2011年07月27日

タイ・イサーンの姿

今回の旅は、タイ、バンコクから国内線で、東北部・イサーンに行き、そこから、バスにて、国境を越えて、ラオスに入る計画だった。

ところが、私たちは、ラオス行きを、断念した。

バンコクで、一日を、過ごして、と・・・
その間に、軽い熱中症になったようである。
更に、私は、出発の日の、朝まで、眠らずにいた。
あることで、色々と、書き込んでいたからである。

それもあり、タイに、夕方到着し、いつもの、マンションホテルに、到着して、ダウンした。外に出る気にもなれず、私は、日本から持参した、おにぎりを食べて、寝るのが、精一杯。

熱中症と、疲労・・・
イサーンの、ウボン・ラチャタニーに到着しても、それは、変わらなかった。
しかし、取り合えず、翌日の一日を、休んでいた。
それでも、いつも通りの状態に、取り戻せなかった。

であるから、四日目の朝に、ラオス行きを断念した。

とても、残念だった。

だが、タイ、東北地方である、イサーンは、最も、貧しい地域である。
更に、ウボン・ラチャタニーという町は、イサーンの中心的町である。
では、その中心的な町を、見て、イサーンの状況を理解したいと、思った。

丁度、ラチャタニー滞在の間に、総選挙が、行われていた。
その投票速報を、イサーンの食堂で見た。

この、イサーンは、前首相タクシンの、支持基盤である。
更に、北部地方は、タクシンの出身地であるから、その両方の地域が、おおよその、支持基盤となる。
そして、貧しい。

タイで、最も、人口が多く、投票権の多い場所。
その、二つを手に入れれば、選挙に勝つのである。

そして、タクシン派が、勝った。
それについては、後で、詳しく書く。

私たちは、市内と、近郊の村々に出掛けて、衣服支援をすることにした。

勿論、手引きする人はいないから、暗中模索の中で、する。
まあ、いつものことである。

ラチャタニーには、五泊した。
到着から、三日目の日、活動を開始した。

その間に、私は、ベッドメークのおばさんと、実に、親しくなった。
そこで、コータに、おばさんと、話しをして欲しいと、頼み、支援が必要な場所を、尋ねることにした。

朝、出勤した、おばさんを、部屋に招いて、尋ねた。
まず、おばさんの、家族のことから・・・

おばさんは、どうして、そんなことを、聞くの・・・と、言う。
そこで、実は、私たちは、衣服を皆さんに、差し上げるために来たと言う。
おばさんは、それなら、私が、その場所に連れてゆくと、言うではないか。

おばさんが、手の空く時間、昼過ぎに、トゥクトゥクに乗り、出掛けることにした。

こうして、いつも、地元の人のお世話なる。
それは、また、実に、よいことだった。
地元の人と、一緒に行動することは、それだけで、信用される。

その、支援をすることによって、私たちは、タクシン時代の、イサーンに対する、政策を聞くことも、出来た。
また、それは、大規模な、選挙違反の話にもなる。
この、おばさんを、参考人にして、タイの選挙管理委員会に、連れて行けば、今回の選挙の、結果は、ご破算となるはずである。

おばさんは、まず、自分の住む地域に、私たちを連れた。
私は、その場所を見て、それほど、貧しさを感じなかった。
何せ、建物、家が、立派なのである。
しかし、それが、大問題だったのだ。
それを、後で、おばさんから、聞くことになる。

兎に角、そこで、衣服を広げて、おばさんが、皆さんを呼んだ。
老若男女が来た。

子どもたちも、来て、靴を見て大喜びしていた。
それは、親たちも、同じである。

だが、この支援は、二度目である。
実際は、その前に、孤児院に出掛けている。

それは、後で、書く。

兎に角、皆さんに行き渡り、私たちは、次の場所に行くことにした。
だが、おばさんは、仕事中であるから、そこで、ホテルに戻ると、言う。
すると、皆さんが、私たちに、障害者の施設に行ってくれ、と言うのではないか。

その通り、障害者の施設に行くことにした。
トゥクトゥクの運転手に、その旨を告げた。

ここで、書きたくないが、その運転手が、次の場所に行くなら、倍の料金、200バーツだと言うのである。
本当は、100バーツでも、高いのだが、彼らは、外国人から、少しばかり、高く取っていないと、たいした、利益にならない。
だが、倍とは・・・

