2008年01月08日

もののあわれ 378

いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御ありきも、物うくおぼしなりて、おぼしも立たれず、姫君の何事もあらまほしう整ひはてて、いとめでたうのみ見え給ふを、似げなからぬ程に、はた見なし給へれば、けしきばみたることなど、折々聞え試み給へど、見も知り給はぬ気色なり。





大変に、所在無く、物思いに沈む。
どうでもいいような、出歩きは、したくもない。
ところが、姫君が、申し分なく、整い、大変立派に成長している。
これは、不釣合いではないと、意味ありげに、ことを申してみるが、そんなことは、全く解らないようである。

要するに、男と女の関係である。

けしきばみたることなど
何となく、それと、解ることを言うのである。




つれづれなるままに、ただこなたにて碁うち、偏つきなどしつつ、日を暮らし給ふに、心ばへのらうらうじく、愛敬づき、はかなきたはぶれごとのなかにも、美しき筋をし出で給へば、おぼし放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつれ、忍び難くなりて、心苦しけれど、いかがありけむ。人の、けぢめ見奉り分くべき御中にもあらぬに、男君はとく起き給ひて、女君はさらに起き給はぬあしたあり。人々「いかなればかくおはしますならむ。御ここちの例ならずおぼさるるにや」と、見奉り嘆くに、君はわたり給ふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。人間にからうじて頭もたげ給へるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなく、引きあけて見給へば、


源氏
あやなくも 隔てけるかな 夜をかさね さすがになれし 夜の衣を


と書きすさび給へるやうなり。かかる御心おはすらむとは、かけてもおぼし寄らざりしかば「などてかう心うかりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひ聞えけむ」と、あさましうおぼさる。





つれづれなるままに、つまり、何となく、所在の無い気持ちで、こちらの対にて、碁を打ち、偏つぎなどをして、日を過ごしている。
姫は、性質が利発で、愛嬌があり、少しの姿も、可愛いのである。
結婚を考えずにいた、年月は、ただ、幼い愛らしいと思っていたが、今は、その姿に、心引かれるのである。
姫には、気の毒なことだったのか・・・
人が、いつから、その区別を見分けて申し上げるという、仲ではない。
男君は、早く起きて、女君が、中々起きない朝があった。
女房たちは、どういうわけで、休んでいられるのか。ご気分が悪いのかと、案じるが、君は、自分かの部屋に戻られるとあって、硯の箱を、御帳台の中に、差し入れた。
人のいない時に、やっと、頭をもたげて、引き結んだ手紙が、枕元にある。
何気なく、引きあけてご覧になると

源氏
幾夜も、幾夜も、共に寝て、それでいて、何事もなく着慣れた夜の、衣は、わけもなく隔てられて、君と共に、しなかったことだ。
と、書き流してある。
こんなに心深いと、思わず、夢にも、考えなかったことである。
どうして、こんな嫌な、お方を、心の底から、頼みにしてきたのかと、呆れて、思うのである。

偏つき
一文字の偏を見せて、文字を当てさせる、遊び。

はじめて、姫は、男との関係を知ったのである。
初夜である。

結び文は、恋文である。
しかし、姫は、それを理解しない。




昼つ方渡り給ひて、源氏「悩ましげにし給ふらむは、いかなる御ここちぞ。今日は碁も打たで、さうざうしや」とてのぞき給へば、いよいよ御布引きかづきて伏し給へり。人々は退きつつ侍へば、寄り給ひて、源氏「などかくいぶせき御もてなしぞ。思ひの外に心うくこそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」とて、御ふすまを引きやり給へれば、汗におしたして、ひたひ髪もいたう濡れ給へり。源氏「あなうたて。これは、いとゆゆしきわざぞよ」とて、よろづにこしらへ聞え給へど、まことにいとつらしと思ひ給ひて、つゆの御いらへもし給はず。源氏「よしよし。さらに見え奉らじ。いとはづかし」など、怨じ給ひて、御硯あけて見給へど、物もなければ、「若の御有様や」と、らうたく見奉り給ひて、日一日入り居て、慰め聞え給へど、解け難き御気色、いとどらうたげなり。






昼ごろに、こちらに、渡り、源氏は、気分が悪いそうですね。どんな具合ですか。今日は、碁も打たないので、つまらないと、顔を覗く。
すると、いよいよ、お召し物をひき被り、横になる。
女房たちは、引き下がって、控えているので、傍により、源氏は、どうして、こんな酷い、仕打ちなのか。案外に、嫌な方ですね。皆も、どんなに変だと思うでしょうと、布団を引き退けると、汗をかいて、額も髪も、濡れている。
源氏は、ああ、嫌だな。こんなにしているのは、大変縁起が悪いことですと、言い、いろいろいと、なだめすかすが、源氏を、嫌な人だと、思ってしまったようである。
一言も、返事をしないのである。
源氏は、よしよし、わかりました。もう、お会いしないようにします。会わせる顔を無いと、怨むのである。
硯箱を開けて、ご覧になるが、何も無い。
幼い方だと、愛らしくご覧になり、一日中、慰めるが、ご機嫌が解けない様子は、また、愛らしいのである。

男女の交わりは、結婚であった。

普通は、女の元に、出掛けるが、姫の場合は、源氏が、後見人でもある。


初夜の歌を、もう一度見る。

あやなくも 隔てけるかな 夜をかさね さすがになれし 夜の衣を

あや、かさね、は、衣の縁語である。

幾夜も、一緒にあった衣、着慣れた衣である。
しかし、それは、隔てられてあった。
今までは、である。
本当は、隔てなく、共に、したかったのである。
衣は、姫君である。


夜という文字を、よ、よる、と読ませている。

結論を急がないが、果たして、これは、紫式部の筆であろうか。
源氏物語には、矛盾が多い。
この筆は、紫式部のものか、否かを、後で、問うことにする。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月20日

もののあわれ361

日たけ行きて、儀式もわざとならぬ様にて出で給へり。暇もなう立ちわたりけるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女房車多くて、ざふざふの人なきひまを思ひ定めて、皆さしのけさする中、あんじろの少しなれたるが、下簾の様などよしばめるに、いたう引き入りてほのかなる袖口、裳の裾、かざみなど、物の色いと清らにて、ことさらにやつらたる気配しるく見ゆる車二つあり。「これは、さらにさやうにさしのけなどすべき御車にもあらず」と、口ごはくて手触れさせず。いづかたにも若き者ども、えひ過ぎ立ち騒ぎたる程のことはえしたためあへず。おとなおとなしき御前の人々は、「かくな」などと言へど、えとどめあへず。




日も高くなっているので、外出の儀式も格式張らず、葵の上の一行は、お出かけになった。
物見車が、混雑して立ち並んでいる。
それらは、美しく並んでいるが、車の置き場に困っているようである。
立派な女房車が多く、車沿いの、人のいない空き地を見つけ、ここにと思い定めて、あたりの車を皆、退けさせる中に、網代車で、真新しくはないが、下簾の様子など、乗り主の、趣味が伺えて、乗り手は、車の奥に、ちらりと見える、袖口、裳の裾、かざみ、など、色合いも、こざっぱりとして、わざと目立たぬようにしている様子の、車が二台ある。
これは、全く、押し付け退ける車ではないと、言い張り、手を触れさせない。
どちらも、若い者どもが、酔い過ぎて、立ち騒いでいる時は、鎮めることなど、できない。
年配の、前駆の人々は、そんなことは、するなと言うが、とても、制しすることができない。


