氏「千尋」と、祝ひ聞え給ふを、少納言、「あはれにかたじけなし」と、見奉る。




今日、源氏は、二条の院の、離れにおいでになり、祭り見物に、出掛ける。
西の対に、渡りになり、惟光に、車の用意を命じた。
源氏は、女房たちは、出掛けますよ、と、仰り、姫君の、とても可愛いげに着飾るのを、微笑んで、御覧になる。
源氏は、姫君に、さあ、いらっしゃい。一緒に見ようと、言い、いつもより、美しく見える髪を撫でた。
源氏は、長い間、髪を切っていないようだが、今日は吉日だろうと、暦博士を呼ばれ、時の良し悪しを、調べさせる。
その間に、源氏は、まず、女房たちが、出なさいと、童女たちの、美しい姿を、御覧になる。
とても可愛らしい髪のすそを、誰も彼も、華やかに切り揃えて、浮紋の表の袴に、垂れている具合が、くっきりと、鮮やかに見える。
源氏は、姫君に、あなたの、御髪は、私が切ろうと、言う。
そして、随分と沢山だ。これからも、どんどんと、伸びてゆくのだろう、と、切りにくい様子である。
酷く長い人でも、額の髪は、少し短い様子。全く後れ毛のないのは、あまり風情が無いと、仰りつつも、源氏が、切り終わる。
千尋までも、と、源氏が、お祝いを、申し上げるのを、少納言は、しみじみと、嬉しく、もったいないことと、拝する。

少納言とは、姫君、紫の君の、付き人である。




源氏
はかりなき 千尋の底の 海松ぶさの 生ひゆく末は 我のみぞ見む

はかりなき ちひろのそこの みるぶさの おひゆくすえは われのみぞみむ

と、聞え給へば、

姫君
千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ちひる潮の のどけからぬに

と物に書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、「めでたし」と、おぼす。





源氏
計り知れない、千尋もある、海の底の、海松房、みるぶさ、のように、ふさふさとした、あなたの髪が伸びてゆく。
と、申し上げると、

姫君
海の深さが、千尋もあると、どうして、お解りですか。定めなく、満ちたり、退いたりする潮は、あなたを、じっと見ているかもしれません。
と、紙に書き付けている様子は、器用である。が、子供ぽく、美しいので、源氏は、可愛らしいと、思うのである。




今日も、所なく立ちにけり。馬場のおとどの程に、立てわづらひて、上達部の車ども多くて、源氏「物騒がしげなるわたりかな」と、やすらひ給ふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、女車「ここにやは立たせ給はぬ。所さり聞えたり。「いかなるすきものならむ」と、おぼされて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせ給ひて、源氏「いかで得給へる所ぞ、と、ねたさになむ」と、宣へば、由ある扇のつまを折りて、

女車
はかなしや 人のかざせる あふひゆえ 神の許しの けふを待ちける

注連の内には」とある手をおぼしいづれば、かの内侍のすけなりけり。あさましう、「ふりがたくも今めくかな」と、にくさに、はしたなう、

源氏
かざしける 心ぞあだに おもほゆる 八十氏人に なべてあふひを
かざしける こころぞあだに おもほゆる やそうぢびとに なべてあふひを

女は、「つらし」と、思ひ聞えけり。

典侍
くやしくも かざしけるかな 名のみして 人だのめなる 草葉ばかりを

と、聞ゆ。



今日も、物見の、車が、隙間無く、立て込んでいる。
馬場の、大殿の辺りで、車の立て場に困り、上達部たちの車が多くて、騒がしいものだと、源氏が言い、躊躇っていると、相当な女車で、沢山乗り込んでいる間から、扇を差し出して、君の、車の御供を呼び寄せる。
ここにお立ちになりませんか。場所を差し上げましょうと、女車からの声である。
源氏は、どんな物好きかと、思う。
場所も、程よい所なので、車を引き寄せる。
源氏は、こんなに良い所を、どして取られたのかと、羨ましいと、言うと、風流な扇の端を折って、

女車
はかないことです。すでに、外の人が、かざしている葵とは、知りませんでした。神の許す、今日の日を、待っていたとは。

注連縄の内には、とても、入れませんと、書いてある、筆跡を見て、源氏は、思いだした。
あの、典侍である。
呆れたことだ。年甲斐も無く、若い気でいると、憎らしくなり、素っ気無く、

源氏
私だけはなく、沢山の人に逢うつもりで、葵をかざしていた。その浮気な心は、当てにならないでしょう。

女は、恨めしいと思い、申し上げる。

典侍
葵、逢う日という名だけで、人に、空頼みさせる、草葉に過ぎないものを、悔しいことです。信じきり、かざしていたなんて。
と、申し上げる。



人とあひ乗りて、簾をだに上げ給はぬを、心やましう思ふ人多かり。「一日の御有様のうるはしかりしに、今日はうち乱れてありき給ふかし。誰ならむ。乗り並ぶ人けしうはあらじはや」と、おしはかり聞ゆ。
「いどましからぬかざし争ひかな」と、さうざうしくおぼせど、かやうにいとおもなからぬ人、はた、人あひ乗り給へるにつつまれて、はかなき御いらへも、心安く聞えむも、まばゆしかし。



誰かと、相乗りして、御簾をさえ上げないことを、妬ましく思う人が多い。
先日の、ご様子が、威儀正しいものだったのに、今日は、気楽に、お出歩きされる。誰だろうか。並んで乗っている人は、不美人ではあるまい、と、典侍は、推察するのである。
張り合いの無い、言い合いだと、物足りなく思うが、このような、厚かましく言わないのは、やはり、誰か、相乗りして、憚られるので、ちょっとした、返答も、気安く言うのは、きまり悪いに違いないと、典侍は、思う。

物語の、どうでもいい、話だが、話のツマとしては、面白い。

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2008年12月23日

もののあわれ364

御息所は、物をおぼし乱るること、年頃よりも多く添ひにけり。つらき方に思ひ果て給へど、今はとてふり離れ下り給ひなむは、いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむ事とおぼす。さりとて、立ち止まるべくおぼしなるには、かくこよなきさまに、皆思ひくたすべかめるも安からず。「釣するあまのうけなれや」と、起き臥しおぼしわづらふけにや、御ここちも浮きたるやうにおぼされて、悩ましうし給ふ。




御息所は、あれこれと、物思いすることが、いつもより、多くなった。
つらき方に思ひ果て給へど、君の、仕打ちは、実につれないものだったと、今は、諦めて、もうこれっきりと、伊勢へ下るというのは、心細いことだし、世間の物笑いの種になると、思う。
しかし、都に、居残るという気持ちになるとしては、こんな酷いほど、誰もが、馬鹿にしているような気もするのである。
私は、漁師が釣りをする時の、ウキのように、心が揺れ動くと、寝ても醒めても、思案に暮れる。そして、気持ちが、どこかに浮いているような、気分で、具合が悪いのである。

