宮
時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を あやしくぬるる 手枕の袖
このようにしているうちに、十月になりました。
十月十日ごろ、宮様は、お出でになられました。
奥のほうは、暗くて、恐ろしく思われますので、端近い場所に、横になられて、あはれに、触れて、しんみりと、お話をされます。
お話を伺う甲斐が、ありました。
月が、雲に隠れて、時雨が、降るほとでありしまた。
心に、しみる風情を、わざわざ出したようです。思い乱れている心には、いたく寒くぞくぞくするような感じです。
宮様は、女の様子を、御覧になられ、「人は、この女を、あやしい者とばかり、言いますが、おかしいことです。ここに、このうよに、悩ましいほどに、臥しているのに」などと、思われました。
宮様は、女が、あはれに思えて、女が、眠ったようにして臥しているのを、揺り起こされて、
宮
しぐれにも つゆにもあてで ねたるよを あやしくぬるる たまくらのそで
時雨にも、露にも、当たらないで、共寝をしていますのに、私の手枕の袖が、不思議に濡れます。
あはれなることのかぎり のたまはするに
あはれに強く思われて、お話をする。
あはれにおぼされて
あはれに、思われて。
ここでの、あはれは、憐れに近い感覚である。
憐れむのである。
さらに、あはれ、というものの、幅が広がる。
とのたまへど、よろづにもののみわりなくおぼえて、御いらへすべきここちもせねば、もの聞こえで、ただ月かげに涙の落つるを、あはれと御覧じて、宮「などいらへもしたまはぬ。はかなきこと聞こゆるも、心づきなげにこそおぼしたれ、いとほしく」とのたまはすれば、女「いかにはべるにか、ここちのかき乱れるここちのみして、耳にはとまらぬにしもはべらず。よし見たまへ、手枕の袖忘れはべる折やはべる」とたはぶれごと言ひなして、あはれなりつる夜の気色も、かくのみ言ふほどにや。
女
今朝の間に いまは消ぬらむ 夢ばかり ぬると見えつる 手枕の袖
と聞こえたり。「忘れじ」と言ひつるを、をかしとおぼして、
宮
夢ばかり なみだにぬると 見つらめど 臥しぞわづらふ 手枕の袖
と、仰せになりました。
女は、すべてが、辛く思えて、お返事することもありません。
何も、申し上げず、ただ、月影のしたで、涙を、流すばかりです。
それを、宮様は、御覧になり、「どうして、お返事もないのでしょう。つまらぬことを言いましたので、いとわしく、思われたのでしょうか。おかわいそうに」と、仰せになりました。
女は、「どうしたのでしょう。気分が、とても悪くなりまして、宮様の、お言葉が、耳ら入らないわけではありません。どうぞ、見ていてください。手枕のことを、忘れて、過ごす日がありますか、どうか」と、冗談のように、申し上げました。
しんみりとした、夜の、趣も、このように、会話のうちに、過ぎたのであります。
翌朝になって、宮様は、女には、頼るべき男も、いないのだと、気の毒に思われて、「ただ今は、どのように、過ごしていますか」と、お便りが、ありました。
その返事は、
女
けさのまに いまはきえぬらむ ゆめばかり ぬるとみえつる 手枕の袖
今朝のうちに、手枕の袖の、濡れたのは、乾いてしまいしました。ほんの、夢のような、仮寝でしたから。
と、申し上げました。
「手枕の、袖は、忘れません」と言ったことを、おもしろく、思われて、
宮
ゆめばかり なみだにぬると みつらめど ふしぞわづらふ たまくらのそで
ほんのわずかばかりに、涙に濡れたと、お思いでしょうが、手枕の袖が、濡れてしまい、臥し難く、煩っています。
緩慢とも、思える、恋のやり取りである。
昔の人の、恋の風情を、見る思いである。
実は、私は、若い頃、このような、恋愛遊戯のような、古典の、お話は、好きではなかった。しかし、年を経ると、実に、優雅に、思えてきた。
これは、時間の感覚の違いであろう。
緩慢であると、感じる、私の時間と、昔の時間に対する、感覚がちがうのである。
とすると、もののあわれ、というものの、感覚も、少し違っているのかもしれないと、思う。
さらに、それを、追求してみることにする。