2012年09月16日

性について215

性のタブーはあらゆる文化に存在しており、人間に普遍的な現象である。これほど普遍的な現象が単なる外からの押し付けによって生じたとは考えがたい。とくに近親相姦のタブーは強力で、このタブーの起源についてはこれまでいろいろな説明がなされてきたが、どれも説得力を欠いている。
岸田

その、近親相姦が、普遍的、強力なのは、近親者が、幼児の最初の性欲の対象であるとの説である。

もし、性のタブー、とくに近親相姦のタブーがなかったなら、人間の精神発達は、幼児期にあまりのショックに押し潰され、挫折してしまうであろう。
岸田

つまり、この人は、そのように、分析している。

そして、
幼児の劣等感情防衛のための合理化の努力を外から支えてやる程度のものが必要であると言っているに過ぎないのであって、過ぎたるは及ばざるがごとしのことわざの通り、あまり強く押し付け過ぎれば、逆にまた有害な結果をもたらすであろう。
岸田

その証拠に、思春期に至れば、性能力を獲得し、性のタブーは、あまり必要ではなくなるという。

今や、性のタブーは、過去の防衛策の残骸であり、無用の長物である。
岸田

学者というものは、この程度なのである。

この説にも、説得力が無い。
近親相姦は、幼児ではない。
性能力を獲得した者が、行うのである。

その、大元を、幼児期の云々とは、説得力が無い。

それで、結局、フロイトの定義した、幼児期の概念を披露するのである。

心理学の講座という、暇つぶしの最たるものである。

結局、以下説明を繰り返すという、発展性のないものになる。

まず、口唇期である。
幼児の性欲が、その時、どのように発散されるのか・・・

正常な性行為以外の手段で、満足を求めるから、幼児は必然的に、性倒錯者にならざるを得ない。

口唇期、肛門期には、それぞれの、発散の仕方がある。

口唇期の、リビドーは、口唇の栄養摂取活動にあるので、その可能な活動によって、リビドーの満足を求めようとする。

なめる、しゃぶる、吸う、噛む、くわえる・・・
すべて、大人になって、性行為をする時と、同じ状態である。
これを大人の場合は、愛撫という。

口唇期の、幼児は、自己と区別されたところの一つの全体としての、他者の存在を知らない。幼児は、母親の乳房を知覚するが、それは、幼児の世界の中では、幼児の身体と融合していて、もし離れたとしても、それは取り戻して、自己の身体の一部とする。

それゆえ、口唇期の、リビドーは全体としての対象の認識を欠いている。
対象の認識を欠いたリビドーは、自己色情的で、自己と別個の存在としての対象とのかかわり方を知らないのであると、説明している。

また、この時期の幼児は現実と空想の区別を知らず、あとになって多少その区別がつくようになっても、依然、それは曖昧な区別に過ぎないから、そのスキをついて、いろいろな妄想が咲き乱れる。それらの妄想は、形式論理以前のいわゆる魔術的論理にもとづいて形成される。魔術的論理においては、同一律、矛盾律、排中律は欠けており、部分は全体であり、全体は部分であり、部分が同じであれば全体も同じであり・・・象徴はそれが表している実物そのものであり・・・時空間の範疇はなく、偶然と必然の区別はなく、あらゆる物体は生命をもっており、・・・要するに、いっさいの限界、いっさいの矛盾が存在しない。
岸田

そこで行われる、行為は、自己色情的口唇リビドーが、こうした論理に基づき、形成された様々な妄想と結びつき、性倒錯が発生するとの、説である。

別に、幼児でなくても、大人でも、そういう人は、多々存在すると、思うのだが・・・

幼児期にかこつけて、それを説明するようである。

つまり、私は、大人の中にも、幼児期が、存在していると、考える。
その、フロイトが定義した、幼児期の様々な概念が、である。
ただし、あくまでも、仮説に過ぎない。
それを、型にして、何事かを説明するのが、学者の仕事であろう。

その時期を通ってきた。つまり、その時期を、内包しているのである。
だから、大人になってからの、行為にも、幼児期の性欲の、形が現れるのである。

肛門期に入ると、幼児は、肛門的自己を発揮する。
肛門括約筋の機能を通して、自己を主張するのである。

肛門期リビドーは、肛門帯域を中心として、排泄活動に自己をかけるのである。
それは、支配欲と、攻撃を表現する手段になる。そして、リビドーを満足させる手段でもある。

糞便は、自己から、その肉体から分離したもの・・・
この時期の、対象は、糞便に象徴され、分離したものすべてが糞便と同じレベルとしてある。
幼児は、糞便により、得意になる・・・

肛門リビドーは、完全に対象リビドーにはならないが、半自己色情的、半対象的であり、対象そのものではなく、対象に対する、支配関係に備給されている。

肛門期の幼児にとって、重要なことは、自己が対象を支配しているということである。
そして、それが、はじめての、支配するものなのである。
糞便である。

この時期には、また、様々な、性倒錯の妄想が広がる。

アナルに感じるというのは、この時期の感覚が、生きているのである。
大人になっても、それを内包している。
だから、ゲイの中でも、男らしくある男が、アナルセックスによって、満足するということも、ここから来ていると、思われる。

脳が女で、受けるというのではない。
脳が男でも、この時期を脱していない男は、受けるのである。




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2012年09月17日

性について216

対象を糞便の延長線上にしか見ず、対象に対する攻撃と支配に重きをおく肛門的人格体制は、独自の存在をもつ対象にぶつかって破綻する。幼児は、この独自の存在をもつ対象との新しいかかわり方を見出さねばならない。ここで、自己と対象とをつなぐものとして登場してくるのが男根である。男根は、自己の肉体から突き出ていて、対象の肉体のなかにはいり、自己と対象とを一体とする。リビドーは、男根に集中される。
岸田

