2012年06月23日

性について205

私は、多く年で、10回ほど、海外に出掛けている。

国際航空のトイレを使う。
そこで、海外の空港では無いことだが、国内空港では、時々、私がトイレに入っていると、入ってきた男性が、あっ失礼と言って、出る事がある。

着物を着て、髪が長い・・・
女だ、ということになる。

世の中には、男と女のカテゴリーしかないのである。

タイの、カレン族村に、万葉歌手の辻友子さんを、連れて行った際に、面白いことがあった。
カレン族の、おじいさんの家に、伺った。
色々と話をしていると、おじいさんが、辻さんに向かい、ところで、あんたは、男ですか、女ですかと、尋ねたのだ。

辻さんは、カレン族の女が頭に巻く、バスタオルをつけていないから・・・
子供を産んだ女は、皆、頭にバスタオルを巻く。

それぞれの地域で、それぞれの、男と女の、カテゴリーの中に存在するという、いい例である。

現在の日本では、あれっ、この人は、男なのか、女なのか・・・と、考える場面が多くなってきた。

そして、このように、考えるということが、ごく自然なことなのである。

だから、トランスジェンダーの人が、男か、女かという場合に、極めて、自分の求める男や女の姿を求めることになるし、そのように努力する。
そうでなければ、周囲に混乱を与える。

特に、日本の場合は、それが求められる。
これが、タイならば、普通のスーツ姿の男が、薄化粧をしていても、あまり、拘らない。単に、カトゥーイと、呼ばれるだけである。

社会には、性別には、男女があり、男とは、女とは、という、通念に支えられてある。
この通念とは、常識と言われることも、度々ある。

そして、この通念に、合わせないと、いかなる社会的行為も、叶わないということにもなるのである。

相手が、男か、女かで、対応を決められる場面が多々あるということだ。

その、見分けを、外見表示という。
この、外見表示に、従わないと、混乱する。

些細な例として上げれば、売り場である。
特に、衣類の売り場では、男性コーナー、女性コーナーと、分れる。

イスラムの国に行き、男がワンピースの足元まで隠れる、服を着ていても、不思議ではない。
現に、私が、女性用だが、イスラムの服を着たが、違和感が無かったのである。

ところが、日本なら・・・
明らかに、イスラムの男であるという、格好をしていなければ、理解できないのである。

社会の通念は、性別二元性と、実は、異性愛主義の立場にある。
ここに、トランスジェンダーの苦労がある。

限りなく女に近い姿で、男と一緒であれば、普通のカップルと見られるが、そうでなければ、ゲイカップルとして、見られる場合は、多々あるだろう。

外見表示を通して、他者は、同性か、異性かを判断して、その性別に合わせた相互作用が可能となる社会に、生きているというのが、トランスジェンダーの現実である。

だから、外見を整えることが、まず先決である。

タイで、よく見かけるのは、これから、女に変身してゆくであろうと思われる、男の子に出会うことである。
その、変身の過程が、とても、辛く苦しいものだと、聞いた。

それは、男でも、女でもない状態を、社会に晒すことになるからだ。

やがて、女に変身できても、次は、体の問題である。

ただ、日本の場合と違い、あちらは、そういう人が多いことから、人々の反応は、早い。
見た目が、女であれば、もうそれだけで、充分なのである。

一番、大変なことは、身体に、違和感を持つことである。

外見が、男、女になっても、それでは、身体は、となると、悩みが深くなる。
そこで、性転換という問題になってくる。

芸能人に中に、それを行った人がいて、その経緯と経過、そして、親の理解などなどについて、語ることがあるが、それも、実際は百人百様なのである。

世界的に、この、ジェンダー問題が取り上げられ、学者たちも、多くの論文を発表している。
それに、目を通せば、世界的に、より複雑な形相になっているようだが、問題は、簡単なことである。

現在の社会は、人間とは、男である、から始まる概念によって、成っているのである。

これは、ユダヤ、キリスト教と、白人主義からのものである。

女は、男の付属物という、観念である。
それが、最も、人間の情操の核となる、宗教の教えにあるということである。

それゆえ、同性愛などは、宗教の教えにより、罪であり、自然に背く行為であり、それは、罰せられるものであるという、経過に至った。

それを、より根強くしたのが、イスラム教徒である。
イスラム法とは、そのように、厳格にして、人の心を、支配する以外の何ものでもない。

現代社会と研究家たちは言うが、実は、問題は、それを作り上げた、宗教思想が、一番大きな問題なのである。



posted by 天山 at 06:42| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月24日

性について206

性同一性障害、トランスジェンダーについての、論文、エッセイ、カミングアウト・・・その他諸々の本を読んでいくと、次第に、こんがらかってきた。

そして、私は、男社会の規範で、理解しようとしていることに、気づいたのである。

肉体が男で、心が女の場合・・・
恋愛対象は、男であると、考えていたが、違う。

好きな人は、好きなのだ。
それが、恋愛に至ることもある。
そして、恋愛とは、セックスに行く道でもある。

だから、結婚後に、性同一性障害を持つ人が、男だったが、女に変更することもある。

男女別という、明確な、区分けで成り立ってきた社会は、実は、非常に歪だったのだ。
しかし、今、この混沌とした、男女という区分けの他に、カテゴリーを作るとしたら、社会は、混乱の極みになる。
と、考えること自体、私は、古い人間、いや、頭の固い人間なのだろう。

