2008年06月17日

もののあわれ217

亡くなりし人の女の、親の手書きつけたりける物を見て、いひたりし

夕霧に み島がくれし 鴛鳥の子の 跡を見る見る まどはるるかな
ゆうぎりに みしまがくれし をしのこの あとをみるみる まどはるるかな

亡くなりし人の、女、むすめ、とは、亡夫の他の妻の娘のこと。
親の筆で、書き付けた物を、見て、歌を詠む。

夕霧に、島影の姿が、隠れた、をしの鳥の足跡を見て、途方に暮れる、子のように、亡くなった父の筆跡を見ながら、悲嘆に暮れている。

跡、筆跡の跡、足跡の、跡を、掛けている。

跡を見る見る まどはるるかな
跡を見つめ続けるのである。そして、まどはるる、かな、である。この悲嘆は、はるる、という、心境である。はるる、とは、遥かに思う。
その哀しみは、手の届かないほど遠い哀しみである。
我が哀しみも、手が届かないほど、遠いのである。

悲しいと、言っても、それは、千差万別である。
人間は、悲しみ、哀しみを、生きて歴史を、積み重ねてきた。

この、悲というものを、慈悲として、仏教は、象徴した。
この悲は、深い祈りになる。
それは、悲に、対する、共感という心的状態を生むのである。

実は、もののあわれを、漢訳すれば、慈悲になるのである。
慈は、慈しみである。
いつくしみ、それを、共感する心、つまり、もののあわれ、というものである。

悲しみを共感する心。
もののあわれ、の、一つの心象風景である。

同じ人、荒れたる宿の桜のおもしろきこととて、折りておこせたるに

散る花を 嘆きし人は 木のもとの さびしきことや かねて知りけむ
ちるはなを なげきしひとは このもとの さびしきことや かねてしりけむ
「思ひ絶えせぬ」と、亡き人の言ひけることを思ひ出たるなりし。

父が亡くなり、手入れの出来ない荒れた我が家でも、桜は、春を忘れず、美しく咲いた。
折りて、おこせる
その枝を、折り、歌を添える。

桜の花の散ることを、嘆いていた、あの方は、花の散った跡に残る、木のもとの、寂しさを、さらに、亡くなった後の、子供の寂しさを、知っていたのでしょうか。

残された者の、悲しみと、寂しさを、亡き人は知るのだろうか。
それは、誰にも、解らない。
死者は、語らない。
いつの世も、死者は、語らない。

昔の人は、「死人に口無し」と言った。
だが、語らない死者が、多くを語ることもある。
それは、残されたものを、見た時である。
更に、その生き方である。

死者の、生き様は、確定している。
揺ぎ無いものになっている。
これ程、確実なことはない。

生者は、いつも、不安定である。確定していない。
生とは、確定しない、不安定なことである。つまり、動いている。刹那も、留まることがない。
心とは、そういう、モノである。

大脳生理学でも、脳が心だと、言えなくなってきた。
行動を起こす、ほんの少し前に、つまり、脳が、指令を出す前に、行動が起こるという、実験結果が、出た。

脳が、心であると、唱えていた学者たちは、愕然とした。
一体、何があるのか。
脳でないとすれば、何が、動かすのか。
心とは、どこにあるのか。
未だ、不明である。というより、不明であるということが、証明された。

科学は、一秒たりとも、定説に留まらない。
仮説は、いつも、新しく提言される。そして、否定されたり、肯定されたりしつつ、進歩する。

霊学から言えば、心とは、水落の辺りにあるとする。
肉体の胸である。
丸みを帯びた球体である。

オーラ測定器が、出来たが、それは、微量な電流の色合いである。
次に、心を計るものが、出来るだろう。

今は、それ以上を言えない。



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2008年06月18日

もののあわれ218

絵に物の怪のつきたる女のみにくきかたかきたる後に、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て

亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやあらぬ

物の怪の憑いた、醜い女の姿を描いた、背後に、鬼の姿になった、先妻を、小法師が縛り、更に、夫が、お経を読んで、物の怪を退散させようとしている絵を見て。

妻に憑いた、物の怪を、夫が亡き先妻のせいにして、てこずっているということは、我が身の内にある、鬼に、苦しんでいるということでは、ないだろうか。

実に、冷静沈着な判断の歌である。

当時は、不思議な現象を、物の怪として、扱い、加持祈祷などをしていた頃である。
そんな中で、我が身のこころの内にあるものと、看破したということは、実に、冷静であり、真っ当な感覚である。
この、冷静さが、紫式部を、物語作家にしたのである。

我が心の内にある鬼。

心の鬼とは、疑心暗鬼である。
暗鬼、つまり、心の暗闇に存在する、鬼であり、他でもない、我が内にあると、観たのである。

人は、我の妄想を見て、何物かだと、思う。しかし、それは、我の妄想なのである。
紫も、浄土思想に、影響された者であるが、決して、その救いという、観念に流されなかった。

かごとをかけて わづらふも
理由をつけて、煩うが、それは、まさに、我自身であったという。
現代の宗教信者に、聞かせたいものである。

返し

ことわりや 君が心の 闇なれば 鬼の影とは しるく見ゆらむ

お返し

なるほど、言われる通りです。
あなたの心が、また、あれこれと迷い闇ゆえに、物の怪の疑心暗鬼の、鬼の正体を見破ったのでしょう。

これも、冷静な受け止め方である。
あなたも、闇なれば、とは、また、おもしろい。

鬼の影とは しるく見ゆらむ
鬼の影であると、はっきりと、見たのでしょう。

作者の、侍女の歌である。

さすがに、侍女も、鋭い。

絵に、梅の花見るとて、女の、妻戸押し開けて、二三人居たるに、みな人々寝たるけしきいたるに、いとさだすぎたるおもとの、つらづえついていて眺めたるかたあるところ

春の夜の 闇のまどひに 色ならぬ 心に花の 香をぞしめつる

梅の花を見ている絵を見る。
女が、二三人いて、眠っている様。
いとさだすぎたるおもと
年老いた女房であり、おもと、とは、身分ある女房への、敬称である。
その女房が、頬杖をついて眺めている様を、見て。

