2008年05月01日

もののあわれについて196

かくのみたえずのたまはすれど、おはしますことはかなし。雨風などいたう降り吹く日しもおとづれたまはねば、「人ずくななる所の風の音をおぼしやらぬなぬりかし」と思ひて、暮れつ方聞こゆ。


霜かれは わびしかりけり 秋風の 吹くには萩の 音づれもしき

と聞こえたれば、かれよりのたまはせける、御文を見れば、
宮「いとおそろしげなる風の音、いかがとあはれになむ。


かれはてて われよりほかに 問ふ人も あらしの風を いかが聞くらむ

思ひやりきこゆるこそいみじけれ」とぞある。


このように、絶えず、御文は、下さいますが、お出でになることは、なかなかありません。
雨や風が、激しく吹く日でさえ、お訪ねくださいませんので、「人の少ない、私の家に、吹く風の音が、わびしくあることを、思いくださいますか」と、思い、夕暮れ時に、お手紙を、差し上げました。


しもがれは わびしかりけり あきかぜの ふくにははぎの おとづれもしき

草葉が、枯れてゆくのは、心寂しいことです。
秋風が、吹く頃は、萩のさやぎも、聞こえて、宮様が、お訪ね下さったことを、思い出します。

と、申し上げますと、お返事がありました。
御文には「激しく、恐ろしいような、風が吹きましたが、その音を、どのように聞いているのかと、しみじみと、思っていたました。


かれはてて われよりほかに とふひとも あらしのかぜを いかがきくらむ

誰からも、忘れられ訪ねる人もいない、あなたは、どのように、この風の音を、聞くのでしょうか。

思うだけで、お訪ねすることが、できないのが、切ないことです」とありました。


のたまはせけると見るもをかしくて。所かへたる御物忌にて、忍びたる所におはしますとて、例の車あれば、今はただのたまはせむにしたがひてと思へば、参りぬ。

私を、求めていらっしゃるということが、嬉しゅうございました。
宮様は、方違えのために、別の場所に、人目を、忍んだ所にいられます。
いつものように、車の、お迎えがありました。
今は、何もかにも、仰せのままにと、車に乗り込みました。


心のどかに御物語起き臥し聞こえて、つれづれもまぎるれば、参りなましきに、御物忌過ぎぬれば、例の所に帰りて、今日はつねよりもなごり恋しう思ひ出でられて、わりなくおぼゆれば聞こゆ。


つれづれと 今日数ふれば 年月の 昨日ぞものは 思はざりける

御覧じて、あはれとおぼしめして、宮「ここにも」とて、


思ふこと なくて過ぎにし 一昨日と 昨日と今日に なるよしもがな

と思へど、かひなくなむ。なほおぼしめし立て」とあれど、いとつつましうて、すかすがしうも思ひ立たぬほどは、ただうちながめてのみ明かし暮らす。


心のんびりと、起きても寝ても、物語をしまして、つれづれの侘しさも、まぎれることでした。いっそ、宮様の、お邸に、参ろうとか、思いましたが、宮様は、物忌が、明けましたので、住み慣れた我が家に、戻りました。
その日は、いつもより、宮様が、恋しくて、名残尽きない気持ちでしたので、歌を詠みました。


つれづれと きょうかぞふれば としつきの きのうぞものは おもはざりける

つれづれのままに、今日は、お逢いした年月を、数えてみました。
昨日だけは、なんと、物思いの、満たされた日でしたでしょう。

宮様は、歌を御覧になり、いじらしい女と、思われ、「私も同じ思いです」とお書きになり、


おもふこと なくてすぎにし おととひと きのうときょうに なるよしもがな

なんの思いもなく、過ぎた日は、一昨日と昨日でしだか、その満たされた思いは、今日になって、無くなることは、ないでしょう。

と、思うのですが、どうすることも、できません。
私の邸に、来てくださいと、ありましたが、いたく気兼ねがあります。
決心がつくまでは、物思いを、するばかりで、暮らしました。


色々に見えし木の葉も残りなく、空も明こう晴れたるに、やうやう入りはつる日かげの心細く見ゆれば、例の聞こゆ。


なぐさむる 君もありとは 思へども なほ夕暮れは ものぞかなしき

とあれば、


夕暮れは たれもさのみぞ 思はゆる まづ言ふ君ぞ 人にまされる

と思ふこそあはれなれ、ただ今参り来ばや」とあり。またの日のまだつとめて、霜のいと白きに、宮「ただ今のほどはいかが」とあれば、


起きながら 明かせる霜の 朝こそ まされるものは 世になかりけれ

など聞こえかはす。例のあはれなることども書かせたまひて、


われひとり 思ふ思ひは かひもなし おなじ心に 君もあらなむ

御返り


君は君 われはわれとも へだてねば 心心に あらむものかは

かくて、女かぜにや、おどろおどろしうはあらねどなやめば、時々問はせたまふ。


色々に、紅葉して、色づいた木の葉も、残り少なくなり、空も、晴れた日に、静かに沈んでゆく、夕日を見ていました。宮様に、いつものように、申し上げました。


まぐさむる きみもありとは おもへども なほゆうぐれは ものぞかなしき

慰めてくださる、宮様が、おいでですが、やはり、夕暮れは、悲しく思うものです。

と、書かれてありました。


ゆうぐれは たれもさのみぞ おもほゆる まづいふきみぞ ひとにまされる

夕暮れは、誰もが、悲しく思います。それを、誰よりも、先に思うあなたは、一番、悲しいでしょう。

そう思いますと、あなたが、可愛そうです。今すぐにも、伺いたいとの、お返事がありました。


おきながら あかせるしもの あしたこそ まされるものは よになかりけれ

起きたままで、お出でをお待ちして、夜を明かした、霜の朝の風情ほど、世の中に、悲しいものはありません。

などと、お手紙を、交わしました。

宮様は、いつものように、しんみりと書かれ、


われひとり おもふおもひは かひもなし おなじこころなに きみもありなむ

私ひとりで、あなたを、恋い慕うのは、いたし方ありませんが、私と、同じ心で、あなたも、恋い慕ってください。

お返事に


きみはきみ われはわれとも へだてねば こころこころに あらむものかは

あなた、あなたと、私は私と言われる、区別は、しません。二人の心は、別々にありません。

こうしているうちに、女は、風邪を引いたようです。
それほどてもありませんが、気分が勝れません。
宮様は、時々、お見舞いに来ました。


なぐさむる 君もありとは 思へども なほ夕暮れは ものぞかなしき
ものぞかなしき
心が悲しい。
もの、とは、心である。
もののあわれ、とは、心の、あわれ、であること。

