2008年07月06日

もののあわれ236

源氏物語に、分け入ることにする。

私は、源氏物語を、研究するのではない。
世界最古の小説から、もののあわれ、というものを、読み取るのである。

源氏物語に関しては、数多くの解説、研究、その他諸々あるが、私には、あまり興味が無いものである。

最初の小説であるから、小説というものの、書き方など、非常に興味があるが、もう、それも、失せた。
私の、興味があるのは、ただ、物語の中に描かれる、もののあわれ、というものの、有り様である。

それは、大和心と言われる、万葉から、始まり、いや、それ以前から日本人の、心象風景として、存在した。
万葉集によって、それが、記録として、残された。

大和心を、尋ねると、そこには、必ず、もののあわれ、という、心象風景が、広がる。
私は、源氏物語を、その一点で、読む。

明治期になって、西洋の文学手法から、学問として、源氏物語が、研究されたが、物語、小説とは、端的に、娯楽である。
芸術として、云々するのは、否定しないが、面白くなければ、意味が無い。
生きるためではなく、人は、死ぬまでの、暇つぶしに、様々なことに、挑戦する。
小説というものも、その一つであり、それ以外の、何物でもない。

古典は、昔の言葉であるから、読みにくい。そして、古語は、意味が、解らない。解らないものは、面白くない。故に、古典は、一部の人によって、愉しまれる。
それはそれでいい。
新しい物語は、いつの時代も、生まれる。

楽しいならば、源氏物語を、原文で、通して読むことであるが、無理をする必要はない。また、現代文にて、訳されたものを、読んでもいい。
要するに、これこそ、唯一という、読み方は無い。
一生、読まない人もいるだろう.

小説とは、その程度のものである。

私は、源氏物語から、もののあわれ、というものを、観るべく、自然描写、風景描写からみる。
本居宣長は、もののあわれ、を、人と人の触れ合いから、観た。
恋する者の、心の綾から、観た。

平安期の、色好みとは、恋愛の様を言う。
今に至るまで、人間のテーマは、変わらない。
恋愛である。

中には、冷血人間がいて、恋愛などとは、程遠い者もいるだろうが、それはそれで、いい。無理をすることはない。

日本人は、もののあわれ、という、心象風景を、多く、恋の中に観た民族である。
源氏物語も、その一つの切り口に過ぎない。

日本人の、心象風景に、いつもいつも、一本の道がある。
それが、もののあわれ、である。

それを、源氏物語からも、観るとする。

何故、私が、自然描写と、風景描写から、それを、観るのかといえば、簡単である。物語を、初めて書くということは、物語とは、何かということを、いつも、考えて書くであろう。そして、内容は、多く、他に影響される。
実際に、それを、研究する者も多い。

このお話は、どこそこの、どれに、影響された云々。
しかし、自然描写、風景描写は、他に影響されない。当時の見たままであろう。

山川草木を、紫式部が、見たままを、書くのである。
それは、また、日本人の、原風景ともあるものである。

であるから、一切の余計な、解説はしない。
原文を、上げて、それを、もののあわれ、という、一点で、観るのである。

桐壺

いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。

こうして、はじまる。

いずれの時と、明確にしない。
お話は、昔々と始まるのであるが、いずれの時にか、と、曖昧にする。
ありけり。
そして、それが、あったと結ぶ。
長い長い物語が、始まる。

物語は、書き出しで、決まるというが、それならば、これは、名作である。

いとやむこどなき きはには あらぬが
特別な家柄ではないが。
すぐれて時めき給ふ ありけり
特に寵愛を、受けた、お方がいた。
それを、桐壺更衣と言う。

その、桐壺が、玉のような、子を産み、急死した。

その、桐壺の、辞世の句である。

かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり

いかまほしきは
行く、生く、とを、かける。

勿論、物語にある、歌は、すべて、紫式部の歌である。

想定して、歌を詠むとは、今までに無いことであった。
新古今辺りから、想定した歌を、多く詠むことになるが、紫は、その、先駆けである。

生きたいのは、行きたいのである。
限りあると知る、命であるが、生きたい。別れたくない。別れて逝きたくないのである。

人は、いつの時代も、そのように思い、死んでいった。今、現在もそうである。
誰もが、歌い、詠むべき歌である。

さて、その、桐壺の段にある、風景描写を見る。

野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、つねよりもおぼし出づる事多くて、ゆげひの命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがてながめおはします。かうやうの折りは、御あそびなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞え出づる言の葉も、人より異なりしけはひかたちの、面影につと添ひておぼさるるにも、やみのうつつにはなほ劣りけり。

野分が立ち、風が吹く。
肌寒い夕暮れである。
いつもより、いっそう故人を思い、ゆげひの命婦を遣わした。
夕月夜の美しい時刻に、命婦を、出かけさせ、そのまま、深く物思いに沈む。
ながめおはします。
これは、帝の心境である。
眺めるのである。我が心を。
以前なら、こうした月夜は、音の遊びなどをし、更衣は、その中に加わり、
心ことなる物の音をかき鳴らし
優れた音楽の才を発揮し、また、
はかなく聞え出づる言の葉
儚き歌さえも、優れていたのである。
面影は、帝の目に、立ち添い、消えない。
やみのうつつにはなほ劣りけり
しかし、闇の現、現実の闇の中では、無いものである。
幻は、闇に適わないのである。

野分、肌寒き夕暮れ、夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、である。
闇の迫る、夕暮れは、特に、物悲しいものだった、当時を思い浮かべると、その様、心に与えぬ訳は無い。
風景は、心模様であった。
それほど、自然と、切り離せない生活なのである。
野分が立てば、心に風が吹くのである。
現実の風だけではなく、心に風が吹くのである。
そのような、人の生活を、想像して、読むことだと、思う。


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2008年07月07日

もののあわれ237

桐壺

月は入りがたの空きよう澄みわたれるに、風いとすずしくなりて、草むらの虫の音もよほしがほなるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

命婦
鈴むしの 声の限りを 尽くしても 長きよあかず ふる涙かな

えも乗りやらず。

母君

いとどしく 虫のねしげき あさぢふに 露おきそふる 雲のうへ人

かごとも聞えつべくなむ」と、言はせ給ふ。


母君を、見舞う命婦が、帰り支度をする。

月夜の空が、澄み切った中、涼しい風が吹く。
草むらの虫の音が、心に響くのである。
いと立ち離れにくき草のもとなり
帰ろうとするが、その風情に、中々、帰ることが出来ない。