春の夜の、闇にまぎれて、花の美しさは、見えないが、色気を持たない、心の梅の、香りを、深く味わうことができた。

さだすぎたるおもと、の、心を観て、詠む歌である。

色ならぬ 心の花の
女の、盛りを過ぎて、色気を持たない、枯れた風情の、女の姿である。それに、心の花を、観ているのである。

心の花に 香をぞしめつる
しめつる、占めるのである。

心の花にこそ、香りが、充満している。

花は心 種は技なるべし
世阿弥が、語る。
風姿花伝

心を込めるから、良いのではない。
心を込めるためには、技である種を、持たなければならない。
技を極めてこそ、心の花というものが、十二分に表現できるのである。

もののあわれ、を、所作として、表現する際の、極意である。

いずれ、世阿弥の風姿花伝も、紹介する。

同じ絵に、嵯峨野に花見る女車あり。なれたる童の、萩の花に立ち寄りて、折りとるところ

さを鹿の しかならはせる 萩なれや 立ち寄るからに おのれ折り伏す

同じ絵に、女車、牛車である、なれたる童、物慣れた女の童が、萩の花の前で、佇み、それが、折て、垂れるのを見る。

牡鹿が、いつも、そのように慣らしているのか、童が立ち寄ると、すぐに、萩が、自ら折れ曲がり、頭を下げているようである。

童は、わらは、であり、女の召使のことである。
女の童、めのわらは、と読む。

鹿が、萩の花を、妻として、慕うという、歌が古来からあった。
それを、持っての歌である。

しかならはせる
そのように、という意味で、鹿の縁語とされる。
ならはせる
慣れさせるという、意味である。


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2008年06月19日

もののあわれ219

世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名のある所々かいたる絵を見て、塩釜

見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦

この世の、無常なことを、嘆く時。
夫を失ってのことだろう。
松島湾に臨む、塩の生産地として有名な、塩釜は、歌枕である。
その絵を見て。

連れ添った人が、荼毘の煙となり、夕べより、名に親しさを感じる、塩釜の浦。

名ぞむつましき
名前が、むつましい、親しく感じられる。

現代でも、人と人が、親しい様を、睦まじいという。
むつ、交じる、のである。
むウつウ
ウの音は、呼び出しの音である。
相手の心を、呼び出す音。それは、神呼びの音でもある。
これが、音霊、おとたま、である。

音霊を、知らなければ、言霊を知ることなし。

門たたきわづらひて帰りにける人の、つとめて

世とともに あらき風吹く 西の海も 磯べに波も 寄せずとや見し

紫の家の門を、叩いた人。
夫亡き後、男が、言い寄ってきたのであろう。

いつも、荒い風が吹く、西の国の海辺でも、風が、磯辺に波を寄せ付けないのを、見たろうか。
今まで、こんな、酷い仕打ちを、受けたことはない。
言い寄る男の、行為を、酷い仕打ちと思う心が、痛ましい。

夫亡き身の、寂しさに、いい寄る男の、無礼を、歌う。
波も寄せずとや見し
波も寄せ付けないのを、見たのか。
いくら、風が吹いても、波を寄せ付けない、磯辺もあるという、自分自身に見立てている。