あんじろ
車の簾の中に掛けて、下に長く垂らす、白絹である。

よしばめる
教養が、現われる様である。




斎宮の御母御息所、「ものおぼし乱るる慰めにもや」と、忍びて出で給へるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知りぬ。男「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ豪家には思ひ聞ゆらむ」など言ふを、その御方の人も交れれば、「いとほし」と見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔を作る。




これは、斎宮の御母、御息所が、物思いに乱れて、心の慰めにもなろうかと、こっそりと、出られた車である。
気づかれないようにしているが、自然に、御息所と解る。
男は、それくらいの車に、そんなことを言わせるな。大将様を御大家として、頼みにしているのだろう、などと言うのを、大将方、つまり、源氏方の、人々も、御供に交じっているので、御息所を気の毒と思いつつも、仲裁するのも、煩わしいと、知らぬ顔をする。





つひに御車どもたて続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、もの見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじう嫉きこと限りなし。しぢなどもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人わろく、悔しう、「何に来つらむ」と思ふに、かひなし。「ものも見で帰らむ」とし給へど、通り出でむ暇もなきに、「事なりぬ」と言へば、さすがに、つらき人の御前わたりの待たるるも、心弱しや。笹の隅にだにあらねばにや、つれなく過ぎ給ふにつけても、なかなか御心づくしなり。



とうとう、大臣の車を、立て続けたので、お供の衆の車の後へ、押しやられて、何も見えない。
胸の痛みは、言うまでもないことである。
この、忍びの姿を、それと知られたくないが、この上もなく、悔しい気持である。
車を立てるために、ながえを乗せる、しじ、なども、皆押し折られて、轅、ながえ、を、他の車の、こしき、に、打ち掛けてあるため、体裁が悪く、それが残念で、何のために、出て来たのかと思う。
今更、詮無いことである。
何も見ずに、帰ろうとするが、抜け出す隙間もない時、行列が来たと、言うので、恨めしい方の、お通りを、このような形で、待たされるとは、と、女心の弱いことである。
ここは、笹の隈でもないからか、馬も止めずに、見向きもせずに、通られるにつけても、かえって、尽きぬ、物思いの、種となるのである。

葵の段の、車争いの部分である。
御息所は、非常に傷ついてしまうのである。



げに常よりも好み整へたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾のすきまどもも、さらぬ顔なれど、ほほえみつつ、しり目にとどめ給ふもあり。大殿のは著ければ、まめだちて渡り給ふ。御供の人々うちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おしけたれたる有様、こよのうおぼさる。

御息所
かげをのみ みたらし川の つれなきに 身のうきほどぞ いとど知らるる

と涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御様かたちの、いとどしういでばえを見ざらましかば、とおぼさる。




以前に話したように、いつもより、趣向を凝らした、数々の車の、下簾の、隙間、隙間にも、そ知らぬ顔をされながら、源氏は、にっこりとして、流し目に、御覧になることもある。
大臣家の、車は、はっきりと、解るので、真面目な顔をして、通る。
御供の衆も、敬意を表して、気をつけて、通るので、御息所は、惨敗したような気分で、我が身を、この上なく、哀れと、思うのである。

御息所
御祓の行われる今日、御手洗川で、お姿を遠くから、見たが、君の無情に、我が身の、不幸を、更に深く思い知らされる。

と、涙のこぼれるのを、人が見るのは、きまり悪いが、眩いばかりの、御姿の、常よりも、いっそう美しく、晴れ晴れとして、お引き立ちなのを、もし、見ずにいたなら、どんなにか、残念だろうかと、思うのである。

笹の隈にだにあらばにや
古今集
笹の隈 ひのくま川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見ん
からの、笹の隈、である。

みたらし川
み、と、影をのみ見、の、見を、かけている。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月23日

もののあわれ334

命婦
くれないの ひとはなごろも うすくとも ひたすらくたす 名をしたてずは

心苦しの世や」と、いといたう慣れてひとりごつを、「よきにはあらねど、かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、かへすがへす口惜し。人の程の心苦しきに、名の朽ちなむは、さすがなり。



命婦
愛情は、薄くても、せめても、あちらの、名を汚すことのないように、お願いします。

お気の毒ですと、慣れた様子で、独り言を言う。
上手とまではいかないが、せめてこれくらいの程度の教養が、姫にあればと、返す返す残念に思う。
姫の身分があるゆえに、名に傷がついては、いけないのである。



命婦の歌が、いい。
紅の 人花衣 薄くとも ひたすらくたす 名をし立てずは
である。

とんちんかんの、贈り物に、対する、思いは、薄くても、つまり、それは、そのまま、姫に対する思いなのであるが、あちらは、あちらの、精一杯のことをしたのである。
ですから、あちらの、名を汚さないようにと、の、命婦の願いである。



人々参れば、源氏「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」と、うちうめき給ふ。「何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。



女房達が、参上するので、源氏は、「隠すことにしょう。こんなことは、普通することではない」と、辛そうに仰る。
命婦は、どうして、御覧にいれたのか。自分まで、気が利かない者のようだ、と、恥ずかしさに、そっと、引き下がった。



またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞき給ひて、源氏「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」とて投げ給へり。女房たち、何事ならぬ、と、ゆかしがる。源氏「ただうめの花の色のごと、三笠の山のをとめをばすてて」と、謡ひすさびて出で給ひぬるを、命婦はいとをかしと思ふ。心知らぬ人々は、「なぞ、御ひとりえみは」と、咎め合へり。命婦「あらず。寒き霜朝に、掻練好めるはなの花あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」と言へば、「あながちなる御事かな。この中には、にほへる鼻もなかめり。左近の命婦、肥後の采女やまじらひつらむ」など、心もえず言ひしろふ。
御返り奉りたれば、宮には女房つどひて見めでけり。

源氏
逢はぬ夜を へだつる中の 衣手に かさねていとど 見もし見よとや

白き紙に、棄て書い給へるしもぞ、なかなかをかしげなる。




翌日、命婦が、出仕していると、源氏が台盤所に、顔を出した。
源氏は、それ、昨日の返事だ。少し気取りすぎだがと、お投げになる。
他の女房たちは、何事であろうかと、それを見たがる。
源氏は、ただ、梅の花の色ごと、三笠の山の、おとめを捨てて、と、口ずさみつつ、お出になった。
命婦は、それを、実に、面白いと思う。
訳の知らない人は、なんです、一人で笑っていてと、咎める。
命婦は、そうじゃございませんよ。寒い霜の朝に、掻練、かいねりが好きな人の鼻の色合いが、君の、お目についたのでしょう。ぶつぶつと、歌っていらっしゃるのが、気の毒ですと、言うと、女房たちは、ご無理なこと。この中には、赤い鼻の人もいないし、左近の命婦や、肥後の采女が、交じっていたのかしら、など、合点がゆかぬ様子で、言い争う。