すずむしの こえのかぎりを つくしても ながきよあかず ふるなみだかな

車に乗ろうとした、命婦は、歌を口ずさむ。
あの鈴虫の、声の限りを尽くして鳴くように、長い夜を、泣き明かすことである。

いとどしく むしのねしげき あさぢふに つゆおきそふる くものうへひと

雲のうへ人は、命婦のことである。
虫の音に、あなたも、涙を流されますか。この、浅茅の、草深い上に、涙を置いてゆかれますか。

かえって、ご訪問が、恨めしいと、母君が、女房に言わせた。

桐壺更衣の、突然の死を、嘆き悲しむ、帝を中心とした、人々の心を、描く、桐壺の巻である。

その、桐壺更衣の、母君も、亡くなる。
残されたのは、皇子である、光の君である。

作者は、光を、源氏の君と、呼ぶ。

帝の歌

尋ねゆく まぼろしもがな つてにても たまのありかを そこと知るべく

亡き人を、尋ねるために、道士でもよし、その魂の、在り処を知りたい。

雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ あさぢふのやど

雲の上の、秋の月も、涙にくれる。
どうしてこの世に住むというのか。生きているというのか。
浅茅生、あさじふ
浅茅が生える、草深い宿に。

桐壺の巻に、藤壺の宮の、入内がある。

兎も角も、桐壺の更衣の、亡き事を、悲しむ。
そして、桐壺更衣に対する、多くの人の嫉妬などの、こと度もが、語られる。

光源氏の、名の由来は、
光る君といふ名は、こまうどのめで聞えて、つけ奉りける、とぞ言ひ伝えたる、となむ。

高麗人の、人相見の言葉から出たという。

その様、桐壺の巻に、書かれてある。

物語は、帝が寵愛する、桐壺の、突然の死によって、幕を開けた。
そして、残された、皇子は、桐壺に似た、美しい男子である。
更に、藤壺の入内は、光る君の、憧れとなった。
母の顔を、知らない、光は、藤壺を慕うのである。

この、桐壺の巻は、多くの研究家の、想像を逞しくしたようである。

いづれの御時にか
ある、研究家は、平安期の、表現を辿り、この表現によって、あたかも、実在の物語が、背後にあるかのように、見せかけることが出来るという。
それは、単なる、見せかけであり、勿論、事実ではない。
しかし、実在しない物語が、真に迫るものになっているのは、作者の、天才的文才であろう。

最初に言った。
物語は、面白いか、面白くないか、である。
当時の人、実に、面白く読んだであろう。

桐壺の最後の段は、光の君の、元服と、左大臣の家へ、婿として入ったことである。

余談であるが、物語の随所に、当時の、風習などが、描かれている。
細心の注意を、払い読むと、皇子などの、元服の際に、公卿などの、少女をおそばに、臥させるというものがある。
それは、つまり、共寝をするということで、暗に、男女の関係を、教えるというものである。

また、男女のことだけではない。
当時は、男性同士の触れ合いが、当然の如くにあったという、事実も伺われる。
それは、私の解釈、読みであるが、追々と、書くことにする。

私は、素人である。
素人ととして、源氏物語を、読んでいる。


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2008年07月08日

もののあわれ238

ははき 木

光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふとが多かなるに、いとど、かかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむと、しのび給ひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人のものいひさがなさよ。さるは、いといたく世をはばかり、まめだち給ひけるほど、なよびかにをかしき事はなくて、交野の少将には笑はれ給ひけむかし。

光源氏、その名で、見事な、人生を、謳歌したように、思われる。自由奔放な恋愛、好色な生活が、世の中に伝えられるようである。
しかし、実際は、それとは、別に、地味な心持、生活であった。
それに、恋愛に関して、後に、誤って伝えられることを、恐れ、異性との関係を、人に知られぬようにしていた。
ここに書くようなことが、伝わっているのは、世間の、噂が、激しいのである。
いといたく世をはばかり
世の中を、憚り、自重して、恋愛、好色には、遠い。
好色物語の、交野少将などには、笑われていたことであろう。

書き出しである。
作者は、実在の物語であると、強く語るのである。
創作の物語を、更に、強く、実在にあるかの如くに、説得する。

ここで、紫式部は、この物語を、すべて作り上げて、書き始めたと想像出来る。
余裕、たっぷりである。

あたかも、人に聞いたかのように、順々に、物語する。
誰かに、話をするようにである。

まだ中将などにものし給ひし時は、うちにのみさぶらひようし給ひて、おほいとのにはたえだえまかで給ふ。しのぶの乱れやと疑ひ聞ゆる事もありしかど、さしもあだめき目なれたるうちつけのすきずきしさなどは、好ましからぬ御本性にて、まれには、あながたちにひきたがへ、心づくしなる事を、御心におぼしとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

中将時代は、宮中の宿直所に、暮らして、時々、舅の左大臣の家にゆく。
それで、他に、恋人を、持っている疑いを掛けられたが、世間にあるような、好色な男の生活は、嫌いだった。
まれには、あながたちにひきたがへ
稀に、風変わりな、恋をして、手ごわい相手に、心を打ち込んだりする、癖はあった。

しのぶの乱れやと疑ひ聞ゆる事もありしかど
春日野の 若紫の すり衣 しのぶの乱れ 限り知られず
伊勢物語

素性も知れぬ女に、一目惚れすることを言う。

この巻は、女の品定めをする。非常に興味深い巻である。
当時の、女性観を知ることが出来る。
少し、深入りする。

なが雨はれまなき頃、うちの御物忌さしつづきて、いとどながい侍ひ給ふを、おほいとのにはおぼつかなくうらめしくおぼしたれど、よろづの御よそひ、なにくれとめづらしきさまに、調じ出で給ひつつ、御むすこの君たち、ただこの御とのい所の宮仕へを勤め給ふ。

長雨とは、梅雨時期である。
帝のご謹慎が、幾日かあり、臣は、家に帰らず、宿直する。
このような日々が続き、源氏の御住まいも、長くなった。
大臣の家では、来ない源氏を、恨めしく思っていたが、衣装や、贅沢な調度品を御所の、桐壺へ運ぶ。
左大臣の、息子たちは、宮中の用をするより、源氏の宿に、通うことが、楽しいのである。


宮腹の中将は、なかに親しくなれ聞え給ひて、あそびたはぶれをも、人よりは心やすくなれなれしくふるまひたり。右のおとどのいたはりかしづき給ふ住みかは、この君もいとものうくして、すきがましきあだ人なり。里にても我がかたのしつらひまばゆくして、君の出で入りし給ふに、うちつれ聞え給ひつつ、よるひる、学問をもあそびをももろともにして、をさをさたちおくれず、いづくにてもまつはれ聞え給ふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふ事をも隠しあへずなむ、むつれ聞え給ひける。

中では、宮腹の中将は、最も源氏と、親しくなった。
遊戯をするのも、何をするのも、多の物に、及ばないほど、親交を深めた。
大事にしてくれる、右大臣の家へ行くことも、この人は、嫌いである。
結婚した男は、誰も妻の家で、過ごすのだが、この人は、親の家に、立派な居間や、書斎を持っていた。
源氏か出る時は、昼も夜も、学問をするのも、遊びをするのも、一緒だった。
おのづから かしこまりも えおかず
謙遜することもなく、敬意を、表することも忘れた。
むつれ聞え給ひける
仲良しである。
しかし、これは、尋常ではない。

睦み合うということである。
誰も言わないので、私が言う。
同性愛行為も、あるという。

当時の、交接は、男女の関係のみではない。実に、曖昧である。
それに、関しては、未分化であり、更に、そのような行為は、自然容認されていて、特別なことだとは、思わないのである。

美貌の源氏であるから、男も、放っておかないのである。

恋とは、女とするもの。
それを、好色という。
男同士の、睦み合いは、自然、当然として、書くこともない。

さて、この巻では、女の多様な姿を、皆が披露するのである。

その前に、

つれづれと降り暮らして、しめやかなるよひの雨に、殿上にもをさをさ人ずくなに、御とのい所もれいよりはのどやかなる心ちするに、おほとなぶら近くて、文どもなど見給ふ。

上記の文、大和言葉である。源氏物語は、すべて、大和言葉である。
物語は、女子供のものという意識があったのは、正式文書、男が書くものは、当時は、皆、漢語である。
漢字平仮名交じりの文は、女房文学といわれ。そして、その、女房文学は、源氏物語で、幕を開けたのである。更に、日本の文学の幕開けでもある。