と恨みたりける返り事

かへりては 思ひしりぬや 岩かどに 浮きて寄りける 岸のあだ波

と、恨んで、更に詠む

お帰りになって、私の心の堅いことが、解ったでしょうか。
岩角に浮いて、打ち寄せた岸の間の、波のように、浮気っぽく、言い寄ってきた、お方。

かへりて
帰りと、返りの、掛詞で、波の縁語でもある。

あだ波
風もないのに、立つ波である。
あだ、とは、誠意のない行為。また、実体が伴わない事柄。
あだ桜、などという言い方をする。

あだ情け、とは、誠意無く、単なる遊びの、情である。
今風に言えば、プレイラブである。

男は、単なる、あだ情けの行為なのである。

年かへりて、「門はあきぬや」といひたるに

たが里の 春のたよりに 鶯の 霞に閉づる 宿を訪ふらむ
たがさとの はるのたよりに うぐいすの かすみにとづる やどをとふらむ

門は、かど、と読む。

年が明けて、つまり、夫の死の翌年である。
門は、もう開きましたか。喪は明けましたかという人あり

どこの里を、訪れた後に、鶯は、この、霞の中に閉じこもる家を、訪ねて来るのでしょうか。

この歌も、夫の、喪中に言い寄る男を、拒否する歌である。
鶯を、男に掛けている。

当時、夫の喪に対する期間は、一年であった。

さしあはせて、物思はしげなりと聞く人を、人に伝えてとぶらひける
本にやかれてかたなしと

八重山吹を折りて、ある所にたてまつれたるに、一重の花の散り残れるをおこせたまへりけるに

をりからを ひとへにめづる 花の色は 薄きを見つつ 薄きとも見ず

丁度、私と同じように不幸が、襲って、物思いをしている人を、人にことずてて、見舞った。

本にやかれて
これを、写した人が、書き入れたものである。
破れて、あとかたがないという。

八重山吹の花を折り、ある所に、たてまつれり、つまり、身分の高い方のことである。
一重の山吹の花である。

この時期の、花の美しさ。
一重の薄い色合いを見ても、色が薄いとは、思われません。

あなた様の、お心が、薄いなどとは、思いませんというのである。

この歌は、相手からの歌に対する、返歌。

花の色は、薄いが、あなたを思う心は、決して薄くないのですという、歌に対しての、返歌である。

薄きを見つつ 薄きとも見ず
薄い色を見ても、薄い心は、見えない。逆に、思いの深い心の色を見るのである。

季節、季節の花に掛けた、歌が多い。
何も無い時代である。
山川草木に、心を写したのである。

自然の豊かさは、掛け替えの無いものである。
日本人は、この、自然の中で、心を養ってきた。
これほど、恵まれた自然を、有する国も無い。

自然に、培われた心は、自然に添い、共感し、そして、共生していた。
それが、生きることでもあった。
自然に生きる。

それが、自然、しぜん、である。
ジネンと、読ませる、観念の自然ではない。

老荘思想の、自然の思想は、どこか、不自然である。
一見、何やら、高尚かつ、深遠なる思想に思えるが、単なる平面思想である。

私も、一時期、老荘思想というものに、取り組んだが、矢張り、もののあわれ、という、心象風景には、適うものではない。
理屈が過ぎるのである。
ただ、学ぶ価値は、ある。


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2008年06月20日

もののあわれ220

世の中の騒がしきころ、朝顔を、同じ所にたてまつるとて

消えぬまま 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな

長保二年の、冬から、疫病が流行して、翌年になっても、それが衰えず、死亡者が増え続けた。
世の中は、不安に覆われていた。その頃である。
この年の、四月二十五日に、夫が亡くなったのも、疫病によるといわれる。

この身も、いつ果てるかもしれないという儚い命であることを、知っている。
朝顔の花と、露が散る前に、多くの人が亡くなって逝く、この世の儚さを、嘆きます。

消える、は、露の縁語である。
縁語とは、消える、とくれば、露と、なる、結びつきである。

この歌と、同じ心を、今回の、ビルマと、中国の災害を見て、感じた。

戦争でなくても、こうして、多くの人の命が、消えて逝く。
その数の多さに、愕然とし、更に、子供たちが、死ぬということに、嘆きを超えた、悲しみと、哀しみを、感じ、さらに、もののあわれ、というものの、姿を観るものである。

消えぬまの 身をも知る知る
消える、とは、生きている間である。それも、儚いことを、知っている。
知る知るとは、そのまま、詠嘆である。

繰り返すほど、十分に解っているという。
それなのに、世の人は、手の施しようもなく、亡くなってゆくという、この世の姿を、どう、捉えたらよいのかと、深く嘆いている。

世を常なしなど思ふ人の、をさなき人のなやみけるに、から竹といふもの瓶にさしたる女房の祈りけるを見て

若竹の おひゆくすえを 祈るかな この世をうしと いとふものから

世を常なしと、思うのは、作者である。
そして、その子である。
なやみける、とは、病になったのである。
唐竹というものを、瓶に挿して、祈るのである。
これは、呪術のようなものであろう。

若竹のような、幼い、我が子の成長する様の、無事を祈るのである。
しかし、わが身は、この世を、住みづらい、厭わしい場所だと、思っているのだ。

複雑な心境である。


身を思はずなりと嘆くことの、やうやうなのめに、ひたぶるのさまなるを思ひける

数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり

我が身の上を、思うようにならず、不遇だと嘆くことの思いが、次第に、収まったり、激しくなったりする。そういう、我が心を、観て詠む。

数にも、ならぬ、我が身の願いを、思い通りにすることは、出来ないが、身の上の流れに従うのは、ただ、心のみである。

次の歌も、同じ心である。

心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず

私のような者でも、どのような、身の上になったら、満足するのだろうか。どんな、境遇になっても、満足することはないのだと、知っている。しかし、諦めきれないことである。