という、男根期である。

幼児の最後の期間である。

フロイトは、この男根期までは、男の子と、女の子は、同じ過程を進むとみた。しかし、この時期から、両者が別れてゆくのである。

女の子には、クリトリスが男根の役割を果たすが、あまりに、それは小さい。やがて、膣が発見されて、リビドーは、膣に移行するという、説である。

膣リビドーは、対象の男根を受け容れることにより、自己と対象とを、つなぐことを目指すといわれる。

だが、私は、この説をすんなり受け入れることは、出来ない。
その前に、膣より、クリトリスの快感を覚えるのである。

あらかじめ、決めておいたような説に、無理やり、合わせたという感じがする。

学者によると、男、女は、別々の過程を辿るという主張する人もいる。その方が、受け入れやすい。

さて、ここからは、聞き慣れた、エディプス・コンプレックスの時期に入る。
母親との、性行為を望み、父親に敵対する、と言う説である。

女の子は、母親をリビドーの対象とするが、そのうちに、父親に対象を切り替えるという。
この説明を延々と続けてきた、心理学の世界である。

だから、省略する。

いずれにせよ、エディプス願望は、挫折する。
挫折した、男根、膣リビドーは、抑圧され、残存していた、口唇リビドー、肛門リビドーと、混ざり合い、潜伏期の間は、目立った活動をしないのである。

あくまでも、仮説である。
その仮説を、真っ当だと、これにかこつけて、様々に分析してきたのが、世界の心理学である。
そして、日本の心理学である。
そこには、自分の幼児期の分析は、無い。棚上げしている。

知らぬ人は、ああそうかなーーー程度に聞いている。

そして、やがて、嵐の時期がくる。
思春期である。

肉体が成熟して、性交渉が出来る状態になる。
大量のリビドーが溢れる。
その、リビドーの正常なはけ口は、性交である。

性行為が出来れば、問題がない。ところが、無理である。社会的に・・・
ここで、正常なリビドーのはけ口を、性交と考えることである。
リビドーのはけ口は、マスターベーションである。

性行為が、社会的に認められなければ、方法は、それである。

心理学者は、正常な性交以外の満足の形式を知り、その形式に固着している・・と言う。マスターベーションといえば、済むことだ。

だが、その固着が、性倒錯を生むらしい。

成熟した、性器と、性器リビドーと、それ以前のリビドーを、前性器リビドーと呼ぶ。
その二つのリビドーの戦いがあるというのだ。

前性器リビドーが勝てば、性倒錯者になる。
性器リビドーが勝てば、一応正常者となる。

そのために、延々と説明する必要はないだろう。

ただ、面白いのは、性器リビドーが勝利を得た後でも、正常な性交で、何らかの挫折体験をきっかけに、前性器リビドーが勢力を盛り返して、性倒錯に移行することもあるという。

ここで強調しておきたいが、人間においては、成熟した異性同士の男根と膣の結合というリビドーの正常な表現形式は、けっして本能的なものではない。・・・人間の場合も、正常な性交は本能に規定されていると思われがちであるが、けっしてそうではない。
岸田

それは、エロスの発達の成果である。

個人を正常な性交に向かわせるのは性器リビドーであるが、リビドーが性器に備給されるのは、個人が、自己とは別個の独自の存在としての対象を発見し、この対象と自己とをつなぐものとしての男根の役割を、あるいはその男根を受け容れる膣の役割を認識したときにはじまるのであって、本能的、生理的に条件づけられているのではない。この認識がなければ性器リビドーは生じない。
岸田

私は、素人なので、ここまで書かれると、思わず、笑ってしまう。
だが、それが、まだまだ続く・・・

要約する。
認識は自我の機能であり、性器リビドーを成り立たせているのは自我である。自我は、現実原則に従っている。更に、快感原則に従って動くエスの衝動を統制し、有効に利用しようとする。

正常な性交は、自我が、対象関係の確立と種族の保存という二つの現実的に価値ある目的のために、快感だけを求める前性器リビドーを統制することに成功したときにはじめて欲求されるのである。人間は、本能だけに従っていたのでは、自己保存はおろか、種族保存すら可能でない。
岸田

岸田氏の、意見として、参考にさせて頂きます。ところで、先生は、大丈夫なのでしょうか。まさか、不能ということは、ありませんよね・・・
素人の私は、それを心配してしまうのである。

posted by 天山 at 05:42| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月18日

性について217

正常な性交が自然な姿であり、性倒錯は異常で不自然であるというのが一般の常識であるが、動物の場合ならいざ知らず、人間の場合は、正常な性交はけっして自然な姿ではなく、多分に無理をして獲得された形式なのである。
岸田

確かに、今までの説明を見ていると、その通りである。
また、私も、それに賛同する。

さて、その正常だと思われる性交の中に、前性器リビドーが細やかに入り込んでいる。
これは、私の言い方である。

正常な性交の中に、前戯とか、色々な性交体位、更に、誘発される、空想、妄想、本来、性交そのものとは関係ない、諸々の行為などは、それである。

前性器リビドーにより、正常行為も左右されるということである。

もともと性器以外の口唇や肛門を基点としているリビドーが性器の優位に完全に服することはあり得ず・・・・
岸田

同じ床にあって異なる夢を見ているのである。
岸田

上手い表現である。

それでも、性器リビドーが主流を占めている限り、正常と言われるのである。

さて、性倒錯に関しても、岸田氏は、人間の自然な姿ではない、と言う。

人間のエロスに関して、自然な姿など、そもそもどこにも存在しない。
岸田

ここに、岸田秀の分析が生きている。
そして一つの思想となる。

心理学者の名誉挽回である。

次ぎに、フロイトによる、精神生活を支配する二つの原則からである。

快感原則と現実原則である。
エスの本能的衝動は、快感だけを追求する。しかし、それだけだと、大きな苦痛を味わうことになる。そこで、自我が、現実原則に従い、エスをコントロールするのである。

