2012年03月08日

性について。193

売春行為に含まれる、主体は、二人である。
男と女・・・

今は、男と男も、女と女も、あり。

マンシニは、
客について論じられることは、ほとんどない。
と、言う。

確かに。

しかし、売春禁止の国では、売買が罪になる。
ところが、矢張り、今でも、客については、あまり論じられないのである。

日本の場合は、売春でも、捕まるのは、圧倒的に、児童買春である。
生徒と、先生・・・
更に、いい大人と少女・・・

行為の責任主体は果たしてだれか、主犯者は男性の方か女性の方か、どれくらいの比率か、この種の行為において客は主犯か共犯者か、客も売春婦も共に主犯者なのか、こうした諸点が問題である。
マシンニ

原則論からだと、男女は平等となっている。

ところが、おおよそ、どの国でも、売春婦は捕まるが、客の方は無罪である。

法律的見地を別にして、道徳的にいって、両者のいずれか一方が他方より不届きで有罪であるとみなすべきであろうか。この問題に対する解答は、もう何百年の前から示されてきたところであり、責任はもっぱら女性のみにあり、処罰と制裁の対象は女性のみに限られるということである。
マシンニ

とは、欧米の、キリスト教世界に多い・・・
いや、アラブも、である。
つまり、旧約聖書を道徳として、掲げる民族は、皆そうである。

つまり、女は、男の付属物であり、家畜より、劣る者であるとする、思想である。

モーゼの十戒の中に、汝、姦淫するべからず、とあるのは、人の妻というより、女は男の所有物であり、それを盗むなと、同じなのである。

更に、その戒があるということは、もっぱら、行われていたということである。

マンシニは、それを省略している。

アラブ、イスラムでも、殺されるのは、女である。
男は、罪にされない。

法律的見地も何も、まず、その民族の道徳観念が、どこから、流れているかである。
その、道徳観念が、法律の前進になるのである。

それではいったいどの程度、客としての男性に責任ありとなしえようか。それは、公正という点からすれば、男性が女性のおかれている拘束と奴属状態にどの程度乗じようとしたかによって決まることである。
マンシニ

純潔な少女が、買われて、立派な娼婦になる。とすると、それは、少女を買った者が、罪に問われる。
その逆は、若い男が欲求を満たすために、娼婦の所に行く。この場合は、厳格な道徳に反するとまでいえないが、少なくとも、宗教に反する、行為の共犯者となるが、この相手の女性は、この行為に何らか関係しているというのだろうか、と、マンシニが言う。

売春禁止・・・・
どの位、具体的に、規定されるのか・・・
それぞれの国によって、違う。

そこで、権威ある人たちが、
売春を抑える一番敏速な手段は、客に責任を負わせ、客を処罰することです。
と、なる。

日本では、少女売春は、客が罰せられることだったが、それから、少女の側も、罰せられるようになった。

だが、客が罰せられるとは、売春行為自体が、犯罪と規定されることである。

大抵の国の場合はそこまでいっていないことも周知の通りである。
マンシニ

じっさいは、問題はそんなことではないのであって、本質的にはだれが最も罰せられるべきか、男か女かなどを知ることはどうでもよい。というのは、男と女の結びつきが売春仲介業者やヒモ、ホテル業者、酒場の経営者、売春婦を歓迎するカフェやバーの主人によって可能とされてきたケースが80%も占めているからである。
マシンニ

そして、客は、売春の共犯者であり、その役割は、当然、時代と、場所の具体的条件に従って変わるものだとの説である。

そして、漸く、
男女のいずれの資格・立場にかかわらず売春行為を禁じている教会以外は、近代社会では常に警察は客の立場の保護に任じ、客の安全を図ってきたのである。客はその社会的地位のいかんにかかわらず法を遵守するいっさいの市民に与えられる保護を受けたわけである。
マンシニ
と、なる。

教会以外は・・・
教会が、禁止していたのである。

それが不思議なことに、後に、教会の聖人となる者たちも、それを、利用したという、事実である。
一々、名前を挙げない。

戦時の際に、兵士のために、売春婦を用意したのは、すべての国に言える。
二十代の男たちを、静めるためには、それが、必要だったのである。

更に、売春により、外貨を稼ぐという、国家的な目的も、あった。
戦後の荒廃した街で、売春婦たちが、活躍し、その街を一躍有名にすると言う、皮肉。

脱線するが、女の又は、凄い力を持つのである。
決して、無くなりはしない、売春行為である。

売春行為を、もう少し突っ込んでみる。




posted by 天山 at 00:18| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月09日

性について。194

フランスでは義務兵役制によって、売春婦を求める客が充分補充され、これに戦時中の何百万という人間の動員で、客の列が絶えなかったのはもちろんである。
従来、至るところ、常に兵士、旅行者、海員といった、その境遇からして妻と離ればなれになった人々がいたわけであって、女性に相手になってもらいたいという願望を彼らが抱いたとしてもそれは人間性の道理である。
マンシニ

しかし、フランス政府は、売春禁止を行ったにも関わらず、アルジェリアに娼家を残すことで、問題が解決すると、信じた。

結果、野戦軍用慰安所が、都市地域登録特殊営業店となり、酒場の経営者や、ヒモ、本国から、若い売春女を、大量に、それも、多くの場合、欺かれて送られてきたという。

マンシニは、
破廉恥な富を築き続けている。
と言う。

それには、軍、当局は、何もせず、傍観している。
仲介業者は、多数の女を、淪落に陥れ、完全に、奴属させているのである。

事実資料は、確実なものとは、いえないが、司法警察は、パリで、毎日客になるものは、四万人を超えると読む。

肯定的な結論は、公然的に売春婦集団の組織と統制の手段という問題に帰着する。
マンシニ

そうして、売春行為を、規制するために、ヒモ、売春業者、仲介を、これに関して、確実に排除する必要がある。

そして、売春婦にもすべての市民と同じく強制的な納税義務を負わせ、社会保障の適用を受けることにすれば、いかなる特殊な意味でも無能力者ではありえないことになる。
マンシニ

