2017年11月25日

もののあわれ187

かくいふほどに十月にもなりぬ。十月十日ほどにおはしたり。奥は暗くて恐ろしければ、端近くうち臥させたまひて、あはれなることのかぎりのたまはするに、かひなくはあらず。月は曇り曇り、しぐるるほどなり。わざとあはれなることのかぎりをつくり出でたるやうなるに、思ひ乱るるここちはいとそぞろ寒きに、宮も御覧じて「人のひなげにのみ言ふを、あやしきわざかな、ここにかくてあるよ」などおぼす。あはれにおぼされて、女寝たるやうにて思ひ乱れて臥したるを、おしおどろかせたまひて、


時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を あやしくぬるる 手枕の袖


このようにしているうちに、十月になりました。
十月十日ごろ、宮様は、お出でになられました。
奥のほうは、暗くて、恐ろしく思われますので、端近い場所に、横になられて、あはれに、触れて、しんみりと、お話をされます。
お話を伺う甲斐が、ありました。
月が、雲に隠れて、時雨が、降るほとでありしまた。
心に、しみる風情を、わざわざ出したようです。思い乱れている心には、いたく寒くぞくぞくするような感じです。
宮様は、女の様子を、御覧になられ、「人は、この女を、あやしい者とばかり、言いますが、おかしいことです。ここに、このうよに、悩ましいほどに、臥しているのに」などと、思われました。
宮様は、女が、あはれに思えて、女が、眠ったようにして臥しているのを、揺り起こされて、


しぐれにも つゆにもあてで ねたるよを あやしくぬるる たまくらのそで

時雨にも、露にも、当たらないで、共寝をしていますのに、私の手枕の袖が、不思議に濡れます。

あはれなることのかぎり のたまはするに
あはれに強く思われて、お話をする。

あはれにおぼされて
あはれに、思われて。
ここでの、あはれは、憐れに近い感覚である。
憐れむのである。

さらに、あはれ、というものの、幅が広がる。

とのたまへど、よろづにもののみわりなくおぼえて、御いらへすべきここちもせねば、もの聞こえで、ただ月かげに涙の落つるを、あはれと御覧じて、宮「などいらへもしたまはぬ。はかなきこと聞こゆるも、心づきなげにこそおぼしたれ、いとほしく」とのたまはすれば、女「いかにはべるにか、ここちのかき乱れるここちのみして、耳にはとまらぬにしもはべらず。よし見たまへ、手枕の袖忘れはべる折やはべる」とたはぶれごと言ひなして、あはれなりつる夜の気色も、かくのみ言ふほどにや。


今朝の間に いまは消ぬらむ 夢ばかり ぬると見えつる 手枕の袖

と聞こえたり。「忘れじ」と言ひつるを、をかしとおぼして、


夢ばかり なみだにぬると 見つらめど 臥しぞわづらふ 手枕の袖

と、仰せになりました。
女は、すべてが、辛く思えて、お返事することもありません。
何も、申し上げず、ただ、月影のしたで、涙を、流すばかりです。
それを、宮様は、御覧になり、「どうして、お返事もないのでしょう。つまらぬことを言いましたので、いとわしく、思われたのでしょうか。おかわいそうに」と、仰せになりました。
女は、「どうしたのでしょう。気分が、とても悪くなりまして、宮様の、お言葉が、耳ら入らないわけではありません。どうぞ、見ていてください。手枕のことを、忘れて、過ごす日がありますか、どうか」と、冗談のように、申し上げました。
しんみりとした、夜の、趣も、このように、会話のうちに、過ぎたのであります。
翌朝になって、宮様は、女には、頼るべき男も、いないのだと、気の毒に思われて、「ただ今は、どのように、過ごしていますか」と、お便りが、ありました。
その返事は、


けさのまに いまはきえぬらむ ゆめばかり ぬるとみえつる 手枕の袖

今朝のうちに、手枕の袖の、濡れたのは、乾いてしまいしました。ほんの、夢のような、仮寝でしたから。

と、申し上げました。
「手枕の、袖は、忘れません」と言ったことを、おもしろく、思われて、


ゆめばかり なみだにぬると みつらめど ふしぞわづらふ たまくらのそで

ほんのわずかばかりに、涙に濡れたと、お思いでしょうが、手枕の袖が、濡れてしまい、臥し難く、煩っています。

緩慢とも、思える、恋のやり取りである。
昔の人の、恋の風情を、見る思いである。

実は、私は、若い頃、このような、恋愛遊戯のような、古典の、お話は、好きではなかった。しかし、年を経ると、実に、優雅に、思えてきた。

これは、時間の感覚の違いであろう。
緩慢であると、感じる、私の時間と、昔の時間に対する、感覚がちがうのである。

とすると、もののあわれ、というものの、感覚も、少し違っているのかもしれないと、思う。

さらに、それを、追求してみることにする。


posted by 天山 at 12:39| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月14日

もののあわれ180

思ひもかけぬに行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。かかるほどに出でにけり。宮「さそひみよとありしを、いそぎ出でたまひにければなむ。


あさましや 法の山路に 入りさして 都の方へ たれさひいけむ

御返、ただかくなむ、


山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今ひとたびの あふことにより

晦日がたに、風いたく吹きて、野分たちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の折知り顔にのたまはせたるに、日ごろの罪もゆるしきこえぬべし。


嘆きつつ 秋のみ空を ながむれば 雲うちさわぎ 風ぞはげしき

御返し。


秋風は 気色吹くだに 悲しきに かき曇る日は いふかたぞなき

げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほどへぬ。


宮様は、女の、思いがけない時に、訪ねてみようと思いましたが、どうして、お出になることが、できましょう。
このようにしているうちに、女は、山を下りて行きました。
宮様は、「来て、誘ってみなさい」と、詠んだのに、急に、山から、帰ってきましたので、