命婦は、君の、返事を、差し上げたので、常陸宮の邸では、女房たちが、集い、感心しつつ、見た。

源氏
逢わずにいる夜が、重なっているのに、更に、衣を重ねて、隔てよと、贈ってよこしたのですか。

白い紙に、無造作に書かれている、その筆跡が、実に、趣がある。


掻練
かいねり、とは、赤い練り絹のこと。

御つづしり歌
一口ずつと、切って歌うこと。
御つづしり歌のいとほしき
一口一口と、歌われることが、愛しい、つまり、ここでは、気の毒ですという、命婦の気持である。

いとおしい、は、単に、愛しいだけではない。いと惜しい、とも、なる。
いとほしい
様々な、心象風景が、広がる。



晦日の日、夕つ方、かの御衣箱に、御料とて人の奉れる御衣一具、葡萄染の織物の御衣、また山吹か何ぞ、いろいろと見えて、命婦ぞ奉りたる。ありし色あひをわろしとや見給ひけむ、と、思ひ知らめれど、女房「かれはた、紅のおもおもしかりしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。女房「御歌も、これよりのは、道理聞えて、したたかにこそあれ。御返りは、ただをかしき方にこそ」など、口々に言ふ。姫君も、おぼろげならでし出で給へるわざなれば、物に書きつけて、置き給へりけり。



大晦日の、夕方、あの、衣装箱に、君の御料といって、人が献上した、お召し物一揃え、葡萄、えびの織物の、お召し物と、山吹襲、やまぶきかさね、など、色々と、色の物が入っているのを、命婦が、姫君に、差し上げた。
この間、差し上げた、お召し物が、よくなかったのかと、思ったのかと、感じつつも、女房は、あれだって、紅の、しっかりとした、色でした。まさか、見劣りは、しないでしょうと、老女房達は、判定する。
また、女房は、お歌も、姫君のものは、筋が通り、しっかりしていましていましたよ。お返事は、ただ、面白いのが、勝っています、などと、口々に言う。
姫も、並々ならぬ、努力の作品であるから、紙に書いて、取って置くのである。

と、まあ、皆々、へんちくりんの、感覚であるから、面白い。

この、邸だけは、浮いている。
皆々、浮いて、ズレているのである。
時代遅れというのか、何と言うのか。
現代でも、こういう、家庭がある。
勿論、その家族は、気づかない。

その中で、命婦だけは、真っ当な感覚である。
こういう、姫君の邸の、有様を、私は、滑稽だと、笑う。

当時、このような、落ちぶれたが、身分の高い家も、あったということが、解る。
そして、皆、ズレている。
実に、面白い。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

もののあわれ335

朔日の程過ぎて、今年、おとこたうかあるべければ、例の所々遊びののしり給ふに、もの騒がしけれど、さびしき所のあはれにおぼしやらるれば、七日の日の節会はてて、夜に入りて、御前より罷で給ひけるを、御宿直所にやがてとまり給ひぬるやうにて、夜ふかしておはしたり。例の有様よりは、けはひうちよめき世づいたり。君もすこしたをやぎ給へる気色もてつけ給へり。



ついたちを過ぎて、上旬も過ぎた頃である。
今年は、男踏歌、おとこたうか、があるはずである。
これは、正月、14日に、殿上人たちが、催馬楽などを歌いながら、宮中、上皇御所、宮家を回る行事である。
例によって、音楽を、喧しく練習するため、騒がしいのだが、寂しい、姫の宮の邸が、あわれに、思われて、七日の節会が終わって、夜になり、御前から退出したが、御宿直所に、泊まる振りをして、夜が耽るのを、待ち、常陸の宮家に、いらっしやる。
邸は、いつもの有様よりも、活気があり、世間並みになっていた。
姫君も、少し和らいだ雰囲気である。

君もすこし たをやぎ
君も、少し、たをやぎ、つまり、和らぎ、穏やかな、感じである。
気色もつけて
そのような、雰囲気を、身につけている、という。

源氏の、優しさが、さびしき所のあはれおぼしやらるれば、という、表現で、語られる。




「いかにぞ、改めてひきかへたらむ時」とぞおぼし続けらるる。日さし出づる程にやすらひなして、出で給ふ。東の妻戸押しあけたれば、向ひたる廊の、上もなくあばれたれば、日のあし、程なくさし入りて、雪少し降りたる光に、いとけざやかに見入られる。御直衣など奉るを見出して、すこしさし出でて、かたはら臥し給へる頭つき、こぼれ出でたる程いとめでたし。生ひ直りを見出でたらむ時と、おぼされて、格子引き上げ給へり。いとほしかりし物懲りに、上げもはて給はで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきを繕ひ給ふ。

当時の、生活の有様であるから、訳すのは、大変である。
出来るだけ、現代に近い雰囲気で、訳すことにしてみる。

ただ、この風景描写こそ、源氏物語の、粋なのである。
原文のままに、読み、受け取るのが、一番良いと思う。

どうであろう、今までの形を改めて少し様子を変えてくれないかと、源氏は、思うのである。
日が少し上がると、わざと、ぐずぐずする振りをして、出て来る。
東の妻戸が開けてあるので、向かい合う、渡り廊下が、屋根もなく、荒れているので、日差しが、奥の寝殿まで、差し込む。
雪が降り積もる、その光、輝きで、それが、はっきりと、見える。
源氏が、御直衣を、お召しになるのを、奥から見て、少し縁側に出て、横になっている、姫の頭の格好、髪が、こぼれている様子は、立派である。
全然別な、姿を見られたらと、思い、格子を引き上げる。
以前、気の毒に思ったことに、懲りて、格子は、すべて引き上げない。
脇息を押し付けて、それに、格子を乗せて、鬢のほつれを、直すのである。

作者が、見ている風景である。
主語がないので、誰が、どうしたのかを、かんがえるのが、楽しいが、それがまた、物語の面倒さであると、引いてしまうこともある。

生ひ直りを見出でたらむ時と
おひなほりをみいでたらむときと
違った姿を、見せようと、と、訳すが、格子を引き上げるのは、光を入れるためであろうから、姫の心境なのであろうか、源氏の心境も、そうなのか。

いとほしかりし物懲りに、上げもはて給はで、
以前、気の毒な姿を晒したと、姫が思い、格子をすべて上げない。

一つの文に、二人の心境を入れ込めると、私は、見るが、それは、とんでもない、表現のあり方である。

私は、素人だから、そのように、解釈する。



わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛げ、掻上の箱など取り出でたり。さすがに、男の御具さへほのぼのあるを、ざれてをかし、と、見給ふ。女の御装束、今日は世づきたりと見ゆるは、ありし箱の心ばせさながらなりけり。さもおぼしよらず、興ある紋つきてしるき上着ばかりぞ、あやしとはおぼしける。



凄く古ぼけた、鏡台、唐櫛げ、かがげの箱などを、女房たちが、取り出している。
意外に、男の道具まであるのを見て、洒落ていて、面白いと見ている。
姫の衣装が、今日は、世間並みだと、見えるのは、先日の、贈り物を着ているからだ。
そうと、気づかずに、面白い文様がついていて、派手な感じがする上着を、変だと、思う。

自分が贈ったものを、姫が着ているのだが、源氏が気づかないと言う。
贈り物の上着だけが、派手で、世間並みなのである。



源氏「今年だに声すこし聞かせ給へかし。侍たるるものはさしおかれて、御気色の改まらむなむゆかしき」と、宣へば、姫「さへづる春は」と、からうじてわななかし出でたり。源氏「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひ給ひて、「夢かとぞ見る」と、うちずして出で給ふを、見送りて、添ひ臥し給へり。口おほひの側目より、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でだり。「見苦しのわざや」と、おぼさる。