これが、最終的な、売春婦に対する、マンシニの考え方である。

それほど、売春行為は、消滅しないということである。
そして、業者を追放して、売春婦の権利と、義務をかせる。

日本にも、性的サービスボランティアが、登場した。
売春行為ではなく、障害者に対する、性的サービスを行うものである。

人間は、誰もが、性というものから、逃れられないものなのである。
だから、理想的な、売春行為の形を、考える必要がある。

マンシニは、売春婦を求める男は、それ以外に、欲求を満たしえない人、ただ、快楽を求める人であると、言う。

そして、障害者や、生理的に、売春婦以外に、性的関係を持つことに、同意してくれるような、女がいないという、理由で、売春婦の元に行く。

また、素人の女を手に入れるほど、金も余裕も無いという人である。

そして、更に、普通の夫婦では、用いられない性交技術を求めている人である。
売春の世界に、刺激と、憧れを抱く人。

性的異常者、性的無能者、偏執狂、サディスト、マゾヒスト、性的倒錯者、等など・・・

市民の中のひとにぎりの集団の、多かれ少なかれ、やむにやまれぬはっきりした欲求や異常性格に応じて売春の営みを法律的に組織することは、公共の利益や世論の心理に反することである。その他の者については、自由な合意による性行為は、個人の良心の問題であろう。
マンシニ

つまり、売春は、なくならない。
故に、理想的な、売春のあり方を、考えたというものである。

最後に、
社会的見地からして、男女両性の間の関係が、多数の人間の集団が淪落するのを防止する目的で考察されなければならないとしても、それは別の角度からみるべき問題である。
マンシニ
となる。

売春の歴史は、長い。

その初めは、神殿にて、行われるほどの、神聖なものだったという。
それが、神に捧げられる行為として、理解されていた時代もある。

そこに、女が男に、従属するという、考え方から、やがて、女を性の道具とする、考え方が生まれる。

酷いものになると、女に、快感を覚えさせないように、クリトリスを切るという行為までするようになる。
主にそれは、イスラムの中にある。

更には、男の割礼が、それを生んだのである。

差別・・・による、売春行為が、延々と続けられたといえる。

また、アフリカの一部では、子供を必要としなくなると、女のヴァギナを縫い合わせて、アナルセックスに移行させる部族もある。

そして、新しい時代は、同性愛までも超えて、無性の時代が、はじまる。
無性とは、性が無い。

男でも、女でも、更に、ゲイでも、レディーボーイでもない。無性である。

性というものを、必要としない人間の、出現である。
これは、進化なのか。

クローン人間の登場も、有り得る。
試験管ベビーは、とうの昔に始まっている。

だから、性のあり様が、個人に帰すのである。

合意の上で、性行為をする。
それは、良心の問題であると、マンシニは、言う。
宗教的、道徳観念ではなくなったのである。

快楽を求めるのは、人間が生きるためである。
その快楽を負うのが、性である。

とりあえず、売春の歴史を終わる。
いずれ、また、触れることがあるはず。

posted by 天山 at 00:00| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月10日

性について。195

売春の歴史を書いた。
書き足りないが、いずれ、また、何かの拍子に書くことになるかも・・・

次ぎは、性同一障害と、レディボーイに関する、問題提起である。
だが、その前に、少し寄り道して、熟年の性を考える。

ここでは、熟年とは、40歳以上を言うことにする。

2000年に、日本性科学協会が、男女1000人に行った調査がある。

パートナーからの、気乗りしない性交渉に応じたことがあるか、という質問に、よくある、時々ある、と回答したのは、40代女性の三割以上で、50から60代の女性は、四割以上である。

男性側は、よくある、時々ある、と答えたのは、40から60代で、一割程度。

男は、求め合ってしている、求めれば応じる、と思い込んでいるが、女は、しぶしぶ、なのである。

更に、男の方は、長年の妻であるから、相手のことより、自分の射精に重きをおく。
自分のペースで進み、そして、射精して、終わりである。

熟年の性生活が、実に、味気ないものになっている、現実がある。

若い頃とは、違い、触れ合う、コミニュケーションが無いのである。

定年・・・
しかし、セックスに定年は無い。

1994年に、性科学会が、セックスレスの定義を発表した。
それによると、
カップルの合意した性交、あるいはセクシャルコンタクトが一ヶ月以上なく、その後も同じ状態が長期にわたることが予想される場合。
である。

この、セクシャルコンタクトとは、抱き締める、キスをする。ペッティングやオーラルセックス、裸で一緒に寝ることも含むもの。

セックスとは、挿入と、考えているのが、男である。
女は、それがなくても、十分に満足する場合がある。

生殖のための、セックスは、本能の行為で足りる。
しかし、生殖以外の、セックスでは、本能を切り離して、性というものを、作り上げる努力が必要なのだ。

勿論、宗教の中には、生殖以外のセックスを禁止しているところもある。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教である。
しかし、禁止されているが、信者は、皆、セックスを楽しむのである。

日本人から、見ると、それは、逸脱しているように見えるほどである。

性というものを、追求していくと、熟年の性とは、実に、人間性に富むものであるということが、解る。

若い頃とは、全く、その姿勢が違うのである。
セックス・・・
熟年の場合は、それは、死に至るまでの、深い付き合い、関わり、そして、あるいは、死というものをも、包括する。
つまり、性的満足は、死の恐れをも、軽くするのである。