ゲイという立場ならば、理解する。
男が男を愛する。
それも、男社会の、規範の中での理解である。

結婚し、妻子を持って、女になった人がいる。
その人を理解するに、私には、百年早い気がしてきた。

心が女で、肉体が男の子が、好きな女と付き合った。
そして、仲良くなり、それなりの、距離に来た時、言われた言葉が、私、ネコなの・・・
えっ・・・
ネコって・・

つまり、レズビアンだった。
その彼女と、仲良くできたのは、友人としての、関係だった。

よく、巷では、男女関係に、友情は、成り立つか・・・
そんなもの、成り立つはずがない。

仏様で無い限り、無理。

男女関係ならば、実に、簡単である。
だが、これが、上記のような関係ならば、複雑で、混沌としているのである。

更に、混沌は、続く。

男同士の友情と、思っていたが、本当は、片方の男には、心の女がいた。
ある時、それが、噴出する。

友情を超えて、好きだったのだと、気づく。

君と、体の関係を持ちたいと、友人に言われた、心も体も男の方は、絶句する。
だが、今は、このような関係は、珍しくないのである。

そして、心も体も男だが、それも、友情の延長だと、肉体関係を結ぶという。
勿論、ただ、体を相手に差しだして、好きにさせる程度なのだが・・・

以前も、書いたが、女とのセックスはいいが、好きな相手は、男・・・
それ程度までは、私も、理解できたのだが・・・

トランスジェンダーに関して、調べてゆくにつれて、収拾がつかなくなる、恐怖を覚えた。

色々な人の相談を受けて、どんな相談にも、動じないと、思っていた私も、これには、動じてしまうのである。

何にせよ、社会は、男女としての、区別から、話しがはじまる。
例えば、トイレ。
その他、諸々。

タイの、ある町で、カトゥーイのトイレが出来たという聞いた時は、さすが、タイだと、思ったが、それでも、戸籍に関しては、変更できないのである。

ペニスのある女・・・
ペニスの無い男・・・

そして、その間を、行ったりきたりする、性の持ち主。

これは、根本的に、私の意識革命をしなければ、理解が出来ないと、知った。

既存の男女の区別を、棄てる。

そして、出来る限り、理解をしたいと、思う。
顔でさえ、皆同じではないのである。
性だとて、皆同じではないのである。

更に、それらに対する、差別意識・・・
その、差別意識は、理解できないということが、前提にある。

そして、理解するためには、努力が必要である。

一度だけ、相談を受けた、男の子は、男の体に、不全感を持ち、女の体になりたいというものだった。
そして、美しくなりたいと、言う。

確かに、しぐさも、女性的である。
だが、男でも、女性的な人は、多い。
でも、彼は、男の体では、嫌なのである。

その辺りまでは、理解できる。
だが、それでは、男が好きなのか・・・
違うのである。
女が好きなのである。

女になり、女を好きになる・・・

そうなると、私がこんがらかるのである。

また、その逆もある。
ペニスを持って、男と愛し合いたいという、女の子。
それじゃあ別に、そうしなくても、男の子と・・・
それでは、嫌なのである。

ああ、私の、性への、旅が続く。

posted by 天山 at 00:03| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月20日

性について207

トランスジェンダーの研究は、今、始まったばかりである。
特に、その社会学的意味。

これは、矢張り、その問題に触れない人、関係ない人にとっては、混乱なのである。
しかし、そこから、見えてくるものがある。

確実に社会は、それは世界全体が、ホモソーシャルという、性別二元制と、異性愛主義に基づいて、性差別を行う、社会構造であるということに、尽きる。

研究家たちも、それを掲げている。

男性集団における強固な「男同士の絆」は、そこに内包された男どうしの心情的にも身体的にも性的な結びつきを隠蔽するために、同性愛者というカテゴリーを創作し、本来は「男同士の絆」が持つ同性愛的要素を、否定的にニュアンスでそこに押し付ける。同時に、自分たちの異性愛性をアリバイとして確認しつつ、その欲望を実践する対象として、女性というカテゴリーをも周縁に配置する。
性同一性障害の社会学 佐倉智美

だから、面白いのは、ゲイ差別をする、男にゲイ的要素があるということだ。
ノーマルな男の場合は、全く、同性愛に対して、寛容である。
しかし、同性愛的要素を強く持つ男ほど、同性愛者を、差別する。また、ゲイがゲイを差別するということの方が大きい。

また、もう一つは、ゲイ差別は、宗教の原理に違反するということからの、絶対的差別を受ける。

ユダヤ、キリスト、イスラム教の原理主義者は、ゲイを、殺すのである。

らしさ、というものに、誤魔化される人間である。

男らしさゆえに、男同士の仲間に入る。
男らしくない男は、その中から、排除される。

男らしくない男とは、女のような、あるいは、差別用語としての、オカマと、言われる。

病気としての、性同一性障害、トランスジェンダーの問題が、男と、女の、境界線の問題とも、なり得るのである。

すでに、性転換手術をして、戸籍も、変更したものに対しては、ある程度の、理解を示すようになったと、思われる。
思われるというのは、まだ、多くの偏見と差別がある。

タイ、バンコクには、世界中から、性転換を希望する者の心理、その後の指導などの研究が行われている。

タイは、世界で、一番それが多いゆえに、研究する場所として、適当であるとの、見解である。

しかし、タイでは、性転換手術をしても、戸籍は変更できないのである。
不思議なことだ。

さて、欧米では、ホモソーシャルの感覚が鋭敏になり、自分の息子が年頃になると、抱き締めることも出来ないという。

それほど、恐れているのである。

だが、アメリカでは、軍隊にゲイである者も、受け入れた。
時代の流れである。

更に、同性婚である。
それぞれの州により、格差はあるが、次第に同性婚に向かう。

これは、性同一性障害を考える上でも、大きなことである。

つまり、異質なものを、受けいれる下準備が、着々として、進んでいるのである。そして、それらが、異質でなくなる時代がくる。

生まれついた、性別を変更することが、出来るという、時代である。

生き方の多様性が、認められた時代がある。
それから、今に至る。

性的指向の多様性が、認められる。
それが、社会の目指すところである。

さて、先の、男同士の絆、ホモソーシャルの世界では、それを維持するために、女性蔑視と、同性愛嫌悪がある。
そこには、トランスジェンダーに対する、蔑視と、嫌悪も存在する。