源氏は、せめて、今年からでも、お声を聞かせてください。待たれる鶯の初音は、差し置いて、年が改まるのではなく、あなたの気持が改まるのを、見たいのですと言う。
姫は、さえずる春は、と、やっと、震える声で言う。
源氏は、それです。年を一つ取った証拠、と、笑い、夢のように気がすると、口ずさみ、立ち上がるのを、見送り、姫は、物に寄り臥している。
口を覆う横顔から、やはり、あの、紅花、末摘花が、見事な色で、出ている。
見たくない、姿であると、源氏は、思う。

姫の鼻先の、赤さを源氏は、見たくない。興醒めしてしまうのである。

改まらむなむゆかしき
その態度が、改まるのが、ゆかしい、と言う。
これは、現代文に、訳せない。
あらたま らむなむ ゆかしき
改まって欲しいものだと、思うのであるが、感触が違う。
また、これを、文法で、解釈しすぎると、興醒めである。

音である。
音、そのものの、感触を、感じ取ることである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

もののあわれ336

二条の院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、紅はかうなつかしきもありけり、と、見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものし給ふ様、いみじうらうたし。古代の祖母君の御名残にて、歯黒めもまだしかりけるを、引き繕はせ給へれば、眉のけざやかになりたるも、うつくしう清らなり。「心から、などか、かう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものを見て居たらで」と、おぼしつつ、例の、もろともに雛遊びし給ふ。絵などかきて色どり給ふ。よろづにをかしうすさび散らし給ひけり。我もかき添へ給ふ。




二条の院に、いらっしゃれば、紫の君が、子供らしい姿で、実に可愛らしい。
紅も、こんなに、嬉しい色合いもあるのだと、思えるほど、美しい。
無地の桜差重ねの、細長を、なよやかに着ていて、無邪気な様子は、なんともいえずに、可愛いい。
昔ながらの、お祖母様の、教育の名残で、お歯黒も、まだであったが、君が、教え、眉も、くっきりと、可愛らしく立派である。
源氏は、どうして、辛い女関係に、関わるのか。こんなに、いじらしい人を相手にせずに、と、繰り返し思う。
いつものように、人形遊びをするのである。
紫は、絵などを描いて、色をつけている。
何かと、面白いのか、暇潰しに、書き散らしていた。
源氏も、その横に描き入れる。

実に、美しい文である。

いとも うつくしき 片生ひにて かたおひにて
片生ひにて、とは、子供のことである。
片恋、かたこひ、といえば、片思いである。
まだ、成長の段階にある者である。

紅はかう なつかしきも
紅が、こんなに、美しく感じられるのである。

いみじう らうたし
とても、可愛い。それを、何度も作者が書く。


髪いとながきをんなをかき給ひて、鼻に紅をつけて見給ふに、画にかきても見ま憂き様したり。わが御影の鏡台にうつれるが、いと清らかなるを見給ひて、手づからこのあかばなをかきつけ、にほはして見給ふに、かくよき顔だに、さて交れらむは見苦しかるべかりけり。姫君見て、いみじく笑ひ給ふ。



髪の長い女を描いて、鼻に紅をつけて、御覧になると、絵に描いたものでも、見るのが、嫌になる。
ご自分の、鏡台に写るのを見て、大そう立派なのを、見て、ご自身も、この赤色をつけて、色付けすると、こんなに美しい顔でも、赤い処があれば、見苦しいのである。
姫が見て、大笑いする。



当然、末積花のことである。

それにしても、作者は、源氏を美しいと、書く。そして、それ以上の、微細なことは、描かない。読者は、想像するしかないのである。
源氏物語の魅力とは、これである。
源氏の顔が見えない。故に、読者の想像に、委ねられるということだ。




源氏「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」と、宣へば、紫「うたてこそあらめ」とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひ給へり。空のごひをして、源氏「さらにこそ白まね。用なきすさびなりや。内裏にいかに宣はむとすらむ」と、いとまめやかに宣ふを、いといとほし、と、おぼして、寄りてのごひ給へば、源氏「平中がやうに色づり添へ給ふな。赤からむはあへなむ」と、戯れ給ふ様、いとをかしき妹背と見え給へり。



源氏が、私が、こんな、かたわになってしまったら、どうでしょう、と、言うと、紫は、嫌です、と、そのまま、染み付かないかと、心配する。
それを、ふき取る振りをして、源氏は、いっこうに、白くならない。つまらぬ、悪戯をしたものだ。主上は、どう言うだろう、と、真面目に言うと、紫は、気の毒に思い、近づいて、拭くのである。
源氏は、平中のように、他の色を、つけないで下さい。赤いくらいなら、黒いより、ましです、と、ふざける様は、実に、好ましい、夫婦のようである。

妹背と 見給へり
いもせと みたまへり
妻と、見えるのである。それで、夫婦と、見えるということになる。




日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅は気色ばみほほえみ渡れる、とり分きて見ゆ。階隠の下の紅梅、いと疾く咲く花にて、色づきにけり。

源氏
くれないの 花ぞあやなく うとまるる 梅のたち枝は なつかしけれど

いでや」と、あいなくうちめかれ給ふ。
かかる人々の末いかなりけむ。



春の日の光を浴びて、いつしかに、一面に、霞んでいる木々の梢は、いつ花咲くのか、待ち遠しいが、梅が、蕾を膨らませて、今にも、咲きかかっている。
階隠、はしがくれ、の、下の紅梅は、大変速く咲く花で、もう色づいている。

源氏
紅の色の花が、訳もなく、嫌になるが、梅の立ち枝には、心引かれる。

いでや、どうしたものか、と、苦々しく言っていまうのである。
こういう方たちの、その後は、それぞれ、どうなったのでしょうか。

最後は、作者の独り言である。

いつしかと霞わたれる梢どもの
梅は気色ばみほほえみ渡れる

これは、自然の姿を、表現しているものであるが、何と、人と同じように、書いている。
梅が、ほほえみ渡れるとは、いかなることか。

万葉では、咲くことを、笑うとも、言う。
咲くも、笑うも、同じことなのであった。

花が咲くのは、花が笑うのである。

微笑みは、笑う手前である。梅の蕾が、今更に、咲く前の、微笑みにある、というのである。

このように、日本人は、自然を愛でた。
愛を、め、とも、読んだ。
めでたいことは、愛することであり、芽出たい、ことなのである。

しかし、決して、観念としての、愛というものを、語らない。
それは、自然の描写の中に、密かに、潜ませて、また、所作の中にも、密かに、潜ませたのである。

それが、もののあはれ、というものであった。

末摘花を、終わる。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

もののあわれ337

紅葉賀の段に入る。
源氏、18歳の秋から、19歳の秋である。

朱雀院の行幸は、十月の十日あまりなり。世の常ならず、面白かるべき度のことなりければ、御方々、物見給はぬ事を口惜しがり給ふ。上も、藤壺の見給はざらむを、あかずおぼさるれば、試楽を御前にてせさせ給ふ。



朱雀院への、行幸は、十月、神無月の、十日すぎである。
この度は、特別の、催しがあるとのことで、
お妃たちは、見物の叶わぬことを、残念がっていた。
お上も、藤壺が、御覧になれないことを、不満に思し召し、試楽、しがくを、宮中で、行わせる。