女の場合は、閉経という事実がある。
その前後で、女の意識も変わる。

お役目が済んだという人。
これからが、楽しむ期間だと、思う人。

閉経後に、セックスをお勤めと、考えていた人には、それ以後のセックスが、苦痛になるという。

性、から、セックス、そして、エロスに至る道を、人間は、辿ってきたし、また、熟年の性は、エロスへと、向かうことで、性と、セックスが、昇華するはずである。

ただし、私が昔、相談を受けた中には、夫が機能不全で、夫公認の恋人がいると、言った、50代後半の方がいた。
彼女の悩みは、それが道徳的に悪いことか、また、それが良いとして、まだ恋人を持ってもいいかという、問題だった。

要するに、セックスが無ければ、生きられないタイプである。

夫が、勃起不全で、恋人がいるという、若い女性にも、多く会った。

凄いと思ったが、結婚初夜から、セックスが無く、会社の上司と付き合って、男女の性の交わりを知り、愕然としたという、相談もあった。
勿論、離婚の相談である。

私は、彼女に、それを夫に言い、どうしてセックスが無いのか、確認して欲しいと言った。
後日、彼女が来て言う。
夫は、初めから、不能なんです。
でも、離婚を言うと、死ぬと、言い出しました。

それら、幾度かの、相談の後、よくやく離婚が出来たと言う。
夫の不能に関しては、秘密厳守ということで。

その場合は、完全に機能的に問題だった。
だが、精神的問題の場合もある。
その場合は、本人、夫にも、来て貰うが、中々、夫は、来ない。

50代で、未亡人となった、女性は、毎晩夫のセックスがあったという。
ガンで亡くなったが、最後まで、夫は、妻とのセックスを続けていた。

そして、夫が亡くなり、彼女の不安は、セックスの相手がいないことである。
私は、恋人を持つことを勧めた。
そして、念願叶い、恋人が出来た。

しかし、問題である。
相手方が、あたなは、濡れないと言うのである。

私に、自分のソコを鑑定して欲しいと言われたが、医者ではないから、出来ない。兎に角、ゼリーなどを使い、挿入をスムーズにする方法を教えた。
その方は、週に一度、カウンセリングのように、私の所に、やって来ては、恋人との、セックスのあれこれの、アドバイスを求めた。

熟年の性は、セックスから、エロスへの変容の時期である。
より豊かな、人生を送るためにも、熟年の性を楽しむべき。

少し、熟年の性を詳しく、眺めてみる。


posted by 天山 at 07:13| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月26日

性について197

熟年、あるいは、老年のセックスの、様々な資料を調べていると、人には、それぞれのセックスがあり、更に年齢による、セックスがあるということが、解る。

若い頃、それは、20、30代までは、男の場合は、セックスが性急で、射精を中心に考えるが、一般的に、40代以降の、性衝動は、それ以前にも増して、強くなるということが、理解される。

私は、40代前半は、思春期のような、戸惑いがあると、考える。
つまり、性急さが、消えて、セックスというものに、人間性、つまり、性的人間と、エロスへの道を見つめる時期と、考える。

夫婦のあり方も、40代からは、変わる。

それは、勃起のコントロールが出来るということが、大きな、成果である。
精神的なゆとりを持ち、女性、妻が、どう感じているのかを、見ながら、余裕ある、セックスが出来るということである。

つまり、セックスをエンジョイ出来る、年齢なのである。

若い頃も、セックスをエンジョイするという、気持ちがあるが、結局、一人勝手のものに、なりやすいのである。

勿論、それも、セックスの一つの形である。
女も、その若さゆえに、激しいセックスが、愛の証のように、感じる。
だが、セックスの快楽と、セックスの満足感は、変転する。

熟年の、セックスは、愛し方、愛撫の仕様で、女性を喜ばせることを、知るのである。
つまり、自分本位ではない、セックスである。

相手を大切にするから、相手の満足を高めたいという、気持ちが、余裕になる。

それが、自分の喜びにもなるのである。

65歳前後の、男は、勃起不全になりやすい。
だが、それが、セックスのあり方を変えることもある。

挿入は、出来ないが、相手を思いやり、相手を満足させているうちに、勃起力が、回復して、ついには、挿入できるようになったという、報告が多い。

更に、射精が、目的ではなく、愛し合うことが、目的になる。
すると、セックスが、変容する。

つまり、射精を求めない挿入であり、その間を有意義に楽しむものになる。

私は、マスターベーションの際に、熟年のそれは、一週間ほどをかけて、射精に至る楽しみを得ることだと、書いた。
それと、同じで、射精が、セックスのすべてではない。

その過程に、セックスの醍醐味があるという、熟年、老年の、セックスを勧める。

射精は、馬鹿の一つ覚えである。
人間の、大脳は、大きく進化した。

それが、熟年、老年の、セックスを充実させる。

子供を得るための、セックスが終わり、本当に、性的交わりが、ボディランゲージ、つまり、肉体における、語り合いに至る時に、人間みという、知性の存在が輝くのである。

死ぬまで、人は、食べる。
食べなければ、死ぬ。
そして、セックスは、しなくても、いいようになる。
しかし、セックスを楽しむ気持ちを持つことが、人間らしいと、思うのである。

人間とは、愛しいものである。

90歳の老婆が、その娘に、何が欲しいと、訊かれて、もう一度、やりたいと、言ったという。

素晴らしい欲求である。
娘は、その母親と、セックスしてくれる男を捜した。
そして、ある男が、よし、お前の母親のために、俺が、やってやると、言った。

それを、母親に伝えると、ありがたいと言った。
そして、90歳の母親が、セックスをした。

娘が、母に訊いた。
どうだった・・・
ありがたい・・・本当に、ありがたい、と言った。

死ぬまで、女であることを、母親が娘に示した。
感動する。

妻が、ガンで余命いくばくもない日に、家に帰宅許可がおりた。
そして、家で、急変した。
夫は、何と、その妻を抱き上げて、ありがとうと言い、自分のペニスを妻に、握らせたという。
妻は、笑って、夫の胸で亡くなったという。