これを、見て行くと、私は、旧約聖書の神を思う。
全く、その神は、ホモソーシャルな神である。

女性蔑視と、同性愛嫌悪であり、更に、人殺しを好むのである。
異教徒は、皆殺しにするという、野蛮な記述が多い。

この父系型宗教が、大きく世の中に、関与している。
欧米列強時代がはじまり・・・

明治維新により、日本も西欧から、学ぶようになり、同性愛行為が、罪であり、病であると、されて、日本の伝統的、同性愛、少年愛行為は、激減した。

私は、同性愛と、トランスジェンダー問題を、同一の問題として、考えている。

人間の性行為が、生殖をのみを、目的とする、古い考え方から抜けて、生き方の問題であると、考えるからである。

だから、セックスをしないという、無性という、存在も、認めることができる。

異常と、正常の間にあるものとは、何か・・・
それは、それぞれの社会が、決めている。
時代と、時代精神が決めている。

少数者を、マイノリティーと呼んで、マイノリティーに目覚める社会活動が行われた時期がある。
そして、政治、行政が、マイノリティーに少しばかり、寛容になり、今では、障害者用の、トイレから、バリアフリーなどは、当たり前の感覚になっている。

長年続いた、性的指向差別も、いよいよ、大詰めを迎えて、それが、社会的に、意志を表明するようになり、更に、存在観を増すようになる。

その時、ホモソーシャルの社会的構造が、どのように変化するのか。
更に、実際、隠れているが、多くの男社会の中で、例えば、軍隊などの中で、男同士による、性行為が、明らかにされている。

結婚もして、妻子ある男が、男と関係する。
彼女がいる男も、男と関係する社会が、訪れている。

性的指向というものが、らしくない、状況に蠢いているのである。



posted by 天山 at 03:02| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月21日

性について208

性同一性障害について、書いている。
ところが、先に進めないのである。

あまりに、資料が少ないせいもある。

更に、出版されるものの、大半が、告白本である。

例えば
私は現在、性同一性障害(GID)であることをカミングアウト、つまり公表している。
本当は、性同一性障害、という言葉は嫌い。なんだか障害というと可哀想なイメージがあるでしょう?それ以外にしっくりくる呼び方が見つからないから仕方ないけど、私は病気っぽくて嫌。自分が病気だとか障害がある、という感覚はない。だから、別な言葉をいつも探しているんだけど・・・なかなかピントくる言葉が見つからない。
ちなみによく混同される言葉をあげて説明するならば「ゲイ」は同性愛者の意味。私の場合は、自分は女性として男性を好きになるから、同性愛とはちがう。つまり「ゲイ」ではない。
わたし男子校です 椿姫彩菜

とても、解りやすい。
解りやすくて、逆に、解らなくなる。

簡単に言えば、体は、男で、心は、女。
だから、性同一性障害と、判定された。

では、どうして、性同一性を破壊されたのか・・・
疑問である。

生まれ持ってのもの。
そう言うしかない。

それで、性転換をして、女になったので、法律により、性別を変更できる。
これで、おしまいになる。

確かに、障害と判定されるまでは、同性愛のカテゴリーに入れられた。
男が、男を好きになるから。
でも、心が女だから、違う。その通りである。

時代が進み、許容範囲が広がった。
一応、そのように、理解する。

さて、また、混乱することになるが・・・
私が、タイによく出掛けて、性同一性障害の人たちから、話を聞くと、更に複雑なことになる。

性転換を目指して、毎日、辛苦して働く、カトゥーイたち・・・
だが、中には、こんな人もいる。

心は、女よ・・・でも、性転換したいと、思わない・・・
だって、折角チンチンあるのよ・・・
それを、取る必要は無いの・・・

男の体のままで、女装して、男と愛し合う、それで、満足しているという。

だが、ゲイではないのである。

ある種、何かを超えている。

丁度、その修行中に出会った、若者と、ホテルで話すチャンスがあった。
綺麗に化粧をしている。
全く、女性である。

彼? 彼女は、性転換を望む意識は、希薄である。
それには、性転換をした男たちの、様々な、苦悩、苦痛を見聞きしていることが、大きかった。

ホルモンのバランスにより、酒を飲むと、おかしくなる者。
術後から、性格に異変が出てくる者。

兎に角、それは、精神的にとても、大変なことであると、言う。

それならば、性転換をせず、安定した気持ちのままで、男の人と愛し合いたいという。
そして、今は、体を売って生活している。

同じ考えの、カトゥーイは、海外の男から気に入られて、愛人になり、優雅に暮らすという。
だから、性転換しなくても、やって行けるという。

性行為は、アナルセックスである。
極めて、同性愛行為に近いのであるが、矢張り、違うのである。

タイ人は、その点、実に曖昧でもいいのである。

だが、日本の場合を見ると、上記のように、明確にしたい、明確にする。

更に、中には、性転換を出来ずにいると、精神的に、荒み、自暴自棄になる、タイプもいる。
23歳だという、彼? 彼女に出会った。
睡眠薬を常習していた。
だが、25歳で、性転換をしてから、精神的が安定し、とても、優しい女性に、変身していた。

