2011年06月20日

パプアの叫び

戦争犠牲者追悼慰霊と、衣服支援を続けて、五年と半年が過ぎた。
過ぎれば、あっと言う間。

そして、その度に、旅日記を記録として、書き続けてきた。

今回は、パプアニューギニアである。
まさか・・・行くとは・・・
そう思う。

目的は、慰霊と、支援。
私は、こんな人間だったのか・・・
素朴な感情である。

なぜするのか、と、問われても、もう、答えられない。
最初は、明確に、答えていた。
答えられた、はず。
しかし、今は、答えられない、答えられなくなったのである。

解りやすく言う。
成仏したのか・・・
そんなことは、分からない。

そして、支援も、役に立ったのか・・・
それも、分からない。
ただ、続けることは、確かである。

物事には、動機がある。
そして、動機の深さというものがある。

だが、この活動は、動機はあったが、続けてゆくための、哲学も思想も無い。

言うならば、心の赴くままに、である。

そんな得にもならないことを、何故・・・
分からない・・・

パプアニューギニアに出掛けて、更に、それが、解らなくなった。

そして、解ったことは、とんでもないことを、しているという事実だ。

首都の、ポートモレスビーは、とても、危険であるとの、外務省の情報である。
以前は、渡航の是非を検討して欲しい。
それから、一つ下がって、注意勧告である。

強奪、スリ、更には、ピストルを突きつけられての、物取り・・・
確かに、安全のために、金をかけていることは、最初に泊まった、ホテルで、解った。

セキリティ会社が、完全にガードしていた。
部屋は、監獄のように、窓も無い。
部屋に入る前に、廊下の扉も、鍵を使う。
そして、鉄格子で、全体が覆われている。

最も、危険地域の、街中だった。
そして、私は、その最も危険な、スーパーや地元の人たちのフード店の、並ぶ場所で、衣服支援を行った。

その前日、丁度、同じホテルに泊まる、日本人の男性から、声を掛けられた。
昔、ニューギニアで、仕事をしていて、今は、フィジーに住んでいると言った。
その方に、支援をしたいと言うと、赤十字に渡すことですと、言われた。

そのスーパーの前では・・・
駄目です。一番、危ない。強奪されますよ・・・

だが、私は、そこで、行った。
日の丸を掲げて・・・

同行のコータは、目立つのは、良くないと、言ったが、私は、逆に、日の丸で、目立つように、出掛けた。
そして、皆さんから、熱烈歓迎を受けた。

これは、あまり書きたくないことだが、中国人と、間違われないようにと、アドバイスを受けていた。
全国的に、中国人の、排斥運動が、展開されているとのこと。

それで、日の丸の出番である。

日本と、日本人に対して、パプアニューギニアの人々は、とても、親日感に溢れていた。

道を歩いているだけで、皆さんから、声を掛けられる。
ハロー
モーニング
時には、日本語で、こんにちは、である。

ラバウル、ココポから、戻り、二日を過ごしたホテルの、近くには、セトルメントと呼ばれる、スラムがあった。
一番、危険な、地域である。

部族間抗争も、激しい。
しかし、私たちは、そこに出掛けた。

二つの部族の人たちが、暮らしていた。
そして、矢張り、最初に、挨拶して、握手したことと、写真を撮ったことを、奥にいた部族の、オサが、気分を悪くしたようで、酒によっていたせいもあり、難癖をつけ始めた。

だが、そこから、無事に出た。

多くの写真を撮り、多くの人たちと、握手をした。
私は、言った。

パプアニューギニア、エンド、ジャパン、ベストフレンド
彼らは、とても、喜んだ。

そして、次に来る時は、沢山の、プレゼントを持ってきます。
子供たちの、衣服も、ね・・・

サンキューサンキューと、繰り返し言われた。

私は、アホのせいか、むやみに、恐れない。
最悪の場合は、死ぬだけである。
そんなことは、怖くもなんとも無い。

死ぬのが、怖くて、この活動は、出来ない。

ただし、流しのタクシーには、乗らなかった。
怖いから・・・
その怖さは、拉致などされて、日本国に、迷惑を掛ける、怖さである。

国に、面倒を掛けるほどの、活動ではない。

殺されたら、死体になるだけで、それは、保険で、すべて、片がつく。

この、旅日記は、ランダムに書き付けてゆく。


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2011年06月21日

パプアの叫び 2

ポートモレスビーに、二泊して、三日目の朝、ラバウルに向かった。

何せ、ガイドブックが無いので、状況が、全く解らない。
ホテルの予約も、ラバウルのホテルではなく、ココポのホテルに予約できたのである。

空港が、ココポ近郊にあり、それでは、ココポに泊まり、その後で、ラバウルへということに。

ニューブリテン島・・・
その東に、ニーュアイルランド島。
一時間と40分の飛行で、到着。

朝の五時過ぎである。
現地のホテルに送迎を頼んでいた。

ココポの街までは、20分程度である。
私たちの、ホテルは、街の中だった。
それが、幸いした。

大半のホテルが、リゾートホテルであり、街中から、離れている。
要するに、現地の人たちの生活から、離れている。

兎に角、安いホテルと、選んだのが、ダウンタウンにあったということ。

ホッとしたのは、ホテルに窓がついていたこと。
道路に面して、人々の動きが、よく解る。

日本の、ビジネスホテルのようである。

部屋に落ち着いたら、兎に角、水が必要なので、ホテル並びの、スーパーに出掛ける。
結果、毎日、そのスーパーに出向くことになる。
毎日の食事を、そこで、買った。

フードコーナーで、弁当のようにして、ごはんの上に、おかずを、掛けてもらう。
それが、五日間である。

ホテルの裏側が、ビーチであり、前が、小高い丘である。

慰霊には、とてもよい、条件である。

ラバウルは、20年ほど前の、火山の噴火により、灰燼と化した。
街は、少しずつ、元に戻っているが、ココポ寄りになっているという。

つまり、ラバウルも、ココポも、同じ街であるという、認識である。

ラバウルには、バスで、二時間あまりかかると、言われた。
私たちは、ラバウルにも、泊まる予定だったが、ホテルが、送迎しないと、言い、バスとは、ミニバスで、とても、それに乗って行く気になれない。