一日中、雨が降り続き、何もできない様子である。
その、しめやかなる、夕方である。
殿上の役人たちも、少ない。源氏の桐壺も、静かである。
そこで、灯を点して、書物を見ていると、その本を取り出した、置き棚にあった、色の紙に書かれた手紙を、中将は、見たがった。

さて、これから、源氏と、中将の女についての、語りが始まる。
物語は、中将の女の品定めを語る。

更に、そこに、左の馬の頭と、藤式部の丞が、加わり、女談義に、花が咲く。

様々な女の姿を、源氏は、聞くことになる。
特に、左の馬の頭の、中流の女の話に、興味を惹かれる。
これが、源氏の、恋愛遍歴の、始まりになるのである。

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2008年07月09日

もののあわれ239

源氏に、女談義を、聞かせる、男たちの話は、面白いが、私のテーマは、もののあわれについて、であるから、省略して、中に、もののあわれ、について、触れる話があるので、抜き出す。

それは、左の馬の頭の論にある。

事が中になのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと見えたるに、またまめまめしきすぢをたてて、耳はさみながら、美相なきいへとうじのの、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、おほやけわたくしの人のたたずまひ、良き悪しき事の、目にも耳にもとまるありさまを、うとき人に、わざとうちまねばむやは。

事が中に なのめなるまじき人の
妻に必要なのは、家庭を預かることです。
もののあはれ知りすぐし
ここでは、文学的才能とか、文学趣味とか、才気のことを言う。
書き物、物書きを、よくする事を、もののあはれ知りと、解す。
それは、また、歌をよくするという意味でもある。

はかなきついでの情あり をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと 見えたるに
儚きついでの情あり、とは、矢張り、そのような素質のあるという。
それを良くすることであるが、そんなものは、別に、無くてもいいのだ。

真面目で、形振り構わず、髪を煩がり、耳の後に、はさんでばかりいる。
ただ、物の世話だけを、やってくれる。でも、そんなんでは、少し、矢張り、物足りない。
勤めに出れば、出るで、帰れば帰るで、公のことなど、友人や先輩のことなど、話しすることは、多くある。
それは、他人に言えません。
理解ある、妻にしか話せないのでは、つまらない。要するに、話を聞いてくれる妻がいい。


近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに、語りも合わせばやと、うちもえまれ、涙もさしぐみ、もしはあやなきおほやけはらだたしく、心ひとつに思ひ余る事など多かるを、なににかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひで笑ひもせられ、あはれ、ともうちひとりごたたるに、「なに事ぞ」など、あはつかにさし仰ぎ居たらむは、いかがは口をしからぬ。

この話を、早く聞かせたい、妻の意見も聞きたいと思う。
そうすると、一人でも、笑みが湧いてくる。また、涙ぐまれもする。
また、公のことで、怒りをもっても、我が心に、しまえぬ時、それを話す妻ではないと、思えば、一人で、思い出し、笑う。哀れだと、独り言を言う。
そんな時に、何ですか、と、平然として、こちらの顔を、見るような、妻では、たまらない。

そうして、暫くの談義が、続くのである。
それは、明かし給ひつ、というように、朝まで、続いたのである。

中でも、源氏が惹かれた話は、左の馬の頭の、中流階級の女の話である。
それに、興味を持ち、源氏の、恋愛遍歴が始まるのである。

この巻の、後半に、年上の人妻である、空蝉という女性との、やり取りがある。


からうじて、今日は日のけしきもなほれり。かくのみこもりさぶらひ給ふも、おほい殿の御心いとほしければ、まかで給へり。大かたの気色。人のけはひも、けだかく、乱れたる所まじらず。「なほこれこそは、かの人々の捨てがたく取りいでし、まめ人には頼まれぬべけれ」とおぼすものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひ静まり給へるを、さうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、たはぶれごとなど宣ひつつ、暑さに乱れ給へる御ありさまを、「見るかひあり」と、思ひ聞えたり。

ようやく、今日は、晴天である。
このように、宮中にいることばかりでは、左大臣の家の人々に、申し訳ないと、思いつつ、家に行った。
人の気配も、乱れなく、こんなことが、真面目だという、昨夜の談義の者たちは、気に入るだろうと、思った。
源氏は、今も、作法通り、打ち解けない夫人であることを、物足りなく思う。
中納言の君は、中務などという、若い女房たちと、冗談を言い、暑さに、部屋着だけになる、源氏は、それを見て、美しいと思い、それを、幸せだと、思った。


おとどりも渡り給ひて、うちとけ給へれば、御凡帳へだてておはしまして、御物語聞え給ふを、源氏「あつきに」と苦み給へば、人々わらふ。源氏「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまいなりや。


大臣も、娘の方へ出て来た。
部屋着になっているので、凡帳を隔てた席に着こうとするので、「暑いのに」と源氏が顔を、しかめると、女房たちが、笑った。
「静かに」と、脇息に、寄りかかった様子に、品の良さが伺える。

人間描写が、もののあわれ、である。
文芸的センスに溢れる。

源氏の立ち居振る舞いが、状況にて、自ずと知られるように、描かれるのである。

大和言葉による、風情というものもある。
言葉にも、雅というものがある。
この、雅の中に隠す、あはれ、という、心象風景は、源氏という人物を通して、自然と、沁みてくるのである。

文中では、もののあはれ、とは、文の嗜みなどを、言う。
生活の中に、息づく、歌心である。
それが、いつしか、人の心の、有り様となって、静かに、もののあはれ、というものを、成長させるのである。

歌道とは、和芸の大元である。
文学というものに、まだ、目覚める前の、原始の状態である。
文の学びはあるが、体系としての、文学という意識は、まだ、希薄である。しかし、私がいうのは、明治期に、西洋の文学を取り入れて、文学として、意識したものとは、違う。

和芸としての、文学、つまり、文習いである。

漢籍を、学ぶことで、文というものを、それに、合わせて、学んだが、歌を詠むのは、漢籍を能くする者も、大和言葉による。

源氏物語は、分岐点でもあった。
歌道への、道と、文芸への、道と、まさに、今、生まれでようとしていた。
だが、文芸の中にも歌道は、しっかりと、取り込まれているのである。

歌道無くして、文芸は無いのである。
歌は道であるが、文は、芸の道として、新たに、生まれ出るである。

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2008年07月10日

もののあわれ240

守、「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿のひんがしおもて払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の音ばへなど、さるかたにをかしくなしたり。いなか家だつ柴垣して、前栽など心とめて植えたり。風すずしくて、そこはかとなきき虫のこえごえ聞え、蛍しげく飛びまがひて、をかしき程なり。

紀伊の守が、急なことと、言うのを、他の家来は、耳に入れないで、寝殿の東の座敷を、掃除させ、主人に提供した。
宿泊の準備が出来たのだ。
庭に通した、もずの流れなど、地方官級の家としては、凝っている。
わざと、田舎の家らしく、柴垣などがあり、庭の植え込みも、よくできている。
涼しい風が、吹き、どこからともなく、虫の音が聞こえ、蛍が、多く飛んで、たいそう、面白いものである。