日本人は、物にも、心を、観た民族である。
物は、心であった。

ここで、もののあわれ、というもの、心のあわれ、であり、心のあわれ、を、もののあわれ、ということに、漸く至った。

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2008年05月02日

もののあわれについて197

よろしくなりてあるほどに、宮「いかがある」と問はせたまへれば、女「すこしよろしうなりにてはべり。しばし生きてはべらばやと思ひたまふこそ罪ふかく。さるは、


絶えしころ 絶えねと思ひ 玉の緒の 君によりまた 惜しまるるかな

とあれば、宮「いみじきことかな、返す返すも」とて、


玉の緒の 絶えむものかは ちぎりおき しなかに心は 結びこめてき


よくなってきた頃、宮様が「気分は、どうですか」と、お尋ねになります。
「少しは、よくなりました。しばらくは、生きていたと思いますが、罪深いことでございます。それにしても、


たえしころ たえねとおもひし たまのおの きみによりまた おしまるるかな

宮様の、お出でが、絶えました頃、もう、命途切れてもいいと、思いました。
しかし、宮様を知りまして、再び、命が、惜しくなりました。

と、申し上げると、宮様は、「たいそうよいことです。返す返すも、嬉しいことです」と、仰せられ、


たまのおの たえむものかは ちぎりおき しなかにこころは むすびこめてき

あなたの命が、絶えてしまうものですか。
約束をし、契った二人です。しっかりと、心は、結び込めています。


かく言ふほどに、年ものこりなければ、春つ方と思ふ。十一月ついたちごろ、雪の降る日、


神代より ふりはてにける 雪なれど 今日はことにも めずらしきかな
御返し


初雪と いづれの冬も 見るままに めづらしげなき 身のみふりつつ

など、よしなしごと明かし暮らす。

このようにしているうちに、年も残り少なくなりました。
邸に、参るのも、春の頃に、なると、思っていました。
十一月の、初め頃、雪がいたく、降ります日に、


かみよより ふりはてにける ゆきなれど きょうはことにも めづらしきかな

神代から、降り続いた雪ですが、今日の雪は、ことに、珍しく思われます。

お返事

はつゆきと いづれのふゆも みるままに めづらしげなき みのみふりつつ

初雪が降ったと、毎年くるたびに、見ていましたが、目新しいことのないままに、わが身だけが、古びてしまいます。

など、歌のやり取りをして、暮らし明かしていました。


御文あり。宮「おぼつかなくなりにければ、参り来て思ひつるを、人々文つくるめれば」とのたまはせたれば、


いとまなみ 君来まさずは われ行かむ ふみつくるらむ 道を知らばや

をかしとおぼして、


わが宿に たづねて来ませ ふみつくる 道も教へむ あひも見るべく

つねよりも霜のいと白きに、宮「いかが見る」とのたまはせたれば、


さゆる夜の かずかく鴫は われなれや いく朝霜を おきて見つらむ

そのころ雨はげしければ、


雨も降り 雪も降るめる このごろを 朝霜とのみ おきいては見る


宮様からの、御文がありました。
「お目にかかることなく、ご無沙汰していますので、お訪ねしようかと、思ったのですが、人々が、漢詩を作る集いがありますので」と、仰せになりましたので、


いとまなみ きみこまさずは われゆかむ ふみつくるらむ みちをしらばや

暇無くて、宮様が、お出でにならないのならば、私の方から、伺います。
漢詩を作る道と、お邸への、通い道とを、知りたく思います。

宮様は、面白く思われて、


わがやどに たづねてきませ ふみつくる みちもおしえむ あひもみるべく

私の所へ、お出でなさい。漢詩を作る道も教えます。また、お逢いできるのですから。

いつもより、いたく、霜が白く置いていますので、宮様は「この霜を、どのように、御覧になっていますか」と仰います。


さゆるよの かずかくしぎは われなれや いくあさしもを おきてみつらむ

寒さの、厳しい夜に、羽を掻いて身じろぎしている、鴫は、私の姿なのでしょうか。
お訪ねにならない朝を、幾日も、明かして、霜を見たことでしょう。

その頃、また、雨が激しく降りました。


あめもふる ゆきもふるめる このごろを あさしもとのみ おきいてはみる

雨も降り、雪も降ります、この頃を、お出でになりませんので、起き明かしてばかりいて、朝の霜を、見ていました。


最後の歌。
雨も降る 雪も降るめる このごろを 朝霜とのみ おきいてはみる
上記の訳になるが、これは、相手ある歌である。

恋の切なさを、歌う。
朝霜とのみ おきいてはみる

それは、相手の愛情を確認する意味で、言うのである。
眠られずに、起きて、朝になり、そして、朝の霜を眺めるというのである。

このごろを 朝霜とのみ おきいては 君待つ我の ものぞかなしき
のように、続くものと、思う。

おきいては 君待つ我の かなしみは 今ひとたびの 逢瀬に解けむ

しかし、直接的、表現を避けるのである。

私の、戯れ歌は、そのまま、直接的であるから、単なる、戯れ歌である。

三十一文字に、託す言葉の世界は、実に、豊かである。
削り取った後の、花のような、言葉の深さを、有する。
一輪の花に、すべての花を、託す思い。

和歌の道とは、歌の道とは、もののあわれ、に、貫通するのである。


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2008年05月03日

もののあわれについて 198

その夜おはしまして、例のものはかなき御物語せさせたまひても、宮「かしこにいてたてまつりてのち、まろがほかにも行き、法師にもなりなどして、見えたてまつらば、本意なくやおぼざれむ」と心細くのたまふに、「いかにおぼしなりぬるにかあらむ。またさようのことも出で来ぬべきにや」と思ふに、いとものあはれにてうち泣かれぬ。


その夜、宮様は、お出でになられ、いつものように、取り留めないお話をなさるにつれ、「邸にお連れした後、私が、他所へ移ったり、法師にでもなりまして、お目にかかれなくなったら、残念でしょう」と、心細く、仰せられます。
「いったい、どうして、そのような気持ちになられるのでしょう。それとも、そのようなことを、なさろうとするのでしょうか」と、思いますと、非常に、あわけに思えて、悲しみ、泣いてしまいました。

いとものあはれにてうち泣かれぬ
この場合は、あはれ、が、身に沁みて、深く心に動揺を与える意味である。

あはれ、の、心象風景である。


みぞれたちたる雨の、のどやかに降るほどなり、いささかまどろまで、この世ならずあはれなることをのたまはせ契る。

みぞれの雨が、静かに降る時でした。
いくらも、まどろむこともなく、この世のことだけではなく、来世のことも、話されて、契りました。


「あはれに、なにごとも聞こしめしうとまぬ御有様なれば、心のほども御覧ぜられむとてこそ思ひも立て、かくては本意のままにもなりぬばかりぞかし」と思ふに悲しくて、ものも聞こえで、つくづくと泣く気色を御覧じて、
宮「なほざりのあらましごとに夜もすがら、とのたまはすれば、
女「落つる涙は雨とこそ降れ、御気色の例よりもかびたることもをのたまはせて、明けぬればおはしましぬ。


あわれに、何事も、聞き入れてくださる、宮様の、ご様子でしたから、私の心の中も、お知りいただきたいと、決心いたしました。
宮様が、出家ならるのでしたら、私は、尼になってしまいましょう」と、思いますと、悲しく、切なく、何も、申し上げられません。
しみじみと、泣きました。
その様子を、見て、宮様は、「取りとめも無い、先の予想を、申しました。夜通し、と、仰せになりました。
女「落ちる涙は、雨のように、降っています。
宮様は、いつもより、頼りないことを、色々と話して、夜が明けますと、邸に、帰って行きました。