慰霊も、支援も、ココポで、十分に出来たのであり、不便な、ラバウルにまで、出向くことはなかった。

そして、何より、驚いたのは、九州と大きさが、同じ程度の、島であるが、街は、二つだけ。
ココポの近郊に、空港のある、村があるのみで、後は、ジャングルであるという。

戦闘が、行われたのは、西側のジャングルであり、そんな所に、行けるはずもない。
車で、行けるといわれたが、往復して帰るのみ。
更に、どれほどの時間が、かかるか、知れないのである。

私は、ココポのみで、十分だと、結論付けた。

五泊するのは、長い。
だが、ココポの人たちや、ホテルのスタップたちが、実に、親切、親日であり、楽しく過ごせた。

ホテルから、一歩出ると、だれかれなく、挨拶である。
ハロー
モーニング
ハロー
こんにちは
日本語の挨拶も多かった。

学校で、一時期、日本語を習うという。

最初の日は、買い物と、付近の様子を見るだけである。

ここは、ほぼ、同じ部族の人たちが多く、部族間抗争は、無い。

そうそう、ホテルに着いた時に、入れ違いにチェックアウトした、日本人の28歳のO君に、出会った。
15分ほど、話しが出来た。
彼は、一年を掛けて、旅を続けているという。

一度、旅をするために、会社を辞めて、旅に出た。
珍しい存在である。

私たちの、活動に、興味を持ってくれたことが、幸いした。
兎に角、現地の旅行会社を、通して何かをするのは、利用金が高すぎると言った。
すべて、自分で、する方が、安くつくと。

ここに、二週間もいたというから、驚いた。
これから、マニラに行くと言う。
その前は、オーストラリア、ニュージーランドである。

ただ、アボリジニに関して知らなかったことが、残念だった。

お互いに、旅している日本人とは、話さないということで、一致。
しかし、私たちとは、話した。
そこで、九月まで旅を続けて帰国するというので、日本で、会いましょうと言うと、是非逢いたいと、答えた。

一人旅をしているので、機敏であり、察知する能力に長けている。

三人分のコーヒー代も、何気なく、支払い、空港に向かった。
清清しい気分になった。

私たちも、部屋に入ることにした。
エアコンが効いて、気持ちが良い、部屋である。
ベッドも、二つある。

鉄格子で、囲まれていないのが、救い。

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2011年06月22日

パプアの叫び 3

ラバウル・ココポに着いて、翌日は、まず、戦争犠牲者の追悼慰霊である。
私は、毎日、慰霊を行うことにした。

ホテルから、歩いて、すぐに、ビーチがある。
そこからは、ラバウルの火山が見える。
そこで、まず、最初の慰霊の儀を執り行った。

いつもの通り、神紙を、手ごろな枝に付けて、御幣を作り、日の丸を掲げて、この、ニューブリテン島の、日本兵の慰霊を行う。

何度も、書いたことだが、私は、何も、供物などを、置かない。
祭壇も、作らない。
ただ、心のみである。

更に、特別な祝詞は、作らない。

本来、神主は、その場に合った、祝詞を作り、献上する。
だが、祝詞というのは、実は、天皇から頂く言葉である。
要するに、詔である。

上の側からの、言葉が、祝詞である。
しかし、その後、中臣氏が、大祓えの祝詞を、作成した。
私には、それで十分である。

何故なら、本来は、黙祷で、十分だからである。
それ以上のことは、僭越行為である。

たかあまはらに かむずまります すめみつ かむろぎ かむろみのみこともちて
やおよろづのかむたちを ・・・

または、私が、簡略化した、祝詞を唱えることもある。

あまてらすおほんみかみ しずまりませる みなかに ありませる はらいどのおおかむたち・・・

更に、この地を、収める、産土のカムをお呼びする。
そして、兎に角、祓い清めを、行う。

その後で、兵士の皆さんに、語り掛ける。

この、ニューブリテン島にて、亡くなられた、兵士の皆様の、霊位に対し奉り・・・

ちなみに、ここは、昔、ビスマーク・ソロモン諸島と、呼ばれた。
犠牲者は、11万8700名である。
そして、残存遺骨概数は、6万2390名である。
つまり、6万2390名の、兵士の遺骨が、日本に戻っていないのである。

その遺骨は、ジャングルの中に、放置され、自然と、化しているだろう。

勿論、その中には、慰霊の思い篤く、遺族によって、祖国に戻りたまう霊位も、いるだろう。しかし、もし、その苦痛の中で、未だに、この場、この島に、留まる霊位も存在するだろう。
私は、その霊位に対し奉り、祝詞を上げて、清め祓う。
それは、浄化であり、帰るべき場所に、お送りするものである。