あさましや のりのやまじに いりさして みやこのかたへ たれさそひけむ

呆れてしまいました。仏道に、専念されているはずでしたのに、途中で、戻るとは。
誰が、誘ったのでしょう。

御返しが、一種、詠まれました。


やまをいでて くらきみちにぞ たどりこし いまひとたびの あふことにより

参篭の山から、悩み多い、世の中に戻りました。
もう、ひとたび、宮様に逢いたいがために。

月末の頃、いたく風が吹きました。
野分めいて、雨が降りました。
女は、常より、いっそう心細く思いました。
そこへ、宮様から、御文がありました。
いつものように、趣のある、様子です。日頃の、ご無沙汰の罪も、許していいと、思いました。


なげきつつ あきのみそらを ながむれば くもうちさわぎ かぜぞはげしき

嘆きならが、お逢いできない、秋の空を、眺めています。
雲が騒ぎ、風が、激しく吹いています。私の心の如くに。

御返し

あきかぜは けしきふくだに かなしきに かきくもるひは いふかたぞなき

秋風は、吹く気配だけでも、悲しいものです。
このように、曇った日は、言いようもなく、悲しいものです。

宮様は、女の歌を、御覧になり、その通りであろうと、思いますが、いつものように、空しく、過ぎていくのでした。

なげきつつ
あきのみそらを ながむれば
くもうちさわぎ かぜぞはげしき

万葉に近い感覚である。
しかし、更に、複雑な、心境になっている。

ここで、話は、全く別になるが、みそら、美空、御空、というように、自然の様に対して、尊称しているという、事実である。

海神、わだつみ、とは、海である。神と、尊称するのである。

ここには、長い、年月の、意識の、積み重ねがある。
雷を、雷神とも、呼ぶというように。

自然に対して、擬人化しているというよりも、自然を、崇敬していると、みるのである。

日本の伝統は、ここに、尽きる。
自然に対する、心の所作である。

自然の前に、佇む時、古人たちは、現代の私たちとは、全く違った意識の、あり方を、したということである。

中国思想、道教、儒教、そして、仏教が輸入されても、日本流に、変容させた、その、根本エネルギーは、この、自然対する所作があったからである。

確かに、思想や、信仰の対象として、扱ったが、それ以前の、自然崇敬が、根本にあるため、歪な、洗脳を、自然に避けたと言える。

ここに、日本人の、日本の精神の、重大な、秘密が、隠されている。
自然を、蔑ろにしての、思想も、信仰も無いということだ。
自然を、尊称する、つまり、自然との、共感、共生があるゆえに、柔軟な精神の、思想、信仰の、受容である。

40年ほど前、日本教という言葉が、流行った。
日本の精神自体が、宗教なのであるというもの。それは、ユダヤ人と、比較された。
ユダヤ教徒は、ユダヤ人である。
日本教徒は、日本人である。

しかし、それは、大きな誤りである。
そもそも、西洋の宗教という、概念で、日本の精神を、計るということが、誤りである。
日本には、宗教は無い。
あるのは、宗教的、所作である。

それは、世界でも、稀なことである。
それ程、日本の自然は、他に無い程の、充実した、完成された、自然の様であるという、風土なのである。

神の国と、言われるのは、自然の国であるというのと、同じ意味である。

自然に隠れて、あそばす、カミの、存在を、実感していた。
あそばす、とは、最高の敬語である。

俗に言う、思想体系のある、神学や、教義など、一切必要の無い、自然の、豊かさを、有していたのである。

もののあわれ、というもの、自然に隠れて、あそばす、カミの、本質である。

あえて、それを、教義と言えば、日本教の、教義は、もののあわれ、である。
それ以外の、言葉は、必要無い。

それを、また、日本人は、技芸の中で、生活の中で、表現してきたのである。

生き方、そのもので、表現してきたのである。

日本人の、生き方の、最高の姿は、もののあわれ、に、生きるということであった。

天皇から、庶民に、至るまで、日本人は、皆、平等に、自然に隠れる、カミ、もののあわれ、を、生きて、表現してきた民族なのである。

そして、それの、判断は、感受性による。
以下省略。

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2007年09月15日

もののあわれ181

思ひもかけぬに行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。かかるほどに出でにけり。宮「さそひみよとありしを、いそぎ出でたまひにければなむ。


あさましや 法の山路に 入りさして 都の方へ たれさひいけむ

御返、ただかくなむ、


山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今ひとたびの あふことにより

晦日がたに、風いたく吹きて、野分たちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の折知り顔にのたまはせたるに、日ごろの罪もゆるしきこえぬべし。


嘆きつつ 秋のみ空を ながむれば 雲うちさわぎ 風ぞはげしき

御返し。


秋風は 気色吹くだに 悲しきに かき曇る日は いふかたぞなき

げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほどへぬ。


宮様は、女の、思いがけない時に、訪ねてみようと思いましたが、どうして、お出になることが、できましょう。
このようにしているうちに、女は、山を下りて行きました。
宮様は、「来て、誘ってみなさい」と、詠んだのに、急に、山から、帰ってきましたので、


あさましや のりのやまじに いりさして みやこのかたへ たれさそひけむ

呆れてしまいました。仏道に、専念されているはずでしたのに、途中で、戻るとは。
誰が、誘ったのでしょう。

御返しが、一種、詠まれました。


やまをいでて くらきみちにぞ たどりこし いまひとたびの あふことにより

参篭の山から、悩み多い、世の中に戻りました。
もう、ひとたび、宮様に逢いたいがために。

月末の頃、いたく風が吹きました。
野分めいて、雨が降りました。
女は、常より、いっそう心細く思いました。
そこへ、宮様から、御文がありました。
いつものように、趣のある、様子です。日頃の、ご無沙汰の罪も、許していいと、思いました。