セックスが、単なる、欲望の云々ではないのである。

性の、象徴性と、私は言う。

ある男は、死ぬ間際に、妻に、ペニスを口にして欲しいと言った。
妻は、夫の、ペニスを口にした。
そして、夫は、息絶えた。

これは、性の超越である。

男女の、交わり、セックスが、単なる性的欲望を超えた、姿である。

性的満足を、嫌悪する人たちもいる。
それは、また、その性的感受性であろう。

だが、しかし、性を真っ当に享受する姿は、真っ当な人間性を、見せてくれる。

性を侮る者は、性によって、その報いを受けるのだろう。

人間の性は、進化によって、単なる動物の性的行動とは、袂を別ったのである。
私は、人間の性的関係を、言語関係と同じく思うものである。

それを快楽などという、宗教的な、価値観念とは、全く別物と、考えている。

性と、セックスは、人間賛歌である。
快楽ではなく、生きるに、必死な人間の、あり方である。


posted by 天山 at 00:00| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月28日

性について。199

性同一性障害を見る前に、もう一度、性の基本を見ることにする。

オスに対するメス、メスに対するオス、といったように、世の中の性別は二極性に分類されることが多い。ほんとうは、オスとメスの間に無数の移行形が存在し、100パーセントのオスもメスも存在しない、などといったら卒倒しかねない人の方が多いだろう。
と、こういうのは、
オスはどうして男になったか、の、大島清氏である。

胎児にはじまり、成熟するまでに、オスとメスに分れる、性の分岐点が、いくつも、存在するために、遺伝的なメス・オスと、外れた性が、出来上がるのである。

何故、オスとメスと、分れるのか。
ゾウリムシ、ゴカイなどの、下等動物に限られた、無性生殖というものがある。
だが、その方法では、親の単なる、分身とか、コピーが出来るにすぎない。
親と、そっくりで、すぐに大人になるが、精々、一つの限られた環境にしか、適応できないのである。

また、魚類、両棲類、爬虫類といった、下等動物には、雌雄同体の、様々な、形態が見られるのである。

下等な動物ほど、容易に性転換する。

魚の、ある種には、群れのなかに、オス一匹しかいないが、オスが死ぬと、メスの最も強いものが、オスになる。

成長の過程で、はじめは、メスなのに、長じて、オスになるという、時間的雌雄同体のものもいる。

生物が、進化するというのは、繁殖に成功することである。
繁殖に成功するというのは、進化に、環境が変動しても、それに耐え得る、強くて、優秀な子孫を作ってゆくということだ。

変化のない、親のコピーでは、繁殖の成功とは言えないのである。

繁殖の成功と、進化とは、メスの個体と、オスの個体の行う、有性生殖であり、それは、遺伝的素養が、様々に混じり合わさり、変異のある、個体が作られる。
更に、すぐに、大人にならず、卵から、幼生、成熟に至るまで、長い時間がかかる。
その間に、厳しい淘汰を受けて、良い形質のものだけが、生き残る。更に、絶え間なく変貌する、環境にも、適応できる、子孫を増やすということである。

有性生殖には、三つの大きな目的がある。
疲れてきた細胞を若返らせる。
多数の子孫を残す。
親と少し違った性質の子孫を残す。

生物には、また、遺伝子には、自分の生き方を、守り、続けようとする、本能がある。
そのために、自分と同じ個体を作り、自分の生き方を、継続させる。その最良の方法が、有性生殖である。

人間の場合の、有性生殖というのは、セックス、性行為のことである。

以前にも、書いたが・・・

有性生殖のオスは、生命のはじめに、Y染色体がなくてはならない。
だが、Yだけでは、オスという、生命体にはなれない。
生命体になるには、X染色体が、不可欠なのである。

逆に、メスの方は、Yがなくても、生きていける。

以前、出来損ないの男たち・・・で、書いた通り。

メスの染色体構成は、XX型だが、ターナー症候群と呼ばれる、染色体異常でも、X染色体が一つで、Yがなくても、生きてゆける。

Y染色体は、短く、その上に、染色体に載っている遺伝子は、精巣を決める以外は、数えるほどしかない。
X染色体は、大きく、全遺伝物資の5はーセントを含み、多くの遺伝子には、細胞の生命維持に不可欠な、酵素、たんぱく質を決定する、重要な使命がある。

この、酵素と、たんぱく質は、オス・メスという、性別を越えて必要である。
だから、X染色体は、不可欠なのである。

オスの脆弱性はこういった生命のはじまりから影を落としているといえよう。
大島清

性分化についても、Y染色体の果たす役割は、限られている。
しかし、哺乳類は、メスが基本の性だから、オスであるためには、Y染色体が、はじめに必要なのである。

その、Yの、唯一つの役割は、新しい生命の未分化な性腺が、そのままでは卵巣になるところを、抑制して、精巣を形成するように、働きかけることである。

人間の場合、妊娠8週になると、未分化だった、胎児の性腺の細胞膜は、Y染色体のタンパクに存在する、精巣決定因子と結合して、性腺を精巣分化へと、方向づけるのである。

精巣から、男性ホルモンが、分泌されて、胎児をオス化してゆくのである。

ところが、からだを構成する、全細胞の細胞質の中には、男性ホルモンを受容する蛋白があり、この蛋白が、X染色体のTfm遺伝子座にある、遺伝子により、特別に活性化されるので、X染色体は、性分化に対しても、重要な働きをする。