ここでの、あはれ、は、宮様の有り様を言う。
つまり、あはれなお方である。それは、情け深い、思いやりのある、等々。
人の心の、機微を言う。

あはれ、なにごとも聞こしめしうとまぬ・・・
あはれに、何事も、聞いて下さる。
うとまぬ
疎く思わないのである。

心の、細やかさ。優しさ。
すべて、あはれ、という。

心の有様、行動すること、所作までも、あはれ、という言葉に、生かされる。

この、あはれ、というものを、日本人は、捜し求めてきた。
そして、今でも、捜し求めているのである。

最もよく、もののあわれ、というもの、知り得る場面は、恋である。
恋愛の、様々な、心模様と、その、所作に、あわれ、というものが、表されるのである。

もの、は、こころ、であった。
こころ、は、あわれ、であった。

もののあわれ、というのは、こころ、が、あわれ、なのである。
人事百般における、日本人の所作と、心にあるものは、もののあわれ、というものに、貫かれてある。人生に、貫かれてあるもの。それで、ある。

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2008年05月04日

もののあわれについて199

なにの頼もしきことならねど、つれづれのなぐさめに思ひ立ちつるを、さらにいかにせましなど思ひ乱れて、聞こゆ。


うつつにて 思へば言はむ 方もなし 今宵のことを 夢になさばや

と思ひたまふれど、いかがは」とて、端に



しかばかり 契りしものを さだめなき さは世の常に 思ひなせるとや

くちをしうも」とあれば、御覧じて、宮「まづこれよりとこそ思ひつれ、


うつつとも 思はさせらなむ 寝ぬる夜の 夢に見えつる 憂きことぞそは

思ひなさむと、心みじかや、


ほど知らぬ いのちばかりぞ さだめなき 契りてかはす 住吉の松

あが君や、あらましごとさらにさらに聞こえじ。人やりならぬ、ものわびし」とぞある。


何という、頼みになることは、ありませんが、つれづれの、侘しさを、慰めるために、邸に参ることを、決心しました。
今更に、どうしょうかと、思い乱れますことを、宮様に、申し上げました。


うつつにて おもへばいはむ かたもなし こよいのことを ゆめになさばや

現実の、この身のことを、思うと、悲しみは、言いようもありません。
昨日のことは、夢にしたい気持ちです。と、考えましたが、どうして、夢にできるでしょう。
と、書いて、その端に

しかばかり ちぎりしものを さだめなき さはよのつねに おもひなせとや

忘れがたく、契りましたものを、宮様は、私を残して、出家されてしまわれることは、定めのない、この世の常として、諦めよ、ということなのでしょうか。

口惜しく、思います。と、書き添えました。
宮様は、「まず、私の方から、お手紙を、差し上げようと思っていました。


うつつとも おもはざらなむ いぬるよの ゆめにみえつる うきことぞそは

現実のことと、思わないでください。共寝をした、夜の夢に浮かんだ、憂きことの、出来事なのです。

無常な、世の中のことと、思われるのでしょうか。短気なことです。

ほどしらぬ いのちばかりぞ さだめなき ちぎりてかはす すみよしのまつ

寿命の解らないのは、命ばかりで、不安定です。
しかし、契った仲は、住吉の松のように、幾代を経ても、変わりません。
愛する君よ。
あの話は、二度と、しません。
自分から、出家のことなど、話して、切なく思います。
と、便りを、されました。

我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく世経ぬらむ
古今集 読み人知らず より


女はそののち、もののみあはれにおぼえ、嘆きのみせらる。とくいそぎ立ちたらましかばと思ふ。昼つ方御文あり、見れば、


あな恋し 今も見てしが 山がつの 垣ほに咲ける やまとなでしこ

女「あな物狂し」と言はれて、


恋しくは 来て見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに

と聞こえたれば、うち笑ませたまひて御覧ず。このごろは、御経習はせたまひければ、


あふみじは 神のいさめに さはらねど 法のむしろに をればたたぬぞ

御返し、


われさらば 進みてゆかむ 君はただ 法のむしろに ひろむばかりぞ

など聞こえさせ過ぐすに、雪いみじく降りて、ものの枝に降りかかりたるにつけて、


雪降れば 木々の葉も 春ならで おしなべ梅の 花ぞ咲きける

とのたまはせたるに、


梅ははや 咲きにけりとて 折れば散る 花とぞ雪の 降れば見えける

またの日、つとめて


冬の夜の 恋しきことに 日もあはで 衣かたしき 明けぞしにける

御返し「いでや、


冬の夜の 目さへ氷に とぢられて 明かしがたきを 明かしつるかな

など言ふほどに、例のつれづれなぐさめて過ぐすぞ、いとはかなきや。
女は、その後、何を見ても、もののあわれ、を思い、嘆いてばかりいました。
早く、お邸に参ることを、決心し、準備をしていればと、思いました。
その昼頃、宮様から、御文がありました。


あなこいし いまもみてしが やまがつの かきはにさける やまとなでしこ

恋しいものです。今すぐにでも、逢いたい。山里に住む人の、垣根に咲く、大和撫子のように、美しいあなたに。

女は、「ああ、狂おしいほどの気持ちです」と、言われ


こいしくは きてもみよかし ちはやぶる かみのいさむる みちならなくに

そのように、恋しく思われるなら、私を訪ねて来てください。
男女が、逢い合う事は、神様が禁じている道では、ありません。

と、申し上げると、宮様は、にこやかに、微笑み、御覧になられました。
近頃は、お経を、習われていていましたので、


あふみぢは かみのいさめに さはらねど のりのむしろに をればたたぬぞ

逢うことは、神さまが禁じていることでは、ありませんが、今の私は、仏法の席におりますゆえ、お逢いに、行かないのです。

お返事

われさらば すすみてゆかむ きみはただ のりのむしろに ひろむばかりぞ

それでは、私の方から、お逢いするために、行きます。
宮様は、仏法の道を、公布していられれば、いいのです。
などと、申し上げて、日が過ぎました。

雪が降り、木の枝に降りかかりました。
その枝に、御文を、つけて、宮様から、


ゆきふれば きぎのこのはも はるならで おしなべうめの はなぞさきける

雪が降りました。春ではありませんが、まるで、梅の花のように、見えます。

と、御詠みになりましたので、


うめははや さきにけりとて おればちる はなとぞゆきの ふればみえける

梅の花が、もう咲いたかと、思い、手折ってみますと、散ってしまいました。
雪が降るのは、花のように、見えます。

次の日、朝早く、宮様から、


ふゆのよの こいしきことに ひもあはで ころもかたしき あけぞしにける

冬の夜、恋しさに、目を合わせもせず、眠らずにいて、お逢いできない夜の、片袖を敷いて、一人寝をしました。

お返し、「まあまあ」と、


ふゆのよの ひさへこおりに とちせられて あかしがたきを あかしつるかな

冬の夜の、寒さで、一人寝る切なさに、涙で濡れる目が、凍って閉ざされてしまいました。
開けにくい目を、ようやく開けて、明けにくい、冬の夜を、明かしました。

などと、詠んでいますと、いつものように、つれづれの侘しさを、紛らわしているようでしたが、思えば、なんと、儚いことでしょうか。


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2008年05月31日

もののあわれについて200

いかにおぼさるるかあらむ、心細きことどものたまはせて、宮「なほ世の中にありはつまじきにや」とあれば、


呉竹の 世々のふるごと おもはゆる 昔がたりは われのみやせむ

と聞こえたれば、


呉竹の 憂きふししげき 世の中に あらじとぞ思ふ しばしばかりも

などのたまはせて、人知れずすえさせたまふべき所などおきて、「慣らはである所なれば、はしたなく思ふめり。ここにも聞きにくくぞ言はむ。ただわれ行きていていなむ」とおぼして、十二月十八日、月いときよきほどなるに、おはしましたり。