なげきつつ あきのみそらを ながむれば くもうちさわぎ かぜぞはげしき

嘆きならが、お逢いできない、秋の空を、眺めています。
雲が騒ぎ、風が、激しく吹いています。私の心の如くに。

御返し

あきかぜは けしきふくだに かなしきに かきくもるひは いふかたぞなき

秋風は、吹く気配だけでも、悲しいものです。
このように、曇った日は、言いようもなく、悲しいものです。

宮様は、女の歌を、御覧になり、その通りであろうと、思いますが、いつものように、空しく、過ぎていくのでした。

なげきつつ
あきのみそらを ながむれば
くもうちさわぎ かぜぞはげしき

万葉に近い感覚である。
しかし、更に、複雑な、心境になっている。

ここで、話は、全く別になるが、みそら、美空、御空、というように、自然の様に対して、尊称しているという、事実である。

海神、わだつみ、とは、海である。神と、尊称するのである。

ここには、長い、年月の、意識の、積み重ねがある。
雷を、雷神とも、呼ぶというように。

自然に対して、擬人化しているというよりも、自然を、崇敬していると、みるのである。

日本の伝統は、ここに、尽きる。
自然に対する、心の所作である。

自然の前に、佇む時、古人たちは、現代の私たちとは、全く違った意識の、あり方を、したということである。

中国思想、道教、儒教、そして、仏教が輸入されても、日本流に、変容させた、その、根本エネルギーは、この、自然対する所作があったからである。

確かに、思想や、信仰の対象として、扱ったが、それ以前の、自然崇敬が、根本にあるため、歪な、洗脳を、自然に避けたと言える。

ここに、日本人の、日本の精神の、重大な、秘密が、隠されている。
自然を、蔑ろにしての、思想も、信仰も無いということだ。
自然を、尊称する、つまり、自然との、共感、共生があるゆえに、柔軟な精神の、思想、信仰の、受容である。

40年ほど前、日本教という言葉が、流行った。
日本の精神自体が、宗教なのであるというもの。それは、ユダヤ人と、比較された。
ユダヤ教徒は、ユダヤ人である。
日本教徒は、日本人である。

しかし、それは、大きな誤りである。
そもそも、西洋の宗教という、概念で、日本の精神を、計るということが、誤りである。
日本には、宗教は無い。
あるのは、宗教的、所作である。

それは、世界でも、稀なことである。
それ程、日本の自然は、他に無い程の、充実した、完成された、自然の様であるという、風土なのである。

神の国と、言われるのは、自然の国であるというのと、同じ意味である。

自然に隠れて、あそばす、カミの、存在を、実感していた。
あそばす、とは、最高の敬語である。

俗に言う、思想体系のある、神学や、教義など、一切必要の無い、自然の、豊かさを、有していたのである。

もののあわれ、というもの、自然に隠れて、あそばす、カミの、本質である。

あえて、それを、教義と言えば、日本教の、教義は、もののあわれ、である。
それ以外の、言葉は、必要無い。

それを、また、日本人は、技芸の中で、生活の中で、表現してきたのである。

生き方、そのもので、表現してきたのである。

日本人の、生き方の、最高の姿は、もののあわれ、に、生きるということであった。

天皇から、庶民に、至るまで、日本人は、皆、平等に、自然に隠れる、カミ、もののあわれ、を、生きて、表現してきた民族なのである。

そして、それの、判断は、感受性による。
以下省略。

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2008年03月11日

もののあわれについて182

九月二十日あまりばかりの有明の月に御目さまして、「いみじう久しうもなりにけるかな。あはれ、この月は見るらむかし、人やあるらむ」とおぼせど、例の童ばかりを御供にておはしまして、門をたたかせたまふに、女、目をさまして、よろづ思ひつづけ臥したるほどなりけり。すべてこのごろは、折りからや、もの心細く、つねよりもあはれにおぼえて、ながめてぞありける。

九月二十日過ぎの、有明の月に、宮様は、目を覚まされて、「いたくご無沙汰してしまいました。あはれ、この月を、あの人も、眺めているだろう」とお思いになって、いつものように、童だけを、お連れになって、女の門に、訪れて、叩かせました。
女は、目を覚まして、あれこれと、物思いに耽って、臥していました。
すべて、この頃は、秋の季節のせいでしょうか、心細く、いつもより、あはれに思われ、物思いに耽っていました。


あやし、誰ならむと思ひて、罪なる人を起こして問わせむとすれど、とみにも起きず、からうじて起こしても、ここかしこのものにあたり騒ぐほどに、たたきやみぬ。「帰りぬるにやあらむ、いぎたなしとおぼされぬるにこそ、みの思はぬさまなれ。おなじ心にまだ寝ざりける人かな、たれならむ」と思ふ。からうじて起きて、下男「人もなかりけり。そら耳をこそ聞きおはさうじて、夜のほどろにまどわかさるる。騒がしの殿のおもとたちや」とて、また寝む。女は寝で、やがて明かしつ。いみじう霧たる空をながめつつ、明かくなりぬれば、このあかつき起きのほどのことどもを、ものに書きつくるほどにぞ例の御文ある。ただかくぞ、


秋の夜の 有明の月の 入るまでに やすらひかねて 帰りにしかな


おかしい、誰であろうか。
前に眠る、侍女を、起こして、聞こうとしますが、すぐに、目を覚ましません。
やっと起きると、あちこちのものに、ぶつかり、うろたえていますうちに、物音は、止まりました。
「帰られたらしい。私を、さぞ、寝坊だと、思われたでしょう。それでは、いかにも、物思いの知らぬ、女のようでした。でも、私と同じように、まだ、寝ずにいた人がいるのです。一体、誰なのでしょう」
やっと、下男が、起きてきて、「人などいません。聞き違いをして、真夜中に、お騒がせするとは、人騒がせな、女房さんたちだ」と、また、寝てしましました。
女は、寝ないまま、夜を明かしました。
いたく、たちこめる、霧の空を眺めていますと、明るくなってきました。
この、暁のことなどを、書き付けていましたらところ、例のように、御文がありました。
ただ、次のように、