Tfm遺伝子とは、細胞の核の中の、液性部分に存在して、男性ホルモンの受容体を合成する作用を持つものである。

この、Tfm遺伝子が、変異を受けたりすると、たとえY染色体が、精巣をつくり、男性ホルモンの産出を続けても、からだの性徴は、女性的である。

更に、問題なのは、脳の、性分化である。

時間的には、やや遅れて、脳の性分化が、はじまるが、それ以前に、新しい生命には、遺伝子の性という、最初の分岐点で、いくつかの壁があり、オスへの道が、容易ではないことが、解るのである。

この、脳の性分化が、現代の性同一性に、大きな関わりがあると、思う。
そして、それは、進化なのか・・・

とすると、また、性同一性障害を書く前に、脳のことに触れなければならないのである。
つまり、終わらない話になる可能性大、である。
とんでもないところに、書き進めたものである。

posted by 天山 at 05:01| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月29日

性について。200

はじめにY染色体があって、順当であれば精巣決定遺伝子が精巣をつくる。精巣ができあがる頃、ウォルフ菅だとかミューラー菅といった生殖輪菅系はまだ未分化だ。この段階では、この輪菅系は、どちらの性にも分化する能力をもっている。
大島清

精巣から、男性ホルモンが分泌され、X染色体上のTfm遺伝子が、男性ホルモンのリセプター、受容器を順当に作ると、ウォルフ菅が、副精巣、精管、精嚢、射精菅などの、オス内性器と、更に、外性器を作る。

上記が、性器レベルでの、性の分岐点である。

三つの性の分岐点を経て、性器が出来上がる。

だが、ここからが、問題である。
男性器がついているから、オスに分類し、オスに仕上げようとしても、ままならないことがある。

それが、胎児にとって、最期の性の分岐点である。
脳である。

脳が、性分化される時期は、動物によって違う。
人間の場合は、妊娠四ヶ月目から、七ヶ月にかけてと、妊娠中期、幅の広い期間を持つ。

それだけに、男と女を両端にした種々な性のスペクタル人間ができあがる。
大島

この大切な時期を、臨界期という。
この時期の、脳は、ホルモンの海に、たゆたう神経細胞の集まりである。

その中の、男性ホルモン、女性ホルモン比の組み合わせによって、オス脳と、メス脳、そして、その中間の、脳が作られるのである。

脳の性分化は、遺伝子の性とは、独立しているのである。

どういうことであろうか・・・

つまり、出来上がる脳が、オスであるか、オスの性器を持つのか、メスの性器を持つのかは、別物であるということ。

これは、重大なことである。

ここに、問題がある。

男性ホルモンの影響が多い場合、男性ホルモンの環境に慣れている、オスの場合は、問題ないが、もし、メスであれば、神経細胞の集まりである脳は、男性ホルモンによって、オスへの方向付けが行われるのである。

ここで、大島氏の、言葉である。
脳の性分化に重要な意味があるのは、もし方向付けが歪んでいるとき、遺伝的にはオスであり、ペニスもありながら、自分をオスだと自認しなかったり、性の対象にオスを選んだり、振る舞いもいでたちも異性のもの、といった行動をするということだ。

その逆も、然り。

これが、確認されたのは、1960年代の初めである。
それ以前は、不明なゆえに、とんでもない、差別が行われたのである。

更に、それが、より深く確認されたのは、1970年代である。

オスとメスが、交尾の際に、脳の中枢が違うことを、指摘したのは、1968年である。

オスでは、視索前野、前方視床下部領域であり、メスでは、視床下部腹内側領域というように、同じ視床下部の中でも、ほんの少し交尾に関わる場所にズレがある。

また、胎児の環境での男性ホルモン濃度が強いと、視床下部のニューロンの核が、縮んでしまうことも、確認されたのである。

視床下部核は、成熟メスの場合は、卵巣からの女性ホルモンが、この部分に跳ね返り、人間の場合は、月経周期を作るという、大切な性周期センターなのである。

この部分が、胎児の性分化臨界期に、男性ホルモンに晒されて縮むと、生後成熟したとき、卵巣からの、性ホルモンの作用を、真っ当に受けら入れられなくなる。

そして、脳が晒される男性ホルモンの多寡によって、性欲の低下、両性愛、同性愛といった、様々な、トラブルになるという。

副腎性器症候群という、病気があり、胎児の時に、多量の男性ホルモンが副腎から、分泌される。
それにより、症例を集めて、少女期の性心理学行動を調べた。
明らかに、男性的な少女たちになったという。

ただ、性の同一性は、保たれていたのである。

ドイツに、男性同性愛が圧倒的に、多いことを発見したのは、大二次世界大戦終戦時に生まれた、男子に多かったという。

この発表が、同性愛が、生後の性心理的な発達の歪みによるという、説を完全に覆したのである。

いわゆる臨界期に母親が戦争ストレスを受けて、それが胎児に波及し、男の脳が正常な男性ホルモンのシャワーを浴びなければ、さまざまなタイプの女子脳への方向づけが行われても不思議ではない。
大島