そして、それは、私の自己満足かもしれない・・・
だが、せずには、いられないのである。

その日から、私は、毎日、場所を替えて、慰霊の儀を執り行った。

その翌日は、ホテルの前の、小高い丘に登り、行った。
同じく、日本兵の霊位に対してである。

そして、最後には、この地で、亡くなられた、敵軍をはじめ、現地の人たちの、犠牲者のために、深く黙祷をした。

実は、最初の慰霊の日の、夜に、私の部屋に、溢れるばかりの、現地の人たち、つまり、現地の霊位が、集ったのである。

その霊位は、何も、感情なく、ただ、溢れて、集っていた。

それで、私は、現地の犠牲者のためにも、祈ることを、感じたのである。

あまり書きたくないが、現地の人たちの、霊位は、それぞれの、部族の、葬送の儀により、
お送りされたかったのであろうと、感じた。

つまり、その後、キリスト教が入り、彼ら特有の、部族の儀式を、悪魔的なものとして、廃したはずである。
皆、今は、一応、キリスト教徒、カトリックである。

地場の儀式を廃することによって、キリスト教は、その教線を広げる。
ところが、原住民は、先祖からの、儀式を求めるのである。

それゆえ、私は、黙祷することによって、彼らの霊位に対処した。

そして、その土地の、守り主である、祖霊に対し奉り、対処したのである。

ある段階までは、この世の人の行為が必要であるが、それ以後は、霊的存在が、介入して、行為を続行するのである。
私は、単なる、その仲介役である。

そして、それは、思い、念い、の力である。

それを、祈り、という。

その後、地元の霊位は、現れなかった。
そして、日本兵の皆様も、現れないのである。

拙い私の祈りでも、少しのお役に立つならばと、思う。
だが、最初の、御幣は、流れることなく、沈んだ。
だから、毎日続けて、慰霊の行為を、行うことにしたのである。

沈む御幣は、マニラ以来である。

確かに、その地で亡くなった兵士の皆さんの、壮絶な死に様であれば、当然であると、思うのだ。

これから、少し、ラバウル戦を生き延びた方の、手記を見ることにする。

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2011年06月23日

パプアの叫び 4

ラバウルというと、南洋の小さな島の名のように思っている人が意外に多いが、パプアニューギニアの東、赤道から南へ五度下がったあたりに、東北から西南にかけて500キロの長さで横たわっているニューブリテン島の東北の端にある街・港の名称である。
海峡を隔てたその東側から北にかけては、ニューアイルランド島という島があり、向き合ったこの二つの島には英本国の名がつけられている。第一次大戦まではドイツ領だったので、今でもこのへんの島々を総称してビスマルク諸島という名が残っている。
ニューブリテン島の大きさは日本で言えば九州ぐらいに相当し、さしずめラバウルは、北九州市あたりに位置しているということになる。
ラバウル南冥記 八木弥太郎
改行は、私。

現在は、ラバウルより、隣町のココポが、主たる街になっている。
火山の噴火により、街の大半が、壊滅したという。

当時は、ラバウル南飛行場、そしてココポがあった。

高い建物のない、田舎の街である。

新ラバウル空港は、ココポから、南に、車で20分ほどのところにある。

昭和18年1943年も暮れ近くになると戦局はとみに緊迫してきて、二ューブリテン島の各所にも米豪軍が上陸してきた。海峡を挟んでニューギニア島と対するツルブ地区あるいはマーカス岬など、九州にたとえれば、鹿児島や宮崎、熊本さらには大分あたりに相当する地点が激しい地上戦の場と化した。
そしてこれからの地域の日本軍は、兵力、火力、食糧すべての点で圧倒的に優勢な米豪軍の前に、一部は玉砕したが、生き残った者はラバウルへ向けて撤退することになった。
遠いところで500キロ、近いところでも200キロの道のりを一ヶ月から三ヶ月かかって引き揚げてきたが、文字通り死の行進だったようである。
飢餓、病魔、豪雨による川の氾濫、鰐、泥滞の道など、それらによって途中脱落した兵士の数は何千とも言われ、屍は累々として酸鼻をきわめたという。
八木弥太郎
改行は、私。

病気は、風土病とマラリアである。
戦うより、それによって、命を落とす兵士も、多かったのである。

私たちも、マラリア対策のために、蚊取り線香から、虫除けのスプレー、塗り薬を準備していった。

コータが、一晩中、蚊取り線香を、部屋で焚くので、私は、燻製になるのではないかと、思ったほど。

コータは、完全防御体制である。
私は、部屋の中では、上半身裸・・・
そんなの・・・やってられない・・・

さて、出掛ける前と、出掛けた後で、戦記を読む。
そして、出掛けた後の、戦記は、益々、身に沁みる。

日本側だけを、見るのではない。
敵国として、戦った、相手方の、兵士たちのことも、考える。

敗戦した日本は、確かに、大変な犠牲者を出したが、戦勝国も、多くの犠牲者を出した。
それが、皆、若者たちである。

過ぎた戦争の、是非、批判、評論・・・色々と、ある。しかし、その時点で、それに、直面した、若者たちの、心の内を、誰が知る。

大きな、歴史の波の飲み込まれたのである。
勿論、今も、大きな歴史の波に、飲み込まれている。

だが、戦争は、その大きな流れにあって、抗えない、不可抗力であった。

三度目の、慰霊の際に、私は、海の中に身を入れて、黙祷した。
すべての、犠牲者のために・・・である。

この黙祷は、歴史との、対峙でもある。

私は、別のエッセイにて、天皇陛下について、を、書いている。
ただ今は、第二次世界大戦の、開戦に到る状況を、見つめている。

避けられなかった、戦争という、意味を知ることになる。
そして、そこには、大国の思惑、国益・・・というものが、見えるのである。

更に、世界支配への、野心である。

特に、激しい問題は、人種への、偏見の問題である。
人種差別。
これが、戦争、また、植民地支配の底流にある。

だから、日本が、国際連合の際に、人種差別撤回を、訴えたことは、実に、画期的なことだった。
そして、それを、日本は、その身を犠牲にして、西欧のアジア諸国の植民地支配に、終止符を打った。

世界で、唯一、日本だけが、植民地支配に関しての、謝罪外交を繰り返してきた。
しかし、本来、謝罪すべき、欧米諸国は、一切の、謝罪は、無い。
それも、人種差別から、発していると、私は、思う。