釣するあまのうけなれや
古今集
伊勢の海に つりするあまの うけなれや 心一つを 定めかねつる
うけ、は、ウキのことである。
揺れ動く、ウキである。



大将には、下り給はむ事を、「もて離れて、あるまじき事」など防げ聞え給はず。源氏「数ならぬ身を、見まうくおぼし捨てむもことわりなれど、今はなほ言ふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」と、聞えかかづらひ給へば、「定めかね給へる御心もや慰む」と、立ち出で給へりし御禊河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂くおぼしいれたり。




大将、つまり、源氏は、伊勢に下るということを、構いもせずに、それを止めることもしないで、人並みではない私を、見るのも嫌だと、見棄てるのも、もっともなこと。
今になっては、つまらぬ私でも、見限らないでいてくださるのが、浅からぬ愛情でしょうと、言いにくいような、言い様である。
決断のつかなかった、心も、紛れるかもしれないと、お出でになった、御みそぎの日の、荒々しい事件のため、いっそう、何事も、恨めしく思うのであった。



大殿には、御物の怪めきていたう患ひ給へば、誰も誰もおぼし嘆くに、御ありきなどびんなき頃なれば、二条の院にも時々ぞ渡り給ふ。さはいへど、やむごとなき方は異に思ひ聞え給へる人の、珍しき事さへ添ひ給へる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、我が御方にて多く行はせ給ふ。




大臣家では、物の怪らしく、酷い苦しみの様子である。
どなたも、どなたも、心痛している折り、君も、忍び歩きなど悪いことであると、二条の院にも、たまに、お越しになるだけである。
何と言っても、大切にするということでは、格別に思っている方が、おめでたまで、加わっているのに、尋常ではない様子。
君は、どうなるのかと、心配になり、ご祈祷や、何やかにと、ご自分の部屋で、色々と行わせる。



物の怪、生霊などいふもの多く出で来て、さまざまの名のりする中に、人にさらに移らず、ただ自らの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはし聞ゆる事もなけれど、又片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもに従はず、しうねき気色、「おぼろげの物にあらず」と見えたり。大将の君の御通ひ所、「ここかしこ」とおぼしあつるに、「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまにはおぼしたらざめれば、恨みの心も深からめ」と、ささめきて、物など問はせ給へど、さして聞えあつることもなし。



物の怪、生霊、いきりょう、などというものが、沢山出てきて、色々と名乗り出る中に、霊媒の口から、どうして、名乗らずに、ただ、体に、じっと憑いたモノがある。
特別に、酷く苦しめることはないが、それではと、思うと、少しの間も、離れる時、とてつもないものが、一つある。
優れた、験者、げんざ、たちの、祈祷も、効かず、しつこい様子は、一通りのモノではないと、思われた。
大将の君の、恋人達を、一人一人考えて、周囲の人は、御息所と、二条の君は、並々の気持ちではないので、姫君への、恨みも、強いでしょうと、囁き合うので、占い師に、尋ねさせるが、これぞと、申し当てることもない。

二条の君とは、若紫、若草の君である。

名のりする
よりまし、と言い、童女などに、霊を懸らせて、霊に問うのである。


物の怪とても、わざと深き御敵と聞ゆるもなし。すぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただつくづくと音をのみ泣き給ひて、折々は胸をせきあげつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをし給へば、「いかにおはすべきにか」と、ゆゆしう、悲しく思しあわてたり。




物の怪といっても、格別に深い敵と、名乗り出ることはない。
亡くなった、乳母のような人とか、姫君の、親の家系の方の、代々の死霊が、弱みに付け込んで、来たのなど、主に、祟るのは、ばらばらに、出て来る。
姫君は、ただ、さめざめと、声を上げて、泣くばかりである。
時々、胸を詰まらせ、とても辛そうに、苦しみ、どうなるのか、と、不安でもあり、悲しくもあり、源氏は、狼狽した。



院よりも御とぶらひ暇なく、御祈りのことまで思し寄らせ給ふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。



桐壺院からも、お見舞いが、しきりにあり、ご祈祷のことなど、お心に掛けてくださるのも、もったいなく、このまま、亡くなるのではと、いっそう、惜しく思われる、姫君の、御身である。

桐壺院は、上皇であり、源氏の父。


世の中あまねく惜しみ聞ゆるを聞き給ふにも、御息所はただならず思さる。年頃は、いとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。



世の中が、あまねく、命を惜しむのを、聞かれるにつけても、御息所は、妬ましくてならない。
これまでは、これほどまででなかったのだが、競争心が、あの、車争いのために、恨みの念に変わったのを、左大臣の邸では、それほどまでとは、考えなかったのである。


いと かくしも あらざりし 御いどみ 心を
これほどまでとは、思わなかった、対抗心である。

はかなかりし 所の 車争ひに
ふっとしたはずみの、所での、車争い、である。

それが、御息所の、心を苦しめ、更には、生霊として、姫君に、憑依するという、状態になるのである。
だが、御息所も、自分が、そうしていることを、知らない。

霊学から、見れば、十分に有り得ることである。
死霊よりも、生霊の方が、激しい力を持つ。

両者共に、まだ、御息所の、生霊だとは、知らないのである。


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2008年12月24日

もののあわれ365

かかる御物思ひの乱れに、御心地なほ、例ならずのみおぼさるれば、ほかに渡り給ひて、御修法などさせ給ふ。大将殿聞き給ひて、「いかなる御ここちにか」と、いとほしう、おぼし起して渡り給へり。



御息所は、物思いに、沈み、気分がすぐれずにいる。
住まいを変えて、祈祷などさせている。
大将、つまり、源氏は、それを聞いて、どういう容態かと、愛しく思い、進まぬ気持ちであるが、お出かけになった。

おぼし起こして渡り
何とか、力を出して、出掛けた、のである。

御息所の、悩みは、源氏の正妻への、嫉妬心である。
それに、煩悶しているのである。





例ならぬ旅所なれば、いたう忍び給ふ。心よりほかなる怠りなど、罪許されぬべく聞え続け給ふ。源氏「自らはさしも思ひ入れ侍らねど、親達のいとことごとしう思ひ惑はるるが心苦しさに、かかる程を見過ぐさむとてなむ。よろづを思しのどめたる御心ならば、いと嬉しうなむ」など、語らひ聞え給ふ。常よりも心苦しげなる御気色を、ことわりに、あはれに見奉り給ふ。