源氏の中将は、青海波をぞ舞ひ給ひける。片手には大殿の頭の中将、かたち用意人には異なるを、立ち並びては、なほ花の傍の深山木なり。入りがたの日影さやかにさしたるに、楽の声まさり、物の面白き程に、同じ舞の足踏みおももち、世に見えぬさまなり。



源氏の中将は、青海波をお舞になった。お相手は、左大臣家の頭の中将である。
器量といい、物腰といい、並々の方ではないのだが、源氏の君と、立ち並ぶと、花の傍らの、深山木のようだ。
入日の輝きの中に、音楽が、美しく響き渡り、感動がいっそう深いものになる。
同じ舞でも、今日の足拍子や、お顔つきは、この世のものとは、思われない様子。

入りがたの日影さやかにさしたるに
美しい言葉である。
原文のままが、いい。

清かに、射すのである。
日の光が、清らかに射すというのは、ただ、感じ入るしかない。




詠などし給へるは、これや仏の御迦陵頻伽の声ならむ、と聞ゆ。面白くあはれなるに帝涙をのごひ給ひ、上達部皇子たちも、みな泣き給ひぬ。詠はてて、袖うちなほし給へるに、侍ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひこまさりて、常よりも光ると見え給ふ。東宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならずおぼして、「神など、空にめでつべきかたちかな。うたてゆゆし」と宣ふを、若き女房などは、心憂し、と、耳とどめけり。



詠唱される声は、これこそ、御仏の、かりょうびんが、の、お声であろうかと、思われる。
あまりの、素晴らしさに、陛下が、落涙され、公卿や皇子たちも、皆、お泣きになった。
詠唱が終わり、袖を通すと、それを待っていた音楽が、再び、賑やかに鳴り渡る。
源氏の顔の、色合いは、いつもより、更に、光り輝いて見えるのである。
東宮の女御は、このような、立派な様子に、妬ましく思う。
神などが、空から魅入りそうな様子、気味が悪いほど、と、仰るのを、若い女房たちは、嫌なことだと、聞きとがめていた。


東宮の女御とは、源氏の兄の、女御である。
東宮の、弘薇殿にも、源氏のファンがいるのだ。
女御は、源氏の美しさに、嫉妬しているのである。

しかし、ここでも、作者は、源氏が、素晴らしく美しいと、描くが、その、具体的容姿に、触れることがない。



藤壺は、「おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし」とおぼすに、夢の心地なむし給ひける。宮は、やがて御宿直なりけり。主上「今日の試楽は、青海波にことみなつきぬな。いかが見給ひつる」と聞え給へば、あいなう、御いらへ聞えにくくて、藤壺「ことに侍りつ」とばかり聞え給ふ。主上「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま手づかひなむ、家の子は異なる。この世に名を得たる舞の男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋を、えなむ見せぬ。こころみの日かくつくしれば、紅葉のかげやさうざうしくと思へど、見せ奉らむの心にて、用意せさせつる」など聞え給ふ。



藤壺は、大それたことがなければ、どんなにか、良く見ることが出来たのかと、思うのである。そうすれば、夢見心地だっただろうと。

藤壺は、そのまま、御宿直に居た。
主上が、今日の、試楽は、青海波に、尽きた。あなたは、どう御覧になったかとの、お言葉に、答えにくく、格別でございましたと、だけ申し上げる。
主上は、相手も、悪くなかった。舞ぶりや、手づかいが、良家の子弟は、違っている。世に評判の専門家たちの舞も、上手だが、技巧に走り、そのままの、なまの、美しさを忘れている。試楽の日に、かくも、上手に尽くしたゆえ、当日の紅葉の影も、淋しかろうと思うが、あなたにお見せしようと、用意をさせたのだ、なとど、仰せになる。

藤壺の宮は、複雑な心境であった。
源氏の子を宿しているのである。
それを、陛下は、知らない。
それを、隠しての、心模様である。
この、源氏と、藤壺の、関係を軸にして、物語の展開を、解釈する専門家もいる。

私は、この当時の、状況から、それが、特別のこことは、思われないのである。
この手の、話は、至るところに、あったと、思える。

また、ここで、二人の罪の意識云々という、説も、私は、支持しない。
当時の罪意識は、仏教によるものである。
もっと、別な感覚である。

それは、次第に、物語の中から、探ることにする。

古来から、日本人には、罪という意識よりも、穢れ、という意識の方が強い。
穢れることによって、迷うというのだ。
そして、この世は、迷いの世なのである。

だが、それも、辛い迷い、苦しみの迷いではない。
仏教により、人生は、苦しいものだという、観念が、入って来た。

それ以前に、人生を苦しみと、捉えたことはない。
仏教を、御祭りすることにより、次第に、その観念に、のめり込む姿がある。特に、漢語を読む者たちから、それは、始まった。

後に、罪、咎、穢れなどと、続々と、人生を否定する言葉の数々が生まれるのは、仏教の
観念的な、考え方に、冒されてからである。

また、平安貴族たちは、殊更、仏教の教えに、感応したようであり、しかし、逆にそれが、退廃的生活を、生んだとも、いえる。

無常観は、あはれ、ではなかった。
あはれ、という心象風景を、無常観と、考えると、誤る。
また、はかない、という言葉も、違う。

微妙に似ていることから、無常観を、あはれ、はかない、という言葉に置き換えたのである。
今、それを、正す。

仏教は、人生否定の立場である。
だから、輪廻から、逃れることが、救いであると、最終目標を掲げる。

だが、これについては、別のエッセイ、神仏は妄想である、で、語るので、省略する。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月27日

もののあわれ338

つとめて中将の君、
「いかに御覧じけむ。世に知らぬみだり心地ながらこそ。
 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや

あなかしこ」
とある御かへり、目もあやなりし御さまかたちに、見給ひしのばれずやありけむ。
「からひとの 祖度ふることは 遠けれど 立ち居につけて あはれとは見き
大方には」
とあるのを、かぎりなうめづらしう、「かやうの方さへたどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやられる、御后の言葉の、かねても」と、ほほえまれて、持経のやうにひきひろげて見居給へり。



翌朝、源氏から、藤壺に、どのように御覧になりましたか。生まれてはじめて、苦しい気持でした。
物思いのために、人前で、立ち舞うことなど、できそうにない私が、袖翻して、舞った心のほどを、理解されましたか。
恐れながらと、ある。
そのお返事は、目にも、鮮やかな、あの舞や、お顔を、そのまま、見過ごすことが、できなかったようであり、
異国の人が、袖を振ったという故事は、知りませんが、お手振りは、結構に思いました。
私なりに、拝見させて頂きましたと、あり、それは、舞楽のことにも、詳しく、異朝のことまでに及ぶ言葉は、后の資格があると、源氏は、自然に、微笑みて、経典のように、それを、広げて、御覧になるのである。

源氏は、藤壺の懐妊のことで、世に知らぬみだり心地ながらこそ、とい。
それは、生まれたはじめての、苦しい気持だったのである。

その心地が、物思ひ、になったのである。
乱れる心なのである。
乱れた心のままに、人前で、舞う心境ではなかった、のである。

この、乱れた心が、次第に、明確になってゆく。



行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつり給へり。東宮もおはします。例の楽の船ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗とつくしたる舞ども、くさ多かり。楽の声、鼓の声、世をひびかす。



行幸には、宮様たちをはじめ、宮廷上げて、お供申し上げた。
東宮も、お出でになる。
いつものように、船に楽人を乗せて、漕ぎ巡り、唐のもの、高麗のもの、様々な舞がある。
管弦が鳴り響き、鼓が鳴り響く。