いつの世も、同じ心を、人は持ち続けているようである。

満足感とか、幸福感というものは、人それぞれ違うのであるが、満足するということが、あるのだろうかと、問う。

寒ければ、暑さを望み、暑ければ、寒さを望む。
人間とは、愚かなものである。
しかし、その、愚かさを、また、愛しいものとして、生きるのである。

思ひ知れども 思ひ知られず
知ってはいるが、それを、納得するには、大変なことである。

我が身を、その心を、静めるのは、大変なことである。

いつの時代も、人は、我が身の心を、静めるために、苦労した。
その心に、付込んだのは、宗教である。
安心立命という、妄想を、教えて、更に、迷わせる。

宗教の蒙昧を、一巡りして、元の心の場所に戻ると、何のことはない。ただ、そのままに、生きるのみである。

信じる、信じる切るというが、実は、信じるということが、如何なることかを、知らないでいる。
そこで、七転八倒して、屁理屈の世界に没入するのである。

観念遊びや、言葉遊びをして、そのうちに、死ぬ。
死ぬまでの、暇を潰す行為なのである、信仰とは。

そういう意味では、仏教は、大いに貢献したが、元に戻ってみると、何も変わっていない。ただ、そのままを、生きれば、良かったということになる。

もののあわれ、というものを、そのままに、生きればよいのだ。
それ以外に、取るべき方法は無い。

人間の想像力は、芸術活動として、善しとしていれば、足りる。
芸術を、拝めば、狂う。

狂ったまま、死ぬのが、信仰というものである。
勿論、その、絶対的自己満足というものを、否定はしない。

真実というものが、あるとすれば、自分というモノが、存在するという、その一点のみである。
存在の確信のみである。
我の実存のみが、真実である。

世間は、虚仮というが、虚仮以外の、どの場所で生きるというのだろうか。
世間にしか、生きられないではないか。

這ってでも、ずってでも、生きなければならない、その場所は、虚仮であると、認識するのは、病である。

ここにしか、生きられないから、ここに、生きているのである。

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もののあわれ221

やよひばかりに、宮の弁のおもと、「いつか参りたまふ」など書きて

うきことを 思ひみだれて 青柳の いとひさしくも なりにけるかな

宮の弁のおもと、とは、中宮の女房である。
紫の、宮仕えは、寛弘二年、1005年12月29日である。
この歌は、その翌年、実家に戻っていた歌である。

いつ、お戻りですかという、女房の書き物に。

いやなことを思い悩み、お里に下り、随分と長い時が立ちましたね。

うきこと
憂きこと。嫌なこと。

青柳は、いと、にかかる、枕詞。

返し 歌本になし

かばかりも思ひ屈じぬべき身を、「いといたうも上衆めくかな」と人の言ひけるを聞きて

わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき


歌本になし、とは、書写した者の注である。

このように、思い悩み、崩れそうになる、私。それなのに、「ひどく、高慢な振る舞いをする」と言う、女房たちがいると、聞いて。

しかたのないこと。あの人たちは、私を、人並みの者と、言わないでしょうが、私は、駄目な者だと、自分で、自分を見捨てられは、しない。

みづから身をや 思ひ捨つべき
自分を捨てられるものか。

宮仕えに出でも、紫は、よく実家に帰っていたことが、非難された。
面白い話がある。
彼女は、顔を、見られることが、嫌だったという。
兎に角、人の前に出て、顔を晒すことに、耐えられなかったのである。
今風に、言えば、実に、シャイだったのだ。

上衆、じやうず
傲慢である。

実家に帰ることが、勝手な振る舞いと、思われたのである。
こういう、誤解は、いつの世もある。

わりなし 
理屈では、どうにもならないこと。
しょうがない、ということを、どう、受け止めるかで、悩みの解決の、糸口が、見えてくる。
人生には、どうにも、しょうがないということが、溢れている。

薬玉おこすとて

しのびつる ねぞあらはるる あやめ草 いはぬにくちて やみぬべければ

薬玉とは、菖蒲、蓬を、五色の糸で通し、玉にしたもので、五月五日に、これをかけると、邪気が祓われると、人に贈ったり、肘にかけたという。
また、簾、柱にもかけた。
今は、こどもの日であり、その所作が、残っている。
菖蒲湯などで、邪気を祓うというのは、今でも、続いている。

隠れていた、菖蒲の根が、今日は、引き抜かれて、姿を現している。そのように、私もいいまでは、好意を現さずにいましたが、このまま、何も言わずに、朽ちてしまいますので、今日は、あなたへの、思いを、お見せする次第です。

返し

今日はかく 引きけるものを あやめ草 わがみがくれに ぬれわたりつつ

お返し
今日は、菖蒲の根を引いて、お言葉をいただきました。しかし、菖蒲の根が、水底に隠れて、濡れているように、私は、家に籠もって、涙に濡れてています。

みがくれ
菖蒲の根が、水に隠れている、水隠れと、紫が、家に籠もる、身隠れを、かけている、掛詞。

引き、みがくれ、ぬれ、は、あやめ草の、縁語である。


土御門院にて、鑓水の上なる渡殿のすのこにいて、高欄におしかかりて見るに

影見ても うきわが涙 おちそひて かごとがましき 滝の音かな

土御門院とは、道長の邸。
鑓水の上なる渡殿のすのこにいて
池に引き込んだ、細い流れ。

高欄に、おしかかり、見るのである。

鑓水に、写る姿を見るにつけ、辛い我が身の上を、思い、涙が鑓水に流れて、この涙のせいだと、恨むが如くの、滝の音。

寛弘五年、1008年の、五月五日は、土御門殿で、法華三十講の行事があった。
その翌日の歌である。

今年は、2008年である。つまり、千年前のこと。
今年は、源氏物語千年紀である。
つまり、この頃、紫式部は、物語を書いていたということだ。

物語の、雅な世界とは、裏腹に、彼女の心は、何によって、このように、切ないのであろうか。

何が、辛かったのであろう。

その時の歌が、後半に日記歌として、載っている。
今は、詮索せず、その歌の時に、観ることにする。

影見ても うきわが涙
影とは、水に映る、我が身の姿である。
うきわが涙とは、うきは、憂きであり、その涙である。

今で言えば、夫を亡くし、シングルマザーとなり、嫌な宮仕えをして、女房たちの、噂話にされ、寂しさと、切なさの、複雑な心境である。

この世は、すべて、人と人との、関係である。
人間関係が、その人の、心模様になる。
誰と付き合うかで、人生が変わってくるのである。

未完の膨大な物語を、書いた彼女は、一人、創作の世界に、没頭するを、得なかったのであろう。

と、すれば、世の憂き事は、実は、芸術活動の種なのである。

もしそれを、軽薄短小な言い方で、表現すると、世の中のマイナスイメージは、芸術という、プラスイメージに、変換できるということである。

ただし、才能が、必要である。
才能の無い者は、さて、どうするのか。
答えは、簡単である。
妄想の、宗教に、没頭するのである。
あたかも、それが、プラスイメージであるか如くに、である。

人間は、思い込みだけでも、生きられるということである。

私の言い方にすると、死ぬまでの暇つぶしに、好きなようにすると、いい、ということになる。
ただし、それを、人に強制するな、ということである。

布教、宣教、折伏、公宣流布など、するなということである。

その前に、自分の尻の穴を、綺麗に、拭くことである。
尻糞をつけるな、ということである。

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2008年06月21日

もののあわれ222

久しくおとづれぬ人を思ひ出でたるをり

忘るるは うき世のつねと 思ふにも 身をやるかたの なきぞわびぬる

久しく訪れぬ人とは、夫のことである。
夫を、思い

人を忘れるということは、憂き世の常だと思うにつけ、忘れられた身の、やり場無く、切なく、泣いたことでした。

返し やれてなし

たが里も 訪ひもや来ると ほととぎす 心のかぎり 待ちぞわびにし

お返し 
やれてなし、とは、前の何首かが、無いという、書写の言葉。

ホトトギスは、誰の里にも、訪れるものだ。いずれ、私の元へも、来るだろうと、一心に待ちあぐねている。

心のかぎり 待ちぞわびにし
心の限り、待つことを、知る、とは、そのまま、人生である。
人生は、待つことに、尽きる。
何を、待つのかで、それぞれの、人生模様が違う。