だが、長期的に見た場合、結果的には、快感原則に従う、もしくは、奉仕するのである。
何故か。
人間は、快感を求めるからである。

そして、それは、人間特有の、精神的対立を生むのである。
ちなみに、動物のは、現実原則に従う。

自我が、エスの快感原則に従うと、不適応に陥る。
エスの衝動を抑圧しなければならない。

快感原則と、現実原則の対立・・・
人間の永遠の悩みである。

そして、人間は、この対立ゆえに、文化というものを、作り上げたという。

前性器リビドーは、ひとえに快感原則のみにもとづいており、あらゆる現実的有用性とは無縁で、純粋に無償のものである。それは完全に遊びのエロスである。それを現実的有用性をもつ正常な性交の枠のなかに押し込めるためには自我の強引な介入が必要である。
岸田

だから、更に、
性器リビドーも前性器リビドーも、不自然であるという点では同じであり、個人がどの形式によってそのリビドーを満足させようが、それは個人の自由であり、自然に反するという根拠にもとづく性倒錯者への批難や軽蔑は正当ではない。
岸田
と、なる。

性倒錯者は、神経症と同じ病人であるとは、言えないと、岸田氏は言う。

面白い例えを言う。
同性愛者を説いて異性愛に転向させるのは、正常な異性愛者を説いて同性愛に転向させるのと同じくらいむずかしい。

同感である。

そして、今、現代では、正常といわれる、性交が、性倒錯と同じように、純粋に無償の遊びとなっているのである。

要するに、妊娠しない、性交は、すべて不自然ということになるから・・・

経口避妊薬から、避妊技術の革命的な発達・・・
そして、妊娠のための、人工授精技術・・・

性交と、妊娠が明確に、切り離されているのである。

それは、
人間のエロスの、この点に関する快感原則と現実原則との対立はほとんど解消された。現実原則が快感原則に歩み寄ったのである。
岸田

時代が変わったのである。
それを、時代性という。
そして、そこに、人間の考え方を入れた時に、時代精神となる。

エロス・・・
新しい定義や、概念が必要になったのである。

今までの、観念的な遊びの時代ではない。

女の子の会話を聞いていて、彼氏、もう、食ったの?と平然として言う時代になった。食うとは、性交したか、しないかを言う。
昔は、男たちが、食った、食わないと、言っていた。
今は、男たちが、沈黙をはじめている。
そして、草食系・・・だと・・・
フリーセックスなどと言われた時代が遠退く・・・性とは、何か・・・

posted by 天山 at 06:35| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月12日

性について218

エロスを考える時、日本語では、性愛と訳されるが・・・

セクシャリティとは、生物学的な概念である。
それでは、エロティシズムとは、心理学的概念となりそうである。

人間のみが、エロティシズムを生む。
それは、実用的な生殖、子供への配慮などを含めた、あらゆる社会的活動に、対立するものとしてある。

人間が、いかに動物と離れたかということが、このエロスの意味を明確にしてくれると、思われる。

動物の性的活動は、周期的であるが、人間のそれは、いつもである。
更に、動物は、生殖のためにあり、そこに快楽があるとは、限らないのである。

また、面白いことに、動物は性交を長引かせて、楽しむことはない。

人間だが、性行為を楽しむのである。
それを、エロスと呼ぶのか・・・

人間は、生殖本能とは別に、快楽の欲求により、動かされるものである。

最初に、マリノフスキーの、トロブリアンド島の原住民たちのことを紹介したが、彼らは、性交と妊娠との間に、因果関係があることを知らなかったのである。

人間のエロティックな快楽の欲望は、種族保存の本能に左右されてあるものではないと、言える。

あらゆる、性倒錯の中で、一番理解し難いのは、童貞である、とは、パーナード・ショーであるが、確かに、性的欲望が自然なものであれば、その能力を使わないのは、倒錯であろう。

エロスは、人間の心理的なものから、発する。
そして、その能力を得たのである。
それは、大脳化であったといえる。

中でも、想像性である。
想像力に優れた人間ゆえの、エロスは、心的運動である。

性というものに、まとわりつくもの、すべてをエロスと考えてみる。
すると、あらゆるものが、エロスに満ちているのである。

だが、人類史の中で、人間がそれを意識し始めたのは、実に遅い。
無知の時代が長すぎるのである。
多分にそれは、父系的一神教が支配していた時代である。

つまり、宗教が邪魔をしていた。
そして、宗教が性に関して、蒙昧であったといえる。

性のエロスを覆い隠しておかなければならない、理由があったのか・・・
多分にあったのである。
人間の欲望を支配することは、端的に、人間を支配することにつながるからだ。

今まで、マスターベーションの歴史、あるいは、同性愛の歴史などを見てきて、特に、その感を強くした。

勿論、ギリシャ時代などの、エロスの世界も存在するが・・・
それは、一端中止させられた。
ギリシャの多神教時代である。

ある種、何でもありの、時代だったといえる。

さて、ここでもエロスは、とても難しい時代に入った。
というのは、心理学的に、男性的、女性的という区分けが、不可能になったからである。
その境界線を引く事が、困難に成ったのである。