私は、150バーツと、コータに言わせた。
すると、運転手は、すぐに、オッケーと、言う。
彼も、疚しい気持ちがあったのだろう。

そして、障害者施設に向かう。
そこで、私たちは、大歓迎を受けた。

2011年07月28日

タイ、イサーンの姿2

障害者施設は、実に立派な建物だった。
しかし、中は、がらんどうである。

私たちが、到着した時、一人の女性が玄関にいた。
挨拶すると、挨拶を返す。

運転手が、私たちの、目的を話すと、女性は、急ぎ、施設の中に入った。
私たちは、バッグを持って、その後を追った。

すぐに、大きな部屋がある。
そこに、車椅子に座った、二人の女性がいた。
挨拶すると、嬉しそうに、手を合わせて、正式の挨拶を返す。

奥の方から、続々と、人が出てきた。
全員女性である。
三人の女性が、先生だった。

とても、喜んだ。
何せ、衣服を渡す前に、写真を撮りたいと言う。
更に、衣服の支援は、初めてのことだと、言う。

写真を撮り終わり、早速、私たちは、衣服を一つのテーブルの上に、乗せた。
持参したもの、すべてである。

皆さんの、目が輝く。
でも、慣れていないので、ただ、見つめるだけである。

私は、一つ一つを、取って、それぞれに合うサイズを、体に当てて、差し上げた。
皆さん、はにかむ。

一人の先生が、何か言うと、それぞれが、手を出し始めた。
30分ほど、そうして、手渡しをした。

そして、また、私たちも、写真を撮ることにした。
日の丸を掲げて、皆さんと、撮る。
全員揃っていないとのことで、残ったものも、欲しいと、先生が言うので、そのまま、テーブルの上に、置いてきた。

最後に、一人の先生から、
いつでも、いらしてください。何も、私たちに、プレゼントがなくても、いらしてください。心から、歓迎します
コータが、タイ語が、出来るのが、本当に幸いした。

私の言葉も、しっかりと、タイ語に、訳されて、伝わる。

実は、到着した、日、私たちは、孤児院にも、出掛けた。
それは、空港からの、タクシーに乗った時に、運転手に尋ねた時、運転手が、孤児院があると、言ったからだ。
しかし、私は、タクシーだと、料金が高い、トゥクトゥクにしようと、思い、その後で、トゥクトゥクの運転手に言うが、誰も、孤児院の場所を知らなかった。

しかたなく、タクシーの運転者から貰った、電話番号に、電話した。
すると、運転手が、ホテルまで来て、説明するという。
つまり、仕事が欲しいのだ。
自分の車を使って欲しいがために、ホテルまで、やってきた。

本当は、夕方、子どもたちが、いるであろう時間帯に、伺いたかった。
が、運転手が、来てしまった。

昼過ぎである。
しかたなく、料金を交渉して、出向くことにした。
200バーツは、とても、高いと、知っているが、しかたがない。

市内にある、孤児院は、二人の女性によって、建てられた。
更に、支援も二人の女性によってである。

私たちが、玄関にいた、女性に、衣服支援を申し出ると、本当に、感激した面持ちで、両手を合わせて、ありがとうございますと、言った。

何と、支援を受けるのは、初めてと、言うのではないか。

14名の子供たちが暮らす。
10歳から、高校生まで。

彼女は、全員の大きさを知っていて、私が取り出すものを、一つ一つ、確認し、それは、受け取ります、それは、小さいですと、言い、区分けしつつ、受け取った。

二人の女性以外からの、支援は、無く、高校を卒業した、子どもたちが、仕事をして、支援をしてくれるという。

一番、必要なものは、何ですかと、問うと、衣服と、文具だと、答えた。
それでは、次に来た時に、文具も、持ってきますと、私が言うと、両手を合わせて、コープクンカーと、感謝する。

最後に、写真を撮る。

彼女と、並び、日の丸を掲げる。

私は、本当は、子供たち一人一人に、渡したかったのですと、言うと、次は、是非、そうしてくださいと、答える。

実は、市内といっても、一部の場所だけが、建物が新しく、町並みとして、整えられているのが、ウボン・ラチャタニーである。

更に、大型の建物の、建設が続いている。
これは、前首相タクシンの、政策が、イサーンの主たる町として、機能させたいとの、計画から、そのようになった。

実際、ホテルのベッドメークのおばさんから聞いた話しは、すべて、その地区の家を建てるというもので、政府の支援金と、15年で、30万バーツを返済するというもの。
おばさんによると、一ヶ月、日本円で、一万から、二万の収入の人たちが、15年で、30万バーツ、90万円を返すというのは、大変なことで、皆、家は、立派でも、とても、貧しいと、言うことだった。