宮様は、どのように、思し召しされるのでしょう。
心細いことを、仰せになって、「やはり、世の中に、生き通せないのではないか」と、お書きになっていますので、


くれたけの よよのふるごと おもほゆる むかしがたりは われのみやせむ

何代も、語り継がれてきました、故事を思わせますが、私と宮様の、思い出は、私一人で、思い起こして行くことが、できるでしょうか。

と、申し上げますと、


くれたけの うきふししげき よのなかに あらじとおもふ しばしばかりも

呉竹の、節のように、疎ましいことの、多い世の中です。
生きていたくないと、思うのです。

などと、詠まれて、密かに、女を置くべき、場所を決められて、「慣れないところですから、きまり悪く思われるでしょう。邸の者も、聞きづらいことを、申し上げるでしょう。今は、私が行き、女を、連れてきましょう」と、思し召して、十二月十八日、月が、大変美しく、清らかな夜でしたので、宮様は、女の家に、お出でになりました。


例の、
宮「いざたまへ」とのたまはすれば、今宵ばかりにこそあれと思ひてひとり来れば、宮「人いておはせ。さりぬべくは心のどかに聞こえむ」とのたまへば、「例はかくものたまはぬものを、もしやがてとおぼすにや」と思ひて、人ひとりいて行く。


いつものように、宮様は、「さあ、おいでなさい」と、仰せになりましたので、女は、今宵だけの、外出だとばかり思い、車に、一人で乗りますと、宮様は、「誰か、人を連れてお出でください。許されることならば、落ち着いて、ゆっくりと、お話をしましょう」と、仰せになります。
「いつもは、誰か、連れよとは、仰せになりませんのに、もしや、このまま、邸に、落ち着くことになるのでは」と、思い、侍女を、一人連れて、参りました。


例の所にはあらで、忍びて人などもいよとせられたり。さればよと思ひて、「なにかはわざとだちても参りらまし。いつ参りしぞとなかなか人も思へかし」など思ひて、明けぬれば、くしの箱など取りにやる。


いつもの所ではなく、密かに、侍女などを置いて、住みなさいと、いうような風情に、しつらえてありました。
やはりと、思い、「何か、わざと、仰々しく邸に、参上する必要がありましょうか。人が、いつ、邸に、上がったのかと、思われた方が、いいと、思いました」
夜が、明けましてから、家に、櫛の箱など、取りにやらせました。


宮の歌
呉竹の 憂きふししげき 世の中に あらじと思ふ しばしばかりも

この歌は、すでに、憂鬱症である。

呉竹のように、つまり、竹の節のように、憂き事の多い、世の中というのである。
あらじと思ふ
ここに、いたくないと思うのである。

しばしばかりも
つかの間でも、いたくないという。

ほとほと、現実の生活が、嫌だというのだ。

貴族社会の中にあっての、発言である。

雅の精神にあって、退廃し、腐敗する、貴族社会の有様を、端的に言う。
一見して、戦の無い、平和な時代である。
しかし、危機意識皆無の中での、貴族の生活に忍び寄る、危機的意識を、宮は、持っていた。
このままでは、駄目になる。
何が、駄目になるのか。
それは、自分自身である。

当時、貴族の間に、流行していた、浄土信仰でも、宮の心は、救われなかったということである。

何をして、憂い心を、見つめていた。
少しの救いは、女との、恋である。
しかし、それも、すべてを、救うものではなかった。

すでに、現代に続く、病を、このこのから得ていたのである。

生きることは、憂いことなのである。

その時代の中で、源氏物語が、生まれる。
女房文学と、言われる。つまり、女が、書くもの。
当時は、女が書くものは、正式に認められるものではなかった。女子供のもの、それが、平仮名だった。

ところが、どうであろう。
平仮名によって、日本人の心の有り様である、もののあわれ、が、表現されるのである。

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2008年06月01日

もののあわれ201

宮入らせたまふとて、しばしこなたの格子はあげず。おそろしとにはあらねどむつかしければ、宮「今から北の方にわたしたてまつらむ。ここには近ければゆかしげなし」とのたまはすれば、おろしこめてみそかに聞けば、宮「昼は人々、院の殿上人など参りあつまりて、いかにぞかくてはありぬべしや。近劣りいかにせむと思ふこそ苦しけれ」とのたまはすれば、女「それをなむ思ひたまふる」と聞こえさすれば、笑はせたまひて、宮「まめやかには、夜などあなたにあらむ折は用意したまへ。けしからぬものなどはのぞきもする。今しばしあらば、かの宣旨のある方にもおはしておはせ。おぼろげにてあなたは人もより来ず。そこにも」などのたまはせて、二日ばかりありて北の対にわたらせたまふべければ、人々もおどろきて上に聞こゆれば、北の方「かかることなくてだにあやしかりつるを、なにのかたき人にもあらず。かく」とのたまはせて、「わざとおぼせばこそ忍びていておはしたらめ」とおぼするに、心づきなくて、例よりもものむつかしげにおぼすれば、いとほしくて、しばしは内に入らせたまはで、人の言ふことも聞きにしく、人の気色もいとほしうて、こなたにおはします。


宮様が、この部屋にお出でになりますので、しばらく、部屋の格子は、上げずにいました。
恐ろしいわけでは、ありませんが、気が引けます。
宮様が、「すぐに、北の部屋に、移して上げましょう。ここでは、外に近くて、奥ゆかしさがありません」と、仰せになりました。
格子を、下ろして、密かに聞きました。
「昼は、女房たちや、院の殿上人などが集いますので、どうして、ここには、いられましょうか。また、昼間は、近くで、私を見ますので、がっかりすると思うと、切ないものです」と、仰せになります。
女は「そのことは、私も、心配していました」と申し上げますと、笑って、「私が、夜など、あちらの部屋に行っている時は、用心してください。怪しからぬ者たちは、覗いたりします。いま少ししましたら、あの宣旨の所へでも、行ってごらんなさい。並々のことでは、あららへは、人も近づきません。宣旨の部屋にも」などと、仰せになりました。
二日ほどして、北の対に、女と、お渡りになろうとされますので、女房たちは、驚いて、北の方に、申し上げますと、北の方は「このようなことがなくても、怪しいお振る舞いでしたのに、あの女は、特別に、得がたい女でも、ありません。それなのに、こんな酷いことを」と、考えて、不愉快で、いつもより、不機嫌になりました。
宮様は、気の毒に思えて、しばらくは、北の方の部屋には、入らず、人の噂も、聞くことなく、女の様子が、気がかりですから、女の部屋に、お出でになりました。