エロスは、もう、男女の差を超えたところにあるものになった。

それは、クローン人間にも、現れている。
更に、男無しでも、妊娠が出来る。
人工的に、処女妊娠が可能になったのであるから・・・

また、童貞生殖も、可能になっている。

放射線で、破壊された核のない卵形形質の中に、精子を加えると、精核は単独で活動をはじめて、立派な一個の動物に育つのである。

また、睾丸の悪性腫瘍の中に発見された、一種の胚が、雌の卵子のように、自然に成長して分裂したり、発芽するという特殊な場合も、発見された。

この雄の体内の胚を、ガラス瓶に移して育てると、一人の男から、何千人という子どもを生み出すことができるのである。

そうすると、エロスとして、考えることも、違ってくるのは、当たり前である。
この複雑さに、人間は、耐えられるだろうか。

だが、生物の繁殖の形式は、色々あり、有性生殖だけが、すべてではないのである。
性の無い下等動物がいるように・・・
有性生物が、無性生物と、交互に繰り返しているものもいる。

エロスを考える上でも、文献だけを頼りに、云々する研究者がいるが、誰も未来におけるエロスに関しては、語ることがない。

心理学が言うところの、エロス的人間というものも、その成長による、人間の人格形成を述べるのである。
つまり、それも、親子の関係からはじまるという、お得意のものである。

そこから、現代人に警告を発するという形である。

フロイトなどの考え方から、一歩も先に進まないのである。
そして、それは、それでいい。

母子家庭、父子家庭・・・核家族・・・
男女問わず、未婚の子持ち・・・

家庭というものも、親子というものも違ってくる、未来のエロスとは、何か・・・
解らない。

更には、男女の別が明確ではなくなる、未来のエロスである。

エロティズムというものも、変化する。
その変化に耐えられるだろうか・・・

性愛について・・・
これを見ることにする。

posted by 天山 at 00:07| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月13日

性について219

性愛とは、理屈をこねるつもりはないが、性器への愛情、執着などから、はじまる。

多型倒錯から、教育を受けて、異性愛に進んだとしたら、異性の性器に対する、それが、性愛の最も基本的な欲望だろう。

そうすると、最初の女性器の云々へ戻るが・・・
男が女の性器に、関心と興味を示し、更に、性交が可能になると、それを求める。そして、そこから、更に、性器に対する深く強い興味が湧く。

すると、単なる性行為ではなく、オーラルセックスといわれる、様々な技が生まれる。
その技については、様々な古典がある。

あらゆる人間の、器官を使って、相手の性器を楽しむというものである。

そして、それを楽しみと感じ取る心が必要である。

ペニスは、排泄の場所であり、射精する場所である。
そこに口を当てるという、行為は、人間の知性と、感性による。

ヴァギナもそうである。
尿道口がすぐ上にある、膣の周辺を弄る行為である。

不潔として感じたらなら、そんな行為は出来ないし、そういう人もいる。

もっと進むと、体全体が、性器と化す。
頭の先から、足の先までが、性器と化すのである。

こんな芸当は、人間のみに許されてある。
そして、それが異常でもなんでもない行為なのである。

小さな島に、細菌学者が研究に入り、驚くべき発見をした。
島民の大人たちの、口の細菌と、股間の細菌が同じであると、突き止めた。

つまり、オーラルセックスをしているということである。
性行為が、単なる性器結合だけではないという、証拠である。

ここに人間の知性がある。

セックス、性愛に知性・・・
性器に対する、愛情が高まると、そのような行為に至るという、当たり前の出来事である。

更に、知力が高くなると、更なる、性行為のあり方を考える。
感性を満たすものである。

ここで、色々な例を持ち出すまでのことはない。

そして、バイセクッシャルなどになると、もう、前例が無い行為になる。
男女と、バイセクシャルの人間が一人の、三人でのセックス。
留まることを知らない行為が、繰り広げられる。

昔から、男が老いると、若い男を連れて来て、女と共に、三人での行為に及ぶということもある。
性愛には、限りが無い。

若い時期にそういうことを、経験した男から話を聞いたが、それはそれは、大変な体力を使うことだと言う。
一体、人間の、性力というものは・・・呆れるほどである。

さて、性器愛に戻るが、老人ホームでは、その手の老人が溢れているという。
夜になると、もうすでに不能な男が、女寮の婆さんの布団をはがして、じっと、その性器を見ているという。
ただ、それだけで、満足するのか・・・

職員は、ある程度の時間になると、爺さんを元の部屋に連れ戻す。

死ぬまで、性愛に取り付かれているのである。

まあ、人間とは、実に憐れなものである。
だが、性愛の無い人生というのも、味気ない。
人並みに、性愛を楽しむ。
しかし、その限度は、人それぞれである。

しかし、それでも、エロス的人間のあり方というものを、ご丁寧に考える人たちがいる。心理学者が多い。

そして、そこからの、人間回復の道を探るという、行為である。
実は、大きなお世話なのだが・・・

それでも、何がしか、それなりの結論を得たいと思う人が多いのだろう。
実は、死んでも、結論など出ない問題なのであるが・・・

こうして、性についてと書いているが、どんどんと、新しい、性についてが、生まれるのである。

つまり、死ぬまでの暇つぶしに、ぐるぐると、あるいは、からからと、深まるのか、高まるのか解らないが、考え続けているのが、人間なのである。

実に、ご苦労なことである。

性愛の技術について、多くの古典を読んでいると、頭が飽和状態になる。
もう、性愛は、御免だとも、思うようになる。

知らずに、手探りで、好きな人とセックスをしている方が、まだ、真っ当なのかもしれない。
子供さえ出来れば、それでいいと、思う人も多いだろう。

そんな面倒なことは、考えずに、心の赴くままに、欲望のある限りは、性行為を続けているという。
更には、性行為を、全くしないという、禁欲という、性行為もある。

いずれにせよ、人間は、そこから逃れられないのである。
性欲がありませんという人もいるが、それなら、異常である。
異常体質である。

性欲亢進の異常もあるが・・・

性から、本当に解放される人間がいるのだろうか・・・
一生涯独身・・・
性生活は無い。
それも、一つの性行為となる。

つまり、人間である限りは、人間を超越できないということである。性を超越できないということである。
唯一、人間を救うものは、何かと考えると、それは、妄想以外に無いのである。
と、考えることもできる。