昔、障害は、個性だと言う言葉が流行った。
そして、今も、それは通用するようである。

彼ら、いや彼女たちも、それが、個性なのである。

これから、研究が盛んになり、更に、深く、その心理を追求する人たちが現れるだろうし、また、スムーズに、その個性を発揮できるような社会になることを、願う。

実は、少数派である。
そして、それは、認知されたかに見える、同性愛者にも言える。

人は、百人百様の性のあり様を持つものだ・・・

ノーマルといえども、矢張り、人それぞれの、セックスの好みを持つと、同じである。

バリアフリーが、当然の如くに行われるようになった。
この問題の当事者たちにも、社会がバリアフリーを設けることである。

posted by 天山 at 02:23| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月22日

性について209

男の子だった、椿姫彩菜さんのエッセイを読むと、次第に現実が過酷なものになってゆく。

鏡をのぞくと私が映る。私は鏡の中の自分を「男」だと思ったことは、一度もない。私は無意識に「女」として自分を眺めていた。・・・
でも、現実はそんな自分の欲求とはかけ離れていくばかりだった。学校へは短髪、短パンの制服で通わなければならず、校舎には「男子トレイ」しかない。どうしても入りたくない・・・。私は立っておしっこをしたことがなく、いつも個室へ入って用を足した。

まだこの頃は、ママに与えられるがままに服を着ていたから、下着はもちろん男の子用だった。でもそれ以外で、「男」と「女」に区分けされるものはなかったように思う。

それでも、食い止められない恐ろしい変化が、私の身に起こり始める。年齢とともに「身体」が自分の思う「女性」ではなく、「男性」へ変わりだしたのだ。こんな気味の悪いことはない。そもそも、私にはなんで「しっぽ」がついているのか? 自分の身体にしっかりとついてしまっている「それ」でさえ、なるべく見ないようにしてきたのに、現実は厳しかった。
わたし男子校出身です。

私も、直接そんな男の子に会った。
そして、相談を受けた。
更に、精神科へも、通っていた。

次第にイライラしてくる・・・
もう、ペニスを取りたい・・・
でも、先に袋を取る・・・

「それ」に対する違和感である。

だからといって、男が好きだという訳ではなかった。
兎に角、自分のあり様を変えたいという。
つまり、女になることなのである。

心理カウンセラーでは、間に合わない相談である。
何故、そうなったのか・・・心理的に云々という問題ではないのである。

普通は楽しみなはずの修学旅行の「お風呂の時間」も、私には苦痛でしかなく、とうとう一度も入らなかった。
私は、性器について考えないようにしていたし、話題にもしたくなかった。とにかく邪魔なもの。私になぜかついている「しっぽ」は、そのうちなくなるんだ、と自分に言い聞かせた。・・・

「男の子」と「女の子」の身体のちがいが大きくなればなるほど、私の「心」と「身体」はバラバラになっていった。しかも、どんどん社会的な常識がわかってくる年齢と重なり、自分のアンバランス感が精神を追い込んでいく。
そんな苦しみを誰よりもわかってほしいのが家族。もし、親が理解をしてくれたなら、苦しみは半減したと思う。でも、うちの場合、私が女らしくすることを誰より嫌ったのがママであり、パパだった。ママは、私が男らしくすれば喜び、私に女を感じたら激怒する、という感じだった。
上記より

女脳と、男脳という、見方があるが、彼は、完璧に女脳だったのだ。

アンバランス・・・
当人でなければ、解らないジレンマである。

そして、女の子になって、男の子を好きになりたい・・・
女の子になって、女の子を好きになりたい・・・

その逆もあるのだ。

ここで、更に、苦しいことは、ホモという言葉が使われて、いじめを受けることである。
更には、オカマという言葉。

なんで「男」になっていくんだろう・・・
この苦しみは、当人でなければ、理解できないだろう。

それにしても、身体だけは本当に「男」になっていくんだ。「女」として生きていくことがだんだん難しくなっていく・・・。悲しい未来、絶望的な大人の段階。
上記より

それから、彼の「女」への道のりが、描かれるエッセイである。

彼、いや彼女の場合は、父親より、母親が強固だった。
母親との、バトル・・・

一般的、児童心理学などでは、理解できないし、分析も出来ないのである。

だから、脳学である。
精神が、心が、というより、脳が女なのである。

それで、少数派であるから、障害と、名付けられる。
性同一性障害と、判定されると、性転換手術も、受けられ、日本の場合は、性別変更を行う事が出来るようになった。

それは、良い事である。
しかし、彼女たちは、今度は、子供を産むことが出来ないという、現実に打ち当るのである。

身体が、女になった・・・
良かったではない。

結婚は、女性であるから、出来る。しかし、妊娠は、出来ない。

有名芸能人も、結婚を前提にした付き合いと公表したが、相手の両親が反対したいという。つまり、女であるが、女の機能が無いということだ。
セックスは、できる。ただ、それだけ。

男の、セックスは、勃起、挿入、射精で終わる。
しかし、女のセックスは、その他に、妊娠という、重大事がある。
それが、無いのである。

性同一性障害・・・
とても、悩ましい問題である。

多くの告白本が出ているが・・・
それは、上記の繰り返しになる。

以下、省略して、次のテーマに、移らざるを得ない。

posted by 天山 at 05:34| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について210