北の方「しかじかのことあなるは、などかのたまはせぬ。制しきこゆべきにあらず、いとかう、身の人げなく人笑はれにはづかしかるべきこと」と泣く泣く聞こえたまへば、宮「人使はむからに、御おぼえのなかるべきことかは、御気色あしきにしたがひて、中将などがにくげに思ひたるむつかしさに、かしらなどもけづらせんとてよびたるなり。こなたなどにもめしつかはせたまへかし」など聞こえたまへば、いと心づきなくおはせど、ものものたまはず。


北の方は、「これこれの事が、あったということですが、なぜ、お話になられないのですか。お止め申すこともありません。しかし、このような、人並みのことではなく、物笑いの種になって、恥ずかしゅうございます」と、泣く泣く、申し上げました。
宮様は、「人を、召し使うからには、あなたにも、お心当たりが、あるでしょう。ご機嫌が悪いので、中将など、私を憎らしく思うのも、煩わしく、髪など梳らせようと、あの女を、呼んだのです。こちらでも、お使いください」と、申されますが、北の方は、いたく不愉快に思われましたが、何も言いませんでした。


かくて日ごろふれば、さぶらひつきて、昼なども上にさぶらいて、御ぐしなども参り、よろづにつかはせたまふ。さらに御前もさけさせたまはず、上の御方にわたらせたまふことも、たまさかになりもてゆく。おぼし嘆くことかぎりなし。


このようにして、幾日か、経ちました。
邸の生活にも、慣れ、昼間も、宮様の、お側に仕え、お髪なども梳きまして、宮様も、何くれと無く、お使いになりました。
その上、宮様の前から、女を離れさせることなく、過ぎました。
北の方の、お部屋に渡ることも、稀になりました。
北の方の、お嘆きは、限りもありませんでした。


日記は、終わりに近づく。
最後は、北の方が、出て行くところで、終わる。
しかし、和泉式部の人生は、終わらない。

その後も、和泉式部は、愛する人を失い、その、喪失感と、空虚感に、生きなければならなかった。
そこには、歌のみが、残った。

年かへりて正月一日、院の拝礼に、殿ばら数をつくして参りたまへり。宮もおはしますを見まいらすれば、いと若ううつくしげにて、多くの人にすぐれたまへり。これにつけてもわが身はづかしうおぼゆ。


年の改まった、正月一日、冷泉院の拝礼の儀式に、朝臣たちが、多く集って参上しました。
その中に、宮様も、お出でになるのを、拝見しました。
大変、美しく、多くの人の中でも、すぐれて、おいでになると見ました。
それにつけて、女は、わが身が、気恥ずかしく思われるのでした。


上の御方の女房出でいてもの見るに、まづそれをば見で、女房「この人を見む」と穴をあけさわぐぞ。いとあさましきや。暮れぬれば、ことはてて宮入らせたまひぬ。御おくりに上達部数をつくしていたまひて、御遊びあり。いとをかしきにも、つれづれなりしふる里まづ思ひ出でらる。

北の方づきの、女房が出て見物しますのに、すぐには朝臣たちを見ずに、「この女を、見よう」と言い、障子に穴を開けて、騒ぎます。それは、大変浅ましく、思われました。
日が暮れ、式が終わり、宮様は、邸に、戻られました。
お見送りに、上達部が、大勢揃って来ました。
管弦の遊びがありました。
大変、面白いものです。
かつての、女の家の暮らしが、つれづれなるものであっと、思い出されるのでした。


かくてさぶらふほどに、下衆などのなかにもむつかしきこと言ふを聞こしめして、「かく人のおぼしのたまふべきにもあらず。うたてもあるかな」と心づきなければ、内にも入らせたまふこといと間遠なり。かかるもいとかたはらいたくおぼゆれば、いかがせむ、ただともかくもしなせたまはむままにしたがひて、さぶらふ。


このように、お仕えしているうちに、召使の間で、不愉快な噂をしているのを、宮様が、お聞きになり「このように、北の方が、女のことを、悪く思われていることを、言うべきではない。疎ましいことだ」と、思われていました。
そのため、北の方の部屋に、入られるのは、稀なことになりました。
女は、このようなことも、心苦しく、北の方が、気の毒に思われました。
どうしたらよいのか、解りません。
しかし、どうすることも出来ずに、ただ今は、兎に角、宮様のされるままに、お仕えすることだと、思いました。

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2008年06月03日

もののあわれ203

和泉式部日記を、読み終えて、そこにある、もののあわれ、というものを、見つめてみた。

平安期の、王朝文学の、担い手は、女性である。
それは、漢字平仮名交じり文にある。
正式文書が、漢字であり、漢詩が、また、正式な表現方法とされて、男が、成すものという、意識があった。

平仮名は、女子供のものという、意識にあり、そこでの、書き物は、男の興味のものではなかった。
それが、変わったのが、源氏物語による。

源氏物語は、フィクションである。
私は、その、物語の、伏線に、和泉式部日記を、見た。
それは、現実である。
現実に生きたものを、書いたという、点で、物語より、説得力がある。勿論、源氏も、別な意味で、説得力がある。

いずれにせよ、その底に流れるものが、もののあわれ、というものである。

文芸の者、それは、家系の伝統であり、世襲制でも、あった時代である。
その中で、女文学は、その一点、もののあわれ、というものを、観た。
また、求めた。

決してそれは、単なる、感傷文学ではない。
この世に、救いなどないが、辛うじて生きられる、心の有り様というものがある。
それを、和泉式部は、観ていた。

敦道親王との、恋は、その邸に、上がり、その前後は、五年間である。
親王は、27歳で死去した。式部は、34歳であった。

日記に、親王の邸に、上がるということを、
つれづれもまぎるれば、参りなまほしきに
と、ある。

燃える恋をいしている式部が、親王の邸に、上がることを、このように、捉えているということに、驚いた。
燃え上がる恋心とは、別の視線がある。
つれづれの、何が、紛れるのか。
つれづれ、とは、所在無い、侘しいのような、意味とみる。

命を賭けた恋でも、つれづれの、となるのである。
これは、知性である。

つれづれと 今日数ふれば 年月の 昨日ぞものは 思はざりける

昨日は、何と物思いの、無い、満たされた日。
今までは、物思いばかりの日だったというのである。

一体、和泉式部は、何を、物思っていたのか。
生涯、物思いに明け暮れていたと、見る。

面白い話が、残っている。
栄華物語、大鏡にも、書かれるほど、奇異なことだった。

寛弘二年四月、加茂の祭りが行われ、その祭りに、親王と式部が、車に乗り、見物した。
宮は、牛車の御簾を高く巻き上げた。
式部は、御簾を垂らして、その隙間から、紅の裳だけを出して、その裾に、赤い幅広い紙をつけて、何と「忌中」と書いて、地に曳いていたという。