posted by 天山 at 02:43| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月02日

性について。220

エロスの原型は、いつ頃出来上がるのか・・・
それは、生まれた時からである。

心理学では、発達心理学からなる分野である。

乳児が、乳という栄養摂取するためではなく、フロイトが言うところの、口愛行為という快感を求めるところからのものである。

そして、その口愛的欲求が、それ自体の満足を求める、独立した欲求、あるいは、本能的欲求として活動を始める。
それが、エロスの原型である。

そして、そこから発達心理学なるものが、生まれたのである。

であるから、エロスの由来は、実に単純明快なものである。

更に、フロイトは、口愛欲求を性欲の原型ともみなしたのである。
口、唇、舌、その周囲の皮膚感覚は、実に多くの快感感受性をそなえている。

大人になっても、その原則は変わらない。
口愛快感は、エロスのすべての出発地点である。

幼児性欲の段階は、その後、肛門期、男根期と続く。
それらを総称して、小児性欲と呼ぶ。

肛門愛は、肛門、尻が、そして、男根愛は、ペニス、クリトリスが、それぞれの快感感受性を持つ。
その部位を性感帯と呼ぶ。

小児が感じる生理的快感を、大人の性的な快感と同質としてフロイトは、みなした。
だが、それも一つの仮説である。

その後、研究者によって、色々と議論された。
しかし、それらは、どうでもいい。
ここでは、エロスのみに、絞って考える。

ただ、一つだけ、性的と、性器的という区別をする。
性器的とは、生殖的なものである。

エロスに対して考えると、性的なものに重点がゆく。

フロイトは、思春期から、性交が可能であるということから、大人の性欲を性器的性欲と呼び、小児性欲とを、区別したようだが・・・

要するに、小児は、大人のように、性器愛を目的にしているのではなく、それ自体の快感と、満足を求めるものとしている。

だが、元を辿れば、大人の性器愛、性器性欲は、小児における、性的なもの、母親への愛着本能の延長であるといえる。

更に、エロスを拡大解釈すると、集団生活から、社会活動にまで至り、更には、精神世界までも、辿り着くことになる。
が、ここでは、それを取り上げない。

だから、フロイトの理論も、ここではエロスのみに絞る。
性的リビドーと名付けた、エネルギー恒常の法則がある。それは、一定のエネルギー水準を保とうとする傾向のことである。

エロスも、このエネルギーに支えられる。

つまり、欲求の発生、リビドーの高まりが起こると、そのエネルギーの解放、発散を願い、行為する。
それが、エロスのあり方となる。

その、エネルギーが解放、発散されないと、欲求不満が起こる。そして、不快になる。エロスの欲求の発散が出来ない。
苦しみである。

それを、本能的というならば、ひたすら快感を求め、不快を回避する。
快感を求める行為を、快感原則と言う。

つまり、エロスは、快感原則に従うものなのである。
この、快感原則を、外界に求めず、あるいは、求められず、己で解決すると、マスターベーションとなる。
それでは、マスターベーションも、エロスの一つの方法か・・・
方法となる。

何せ、表現活動なども、その一つに入るのである。

人間の性本能は、盲目的主観的である。
外界も、対象も、考えないのである。

勿論、成長するに従い、その外界との関わり、そして、その対象を見出してゆく。しかし、基本は、変わらない。

ただ、人間は一人で生きられないように、結局、相互交流によらなければ、エロスの最大の満足は、得られない。
つまり、エロスの共有である。

相互の快感が一致して、快感原則を満足させ得た時、エロスが一時的に、完成する。

その基本が、幼児期の母と子の関係にあるというものである。

そこで、歪めば、その後の人生のエロスの獲得も歪むことになる。

一人では、得られない満足感を、相手と共に満足する、快感原則を共感して、エロスというものが、成り立つのである。

自分の快感と、満足の欲求が、同時に、相手の快感と満足なるもの、それが、エロスである。

とても、単純であるが、それを求めるとなると、人間は、悩み、苦悩するのである。
何故か。
同じ欲求を持つ相手に会うことが先決だからだ。

エロスには、相手が必要である。
そして、子であった時のように、母なる相手が見つかる可能性が、有るのか無いのか。
皆目検討がつかないのである。
つまり、人間は、エロスへの旅人となる。


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2012年12月03日

性について。221

エロスへの発達段階をみる。

まず、乳児が、本能的ともいえる欲求としての、感覚的満足を得るための、反射的パターンにより、一方的に満足感を得るための段階である。

この場合は、モノでも代用できる。

次ぎに、乳児の一方的な欲求に対して、母親が、それを解消しようとする。やがては、誘発者、解消者の役割を負う。それは、相互に演じあうものになる。
愛着本能と、母性本能を、互いに満たすのである。