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2011年06月24日

パプアの叫び 6

上陸してから丸一年たって初めて罹ったマラリアで、闇の中へ沈んでゆくような体験をした私は、「死」というものをそれまでとは違った目で見てゆくようになった。そのときはただ無性に淋しかったという思いだけが鮮やかだったが、それ以来は戦地での日常を、「死」の瞬間と「死」に近づく過程とはまったく違う別の世界なのだと思って過ごすようになっていた。
八木弥太郎

ニューブリテン島は、マラリアと、デング熱の産地である。
今でも、実に、危ない。

完全防備が必要である。
長袖、長ズボン、手袋、帽子・・・
勿論、私は、そんなことはしない。

いつも通り、着物か、浴衣を着ていた。
更には、Tシャツと、タイパンツ姿である。

部屋では、裸同然。

マラリアは、高熱が、三日間ほど続き、治る。
しかし、死ぬ人もいる。
体力の無い人である。
当時の、兵士たちは、食糧無く、体力も無くなり、死んでいった。

野戦病院といっても、洞窟を利用する。
薬もない。
ただ、治るのを、祈るのみ。

八木氏は、札幌から、出発して、はるか、六千キロの南の島で戦火の中を過ごした。
命令である。

有無を言わせず、命令を、生きる、兵隊たち。

確かに「死」に至る過程での肉体的苦痛や精神的苦悩は、それ自体恐ろしいと思うし、耐え難いもののように思う。しかし、たとえそれがそのまま「死」につながっていったとしても、「死」の瞬間というものはまったく別のものとして存在し、それは想像しているよりも簡潔で、単純で、ただ限りなく「淋しい」だけの世界ではないか。そう思うと、苦痛や苦悩の彼方にある「死」そのものが実に易しいもののように思われ、戦場生活における気持ちの支えにもなっていたようである。
八木弥太郎

戦争に参加した、多くの若者たちは、その「死」というものと、対峙した。
せざるを得無かった。

特攻隊のみならず、斬り込み隊・・・
すべて、命を捨てる覚悟で、向かう。

昭和19年(1944年)三月、闇の中に落ちていった私は、その後いったん意識を取り戻したものの依然重体のまま大隊本部へ送られ、さらにラバウル患者療養所通称「ラバ患」という、山腹に掘られた洞窟の病院に転送された。当時すでに死線を彷徨していた私は、ここで自分の人生で初めての極限に近い体験を重ねることとなった。
八木弥太郎

そして、多くの戦友の死を、見つめていた。

死に行く、戦友の顔を見つめて、彼は、ただ淋しいだけなのかもしれない、と、臨終の様を見つめていたという。

普通の人間の体温は朝は低く夕方は高いのだそうだが、そこでの私は朝の検温ですでに40度を超え、夕方には絶えず41度台、時には42度近くに達していた。
八木弥太郎

それで、狂い死にした、戦友もいたという。

治る、死ぬ、というのも、それぞれの、人の運なのか・・・

私は、空港での、待ち時間に、多くの職員と、仲良くなり、色々と、ブロークン英語で、話しを聞いた。
現在は、街の中だと、マラリアには、罹らないと言う。
ジャングルに入らなければ、大丈夫だと言った。

私としては、マラリアに罹って、死ぬなら、死んでいい・・・
どうせ、死ぬんだから・・・
マラリアの熱で、死ぬ体験が出来る、という、不遜なものだった。

そして、戦況は、悪化して行く中を、兵士たちは、生きるか死ぬかと、考えながら、日々を送る。
何せ、食べる物も、自分たちで、作らなければならない、状態に追い詰められた。
それを、一々、紹介することは、出来ない。

要するに、輸送船が、すべて撃墜され、沈没したのであるから、食糧も何もかも、無いのである。

戦争犠牲者は、兵士だけではない。
輸送船の人々も、海の藻屑となったのである。

私が入院している間に、中隊の主力は「ココポ」に近い「南飛行場」の周辺に陣して対空挺部隊となり、一部は海上照射隊として分隊単位でラバウル北、西海岸の各所に配置されていた。空を照らす部隊が、空から降下する、落下傘部隊やグライダー部隊を迎え撃つ地上戦闘部隊に変わり、照明灯は敵の上陸に備えて海面を照らす武器に変わっていた。
八木弥太郎

敗戦に近くなる頃は、敵の兵器の有様に、驚くばかりだったという。

戦車に対して、肉薄攻撃に絞られ・・・
つまり、人間が、爆弾を持って、戦車に体当たりして、攻撃するというものである。

それは、どこの、戦地でも、行われた。
最後は、体に、爆弾を巻きつけて、敵に乗り込むのである。
まさに、死を覚悟して、である。

負けると、解っていても、それ以外の方法が、無い。
戦い止め・・・と、言われるまで、それが続く。

無駄な死・・・
今だから、そんなことが、言える。
この、安穏としている、世の中で、戦争のことを、語るのは、至難の業である。


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2011年06月25日

パプアの叫び 7

ラバウル・ココポに滞在する期間は、五泊である。

その、四泊目の夕方、部屋に戻ると、まず、ライターが無いことに気づく。
そして、コータは、携帯電灯が無いことに気づく。

えっっっと、私は、お金を調べた。
すると、半分無いのである。

何度も、繰り返し、点検した。が、無い。

コータが、フロントに、それを伝えるために、部屋を出た。
ホテルのマネージャーが、別のホテルにいる、ジェネラルマネージャーに、相談すると、答えたという。

感情家の、私は、伝えるとは、何か、と、次第に感情的になる。
そんな、適当なことではない。

それで、私たちは、フロントに下りて、理由を言い、明日、ボスと、警察を呼べと、言った。

私は、この国と、日本の友好のためにも、ここに滞在し、更に、スタップの親切な対応に、とても、快くして、ラバウルのホテルに行かずに、ここに泊まっていると、言った。

その場にいた、事務所のスタップたち、全員が、納得した。
そして、明日、ボスと、警察を呼ぶと、約束した。

部屋に戻り、私は、再度、お金の勘定をした。
すると、お金を分散しておいたことに、気づいた。
お金は、無くなっていなかったのである。

あららら

それは、悪いことを、したと、再度、フロントに行き、それを誤る。
と、それから、マネージャーの態度が、少し変わった。
そして、翌朝、更に、態度が、強固になっていた。