そして、その地区を、抜けると、大変な有り様なのである。
それは、コータが、見つけた。
目立たないように、森に隠れた処の、家々は、まさに、イサーンの貧しさを表しているものだった。
私も、バンコクに戻る前日の夜に、タクシンが造った、大きな橋の下の、家々を訪ねたが、それはそれは、驚くほどの、家、いや、小屋だった。

本当に、驚いた。

見苦しいものは、隠して、人が見るであろう場所は、調えると言う・・・
呆れた。


2011年07月29日

タイ、イサーンの姿3

私たちの、泊まったホテルは、いつも通り、安いホテル。
350バーツ、千円である。
だが、昔の造りで、部屋が大きく、エアコンも、温シャワーもある。

そして、目の前は、市場である。
それが、大変良かった。
市場には、屋台がある。そこで、一日一度は、食事をした。
30バーツ、90円で、山盛り食べられる。

ラオスで、三泊の予定が、ならなくなり、私たちは、五泊することになった。
その間に、オーナーから、その家族、従業員たちと、実に親しく付き合った。

特に、ベッドメークのおばさんは、実に親切だった。

朝早く起きる私は、隣の、高いホテルの朝食の時間に行き、コーヒーを頼む。
それを、外のテラスで飲みつつ、タバコをふかす。

朝は、市場に活気がある。
人々は、市場に買出しに出る。
野菜、魚、肉が、売られる。
果物のカットしたものがないのが、残念だった。

ホテルに、そのままを買ってきて、食べることはできない。
バンコクなどの、都市なら、必ず、カット果物の、屋台がある。
10バーツ、30円で、食べられる。

田舎の町の人たちは、英語は、通じない。
更に、タイ語も、違うという。
ラオス語に近い言葉である。というのは、ラオス語が、ここから、出たと、いう。
イサーン語である。

更に、イサーンは、タイ演歌の発祥の地。
モーラムといい、タイ全土で流行る。

モーラムの流れている処に、イサーン人ありということになる。

日本の演歌に影響されたものである。
だが、タイの人は、それを知らない。

ウボン・ラチャタニーは、勿論、寺院が多いが、モスリム、カトリックも、入っていた。
ここで一つ、バンコクから、遠くなると、仏教寺院が、ヒンドゥーの影響を大きく受けているということに、気づく。

仏陀ヒンドゥーと、呼ぶ。
例えば、寺院の壁面に、ヒンドゥーの神々が、彫られていたりする。

そして、この、仏陀ヒンドゥーを批判することは、出来ない。
とても、微妙な問題である。

ただ、一つだけ、気になることは、転生輪廻を信じて、現在の有り様は、過去生によるものであり、来世を幸せにするためには、タンブン、つまり、寺に、布施をしなければならないということ、である。

貧しい人を、助けるより、寺に寄付すること・・・
これは、現在のインドの考え方でもある。

更に、本当に苦しい人たちも、そのように、信じる。
そして、信じることで、辛うじて、生きられるという、事実。

ここに、問題がある。

だから、タイの福祉事業が、寺院に託されるということも、理解できる。
寺は、多くの布施を受けて、莫大なお金を得る。
それで、福祉政策を行わなければ、終わった思想となる。