だが、これで、性の分岐点が、終わるわけではない。
生まれてからも、性ホルモンは、オス、メスの体の性差を作り上げるのである。
更に、行動にも、である。

哺乳動物は、下等であれば、あるほど、性差が小さい。
しかし、人間は、高等動物である。
その、性差は、実に大きいのである。

この、性差を無視した、男女平等という言葉ほど、遠いものは無い。
性差は、差別ではない。

区別なのである。

性別という、日本語は、正しい。

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2012年05月24日

性について201

性同一性障害という言葉は、精神疾患を病理現象として、捉えたものになりやすい。
故に、精神病の範囲として、捉える専門家もいる。

確かに、一時期、少し古い時代は、そのように捉えたのだが、精神障害というより、何か、もっと、違うものであるような、気がする。

精神科の専門ではなく、もっと広い意味での、人格障害のようであり、また、それは、異常と判断するのも、適当ではない。

時代性と、時代精神ということで、考えると、当然なこと、と、思われる。

更に、社会現象としては、トランスジェンダーの方が、受け入れやすいのである。

社会学からは、トランスジェンダーで、充分である。

トランスジェンダーとは、アメリカで、その先行事例が多い。
これは、性別二元性と、異性愛主義に対する、脱構築的な立場を基本とすることが、前提となる。

日本では、まず、見世物としての女装から、話がはじまった、経緯がある。
女装と、ニューハーフである。
更に、そのニューハーフが、性転換をしたという、話題になった。

それは、あくまで、マスコミの中だけで行われる行為のように、イメージが出来たが、違う。

1990年代、埼玉医科大学が、性同一性障害の治療を発表してから、社会的に、少し前向きに考えられるようになった。

そして、それが、急激に、音を立てて、性転換をするという、事例が多くなった。

トランスジェンダー・・・
自分の生まれつきの性に、不全感を感じて、生活も、真っ当に出来なくなるという、ジレンマが、更に、病的になり、生きるに、不自然な感覚を持つようになる。

また、性転換といっても、百人百様の形がある。

男が女になるのは、男の体が嫌だから・・・ではなく、
もっと、根本的に、美しくないと、考える男子も登場した。
そこで、美しい女のような、を求める。

少し、贅沢と思えるものも、トランスジェンダーの中に入ってきたのである。

更に、女ではなく、男として、男と愛し合いたいと考える、女子も、登場した。
こうなると、頭が、こんがらかるのである。

私の知り合いにも、その友人で、男が女になり、女が男になったカップルが、結婚したという、話があり、聞いているこちらは、理解に苦しむのである。

それじゃあ、はじめから・・・
いや、そうじゃなければ、結婚できなかったのだ・・・

ここで、日本の伝統的、稚児の存在と、トランスジェンダーを混同しては、いけない。稚児は、あくまで、女の代用として、扱われたのである。
男色とも違う。

限りなく、女に近い、少年を稚児として、女の代用にする。
それと、男色は、全く違う。

これらを、一緒くたにして、考えるから、おかしくなる。

江戸時代の、男色と、陰間といわれる、少年愛、男性性行為は、女としての、代用だったと、考えることである。
ただし、代用といっても、男の方が好きという、好き嫌いの問題もある。

女が好きといっても、色々あるように、男が男を好きといっても、色々ある。
兎に角、一概に言えないということである。

特に、女装をさせて、遊ぶというのは、明らかに、女の代用となるのであり、男色とは、違うものである。

さて、トランスジェンダーである。
男から、女へとトランジションを行うケースと、女から男へと、トランジションを行うケースがある。

つまり、幼少時より、自分が女であることがそぐわない感覚、求められる女らしさとの軋轢などがある。長じても、そうしたことが周囲との摩擦を引き起こして、自尊感情の低下を招く。しかし正しい情報に触れることで、気持ちの持ち方を変えることができ、男性として生きるようになると、ようやく社会に居場所が見出せ、自分の満足がいくようになる。という流れが、おおむね全員に見られるのである。
性同一性障害の社会学 佐倉智美

勿論、男性の場合は、その逆である。

日本の社会は、無関心と、興味本位が多いので、冷静な見方が、まだ、出来ていない。

これが、タイになると、少しの差別はあるものの、緩やかである。
更には、あって、当たり前・・・

差別というのは、至る所に発生するので、それを一々、書けば、切が無い。

タイでは、普通のスーツ姿の男が、薄化粧をしている。
あれっと、思うが、傍の人たちは、普通に接している。
聞けば、カトゥーイだという。
つまり、性同一性障害であるか、同性愛者である。

だが、タイの場合は、すべてを、カトゥーイと呼ぶので、レディボーイも、カトゥイであるから、難しい。

ゲイと、別にして、聞くと解る。
ゲイも、カトゥーイと呼ばれるが、別にして、尋ねると、理解するのである。

女の同性愛者は、トンボイと呼ばれる。

だが、タイの場合は、矢張り、男たちの方が、華やかである。
それは、多分に、文化的な状況が違うということ。
幼少時から、女の子に育てられる男の子もいるという、文化である。
この子は、女の子向きと、親が思えば、そう育てられるのである。

勿論、例外もある。


posted by 天山 at 05:43| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

性について202

男性ホルモンは、胎児の性腺と、脳の分化の時に、甚だしい影響を与える。
そして、生後は、強く逞しい肉体を作る。
それを、大二次性徴という。

思春期前の成長は、男女差があまりない。むしろ、女の方が、一時的に男を凌ぐこともある。

しかし、思春期になると、女を凌ぐようになる。
睾丸の大きさも急激に、その容積を増す。
この、睾丸で作られる、男性ホルモンが、また、拍車をかけるのである。

おおよそ、人間では、八歳まで、男女共に、成長するが、それを過ぎると、男が女に追いついて、25歳には、性差は歴然とする。

男性ホルモンは、内、外性器を成熟させ、陰毛がはえ、ヒゲが濃くなり、甲状軟骨を突き出して、声変わりさせる。
更に、蛋白同化作用により、黒字のたんぱく質を、筋肉に蓄えて、発達させる。

サルの社会で、血液中の男性ホルモン量を測ると、群れの中で順位の高いほど、濃度が濃いという。
ただし、そのような、オスを、他のオスの中に入れると、急減するという。
つまり、ストレスに最も弱いのが、男性ホルモンであるという。