貴重品などは、客の責任に帰すという、言葉である。
勿論、それは、十分に知っている。

だが、その対応に、私は、激怒した。

失った物より、客に対する対応に、文句を言った。
大声である。

更に、私は、嫌がるマネージャーを、部屋に連れて、説明した。
こちらには、何の責任も無いという、態度が、更に、私を激怒させた。

責任が無い。だから、お仕舞いではないだろう。
客が、紛失したという物に対して、客を大切に思うならば、せめて、その気持ちを汲んで、何らかの行為を取るべきである。

大声である。

大半の国で、経験したが、大声を嫌がる。
大声が、脅威になる。

私たちは、三つの、条件を出した。
一つ目は、警察に連れてゆく。
二つ目は、携帯電灯の、代金を支払う。
三つ目は、ボスと話しをさせる。

時間も、指定した。
だが、いくら待っても、返事が無い。
スタップたちは、ジェネラルマネージャーの所に、相談に出たというのみ。

要するに、取り合わないという、状況が見て取れた。

マネージャーが、私たちに、紛失したことに、同情し、更に、ベッドメークたちに、問い掛ける・・・等々の行為を欲した。

ホテル中、私の剣幕に、騒然とした雰囲気になったようだ。

時間を二時間過ぎても、連絡が無いので、フロントに下りた。
そして、マネージャーがいることに、更に、腹を立てた。

出て来なさい、と、私が言うと、叫ぶのは、嫌だ。出て行かないと、言う。

叫ばないから、出て来なさい。
ようやく、フロント前の、ロービーに出た。

そこで、私は、静かに、このホテルのスタッフの親切さと、礼儀の正しいことに、とても、感動し、ここに五泊することにしたのだと、言った。
そして、私たちは、あなたの、心使いが、欲しいのだと、伝える。

私には、責任が無い。
マネージャーは、女、おばさんである。

それは、よく分かっている。しかし、お客が、困った時に、どのように対処するのか、それが、問題だと、言った。

知りません・・・
それでは、ホテルとしての、サービス業は、成り立たないだろう。
責めて、警察に、一緒に行くくらいは、するべきではないのか・・・

私は、警察で、紛失したことを、証言して欲しいと・・・

延々と、話しが、続いたが、平行線である。
すると、漸く、ジェネラルマネージャーの所に、連れて行くと言う。

コータの携帯電灯は、高額なものだった。
いつも、旅のために、持参していたのである。

私のライターは、百円ライターである。
どうでもいい、もの、であるが、無くなったことは、事実だ。

ジェネラルマネージャーは、別のリゾートホテルにいた。

それも、女である。
しかし、何と明確に、私たちに、説明してくれた。

そして、出来ることは、ポリスに行くことだが、実は、こちらの、ポリスは、頭が悪く、書類を作るにも、二時間はかかる。
更に、私たちは、あなたたちの持ち物を見ていないために、何とすることも出来ない。
ただし、スタッフが、取ったとすれば、即座に、首にすることになっている。

私たちの、ホテルを気に入ってくれたことに、感謝する。
それで、ベッドメークたちを、調べて、報告する。

感情を害したことに、お詫びします。
それで、今夜のディナーを私から、プレゼントさせて欲しい。

すると、同行していた、マネージャーも、私も、到らずに、申し訳ないと、謝る。

そこから、取り合えず、ポリスに行くことになった。
ところが、本当に、ポリスたちは、頭が悪いようで、書類を書く者がいない・・・
それで、と、全く、へんてこな質問をしたという。

コータも、話しにならないと、戻った。
その際には、行かないと言った、マネージャーが一緒にポリスに入ったのである。

私たちは、それで、もう、満足だった。

だが、その報告を聞く前に、私たちは、ポートモレスビーに戻ることになった。

戦々恐々としたのは、ベッドメークたちだった。
首になっては、大変である。
そこにいた、ベッドメークたちは、白である。

その中で、一人だけ、当日にいた、メークの一人のおばさんが、別の仕事場に出て、いなかったのである。

疑いたくなかったが、彼女しか、後は、部屋に入れた者は、いないのである。
後味の悪いものだった。

私は、ベッドメークの人たちにも、支援物資を渡した。
だが、そのおばさんを、省いて、皆、差し上げますよと言ってから、受け取ったのである。
その、おばさんは、自分から、私が、男の子に渡したかった、立派なリュック型のバックを、欲しいと、言ってきたのである。

ホテルの名誉のために、書くと、その付近では、値段が安く、スタッフの対応が、実に、行き届いていた。
更に、朝食つきである。

街中にあり、わたしたちが、活動するのに、実に良い、場所だった。


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2011年06月26日

パプアの叫び 8

ココポの街での、支援は、あのポートモレスビーの危険に比べたら、全く問題ないもの。

私たちが、二つのバッグを抱えて、街に向かい歩く。
ハロー
ハロー
皆が、挨拶する。

一人のおばさんが、近づいて来た。
挨拶をして、何やら話しをしていると、これから何処へと、言うので、説明すると、何と、貧しい人たちは、病院にいると、言う。

皆、貧しいのだが、それ以上に、貧しい人たちは、病院にいるのである。
そして、おばさんが、8番のバスに乗って、行くといいと、8番のバスを止めてくれ、私たちの、行き先まで、運転手に伝えてくれた。