私たちが、廻った、施設は、皆、個人の寄付によって、成り立っていた。
国が、政府が、福祉というものを、考えるべきだが、まだ、タイは、遅い。

それに比べると、日本とは、雲泥の差である。

日本の福祉事業は、充実している。

孤児が、街を一人で、うろつくことはない。
更に、物乞いもいない。

タイでは、それらの、人たちが、溢れるように存在する。

私は、町の一部を、バッグを持って廻った時、物乞いの人たちを、見た。
知的障害のある人、高齢者が、多い。

驚いたことは、一人の、知的障害の男に、衣服を差し上げた。
彼は、それを、受け取ったが、私が、彼の物乞いの袋に、お金を入れると、何と、衣服を返したのである。

その意味が、解らなかった。
お金を与えなければ、衣服を貰った。
お金を与えられたので、衣服まで、貰わない・・・

そこで、高齢の男に、衣服を差し上げて、お金を渡さなかった。
すると、彼は、正式な挨拶をして、私に感謝し、それを受け取った。

彼らにも、分相応という、感覚が、自然と身につけているのか・・・

だが、転生輪廻の考え方が、誤りであることを、伝えるのは、至難の業である。

単に、一人の人間が、生まれ変るということは、ない。
その人間の、霊が、その一部が、分霊して、新たに生まれる。
それを、理解するのは、容易ではない。

霊とは、四つの、総称であり、それを、魂と、呼ぶ。

私が、生まれ変って、次の人間になるということは、有りえないのである。
だから、この人生が、最初で、最後の人生なのである。

そして、簡単に言えば、未熟で、まだ、現世に在り、知るべきことがある、霊の一部分が、転生するのである。
分霊として。
一人の人間には、多くの分霊があると、考えてもいい。
要するに、肉体は、借り物なのである。


2011年07月30日

タイ、イサーンの姿4

いつものことであるが、慰霊と支援の旅では、水を多めに買う。
タイでは、日本の水道水に当る水が、安い。
一リットルで、5バーツ、15円。
更に、ミネラル水は、1,5リットルで、15バーツ程度、45円である。

兎に角、暑い国なので、水は不可欠。
当たり前だが、一日、2リットルは、飲む。
今回は、水分の吸収を良くするための、粉も、持参していた。

現在の、タイでは、屋台で出される水や、氷も、安全である。

屋台でも、水を出してくれる。
氷が入っていると、最初は、飲まなかったが、今は、平気で飲む。
安全であると、知ったからだ。

市場の、屋台に、毎日出掛けて、昼の食事をした。
30バーツ、90円、で何でも食べられる。
最初は、無愛想なおばさんだったが、通ううちに、笑むようになった。
更に、食べ物の説明も、してくれる。
勿論、意味は、解らない。

時には、味見をさせて貰う。
これは、私が作ったんだーーー
どう、おいしいーーー
そんな、感じである。

最後の日は、バンコクに戻る日である。
私は、空港で食べるために、弁当にして貰った。

カムバック・バンコク
エアポートで、食べると、仕草で、伝ええた。
おばさんは、頷いて、二人分の、焼き飯を作る。

なんとかこんとか
それで、なんとかこんとか・・・

おばさんが言う。

付け合せの、野菜と、タレをつけてくれた。
そして、私たちに、使い捨てのスプーンではなく、金属のスプーンをつけてくれた。

そんなことは、初めてだった。
そして、おばさんは、
なんとかこんとか、なんとかこんとか・・・と、言う。

私は、また、来ます。
元気で・・・
サバイーね、と言った。

ゼスチャー入りであるから、何とか伝わったと、思う。
そして、もう一度のこの町に来ると、決める。

いつも、そう思う。
人の情けに、また、来ると、思うのだ。

こうして、私は、13カ国の人々と、出会った。
そして、日本と、日本人に対する、態度を、知った。

書きたくないが、このような街に日本人が、来るのは、女を買うためである。
そういう、珍しい人もいるのだ。
こんな、辺鄙なところに、女を買いに来るという・・・

トゥクトゥクの後ろに、日本語の看板がある。
マッサージの広告である。
マッサージは、風呂であり、売春の場所である。

単なる、マッサージと、それらは、別物。
ただし、稀に、どちらかと、解らないこともある。

私たちは、明確に、目的を示したことが、良かったのである。

そうでなければ、トゥクトゥクのおじさんに、強引に誘われる。

売春目的の、日本人は、私たちのように、ケチらない。
そのために来ているのだから、大枚なお金を、持って来る。

200バーツ、600円程度の、料金なら、問題なく、支払うだろう。

更に、後ろ髪を引かれることは、前日の夜、コータが見つけた、橋の下の家々を廻ったことである。
もう、なけなしの、衣服、私のシャツなどを持って、それを、手渡しに出かけた。

町から、ほんの少し離れた処に、本当の、イサーンの姿があった。
小屋のような家、家、家である。
更に、川向こうの森に隠れた場所は、皆、そのような家が、立ち並ぶという。