人の噂になっていることを、十分に承知での行為である。

この大胆不敵な行為は、つまり、私は、忌中、死んだということである。
恋に死んだ。
そういうことである。
そして、式部は、いつも、恋に死んだ。

若き日、性空上人のもとにて道しける
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

という、名歌を詠んいる。

仏の教えを受けたところから、山の端の月とは、仏の光、救いの慈悲ともみるが、しかし、そうではなかった。
そんなものは、救いにも、何にもならなかった。

式部は、ただ、もののあわれ、というものを、見つめて生きるしかなかった。
それは、知性である。
歌は、感性による。

命懸けの恋にも、つれづれなぐさむ、という、実に醒めた目をもって、臨んでいたのである。

紫式部は、身持ちの固い女であった。
和泉式部は、自由奔放な女であった。
一人は、散文で、物語を、一人は、歌で日記を書いた。
そして、二人が、共に観たものは、もののあわれ、であった。

和泉式部は、多くの人の、死に出会っている。
我が娘の亡き後に、詠んだ歌がある。

置くと見し 露もありけり はかなくて 消えにし人を なににたとへむ

置くとすくに、消える露さえ、このように、消えずに残っているというのに、それより儚く消えた娘を、何にたとえましよう。

さらに、親を亡くした孫に歌う。

この身こそ このかわりには 恋しけれ 親恋しくば 親をみてまし

この私こそ、あなたの親の代わりです。母が恋しい時は、その母の親を見るとよいのです。

和泉式部の、別な一面である。

人生というものを、様々な観念、言葉で、捉えるが、言い表すことが、出来ない、日本人の心情にある、もののあわれ、というものを、見定めて、生きた一人が、和泉式部であったという。

一応、和泉式部日記は、終ります。

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2008年06月04日

もののあわれ204

もののあわれについて、を書いている。
それは、藤岡宣男の歌にある、もののあわれについて、を、言うために、書いている。

万葉集から、古今集、そして、和泉式部日記を、書いた。

これから、更に、進むために、一つ、どうしても、もののあわれに、影響を与えた、無視できないもの、仏教といものを、少し見渡すことだと、思っている。
しかし、仏教史を、書くわけに行かない。

本来は、仏教を、語ることなく、進むはずだったが、どうしても、もののあわれ、というものの、陰影を、見るためにも、仏教に影響されつつ、ジグザグに、進まざるを得なかった、もののあわれ観というものを、見なければならない。

紫式部も、日記、源氏を書きつつ、浄土信仰に、傾いた。
色好みから、王朝を舞台にした、源氏の物語であるが、矢張り、そこに、多くの問題意識と、我が身の、心の置き所を、当時流行の、浄土信仰というものに、曳かれてゆくのである。また、言葉の世界である。
仏教にある、言葉の世界に、救いというものを、見いだそうとする。

それは、また、日本人の精神史の上からも、検証することは、必要である。

歴史家の、誤りは、事柄のみに、捕らわれて、その、根底にある、精神というもの、つまり、言霊の信仰や、仏教に傾倒する心の問題、深層心理に触れない。
歴史は、精神である。
精神は、言葉である。
そして、言葉は、意識である。

そういう意味でも、、仏教の言葉の世界を、無視できない。

もののあわれ、というものを、側面から理解するためにも、仏教全盛の、流れを少し、俯瞰することにする。

仏教伝来から、宗派というものが、発生したのは、南都六宗からである。
それは、現在、廃れずとも、細々と、奈良に、残滓を留める。
ちなみに、奈良の仏教は、檀家を置かない。布教もしない。ゆえに、金にならないから、入場料を、徴収する。それは、理解する。
葬式もしないはずだか、どうなったのか。

日本仏教の、転換は、最澄と、空海である。

天台宗、真言宗、真言宗は、それに、密教と、わざわざ付け加えた。それは、天台宗の最澄も密教の要素大であるが、空海は、最澄を超えるということからの、密教である。

彼らの、加持祈祷というものが、いかに、重要視されたかは、自然災害から、病気治癒までを、取り扱ったのを、見れば解る。
その、無力にあるものに、加持祈祷は、一つの、解決手段を与えた。

天台からは、多くの新興宗教、鎌倉仏教が、生まれた。
しかし、空海の真言密教は、その体系が、重層であり、やすやすとは、新興宗教に、分派できなかったといえる。

空海については、天才的宗教家といえるので、それを、解説することは、実に、膨大な言葉が必要である。
それを、簡単に言うということは、僭越であるが、ここは、もののあわれ、に、焦点をあてているので、理解して欲しい。

空海の最初の、著作は、24歳の時の、三教指帰である。
それは、儒教、道教、仏教の三教を検討し、優劣を論じたものである。
結果的に、仏教による救いに、至るというものである。

その後、空海は、最澄と、共に、唐に渡る。
桓武天皇の延暦23年、804年である。30歳であった。

空海の、20歳過ぎから、唐に行くまでの、10年間は、不明である。
一人、仏道の修行をしていたと、察する。
頭脳明晰と、行動力は、並外れていた。

山岳は彼にとって「法身の里」であったということは、孤独に沈滞して禅定をこころみる場であったということだ。・・・死との対決の場であったと言ってよい。無常観は生を凝視するとともに死を凝視する眼であり、「死」眼を通じて生の意味をさぐる行である。それは同時に自己の空無の確認である。
そういう心を携えて今度は世間に還り、世間の煩悩や紛糾を携えて山岳へ環るという、この循環に空海の「行」があった。換言すれば、このような「行」を通して、彼は常に惰性からの脱却をこころみたと言ってもよかろう。
日本人の精神史 亀井勝一郎

空海の、目的は、究極の救いであり、国家の導きという、希望だった。
それは、壮大な目的である。
空海の著作を、検証している、暇は無いので、結論から言う。
野心である。
救いを、国家を、導く壮大な思想である。

空海の、想像力の最大のモノは、大日如来であった。
究極の、理想の如来であった。
勿論、大日如来とは、観念である。
しかし、今は、その、云々に触れない。

実は、大日如来は、仏教というより、古代インドの太陽信仰による。
光明遍照とも、訳されている。
それを、仏性の根源とした、空海である。
つまり、空海は、新しい宗教を、創造したのである。しかし、当時の状況から鑑みて、それは、仏教の一派でなければならなかった。

仏性即我
これは、大乗仏教の教えであるが、空海は、それを、実践したところが、偉大である。
著述、詩作、書における、造形指導、私学経営、社会事業等々。
仕事といえば、膨大な量である。