いつもと、違う仮の住まいなので、君は、忍びで、行かれる。
心ならぬ、ご無沙汰であるから、その、罪も許されるようにと、うまくお詫びの言葉を言うのである。
正妻の病状などにも、困っている旨を言う。
私は、それほどに、深く案じていませんが、親たちが、大変ご心配しているのが、気の毒です。こういう時は、傍についていようと思い、つい、ご無沙汰してしまいました。と、源氏が言う。
御息所も、いつもより、痛々しい様子を、気の毒と思い、お見舞いを申し上げる。

旅所
いつもと、違う場所に出掛ける時に、使う、言い方。





うちとけぬ朝ぼらけに出で給ふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむ事は、おぼしかへさる。やむごとなき方に、いとど志添ひ給ふべき事も出で来にたれば、一つ方におぼししづまり給ひなむを、かやうに待ち聞えつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと、なかなか物思ひの驚かさるるここちし給ふに、御文ばかりぞ暮れつ方ある。
源氏文
日頃少しおこたるさまなりつるここちの、にはかにいといたう苦しげに侍るを、え引きよがでなむ
とあるを、例のことつけと見給ふものから、

御息所
袖ぬるる 恋路とかつは 知りながら おりたつ田子の みづからぞ憂き

山の井の水もことわりに」とぞある。御手は「なほここらの人の中にはすぐれたりかし」と見給ひつつ、「いかにぞやある世かな。心もかたちも、とりどりに捨つベくもなく、又思ひ定むべきもなきを」苦しうおぼさる。御返り、いと暗うなりにたれど、
源氏
袖のみ濡るるやいかに。深からぬ御ことになむ。
あさみにや 人はおりたつ 我が方は 身もそぼつまで 深き恋路を

おぼろげにてや、この御返りを自ら聞えさせぬ」などあり。




互いに、打ち解けぬままに、夜を明かした。
朝早く、帰る、その姿の美しさを見て、やはり、振り捨てて、遠くに行くことは、出来ないと、思い直す。
身分の高い方、つまり、源氏の正妻に、いっそう愛情が勝る、出産を控えて、本来なら、そちらに、心を落ち着けるべきだろうに、このように、お出でを待つというのは、気がもめることだと、御息所は、新たに、物思いにふけるのである。
そんな夕方、お手紙が届いた。

源氏
この頃、少しよかった病人の気分が、急に酷くなり、苦しそうです。手を施しかねています。

と、あるのを、いつものことと、思いつつも、お返しは、

御息所
物思いに、袖の濡れる、恋の道とは、知りながら、その泥沼に、自ら入るという、我が身が、辛く思います。

山の井の水のように、浅い愛情の方には、涙で袖が濡れるばかりとのことは、本当でした、と、書いてある。
筆跡は、矢張り、多くの人の中でも、優れていると、思いつつ見るのである。
一生の相手は、見つからないものだ。心も、姿も、それぞれであり、問題にならないものはなく、さればとて、この人こそと、思い定めるものもないと、苦しく、源氏は、思う。
お返しは、日も暗くなってから、

源氏
袖だけが、濡れるというのは、どういうことでしょう。お心が、深くないからです。

浅いところに、あなたは、下りているのでしょうか。私の方は、全身濡れるほど、深い恋路の泥沼の中にいます。

この返事を、そちらに出向いて、申し上げないのを、よほどのことと、思ってください、などと、書いてある。


山の井の水
悔しくぞ 汲みそめてける 浅ければ 袖のみぬるる 山の井の水
山の井の水は、浅いので、汲んでも、袖を濡らすばかり。
その、山の井の水のように、底の浅い相手の心の、あり様も確かめずに、たまたまに、出会ってしまったことが、悔やまれて、涙で、袖が濡れるばかりだ。

源氏の思いと、御息所の、思いが、噛み合わない。
嫉妬に、迷える女の心に、源氏は、一種の諦めを、御息所は、源氏の帰る、後姿に、執着を、感じるのである。

いつの世も、男と女は、こうして、演じてきたのである。
一夫一婦制という、結婚生活でも、女と男の、やり取りは、変わりなくある。

この、揺れ動く、心の綾もまた、もののあはれ、なのである。

そして、更に、その、もののあはれ、に、身を任せるという男と女の姿に、作者は、共感する。
つまり、男と女は、そういうものであるという、諦観である。

これを、迷いであるとして、そこから、逃れる道を、捜し求めているのではない。その、風景の中に、身を入れるしか、生きる方法が無いというのである。
更に、紫式部は、それで、良いとしている。

だから、こそ、紫式部は、延々と、物語を書き続けた。
それは、終わらない物語なのである。
人の一生が、書かれるが、また、次の人も、同じようにして、生きるのであり、この物語は、延々として、未来永劫続く物語なのである。

それを、もののあはれ、として、描くのである。
そして、人は、この、もののあはれ、から、逃れることはない。
もののあはれ、を、生きることで、生きているのである。

そこに、生きることのすべが、内包されてあるのだから、何も、それから、逃れるとか、捨てるとか、考えなくてもよいのである。
人間とは、そういう者である。
人生とは、生きてきた人の、生き方の、繰り返しなのである。


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2008年12月25日

もののあわれ 366

大殿には、御物の怪いたう起りて、いみじう患らひ給ふ。「この御生霊、故父大臣の御霊などいふものあり」と、聞き給ふにつけて、思し続くれば、物思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ」とおぼし知らるる事もあり。年頃、よろづに思ひ残す事なく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなき事の折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりしみそぎの後、ひとふしに思し浮かれにし心、しづまり難うおぼさるるけにや、少しうちまどろみ給ふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いち清らにてある所にいきて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出できて、うちかなぐるなど見え給ふこと、度重なりにけり。




おほい殿には、御物の怪が、沢山現れて、病状が酷く悪いのである。
つまり、葵の上のことである。
御息所は、この人の生霊だの、つまり、御息所の生霊だの、故父大臣の御霊だという者がいると、聞いて、色々と考えてみるに、物思いに、あくがるなる魂は、と、我が身の不運を嘆く以外に、人を不幸にすると、思う気持ちは無いが、物思いのゆえに、体から、さ迷い出るという魂は、そういうこともあるものだと、思い当たる節がある。
年頃、御息所は、この何年間の間、あらゆる物思いを、過してきた。
しかし、これほどまでに、気持ちが、揺れることはなかった。
それなのに、あの、些細な、車争いのことで、あの人、葵の上が、自分を物とも思わず、無視する態度であったこと、その、みぞきの日以来、不安定な気持ちが、更に、激しくなり、なかなか落ち着くことなく、少し、うとうとするときの、夢などに、あの姫君、葵の上と、思われる人が、たいそう清潔にしている所へ自分が、出向いて、あれこれと、引っ張りまわし、普段とは、全く違い、恐ろしく、荒々しい気持ちで、乱暴に、揺さぶったりするのを、幾度も、見ている心地がするのである。