待ち尽くして、何も、来ない人生もある。
死ぬまで、何かを待つ人もいる。

昔、高校教師で、毎日、駅に、誰かを迎えに出ていた人を知っている。
精神の病にあるとは、知りつつ、ただ、その行為のみで、後は、普通の生活が、出来る。
私は、その人を、病にあるとは、思わなかった。
何かを、誰かを、待つ行為こそ、人生であろうと、思った。

その行為を、理解できない妻は、子を連れて、家を出た。
その人は、きっと、もうこの世にいない年である。

待ち続ける姿。
まさに、人生であろう。

忘るるは うき世のつねと 思ふにも
人を忘れるということは、この世の常だという。
そこに、忘れられた、存在もある。

失恋という、心象風景は、忘れられた人の、心模様である。

人に、忘れられてしまったと、感じた時。
失望と、喪失感である。
この、失望と、喪失感を、いかに、生きるか。

離れた人の心を、取り戻すことは、奇跡に近い。

生き別れ、死に別れ、どちらにしても、切ないことである。
しかし、人生に、そういうことは、多い。多すぎるほど、多い。
だから、物だけを、頼りにする人もいる。
それでは、淋しいと、他者は、見るが、本人は、それで、何とか、やり過ごしている場合もある。
誰も、その人を、裁くようなことは、出来ない。

物で、心を埋められるならば、それでも、いいではないか。

お金だけはあるが、淋しい人を多く、知っている。
しかし、それが、幸不幸であると、誰が、判定できるだろうか。

死を、目の前にしても、有り余るお金のみが、友の人もいる。
それで、満足していれば、言うことはない。

人は、それぞれである。
誰が、人を裁くことが、出来るのか。
人は、自分が自分で、裁くのである。

小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の物の中なるを見つけて、加賀の少納言のもとに

暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の あはれを知るぞ かつはかなしき

小少将の君とは、源時通の女。紫の親友である。
すでに亡くなっていたと、思う。
その彼女の、残された文の、うちとけ文を見て、加賀の少納言、つまり、小少将の友に。

我が身は、暮れぬ間の、儚い命で、明日は、どうなるか、わからない。
あの方の、生涯の儚さを、知ることは、悲しいことです。

人の世の あはれを知るぞ はつはかなしき
この、はつはかなしき、を、生き続ける、人間である。

これは、無常哀感である。
仏教の浄土思想による。
それを、美感に昇華させる時、歌の道があり、物語の道が、拓ける。

万葉の歌と、比べると、どうしようもない、絶望感である。
病むものである。

そこから、仏教の救済へと、向かったか。
一見、そのように、見えるが、しかし、違う。
無常美感を、作り上げてゆく。
そこに、日本民族の、独特の感性が、拓ける。

もののあわれ、は、一環して、底流に流れて、揺るぐことがない。

無常感覚に、美感が、超えるのである。
浄土思想は、実に、陰湿なものである。
しかし、それも、取り入れて、文の世界で、呑み込んでゆく。
仏教を超えてゆくもの、もののあわれ、であり、歌道である。

この歌は、古今集、紀貫之の、
明日しらぬ わが身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ 悲しかりけり
を、本歌にしている。

たれか世に ながらへて見む 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども

誰が、生き永らえて、あの方の、文を、見るでしょう。
書き残された、この筆の、跡は、消えずに残る、形見です。

跡は消えせぬ 形見なれども

それが、歌道であり、文であり、もののあわれ、である。
すべての歌は、文は、形見である。

返し

亡き人を しのぶることも いつまでぞ 今日のあはれは 明日のわが身を

亡き人を、悲しみ慕うことも、いつまででしょう。
今日の人の無常は、明日、我が身にも、訪れることです。

だから、救われる。
私も、いつか、必ず死ぬのである。
何も、急ぐことはない。
確実に、決定していること、それは、死である。

内裏に、水鶏の鳴くを、七八日の夕月夜に、小少将の君

天の戸の 月の通い路 ささねども いかなるかたに たたく水鶏ぞ

水鶏の鳴く時期は、旧暦六月である。水鶏とは、くひな、と読む。

この夕月の射す、宮中では、戸を閉めていないのだが、水鶏は、どちらの戸を叩いて、いるのでしょう。

天の戸の 月の通い路
宮中の人の通路を、言うのである。

小少将の君の歌である。

返し
槇の戸も ささでやすらふ 月影に 何をあかずと たたく水鶏ぞ
まきのとも ささでやすらふ つきかげに なにをあかずと たたくくひなぞ

夕月のもとに、寝ようかと、槇の戸を閉ざさずいるのに、水鶏は、何が開かないで、不満だと、鳴くのでしょう。

水鶏は、交尾の時期になると、雄が、戸を叩くように鳴くのである。
それを、戸を叩くという。

なにをあかずと
開かずと、飽かずの、掛詞。

飽かずに鳴くのである。

思い出の、歌のやり取りである。


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2008年06月22日

もののあわれ223

朝霧のをかしきほどに、御前の花ども色々に乱れたる中に、女郎花いと盛りに見ゆ。をりしも、殿出でて御覧ず。一枝折らせたまひて、凡帳のかみより、「これただに返すな」とて、賜はせたり