性行動、即、生殖という、動物は、男性ホルモンの増加するときに、交尾し、減ったときに、休止するのである。

人間の場合は、神経、ホルモン環を更に、上位の脳で、統合させているゆえに、性行動も、男性ホルモンに、大きく左右されることはない。

男の、男性ホルモンの濃度は、季節性がある。
秋に高く、春から夏にかけて、低いのである。

ただし、いつの頃からか、人間の男は、発情するという、制御機構を喪失して、いつも、セクシャル・ドライブ、つまり、性欲、セックスへの欲求に、悩まされるになったのである。

問題は、脳の男性化と、女性化である。
ホルモンの多少で、様々なタイプのオス脳、メス脳が作られるということを、前提にして、考えると、人は、それぞれ、百人百様の、性の形があるといえる。

男の脳に、女への方向付けが、行われると、成長するに従い、性と、心の中の性とに、違和感を感じるようになる。

そして、心とからだの性の、不同一性に悩むのは、人間だけである。
つまり、脳の進化なのである。

オスでなければ、メスか、という、考え方は、できないのである。
オスとメスとの、エレメントが、重なるという・・・

人間の場合は、染色体、性腺、からだの性差、行動の性差が、様々な、男女混合を作るのである。
つまり、100パーセントの、オス、メスというものが存在しないのが、人間なのである。

心の性を、ジェンダーと呼ぶようになった。
最初は、性心理学からである。

それ以来、性同一性、性役割という、言葉も、使われ始めた。

性役割は、生物的要因を基礎に、文化的、社会的要因がかかわり、その相互作用により、形成される、とは、人文科学の解釈であり、この場合は、胎児の時の、脳の性分化のありようが、深く関わっているということを、理解しなければならない。

胎内の脳の、性分化は、生物的、身体的要因の方であり、性役割への、生物的要因の関与する度合いが一層深いのである。

自然科学によれば、脳の男、女への、方向付け、思春期のホルモン分泌による、性的な体質、生理機構の発達による、性的自覚が、重要だとされる。

100パーセントの男がいないように、100パーセントの中性者もいない。仮面をかぶって人間だけがそれを装うことができる。
大島清

基本は、女だった。
そこから、男に成った。

すべては、メスの体から、始まったのである。

そして、男の度合いは、人それぞれだということだ。
ここにおいて、差別する何物も、無くなる。

その昔、ゲイ、男性同性愛者を、精神分析により、治療すると言われた。しかし、大間違いだったのである。

成功例が上げられるが、失敗例は、上げられないのである。
失敗した方が、圧倒的多数であった。

更に、心理学による、分析・・・
全く、役立たずである。
しかし、そこにも、成功例だが、上げられた。

問題は、心理ではなく、脳が、先決だったのである。

心理学とは、統計学であるから、無理なのだ。
統計で、計ることが出来ないのが、人間の性の、あり様である。

男の脳の女性化を、脳により、理解することで、差別が消える。
それは、女の脳にもいえる。

トランスジェンダー
性同一性障害・・・
体と、心の性が、合わない。
不都合を感じる。
更には、深い悩みに冒される。

日本では、早くから、それを病気として認定し、更に、性転換手術をした者の、性別を国籍で、変更することができるようになった。

それは、多分に、宗教的な、規制が無かったである。
未だに、宗教的理由で、それが許されない国々がある。


posted by 天山 at 00:06| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月26日

性について203

日本語の、性別という、言葉は、正しいと書いた。

そして、この場合は、生物学的、社会的な、性別である。

さて、話は、少し横道に入るが、2012年5月9日、アメリカ大統領オバマが、同性婚を支持した。
更に、カトリックのイタリアでも、最高裁判所が、同性婚も、異性婚と同じ、権利を持つことであり、それは、政府が決めるべきだとの、判定を下した。

西欧の多くの国では、同性婚、更には、パートナーシップ制として、同性婚を容認している。
法律により、その権利が認められたのである。

これは、歴史上の、驚嘆である。

私がこれから書く、ジェンダー問題は、セックス、恋愛の対象ということである。
性的指向・・・

日本では、性同一性障害は、病気として、認知された。
精神疾患である。
だから、法律でも、性転換者の戸籍を変更できるようになった。

ちなみに、性同一性障害が最も目立つタイでは、法律上の変更はできない。

それは、病気ではなく、指向の問題たちという考え方が強いと、考える。

私の立場は、精神疾患でも、障害者としての、認識はない。

性的指向の問題である。
ただし、社会的に公然とそれが認められるのであれば、病気としたり、障害としたりしても、良しとする。

つまり、生きやすくなるのであれば、いい。

生物学的に、完全な、男や、女はいない。
更に、脳学からも、完全な、男、女は、いない。
そして、心理学的にも、完全な、男、女は、いない。

幾人かの、青年に出会い、話を聞くと、同性が好きであるが、異性とのセックスも可能であり、それで、悩んでいるという。

精神的に愛せるのは、同性である。
肉体的には、異性も愛せる。
それで、心が揺れている。

バイセクシャルでもいい、とは、思わないのである。
若者だからか・・・

友情と、愛情のぎりぎりの線にある、関係。
そして、彼らは、好きな同性とも、セックスの経験がある。

異性との、セックスは、決して嫌な行為ではないのである。
しかし、本当に好きな相手はと、問われると、同性なのである。

普通の社会にいても、そのような悩みを抱える。
異性のいない、男子のみの世界の話しではない。

再度、性同一性障害とは、体の性と、心の性が、分離している状態である。

もっと、踏み込むのは、後にする。

同性婚・・・
何故、今、世界がそれに向かっているのか。
それは、体の性と、心の性が分離している人たちが、存在することを、教える。

同性だが、心の性が、異性の場合、同性愛になる・・・
それを容認する、寛容な社会を目指すと、理解する。

更には、体の性も、心の性も、男であるが、同性を愛するという場合。
女の場合も、同じく。

タイで出会った、レディーボーイが、面白いことを言った。
多くのレディーボーイたちは、手術をするが、どうして、手術しないの・・・
すると、彼は、ペニスのあるレディーボーイが好きな人もいる・・・
更に、ペニスがあることも、レディーボーイの特徴の一つだ、と。