あきのよの ありあけのつきの いるまでに やすらひかねて かえりにしかな

秋の夜の、有明の月が、山の端に入ってしまうまで、門前に、佇んでいるわけにも、いきませんので、帰りました。

あはれ、この月は見るらむかし
ここでは、感嘆符のように、扱う。

つねよりもあはれにおぼえて
いつもより、あはれに、思えてという意味。

当時の、あはれ、という言葉の、感触が、解る。

ある感情の、一つではない。
複雑な、感情の様を、あはれ、と言う。
複合的であり、更に、感嘆符にもなるという、あはれ、という言葉である。

あはれ、悲しい
ああ、悲しい、と、訳してもいい。

名状し難い思いにある時、あはれ、という言葉が出る。

まめまろしく、細やかなことも、あはれ、である。
物思いも、あはれ、である。
嘆息することも、あはれ、である。

これが、源氏物語で、より、明確に、晒される。

人の心の、機微にあるもの、とされる。
目には清かに見えぬ、間合い、間の、心の、有り様である。
さらに、もの、すべてが、あはれ、を、帯びる。

万葉は、あはれ、が、曖昧である。
感じてはいるが、あはれ、という言葉に至らぬほど、単純素朴である。

この頃になると、間合いにあるもの、間に、あるものを、あはれ、と、認識する。

他に、表現できない、心の様、また、所作の様を、更に、物の、有様をも、あはれ、と観るようになる。

蕾も、あはれ、花咲くも、あはれ、花散るも、あはれ、となる。

あはれ、にある、表情は、無限大に広がるのである。

日本人の、情感の元にある、感情である、もののあわれ、というものである。
更に言えば、感受性である。
もののあわれ、というものを、感じ取る、感受性の、様である。

あはれ、という、三文字に、集約させたということを、分析するためには、大和言葉にある、一音の意味を、探ることである。

あア はア れエ
ここでは、エという音に、重要な意味がある。



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2008年03月12日

もののあわれ183

「いでやげに、いかに口をしきものにおぼしつらむ」と思ふよりも、「なお折ふしは過ぐしたまはずかし。げにあはれなりつる空のけしきを見たまひける」と思ふに、をかしうて、この手習のやうに書きいたるを、やがて引き結びてたてまつる。御覧ずれば、
風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きたる、つねよりもものあはれにおぼゆ。ことごとしうかき曇るものから、ただ気色ばかり雨うち降るは、せむかたなくあはれにおぼえて、


秋のうちは 朽ちはてぬべし ことはりの 時雨にたれか 袖はからまし

女は、「どんなにか、つまらぬ、女と、思われたことか」と思い、更に、「やはり、折節の、あわれは、お見逃しではありません。確かに、美しい空の気色を、御覧になられました」と、思いますと、嬉しく、先ほど、手習いのように、書き置いたものを、引き結び手、差し上げます。
見れば、木の葉の、一枚さへ、残りそうもなく、激しく吹いています。
いつもより、あわれに、思われます。
空は、真っ黒く曇っていますが、ただ、ほんの少し、雨が降りますのは、どうすることもなく、あわれに、身にしみて、


あきのうちは くちはてぬべし ことはりの しぐれにたれか そではからまし

秋のうちに、私の袖は、朽ちて、しまいましょう。定めの時雨が、降ってきましたら、誰の、袖を、借りれば、いいのでしょう。

ものあはれにおぼゆ
風情深く思われる。

せむかたなくあはれにおぼえて
どうすることもなく、身にしみて、思う。

あはれ、というものの、複合的、意味合いを、ここに、みる。

あはれ、とは、こういう意味ですと、断定できない、広い意味合いがあるということが、理解できる。

何度も言う。
あはれ、というものを、このようであると、断定できないのである。
ゆえに、源氏物語にては、所作に、それを、表現しようとするのである。

更に、自然、時節の、自然の様に、それを、表現しようとする。

あはれ、という、言葉を使用する時にある、心は、表し得ない、心の様を、言う時に、生かされる。

ここで、言う、ものあはれ、とは、もののあわれ、のことである。

本居宣長が、源氏物語におれる、もののあわれ、というものを、検証した以前に、すでに、もののあわれ、というものは、表現されていた。
源氏からではなく、すべてに、もののあわれ、という、心象風景は、あったということである。

源氏物語は、その、象徴的なものである。

私は、物語より、和泉式部日記、あるいは、日記の類にある、もののあわれ、というものを、見て、さらに、それを、深めるべきだと、思っている。

更に、和歌における、もののあわれ、という、心象風景である。

名歌に、貫かれている、もの、それは、もののあわれ、である。

万葉以後の、歌は、もののあわれ、を、表現するものであると、私は、考える。
勿論、歌の内容は、もののあわれ、というものを、直接的に、表現するものではない。しかし、すべての、歌に流れているもの、それは、もののあわれ、であると、言える。

せむかたなくあはれにおぼえて
どうしょうもなく、切なく思えて、とか、深く、身にしみて、とか、心に深く感じて、とか、様々に、訳すことが、出来る。

感傷文学として、もののあわれ、に転じて、という、研究家、作家がいるが、大きな誤りである。単なる、感傷ではない。
それこそが、本質であった。

感傷に、限定されるような、心象風景ではない。
それは、浅はかである。

漢文による、ある種の、思想的、言葉の世界と、対比させて、言うのであろうが、それは、撹乱されているということである。
漢文の、書物にある、漢字という、独立言語の、意味合いに、深みを、感じるというのは、理解出来るが、それは、平仮名の、一音の意味を、知らないから、である。

つまり、軽率なのである。

あはれ、というより、慈悲という言葉に、意味深さを、感じるという、病である。

または、哀れ、憐れ、無常、無情、などに、意味深さを、感じるという、軽率である。

あア、はア、れエ
この、アとは、拓く、開く、明るい。
エとは、抑える、治める、収める、納める、修める、という意味がある。

エは、留まるなのである。
または、留めるである。

思いを、留めると、考えてよい。

行間、間合い、間の、思いを、留めるということは、表現し得ない思い、言い合わせない思いというものを、更に、留めるという意味になる。

和歌に、おける、言葉の省略の、その、省略された言葉、行間を、もののあわれ、というもので、収めるのである。

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2008年03月14日

もののあわれ184

するもの嘆かしと思へど知る人もなし。草の色さへ見しにもあらずなりゆけば、しぐれむほどの久しさもまだきにおぼゆる風に、心苦しげにうちなびきたるには、ただ今も消えぬべき露のわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに、奥へも入らでやがて端に臥したれば、つゆ寝らるべくもあらず、人はみなうちとけ寝たるに、そのことと思ひわくべきにあらねば、つくづくと目をのみさまして、なごりなう恨めしう思ひ臥したるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる、人はかくもしや思はざるらむ、いみじうたへがたきここちして、