女郎花 さかりの色を 見るからに 露のわきける 身こそしらるれ
おみなえし さかりのいろを みるからに つゆのわきたる みこそしらるれ

と書きつけたるを、いととく

白露は わきてもおかじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ

朝霧の、美しい時期。御前とは、中宮彰子のいる、土御門殿の前庭である。
花々が、色乱れて咲いている中に、女郎花が、盛りに咲いている。
土御門の主人、道長が、それを御覧になり、一枝折らせて、これに対して、平凡な返しではなく、素早く返しをせよ、と、仰せられた。

露に染められた美しい女郎花の花の色。分け隔てして、露の置かない、私の醜さが、身に沁みて感じます。

いととく
道長が、それに素早く返した

白露は、そなたの言うように、分け隔てしているわけではない。
女郎花は、美しくなろうとする、その心で、美しく染まっているのだ。

これは、紫式部日記の、寛弘五年秋のところに出でくる。

道長の
心からにや 色の染むらむ
が、実にいい。

その心にて、自ら色を染めている。
擬人法であるが、心は、物でもあった。
花というものに、心を投影する、能力は、現代人の、数倍、いや何千倍の力を持っていた。

心からにや
もののあわれ、というものも、それである。
物は、心の写しである。

東大大学院医学系研究科の坂井克之準教授による報告である。
見た意識がないほどの短時間、何かを見せて、それで行動が変化することを、サブリミナル効果という。
見えた時は、考えて行動を選べるが、見えないと、すべての過程が、脳で無意識のうちに進行するため、自分の行動を制御できない。
では、見たという意識は、どのようにして生じるのか。
目に入った情景は、網膜に映り、後頭部にある脳の1次視覚野に投影される。
ただ、この段階では、まだ、見た、とはいえない。
「情報を受けた1次視覚野が活発に活動して脳の様々な、領域に情報が伝わり、それが、再び戻ってきて、見たと、意識される」と言う。

そこで、更に、国際電気通信基礎技術研究所、脳情報研究所の、神谷之康研究員は、先行する脳の神経細胞の動きから、その後の、体の動きを予測する研究をしている。
それによると、腕を動かす前から、一部の神経細胞の活動が活発になる。
この時、意識に上がっていない、情報が、その神経細胞の活動に、介入したら、どうなるのか。
神谷氏は、動きが変わる可能性があると言う。
脳内に、複数の認知の過程があり、自身も関与できない情報が表現され、行為が生まれる可能性を、脳科学は示唆している。自由な意思が、行為に介入する余地があまりないことも、ありうる、ということになる、と言うのである。

さて、その一方で、脳は、数々の情報を瞬時に、摂取選択している。

つまり、脳の働き以前の、何かがあるということになる。
自由な意思決定をしていると、思い込んでいる可能性もあるということだ。

花を見て、それを、我が心と思う、もののあわれ、というもの、それは、脳以前の何かの、介入があるとも、言える。

脳以前のもの、それを、心として、大和心は、確実に、存在すると、私は、思う。

多くの花々の中から、女郎花が、強烈に意識される。
何故か。
女郎花に、何かを託しているのである。
それが、心、である。

さかりの色を 見るからに
正に、盛りの色を観るのである。

それは、心に在るものである。
心に無いものは、見えない。

脳は、気付く必要の情報には、気付き、必要の無い情報には、気付かないという。
その、主体は、心、なのである。

更に、言葉を扱う、脳の働きに、また、大和言葉の、特徴がある。
脳科学者、黒川伊保子さんは言う。
日本は、その主な国土である日本列島を、歴史上すべて失うことなく、DNAの系譜がまるまる途絶えることもなかった。同じ土地で、似たような骨格の人々が、一つの系統の言語を何千年も培ってきたことになる。

言語の構文とか、狩猟民族とか、宗教とか、風土とか、そんな違いをあざやかに超えて、母国語のありようという点で、日本と英国は似ている。前者は神の住む国で、後者は妖精の棲む国である。ファンタジーを作らせたら超一流の国である。

日本語の語感が作り出す、豊かな情感の世界、・・・意味を突きつけ合う合理的な会話の裏で、語感によって交わしている、意識の対話があることを。

日本語の存在価値は、今、「嘘」になろうとしている。数千年に及ぶともいわれる日本語の中でも、おそらく、初めての出来事のはずである。
日本語はなぜ美しいのか より

この方の危機意識は、理解する。

母語を、正しく学ぶことがないと、言語の、つまり、精神の浮浪者になるのである。
日本語を正しく身につけることの前に、英語教育をしたならば、どんなことになるのかと、危惧するのである。

私も、そう思う。
これについては、いつか、別枠で、論じる。


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2008年06月23日

もののあわれ224

都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなる所のいとわりなきかけみちに、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉の中よりいと多く出で来れば

ましもなほ 遠方人の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂
ましもなほ をちかたびとの こえかはせ われこしわぶる たにのよびさか

都へ帰る途中の、越前国、福井県である、かへる山という所を、越える、呼坂という場所は、とても、難儀する険しい道である。
輿を担いで行くのも、大変で、恐ろしいと思う。
猿たちが、木の葉の間から、続々と出で来るのである。