「あな心憂や。げに身を捨ててやいにけむ」と、うつし故頃ならず覚え給ふ折々もあれば、さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、「ましてこれはいとよう言ひなしつべきたよりなり」とおぼすに、いと名だたしう、「ひたすら世になくなりて後に恨み残すは、世の常の事なり。それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつの我が身ながら、さるうとましき事を言ひつけらるる、すくせの憂きこと。すべてつれなき人にいかで心もかけ聞えじ」とおぼしかへせど、思ふも物をなり。




ああ、嫌なことである。
なるほどに、やはり、魂が、抜けて、葵の上の、所に出ていったのだろうか。
自分の心を、生気でないと、思うことが、幾度もあったので、それほどのことでなくても、身分ある人に関しては、世間というものは、良いことを言わないものである。
まして、このことが、私の、仕業だと、噂を立てられるのは、格好のことである。
そう思うと、今にも、それが、広まるような気持ちになる。
御息所は、ひたすら、一途に、この世を去った後に、怨みを残すことは、よくあること。
それでさえ、人事としても、そのような、いとわしいことを、噂されるのは、我が身の、前世の、定められた、運命の辛いこと。
もう一切、つれない、あの方、源氏の君に、どうかして、思いをかけないように、なりたいものだと、決心するのであるが、思うまいと、思うことも、思っている証拠なのである。

最後の、箇所は、作者の考えである。
思ふもものを、なり
と、付け加える。
思はじと 思ふも物を 思ふなり
思うことを、やめようと思うことも、思っていることだ、と、当時の、流行の歌詠みの、一節である。




斎宮は、こぞうちに入り給ふべかりしを、さまざまさはることありて、この秋入り給ふ。九月には、やがて野の宮にうつろひ給ふべければ、再び御祓へのいそぎ、取り重ねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくとふし悩み給ふを、宮人いみじき大事にて、御祈りなどさまざまつかうまつる。おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐし給ふ。大将殿も、常にとぶらひ聞え給へど、まさる方のいたう患ひ給へば、御心のいとまなげなり。



斎宮は、昨年、御所にお入りになる予定だったが、色々な、差しさわりがあり、この秋に、入られる。
九月には、すぐに、野の宮に、移られるはずであるから、二度目の、みそぎの、準備が、重ねてあるべきだったが、御息所は、ぼんやりとして、寝込んで、苦しんでいるために、斎宮の、仕え人は、重大事として、祈祷などを、執り行うのである。
重態というわけではないが、どことなく、不調のままに、月日を過す。
大将殿、つまり、源氏も、お見舞い申し上げるが、それより、いっそう大事な方が、重く患っているのであるから、心の、休まる暇も無いのである。


少し、霊学から、説明する。
文学として、理解する場合は、御息所の、異常心理ということで、済ませているが、それ以外の、解釈の仕様が無いのである。

死霊、生霊というものが、有る、存在するものとして、個々で扱う。

生霊とは、肉体から、霊体が、抜け出て、相手に、関わることである。
それは、良い場合のこともあり、悪い場合のこともある。

良いというのは、恋愛などで、相手を思うあまりに、生霊が、憑くということである。その場合も、両者に、不調が、起こる。
ただし、恋愛成就すると、それは、収まる。

しかし、怨み、辛みの場合は、困難が伴う。両者共に、不調に陥る。
人を、呪はば穴二つという、諺は、そういう意味である。

怨み、呪いの思いが、霊と、なって相手方に、憑依するのである。
すると、憑依された者は、原因不明の、不調を起こし、具合が悪く、吐いたり、下痢をしたの、果ては、精神不安定に陥る。
一方、憑依した方も、同じように、不調に陥るのである。

例えば、憑依され方が、霊的に、強い体質、つまり、跳ね返す力が、強い場合は、相手方、憑依した者が、更に、苦しむということもある。

そして、憑依した者が、自分が、憑依していると、気づかないことが、多い。
嫉妬の感情の場合などが、そうである。

清め祓いという、日本の伝統行為には、そのようなことに、対処する方法も、ある。
言霊による、祓い清めである。

それは、職業神主にお願いすることはない。
自分で、出来ることである。

古神道の、方法は、それぞれの、地域に伝統行事として、残り、村の主などが、それを、行った。また、今でも、行っている地域もある。

平安期は、主に、加持祈祷によるものが多かった。
それは、宮中においてなされた。

また、このことに、触れることになると、思う。

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2008年12月26日

もののあわれ 367

まださるべき程にもあらずと、皆人もたゆみ給へるに、にはかに御気色ありて、悩み給へば、いとどしき御祈り数を尽くしてせさせ給へれど、例のしうねき御物の怪ひとつさらに動かず。やむごとなき験者ども、「珍らかなり」ともて悩む。さすがにいみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、姫「少しゆるべ給へや。大将に聞ゆべき事あり」と宣ふ。人々「さればよ。あるやうあらむ」とて、近き御凡帳のもとに入れ奉りたり。むげに限りさまにものし給ふを、「聞え置かまほしき事もおはするにや」とて、おとども宮も少し退き給へり。加持の僧ども声しづめて、法華経を読みたる、いみじう尊し。




まだ、お産には時間があると、誰もが、心緩んでいる時、急に、お産の兆候があり、苦しまれる。
いっそうの、力を込めた、祈祷を大臣家では、させるのである。
しかし、例の、しつこい物の怪は、全然、動かない。
優れた修験者たちも、珍しいことだと、もてあます。
だが、物の怪の方も、さすがに調伏されて、痛々しいほどに、酷く泣き苦しみ、姫の口から、少し、緩めてください。大将に申し上げたいことがありますと、言う。
やはり、何か、訳があるのだ、と、女房達が、思う。
近くの、凡帳の中に、源氏を入れる。
葵の上は、臨終のような様である。
源氏に、申し上げておきたいことがあるのだろうと、左大臣も、母宮も、少し下がっている。
加持の僧たちが、声を低くして、法華経を読むのは、たいそう、貴い感じがする。


生霊が、葵の口を借りて、喋るのである。



御凡帳の帷子引き上げて見奉り給へば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥し給へるさま、よそ人だに見奉らむに心乱れぬべし。まして惜しう悲しうおぼす、ことわりなり。白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添へたるも、「飼うてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」と見ゆ。



源氏は、凡帳の帷子を、引き上げて、葵の上を、見る。
大変美しく、御腹が、高く出て、横になっている様は、他人でさえ、見れば、痛ましくて、心乱れるだろう。
まして、夫である、源氏は、この人を失うのかと、惜しく、悲しいことと、思うのは、もっともな事である。
葵の上は、白いお召し物に、色合いが、華やかな様子で、御髪の、たいそう長いのを、たっぷりと、結んである様に、源氏は、このようであってこそ、可憐で、たおやかな美しさがあって、素晴らしいと、思う。