それでは、性転換に移る。
悩んでいる人たちのために、追加で書くことにする。

性転換をするには、まず女性ホルモンを何度か打ち、次に去勢手術となる。

去勢の順番は、睾丸、つまり、タマを取る。
次に、胸を入れて、最後は、残った性器を取る。

ただし、その前に、性同一性障害であるという、判定が勿論、必要である。

これに関しては、専門家に任せたい。

エストロゲンの投与を二週間に、一度すると、生殖能力が低下する。
睾丸と前立腺が萎縮する。
そして、乳房が成長することもある。

肌の質感が細やかになり、皮膚が薄く感じられるようになる。
体毛の密度が下がり、色が薄くなる。

男性的頭髪の減少が止まり、頭髪が濃くなり、髪質が柔らかくなることもある。

筋肉が落ちて、体脂肪のつき方が変化するために、女性的な体型に変わってゆくこともある。
体臭や尿の匂いが、変化する。

重要なのは、精巣が萎縮すると、元に戻らないということである。

副作用は、一生、更年期障害と闘わなければならないこと。
抑うつ状態、血栓症、肝機能障害、免疫力低下、寿命が縮まることなど。

更に、乳がんを引き起こす、可能性がある。
心不全、糖代謝にも、異常をきたす可能性がある。

だるさがあり、朝起き難くなる。精神的に不安定になる。

普通、睾丸摘出手術をするまでに、半年以上のホルモンを打つ必要がある。
睾丸は、男性ホルモンを出す部分である。

その手術は、全身麻酔で行われる。
陰嚢の、裏筋の中央部を一センチ切開して、摘出する。

入院する必要はない。
二時間ほど、安静にしていて、翌日から普通通りに生活できる。

ただ、中には、手術により、命を落とす場合もあるということ。
身体が、パニックを起こすのである。

豊胸手術である。
女性ホルモンだけで、ふくらむ人もいるが、矢張り、シリコンを入れることが、多い。

胸の筋肉をはいで、その間に、シリコンを入れる。
シリコンを入れる場所は、脇の下か、乳房の下からの、どちらかである。

術後は、毎日のマッサージが必要である。
それは、とても、大変で、激痛が伴うものである。

私も、タイにて、丁度、豊胸手術をした、カトゥーイから、話を聞いた時、毎日、マッサージが欠かせず、とても、痛みを伴うと聞いた。

最後の手術は、多くは、タイで受けるという。
世界中から、希望者が殺到するタイ・・・
本場なのである。

最初の手術は、膣腔形成、陰茎切除、睾丸切除、陰核形成、陰核とは、クリトリスである。これは、昔は、出来ないものだったが、技術が進み、感覚を得られるクリトリスを造れるようになった。
大陰唇の形成。可能ならば、小陰唇の形成。新しい尿道口の形成である。

そして、二度目の手術が行われる。
およそ、七日後である。

膣腔の壁に、陰嚢皮膚を移植するのである。
つまり、膣を、陰嚢の皮で造るというもの。

別の方法は、ペニスの皮を使う方法もある。
以前は、皮膚の移植で行っていたが、技術が進化したのである。

膣の深さは、平均すると、四インチから、五インチで、10から12,5センチである。

これは、医者の腕によると、思われる。
これ以上の詳しいことは、専門家に譲る。

性について、を、読んでこられた方は、男性器と、女性器が、同じ素材で作られていたことを、記憶していると、思う。

だが、矢張り、この手術は、命懸けのものである。

更に、術後は、また、大変である。
傷口の痛みは、死に至る痛みだという。

生まれ持った性を、取り替えるという、行為・・・
命懸けでも、それを望む人たちがいる。

とすると、彼ら、彼女たちに、少しばかりの、優しさを持って接したいものである。

更に、である。
術後は、まだ終わらない。

今度は、膣が塞がらないように、ダイレーションという行為を続けなければならないのだ。

半年から、一年、規則正しく、毎日行うのである。

膣拡張作業である。
ダイレーターとは、直径三センチ、長さ二十センチのプラスチック製のステックである。

膣周辺を消毒して、毎日、規則正しく行う作業である。
本当に、ご苦労様である。


posted by 天山 at 23:59| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

性について211

わたしは、・・・性のタブーの起源は、人間の性生活がまず不能者としてはじまるという事実にあると思う。
岸田秀 ものぐさ精神分析

そこからの、解釈によると、人間が、はじめて性欲をもったとき、自分の不能に直面し、無力感と劣等感にうちひしがれた、というものである。

これは、苦痛であった。
この苦痛から逃れ、自信と、自尊心を回復するために、性のタブーを設定したというものである。

要するに、性のタブーは、第一次思春期の幼児の自信と自尊心、ひいては人格の統一を守ったのである。当時の性欲の対象者は、当然、近親者(男の子の場合なら、母親)であったから、性のタブーが、まず近親相姦のタブーであるのは当然である。とにかくそれは、外在的なものではなく、人間の内在的必要に根ざしている。
岸田

ちなみに、フロイトは、エディプス期の男の子が、母親に性欲をもち、そのことに関して、敵である、父親に去勢をもって、脅かされ、去勢されるとの不安から、母親への性欲を抑え付けるに至ったのが、個人的起源であると、いう。

もう一人、ライヒの説は、秩序の維持のために、性のタブーを必要としている社会とは、家父長制的、権威主義的社会であり、そういう社会の支配者が、支配の手段として押し付けた性のタブーであり、文化革命、社会革命の第一歩であると、言う。

しかし、それは、性のタブーを無視して、性的放縦に耽ることが、新しい革命的行動だと、勘違いする者たちを、一部に生み出した。

両者、共に、外在的なものである。
そうではなくて、内在的なものだとしたのが、グランベルジュである。
岸田氏も、それに倣う。

だが、仮説である。
それを実なる説であると、解釈し、問題解決に向かう者たち・・・
本当は、誰も知らないことである。

ただし、一応、近親相姦は、タブー視されているのは、事実だ。
だが、タブー視と、実際は、別物。

近親相姦は、無くなりはしないのである。
最も、手っ取り早い性欲解消法である。

性のタブーは不自然で不合理で、有害無益なものだから、そんなものは子どもに植え付けるべきではないと考える親や教育者を見かけることがあるが、以上の考え方からすれば、このような態度は危険きわまりない。それでは、幼児が自分で築きあげようとしている人格防衛の堤防に、まわりの者が穴をあけることになる。
岸田