ここからが、エロス的コムニケーションとなる。

そして、第三は、単なる相互的で、感覚的なものではなく、相手の快感と満足の共有ということになる。

相手と、我との、欲求の一致をみるものである。

更に、その行為を人は、愛とも呼ぶ。

上記を定義とすれば、相互の欲求を満たさないエロスの関係は、エロスとも、愛ともいえないということになる。

そして、大人、つまり性器性欲が満たされる年齢になると、相互の欲求の誘発と、コムニケーションとなり、オルガスムの共有となり、その共有の一致を求めて、エロスへの道を進む。

これを深めると、決して、一人では行うことが出来ないものである。
相手が必ず必要である。
その相手を求めて、つまり、エロスを共有する相手を求めて、人は旅を続けるといえる。

この相互的なコムニケーションの様式の原型は、系統発生的つまり生物学的基礎をもった非言語的、原始的コムニケーションであり、直感的、本能的なものである。いやむしろ本能そのもの生物学的なものそのものが、本来意味的なもの、コムニケーションを含蓄しているといってもよい。
小此木圭吾 エロス的人間論

それは、快感原則に従うが、本来、他者との中に、満足の共有と欲求の一致を目指すものであるということになる。

学者研究家は、特に、表現する際に、科学的言語を用いなければならないという、固定観念があるようで、難しく感じるが、何のことは無い。
平たく考えていいのである。

求め合えば、成り立つのが、エロスである。

そのエロスの原型が、親子関係、特に、母子にあるというのが、フロイトから始まる、心理学の考え方である。

そして、最も、最小の人間関係である。
二人の人間で成り立つ。

それが、家族関係から、社会集団の形成にも影響する、つまり、エロスが働くと考えるという、広がりである。

人間が人間関係をそして社会集団を形成する根源的な欲求だからである。
小此木

フロイトも、
集団は明らかに、なんらかの力で結合されているが、エロス以外にどんな力にこの働きを帰することができようか。エロスこそ世のすべてを結合する。
と、言う。

そうすると、ここから、社会学の世界に入ることになる。
それは、後で書く。

小此木氏は、そこで、警告を発する。
つまり、根元的なエロスの世界は、そのまま、われわれの現実の世界であろうか。
と言う。

男女も、家族も、社会集団も、乳児と母親の関係のように、常にエロスに満ちているだろうかというのである。

エロス的コムニケーションは失われて、疎外や断絶の中におかれている。
そして、エロスを喪失しては、本当に生きていることにならない。
エロスは、そして生きることは、対象そのものが、コムニケーションの相手が、エロスでなければならないとの警告である。

それほど、時代が病んでいるということだろう。
性器性欲ではなく、性欲だけで、生きる人たち・・・

相互のコムニケーションを得ることなく、単に、我の欲求だけを求めて、相手を道具にする行為。
ということは、つまり、乳児体験の欠如ということにもなる。

そうだろか・・・
それも、エロスも、時代によって、変容すると、考えられないのか・・・

時代には、時代性と、時代精神がある。
万葉時代と、人間には、大差は無いが、時代が違う。
そして、この時代は、欠如した時代なのだろうか。

文系の学問の世界は、批判によって、成り立つ。
更に、評論である。
そして、時代に対する、警告から成り立つ。

だが、私が思うに、太古の時代に戻れば、解決するというような、問題ではない。

それこそ、退化である。
進化しているはずである。

エロスの世界も進化する。つまり、人間の性のあり方も、エロスのあり方も進化する。変容するのである。

日本の場合も、核家族化し、更に、終身雇用制が失われ、エロスによって成り立つ社会集団というものも、形を変えた。当然、そのエネルギー源も変容しているはずである。

良い悪いの、問題ではない。
そのようになっているのである。

posted by 天山 at 05:30| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月04日

性について。222

エロスの最大の障害は、なんであろうか。
それは、自分自身の中にある。
つまり、自己愛である。

ナルチシズムである。
それは、他者を伴わない行為であり、行動である。
己一人に帰結する。
つまり、エロスの昇華が無い。

自己愛人間については、別のエッセイ、霊学に書いている。

ここでは、社会心理学の有名な、エーリッヒ・フロムから、引用してみる。

これまでのところ、私はいかなる技術の実践にとっても必要なことを検討してきた。いまや私は、愛する能力にとって特別に重要であると思われる特性を検討してみよう。愛の性質について私がのべたところに従えば、愛が成熟するための主な条件というものはナルチシズムの克服である。
愛するということ 第四章愛の実践

およそ70年前に日本語訳されたものである。

ナルチシズム的な方向づけというものは、自分自身の中に存在するもののみを現実として経験するということである。だから、その一方に、外部の世界に起こっている現象は、そのような人たち自身の中においてはすこしも現実性を持たず、それらが人にとって有益であるか危険であるかという見地からのみ経験されるのである。
フロム

つまり、人間は、エロスを忘れて、すでにナルチシズムに陥った時代になったのかもしれない。
これは、恐ろしいことである。
そして、それが社会に起こる多くの事件を見ると、良く解るのである。

子殺しなどを見れば、歴然とする。

エロスを生きられない人間は、自己愛に生きるしか方法が無いのである。
そして、それは、病理ともいえる可能性がある。

フロムの、愛するということ、という著書も、すでに必要のない程、時代は、変化し変容している。

エロス、つまり、愛を求めない。
いやいや、精神的愛というもの、プラトニックというものがあるという人がいるだろうが、それも、根本は、エロスが宿るものである。
その、エロスを昇華させて、精神に至るのである。

単に、性欲が無い。エロスの欲望が無い、だから、精神的愛なのだ、ではない。
それは、病んでいるのである。
しかし、その病んでいることさえも、気づかずにいる状態にまで、至った病なのである。