ここで、鳴り響くを、声という。
音の響きを声という。
日本人は、音を、左脳の言語脳で、聴くのである。
欧米人は、音楽や、音をすべて、右脳、感受性の脳で聴く。

ここが、大きな違いである。
自然のすべの音も、日本人には、声なのである。
だから、自然のすべてのものが、歌を歌うという、表現をする。

音を、声と認識するのである。

風の音も、声なのであり、それは、風が、語るという。
ここに、根本的な、民族性の差がある。
これを、理解した上で、音楽というものを、語らなければ、両者共に、話が合わない。

日本の音楽は、語りである。
西洋音楽は、音である。

西洋人には、自然の音が、ただ、煩い音になる。
日本人は、自然の音が、物を語るのである。



一日の源氏の御夕影、ゆゆしうおぼされて、御ずきょうなど所々にさせ給ふを、聞く人もことわりとあはれがり聞ゆるに、東宮の女御は、あながちなり、と、にくみ聞え給ふ。垣代など、殿上人・地下も、心殊なりと世人に思はれたる、有職のかぎりととのへさせ給へり。宰相二人、左衛門の督、右衛門の督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、世になべてならぬをとりつつ、おのおの籠もり居てなむならひける。




この日、試楽の日の、夕映えに映えた源氏の姿の、美しさに、危惧を感じた帝は、諸寺に申し付けて、読経をさせた。それを、漏れ聞く人々は、もっともなことだと思うが、一人東宮の御母、女御ばかりは、大仰なことと、憎むのである。
楽人など、殿上人、地下、ぢげを問わず、優れていると、世に評判の達人ばかりを、選りすぐって、揃えた。
宰相二人と、左衛門の督、さえもんのかみ、右衛門の督の左右の楽団を指図する。
人々は、前々から、世に優れた師匠を招いて、皆々、練習したのである。

源氏の御夕影、ゆゆしうおぼされて
ここに、何か、問題がある。

それが、あまに、美しすぎて、帝が、寺寺に命じて、読経させるというのである。
夕日に映える源氏の姿の美しさは、ゆゆしう、ものがあるのか。

美しさに、危惧を覚えたとは、何かである。
物語が、進むにつれて、それが解ってくるのだろう。

また、それに対して、帝の処置に、東宮の御母、女御が、憎く思うのである。
これも、意識に留めて置きたい。



木高き紅葉のかげに、四十人の垣代、いひ知らず吹き立てるものの音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞えて吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のかがやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。



小高い、紅葉のかげで、四十人の楽人たちが、いいようもなく、演奏する楽の音に、相和した、山の松風は、これこそ、まことの、深山降ろしとばかりに、吹き、色とりどりに散る、木々の葉の中から、青海波が、舞い出た様は、素晴らしいばかりの、美しさである。



いひ知らず吹き立てるものの音どもにあひたる松風
色々に散りかふ木の葉の中より
これは、原文の言葉の力である。
音ども、と、ここでも、どもと、擬人化する。

このように、自然を理解していたということである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

もののあわれ339

かざしの紅葉いたう散りすぎて、顔のにおひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さしかへ給ふ。日暮れかかる程に、気色ばかりうちしぐれて、空の気色さへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の、色々うつろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手をつくしたる、入綾の程、そぞろ寒く、この世の事とも覚えず。もの見知るまじき下人などの、木のもと岩がくれ、山の木の葉にうづもれたるさへ、すこしものの心知るは涙おとしけり。




かざしの紅葉が、大半散り、源氏の、顔の輝きに、圧倒された感じである。
御前に咲く菊を折り、左大将が、差しかえる。
日暮れ近くになり、少しばかり時雨れて、空さえ、感動しているようである。
美しいお姿に、様々な色合いを見せる、菊の花をかざして、今日は、また一段と、技を尽くすのである。
最後の、入綾の時に、一段と輝いたお姿は、そぞろ寒く、つまり、鳥肌が立つほど、とか、ぞっとするほど、とかの、感覚である。現実のものとは、思われない姿である。
何も解るはずのない、下人たち、木の下、岩陰、山の木の葉に、埋もれている人にさえ、少しの美というものを、知る者は、涙を流すのである。


それが、源氏の舞う姿なのである。

かざし、とは、冠である。
冠や、髪に挿す花や、造花である。

入綾、とは、引き込む際に、更に戻って舞うこと。




承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、秋風楽舞ひ給へるなむ、さしつぎの見ものなりける。これらに面白きのつきにければ、こと事に目も移らず。かへりては事ざましにやたりけむ。その夜、源氏の中将正三位し給ふ。頭の中将正下の加階し給ふ。上達部は、皆さるべきかぎりよろこびし給ふも、この君にひかれ給へるなれば、人の目をもおどろかし、心をもよろこばせ給ふ、昔の世ゆかしげなり。



承香殿とは、桐壺帝の妃、女御のこと。
その、第四皇子が、まだ童形で、秋風楽を舞うのである。
それは、源氏の舞いに次ぐ、見ものである。
二つの、面白さは、ほかのことは、人目につかず、それ以外のものは、感動を削ぐうらみさえあった。
その夜、源氏は、正三位に、昇進した。
相手方の、頭の中将も、正四位下にお上がりになる。
その他の、上達部も、それぞれに応じた、昇進があった。それは、源氏の、昇進につられてのことである。
それゆえ、人の目を楽しませ、また、心まで喜ばすという、源氏の前世の、様子を知りたいと、思わせるのである。と、作者は、言う。

あたかも、現実に存在する、者の如くに、書くところが、物語である。




宮は、その頃まかで給ひぬれば、例の、「ひまもや」とうかがひありき給ふを事にて、大殿には騒がれ給ふ。いとど、かの若草たづねとり給ひてしを、「二条の院にし人迎へ給ふなり」と、人の聞えければ、「いと心づきなし」と、おぼいたり。




藤壺の宮は、その頃、里下がりをされていた。
例によって、お逢いする機会を求めて、うろうろ歩きまわっている源氏である。
左大臣の家では、大変不満である。
その上、若草の宮を引きと取ったことを、二条院には、誰やら、女を入れたと、告げ口した者がいて、以前にもまして、源氏を、非難する気持が強くなるのである。



心づきなし
心が、付かない。つまり、心無しであり、それは、心離れることである。
以前にもまして、源氏から、心が、離れるのである。




「うちうちの有様は知り給はず、さもおぼさむはことわりなれど、心うつくしう、例の人のやうにうらみ宣はば、われもうらなくうち語りてなぐさめ聞えてむものを、思はずにのみとりない給ふ心づきなさに、さもあるまじきすさび事も出で来るぞかし。人の御有様の、かたほに、その事の飽かぬとおぼゆる疵もなし。人よりさきに見奉りそめてしかば、あはれやむごとなく思ひ聞ゆる心をも知り給はぬ程こそあらめ、つひにはおぼしなほされなむ」と、おだしく軽々しからぬ御心の程も、「おのづから」と、頼まるるかたは、ことなりけり。