人々渡殿より出でたる泉にのぞき居て酒のむ。あるじもさかな求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめ給ひて、「かの中の品にとりいでて言ひし、このなみならむかし」と、おぼしいづ。

源氏の、従者たちは、渡殿の下をくぐる水の流れを、眺めて、酒を飲んでいる。
紀伊守が、主人を待遇するために、奔走しているとき、一人でいた、源氏は、家の中を眺めて、前夜の話にでた、中の品に入る家であろうと、その話を、思い出しいてた。

思ひあがれる気色に、聞き給へる女なれば、ゆかしく、耳とどめ給へるに、この西おもてにぞ、人のけはいする。きぬの音なひ、はらはらとして、若き声ども憎からず。さすがにしのびて笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。

思い上がった娘だと評判の、伊予の守の娘、すなわち紀伊守の妹であるから、源氏は、はしめから、それに興味を持っていた。
どのあたりの、座敷にいるのであろうと、物音に、耳を立てていた。
この西に続いた部屋で、女の絹ずれが、聞こえ、若々しい、なまめかしい声で、しかも、さすがに、声をひそめて、物を言うのに気がついた。
わざとらしいが、悪い気はしなかった。

格子をあげたりけれど、守、「心なし」と、むづかりて、おろしつれば、火ともしたるすきかげ、障子の紙よりもりたるに、やをら寄り給ひて、「見ゆや」と居たるなるべし、うちささめき言ふ事どもを聞き給へば、我が御うへなるべし。

はじめは、縁の格子が、上げたままになっているのを、紀伊の守が、不用意だと、叱って、今は、戸が下ろされている。
その部屋の、火影が、唐紙の隙間から、赤く、こちらに射していた。
源氏は、静かに、そこに行き、中が見えるかと、思ったが、それ程の、隙間はない。
少し聞いていると、低いさざめきは、源氏が、話題にされているらしいのである。


「いといたうまめだちて、まだきにやむこどなきよすが、定まり給へるこそ、さうざうしすめれ。されど、さるべきくまには、よくこそ隠れありき給ふなれ」など言ふにも、おぼす事のみ心にかかり給へば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人の言ひもらさむを、聞きつけたらむ時、など、おぼえ給ふ。ことなる
事なれば、聞きさし給ひつ。

「まじめらしく、早く、奥様を、お持ちになったのですから、お寂しいわけですね。ずいぶんと、隠れて、お通うところがあるようです」
源氏は、そんな言葉に、はっとした。
あるまじき恋を、人が知り、こうした噂を、流されたらと、思うのである。
しかし、話は、ただ事ばかりであり、それらを、聞こうとせず、興味が起きなかった。

式部卿の宮の姫君に、あさがほ奉り給ひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞ゆ。「くつろぎがましく、歌ずんじがちにもあるかな。なほ見劣りはしなむかし」と、おぼす。守いできて、燈籠かけそへ、火あかくかかげなどして、御くだものばかり参れり。

式部卿の宮の、姫君に、朝顔を贈った時の歌など、誰かが、得意そうに語っていた。
行儀悪く、会話の中に、節をつけて、歌を入れたがる人たちだ。
中の品が、おもしろいといっても、自分には、我慢ではないこともあると、思った。
紀伊守が、燈籠の数を増やしたり、座敷の灯りを、更に明るくした。
そして、主人に遠慮しつつ、菓子のみを、献じた。


源氏「とばり帳もいかにぞは。さるかたの心もとなくては、めざましきあるじなるらむ」と宣へば、守「なによけむ、とも、え承らず」と、かしこまりてさぶらふ。はしつかたのおましに、仮なるやうにて大殿籠れば、人々も静まりぬ。

源氏「我が家は、とばり帳をも、掛ければという歌。大君、来ませ婿にせん。そこに気がつかないのでは、主人の手落ちかもしれない」
「通人ではない、主人で、申し訳ありません」
紀伊の守は、縁側で、畏まっている。
源氏は、縁に近い寝床で、仮寝のように、横になっていた。
付き人たちも、もう、寝たようである。

何気ない、一こまの出来事である。

その中に、当時の風習などが、垣間見える。
源氏物語の、楽しさは、そうところでもある。
少し、見方を変えると、別の風景が、広がる。

庭に、水の心ばえなど、さるかたにをかしくなしたり。
庭に水を引いて、その様、涼しげで、風情ある趣である。

いかな家だつ柴垣
雑木の枝を編んだものである。
それを、田舎風という。

庭は、主人や、住む者の、心模様を、表す。

この後、源氏は、女房の部屋に、忍び込むことになる。

その顛末を書くかどうかと、考えている。
また、その後で、その女の弟を、使用人として、召すという。
この子は、小君というが、その小君と、源氏のやり取りが、面白い。

その小君の、姉との、やり取りに、小君を利用するのであるが、小君も、源氏に愛されるという。
勿論、それを、性愛という形にするのではない。
当時の、風習を見るものである。

源氏が、女性遍歴をしたという物語と、ばかりに、解釈されるが、そこには、裏から見ると、同性愛的、行為の多いのに、驚く。
流石に、紫式部である。
密かに、文の中に、忍ばせている。
最も、当たり前のことであるゆえ、当時の人が読めば、何のことはないのである。

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2008年07月11日

もののあわれ241

あるじの子どもをかしげにてあり。わらはなる、殿上のほどに御覧じなれたるもあり。
伊予の介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二三ばかりなるもあり。

紀伊の守は愛らしい子供を幾人ももっていた。
御所の侍童を勤めている子もいる。
多くの中には、伊予の子もいた。
その中には、上品な、十二三の子もいる。

源氏「いづれかいづれ」など問ひ給ふに、紀伊の守「これは故衛門の督の末の子にて、いとかなしくし侍りけるを、をさなき程におくれ侍りて、姉なる人のよすがに、かくて侍るなり。才なども付き侍りぬべく、けしうは侍らぬを、殿上なども思う給へかけながら、すがすがしうはえ交らい侍らざめる」と申す。

源氏は、どれが、弟で、どれが、子供かと、問う。
紀伊の守は、ただ今通りましたのは、亡くなりました、衛門の督 えもんのかみ、の末の息子で、可愛がられていました。幼き頃、父親に別れ、姉の縁で、ここにいます。将来のためにも、御所の侍童を勤めています。姉の手だけでは、中々、うまくゆきません。


源氏「あはれの事や。この姉君や、真人の後の親」守「さなむ侍る」と申すに、源氏「似げなきおやをもまうけたりけるかな。うへにも聞し召しおきて、宮仕へにいだしたてむと漏らし奏せし、いかになりにけむと、いつぞや宣はせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよずけ宣ふ。守「不意にかくてものし侍るなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も定まりたる事侍らね。なかについても、女の宿世は、浮かびたるなむあはれに侍る」など聞こえさす。

源氏は、あの子の姉さんが、君の、継母なんだと言う。
守は、そうですと、答える。
似つかわしくない、母を持ったものだ。その人のことは、陛下もお聞きになっていた。宮仕えに出したいと、衛門が申していたが、その娘は、どうなったのかと、いつか、お言葉があった。人生は、どうなるのか、解らない。と、源氏が言う。
不意に、そうなったのです。人というものは、今も昔も、意外な顛末を送るようです。その中でも、女の、運命は、実に、儚いものでございます。と、紀伊の守が、言う。