御手をとらへて、源氏「あないみじ。心憂き目を見せ給ふかな」とて、物もえ聞え給はず泣き給へば、例はいとわづらはしくはづかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもり聞え給ふに、涙のこぼるるさまを見給ふは、いかがあはれの浅からむ。



源氏は、葵の上の、手を取り、ああ、なんと悲しいことだろう。私に、辛い思いをさせるのですね、と、仰り、あとは、何も言わずに、ただ、泣くのである。
葵の上は、いつも、気まずく、こちらが、恥ずかしくなるほどの、美しい眼差しを、今は、たいそう、だるそうに、見上げる。
源氏を、じっと、見詰めて、涙を流す。
その様子を、見る、源氏は、いかがあはれの浅からむ、とは、作者の言葉である。どうして、あはれの、心が、浅いことがあろうか、である。




あまりいたう泣き給へば、「心苦しき親達をおぼし、またかく見給ふにつけて、口惜しう覚え給ふにや」とおぼして源氏「何事もいとかうなおぼし入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも必ず逢ふせあなれば、対面はありなむ。大臣宮なども、深き契りある中は、めぐりても絶えざなれば、あひ見る程ありなむとおえぼせ」となぐさめ給ふに、姫「いであらずや。身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと聞えむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬわ、物思ふ人の魂は、下にあくがるるものになむありける」と、なつかしげに言ひて、


嘆きわび 空に乱るる 我がたまを 結びとどめよ したがひのつま

と宣ふ声、気配、その人にもあらず変り給へり。「いとあやし」とおぼしめぐらすに、ただかの御息所なりけり。




葵の上が、あまり、激しく泣くので、源氏は、葵の上が、気の毒な、両親のことを、思い、また、このような、源氏と我が身の関係を、見るにつけても、残念に思っているのではと、何事も、そんなに酷く思いつめることは、ありません。たとえ、どうなろうと、必ず逢うべき縁のある者、きっと、対面するはずですと、大臣、母宮なども、深い縁で、結ばれているのだから、生まれ変っても、縁は、切れない、また、逢えると、おもって下さいと、慰めると、いえ、そうではありません、私が苦しいので、少し祈祷を、休ませて下さいと、申し上げるためですと、言う。
更に、続けて、葵の上の口から、ここに、こうして、参上しようと思ってはいませんが、物思いする人の魂は、なるほど、体から、さ迷い出るものです、と、懐かしく言うのである。


嘆きのあまりに、空にさ迷い出て、迷う私の魂を、したがいのつま、下前の、褄、着物の裾である、その裾を、結んで、元に戻してください。

と言う。
その気配、雰囲気は、葵の上ではなく、変わっている。
いとあやし、と、源氏は、色々と、考える。
その声や、様子は、まさに、御息所である。


あさましう、人のとかく言ふを、「よからぬ者どもの言ひ出づる事と、聞きにくくおぼして宣ひけつを、目に見す見す、世にはかかる事こそありけれ」と、うとましうなりぬ。「あな心憂」とおぼされて、源氏「かく宣へど誰とこそ知らね。確かに宣へ」と、宣へば、ただそれなる御有様に、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたうおぼさる。




驚くべき、ことである。
人が、御息所の、生霊などと、あれこれ言うのを、つまらぬことを、と、思っていた。
源氏は、それを、不快に思い、否定していた。
しかし、目の前に、それを、見て、世の中には、こんなことがあるのかと、不気味に思うのである。
あな心憂、と、思う。
源氏は、そう仰るが、誰なのかが、解りません。はっきりと、名を仰ってくださいと、言うと、全く、御息所の様子であり、あさましとは世の常なり、驚愕するのである。
女房達が、近くに来るのも、きわりが悪いと、思われるのである。


葵の上の、口から、出た言葉は、御息所が話す言葉であった。
文学では、これを、解決出来ない。
葵の上の、潜在意識のゆえである。それは、御息所に対する気持ちが、そうさせる。という、解説が、限界である。

紫式部は、当時、このような、状態を、多々見たはずである。
生霊が、懸って、その人の口から、話し出すという状態である。

これは、死霊の場合もある。

人には、まだ解決出来ない、不思議な世界が、あるのである。

当時の人は、より、自然に近い暮らしをしている。
顕在意識も、潜在意識も、導通することが、多くあったはずである。

潜在意識は、草木にまでも、通じる意識であり、勿論、人の心にも、通じるのである。
生霊とは、人の潜在意識のあり様である。


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2008年12月27日

もののあわれ 368

少し御声もしづまり給へれば、「ひまおはするにや」とて、宮の御湯もて寄せ給へるに、かきおこされ給ひて、程なく生まれ給ひぬ。「嬉し」とおぼすこと限りなきに、人にかり移し給へる御物の怪ども、ねたがり惑ふ気配いと物騒しうて、後の事又いと心もとなし。




少し、お声も収まり、葵の上は、よいときも、ありますと言う。
母宮が、薬湯を傍に持ってきて、女房に抱き起こされ、間も無く、お生まれになった。
どなたも、嬉しいと、思うことは、この上もないが、霊媒、よりまし、に、乗り移った、物の怪どもが、口惜しいと、うろたえて騒ぐ様子は、大変に騒がしく、後産のことが、また、気がかりである。

人にかり移し給へる御物の怪
霊媒に、移させた、物の怪である。




言ふ限りなき願ども立てさせ給ふけにや、たひらかに事成り果てぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ急ぎまかでぬ。多くの人の心を尽くしたる日頃の名残少しうちやすみて、「今はさりとも」とおぼす。御修法などは、またまた始め添へさせ給へど、先づは、興あり珍しき御かしづきに、皆人ゆるべり。



言い尽くせないほど、色々な願を立てたせいか、無事に後産も終わり、比叡山の座主や、名のある尊い僧たちは、得意げに、汗をふきつつ、急ぎ退出した。
多くの人が、心を砕いて、看病した、幾日のも心労の後、気持ちも少し治まり、両親も、今はさりとも、もうたいしたことは、あるまい、と、思う。
御修法などは、またまた、御始めになるが、さしあたっては、面白く、珍しい、赤ん坊の、お世話をして、皆、心が、緩むのである。




院をはじめ奉りて、親王達上達部残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男にてさへおはすれば、その程の作法、にぎははしくめでたし。




上皇をはじめとして、親王方や、上達部が、残らずお贈りになった、産養、うぶやしない、の、ご祝儀の、珍しく、立派な様を、お祝いの夜ごとに、見て騒ぐ。
御子は、男でいらっしゃるので、産養の作法は、賑やかで、立派である。




