ところが、私たちは、ラオス行きを、断念した。
バンコクで、一日を、過ごして、と・・・
その間に、軽い熱中症になったようである。
更に、私は、出発の日の、朝まで、眠らずにいた。
あることで、色々と、書き込んでいたからである。
それもあり、タイに、夕方到着し、いつもの、マンションホテルに、到着して、ダウンした。外に出る気にもなれず、私は、日本から持参した、おにぎりを食べて、寝るのが、精一杯。
熱中症と、疲労・・・
イサーンの、ウボン・ラチャタニーに到着しても、それは、変わらなかった。
しかし、取り合えず、翌日の一日を、休んでいた。
それでも、いつも通りの状態に、取り戻せなかった。
であるから、四日目の朝に、ラオス行きを断念した。
とても、残念だった。
だが、タイ、東北地方である、イサーンは、最も、貧しい地域である。
更に、ウボン・ラチャタニーという町は、イサーンの中心的町である。
では、その中心的な町を、見て、イサーンの状況を理解したいと、思った。
丁度、ラチャタニー滞在の間に、総選挙が、行われていた。
その投票速報を、イサーンの食堂で見た。
この、イサーンは、前首相タクシンの、支持基盤である。
更に、北部地方は、タクシンの出身地であるから、その両方の地域が、おおよその、支持基盤となる。
そして、貧しい。
タイで、最も、人口が多く、投票権の多い場所。
その、二つを手に入れれば、選挙に勝つのである。
そして、タクシン派が、勝った。
それについては、後で、詳しく書く。
私たちは、市内と、近郊の村々に出掛けて、衣服支援をすることにした。
勿論、手引きする人はいないから、暗中模索の中で、する。
まあ、いつものことである。
ラチャタニーには、五泊した。
到着から、三日目の日、活動を開始した。
その間に、私は、ベッドメークのおばさんと、実に、親しくなった。
そこで、コータに、おばさんと、話しをして欲しいと、頼み、支援が必要な場所を、尋ねることにした。
朝、出勤した、おばさんを、部屋に招いて、尋ねた。
まず、おばさんの、家族のことから・・・
おばさんは、どうして、そんなことを、聞くの・・・と、言う。
そこで、実は、私たちは、衣服を皆さんに、差し上げるために来たと言う。
おばさんは、それなら、私が、その場所に連れてゆくと、言うではないか。
おばさんが、手の空く時間、昼過ぎに、トゥクトゥクに乗り、出掛けることにした。
こうして、いつも、地元の人のお世話なる。
それは、また、実に、よいことだった。
地元の人と、一緒に行動することは、それだけで、信用される。
その、支援をすることによって、私たちは、タクシン時代の、イサーンに対する、政策を聞くことも、出来た。
また、それは、大規模な、選挙違反の話にもなる。
この、おばさんを、参考人にして、タイの選挙管理委員会に、連れて行けば、今回の選挙の、結果は、ご破算となるはずである。
おばさんは、まず、自分の住む地域に、私たちを連れた。
私は、その場所を見て、それほど、貧しさを感じなかった。
何せ、建物、家が、立派なのである。
しかし、それが、大問題だったのだ。
それを、後で、おばさんから、聞くことになる。
兎に角、そこで、衣服を広げて、おばさんが、皆さんを呼んだ。
老若男女が来た。
子どもたちも、来て、靴を見て大喜びしていた。
それは、親たちも、同じである。
だが、この支援は、二度目である。
実際は、その前に、孤児院に出掛けている。
それは、後で、書く。
兎に角、皆さんに行き渡り、私たちは、次の場所に行くことにした。
だが、おばさんは、仕事中であるから、そこで、ホテルに戻ると、言う。
すると、皆さんが、私たちに、障害者の施設に行ってくれ、と言うのではないか。
その通り、障害者の施設に行くことにした。
トゥクトゥクの運転手に、その旨を告げた。
ここで、書きたくないが、その運転手が、次の場所に行くなら、倍の料金、200バーツだと言うのである。
本当は、100バーツでも、高いのだが、彼らは、外国人から、少しばかり、高く取っていないと、たいした、利益にならない。
だが、倍とは・・・
私は、150バーツと、コータに言わせた。
すると、運転手は、すぐに、オッケーと、言う。
彼も、疚しい気持ちがあったのだろう。
そして、障害者施設に向かう。
そこで、私たちは、大歓迎を受けた。