猿よ、お前たちも、遠方人として、声を掛けておくれ。私の、越えあぐねている、この谷の、呼坂で。

遠方人
遠くの方にいる人である。

みづうみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを

名に高き 越しの白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね

琵琶湖にて、伊吹の山の、素晴らしく白く見えること

名高い、越しの山の、白山に行き、その雪山を見慣れたので、伊吹山の、雪など、なにほどのことはない。

伊吹の嶽
いぶきのたけ

なにとこそ見ね
なんのことはなく見える

卒塔婆の年へたるが、まろび倒れつつ人に踏まるるを

心あてに あなかたじけな 苔むせる 仏の御顔 そとは見えねど

卒塔婆とは、梵語、ストゥーバの漢訳である。
死者を葬る場所に建てる、墓標である。
木や石で、作る。現代は、墓といえば、石であるが、昔は、木もあった。

その、卒塔婆が、倒れて、人の踏みつけられてある。

足に踏まれる、石の中から、これが卒塔婆だと思うと、ああ、もったいないことと思う。
苔むして、仏のお顔も、それだと、解らない。
死者を、この頃から、仏と言う。

卒塔婆は、死者の顔として、認識されていた。


結婚が近づいた頃の歌を見る。

けぢかくて たれも心は 見えにけむ ことはへだてぬ ちぎりともがな

親しく話すようになり、互いに、心が通ったでしょう。この上は、隔てをおかない、仲になりたい。

ちぎりともがな
和泉式部日記では、ちぎる、とは、セックスをさした。
ここでは、深い関係を、暗に言う。
これは、宣孝の歌である。男側からのもの。

返し
へだてじと ならひしほどに 夏衣 薄き心を まづ知られぬる

隔てを持たないようにと、思って、いつも、お返事していました。
でも、へだてぬちぎり、をと言う、言葉で、あなたの心の薄さが、解ります。

矢張り、女である。

夏衣
薄いの、枕詞。

男の、へだてぬちぎり、に、動揺し、反発している。
今の言葉で言えば、早く、しましょうと、促している。


峯寒み 岩間氷れる 谷水の ゆくすえしもぞ 深くなるらむ
みねさむみ いわまこおれる たにみずの ゆくすえしもぞ ふかくなるらむ

峯が寒くて、岩間の水が、氷っている流れは、春になれば、氷が解けて、深い流れになります。
そのように、私たちの仲も、深くなることでしょう。

詞書がないが、宣孝の歌である。

紫の、女の固い心を、何とか、ほぐしたいと思っているようである。
要するに、口説いているのである。

早く深い関係になろうと、男が言うと、女は、薄い心だと返す。
きっと、いつかは、深い関係になってゆくと、信じると、男が言う。

何のことは無い、男女のやり取りである。
ただ、それを、歌にするということである。

ラブレターが、歌である。

万葉の相聞歌に、当たる。
相互いに、聞くのである。
相手の言葉を、聞くという行為は、すでに、恋なのである。

言葉を、発することは、成ることであるする、言霊の思想が、そのまま、生きる。

女は、名を教えれば、男を受け入れるという、その習いが、生き続けている。
ちぎり、の前に、言葉の駆け引きがある。それは、現代もそうであろう、か。いや、時代性は、まず、関係から始まり、次にようやく、言葉が発せられる。しかし、今では、それが、面倒だという、男たち多数。
恋が、面倒だという、病は、恋の病より、深く、病んでいるのである。
恋をしない、病は、実は、救いようが無い。
生きることは、恋することであった。
それが、失われると、あるのは、物である。
物だけに、生きるのである。
これは、病の重症である。

恋出来なくば、芸に生きるという訳でもない。
ただ、物のみに、心を動かすという、この時代は、今までにない、時代である。

もののあわれ、など、全く関係ない、日本人が、続々と、現れているのである。
国を愛すると言っても、理解出来ない。出来る訳が無い。
この国のことを、何も知らないのである。
知らないものを、愛することなど、出来るものではない。

しかし、それを、良心の自由をと言い、知らせないという、教育の現場である。
もう、語る言葉が無い。

これを、万事休す、と言う。

大新聞の、読者の声に、公立の教師をしていた者、最後まで、国歌斉唱の際に、起立しなかったことを書く。
公立である。
何故、私立に務めなかったのか。
起立しないことが、自由、それも、良心の自由だと勘違いしている。

公の場で、国歌斉唱の際に、起立するのは、礼儀である。
ちなみに、日本以外の国で、そのような振る舞いをすれば、まず、相手にされない。
イスラム圏ならば、殺されても文句は言えない。

あまりに、未熟で、空いた口が塞がらない。

良心の自由であるから、バリ島の寺院に、短パンで入ろうとすると、止められる。タイの寺院でもそうである。
そんな良心の自由が通用するのは、このアホな国、日本だけである。

公とは、礼を尽くす場である。
公私混同も、ここ、ここに至っては、終わっている。

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2008年06月24日

もののあわれ225

宮の御産屋、五日の夜、月の光さへことに澄みたる水の上の橋に、上達部、殿よりはじめたてまつりて、酔ひ乱れののしりたまふ。盃のをりにさしいづ

めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ

中宮彰子の出産である。
一条天皇第二皇子の誕生祝の儀。
上達部、かんだちめ たちが、寝殿と東の対を結んで遣り水の上にある、渡殿の上で、酔い乱れて、大声で騒いでいる。
盃が、回ってきたてので、次の歌を、差し出した。

今夜の望月に、清新な光が加えられたような、若宮様誕生の、祝いの盃は、望月と同じように、欠けるところなく、皆様の手に渡されて、千代も、お祝い申し上げるのでしょう。

またの夜、月のくまなきに、若人たち舟に乗りて遊ぶを見やる。中島の松の根にさしめぐるほど、をかしく見ゆれば

曇りなく 千歳にすめる 水の面に 宿れる月の 影ものどけし
くもりなく ちとせにすめる みずのおもに やどれるつきの かげものどけし

次の夜。月が一点の曇りなく、美しい。若い女房たちが、舟に乗る。
中島の松の根元を舟が回る。それが、趣があり、美しい。

濁りなく、千年の長きに渡り、澄んでいる池の水に、映る月影も、穏やかである。

御五十日の夜、殿の「歌詠め」とのたまはすれば、卑下してありけれど

いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば
いかにいかが かずへやるべき やちとせの あまりにひさしき きみがみよをば