ここに、紫式部の、女に対する、考え方が見て取れる。
女の宿世は、浮かびたるなむあはれに侍る

宿世、すくせ
運命、定めと、訳すか。
宿業とも、言う。

女は、持って生まれて、浮かびたるなむあはれ、なのである。
関わる男によって、その人生が翻弄されるのは、今も昔も、変わらない。ただし、現代は、女は、女の道を、生きることができる。
要するに、主体的に、生きることができるのである。
戦後、ようやく、そのように女も、生き方を、決めることが出来るようになった。実に、長い間、女は、男の人生に翻弄された。

この世は、男の世であった。
勿論、そんな世の中でも、自由奔放に生きる女もいたには、いたが、少ない。
それてとて、当時は、和泉式部の程度である。

女の人生に、あはれ、という言葉を、用いる。
女の人生は、あはれ、である。
しかし、別の見方をすると、男の人生も、あはれ、である。

男と女の、区別による、それぞれの、あはれ、というものを、生きていると、当時は、考えた。

好色とは、恋愛であるが、恋愛は、セックスである。当然、子供が、生まれる。
当時は、女の実家で、子育てが、行われた。
男が、父親の意識を、強く持つには、それ相当の、思い入れがなければならないのである。

あはれ、の前に、浮かびたるなむ、と言う。
浮かびたるなむ
風に翻弄される、木の葉のような、情景である。

この、あはれ、という言葉の原型を、求めて、源氏物語を旅する。


源氏「伊予の介はかしづくや。君と思ふらなむ」守「いかがは。わたくしの主とこそは思ひ侍らずなむ」と申す。源氏「さりとも、真人たちの、つきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介はいとよしありて、気色ばめるをや」など、物語りし給ひて、源氏「いづかたにぞ」守「皆下屋におろし侍りぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞ゆ。酔いすすみて、皆人々すのこに臥しつつ、静まりぬ。

源氏は、伊予介は、大事にするだろう。主君のように、思うだろう、と言う。
介は、いかがは、と言う。さて、どうなのか、という。
私生活の主です。好色すぎると、私をはじめ、兄弟たちが、苦々しく思います、と言う。
源氏は、君などの、良い男に、伊予介は、譲らないだろう。あれは、年を取っても、風格があり、立派だ。など、話し合うのである。
源氏は、その人は、どちらにいるのかと、問う。
皆、下屋の方へ、やってしまいましたが、少しは、残っています。と、介が言う。
深く酔った、家臣たちは、皆、夏の夜を、板敷きで、仮寝をしていた。
源氏は、眠られないで、過ごす。

伊予の子が、紀伊の守である。
当時の、親子関係、女性関係は、複雑である。
父親の女と、息子が、交わることもある。
それを、明確にすると、罪の意識が生まれた。

眠られぬ源氏は、この後、その娘、女のいるであろう、部屋に向かう。

紫の、筆は、女心の、微妙繊細な、心境を、描き出す。

源氏と、女の、やり取りの中に、もののあわれ、というものを、観たのが、本居宣長である。
私は、それを、省略して、先に続ける。

あくまでも、風景描写、自然描写にある、もののあわれ、というものを、観ることにする。

その、人間の有様も、風景描写であるのは、当然である。
特に、会話の中に、当時の、人の心の様が、描かれているのである。

君は、とけても寝られ給はず。いたづらぶしとおぼさるるに御目さめて・・・

いたづらぶしとおぼさるるに
源氏が、眠られないのは、いたづらぶし、ゆえである。
それを、何と訳するのか。
一人寝を、寂しく思う時、男は、性の孤独を知る。
そして、その孤独を、埋めるごとくに、共寝をする相手を、探す。
それを、色好み、恋という。

いよいよ、源氏の、女遍歴が、はじまる。
人妻の、空蝉との、関係である。
しかし、二度目から、拒まれる。

紫式部の、本領発揮が、徐々にはじまる。

通常の、研究では、平安期の、色好みにある、物語と、言われるが、私は、全く、別の観方をしている。
紫式部は、勇ましく、物語を書いたのではない。
憂きことの、生きるというものを、見つめて書いたものである。

色好みに、ベールを掛けて、紫が、表現したいものが、何かを、問うてゆく。

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2008年07月12日

もののあわれ242

皆しづまりたるけはひなれば、かけがねを試みに引きあけ給へれば、あなたよりは鎖さざりけり。凡帳を障子口には立てて、火はほのぐらきに、見給へば、唐櫃だつ物ども置きたれば、乱りがましき中を、分け入り給へれば、ただひとり、いとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なるぬ押しやるまで、求めつる人と思へり。

源氏は、女房たちが、皆寝静まった頃に、掛鉄を外して、引いてみると、障子は、開いた。
向こうからは、掛鉄が、かかっていなかったのである。
そこには、凡帳が立ててあり、仄かな灯の灯りで、物が見えた。
衣装の箱などが、乱雑に置かれてある。
源氏は、その中を、分け入り、歩いて行った。
小さく、一人の女が寝ていた。
なまわづらはしけれど
やましく思いつつ、である。
顔を覆った、着物を、源氏が手で引きのける。
女は、先刻呼んだ、女房の中将が来たと思った。

この時、源氏は、十七歳の夏である。

人妻との、関係を持つ瞬間である。

いとささやかにて臥したり
その女に、源氏は、恋を賭ける。

昔の、十七歳は、今の、二十七歳と、思えばよい。

私は、万葉の時に、恋とは、人生、そのものであると、言った。そして、恋とは、そのまま、性であると、言った。
私の言う、セックスは、性器セックスではない。
情の交わり、心の交わり、心身共に、触れ合う交わりである。

和泉式部のセックスは、契りて、と言う。

人と、触れることにより、我にあるもの、我にある、心の様を見いだすのである。
万葉は、そのような時代であり、さらに、紫式部は、それを、もって、物語を書くのである。

人が求めえるものは、人の情けであろう、という。
それ以外に、何を求めるというのだろう。また、求め得られるというのか。

紫式部は、細に渡り微に渡り、恋を描くのである。
性器セックスを、描くのではない。
それは、本居宣長も、そのように読んだ。

恋というものに、まつわる、悲しさともいうべき、人のあはれ、というものを、描くのである。


源氏「中将めしつればなむ。人しれぬ思ひのしるしあるここちして」と宣ふを、ともかくも思ひ分かれず、ものにおそはるるここちして、「や」とおびゆれど、顔にきぬのさはりて、音にもたてず。源氏「うちつけに、深からぬ心のほどと見給ふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞え知らせむとてなむ。かかる折りを待ちいでたるも、「さらに浅くあらじ」と、思ひなし給へ」と、いややはらかに宣ひて、鬼神もあらだつまじきけはいなれば、はしたなく、「ここに人」とも、えののしらず。


源氏は、あなたが、中将を呼んでいらしたから、私の思いが通じたと、思いました、と言いかけた。女は、何者かに、襲われる様子で、驚く。
「や」というつもりなのだが、顔に夜具がかかり、声にならない。
源氏が言う。
うちつけに、深からぬ心のほどと見給ふらむ、ことわりなく
突然のことのように、思われるでしょうが、違います。
前から、あなたを、思っていました。
それを、聞いていただきたいと、この機会を、待っていたのです。
さらに浅くあらじ
深い縁である、というのか。前世の縁というのか。
いずれにせよ、女を、口説くための、言葉である。