内輪の事を、何も知らないのであるから、そう思われるのも、もっともである。
素直に、普通の女のように、恨み言を言うならば、自分も、打ち明けて、安心させるのだが、余計な邪推をされるのは、いまいましい。
そして、つい、余計な浮気沙汰も、起こるのである。
葵の上の様子は、ここが、欠点という、はっきりとした疵は無いが、それに、最初に知った女でもあり、愛しく大切に思う、自分の心を、気づいていないのは、仕方がないとして、最終的には、その考えも直ってくれるだろうと、その穏やかで、軽々しくない、心を、いずれは、と、頼みにする。それは、他の女に対する気持とは、別である。


それは、妻であるからである。

人よりさきに見奉りそめてしかば
最初の女。最初に、契った女である。

葵の上は、左大臣の姫であり、頭の中将の、妹である。
そして、源氏の妻である。

人から、憧れられる夫を、得た女としては、何とも、しっくりとこない、風情である。
何故、そうなのかという、疑問に、作者は、答えない。
源氏は、いずれ、自分の愛情を知ってくれると、安易に考えている。

ところが、物語は、意外な方向に、展開する。

父の帝の后に、孕ませた源氏、その妻は、源氏に対して、どのような、行為で、報いるのか。
因果応報という、考え方を持って、作者は、対処するのか。

日本の、女は、恐ろしい。
叩けば泣く、殺せば、化けて出る。
情念の深さというものが、次第に、底流に流れる物語に、展開するという。
それもまた、もののあはれ、というものの、一つの側面として、捉えることにしたい。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月29日

もののあわれ340

幼き人は、見つい給ふままに、いとよき心ざまかたちにて、何心もなくむつまれまとはし聞え給ふ。「しばし殿の内の人にも誰と知らせじ」とおぼして、なほ離れたる対に、御しつらひになくして、われも明け暮れ入りおはして、よろづの御事どもを教へ聞え給ふ。手本書きて習はせなどしつつ、ただほかなりける御女を迎へ給へらむやうにぞおぼしたる。政所家司などをはじめ、殊に分ちて、心もとなからず仕うまつらせ給ふ。惟光より外の人は、おぼつかなくのみ思ひ聞えたり。かの父宮も、え知り聞え給はざりけり。




幼い姫は、親しくなるにつれて、性質も、器量も、大変よく、無邪気になついて、つきまとうのである。
今しばらくは、邸の内の者にも、身分を知らせないでおこうと、源氏は、考える。
そして、以前のように、離れた対の屋に、住まわせ、至れり尽くせりの、環境を整えて、自分も、始終そこにいらして、万事万端を教えになる。
お手本を書いて、手習いをさせながら、今まで、よそにいた娘を、引き取ったかのように、思うのである。
政所、家司などを、すべて別に設けて、姫の生活に不安のないように、お世話をする。
惟光以外の者は、不審に思うばかりである。
また、姫の父宮も、何事もご存知ないのである。

若紫も、順調に育っている。
若草ともいう。



姫君は、なほ時々思ひ出で聞え給ふ時、尼君を恋ひ聞え給ふ折多かり。君のおはする程は紛はし給ふを、夜などは、時々こそとまり給へ、ここかしこの御いとまなくて、暮るれば出で給ふを、慕ひ聞え給ふ折などあるを、いとらうたく思ひ聞え給へり。二三日内裏に侍ひ、大殿にもおはする折は、いといたく屈しなどし給へば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、ありきも静心なく覚え給ふ。



姫君が、それでも、時々、昔のことを、思い出される時は、尼君を恋しく思うことも、多い。
君の、お越しの時は、紛れているが、夜など、時々、こちらに源氏が泊まるとはいえ、あちこちと、通うところが多く、日が暮れると、外出するので、その後を、慕うこともあるのは、大そう可愛いと、思うのである。
二三日、御所にいたり、そのまま左大臣邸に、お越しになる時は、ひどく塞ぎ込んでしまい、いじらしくて、母の無い子を持ったような気持になるので、出歩きも、ゆっくり出来ないと思うこともある。

ありきも静心なく
しずこころ、とは、訳すのは、難しい。
静心なく、花の散るらん、などのように、静かな心ではなく、動揺する心、動く心である。
静心なくとは、不安でもある。

静心も、あはれというものの、風景である。
静心とは、奥床しいものでもある。

静心で、行為するのを、沈思黙考ともいう。




僧都は、かくなむと聞き給ひて、あやしきものから、うれしとなむ思ほしける。かの御法事などし給ふにも、いかめしうとぶらひ聞え給へり。



僧都は、そのことを、伝え聞いて、あやしく思うが、嬉しいと思うのである。
かの尼君の、法要をする時も、ねんごろに、弔問するのである。

あやしきものから、うれしとなむ思ほしける
どんなものかと、不安に思っていたが、その様子から見ると、良かったと、嬉しく思う。
源氏が、勝手に連れて行ったのだが、きちんと、育っていると、聞いて、安心するのである。



藤壺のまかで給へる三条の宮に、御有様もゆかしうて、参り給へれば、命婦、中納言の君、中務などやうの人々対面したり。「けざやかにももてなし給ふかな」と、安からず思へど、しづめて、大方の御物語聞え給ふ程に、兵部卿の宮参り給へり。この君おはすと聞き給ひて、体面し給へり。いと由ある様して、色めかしうなよび給へるを、女にて見むはをかしかりぬべく、人知れず見奉り給ふにも、方々むつまじう覚え給ひて、こまやかに御物語など聞え給ふ。宮も、この御様の常より殊になつかしううちとけ給へるを、「いとめでたし」と見奉り給ひて、婿になどはおぼしよらで、「女にて見ばや」と色めきたる御心には思ほす。



藤壺の、滞在している、三条の宮に、源氏は、慕って伺うと、命婦、中納言の君、中務といった、お傍付きの人々が、体面した。よそよそしい、もてなしだと思い、源氏は、少し憤慨するが、心を抑えて、世間話をしているところに、兵部卿の宮が、みえた。
源氏の君が、おいでであると聞いて、対面される。
宮は、風情ある姿に、好き者らしく、なよなよしているので、女にしてお相手したら、面白いだろうと、源氏が思う。すると、藤壺の宮や、姫君の関係も、親しみが湧いて、しみじみと、お話をする。
宮も、源氏が、いつもより、親しみやすく、打ち解けているので、大変美しいと、見られて、娘の婿になどとは、気づくこともなく、女にして、相手にしたらと、好き者らしく、思うのである。


 何とも、不思議な、下りである。
兵部卿の宮とは、藤壺の兄であり、若草の父である。

それぞれが、女にして、相手にしたらと、思って、向き合っている。
これこそ、見逃してはならない、場面である。
当時の、貴族達の、退廃振りは、甚だしいものがある。
性の楽しみによって、平和を維持しているが、別の見方をすれば、それしかないとも、いえるのである。

男を女として、相手にしてみるという、同性愛行為も、当然にあったことが、伺われる。
何でもありの、当時の性愛である。

この、宮様は、源氏を、娘の婿にと考えるが、すでに、源氏の手によって育てなれ、そのように、進んでいる。
知らぬは、自分ばかりである。
更に、藤壺とも、契り、源氏という、男は、とんでもないほどの、好色である。

それを、延々と描く、紫式部の物語に対する、執念は、凄まじいものがある。

一見して、エロ小説の形相だが、その向こうに、観えるもの、それを、時代の人々は、見つめた。

ああ、エロ小説だと、評価しても、おかしくない。
だが、原文の力は、そのエロ小説を、超える。
性愛を遥かに、超える。
大和言葉というものの、深みに沈むのである。

それは、声に出してみれば、よく解る。
言葉の美しさが、単なるものを、超えているのである。
言葉の力というものを、考えざるを得ないのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月30日