まどろまで あはれ幾夜に なりぬらむ ただ雁がねを 聞くわざにして

とのみして明かさむよりはとて、つま戸をおし開けたれば、大空に西のかたぶきたる月のかげ、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空のけしき、鐘の声、鳥の音ひとつにひびきあひて、さらに、過ぎにし方、いま、行末のことども、かがる折はあらじと、袖のしづくさへあはれにめづらかなり。


われならぬ 人もさぞ見む 長月の 有明の月に しかじあはれは

嘆いてみても、知る人もいません。
草の色までも、まるで、今までと違って見えます。
時雨が、くるまでには、まだ、間があると、思っていましたのに、早々と、時雨を、運んできた風に、草草も、なびいています。
それを、見ていると、今の今、露のように、消えてしまいそうな、わが身が、あやうく思えて、草葉を、見るにつけ、心悲しく思います。
奥にも、入らず、端近くに、臥していました。
少しも、眠ることは、できません。
人は皆、ぐっすりと、眠っていますのに、定まらぬ心の、乱れたままに、目を覚まして、いました。
一途に、心の憂さを、嘆いて、臥していますと、雁が、かすかに、鳴きわたります。
人は、私のように、思わないでしょうが、私は、いたく、悲しく思いました。


まどろまで あはれいくよに なりぬらむ ただかりがねを きくわざにして

まどろみもせず、幾夜を、過ごしたことでしょう。ただ、雁がねを、聞くことのみにして。

このように、雁の声を聞くばかりで、夜を、明かすよりはと、思い、妻戸を押し開けて、外を見ますと、西へ傾いた月の光が、大空に、遠く澄み渡って見えます。
霧の、かかった、空の様子も、見えて、鐘の声、鳥の声が、溶け合い、過ぎた日のこと、また、今のこと、行末のことを、思います。
このように、趣のある、時間は、中々ないと思い、袖を濡らす、涙までが、常とは、違い、しみじみと、いたします。


われならぬ ひともさぞみむ ながつきの ありあけのつきに しかじあはれは

私ではない人も、同じように、見るのでしょう。九月の、有明の月に、及ぶ趣のあるものは、ないでしょうと。

しかじあはれは
趣と、訳してもよい。

あはれ、は、おもむき、でもある。

趣、おもむき、とは、有り様、そのままの、様が、深く心に、訴えるという。

平安期の、雅は、趣でも、あった。

みやび、おもむき、である。
雅やかとは、派手なことではない。
趣のあることである。

趣のあるとは、そこに、あって、有る様にである。
そこに、相応しい、姿である。

平安期の、美意識である。
素朴であるものを、強調する、美意識である。
原色の美とも、言う。
草木で、染めた、そのままの色。古代色である。

それは、万葉から、始まったが、強調するという、意識が、働いたのである。

だが、自然の有り様には、矢張り、叶わない。
秋の月、有明の月という、朝明けの前の、月は、また、翳りのある、光である。

煌々と照る、光よりも、翳りある月の光を、趣と、感じる感性である。

それは、しかじあはれは、となる。

あはれ、という言葉に託す思いは、実に、複合的である。
語彙が、無かったのではない。
あはれ、と、表現するしか、言いようが無いのである。

心に、深く染み入るものや、事柄を、あはれ、と表現する。

実に、日本人の、感受性に、流れるもの、それは、もののあわれ、である。

一筋に、貫通、それが、もののあわれ、である。

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2008年03月16日

もののあわれ185

ただ今、この門をうちたたかする人あらむ、いかにおぼえなむ。いでや、たれかかくて明かす人あらむ。


よそにても おなじ心に 有明の 月を見るやと たれに問はまし

宮わたりにや聞こえましと思ふに、たてまつりたれば、うち見たまひて、かひなくはおぼされねど、ながめいたらむにふとやらむとおぼして、つかはす。女、ながめ出だしていたるにもて来たれば、あへなきここちして引き開けたれば、


秋のうちは 朽ちけるものを 人もさは わが袖とのみ 思ひけるかな

消えぬべき 露のいのちと 思はずは 久しき菊に かかりやはせぬ

まどろまで 雲居の雁の 音を聞くは 心づからの わざにぞありける

われならぬ 人も有明の 空をのみ おなじ心に ながめけるかな

よそにても 君ばかりこそ 月見めと 思ひて行きし 今朝ぞくやしき

いと開けがたりつるをこそ」とあるに、なほもの聞こえさせたるかひはありかし。


ただ今、この家の門を、叩いて、訪れる人がありましたら、どんなに嬉しいでしょう。
私のように、夜を明かす人が、いましょうか。


よそにても おなじこころに ありあけの つきをみるやと たれにとはまし

他の所で、私と同じように、有明の月を見ていますかと、誰に尋ねれば、いいのてしょう。

文を、宮様に差し上げようと思いしまたので、お目にかけました。
宮様は、それを、御覧になり、読み応えのあるものと、思われました。
そして、女が、物思いに、浸っているうちに、返事をしようと、御文を、つかわしました。

女は、外を眺めつつ、物思いに、耽っていましたが、そこへ、宮様から、お返事がありました。
あまりの、早い返事に、張り合いのない気分になりましたが、開いてみます。


あきのうちは くちけるものを ひともさは わがそでとのみ おもひけるかな

秋のうちに、私の袖も、涙で、朽ちてしまいました。あなたも、わが袖のことばかりを、思っていました。

きえぬべき つゆのいのちと おもはずは ひさしききくに かかりやはせぬ

消えてしまう、儚い、露のような、命と、思わず、どうして、長寿の菊に、あやかろうとしないのですか。

まどろまで くもいのかりの ねをきくは こころづからの わざにぞありける

まどろむこともしないで、空行く雁の声を聞くとは、あなた自身の心が、招いたことです。

われならぬ ひともありあけの そらをのみ おなじこころに ながめけるかな

私以外にも、有明の月を、眺めて、私と同じ物思いを、していたのですね。

よそにても きみばかりこそ つきみめと おもひてゆきし けさぞくやしき

他所のいても、あなただけは、月を見ていられると、訪ねて行きました。その、今朝が、何と、惜しいことか。

開け放った門が、惜しく思います。と、書かれて、ありましたので、やはり、手習いの、文を、差し上げたかいが、ありました。


多くを、散文にせず、歌にして、思いを、伝えるという、風情である。

歌詠みとは、つまり、もののあわれ、というものを、そのままに、現すものである。
歌の、一々を、説明するまでもない。
月をみるやと たれに問はまし
と、相手に、問う心。
誰に問いましょうか。それは、あなたですと、言うのである。