未だに、男は、女を口説くのに、深い縁だという。
一度限りの関係でも、である。

源氏は、柔らかい口調で言う。
当然である。女を、口説くのに、無粋な態度ではいけない。
鬼神、神さまでも、この方には、寛大な態度で、接するだろうという、美しさであるという。
知らぬ人が、こんな所へとも、言えないのである。
罵ることが、出来ないのである。

源氏の美しさは、格別である。
美とは、許される存在なのである。

紫式部は、自分の顔を人に見られるのが、事のほか嫌だった。
その歌を、読むと、解る。

その、紫式部が、源氏を、女に勝る美しさと、描いたのは、何故か。

美は、鬼神さえも、黙らせる程の、力があるというのである。
美、というものに、適うモノは無いのである。
紫式部が、源氏の老いさらばえた姿を書くことなく、未完にした、訳である。

紫式部が、追求した、美、というものを、人は、未だに求めて、さ迷うのである。


心地はたわびしく、あるまじき事と思へば、あさましく、女「人たがえにこそ侍るめれ」と言ふも、息のしたりなり。消えまどへる気色、いと心苦しく、らうたげなれば、「をかし」と見給ひて、

女は、情けないと思うのである。
あるまじき事
つまり、そんな、ふしだらなことが、あってはならないのである。

女は、人違いでは、と言う。
それも、息よりも、低い声である。
消え惑える様子の女。
心苦しく、うらたげなれば、とは、可憐な姿か。
兎も角、男心を、曳き付ける様子である。

現代文に、翻訳する者、それぞれである。

男に、寝ているところを、襲われるということ、当時は、当たり前のことである。
更に、それは、一種の喜びともなる。
ただ、しかし、目の前の人は、あまりに、美しい。

源氏「たがふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめい給ふかな。好きがましきさきには、よに見え奉らじ。思ふ事少し聞ゆべきぞ」とて、いと小さやかなれば、かきいだきて、障子のもと出で給ふにぞ、求めつる中将だつ人、きあひたる。源氏「やや」と宣ふに、あやしくてさぐりよりたるにぞ、いみじくにほいみちて、顔にもくゆりかかるここちするに、思ひよりぬ。あさましう、こはいかなることぞ、と、思ひまどはるれど、聞えむかたなし。


源氏は、違うわけがないではありませんか、と言う。
恋する私の、思いが、充ちて、あなただと思い、来ました。
あなたは、知らぬ顔をされる。
普通の、好色の男がするような、ことはしません。少しだけ、私の心の内を、聞いてくだされば、いいのです。
小柄な女を、かき抱き、障子の前に出て来ると、先ほど、呼ばれていた、中将の女房が、向こうから来た。
「やや」と、源氏が言うと、不思議に思い、探り寄って来た。
その時、源氏の、香を焚きこめた衣服の香りが、顔に吹きかかる。
中将は、これが、誰であるかを、知った。
そして、何事かも、知った。
しかし、どうなることかと、心配するが、何も言えないのである。

この顛末は、実に、巧いのである。
紫式部の筆である。

おろかならず、契り慰め給ふこと、多かるべし。

ありしながらの身にて
男と女の契りの関係である。

性の交わりを、現代文に訳す、作家の多くは、この、紫式部の筆を、再現できずに終わる。
大和言葉である。
そのままにして、読むことである。

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2008年07月13日

もののあわれ243

源氏

つれなきを 恨みもはてぬ 東雲に とりあへぬまで 驚かすらむ
つれなきを うらみもはてぬ しののめに とりあへぬまで おどろかすらむ

女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆきここちして、めでたき御もてなしも何ともおぼえず、常はいとすくすくしく、心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、夢にや見ゆらむと、そら恐ろしく、つつまし。



身のうさを 嘆くにあかで あくる夜は とり重ねてぞ ねも泣かれける

ことと明かくなれば、障子口まで送り給ふ。内も外も人さわがしければ、ひきたてて別れ給ふほど、心細く、隔つる関、と、見えたり。


この前の文では、源氏が、もう、女と、付き合いが出来ないことを、嘆くというシーンがある。そして、泣くのである。
そして、歌を詠む。

あなたが、取り合ってくれないという、つれなさ。
すでに、夜が明ける。私は、大いに嘆く。

女は、身の有様を、考えて、身分の違う、源氏との関係を、戸惑い、それを、喜ぶことができないでいる。
更に、愛情のもてない、夫の伊予の国を、思い、複雑な気持ち。
この人との付き合いを、続けるという、夢を、一瞬でも、思うことは、恐ろしいことであった。

身の憂さを、嘆くと共に、夜が明ける。
思い出しても、それは、悲しいのである。

次第に、明るくなり、女を、送る源氏である。
奥の方の人も、こちらの、縁の人も、起き出している。

心細く、隔つる関、と、見えたり。

別れの、言葉である。
隔つる関、なのである。
関は、別れの、際である。

越すに越せない、大阪の関、とは、よくいったものだ。

恋は、関によって、隔てられ、峠を越えることによって、成就する。

あなたと越える峠道
いつかいつかと、待ち望み
この日を夢見て生きてきた

と、演歌となる。

四方山話も、昔は、物語すると、言った。
物語は、面白くなければ、いけない。
小説の登場であるが、矢張り、物語である。それも、面白くなければいけない。

悲しくて、面白い。楽しくて、面白い。
この、面白いものとは、もののあわれ、の、一つの心象風景である。


月は有明にて、光をさまれるものから、顔けざやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり。何心なき空の気色も、ただ見る人から、艶にも、すごくも、見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、「ことづてやらむよすがだになきを」と、かへりみがちにて、出で給ひぬ。

有明の月とは、夜が明けても、出る月である。
残月ともいう。
朝の光に、すべてのものが、照らされる。
なかなかをかしきあけぼの
不思議な、面白い、夏の朝である。
何心なき空の気色
何心なき、とは、実に、微妙な表現である。言えば、我のみ知る心持である。
それは、身に染む、いや、心身に沁みる、風景である。
更に、言伝さえ、出来ない相手なのである。
その方法が無いという、虚無感。
そして、去って行く。

何心なき空の気色、とは、様々な場面で、私たちは、経験する。
何も、恋ばかりではない。
人と人の関係の中で、それを、感じる場合もあり、物や風景の場合もある。

何かしら、所在無き、心の様。
しかし、深い思いに充ちる。

悲しみが、深ければ深いほど、所在の無い心の様に、なってゆくこともある。
この、何心、とは、何か。
それを、捜し求めて、紫式部は、物語を描くのである。

深い思いを、言葉に出来ない、それが、もののあわれ、の、一つの風景である。

それを、何心と、言う。
正に、残月に、掛ける、残心、ざんしん、である。

残心を、名残とも言う。
名残の雪、名残の月、名残の花、名残の思い。
ありとあらゆるものに、通じるもの、それが、もののあわれ、というものである。

なかなかをかしきあけぼのなり
これを、現代文にするのは、ひじょうに難しい。
だから、私は、原文を読むしかないという。

外国語を、翻訳で読むというものとは、全く別物である。
大和言葉の、その、有様を、読むのである。

艶にも、すごくも、見ゆるなりけり
何を見たのか。
朝の風景である。
その、風景に、託す思いというものを、日本人は、長い間、培ってきたのである。
目の前の風景は、心、そのものであった。