幼児期の性体験が、のちに、神経症や、性倒錯の病因となる、精神外傷を引き起こすのは、このような、事情による。

はじめから完全な性的自由を与えた方が自然で健康的なのであれば、幼児期の性体験は精神外傷になるはずがないことになろう。
岸田

要するに、性のタブーは、内在的で、個人が必要としたものである、という説である。

そこから考えるに、性の無制限な解放は、不能者と、性倒錯者を、増すことになるのではないかと、岸田氏は、言う。

性交の能力を持つに至る、第二次思春期以後は、性のタブーは、それほど、必要ではなくなる。
そこに、より強い、タブーが存在すれば、別の問題を引き起こすのである。

岸田氏は、そこから、性倒錯についてと、進む。
私も、性倒錯を書き始める。

性倒錯とは、何か。
倒錯と、簡単に言うと、誤りである。
何故、性の誤りが、起こるのか・・・

性倒錯の定義を、岸田氏に、真似て、
同種属の異性との、性器結合以外の方法によって、性的満足を得ると、定義すると、多数の性倒錯が出てくる。

その倒錯は、男性に最も多く、更に、多様な形で、現れる。
この原因も、第一次思春期に不能であったという、事実にあると、考えるのである。

フロイトの言う、性的リビドー・・・

第一次思春期のリビドーは、正常な性交による満足を得る事ができない。ゆえに、必然的に、それ以外の、あらゆる方法で、満足しようとする。
この時期の、リビドーは、性器から分離したリビドーである。

フロイトが言う。
幼児の多形倒錯である。
何でもありの、幼児期の性的満足である。

性倒錯の時期が、花盛りである。

いわば、人間は、まず正常であって、何らかの異常な原因があって、あとから性倒錯になるのではなく、逆に、まず性倒錯者であって、教育やその他の努力の結果、正常者になるのである。
岸田

正常な性行為は、後天的に獲得された、習慣であるということだ。

そして、その正常といわれる、性行為で、大半の人は、性欲を満足させる。
ところが、そうではない人たちが存在する。
それが、性倒錯の人たちである。

先にも書いた定義であれば、それ以外は、皆、性倒錯になる。
マスターベーションも、性倒錯になってしまう。
一人で、満足するという、性行為は、正常ではないから。

性行為の誤り・・・
本当は、そんなものは無いが・・・
書き進めてみる。

posted by 天山 at 04:31| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月18日

性について212

性倒錯は、第一次思春期に、人間が不能であったという事実にあると、考えられると、岸田氏は、言う。

つまり、その時期は、性的リビドーが、正常な性交による満足を得られない。ゆえに、それ以外の、可能な限り、あらゆる方法で満足を得ようとするというもの。

フロイトも、ここから、幼児期の、多形倒錯がはじまると、言う。

いわば、人間は、まず正常であって、何らかの異常な原因があって、あとから性倒錯になるのではなく、逆に、まず性倒錯者であって、教育やその他の努力の結果、正常者になるのである。
岸田秀

学者さんは、こんなことを考えていても、金になるからいい・・・

人間の場合は、動物のように本能に規定されたものではなく、後天的に獲得された習慣が、性行為なのだということだ。

果たして、そうだろうか。
人間も、動物である限り、本能に規定されているはずである。
もし、そうでなければ、それは、大脳化のゆえだろう。
と、以前にも、そのために、多く書き付けたはず。

まず、兎に角、岸田氏の、論を続けてみる。

第二次思春期になると、性器が完全に成熟し、正常な性行為が可能となる。
そして、社会通念上も、それが正常だと、容認する。

社会通念は、大勢であるから、倒錯的傾向に対して、激しい偏見と、更には、闘争にまで発展する。

しかし、心理学的に、多少とも、大半の人が、倒錯傾向を残存させている。
というより、マスターベーションも倒錯であれば、おおよそ、すべての人と、言うことも出来る。

倒錯の強弱は、第二次思春期の性満足に由来する。
その満足の形式に、リビドーが固着する強弱である。

だから、この期間は、外部からの性的刺激は、できるだけ少ない方がいいようである。
特に、はじめて、リビドーが非常に満足させられると、その体験形式が重大な影響を与えるという。

性倒錯の、形式を上げれば、実は、切が無い。
それは、性器から、リビドーが分離しているから、何でもありである。

人間のリビドー、つまり性的欲求は、性器から分離することによって、留まることを知らないエネルギーになるのである。

岸田氏に習い、上げてみると、同性愛、サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、窃視症、露出症、放火狂、窃盗狂、獣姦症、屍姦症、更に、幼児性愛、老姦症・・・
切が無い。

そして、それが単独にある場合と、複雑に、それらが絡まるのである。

要するに、あらゆる対象、あらゆる行動形式が性欲の目標または手段となり得る。
岸田

そこで、問題は、性倒錯の形式が、どのようにして決定されるかである。

最初にリビドーが興奮させられたときの体験形式が重要な要因であることはたしかだが、それは、その体験形式が個人の人格構造全体の一環をなしているかぎりにおいてであって、要するに、第一次思春期における個人の人格構造が問題である。
岸田