かの御息所は、かかる御有様を聞き給ひても、ただならず。かねては、いとあやふく聞えしを、「田平かにもはた」とうちおぼしけり。あやしう、我にもあらぬ御心地をおぼし続くるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたり。あやしさに、御ゆするまいり、御衣着かへなどし給ひて、試み給へど、なほ同じやうにのみあれば、我が身ながらだにうとましうおぼさるるに、まして人の言ひ思はむ事など、人に宣ふべき事ならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心がはりもまさり行く。




かの、御息所は、そのような様子を、聞いて、心が安らかではない。
前は、大そう危ういとの、噂だったが、安産とは、と、思う。
不思議だったこと、自分が解らなくなったことを、月々と思い出す。
お召し物なども、すっかり、芥子の香に、沁みている。
それが、不思議で、髪を洗い、お召し物を、着替えてみるが、変わらず、芥子の匂いがする。
自分の体でさえ、厭わしく思われるのに、世間の人が思ったりすることは、どんなことだろうと、人に話すことが出来なく、一人で、嘆いているので、更に、心が、乱れてゆくのである。

芥子の香は、修法の時に、護摩に焚くものである。その匂いが、着物についているというのである。
当時は、このようなことが、頻繁にあったということだ。
平安時代は、陰陽師の活躍した時代でもある。
生霊、死霊、物の怪、魔物など、不可思議な物の存在があったといえる。

人の心が、純粋であれば、こそ、それらの働きが、明確に、見えたのである。

目に見えない世界である。



大将殿は、ここち少しのどめ給ひて、あさましかりし程の問はず語りも、心憂くおぼし出でられつつ、いと程へにけるも心苦しう、又けぢかう見奉らむには、いかにぞや、人の御為いとほしう、よろづにおぼして、御文ばかりぞありける。




大将殿は、気分も、やや落ち着いて、呆れた、あの時の生霊の、語りも、嫌なことと、思い出した。
御息所にも、ご無沙汰したままであるのが、気の毒だったが、親しくお会いすると、さぞ、嫌気を感じるだろうから、それでは、あの方に、悪い気がすると、お手紙だけを、お出しになった。




いたう患らひ給ひし人の、御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに誰もおぼしたれば、ことわりにて、御ありきもなし。なほいと悩ましげにのみし給へば、例のさまにてもまだ対面し給はず。若君の、いとゆゆしきまで見え給ふ御有様を、今からいとさまことにもてかしづき聞え給ふさまおろかならず。ことあひたる心地して、大臣も嬉しういみじと思ひ聞え給へるに、ただこの御心地おこたりはて給はぬを、心もとなく思せど「さばかりいみじかりし名残にこそは」と思して、いかでかはさのみは心をも惑はし給はむ。



大変に、患った方の、病後は、大切であり、油断は出来ないと、誰もが、思っているので、源氏も、もっともだと、忍び歩きも、しないのである。
葵の上は、やはり、大そう苦しそうにしているので、源氏は、平素の対面はされないでいる。
若君の、恐ろしいほどに、美しく見える様子は、今から、大事に育てるという思いが強く、並通りではなく、万事に、思い通りになった心地して、左大臣も、嬉しく、ありがたいと、思う。
ただ、姫君の、気分が全快せず、気がかりである。
あれほど、酷かった病後ゆえにと、思い、いかでかはさのみは心をも惑はしむ、とは、作者の言葉である。
どうして、そんなに、深く心配することがあろう、と言うのである。

というのは、作者が、これから起こることを、知っているからである。
そんなに、心配することはないであろう。が、しかし、何か、あるのである。


例のさまにてもまだ対面し給はず
顔と顔を、じかに合わすこと。


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2008年12月29日

もののあわれ 369

若君の御まみの美しさなどの、東宮にいみじう似奉り給へるを、見奉り給ひても、先づ恋しう思ひ出でられさせ給ふに、忍び難くて、「参り給はむ」とて、源氏「うちなどにも余り久しう参り侍らねば、いぶせさに、今日なむうひだちし侍るを、少し気近き程にて聞えさせばや。余りおぼつかなき御心の隔てかな」と、恨み聞え給へれば、人々「げにただひとへにえんにのみあるべき御中にもあらぬを、いたう衰へ給ヘリと言ひながら、物越しにてなどあるべきかは」とて、臥し給へる所に、おまし近う参りたれば、入りて物など聞え給ふ。御いらへ時々聞え給ふも、なほいと弱げなり。





若君の、目元の愛らしさなどが、東宮様によく、似ている。
それを、ご覧になるにつけても、自然、誰よりも、東宮を恋しく思い、じっとしていられなく、参上しょうと、思う。
源氏は、御所にも、あまり、長く参らず、気がかりで、今日は、初めて外出しようと思い、それでは少し、そば近くで、妻と話がしたいと、思います。このままでは、他人行儀なので、気になります。と、妻との会話を申し出る。
人々は、本当に、そうです。ひたすら、思わせぶりをしている、間柄では、ありません。
お元気でないとはいえ、お会いになるのが、よろしいと、言う。
源氏は、妻が、臥せている、部屋に入り、妻の傍近くの座について、お話をする。
それに対して、答えられるが、いっそう、弱々しげである。

今日はなむうひだちし侍るを
はじめて、立ち出る、という意味。

げにただひとへにえんにのみあるべき
げに ただ ひとへに えんにのみ あるべき
えんにのみ、とは、恋人同士の、澄ました雰囲気のこと。

物越しにて などあるべきかは
屏風や、凡帳を、隔てること。それを、しないのである。
おまし近参りたれば
傍近くにて、である。




されど、むげに亡き人と思ひ聞えし御有様をおぼし出づれば、夢のここちして、ゆゆしかりし程の事どもなど聞え給ふついでにも、かのむげに息も絶えたるやうにおはせしが、引きかへし、つぶつぶと宣ひし事ども、おぼし出づるに心憂ければ、源氏「いさや、聞えまほしき事いと多かれど、まだいとたゆげにおぼしためればこそ」とて、源氏「御湯参れ」などさへあつかひ聞え給ふを、いつ慣らひ給ひけむと、人々あはれがり聞ゆ。





されど、つまり、全く、亡き人と、思えた時の、様子を思い出してみると、夢のような、気持ちがする。
酷かった時のことを、お話することでも、全く、息が、絶えたようであったことが、打って変わり、細々と、お話されたことなどを、思い出すと、嫌な気持ちがする。
源氏は、いや、お話したいことは、沢山ありますが、まだ、大変そうですから、今度にしましょう。と言い、お薬を、召し上がれと、お世話をするのを、侍女たちは、いつ覚えられたのかと、感心するのである。