私は、オーストラリアの、アボリジニの、精神を伝え聞いて、仰天した。
今、目の前にある風景、自然は、先祖の夢なのであるという、物の見方である。

先祖の夢が、今、目の前にあると、思いつつ、生活するという、その、民族の精神の高さである。

感動というより、絶句した。

それ、大和心ではないか。
それこそ、大和心ではないか。

先祖の夢が、今、目の前にあるという。その心こそ、大和心、大和魂の、そのものである。

私は、伝承と伝統こそ、守らなければならない、唯一のものと、考える。
私は死ぬ。
しかし、私の思いは、自然に現れる。
素晴らしい。
言葉が無い。
故に、言挙げしない。

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2008年07月14日

もののあわれ244

この程は大殿にのみおはします。なほ、いとかき絶えて思ふらむ事の、いとほしく、御心にかかりて、苦しくおぼしわびて、紀の守を召したり。


この頃は、左大臣家に、源氏はいた。
あれ以来、何も言わないことは、愛しく思われ、女のことを、憐れに思うのである。
それが、心にかかり、苦しくて、紀伊の守を、招いた。


源氏「かのありし中納言の子は、えさせてむや。らうたげに見えしを、身ぢかく使ふ人にせむ。うへにも我たてまつらむ」と宣へば、守「いとかしこき仰せごとに侍るなり。姉なる人に宣ひみむ」と申すも、胸つぶれておぼせど、源氏「その姉君は、朝臣の弟や持たる」守「さも侍らず。この二年ばかりぞ、かくてものし侍れど、親のおきてにたがへりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ聞き給ふる」源氏「あはれの事や。よろしく聞えし人ぞかし。まことによしや」と宣へば、守「けしうは侍らざるべし。もて離れてうとうとしく侍れば、世のたとひにて、むつび侍らず」と申す。


源氏は、このあいだ見た、中納言の子供を、よこしてくれないか。可愛い子だったので、私の元で、使おうと思う。御所へ出すことも、私がしようと、言う。
それは、結構なことです。あの子の姉に相談してみましょうと、守が、答えた。
姉が、引き合いに出されただけで、源氏の胸は、高鳴った。
その、姉は、君の弟を、産んでいるのか、と、源氏は尋ねる。
いや、ありません。二年ほど前から、父の妻になっていますが、亡くなった父親が、望んだ結婚ではなく、不満らしいということです。と、守は、言う。
源氏は、可愛そうに。評判の娘だったようだが、本当に美しいのか、と、尋ねた。
さあ、悪くはないでしょう。年のいった、息子と若い継母は、親しくしないものだと、申します。私は、それに従い、何も、詳しいことは、解りません、と、紀伊の守は、答えた。

何気なく、源氏は、女のことを、守に、聞きだそうとしたのである。


さて、いつかむゆかりありて、この子いて参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひ給ふ。わらはごこちにいとめでたく嬉しと思ふ。

五六日して、紀伊守は、その子を連れて来た。
こまやかにをかしとはなけれど
整った顔というわけではないが
なまめきたるさまして
艶な風情を備えた
あて人と見えたり
貴族の子らしい雰囲気である。

源氏は、傍に呼び、親しく話しかけた。
童心地に、源氏に、相手にされるのが、嬉しいのである。

いとなつかしく語らひ給ふ
大変、懐かしいように、話すというが、それを、懐かしいと、言う。
一つの、愛情表現である。

この子を、手元に、置くのは、その姉との、関係を持つためである。

源氏は、その子に、姉のことも、詳しく聞いている。
そして、早速、姉に手紙を持たせるのである。

みし夢を あふ夜ありやと 嘆くまに 目さへあはでぞ 頃もへにける
ぬる夜なければ

と、書く。

ぬる夜なければ
眠られない日々が続き、夢も見られないという。

夢で、逢うことを願うが、眠られずに、夢で逢うことも出来ず、嘆いている、この頃です。

めもおよばぬ御かきじまも、きりふたがりて、心えぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて、臥し給へり。

目もくらむほどの、美しい文字である。
涙で、目が曇り、何も読めなくなって、苦しい思いが、満ちる。この世の、運命を思い、臥すのである。

またの日、小君召したれば、参るとて、御返り請ふ。女「かかる御ふみ見るべき人もなしと聞えよ」と宣へば、うちえみて、小君「たがふべくも宣はざりしものを、いかがさは申さむ」と言ふに、心やましく、「残りなく宣はせ知らせてける」と思ふに、つらきこと限りなし。女「いで、およずけたる事は言はぬぞよき。さば、な参り給ひそ」と、むつかられて、小君「召すにはいかでか」とて参りぬ。

翌日、源氏から、小君、こきみ、が召された。
出掛ける時、小君は、姉に、返事を欲しいと言う。
あのような、お手紙をいただくような人は、いませんと、申し上げればよい、と女は言う。
間違いなくと、申されたのに、そんなお返事は出来ない、と小君が言う。

心やましく
疾しいのである。
残りなく宣はせ知らせてける
きっと、小君は、すべてを聞いているのであろうと、想像するのである。
つらきこと限りなし
そう思うと、源氏を、恨めしく思うのである。

そんなことを言うものではありません。大人が言うようなことを、子供が、言っては、いけない。お断りが、出来なければ、お屋敷に、行かなければいい、と、無理なことを、女は言う。
御呼びがかかったので、伺わないわけにはいかない、と、小君が言う。


君、召し寄せて、源氏「きのふ待ち暮らししを、なほ、あひ思ふまじきなめり」と、怨じ給へば、顔うち赤らめて居たり。「いづら」と、宣ふに、しかじかと申すに、源氏「いふかひなの事や、あさまし」とて、又も賜へり。