倒錯は、個人の人格の、一つの表現形式である、となる。

如何に、幼児期が大切な時期であるかが解る。

つまり、性倒錯の形式過程を解明するには、人格の発達過程を知らなければならないということになる。

ここで、その児童心理云々を、書き続ける訳には、ゆかない。

端的に言えば、フロイトが名付けた、口唇期である。
赤ん坊、幼児は、客観的には、無能であるが、主観的には、全能である。

そのうちに、自分の思い通りにならないことに気づく。
無能の自己と、全能の自己が、葛藤する。
そして、一種の抑うつ状態に陥る。

そこで、全能の自己を、母親に投影する。
全能なる、母親を信じ、崇拝する。

そして、母親と、自己を同一視するのである。
そのうちに、母親も、全能ではないことを知る。
その幻滅から、反抗するようになる。

心理学では、第一反抗期と呼ぶ時期である。

その後、自己の対象、現実と空想との区別を明確にする。
全能の自己は、その誇大妄想的な要素を失い、理想の自己となり、無能の自己は、その無能性を脱して、現実の自己となる。

その時期から、フロイトによると、肛門期に入るのである。

余計なことを言えば、ユダヤ人だった、フロイトは、無意識に旧約聖書から、多くのヒントを得ているようである。
全知全能の神を掲げて創作された、民族の宗教である、ユダヤ教から、人間の心理を取り出していたのである。

性というものに、注目したのも、ユダヤ教、旧約聖書からの、ものであろう。
人間の生きる、エネルギーを、性的リビドーと命名したのである。
ユダヤ教の神は、性的エネルギーの象徴として存在するのである。

さて、肛門期である。

とにかく、個人の人格は、個人が直面した状況に内在する矛盾(葛藤)を解決するたにある人格体制をつくりあげ、またその人格体制そのものが矛盾をはらみ、さらにその矛盾を解決するためにまた別の人格体制を築く、という風に弁証法的に発達してゆく。
岸田

ここでも、解るとおりに、心理学とは、他の学問に大きく依るところである。
弁証法は、哲学概念である。


posted by 天山 at 00:32| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月19日

性について213

フェティシズムは、個人が口唇反抗期から肛門期に進むのに失敗した場合に形成されるとわたしは考えている。その失敗の結果、個人は、それ以前の段階、すなわち口唇崇拝期に退行する。
岸田

そして、全能の自己、ナルチシズムを再び、母親に投影する。
だが、その試みは、失敗する。
そうすると、抑うつ状態になり、何とか、ナルチシズムを投影できる、対象を求めるのである。

ついに個人が人間ではなく何らかの事物にナルチシズムを投影したとき、この事物がフェティッシである。つまり、フェティッシは、個人にとって、全能の自己の象徴となる。
岸田

第一次思春期がはじまり、何らかの形で、リビドーが刺激され、ある種の性的満足を得ると、この状態が、後の、性的満足の原型になるわけである。

ただし、性倒錯ではない、フェティシズムも存在する。
それは、その人格発達の過程で、ナルチシズムを事物に投影し、フェティシズム的人格構造をもったときに、リビドーの興奮の体験を持つか、持たないかで、別れ道になる。

ただ、いずれにせよ、抑うつに対する、防衛の役割を持つのである。

ナルチシズムを異性に投影すれば、そこから恋愛関係がめばえてくるのだが、性倒錯者としてのおとなのフェティシストは、・・・子どものような人格構造から脱却できず、その発達段階に停滞し、事物にナルチシズムを投影する傾向をもちつづけ、そういう方法によってしかリビドーの満足を得ることができない者である。
岸田

人格が未熟である、ということだ。
これで、日常生活の様々な場面における対応も、理解することができる、というものである。

岸田氏は、フェティシズム以外の、性倒錯も、同じ理論で、説明できるという。

そこで、その他の、成立原因について・・・
性倒錯を維持させている原因として、異性の対する恐怖があると見る。
成熟した異性と、対等な人格対人格の関係を持つのが、怖いという心理である。