五十日の祝いの席で、殿の「歌詠め」という命で、お目にかける歌は、詠めむと、遠慮していたが

これからの、幾千年という、若宮様の、御歳を、どのようにして、数え尽くすことができるでしょう。

いかにいかが
感嘆である。
長寿を祈る言葉は、特別に、祝いの際に使われた。
八千歳とは、大袈裟であるが、それほど、祝いの心深いと、表すのである。

殿の御

あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳も数も 数へとりてむ

殿様の御歌。道長の歌である。

あしたづ
鶴の別名

鶴のような、千年の寿命があれば、若宮の千年の御歳も、数えとり、遠い将来を、見届けることが出来る。

自分の娘が、天皇の子を産んだのである。
道長の安泰を、約束する。

誕生と、長寿は、共に、末広がりの祝いである。
それでは、逆に、死は、不幸中の不幸である。
しかし、それは、避け得ないことである。

死は、忌みことである。
誕生と死と、共に、考えるところに、もののあわれ、というものの、心象風景が、ある。

逃れられない、死というものを、いかに、受け入れるのか。
それを、その恐怖を、いかに、克服するのか。
いや、それは、克服するものではなく、受容するものであった。

人は、死ぬことによって、自然に帰ることができる。
その、自然に帰ることを、神になると言った。
自然は、神だったからだ。
神という文字に、観念がつく場合は、カミとしてよし。

何度も言った。
日本人の死生観は、死ぬことが、消滅することではなく、隠れることであったと。
自然の内に、隠れるのである。

それは、崩れることであった。
崩、神上がり、かむあがり
肉体が、崩れて、元に帰る。
その心は、山に帰る。さらに、天に帰る。

雲を見て、亡き人偲ぶ歌が多かったのは、万葉である。
自然に隠れた心は、雲や雨や雪になった。
自然のすべてになった。

風吹けば、風に。雨降れば、雨に、亡き人を偲ぶよすがとした。
それ、もののあわれ、である。

死というものを、受容する、もののあわれ、という、心象風景は、日本にしかない、考え方である。

そして、誕生も、晴れの心であるが、その心には、もののあわれ、というものが、流れている。
晴れの場である。
そして、晴れのみが、人生ではない。だから、晴れの日は、晴れを、思う存分に祝うのである。

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2008年06月25日

もののあわれ226

たまさかに返り事したりける後、またも書かざりけるに

をりをりに かくと見えて ささがにの いかに思へば 絶ゆるなるらむ

夫の死後に、少しばかりの付き合いをしたが、深い関係にはならなかった、男からの、歌である。

時たまに、返事をしていたが、ある時からは、もう返事を書かなくなったところ。

事あるごとに、返事を下さると、思っていましたが、どうしたのでしょうか。お返事が途絶えてしまいました。

返し、九月つごもりになりにけり

霜枯れの あさぢにまがふ ささがにの いかなるをりに かくと見ゆらむ

返し。九月の末になった頃。

霜枯れの、浅茅に紛れ込んで、微かに生きている、小さな蜘蛛が、どんな時に、巣を作るというのでしょう。

つまり、未亡人の私が、どうして返事を書くというのか、という意味。

浅茅、あさじとは、茅のことである。ちがや。

男が、いかに思へばという。どういう、考えで、というのだ。
当然、返事があっていいだろうと、思っている。

紫は、自分のことを、霜枯れの、あさぢにまがふ、ささがに、と言うのである。
閉じこもっていて、物語を書いていたのであろう。
無用な、心の乱れを持ちたくないのであろう。

次は、また、夫の夜離れ、よがれ、を、嘆く歌である。

なにのをりにか、人の返り事に

入るかたは さやかなりける 月影を うはのそらにも 待ちし宵かな

訪れるはずの、夫が来ないのである。

入って行く、方角は、はっきりと解っている月の姿を、昨夜は、上の空で、待っていたのです。

入るかた
夫の出掛けた、女の所である。

待ちし宵かな
どれほどの、女たちが、このような気持ちを、抱いただろうか。


返し

さして行く 山の端もみな かき曇り 心の空に 消えし月影

月の目指す、山の端も、あたりの空が曇り、心も上の空になって、月は、姿を消してしまった。

男の、言い訳である。
お前の、機嫌がよくないからと、言うのである。

月を、自分に擬したのである。

また、同じすぢ、九月、月あかき夜

おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも

前の歌と、同じ気持ちである。

あなたに、飽きられた秋の頃の、悲しみを、思ってください。
今夜の月のように、美しい方に、心を奪われているのでしょう。

結婚生活が、二年余りである。
夫の、夜離れを、嘆くことがあったのである。

おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ

深読みすると、秋に、飽きを、懸けている。

歌詠みでなければ、わからないような、歌である。

全く、別の意味に、受け取ることも出来る。

西行も、詠むような、歌である。

秋のあはれを、とは、秋という季節を、超えている。
単なる、夜離れの歌にしておくのは、もったいないのである。

おほかた、とは、大方である。大半が、秋のあはれを、思うのである。

大半の人生は、あはれ、なのである。
大半の人は、あはれ、を、生きるのである。

それを、思ひやれ、である。
月に心は あくがれぬとも、とは、別のモノに心奪われても、いつしか、本当の姿を、知ることになるのである。

本当の姿とは、あはれ、という、人間の姿である。

夫に対する、夜離れの歌ということで、読むだけでは、解らない。

その心の底辺に、流れるもの、それは、もののあわれ、である。

想像力逞しい女は、更に、夫の行動に悩んだであろう。
あれほどの、物語を書くのである。
それは、単なる夜離れに、尽きることなく、さらなる、人生の諸相に、辿り着いたことだろう。

いつも、いつも、秋のあはれを 思ひやれ、なのである。
そうすると、見えてくるものりがある。
そのために、歌を詠み、物語も書くのである。

あくがれいずる心も、実は、そこにある。
憧れは、最後に、ものあはれ、に、行き着くのである。


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