歩くには、遠いが、バスだと、すぐに到着した。
少し、道から外れた場所に、病院があったが、バスが、病院の前で、止まってくれた。

病院の前には、受付をしている人たちが、大勢いた。
更に、診療を待つ人たち。

私たちは、日の丸を掲げて、診療を待つ人たちの所に、向かった。

大人も子供もいる。
日本からの、プレゼントを持ってきました・・・
私が言うと、歓声が、上がる。

丁度、皆さんとは、金網の、柵で、隔てられているので、こちらと、向こう側になる。
一つ一つの、衣服を取り出して、それに、合う人に、手渡しする。
そして、次第に、熱が帯びてくる。

それっ、ミー
ミー
ミー

おばさんたちは、本当に元気である。
子供用のものは、子供に渡す。
遠くにいる、子供にも、大人の手を通して、渡される。

ほぼ全部を出したが、足りないのである。

最後に、フェイスタオルを取り出した。
すると、皆、手を出す。
すでに、後ろにも、人が集っていた。

限りあるもので、女性を中心に、手渡す。
日本語の入った、タオルである。

どこでもそうだが、タオルは、貴重品で、とても、喜ばれる。

最後に、バッグが欲しいと、言う人・・・
そこで、いつもの、バッグ二つを差し上げることに。

支援物資を入れていた、バッグである。
だから、残ったものは、大きなバッグと、日の丸の旗だけになった。

次に来た時は、もっと、沢山もって来ます
私が言うと、歓声と、感謝の言葉である。

戻る私たちの、背に、更に、言葉を書ける。
サンキュー

道に出て、八番のバスを待つことにした。
すると、一人の男が、子供用にと、上げた、シャツを持ってきて、私に、サインして欲しいと言う。

だが、ペンが無い。
すると、彼は、その道の前に、売店があるという。そこに行くことにした。
何と、カトリック教会の売店だった。

そこで、ペンを借りて、サインをする。
木村天山と、その下に、TENと、書き入れた。
男は、とても、喜んだ。

そして、次に来た時は、電話をくれと、番号を言うが、残念ながら、覚えられない。
オッケーオッケーを、繰り返して、別れた。

8番のバスは、多く、何台も来る。
その一つに、乗る。

そして、街中にある、バス乗り場で、降りることにした。
その前には、私たちの行く、スーパーがある。

そのまま、スーパーに買い物に行く。
毎日の食事は、そのスーパーの、フードコーナーのものを買って、食べた。
要するに、弁当である。

水は、毎日、買う。

汗だくで、ホテルに戻り、すぐにシャワーを浴びる。
水シャワーだが、ぬるい。
暑さで、水も、温くなっているのだ。

かえって、少し冷たいのが、心地いい。

ホテルスタッフたちも、私たちが、何をしているのか、理解しているので、親切である。
何か、現地の言葉で、私たちに、感謝の言葉を言う。

一般的に、英語だが、現地の人たちは、現地語で、話す。
最初の、スクールでは、現地語での、教育をし、中学から、授業が、英語になるという。

兎に角、支援を終えて、慰霊を終えると、すべてを、終わる。
慰霊は、後、二回することにしていた。

最初に、慰霊をして、次に、支援活動をする。
そのように、決まっている。

街の人たちの着ているものは、実に、使い込んでいて、更に、汚れている。
皆、そうだから、気にしないようである。
私から、見ると、皆、貧しいのである。

ボロ布を着ているという、感じである。
だから、私は、自分たちの、着替えのものまで、最後に、渡すことになる。



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2011年06月27日

パプアの叫び 9

昭和二十年(1945年)八月、戦争は終わった。日本は敗れた。しかし我々には敗れたということがどういうことなのか、日本が、国自体がどうなっているのか、それがまったくわからなかった。わかりようもなかった。祖国は遠い。一体これからどうなるのか、何もわからなかった。最初は終わったということさえよくわからなかった。
八木弥太郎

そして
見上げる椰子の葉の間にのぞく青空は昨日のものとは変わっていないが、その空から一切の音が消え、森閑とした静けさだけが残った。その静けさに戦争は本当に終わったんだなという実感があった。
八木弥太郎

それから、武装解除が、行われ、日本軍の武器が、ラバウル・ココポの沖合いに、捨てられた。
そして、生き残った兵士たちは、捕虜として、扱われることになる。

しかし、捕虜になっても、マラリアで、命を落とす者もいた。

捕虜生活は、毎日の、肉体労働である。

各人の行く先や課せられる仕事は一定していなかった。豪州軍の使役を割り当てられた者は、相手が日本軍をひどく憎んでいたので、行く先々で苦労をした。仕事の中味もきつかったが、土を掘っていると後ろから腰を蹴られたり、足もとに自動小銃を撃ち込まれたりした者もいた。彼らとすれば交戦時の延長で、鬱憤を晴らしているつもりなのだろうが、こちらから見れば抵抗できない者への八つ当たりとしか映らなかった。
八木弥太郎

更に、食事である。
そこで、ある意外なことが起こったと言う。
戦勝国の中国兵も、そこにいた。

日本兵が、飯盒を開けて食べていると、一人の中国兵がやってきて、飯盒の中を見て、その甘藷を捨てて、こちらへ来いという。
中国軍の幕舎であり、地面にゴザが、敷いてあり、大きな鍋が二つ置かれていた。
一つには、真っ白なご飯、もう一つには、肉と野菜を煮込んだもの。