既成の仏教が、成さなかったことである。
そして、今でも、空海を、超えての、行動をする、宗教家は、いないと、断言できる。
宗教的巨人といってもいい、存在である。

彼は、その行動を、身秘密を生ず、と、言い切るのである。
密教信仰の、秘密信仰の、所以である。

さて、問題は、空海の密教は、当時の人々に、どのように、受け入れられていたのかである。
人の心に、何をもたらしたのか。

国家安泰と、自然災害、そして、個々人の幸福、不幸に関した、現世利益の、加持祈祷を成すものである、という意識で、受け入れられた。
呪術の一言に、尽きる。
それを、空海は、最大限に演出したのである。

当時は、画期的な試みであり、創造行為である。

秘密荘厳心というもの、目に見えるものとして、表現した。
造形と、言語表現、祈祷の、総合芸術である。
言語表現は、声と言葉と、文字による。
声明という、音楽芸術である。

私は、日本史上、稀有な存在として、空海を、認識している。
その、良し悪しは、別であるが。

天皇をはじめ、貴族、支配者たちのための、壮大な祈りの場を提供した。しかし、それに、参加することは出来ない。ただ、その、修法に、従うのみである。

空海に帰依する以外に、それに、参入することが出来ないのである。
凄いことである。
それだけの、モノを、空海は創造したのである。

そこには、もののあわれ、というような、微妙繊細な心の、有り様は、入り込む余地はない。

もののあわれ、というものを、破壊するに足りる行為行動であったと、私は理解する。

究極的に、空海は、日本人ではないといえる。
もののあわれ、というものに、身を置かない、普遍的人間というものを、演じきったといえるのだ。

それは、別物だと、私は、考えている。
良し悪しは、言わないと、言った。

空海の、もたらした、脅しは、今も生き続けている。
空海の弟子たちに、更に空海のエネルギーがあれば、世界宗教にも、高めることが、出来たと思う。

日本の言霊でさえも、空海は、語密とした。
徹底した、オリジナルである。
それについては、大いに評価する。

たゆたう、もののあわれの、はかなさ、というものを、空海は、結果的に、否定したと、思える。

いずれ、別の場所で、空海については、論じたいと、思っている。

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2008年06月05日

もののあわれ205

空海における、もののあわれ、というものの、感覚は、如何なるものだったのかと、考える。

創造者としての、空海は、大和心というものも、自身の信仰形態の中に、取り入れた。
その一つは、「和歌はこれ陀羅尼なり。唯だ心の動くところらしたがって陀羅尼を詠ず。これ阿字の本分なり」という。
陀羅尼は、真言の、極めであり、呪術である。

漢語にも、日本語にも、訳すことが、出来ない、梵語の呪である。
阿という字は、梵語の根源といわれ、一切の文字の母とされる。
和歌が、阿字の、本分というところに、空海は、落ち着いた。

言霊の和歌である。
つまり、神ながら、という、世界である。
この、大和心との、統一を、空海は目指した。
実は、空海は、神道も、自身の宗教体系に、取り入れたいという、欲求があり、神道修行もしている。
仏道宗教だけでない。雑修と、言われる。
修験道などは、それである。

神仏混合と、言われる。
だが、それは、便宜上のものであり、神の道は、神の道であり、仏の道は、仏の道である。
いずれ、本地垂迹という、考え方が生まれるのだが。
神は、仏の化身であるというものである。

大日如来と、天照大神を、結びつける。

そして、もう一つの、空海の、もののあわれ、に関する言葉である。
能く迷い能く悟る よくまよい よくさとる
これは、大和言葉の、たゆたい、である。

大和言葉の、言霊を、自身の語密に、結びつけた。

密教の、実践は、祈祷と、修法である。
そして、修法とは、印実を結ぶという、指で様々な形を、表すものであり、真言を唱え、三昧の境地に没入するということである。
これで、成仏という、境地に達するという、空海の、オリジナルである。
その、是非は、今は、問わない。

仏という、強烈な、印象を持った対象を、描いて、それに、成りきろうとする。実は、仏とは、誰も知らない、存在である。
それを、このようであると、断定した。
それは、後の、浄土教の考え方にもある。
仏になれない、この身であれば、弥陀の本願に頼るという、他力である。

いずれにせよ、時代性を、反映する。

空海に、おける、もののあわれ、というものは、その野心に、隠されて、中々理解しずらいものがあるが、和歌を、真言といい、よく迷いよく悟る、などという、言葉には、大和心を無視できなかったのである。

大和心と、断絶したものではないと、言いたかったのであろう。

前回も、言ったが、空海は、天才である。
その創造力は、他を圧する。
宗教的天才というより、芸術的天才と、私は、思う。
曼荼羅の中に、すべての、存在を認めた。

だが、ここで、一つだけ、空海は、付け加えて、体系を作るが、大和心は、削り取って、ゆくという、相違がある。

空海の、密教は、インドバラモンの、行法に、大和心を、加えたものである。
そういう意味では、新である。
彼は、独自の宗教体系を、創造したのである。

平安初期の画期的な、言動であったが、それは、奈良仏教に対しても、揺るがないほどである。
以後の、宗派にも、その芸術美術的装飾の影響を、与え続けた。

当時の人に与えた、影響は、計り知れない。

それでは、和歌を、真言と言う空海の、密教に、和歌の世界は、影響を受けたのだろうか。
もののあわれ、という、情感と、心象風景に、影響を、与えたのかといえば、無い。
和歌は、その姿を、変えずに、別の道に進むのである。

決して、空海の、密教により、和歌は、変質も、変節もしなかった。
もののあわれ、は、厳然として、揺るがない。

たゆたう心も、それを、よく迷い、よく悟りと、言うが、変わらないのである。矢張り、たゆたう、のである。

更に、空海の行為行動にある、無限定とも思えるものも、もののあわれ、という、心象風景には、適わないのである。

もののあわれ、は、何一つも、曼荼羅のようなものを、作ることがなかった。
一筋に、心の、あわれの様である。
描くことも、秘密にして、語ることも出来ないものであった。

平安期の、女房たちが、心を寄せたのは、浄土の、教えの方だった。
当然である。
弥陀の本願に、すがるという、あわれ、というものを、更に深めた、浄土思想に、曳かれた。
たゆたう心に、憧れという、心象風景を、与えたのである。

浄土への、あこがれ、は、新しい、情緒、新しい、心象風景だった。

浄土信仰の、静かさを、好んだといえる。
空海の、信仰は、男に許されるものであり、女の世界ではなかった。しかし、浄土思想は、女房だけを、取り込んだのではない。
多くの、貴族、武士までも、取り込んだ。

あこがれ、という、心象風景は、時代性であった。

もののあわれにある、たゆたう心と、儚き心に、あこがれ、という、情緒が、生まれた。

加持祈祷より、念仏を申すことの方に、心の安らぎを得たのである。

それが、和泉式部の歌
暗きより 暗き道にぞ 入りむべき 遥かに照らせ 山の端の月
と、なる。
山の端の月とは、仏の慈悲である。

空海の行動力は、国家を相手のものである。
東寺を任せられた空海は、自由自在に、その野心を、満足せしめたであろう。
その、著作は、空海の創造の野心に、満ち溢れている。