昨日も、一日待っていたのに、出て来なかったね。私だけが、お前を愛している。それなのに、冷淡だ、と、源氏が小君に言うと、小君は、顔を赤らめた。

お前は、姉さんに、頼む力がないのだ。返事をくれないとは。
そして、再び、文を、小君に、渡す。

この段で、私が、注目するのは、女との、橋渡しをする、小君という、少年に対する、源氏の思いである。

小君を、あこ、と呼ぶのである。
つまり、あこ、とは、我の子供という意味である。
それも、特に親しく思う、呼び方である。

この子をまつはし給ひて、うちにもいて参りなどし給ふ。わがみくしげ殿に宣ひて、装束などもせさせ、まことおやめきて扱ひ給ふ。

いつも、傍に置いて、御所へも、連れてゆくのである。
小君の、衣服を作り、親らしく、世話をしている。

源氏は、小君も、愛しているのである。
それは、女の、橋渡しだけではない。

ここに、今までの、源氏物語の、解釈の、不明を見るのである。
源氏は、女たらし、女好き、色好みの、最たる者としての、解釈である。

私は、違うと、言う。
当時は、もっと、性というものが、曖昧であった。
ここで、男性同性愛を言うのではない。

美しきもの、なまめきたるさま、それは、愛するものなのである。

ここで、訳を、愛するという言葉は、相応しくない。

あひ思ふまじきなめり
相思う交わりの関係である。

室町期になると、それが、明確に表現される。
世阿弥などは、将軍に寵愛された。勿論、当時の、能役者の、美少年は、皆、将軍と関係を、持っている。性的関係である。

それを、男性同性愛という、ひとくくりにすると、誤る。

美しいものは、あひ思ふまじきなめり、なのである。

島原の乱の状況を、書いた宣教師は、日本の武士が、女よりも、少年を性的対称にしている様を、驚愕を持って書いている。

男色とか、男に体を売る者を、陰間ともいう。
しかし、それは、微妙に違うのである。

これは、井原西鶴になると、もっと、明確になる。
色というものは、男も女も、知って、はじめて、解るものであるとするのである。

色好みとは、何か。
再度、考察する必要がある。

性別の、云々ではない。

隠棲する者たちも、少年と共に、あった。
何故か。

これを、見落とせば、色好みを、誤る。

源氏の女との、やり取りから、もののあわれ、というものを、観た、本居宣長の、一つの、欠陥は、それである。

紫式部は、美しきものということを、最重要課題にしている。

この、長い物語にある、もののあわれ、というもの、複合的、様々な要因によって、成り立っている。

私が、風景や、自然描写から、もののあわれ、というものを、観るというのは、それらも、含めてのことである。
風景、自然描写が、いかに、美しく描かれているか。

それは、人間の様を描く以上に、美しいのである。


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2008年07月15日

もののあわれ245

御ふみは常にあり。されど、この子もいとをさなし、心よりほかに散りもせば、「めでたき事もわが身からこそ」と思ひて、うちとけたる御いらへも聞えず。「ほのかなりし御けはひありさまは、げになべてにやは」と、思ひ出で聞えぬにはあらねど、「をかしきさまを見え奉りても、何かはなるべき」など、思ひかへすなりけり。

源氏からの文は、常にあった。されど、弟は子供である。もし、それを、落とすようなことがあれば、不運な自分は、また、さらに、不運に陥る。
それでは、あまりに、惨めであると、思う。
しかし、仄かに見た、美しい源氏の姿は、忘れられるものではない。
だが、恋は、同じ立場であるから、よいのであり、源氏の相手になるという、それは、無理なことである。
をかしきさまを見え奉りても
こちらの気持ちを知らせても
げになべてにやは
どうなることでもない、のである。
思ひかへすなりけり
反省するのである。


君は、おぼし怠る時のまもなく、心苦しくも恋しくもおぼしいづ。かろがろしくはひまぎれ立ち寄り給はむも、「人目しげからむ所に、びんなきふるまひやあらはれむ」と、「人のためにもいとほしく」とおぼしわづらふ。

それでは、源氏の方は、
君は、しばらくの間も、その人が忘れられないのである。
更に、気の毒にも思える。
恋しくも、思う。
かろがろしくはひまぎれ立ち寄り
自分がした行為に、女が、苦しんだ様子が、忘れられない。
人目の多い家であるから、忍んで会いに行くことは、出来ない。
自分のためにも、女のためにも、それは、出来ないことだ。

おぼしわづらふ
煩悶するのである。

しかし、源氏は、方角の障りになる日を、選んで、御所より、不意に気付いたように、紀伊の家に立ち寄るのである。

それは、あらかじめ、小君に、話てあることだった。

この巻の後半である。

小君を使い、手はずを整えていたが、結局

君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく、待ち臥し給へるに、不用なるよしを聞ゆれば、あさましく、めづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかり物も宣はず。いたくうめきてて、憂しとおぼしたり。


源氏は、どのように、計らってくるのかと、頼みにするものが、少年であることが、気がかりであったが、寝ているところに、小君が、やってきて、駄目であることを、告げた。

あさましく、めづらかなりける心のほどを
女の、浅ましいほどの、冷淡な態度を、知り、私は、自分が、恥ずかしくてならないと、言った。
いといとほしき
気の毒に様子である。
暫く、物も言わないのである。
そうして、苦しげに、吐息をして、女を恨んだ。


源氏

ははき木の 心を知らで 園原の 道にあやなく まどひぬるかな

聞えむかたこそなけれ」と、宣へり。女も、さすがに、まどろまざりければ、



数ならぬ 伏屋におふる 名のうさに あるにもあらず 消ゆるははき木

と聞えたり。


ははきぎの こころをしらで そのはらの みちにあやなく まどひぬるかな

ははきぎの心を知らずに、園原の、道に誤り、戸惑いつついる、のである。

深読みすると、恋に迷い迷いして、その心の深みに、陥っているのである。

今夜の、この気持ちを、どう言っていのか、解らないと、源氏は、小君に言うのである。

女の方も、眠れずに、悶えている。

かずならぬ ふせやにおふる なのうさに あるにもあらず きゆるははきぎ

伏屋とは、地名である。
源氏は、その伏屋の森に、生える、ははきぎのように、居るにも、関わらず、逢ってくれないという。
女は、確かに、居ますよ。でも、その、ははきぎは、消えてしまいました。と、答える。

伏屋という、森に生えることの、憂さに、である。
この世は、憂き世と、観た、紫式部の心境を、そのままに、表す。

聞えたり、とは、それを、小君に、言わせたのである。


小君、いといとほしさに、ねぶたくもあらでまどひありくを、「人あやしと見るらむ」と、わび給ふ。

小君が、源氏のために、眠たいであろうに、行き来している様を、女は、人が怪しまないかと、危惧している。


例の、人々はいぎたなきに、ひと所すずろにすさまじくおぼし続けらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ちのぼれりけるとねたく、「かかるにつけてこそ心もとまれ」と、かつはおぼしながら、めざましくつらければ、「さはれ」と、おぼせども、さもおぼしはつまじく、源氏「隠れたらむ所に、なほいていけ」と宣へど、小君「いとむつかしげにさしこめられて、人あまた侍るめれば、かしこげに」と、聞ゆ。いとほしと思へり。源氏「よし。あこだにな捨てそ」と宣ひて、御かたはらに臥せ給へり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれにおぼさる、とぞ。


いつもの、従者たちは、酔って眠っている。
源氏は、眠られないでいる。
普通の女とは、違う、意思の強い人が、益々と、恨めしくなるのである。

さはれ
さはあれ、という。こうなっては、しかたがない。
そう思うが、また少しすると、恋しさが、募るのである。

「隠れている場所に、私を連れて行ってくれないか」と、源氏は、小君に言う。
「なかなか、開かない戸締りがしてあり、多くの女房たちもいます。そんなところに行かれるのは、もったいないことです」と、小君が言う。
小君は、源氏を、気の毒だと思うのである。

よし。あこだにな捨てそ
もういい。お前だけでも、私を・・・
源氏は、小君を、傍に寝させた。
若く美しい、源氏の横に、寝るということに、小君は、うれしくめでたし、と、思うのである。
それが、源氏にも、伝わる。

源氏は、小君を、なかなかあはれにおぼさる、と、思うのである。

最後の、とぞ、とは、ある人が語ったことだという意味である。

そのように、私は聞いたと、描くのである。

源氏が、小君を愛し始めていることが、解る。
この、小君の、存在が、私は、非常に重要に、思える。
女遍歴の影に、小君が、いつもいるのである。

なかなかあはれにおぼさる
無情な女より、可愛いと、訳す者もいる。

あはれにおぼさる
これ、愛情である。
体の関係がない、情の交わりを、友情などという。
しかし、それで、済ませることは、出来ない。

これについても、追々に、見つめてみる。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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