兵隊たちの、食べた後の残りである。
それを、食べろという。

更に、残ったものを、持って、他の兵士にも、食べさせろと、言った。

その中国兵は、日本軍と、戦った時の傷を見せたが、こう言ったという。
私は、日本を怨んでいない。中国と日本は、隣同士の国である。皮膚の色も同じだ。これから、互いに、仲良くしてゆかなければならない。日本は、必ず、立ち直る。我々は勝ったといっても、決して、白人の軍隊を味方だと、思っていない。と。

米、豪、中、そして、英国、オランダ軍もいた。
その中で、中国兵は、差別を受けていたという。
中国軍は、おまけ、で存在するといった、雰囲気だったと、八木氏は、書く。

八木氏は、昭和21年4月14日に、帰還する船に、乗船した。

嘘のような、出来事に思えたという。

ところが、ここで我々は大変な光景を見てしまった。船が港を出て岬をまわり始めたとき、目の前に現れたのは、山麓に鉄格子を張り巡らした中で手を振り号泣している大勢の日本兵の姿である。戦犯と見なされ収容された将兵がいるということは聞いてはいたが、こうして見るのは初めてだった。
一瞬甲板はしーんとなり、声が止まった、やがて「元気でいろよー」と怒鳴る声がし、それをきっかけに口々に励ます声が叫び声となって沸き上がった。その声は船が岬をまわり終わって、陸地の人影がまったく見えなくなるまで続いた。
八木弥太郎

帰還する者、残る者

多く、引用したい箇所があるが、八木氏の、考え方を記して、終わる。

一方また、私の持つこの思いは、かつての戦争を知らない世代の人々から見れば、過去の別世界の人間の繰言としか映らないであろうし、何故そんなことにそれほどこだわるのか、理解に苦しむといわれてしまうものなのかもしれない。ましてや戦争がすでに遠い過去のものとなった今日では、歴史として戦争批判や議論だけは盛んになっても、同時の若者たちの「無念」につながる心の深層にまで思いをいたすことは少ない。それどころか、そんなことは戦争論議からはずれた抹消のことではないかとさえ言われそうである。
しかし、当時の大部分の若者たちは、いわば濁流のような大河に呑み込まれながらも、抗する術も知らず、やがて茫洋たる大海に出られる日の来ることを信じて戦場に赴いたのである。・・・

戦場という有無を言わさぬ場に身を置き、運命を共有する集団の中で命を賭す以外に途のなかった苦しみ、その苦しみを抱いて戦った若者たちの心の在りようは、後世の論者の憶測の域をはるかに超えている。
私が「無念」としか言い表せないこれら死んだ若者たちの心の傷跡は、あとから「殉国」というようなひとからげの賛辞でたたえられようが、あたかも当然であったかのような「反戦」という歴史批判の言葉の中で悼まれようが、けっして消えることはないし、そんな騒々しい意味づけをしてもらっても喜ぶはずがないと思っている。
一緒に戦場にあった者としては、ただただ「死なせないでやりたかった」と思うばかりで、言ってやれる言葉は何一つない。生きていてこそ人生だったと思うし、生きる自由を失い、自分ではどうしようもなかったたった一つの人生の喪失に対して、何をどう言ってやったところで慰めにはならないと思っているからだ。
八木弥太郎

戦争を知らない世代の人たちには、こうして死んでいった当時の若者たちの「無念さ」を踏み付け踏み固めた歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれが貴重な生をうけているのだということだけは知っていてもらいたいと思う。
八木弥太郎。

八木氏は、俳句を得意としていた。
戦場でも、俳句を作っていた。

帰還し、祖国に帰ってからも、病魔に冒され、それでも、生きる事が出来た。
人生の後半になって、はじめて、当時のことを、書いておくべきだと、筆を取られた。

この手記によって、私は、知らないことを、知る事が出来た。
感謝する。

帰らばや 遺品(かたみ)なれども 雲の峰
八木弥太郎

次ぎは、東部ニューギニア戦線に、慰霊に行くことにしたい。

posted by 天山 at 00:00| 旅日記 パプアの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月28日

パプアの叫び 10

ラバウル、ココポから、ポートモレスビーに、戻り、二泊して、帰国することにしていた。

次ぎのホテルは、空港に近い、街から少し離れたホテルである。

夕方、モレスビーに到着し、ホテルに電話をして、車を待つ。
夕暮れ時は、暗くなるのが、早い。

車に乗って、街を走ると、到る所が、暗い。
そこでは、男たちが、たむろする場所が、多々あった。
これでは、危険である。

襲われたら、決して逃げられない。
夜間の外出は、しないで下さいとの、勧告であったから、納得した。

一番安い、ツインの部屋である。
部屋には、両側に窓があり、開放感がある。
しかし、窓には、鉄格子である。

遅く着いたので、食べ物などを、用意しなければならない。
そこで、ホテルに頼み、タクシーを呼んでもらう。
タクシーに乗ることも、危険と、言われているので、ホテルに確認する。

スーパーに買い物に行き、戻る。
料金は、30キナ、120円であるが、随分と高い。
安全料である。

大量に、買い物をした。二日分の食糧である。
それでも、ホテルのレストンを使うより、十分に安い。

パン類が、多かった。
弁当も、買ったが、長く持たない。
その夜に、食べる。

翌朝、私は、一人で、付近を歩いた。
ホテル近くに、スラムである、セトルメントという、地区がある。
そこには、部族であった人たちが、住む。
危険なのは、違う部族の人たちも住むからである。
トラブルに、巻き込まれる。