ゆゆしかりし程の事ども
死んでしまうかと、思えた。

まだいとたゆげにおぼしためればこそ
まだ いと たゆげに おぼし ためれば こそ
まだ、大変、辛そうだ。大変そうだ。だるそうだ。と、見えるのである。





いとをかしげなる人の、いたう弱り、損はれて、あるかなきかの気色にて臥し給へるさま、いとらうたげに心苦しげなり。御髪の、乱れたる筋もなく、はらはらとかかれる枕の程、ありがたきまで見ゆれば、「年頃何事を飽かぬ事ありて思ひつらむ」と、あやしきまでうちまもられ給ふ。源氏「院などに参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見奉らば嬉しかるべきを、宮のつとおはするに、心なくやと、つつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強くおぼしなして、例のおましどころにこそ。あまり若くもてなし給えば、かたへは、かくもものし給ふぞ」など、聞えおき給ひて、いと清げにうちさうぞきて出で給ふを、常よりは目とどめて見出だして臥し給へり。





大変、美しい人が、酷く弱り、憔悴する様は、生きているのかどうか、解らない状態で、寝ているのは、大変に可憐である。
痛々しい。
御髪は、乱れ毛、毛一筋とても、無く、はらはらと枕にかかる様の風情は、類ない程である。
源氏は、長年の間、この人の、どこに、不足を、感じたのかと、不思議なくらいに、じっと、妻を、見つめた。
源氏は、院などへ、参上して、早々に退出してきます。このようにして、お会い申し上げていましたら、何も気になることもなく、嬉しいのですが、母宮様が、お傍においでなので、不躾と思い、遠慮していました。
やはり、だんだんと、元気を出して、いつもの、お部屋に、移ってください。
母宮が、あまり、子供のように、扱われるので、このようになってしまうのかも、しれません。
などと、いいおきて、大変、美しい、装束をつけて、お出ましになる。
それを、妻は、いつもより、目を留めて、見送りつつ、臥している。

ありがたきまで見ゆれば
髪の乱れのさま、はらはらとして、枕にかかるという、風情を、たぐいなき、に、見るという。
もののあはれ、の、風情である。

あやしきまでうちまもられ給ふ
不思議に思うほどに、見つめている。
どうして、この人に、不足を感じていたのか。
そう、源氏は、自問自答するのである。
二人の不仲の原因は、何だったのか。
それは、作者、紫式部も、よく解らないのである。
そのような、縁であったというしか、言いようがないのである。

説明できないことは、説明しないで、いい。




秋の司召あるべき定めにて、大殿も参り給へば、君達もいたはり望み給ふ事どもありて、殿の御あたり離れ給はねば、皆ひきつづき出で給ひぬ。



秋は、定期異動がある。
秋は、中央官の移動で、司召という。つかさめし、である。
春は、地方官の移動で、県召、あがためし、という。

秋の、定期異動の決定される日であり、左大臣も、参内される。
ご子息たちも、懸命に、望まれることあり、父の大臣の傍を、離れない。
みな、引き続いて、お出ましになった。

源氏と、葵上は、ここで、ようやく、夫婦らしい会話をする。
ここ、ここに至ってである。
そして、葵上は、子を生んで、亡くなる。

葵上が、亡くなることで、作者が、表現したいものは、何か。
ここに、日本人の、死生観の、あはれ、というものを、観ることになる。

もののあはれ、は、死生の、あはれ、でもある。


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2008年12月30日

もののあわれ 370

殿のうち人ずくなにしめやかなる程に、にはかに例の御胸をせきあげて、いといたう惑ひ給ふ。うちに御消息聞え給ふ程もなく、絶え入り給ひぬ。足を空にて、誰も誰もまかで給ひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御さはりなれば、皆事破れたるやうなり。




邸内は、人が少なく、物静かである。
その折に、葵上は、急に、いつものように、胸がこみ上げて、たいそう、酷く苦しまれる。
宮中に知らせる間もなく、息が絶えてしまった。
足も、地につかない、有様で、どなたも、どなたも、宮中から、退出された。
除目の夜だったが、このように、どうしようもない様であり、行事は、すべて、台無しである。

葵上が、亡くなったのである。
たえ入りたまひぬ
この、一行で、死を言う。

わりなき御さはりなれば
わりなき
やむをえぬ、どうしようもない、ことである。
御さはり
障り、障害である。

事破れたるようなり
予定の行事が、出来なくなったのである。





ののしり騒ぐ程、よなかばかりなれば、山の座主、何くれの僧都達も、え請じあへ給はず。「今はさりとも」と思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使ひなと、立ち込みたれど、え聞えつがず。ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、いと恐ろしきまで見え給ふ。




大騒ぎの、時刻は、夜半過ぎである。
山の座主や、誰彼という、僧都たちも、呼ぶことが、出来なかった。
今は、もう、大丈夫と、安心していたところ、意外なことになり、御殿の内の人は、度を失って、物にぶつかっている。
方々から、ご弔問の、使いなどが、続々と入り込んで、取次ぎもせずに、上を下への、大騒ぎである。
身寄りの人の、悲しみなどは、怖いと言うほかない状態である。





御物の怪の度々取り入れ奉りしをおぼして、御枕などもさながら、二三日見奉り給へど、やうやう変はり給ふ事どものあれば、限りとおぼし果つる程、誰も誰もいといみじ。




今まで、物の怪が、度々入り込んで、気絶したことを、思い出して、枕などを、そのままにして、二三日、様子をご覧になるが、だんだと、変わり行く事なので、今は、これまでと、諦める頃、誰も彼も、全く、言いようも無い思いである。




大将殿は、悲しき事に事そへて、世の中をいと憂きものに思ししみぬれば、ただならぬ御あたりの御とぶらひどもも、「心憂し」とのみぞなべて思さるる。院におぼし嘆き、とぶらひ聞えさせ給ふさま、かへりておもだたしげなるを、嬉しきせもまじりて、大臣は御涙のいとまなし。人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、「生きやかへり給ふ」と、さまざまに残ることなく、かつ損はれ給ふ事どものあるを見る見るも、尽きせず思し惑へど、かひなくて日頃になれば、「いかがせむ」とて、鳥辺野にいて奉る程、いみじげなる事多かり。





大将殿、つまり、源氏は、悲しいことの他に、嫌なことまであったゆえに、男女の情を、嫌なものと、身にしみて、思いになった。
並々ならず、思う方々からの、ご弔問も、嫌な思いをするばかりである。
院に、おかせられても、お嘆き遊ばして、ご弔問される様子は、かえって、面目を施すことなので、うれしいことも、相まって、大臣は、涙の乾く間もない。
人が申し上げるのに従い、厳粛な、祈祷などを、生き返ることもあろうかと、思い、様々と、試みる。
また、一方では、遺体が傷んでゆくこともあり、どこまでも、迷うが、その甲斐もないまま、幾日にもなるので、この上は、仕方がないと、鳥野辺に、お送りされることになる。
道々、見ていられないことが、多いのである。