ナルチシズムに対する反対の極は客観性である。それは人や物をそのあるがままに客観的に見、理解する機能である。そしてこの対象像を欲望や恐怖によって形作られた像から分離することのできる機能である。
フロム

対象像を欲望や恐怖によって、形作られた像から、分離することのできる、機能とは何か。

それが、あるがままに見るということなのである。
だから、客観的になる。

ナルチシズムの自己愛人間は、それを、あるがままに、見ることが出来ないのである。
要するに、欲望、恐怖という像から、分離させられないのである。

自己愛病と言っておく。

あらゆる精神病は、客観的な立場を保つという点で極度に無能であることを示している。
フロム

エロスにおける、病が、蔓延した時代、新しい世紀である。
ということになる。
だが、それが大勢であれば、それがまともなことになる。

狂った人が多ければ、それが正常なのである。

フロイトは、結局、エロスの最終章は、人類の社会、文化、文明は、人類が死んでゆく過程で、死の本能に逆らい、生み出し続け、組織づけてゆく、エロスの産物という。

この場合になると、エロスは、生きる本能ということになってくる。
性愛である、エロスが、ここまで行くか・・・という、思い。

ここまでくると、エロスは、死と対極のものになる。
更に突き詰めると、エロスは、死に対する、不安を和らげるもの、あるいは、エロスは、死への準備、更には、エロスによって、死を受け入れる心を作る等々、人間の妄想は、計り知れない。

エロスの頂点に達することは、死の学びである。
などという、人を食ったような言葉も出てくる。

性愛の絶頂である、オーガズム、達することは、死ぬことである。
などと、解ったことを言うような者、多々あり。

さて、フロムに戻ると、
狂っている人、あるいは夢見ている人は、外部の世界を客観的に観察することが完全にできなくなっている。しかし、われわれのすべても、大なり小なりくるっているか眠っているのである。
と、言う。

更に、驚くべく事に、
われわれすべてが世界についての非客観的な見解を持っているのである。それはわれわれのナルチシズム的見当づけによって歪められたものなのである。
と、なる。

その実例を上げれば、キリが無いので、止める。

空海も、人は酒に酔っているようなもので、真実を知らないというようなことを言うが、本人は、酔っていないつもりであるというのが、面白い。
自分も酔って、大日如来などという、妄想を掲げていることを知らない。

まあ、学者研究家も、警告を発するのが、得意であり、更に、それが仕事でもある。要するに、それで、食っている。生計を立てている。

それが、金にならなくなると、別の事を言い出すのであるから・・・


posted by 天山 at 00:01| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月26日

性について223

さて、エロスを拡大解釈して、生きる本能と定義すると、これは、人間が人類が作り上げる、文化、文明にまで発展するのである。

つまり、生きる本能があればこそ、人類は、様々な発展を成してきたということである。

個人的な、性器性愛から、人間、人類に至るまで、エロスが介入するという考え方である。

組織や社会の関係、その他の、人間の関係軸は、エロスによって、成されると考える。

単にエロスという時、男女の性器性愛と、その快感、快楽だけを示すような考え方をするが、実は、社会全体にエロスが、行き渡っているのである。

実際、現代社会の多くの男は、母とのエロスの関係を、女ではなく、男の向けることで、解消するという。
母に対する、乳児のような依存的な愛情欲求を、女のみには向けにくいが、男には向けることが出来る。
つまり、それは、同性愛的エロスである。
そして、それにより、社会的連帯感を強めているのである。

フロイトも、同性愛は、社会共同感情の源流であると、言うのである。

それは、単に、ホモセックス、男同士の性器愛ではない。
それならば、単なる、同性愛セックスになる。

精神的状態のことである。

一つの仕事を、複数の男たちが、達成する時に、発生する同性愛エロスである。

そして、生きる本能と共にある、エロスの対局にあるものは、死の本能、タナトスである。

ここにおいて、時代の様々な問題提起が出来るようになる。

人類の生成発展は、エロスの成果であるが、それは、本当に生きる本能の故なのか・・・
実は、その裏には、タナトスという、死への本能が宿っていると、考える。

性器性愛に関しても、タナトスが宿る。
性器性愛の、オーガズムは、死の訓練でもある。

その、エロスと、タナトスのバランスが偏ると、精神的病に陥るのである。

基本は、エロスを表に出すのが、人間の世界であるが、タナトスを表に出すことは、狂いとなる。

だが、文化、文明の行き着く先を誰も知らない。
そして、知ることは、無い。

エロスの営みが、幻想と悟る時、人は、エロスの世界から抜け出そうとする。つまり、タナトスへの欲求である。

それは、不健康なものだと、言われる。
そして、常識的ではないとも、言われる。

何せ、自殺は、あらゆる世界で罪とか、良くないことと、言われるのである。

だが、本来、人は、生まれると、死に向かって生きているのである。
だから、それを早く得ても、問題はないが、自殺は、社会的に悪いこと、自殺は、甚だしい場合は、罪と言われる。

エロスの営みは、生きる営みで健康である。
しかし、人類が積み上げてきた、文化、文明は、果たして、健康的なものだろうか。

凄まじいスピードで、科学技術、物質的生産が進み、物質生活、更に労働の有り方まで、変容しつつある、現代である。
更に、相対的な快楽原則に則り、性が解放され、人類全体に対する、現実原則は、快楽原則が勝ってゆく。

基本的な人間の、エロスを忘れて、目を転じさせるような文化、文明の発達の中で、人は、本当に、必要なエロスの世界をつかめるのか。

エロスという、生きる本能は、物事を組織付け、纏め上げ、発展させる。それとは、逆に、解体し、分解し、無に帰すという行為は、死の本能である、タナトスの行為である。

人間は、いや生物は、すべて死に逆らって生きている。生より死の方がより確実なのは、誰がみても明らかで、それをまるで生の方が確実にように思うのは、それそこ幻想である。生きていることは、刻々に生きることを終わるために生きているのであって死に刻々近づいていることなのである。
エロス的人間論 小此木圭吾