コータは、本当に残念だと言う。
最初に見つけていれば・・・
しかし、一見、立派に見える家も、内情は、同じなのである。

タクシンの政策は、東北部、イサーンの人々を、支配する。更に、雁字搦めにして、票にする。

今回の、選挙も、すべて、金をばら撒いた。
一人、300バーツから、500バーツを渡されると、ホテルのベッドメークのおばさんが、言う。

貧しい人たちは、今日、明日のことで、精一杯である。
今日、子どもに、食べ物を・・・
来年の、5000バーツを待てない。
その、弱みに付け込むのである。

川向こうに、膨大に広がる、長屋のような、小屋に住む人たち。
次ぎは、その場所に行こう。

だが、タクシーも、トゥクトゥクの運転手も、誰一人として、その場所について、言わなかった。何故か。
それも、解らない。

2011年07月31日

タイ、イサーンの姿5

ウボン・ラチャタニーで、すべての支援物資を渡して、私たちは、バンコクに戻った。

そして、四泊する。
その、二泊は、ルンビニ公園近くのホテルである。
700バーツ、2100円である。
都会のホテルでは、とても、安い料金だ。

だから、日本人は、一人も見えない。
大半が、欧米人たち。それも、男たち。

何故か。
七対三の割合で、女を買う、男の子を買うのである。
七が、男の子を買う、ゲイの男たち。
その付近は、実にゲイが多いエリアである。

さて、私は、ルンビニ公園にて、タイ騒乱の、デモの際に、軍と衝突した、赤シャツ組と、日本人カメラマンの、慰霊を行うことにした。
約、60名以上の死者数である。

ラマ四世通りである。
通りでは、行えないので、公園の中で、行うことにした。

一日目は、休む日なので、出来るだけ、外に出ずに、部屋にいた。
バンコクは、相当な暑さである。
一時間も出ていては、完璧に熱中症になる。

食事と、水を買うために、通りに出る。
食事は、庶民の店である。
そこは、扉なく、暑いまま。だから、食べたら、すぐに、ホテルに戻る。

安いホテルだが、部屋は広い。
更に、予約した時に、ベッドが一つで、テレビ無し、バスタブ無しだったはずが、部屋には、ダブルベッドと、シングルベッドが、一つずつある。
本当に、適当なのだ。大変助かった。

一番安い部屋ということだったが、意外に違った。
100バーツ追加すると、テレビがあるというが、私は、テレビを見ない。

適当なついでに、私は、忘れ物をした。
タイパンツと、風呂敷である。
だが、後で、気づいて、電話をしたが、ありません・・・である。
次に、泊まった時まで、保管してもらおうと思ったが・・・

曖昧で、適当なタイ人・・・
しかし、それは、イサーンには、言えない。
あくまでも、バンコクなどの都市部である。

翌日の、夕方四時、公園に出掛けた。
しかし、太陽の位置は、日本の二時頃の状態。
暑い、暑い・・・

急いで、公園の中に入り、木陰に入る。
一本の枝を取り、御幣にする。

そして、祈る間、太陽を拝する。

黙祷。
ただ、黙祷。

そして、公園の不穏な空気を、清め祓う。
夜は、とても、危険になる場所である。

アル中、薬物中毒・・・
売春婦が立つ。

そして、戻りかけた時に、目にした、オブジェ。
近づいてみると、日本の国旗が、刻まれた金属の椅子。

真ん中に、亀の像があり、その周囲を十二正座が、取り囲む。
そして、その逆に行くと、もう一つの椅子があり、タイの国旗が。
よく見ると、現王様の、誕生日が記されてある。
そこで、もう一度、戻り、日本の国旗の下を見ると、現天皇、今上天皇の誕生日が、刻まれているではないか。

天皇と、王様は、椅子で対座しているのである。
友好のオブジェだった。

日本と、タイの友好を確信した。
それぞれの、国の象徴が、互いに向き合い、対座する。

タイ人は、九割が、国王支持である。
更に、現在の国王は、大変に人気がある。

ただ今、国王は、入院中であられる。
今年、83歳になられるのである。

日本と、タイは、アジアで、唯一植民地に成らなかった、国である。

昭和天皇が、タイ国王に、贈られた、鯛に似た、淡水魚は、今では、タイの主要な蛋白源として、到るところで、塩焼きにして、売られている。

タイ国民の、栄養状態を、心配された国王に、天皇陛下が、贈られたのである。

国王在位60周年の、記念写真が、タイの到るところで、飾られているが、国王の隣には、いつも、天皇皇后両陛下が、いらっしゃる。
国王は、最後まで、天皇陛下に、寄り添い、案内されたというから、実に、敬意を示していたということである。