これに、次の句を、つけると、
たれに問はまし 君ゆえに
と、なる。

当時の恋文の、直球である。

同じ月を、眺めているという、共感を、歌に、折込、折込して、重ねる表現の様である。

われならぬ 人も有明の 空をのみ おなじ心に ながめけるかな

われならぬ人
とは、あなた、である。

われならぬ人を、われは、思うのである。
われならぬ人は、われが、思う人。

歌詠みは、誰に、詠むのか。
それは、われならぬ人に、詠むのである。

多くの、和歌集があるが、それは、単に、独り言ではない。
われらぬ人に、詠むのである。

和歌を、御霊鎮めと、言う。
魂鎮めである。
歌詠みは、歌を詠むことで、魂鎮めを、行う。しかし、それは、また、われならぬ人に、呼びかける、魂振り、たまふり、になるのである。

魂鎮め、魂振り、とは、歌詠みの心である。

それが、日本の伝統であり、単なる、宗教的な、行法にあるのではない。
古神道という、行法を、語る人がいるが、それは、勝手な解釈、勝手な、思い込みである。
まず、歌詠みの心によって、それを、成すのである。
歌を詠まずして、魂鎮めも、魂振りも、無い。

言霊の、大和の国とは、歌詠みの国ということである。

言霊の幸はう国、それが、日本の伝統である。
歌を詠むこと、それが、そのまま、神言、祝詞になるのである。

言葉は、霊である。
霊は、タマ、魂になるのである。

恋は、魂を乞うことであると、言った。
日本の伝統は、魂乞いにあるということ。

魂乞い、すなわち、もののあわれ、である。

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2008年03月17日

もののあわれ186

かくて、晦日がたにぞ御文ある。日ごろのおぼつかなさなど言ひて、宮「あやしきことなれど、日ごろもの言ひつる人なむ遠く行くなるを、あはれと言ひつべきらむことなむ一つ言はむと思ふに、それよりのたまふことのみみむさはおぼゆるを、一つのたまえ」とあり。あなしたり顔と思へど、「さはえ聞こゆまじ」と聞こえむも、いささかしければ、女「のたまはせたることはいかでか」とばかりにて、


惜しまるる 涙にかげは とまらなむ 心も知らず 秋は行くとも

まのやかにかたらいたきことにもはべるかな」とて、端に、「さても


君をおきて いづち行くらむ われだにも 憂き世の中に しひてこそふれ

とあれば、宮「思ふやうなりと聞こえむも、見知り顔なり、あまりやおしはかり過ぐいたまふ、憂き世の中とはべるは。

うち捨てて 旅行く人は さもあらば あれまたなきものと 君し思はば

ありぬべくなむ」とのたまへり。

このようにして、宮様から、御文がありました。
日ごろの、ご無沙汰について、書かれてあり、「少し、おかしなことですが、常に語らっていた人が、遠い地へ、旅立つと申します。その人が、感動する和歌を、一首、贈ろうと思うのですが、あなたから、下さる和歌だけが、私を、感動させます。私の、代わりに作っていただけませんか」と、書いてありました。
得意げな、お顔をしていらっしやるのにと、思いました。
「代作のようなことは、出来ません」と、申し上げようとしましたが、されも、生意気だと、思われると、「仰せのような、見事な歌が、とせうして、詠めましょう」とだけ書いて、


おしまるる なみだにかげは とまらなむ こころもしらず あきはゆくとも

別れを惜しむ、私の涙の中に、あなたの、面影が留まって欲しいのです。私の心も知らず、秋が行くように、あなたが、私から、去って行きましょうとも。

真面目に書くことの、代作は、見苦しょうございます」と、しるして、その紙の端に、「それにしても、


きみをおきて いづちゆくらむ われだにも うきよのなかに しひてこそふれ

宮様を、残して、その方は、どこへ行かれるのでしょう。この私のような者でさえ、切ない人生を生きているのに。

と、書いて、差し上げますと、宮様から、「思い通りの、歌でした。と、申し上げるのも、物知り顔になります。しかし、お歌は、あまりにも、思い過ごしが、多いようです。「憂き世の中」と詠んでおられるのは、


うちすてて たびゆくひとは さもあらば あれまたなきものと きみしおもはば

私を捨てて、旅行く人は、どうでも、いいのです。
あなたさえ、私を、絶対のものと、思し召してくださるならば。
それなら、辛い人生を、生きられるでしょう。

と、仰せの、お返事がありました。

まめやかに はからいたき ことにも はべるかな

まめやか
細々しく。真っ当に。真剣に。本気で。等々の意味がある。

今でも、マメな人と、言う、言い方をする。
マメな人とは、細やかなことに、気づく人。気配りのある人である。

源氏物語での、まめやかな、人の心遣いに、もののあわれ、というものを、観た人は多い。

心を砕く人こそ、もののあわれ、というものを、具現化するとでも、いう。

人の心の、機微に触れることである。

もののあわれ、が、更に、深まるのである。

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2008年03月18日

もののあわれ

一夜の宮の気色のあはれに見えしかば、心からにや、それよりのち心苦しとおぼされて、しばしばおはしまして、ありさまなど御覧じもてゆくに、世に馴れたる人にはあらず、ただいとものはかなげに見ゆるも、いと心苦しくおぼされて、あはれに語らはせたまふに、宮「いとかくつれづれにながめたまふらむを、思ひおきたることなけれど、ただおはせかし。世の中の人もびんなげに言ふなり。

一夜の気配が、身にしみて、宮様の心が動いたのでしょう。
その後は、女の、身の上が心配になり、しばしば、お出かけになられました。
女の、様子を、見ているうちに、世慣れた女ではなく、ただ、いたく、心儚げに見えます。
それを、大変、気の毒に思われて、しんみりと、お話されました。
宮様は「このように、物思いをして、過ごしていられるのでしょうか。はっきりと、言うことは、できませんが、私のところへ、お出でください。世の中の人は、私が、通うことを、怪しからぬことと、言っているそうです。