決して、中に入らないようにとの、注意である。

だが、私は、後で、コータと一緒に、セトルセントの中に入った。

皆さんとても、人懐っこいのである。
私たちに、皆さん、挨拶する。

そして、奥に入って行く。
歌が聞える。
興味深くて、その歌の集会の前に出た。

朝から、ビールを飲んでいるという。

セトルメントは、政府が、水と電気を無料で、与えているという。

私たちが、最初に挨拶した、人たちと、奥にいた人たちは、部族が、違った。
そこで、問題が起こった。

私と、コータが、歌う中に入って、挨拶したが、一人の男、ボスである、が、立ち上がり、何か言う。
英語でないので、意味が解らない。

一緒に付いてきていた、最初の部族の人に、噛み付いている。
要するに、何故、俺の所に、最初に来なかったのか、というものである。

写真も、まず、俺たちから、写すべきだ・・・

ああ、こういうことだったのか。
私たちは、静かに、元の途を戻る。

唯一、私たちが、大きな騒動に巻き込まれなかったのは、最初から、日本人であることを、明確にしていたからである。

パプアニューギニアと、ジャパンは、ベストフレンド・・・
と、言いつつ、中に入っていったのである。

男たちが、皆、親しく、握手をする。
更に、子供たちも、出てきた。
皆で、写真を撮る。

次に来る時に、子供たちに、プレゼントを持ってくるね
そう言うと、大人たちが、サンキューと、繰り返した。

この行為は、自業自得であるから、何か起これば、私たちの責任である。
単なる、興味で、彼らの住居空間に入れば、非常に危険である。

そこで、二人の若者が、私たちに、着いて来た。
山を案内しましょうか・・・
だが、やんわりと、断った。
後で、ガイド料などを、請求されることもある。

だが、二人と、更に、ニ三人の子供たちは、ホテルの門の前まで、着いてきて、その間、色々と、話しをしたが、ホテルの門の前からは、動かない。
それ以上、中に入ることは、出来ないのだ。

私たちは、再会を約束して、別れた。

その日は、それだけである。
後は、ただ、休むことにする。

ホテルにいる間は、安心である。
何処かしこと、ガードマンが立つのである。

兎に角、安全のために、金を使うという、状況を、目の当たりにしたのである。
日本では、考えられないことである。

部屋の、一万円ほどの、料金の、大半が、安全料なのである。

水と、安全は、タダではなかった。

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2011年06月29日

パプアの叫び 11

夕方近くまで、部屋で、休んでいたが、何となく、物足りない。
そこで、出掛けることにした。
暗くならない前に。

朝のスラムとは、逆の道を行くことにする。
そして、人々の衣服を見て、本当に、必要であることを、感じていたので、私は、コータに、着替えのものを、すべて出すようにと、言った。
私も、着替えの衣類を出した。

すべて、渡して行こうと思った。

それは、正解だった。

道々、行く人に声を掛けた。
必要ですか・・・
おーーーセンキューセンキュー

何度も、礼を言われる。
最後に、若者たちに、渡した。
すると、彼らは、私たちに、抱き着いて来た。

傍にいた人たちも、ありがとう、ありがとう、を、繰り返す。
皆と、写真を撮る。
それも、実に楽しい。

次に来る時は、もっと、沢山持ってくるね
私が言うと、歓声が上がる。

闇が降りるまでに、ホテルに戻った。

そして、昨夜買った、パンなどを食べて、夜が終わる。
さっさと、寝る。

翌朝、コータが、散歩に出た。
帰国の日である。
ホテルをpm12:00に出る。

十分に時間がある。
チェックアウトは、am10:0であるが、日本のホテルのように、厳密ではない。適当である。

私たちは、ぎりぎりまで、部屋にいた。

さて、コータが戻って、とんでもない人と、出会ったと言う。
歩いている、向こうから、声を掛けてきた。
日本人・・・と尋ねた。
そうですと、言うと、とても、親しく話し掛けてきた。

そして、私たちの活動のことを、言うと、彼は、何と、陸軍の軍曹であり、更に、次に慰霊に出掛ける予定の、東部ニューギニアのマドナの出身だというのである。

更に、コータに、次ぎは、私が全面的に協力する。
故郷には、妻がいて、学校で、教えている。
子供たちには、衣服、文具も必要なので、是非、支援して欲しい・・・

あーらっ
こんなことに、なるんだ・・・

陸軍が、支援のバックアップをしてくれれば、危険な所も、平気だ。
何と言う、僥倖か。

更に、彼は、連絡先を書いて、自分のすべての情報を、コータに渡したという。

軍の連絡先から、住まいの住所、連絡先・・・・

最後に、このようなことになるのは、大よそ、いつものことである。

そして、更に、である。

空港で、搭乗手続きをしていると、一人の男性が、声を掛けてくれた。
とても、静かに話し掛ける。

日本の方ですね
私のポーチの、日の丸を見たのだ。

そうです
日本のどちらですか
横浜です
彼は、大きく頷き、実は、私は、横浜ジャイカの仕事を手伝っています
へーーー
また、こちらに来ますか
ええ、慰霊と、支援に来ます
と、言うと、彼も、すべての連絡先を書いて、私に差し出し
何かあれば、連絡ください。ご協力します
である。

いつも、どこかで、協力者が、現れるのである。
これは、私の運である。
運だから、理解する何物も、ない。
不思議なだけである。

ジャパニーズ・テンです。
忘れられない、名前になる。
日本人・テンなのである。

あの、一番危険な場所での、支援の際に、人々は、コブシを上げて、
ジャパニーズ・テンを繰り返した。
大統領選にでも、出る勢いである。

パプアニューギニアは、建国35年。
人々は、国民意識が希薄である。
まだまだ、国家幻想を作り上げるには、時間がかかる。

日本は、建国2671年である。

美しい神話があり、更に、それを確定する、天皇が、存在する。
私は、美しい、国旗、日の丸に、守られて、この活動を続けられる。
何と言う、幸せか。

posted by 天山 at 00:00| 旅日記 パプアの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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