ちなみに、密教とは、既成仏教の中では、一宗と、名乗るほどのものではなかった。一つの、呪術部門であった。
中国、唐が、そうである。
しかし、空海は、一宗とし、更に、他の宗派の上に、置いたのである。
それが、十住心論をもって、体系化された。
他宗と、対等ではなく、他宗の行き着くべき、最高の段階としたのである。
ここに、空海の野心がある。

東寺を、頂いた時に、他宗の僧を、拒んだのも、今までにないことだった。
宗派間では、自由に行き来して、学ぶことが出来たが、空海から、それを、廃止した。
独立性という、凄みである。

バラモンの、呪術を、ここまでに高めた人物は、いない。
空海の真言密教を、信仰し、解説、解釈する人はいるが、空海の密教に、更に、何かを加えて、新なるものを、創造する者は、今だかって、現れない。

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2008年06月06日

もののあわれ206

さて、空海の次には、浄土思想を、取り上げた、源信である。
往生要集は、寛和元年、985年の作である。

無常観と共に、厭離穢土という、観念と、そこから、欣求浄土という、観念が生まれる。
この、浄土思想が、女房文学の中に、表現されてゆくのである。

浄土思想は、当時の知識階級の、不安を、そのまま、受け止めたと、思われる。
何故、不安なのか。何が、不安だったのか。

私は、平安貴族の平和ボケだという。
頽廃した生活を送り、危機意識皆無の状態であり、なおかつ、何か、先の知れない、不安感というもの。
実は、現代に続く、抑鬱の状態を、この頃から、持ち合わせていた。

女たちも、男の愛を、ひたすら待つという、状態の中で、いつ来るのか解らない男を、待ち続けという、不安と、倦怠である。

それなのに、仏教では、何かしら、危機意識を、煽る。
その典型が、源信の、日本版、死者の書とも、言える、往生要集であった。

極楽への、往生を願うという気持ちは、飛鳥時代から、あったといわれる。
ここで、成仏と、往生の違いである。

実に、仏教の、成仏と、往生は、面倒な話である。
成仏するのか、往生するのかという、観念に、嵌めて、要するに、脅しである、それで、信仰を、強要するという、脅しである。

早々簡単に、成仏など出来るものではないと、知る者が、往生を唱えた。それが、浄土思想である。

あわれ、という、心象風景が、変質してゆくのが、この、浄土思想である。
あわれ、に、無常観を、伴うという、病理と、私は言う。

病むことを、浄土思想は、求めたのである。
それが、厭世観である。
要するに、この世は、汚辱に、まみれているという、考え方である。
汚辱に、まみれているから、この世というのであるが、当時は、新鮮な思想だったといえる。

更に、それに、拍車を掛けたのが、末法思想である。
これも、どうかと思うが、観念である。
1052年が、末法の初年と、言われる。一体、誰が決めて、誰が、それを、証明するのか、全く根拠がないが、未だに、仏教家たちは、末法と掲げている。
実は、末法とは、仏陀の教えが、無に帰すといわれるのである。
そうであれば、常識として、仏教壊滅であろうが、未だに、仏教と、喚いている辺りは、アホとしか、思えないのである。

さて、源信の、往生要集である。
「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎誰か帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文一にあらず、事理の業因、その行これ多し。利智精進の人はいまだ難しとなさず。予がごとき頑魯の者、あにあへてせんや。この故に念仏の一門によっていささか経綸の要文を集め、それをひらいてこれを修せば、覚り易く行じ易からん」
との、書き出しである。

内容は、厭離穢土、欣求浄土、極楽の証拠、正修の念仏、助念の方法、別時の念仏、念仏の利益、念仏の証拠、往生の諸行、問答料簡、である。

つまるところ、死ぬ準備のための、ものである。
当時としては、画期的な書き物であった。

それはそれとして、善し。文学としては、非常に面白いが、それをもって、信仰を、特に、念仏行を云々ということになると、どうであろうか。

さて、深入りすることは、出来ない。
そこに、もののあわれ、というものが、何がしか影響を、与えたのか、与えられたのか。

もののあわれ、という心象風景を、持つ者、この、往生要集に、少なくても、曳かれたであろう。

新たな、救いの道のような、ものとして、現れたのである。
もののあわれ、の心象風景に、蔭を落とした。
万葉の、古今の、もののあわれ、を、更に、深めたのか、変節されたのか、いや、心を病むことにもなったと、思える。

それが、思想の深みに、至ったともいえるが、余計な観念を、植え付けられたとも、言える。

しかし、この、厭離穢土、欣求浄土は、戦国時代、いや、第二次世界大戦まで、続く、日本人の潜在的意識にまで、なったと、思える。

変な、話である。
この世を、厭い、この世に生きるというのであるから。
だから、死後は、極楽浄土にと、思うのだと、言われてみれば、それもそうだが、観念である。

しかし、確実に、もののあわれ、というものに、影響を与えた。

否定できない。

実際、厭離穢土とは、源信の書では、地獄の様を、描いているのである。
それが、また、非常に鮮明に描かれて、多くの人に、無用な恐れを抱かせた。現代でも、これを、そのままに、利用する者がいるが、想像力のものである。
ダンテの、地獄篇のようなものである。
芸術家の、想像力は、歓迎するが、宗教家の想像力は、迷惑である。

先に進むが、結果は、もののあわれ、に、怪しい蔭を落として、やや、歪んでくるのである。

これを、突き進んで、更に、もののあわれ、というものを、見つめてゆきたいと、思う。

ちなみに、源信から、法然へ、そして、親鸞へと、念仏の道は、進む。
鎌倉仏教へと、受け継がれるのである。

王朝の危機感は、女房文学の場合、主として無常感、宿世の思い、念仏の心として描かれるだけである。地獄の和風的表現などみあたらない。色好みに生ずる罪の自覚はあるが、刀葉林のような強烈であくどい描写を好まず、また罪をあのようなかたちで確認することへの嫌悪があったのだろう。或いは「神ながら」の「祓」の形式が、なお根強く存在し、仏教的罪悪感情のなかに混在していたことも考えられる。
亀井勝一郎 日本人の精神史

古代日本人の、死生観は、死者の霊は山に帰り、空に上る。または、海に帰る。
万葉の挽歌にあるように、言葉によって、霊を、清め祓うのである。

明確な、死後の世界の意識は、無いが、追悼慰霊の深い思いは、ある。
それが、たゆたい、となり、あわれ、となって、心象風景を作るのである。

源信の書は、漢語の影響大である。
ひらがな、では、あのような世界を描くことは、難しい。

一つ、残念なことは、仏教によって、
死と死後の観念が生まれたことにより、挽歌を詠むということが、なくなったことである。
これは、実に、ゆゆしきことである。

この、仏教における、追善儀礼なるもの、新しい、魂鎮めの行為になったと、亀井勝一郎は言うが、それは、甚だしく、勘違いである。
歴史としては、そのように、見えるが、実際、それにより、魂鎮めは、行われないのである。

単なる、気休めである。
そう、仏教というもの、単なる、気休めなのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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