時に参ればにや、見ゆることもなけれど、それも人のいと聞きにくく言ふに、またたびたび帰るほどのここちのわりなかりしも、人げなくおぼえなどせしかば、いかにせましと思ふ折りもあれど、古めかしき心なればにや、聞こえたえむことのいとあはれにおぼえて。


たまに、参りますので、人に見られることも、ありませんが、それでさえも、人はひどく、聞きづらく、悪し様に言ううえ、私としては、たびたび逢えず、家に帰るときの、辛かったこと。
人並みに、扱われていないようにも、思いました。
どうしようかと、考えていた日もあります。
それも、古風な、考えで、ありましょうか。
仲を絶って、しまうことが、いたく、あわれに、思います。


さりとて、かくのみはえ参り来るまじきを、まことに、聞くことのありて制することなどあらば、「空行く月」にもあらむ。もしのたまふさまなるつれづれならば、かしこへはおはしましなむや。人などもあれど、びんなかるべきにはあらず。


しかし、そう申しても、このように、いつも、通うわけにも、いきません。
誰かに、聞きとがめられて、止められたましら、あの
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空行く月の めぐり逢うまで
橘忠元

の、歌のように、逢えなくなります。
もし、つれづれの、暮らしをしているのなら、私の家に、お出でになりませんか。
人なども、おりますが、不都合なことは、起こりません。

これは、宮が、女を、家に引き取るということを、言う。
自分の家に、来ることを、打診しているのである。

いよいよ、物語は、核心に入ってゆく。


もとよりかかる歩につきなき身なればにや、人もなき所についいなどもせず。おこなひなどするにだに、ただひとりあれば、おなじ心に物語聞こえてあらば、慰むことやあると思ふなり」などのたまふにも、げに今さらさやうに慣らひなきありさまはいかがせむなど思ひて、「一の宮のことも聞こえきりてあるを、さりとて、「山のあなた」にしるべする人もなきを、かくて過ぐすも明けぬ夜のここちのみすれば、はかなきたはぶれごともいふ人あまたありしかば、あやしきさまぞ言ふべかりめる。

もとより、私は、このような、外出に、不似合いな身。人のいないところに、女をおいて、逢っていることは、しません。
仏へのお勤めをするのでさえ、ただ一人で、います。それと、同じ思いを、持って、あなたと、お話ができるのであれば、心が、慰められます。
などと、仰せられますが、本当に、慣れぬ暮らしができるのかと、考えます。
一の宮、花山院の、お話も、そのままになっています。
そうかといって、「山のあなた」に、導いてくれる人もいない、今。
明かりのない、暗闇に、住む気持ちがします。

「山のあなた」は
み吉野の 山のあなたに 宿もがな 世の憂き時の かくれがにせむ
古今集、読み人知らず より

つまらぬ、たわむれを言い、いい寄る男が、多いので、私を、あやしかる人と、申します。


さりとて、ことざまの頼もしき方もなし。なにかは、さてもこころむかし。北の方はおはすれど、ただ御方々にてのみこそ、よろづのことはただ御乳母のみこそすなれ。顕証にて出でひろめかばこそあらめ、さるべきかくれなどにあらむには、なでふことかあらむ。


さりとて、宮様以外に、頼る人も無し。
まあ、宮様の言葉に、従って、試してみましょう。
宮様には、北の方も、いられますが、ただ、いつもは、別々に、お住みになっています。
すべてのことは、御乳母が、取り仕切っていること。
露に、人に目立つことではないので、しかるべきところで、目立たぬようにとていれば、いいでしょう。

この濡れ衣はさらりとも着やみなむ」と思ひて、女「なにごともただわれよりはほかのとの思ひたまへつつ、過ぐしはべるはどのまぎらはしには、かやうなる所、たまさかにも持ちつけきこえするよりほかのことはなければ、ただいかにものたまはするままにと思ひたまふるを、よそにても見苦しきことに聞こえさすらむ。


そうすれば、多情だという私への、懸念は、晴れるでしょう。
と、考えて、女は、「何事も、すべて、自分の思い通りには、ゆかないもの。このように、過ごしながら、日々の慰めとして、たまたま、お出になるのを、待つということでしょう。
この他には、道はありません。
今は、もう、どのように、仰せられても、仰せのままに、従います。
宮様と、別々に住んでも、見苦しいことと、噂されているのです。


まして、まことなりけりと見はべらむなむかたはらいたく」と聞こゆれば、宮「それはここにこそともかくも言はれめ、見苦しうはたれかは見む。いとよく隠れたるところつくり出でて聞こえむ」など頼もしうのたまはせて、夜ふかく出でさせたまひぬ。格子をあげながらありつれば、ただひとり端に臥しても、「いかにせまし」と「人笑へにやあらむ」と、さまざまに思ひ乱れて臥したるほどに、御文あり。


まして、私が、邸に移りましたら、今までの噂は、本当だったと、人は、見るでしょう。それが、恥ずかしいのです」
と、申し上げますと、「それは、私の方こそ、とやかく、言われますでしょう。あなたのことを、見苦しいと、誰が見るでしょう。上手に、目立たぬことを、作って、お知らせしましょう。」
などと、心強く、仰せになり、夜明け近くに、お帰りになられました。
格子を、あげたままでしたので、ただ一人、端に臥して、「どうしようか」と考え、「人に、笑われるかもしれません」などと、様々に、思い乱れて、臥していますと、御文がありました。



露むすぶ 道のまにまに 朝ぼらけ ぬれてぞ来つる 手枕の袖

この袖のことは、はかなきことなれど、おぼし忘れでのたまふもをかし。


道芝の 露におきいる 人により わが手枕の 袖もかはかず



つゆむすぶ みちのまにまに あさぼらけ ぬれてぞきつる たまくらのそで

明け方の、露の降りた道を、辿りつつ、懐かしい、思い出の、手枕の袖を、濡らしつつ、帰ってきました。

この手枕の袖のことは、はかないことでしたが、お忘れにならずに、詠まれたのが、嬉しく思いました。


みちしぱの つゆにおきいる ひとにより わがたまくらの そでもかわかず

道の、芝草の露に濡れて、眠れずにいる人のために、私の、手枕の、袖も、涙で、乾くこともありません。


万葉では、恋歌を、相聞歌という。そして、死者への追悼を、挽歌という。
日本は、相聞歌と、挽歌の国である。
言うこともなし。

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2008年03月19日

もののあわれ189

その夜の月のいみじう明かくすみで、ここにもかしこにもながめ明かして、つとめて、例の御文つかわさむとて、宮「童参りたりや」と問はせたまふほどに、女も霜のいと白きにおどろかされてや、