もののあわれ341

暮れぬれば御簾の内に入り給ふを、うらやましく、昔は上の御もてなしに、いとけ近く、人づてならで、物をも聞え給ひしを、こよなう疎み給へるも、つらう覚ゆるぞわりなきや。源氏「しばしばも侍ふべけれど、事ぞと侍らむこそうれしく」など、すくずくしうて出で給ひぬ。命婦もたばかり聞えむ方なく、宮の御気色も、ありしよりは、いとど憂き節におぼしおきて、心解けぬ御気色も、はづかしくいとほしければ、何のしるしもなくて過ぎ行く。「はかなの契りや」とおぼしみだるること、かたみにつきせず。



日が暮れると、御簾の内に、入られる兵部卿の宮を、君は、羨ましく、昔は、主上のお供をして、おそば近くに、直接お話申し上げたのに、今は、寄せ付けないと、恨み心が湧くのは、勝手過ぎるのである。
源氏は、時々、参上いたすべきですが、これという、御用がございませんので、自然にご無沙汰しました。出来ますことは、仰せ付けてくだされば、嬉しい限りですと、生真面目に、挨拶し、退出した。
命婦も、手引きのしようもなく、宮の態度も、依然より、憂きことと、懲りたようで、打ち解けられない態度も、気が引ける。また、気の毒に思うのである。
それで、通い路も、絶えて、時ばかりが過ぎてゆく。
儚い、宿世だと、互いに思い乱れるのである。

命婦とは、源氏を、藤壺に導いた女である。
はかなの契り
儚い契り、である。

かたみにつきせず
思い乱れる。

作者の声が入っている。
つらう覚ゆるぞわりなき
恨む心は、勝手過ぎると、言うのである。

いとほしい、を、気の毒であると、訳すか、現代の、愛しいと、訳すか。

何のしるしみなくて
藤壺と、会うことの、方法である。それが、無い。




少納言は、「おぼえずをかしき世を見るかな。これも故尼上の、この御事をおぼして、御おこなひにも祈り聞え給ひし、仏の御しるしにや」と、おぼゆ。大殿いとやむごとなくておはし、ここかしこあまたかかづらひ給ふをぞ、「まことに大人び給はむ程は、むつかしき事もや」と覚えける。されど、かくとりわき給へる御おぼえの程は、いとたのもしげなりかし。御服、母方は三月こそはとて、晦日には脱がせ奉り給ふを、また親もなくて生ひ出で給ひしかば、まばゆき色にはあらで、紅、紫、山吹の地のかぎり織れる、御こうちぎなどを着給へる様、いみじう今めかしうをかしげなり。




これは、若草のことである。
少納言は、思いがけずに、良いことになってきたと、これも、亡き尼君が、姫君のために、心配し、朝夕のお勤めに、祈願された、仏の御加護の御蔭だろうかと、思われる。
左大臣邸には、れっきとした、北の方がいらっしゃるが、その他にも、色々と、世話をしている方がいらっしゃる。
それゆえ、姫が、一人前になると、面倒なことになるのではと、思う。しかし、源氏の君の、寵愛は、行く末が、頼もしいのである。
喪服の期間は、母方は、三ヶ月である。
十二月末に、喪服を脱がせたが、祖母君のほかには、母もなく、育ったので、派手な色の着物ではなく、紅、紫、山吹などの無地の、こうちぎを、着られる様子は、今流行りで、可愛らしいのである。




大殿
左大臣の姫であり、源氏の妻、北の方である。

こうちぎ
着物である。当時の普段着。



男君は、朝拝に参り給ふとて、さしのぞき給へり。源氏「今日よりは、大人しくなり給へりや」とて、うち笑み給へる、三尺の御厨子一よろひに、品々しつらひすえて、また小さき屋ども作り集めて奉り給へるを、所狭きまで遊びひろげ給へり。若君「難やらあふとて、犬君がこれをこぼち侍りにければ、つくろひ侍るぞ」とて、いと大事とおぼいたり。源氏「げにいと心なき人のしわざにも侍るなるかな。今つくろはせ侍らむ。今日は言忌みして、な泣い給ひそ」とて、出で給ふ気色、所狭きを、人々端に出でて見奉れば、姫君も立ち出でて見奉り給ひて、雛の中の源氏の君つくろひ立てて、内裏に参らせなどし給ふ。




源氏は、元旦の朝拝に出られるということで、若草の部屋を、覗いた。
源氏は、今日からは、大人になりますねと、微笑んで言う。
姫君は、三尺の対の厨子に、様々な人形を並べて、忙しそうだ。
様々な道具を飾り、小さな御殿を多く作り、部屋じゅうを使い、遊んでいる。
姫は、鬼払いをするといって、犬君が壊したので、つくろっていますと、重大なことのように言う。
源氏は、それは、粗相をしましたね。すぐに、直させましょう。今日は、目出度い日ですから、泣いてはいけませんよと、仰り、出掛ける様子は、非常に威勢ある様子である。
それを、女房たちが、縁に出て、拝見する。
姫君も、一緒にお見送りする。
人形の中の、源氏を、飾り立て、参内させてて、遊ぶのである。


難を払うと、鬼やらひの式をするのは、十二月晦日の日に行われる。

所狭きを
源氏の姿で、場所が、狭く感じられる。つまり、源氏の威風堂々とした様を、言う。




少納言「今年だに少し大人びさせ給へ。十あまりぬる人は、雛遊びは忌み侍るものを。かく御をとこなどまうけ奉り給ひては、あるべかしうしめやかにてこそ、見え奉らせ給はめ。御髪まいる程をだに、もの憂くせさせ給ふ」など、少納言聞ゆ。遊びにのみ心入れ給へれば、「はづかしと思はせ奉らむ」とて言へば、心のうちに「われはさはをとこまうけてけり。この人々のをとことてあるは、みにくくこそあれ。われはかくをかしげに若き人をも持たりけるかな」と、今ぞ思ほし知りける。さはいへど、御年の数そふしるしなめりかし。
かく幼き御けはひの、事にふれてしるければ、殿のうちの人々も、「あやし」と思ひけれど、いとかう世づかぬ御添ひ臥しならむとは思はざりけり。




少納言は、年が明けたのですから、少しは、大人になってください。十を過ぎた人は、もう、お人形遊びなどしてはいけないと、申します。それに、婿さまもおありなのですから、奥方らしく、しとやかに、お相手しなければなりません。御髪を直す間さえ、嫌がるのですね、などと、少納言が申し上げる。
遊びに、熱心なので、少しは、意見するのである。
すると、姫は、心の中で、自分は、それでは、夫を持ったのだ。この人たちが言う、夫というのは、醜い人ばかりだが、私は、こんなに美しくて、若い人を夫にしているのだと、はじめて、気づくのである。
それは、一つ、年をとったせいでしょう。
このように、幼い様子が、何かの機会に解るので、殿の内の人々も、不思議に思うが、このような夫婦らしからぬ、夫婦とは、思いもしないのである。


世づかぬ御添い臥し
世の中の夫婦らしからぬ、夫婦と訳すが、御添い臥しとは、同衾することであり
それを、夫婦と解釈する。

あやし
おかしい、変だ、不思議だと、色々に訳すことが出来る。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。