ちなみに、タイでは、国歌斉唱と、国王賛歌が流れた際には、起立を要求される。
それをしなければ、法律に違反し、懲役刑がある。

ウドンターニという、空港で、国王賛歌が流れた時、私は、それを知らなかった。白人たちも、起立しているのを見て、あっと思い、立ち上がった。

例えば、私が、正式に、国王賛歌を歌うと、タイ人は、起立するのである。
カーオラプチャター・・・
下手糞でも、国王賛歌である。

2011年08月01日

タイ、イサーンの姿6

タイは、楽しく、食べ物が美味しい国である。
普通の観光なら、最高の国。

しかし、どこの国もそうであるように、危険が、一杯ある。

私の泊まった、ホテルの玄関前に、喫煙場所のコーナーがある。
東屋のような造り。

そこでは、何気なく、麻薬の密売が行われている。
勿論、私が、タバコをふかしていても、誰も、勧誘はしない。

人を見ている。
薬物中毒の白人の、おじさんたちがいる。

ある時、日本の若者が、どういうわけか、勧誘されたようである。
馬鹿な若者は、日本の友人に電話している。

あのさー、日本では、罪に問われるけど、タイなら、大丈夫なのか
この馬鹿が・・・
タイでも、罪に問われるし、日本より、厳しい法律がある。

更に、まだ、真っ当に売春行為を行うならば、いいが、立ちんぼ、といわれる、売春婦を相手にするのは、危険過ぎる。
エイズは、タイでは、益々広がっている。

無知とは、恐ろしいものだ。

ホテル周辺は、比較的静かである。
私は、それもあり、価格も安いから、もう一つの、定宿にした。

普通に楽しんでも、実に楽しい。
それ以上を、求める馬鹿がいる。

二泊して、ナナプラザ近くの、ゲストハウスに、移動する。
そこは、600バーツ、1800円である。
その付近の、ゲストハウスも、この価格では、中々見当たらない。

ラブホテルに使用する人たちもいるほど。

多くは、アラブ人たちが、利用する、ゲストハウスである。
その、横の通りは、黒人の若者が、たむろする。
アフリカ系の人たち。

一時期、日本人が、黒人詐欺に遭うことが、多発した。

私は、別に危険なところを、意識して、泊まる訳ではない。
ただ、安いこと、地元の屋台が多くある、ことである。

その界隈を少し離れると、地元の人たちの屋台や、食堂が多数ある。
とても、安い。
それが、魅力である。

勿論、そのゲストハウスには、日本人は、泊まらない。
泊まれないだろう。
怖くて・・・

ところが、従業員が、ビルマの人たち。
私たちには、親戚のように、接する。
いつも、衣服を渡している。

普通は、しないことだが、私たちが、帰国する朝は、見送りに出てくれる。

ビルマ、マンダーレからの、出稼ぎである。
いつか、マンダレーには、追悼慰霊と、支援に行く。
その時、彼らから、情報を頂く。

現政権が、崩壊して、新しい民主的な政権が、出来るのを、待っている。
この、一年以内に、それが、叶うと、思う。

ミャンマーが、内戦状態であることを、マスコミは、報道しない。
少数民族が、手を組み、現政権打倒に戦う。
更に、市民が加わり、デモを繰り広げる。
多くの死者が照るだろうが、どうしても、現政権を倒さなければ、ならない。

民政政権といわれるが、違う。
アウンサン・スー・チーさんは、また、政治活動を禁止された。

支配層のための、政権である。
国民のため、ではない。

崩壊することを、願う。

さて、私たちは、10月に、チェンマイに行くはずだった予定を変更して、まず必要とされる、メーソートにて、ミャンマー難民の、特に、孤児たちの施設に、支援する。今回は、ミャンマー人による、ミャンマー人の、学校の支援の依頼もある。

更に、12月は、タイ北部の、ミャンマー国境の町に行き、そこから、ミャンマーの東北部の、タチレクに入り、支援をすることにした。

どうしても、バンコクを拠点にしなければ、ならない。
この、ゲストハウスも、その一つである。

どこでもそうだが、私たちの目的を知る人たちは、全面協力を惜しまない。
支援を受けない人たちからも、助けてくださいね、と、言われる。

行って見ること。見なければ、解らない。
それは、頭脳労働ではない。体を使うものである。

時に、重要な情報を得ることもある。
南アジアの最初は、バングラディシュである。
すると、首都ダッカに、協力してくれる、歯科医がいる。

北大に留学して、貧しい人たちに、無料診療と、治療をしている方である。

そのような、人たちの、協力を得られると、活動が、スムーズに行われる。

13カ国から、15カ国に広がる。
私が、動けるまで、続ける。

それは、千年の日本のために
大和心、おほいなる やわらぎの こころ
を、伝えるものになる。


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