これから、源氏の、嘆きが、始まる。
源氏物語の、ひとつの、テーマである。
死生観である。

もののあはれ、というもの、人の死をもって、極まる。

もの
それは、人である。
それは、
あはれ、である。

死によって、あはれ、という心象風景が、決定する。

これ以上でも、以下でもない、日本人の、心象風景である。

紫式部は、それを、源氏の心境として、細々と、書き付ける。
実に、読み応えのある、場面である。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月31日

もののあわれ 371

こなたかなたの御送りの人ども、寺寺の念仏僧など、そこら広き野に所もなし。院をばさらに申さず。后の宮、東宮などの御使ひ、さらぬ所々のも参りちがひて、あかずいみじき御とぶらひを聞え給ふ。大臣はえ立ち上がり給はず。左大臣「かかるよはひの末に、若く盛りの子に後れ奉りて、もこよふこと」と、恥ぢ泣き給ふを、ここらの人悲しう身奉る。





あちこちから、弔いの人々が、やってきて、寺の念仏の僧などで、あれほど広い野原に、隙間が無いのである。
院からは、申すまでもなく、皇后や、東宮などかも、お使いがあり、その他の、諸方からの使いも、代わる代わる参上して、残り多い人生であったとの、悲しみに満ちた、弔いの言葉である。
大臣は、立ち上がることも出来ず、このような、高齢になって、若い盛りの子に、死なれて、遅れて、這いずり回ることと、恥じて泣かれる。
大勢の人が、それを、痛ましく、拝見する。

もこようこと
うごめくこと。蠢く。
古語である。





よもすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いとはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰り給ふ。常の事なれど、人一人か、あまたしも見給はぬ事なればにや、たぐひなくおぼしこがれたり。八月廿日よ日の有明なれば、空の気色もあはれ少なからぬに、大臣のやみにくれ惑ひ給へるまさを見給ふも、ことわりにいみじければ、空のみながめられ給ひて、

源氏
のぼりぬる 煙はそれと わかねども なべて雲居の あはれなるかな

殿におはし着きても、つゆまどもまれ給はず。年頃の御有様をおぼし出でつつ、「などて、つひにはおのづから見なほし給ひてむと、のどかに思ひて、なほざりのすさびにつけても、つらしと覚えられ奉りけむ。世を経て、うとく恥づかしきものに思ひて過ぎ果て給ひぬる」など、くやしきこと多くおぼし続けらるれど、かひなし。にばめる御衣奉れるも、夢のここちして、「われ先立たましかば、深くぞ染め給はまし」と、おぼすさへ、

限りあれば うすずみ衣 あさけれど 涙ぞそでを ふちとなしける

とて、念誦給へるさま、いとどなまめかしさまさりて、経しのびやかに読み給ひつつ、「法界三昧普賢大士」とうち宣へる、行ひなれたる法師よりは、けなり。若君を見奉り給ふにも、「何にしのぶの」と、いとど露けけれど、かかる形見さへなからましかばと、おぼしなぐさむ。




一晩中、大変な騒ぎの中で、君、源氏は、まことに儚い、ご遺骸だけを残して、暁深くに、帰られる。
世の常のことであるが、君は、今までに、一人か、そこらあたりと、沢山の体験は無い。
この上もなく、亡き人を、恋しく思うのである。
八月二十日あまりの、有明の頃である。
空の様子、心打つ風情が少なくない中、大臣が、子を思う心の闇に、途方に暮れている様子を、ご覧になるにつけ、それはもっともなこと、痛ましいと、空ばかりを、眺めるのである。

源氏
空へ立ち上った、火葬の煙は、雲と一緒になり、どの雲か、それは分からないが、空が、しみじみと、胸に迫るものだ。

大臣邸に、着いても、少しも、眠られない。
年来の、有様を、思い出し、どうして、自然と、考え直されるのだろうかと、暢気に構えていたのか、少しの、浮気心で、辛いと、思わせてしまった。
生涯を通して、親しみのない、気のおけるものと私を思い、亡くなってしまった、などと、後悔されること、次々と、浮かぶのであるが、それも、何にもならないこと。
鈍い色、にぶいろ、の、お召し物を、着たということにつけても、夢のような、心地である。
もし、私が先に死んだら、もっと、濃い色に、染めるだろうと、思うことも、耐えられず、

源氏
喪服には、規定がある。妻の喪に着る、薄墨の喪服は、色は浅いが、涙が溜り、深い淵となってしまった。

と、念誦される。
その様子は、ひとしお優雅であり、経を低くお読みになり、法界三昧普賢太士と、唱えている様は、勤行に慣れた法師より、優れている。
若君を、ご覧になるにつけ、何に偲ぶと、ひとしお涙を、流し、もし、この形見がなければ、と、思い、心を慰める。


源氏の、後悔は、甚だしい。
亡き後に、こそ、今まで考えなかったことを、考える。

妻の喪は、喪服が薄い色。夫の喪は、色の濃い喪服である。

たぐひなくおぼしこがれたり
たぐひなく おぼし こがれたり
大変に、深く辛く、亡き人を、焦がれるのである。
人が人に、焦がれる思いを、また、もののあはれ、という、心象風景に観るのである。





宮はしづみ入りて、そのままに起き上り給はず。危ふげに見え給ふを、又おぼし騒ぎて、御祈りなどせさせ給ふ。はかなう過ぎ行けば、御わざのいそぎなどせさせ給ふも、おぼしかけざりしことなれば、つきせずいみじうなむ。なのめにかたほるをだに、人の親はいかが思ふめる。ましてことわりなり。またたぐひおはせぬをだに、さうざうしくおぼしつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげなり。



母宮は、沈みきって、そのまま、起き上がらない。
命も、危なげに見える。
それを、心配し、騒いで、ご祈祷などを、させる。
日にちが儚く、過ぎて行く。
法要の準備なども、することを、考えていなかった。思いもかけないことで、いつまでも、悲しくおもうのである。
平凡な、つまらない子でさえ、人の親ならば、どのように、思うか。
まして、姫を、深く思うのは、無理もないこと。
その上、他に、姫君がいらっしゃらないことが、寂しいと、思っていたのである。
袖の上の、玉が、砕けたということよりも、思いがけない思いである。


まただくひおはせぬをだに、さうざうしくおぼしつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげなり

これも、また、もののあはれ、である。

袖の上の玉の砕けたりけむより
袖の上の、玉とは、心の有り様である。
心の有様が、砕けたのである。
それよりも、辛い思いを、人は、生きている。

夫を、亡くした、紫式部は、心底、それを、思うことが出来る。
まさに、彼女自身の、経験である。
それを、投影する。

そして、源氏の、日々が綴られる。


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