窃視症、露出症・・・
相手と距離を置いて、覗く、あるいは、性器を見せるなど。

幼児にいたずらして、殺したという、事件もあったが、一人前の女には、近寄れない、気の弱い男なのである。

異性に対するこのような自信のなさは人格の未成熟を物語っている。
岸田

同性愛、サディズム、マゾヒズム・・・
圧倒的に、男性に多いのである。

女性の、露出症などは、聞いた事がない。更に、覗きなども、である。

つまり、正常な性行為では、男の方が、より大きな困難を背負うという。だから、異性恐怖も、強くなる。

更に、男の方が、想像力が豊かで、観念的であるともいえる。

岸田氏は、一枚のパンティから、異性の全体像をイメージするような想像力は、女性には、欠けていると、言う。

男のリビドーが、性器から、分離していると、納得するのである。

もう、一度、性器から分離した、リビドーの一つが、性倒錯であるが・・・
別の運命を辿る場合もある。
芸術である。

大脳化した、性意識による、進化が、芸術に与える影響は、大きい。
性的リビドーが、芸術に向かう時、それが、素晴らしい作品を生む可能性が高いのである。

生物学では、個体保存本能と、種族保存本能の、二つを区別している。
性欲は、種族保存本能に由来するといわれる。

この、生物学的仮説は、人間には、当てはまらない。

人間の性が、生殖から、分離していることは、最早、明らかである。

更に、その分離過程は、留まることなく、性欲は、生殖欲とならず、性器も、それから、分離しているということである。

性器から、分離した、性欲が、性倒錯を生み出し、また、様々なものも、生んでいるのである。

そして、フロイトの仮説では、生まれた時から、性欲があることになっている。だから、フロイトは、生きるエネルギーを、性的リビドーと名付けたのである。

人により、第一次思春期から、子どもの性欲がはじまると考える人もいるが・・・

だから、人間の、特に男は、不能からはじまる、性の物語であるとの説である。

ユングは、心的リビドーが、生きるエネルギーであるとした。
それについては、別のエッセイ、霊学で書いているので、省略する。

さて、人間の場合の、性欲をエロスと呼ぶ。
それは、動物の性本能とは、別物であると、考えられる。

だが、そのエロスには、実は、タブーと言うものが無いのである。
しかし、エロスにおける、タブーを作り出した、人間である。

そうすると、話は、また、元に戻り、人間のエロスが、不能のエロスとして、はじまったためであると、なる。

そのエロスが、幼児からはじまるという、残酷な話である。

幼児はおのれの能力のなさのゆえにできないことを、外的禁止があるから、できるのだけれど許されないのだと考える。そう考えることによって、不能であることの劣等感からやっと逃れる。
岸田
そして、そこに、合理化と、防衛機制という、心理的状態が生まれる。
心理学の、得意な、言葉遣いである。

そして、これらの、言葉を鵜呑みにして、合理化、防衛機制を、ふんだんに利用して、解説するのが、また、得意である。


posted by 天山 at 05:23| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

性について214

性倒錯について、岸田秀氏の定義でみてきたが・・・

本来、私は、当然のことと思っている。
問題は、その行為が、反社会的行為になる時である。

幼児性愛・・・
自身で勝手に妄想して、遊んでいる分には、何ら問題はない。
そのための、ダッチ幼女まで、存在するのである。

更に、同性愛が、倒錯とは、言えない。
当然あって、然るべきもの。
異性間の性行為のみを、性行為の定義とすると、非常に狭くなるのである。

兎に角、人間は、多型倒錯の過程を経て、成熟してゆくものだと・・・
その幼児期を、脱却できず、性の成熟が歪むと、心理的というか、脳に倒錯の芽が残ると、考える。

時代は、誰もが、指摘するように、機械親和性困難の状態にある。

それは、自己を閉鎖空間に閉じ込めて、限りなく、内に向けるのである。
その相手をするのは、機械である。

核家族化であり、プライバシー尊重からか、個室で行われることに対して、無防備である。

そこで、極端な、虚妄の世界に入り込む若者がいる。
この世に、存在するものが、モノであり、記号になる。

簡単に葬り去っても、画面には、再生されて、甦る。

逸脱した脳ということになる。
殺す、切断する、焼く、という消去行為・・・
ビデオ映像の中に、遺体を閉じ込めて、更には、再生させて、楽しむ。

それが、行動の延長になると、犯罪が起こる。

このように、虚像に取り囲まれた、閉鎖性の中にあって、生身の人間と接しないと、限りなく、性的に幼児化した、人間になる。

その幼児化した人間が、平気で、反社会的行為を行う。
それが、様々な事件に現れている。

倒錯というより、異常性欲の方が、問題である。

性倒錯者が、逸脱行為すると、決め付けることは、出来ない。
自身で、その満足を得ているならば、問題ないからである。

マスターベーションが、逸脱した行為だとしても、誰にも、迷惑はかけないし、反社会的行為にはならない。
自己完結しているのである。

倒錯の芽は、誰にでもあるが、その強弱が違うこと、そして、それをどのように昇華させているのかが、問題である。

SM好きの、カップルが結婚した。
同じ傾向を持つ者同士である。
他人が、口を挟むことではない。

同性を愛する者が、よい相手を見つけて、一緒に暮らす。
何の問題も無い。

つまり、自己完結と、反社会的行為でなければ、成熟した性感覚を持つと、考える。

これが、幼児性愛で、幼児を拉致し、殺害するなどというのは、犯罪である。
そして、その生まれ育ちを考慮しても、犯罪者として、その罪を受けなければならない。

ちなみに、アメリカの精神医学会が、1980年に、性の逸脱を、大きく四つに分類している。
性同一性の障害
パラフィリア
性心理機能異常
その他の性心理異常

この中で、パラフィリアが、性倒錯に当る。
今まで書いたとおりである。

その他の性心理異常に、同性愛が上げられるが、今では排除されていることだろう。

パラフィリアに関して、驚くべきものがある。
糞便愛好、尿愛好である。

それが、すべて、幼児期、少年少女期における体験により、逸脱してしまうのである。
一々、実例を上げている暇がないので・・・

その中に、サド・マゾ専門の女性もいた。責め道具のおもちゃを見せてもらううちに彼女がポツリという。「スカトロっていうでしょう。私のウンチだけ食べに来る男の人がいるの」・・・無言でいる私に、たたみかけるような彼女の声。「私のうんこ硬くて小さくて味がいいらしいの」事もなげにいってのける。まだあどけなさの残る少女の顔を、私は呆然と見つめるだけだ。
性は生なり 大島清

その客層を聞いて、更に、驚く。
10,20代の若者なのである。
その若者たちも、幼児期から、何らかの、性的虐待を受けていた可能性がある。

現代の形相は、成熟した女性とのコミュニケーションが出来ない、更に、草食系などと言われて、セックスに興味を示さない。

そして、それらが相手にするのは、幼児や児童だとしたら・・・

トラウマを持つ者が、更に、トラウマを持つ者を作り出すという、連鎖的状況である。

人間の心の、原風景は、9歳までに、決まる。
それまでの、体験が、人生を大きく左右するのである。

今、社会に、教育に、何が求められているのだろうか・・・
子どもを守るには、どうすれば、いいのか・・・
更に、未成熟な性意識を持つ者たちを、どのように指導することが理想なのか・・・
育て直し体験か・・・

posted by 天山 at 07:49| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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