手枕の 袖にも霜は おきてけり 今朝うち見れば 白妙にして

と聞こえたり、ねたう先ぜらぬるとおぼして、宮「つま恋とおき明かしつる霜なれば」とのたまはせつる、今ぞ人参りたれば、御気色あしうて問はせたれば、「とく参らで、いみじういなむめり」とて、取らせたればもて行きて、童「まだこれより聞こえさせたまはざりけるさきに召しけるを、今まで参らずとてさいなむ」とて、御文取り出でたり。宮「よべの月はいみじかりしものかな」とて、


寝ぬる夜の 月は見るやと 今朝はしも おきいて待てど 問ふ人もなし

げに、かれよりまづのたまひけるなめりと見るもをかし。


その夜の月は、大変、澄んでいて、女も、宮様も、眺め明かして夜を過ごしました。
その翌朝、宮様は、御文を使わそうと、「童は来ているか」と、おたずねになりました。その時、女も、霜が降りているのを、目覚めてみました。


たまくらの そでにもしもは おきてけり けさうちみれば しろたえにして

私の、手枕の袖にも、夜を起きていましたので、涙が、霜になっておりました。
今朝見ますと、真っ白です。

と、申し上げました。宮様は、女に先を越されて、悔しいと思われ
妻と思います、あなたが、起き明かした夜の霜ですから、真っ白になったのでしょう。
と、仰せになります。
そこへ、やっと、童が、参りました。宮様は、機嫌悪く、詰問しました。
すると、童は「早く、参上しなかったので、責められるらしい」と思い、御文をわたすと、女の家に持って行き、
「まだこちらから、お歌を差し上げません前に、宮様からお召しがありましたのに、今まで、参上しなかったのは、どうしたのだと、私をお責めになります」と、御文を、取り出しました。
「ゆうべの月は、見事でした」
と、書かれて、


ねぬるよの つきはみるやと けさはしも おきいてまてど とふひともなし

共に、寝た夜の月を、あなたは先夜寝て見ませんでしたか。見ていられるのかと、思い、今朝は、置き通して、待ちましたが、お便りも、ありません。

なるほど、宮様の方から、先に、お歌を、下されたらしいと思うと、嬉しく思いました。



まどろまで 一夜ながめし 月見ると おきながらしも 明かし顔なる

と聞こえて、この童の「いみじうさいなみづる」と言ふがをかしうて、端に


霜の上に 朝日さすめり 今ははや うちとけにたる 気色見せなむ

いみじうわびはべるなり」とあり、宮「今朝したり顔におぼしたりつるも、いとねたし。この童殺してばやとまでなむ。


朝日影 さして消ゆべき 霜なれど うちとけがたき 空の気色ぞ

とあれば、女「殺させたまふべかなるこそ」とて


君は来ず たまたま見ゆる 童をば いけとも今は 言はじと思ふか

と聞こえさせたれば、笑はせたまひて、


ことはりや 今は殺さじ この童 忍びのつまの 言ふことにより

手枕の袖は忘れたまひにけるなめりかし」とあれば


人知れず 心にかけて しのぶるを 忘るとや思ふ 手枕の袖

と聞こえたれば、


もの言はで やみなましかば かけてだに 思ひ出でましや 手枕の袖



まどろまで いとよながめし つきみると おきながらしも あかしかおなる

少しの間も、私は、まどろまずに、月を眺めていました。
その月を、起き明かして、御覧になったような、お顔をしておいでです。
本当でしょうか。

と、申し上げて、使いの童が、「いたく、責められました」というのが、おもしろく、紙の端に


しものうえに あさひさすめり いまははや うちとけにたる けしきみせなむ

霜の上に、朝日が射しているようです。
霜の解けるように、ご機嫌も、よくなられて、打ち解けた、ご様子を、お見せしてやってください。

童は、いたく、しおれています、と、書きました。
宮様からは、「今朝は、あなたが、いかにも、得意になっているのが、口惜しいく、この童を、殺してやりたいと、思っていたのですが。


あさひかげ さしてきゆべき しもなれど うちとけがたき そらのけしきぞ

朝の、日差しがあって、消える霜ですが、中々消えそうにない、空の気色です。
私の怒りは、消えません。

と、書かれてありました。
女は、「殺しになる、おつもりとは」と、思い、


きみはこず たまたまみゆる らわべをば いけともいまは いはじとおもふか

時々に、文の使いをする、童を、生かしておいて、文の使いをせよとも、もはや、仰せでありませんか。

と、申しますと、宮様は、笑って


ことはりや いまはころさじ このわらべ しのびのつまの いふことにより

そうです。この童は、もう、殺しません。
忍びの妻の、言うように。

手枕のことは、お忘れになりましたか。
と、書かれてありましたので、


ひとしれず こころにかけて しのぶるを わするとやおもふ たまくらのそで

人知れず、心にとめて、忍ぶことを、あの、忘れがたい、手枕の袖を、忘れたと、思われるのでしょうか。

と、申し上げますと、


ものいはで やみなましかば かけてだに おもひいでましや たまくらのそで

私が、言わずに過ごしていましたら、あなたは、手枕の袖のことなど、思い出しも、しないでしょう。


当時の、文のやり取りの様を、見るものである。

宮は、女を、妻と、呼ぶ。
妻は、愛する人。愛人。
契った相手。

妻も、夫も、ツマという。

忍ぶ妻、ともいう。
隠し妻。隠し恋人である。

当時、二人の関係は、大変な噂になっていた。

それと、共に、二人の関係は、次第に、燃え上がる恋に、身を任せるのである。

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