更に、その通りなのである。

それでは、エロス的人間とは、何か、ということになる。

それは、つまり、タナトス的人間とは、何か、ということにもなるのである。

それは、一体、どこへ向かっているのか・・・

人間の運命問題は、一にかかって次ぎのことにあるように思われる。すなわち、文化発達にとって、人間の破壊衝動および、自己否定衝動にもとづく、共同生活の障害を克服してしまうことが、はたしてうまくいくだろうか。また、どの程度成功するのだろうか。
フロイト

実際、物質文明が進歩発展すれば、それに伴い、人間の内在的潜在的な自己破壊力を増大させるのではないか。

つまり、死の衝動である。
タナトスが、目覚めるのである。

エロスには、その矛盾が満ち満ちてあるのである。

個人的なエロス、つまり、性器性愛の中にも、同じように、タナトスの誘惑がある。
性器性愛に満たされて、それが持続すると、家庭が出来る。
その家庭が、今は、変容甚だしい。

それは、社会もそうである。
更に、元気な頃の、エロスと、盛りを過ぎたエロスの世界も変容する。

私は、個人と社会、世界との、対比で、今、エロスについて書いている。
いずれ、エロスより、タナトスが強く意識される時代に突入する可能性もある。

そして、それは、核兵器によって、一気にされることも、考えられるのである。


posted by 天山 at 00:05| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月27日

性について224

本能とは、そもそも生体の適応に役立つものである。・・・
つまり、動物の本能は現実原則に従っている。本能のおもむくままに行動することが快感であるとすれば、動物においては快感原則と現実原則とのあいだに対立はないと言った方がいいかもしれない。
岸田秀

ところが人間においては、エスの本能的衝動のおもむくままに従うと不適応になる。人間の本能は現実と接触を失っており、本能の機能を果たさない。本能の代わりに自我がその機能を果たさなければならない。
岸田秀

そして、自我は、それに引きずられれば、不適応になってしまう、エスの衝動を抑圧しなければならない、と言う。

これが、問題である。
つまり、快感原則と、現実原則の対立である。

更に、
この対立、ひいては抑圧の必要性の原因を社会ないし文化のなかに求め、抑圧的文化の廃棄によって解消できると考えたのが、いわゆるユートピア思想である。
しかし、抑圧的文化の結果として快感原則と現実原則の対立が生じたのではなく、この対立があるために人間は文化というものをつくりあげたと考えられるのである。
岸田

そして、それがそうだとすると、抑圧的文化は、足萎えの松葉杖であり、ユートピア思想は、松葉杖を捨てさえすれば、足萎えは、治るという、誤った判断の上に立つとの説明である。

人間は、最初から、この対立を生きていた。
この対立は、性欲の出現と性器の成熟との間に、年月のズレがあるという、人間には、特有の生物学的条件に由来している。

岸田は、
文化的条件の変革によってはどうにもならないと思われる。
と、言う。

もう少し説明すると、前性器リビドーは、快感原則にのみ基づき、原始的的有用性とは、無縁で、純粋に、無償のものである。
完全に遊びのエロスである。

それを、現実的有用性をもつ、正常な性交の中に押し込めるためには、自我の強引な介入が必要であると、言う。

人間の性的行為は、最初から、正常ではないのである。
最初から、曖昧で、倒錯全開だったのだ。

幼児期の性欲傾向を見れば、一目瞭然である。
すべての倒錯性欲を持つのである。

権力、権威によって、人間の正常な性欲と、性交が、教えられたと、考えてもいい。

本来、エロスにタブーは、存在しないということだ。

定説などというものは、無いのである。

現実的有用性を持つ、正常な性交・・・
実は、そんなものは、無い。
ただ、生殖のみ、現実的である。

生殖を伴う性行為のみ、正常とすれば・・・
多くの人の性行為は、正常ではない。
本来は・・・

自我の強力な介入により、それを行為しようとする。

完全な遊び・・・
性行為が、完全な遊びなのである。
だから、社会的権力、権威が、その行為を定めて、それに沿うようにと、自我が働く。

女が、男に遊ばれた・・・
当然である。
本来は、性行為は、そして、性欲は、遊びなのである。
それで、女が妊娠したならば、儲けものである。と、考えられるか・・・

結局、女が損をするという、考え方に陥る。
ところが、今、時代は、女が妊娠してしまえば、儲けもの、と考えられるようになってきた。
種さえ、得られれば、男は、必要無しである。

古代、その子の父が、誰であるか・・・
女のみしか知らない。
母系である。
それが、父系社会に陥ると、性行為が、決定されることになってゆく。

更には、女、蔑視である。
何故か・・・
女には、叶わないからである。

子をもうけなければ、男は、ただの孤独な一人である。
父と子という、つながりに、託す思い・・・
父系社会の成り立ちである。

おおよそ、それが、五千年に渡り続いている。

さて、
わたしはライヒのように正常な性交を絶対視する考え方には組しない。
と、岸田は言う。

性倒錯は不自然であるから否定すべきだという考え方は取らない。・・・
正常な性交も不自然だからである。
岸田

心理学者ならば、当然、そのような考え方になるはずであるが・・・
多くの、心理学者は、正常を取る。
そして、その正常とは、統計である。

精神疾患における、正常、異常の問題ではないのである。
ここからが、重大である。

posted by 天山 at 06:23| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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