こうなると、こんがらかるが、それは、性の多様性という問題になる。

これはを、心理学でやると、限りなく、男に近い、女に近い・・・
だが、完全な男、女は、存在しないから・・・
直線では、表せないということになる。

と、すると、直線ではなく、円の方が解りやすいのか・・・

この、ジェンダーの問題は、実は、年を追うごとに、複雑化しているのである。

体の性とは別に、性別を持たないという、無性という存在も、現れてきたのである。

これは、あの馬鹿者たち・・・
性差を差別するな・・・という、人たちによって、もたらされた。

男女平等であるという、実に、偏狭な考え方の持ち主たちである。

性差が、区別であることを、無視しているのである。

そんな議論に入らないという、人たちが、現れたのが、無性である。

性別を男女という、世界観から、脱却する。
とてつもない、試みが始まっている。
これは、夫婦、家族というものを、考える上でも、画期的な思想になる。

じつは両端に「女」「男」を配して軸を設定する発想自体が、すでに二元的な性別認識にとらわれている。性が多様なら、その多様なものが「女」「男」というコードを参照する必要は、もはやないはずなのだ。
佐倉 智美 性同一性障害の社会学

性のありよう、つまり、広い意味での、セクシャリティであれば、それは、その人の個性となる。

個々人の資質の一分野としての概念である。
佐倉

セクシャリティが多様化した時代になったのであるということ。

それは、最早、避けては通れない、道になった時代なのである。


posted by 天山 at 06:06| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月22日

性について204

精神疾患としての、性同一性障害、トランスジェンダーと呼ぶ。

だが、これで括ることが出来ない問題がある。
それが、性の多様性である。

簡単に言えば、女であるが、女に性欲を感じる。だから、トランスジェンダーである、とは、ならないのである。

女であるが、男性性が、強い。そして、性的指向が、女である。
その逆もある。

ゲイや、レズビアンではいけないのか・・・

その昔、変態と言われた、性的指向である。
それが、病気であり、障害者だから、社会がそれを認めて、優しく扱うこと・・・

そんな問題ではないのである。

本来は、個々人の多様なあり方のひとつの表出であるはずのトランスジェンダーの受容に、性同一性障害という、疾病概念を要するのは、ある個人の心の病でも障害でもなく、性の社会規範の硬直の問題であり、いわば「「身体の性別とアイデンティティの性別を合一させなければ気がすまないジェンダー規範」を持つ「この社会の病」なのだ」
佐倉知美による、蔦森樹の見解より

確かに・・・
私も、そのように思う。

身体の性別と、アイデンティティの性別を合一させなければ、済まない、ジェンダー規範・・・
ここに、大きな問題がある。

それは、ゲイと、レズビアンに対する、指向の問題に対するものでもある。

何故、同性愛が、いけないのか・・・
何故、同性愛を、社会が、容認できないのか・・・

それは、以前、同性愛に関して書いた部分を読んで、欲しい。

「男は男らしく・女は女らしく」を基調とするジェンダー秩序・ジェンダー体制の縛りさえなければ、だれでももっと自由に、いわゆる男らしいことやいわゆる女らしいことの中から、自分に合ったものを自由に組み合わせて選択することが可能である。
佐倉知美

時代は、そこまで、進んでいるのである。

そこから、自分が、どのようになりたいのか・・・
心が自由であるには、何が必要なのか・・・
と、問える状態にある、社会、つまり、他人の指向を裁くのではなく、受容する社会、そして、それは、成熟した社会と言われるべきである。

本来はそのほうが豊かな人生となるし、それを望む人も多いはずだ。しかし多くの人は、社会の秩序や体制からの有形無形の圧力の前で、意識的に、あるいは無意識に、自らの本当の欲求を曲げてしまうのではないだろうか。
佐倉知美

有形無形の圧力、意識的、無意識に・・・
それは、何によるものなのか・・・

観念である。
長い間に、作られた強力な、観念の仕業である。

欧米では、ある程度、成長した男の子を、父親が、抱き締めるのさえ、ままならないという。

更に、日本人ならば、友人同士で、ホテルのツインルームに宿泊するが、あちらでは、決して、そんなことは、しない。
そうすると、即座に、ゲイと判断される。

この過敏的な感覚は、どこからのものか・・・
宗教である。

いや、宗教に似た、強い観念のものである。

更に、セックスに対する、欲望の無い人という者も、差別の対象になることもある。

一体、いつまで、人類は、メダカのように、皆、一緒を続けてゆくのか・・・

佐倉知美は、更に続けて、
そう考えれば、トランスジェンダーとは単に、自分に合った選択に対して、他人よりも少しだけこだわりが強いだけのことである。それを、何か特別なスゴイことに祭り上げてしまう現状は、やはりどこかおかしい。言うなれば性同一性障害とは、ひとりひとりが自分に合った選択をすることを、ジェンダー秩序・ジェンダー体制の枠組みを越えては認めない社会システム障害なのだ。
と、なる。

結論として、私も、そのように思う。

さて、論文系の書きものは、別にして、私が見聞したことを取り上げて、色々と、連想のように、取り上げてみる。

特に、私は、東南アジアに出掛けて、多くの、トランスジェンダーの人たちに出会い、話を聞くことになる。

更に、タイでは、それが一般化している。
勿論、全くの差別が無いことはないが、それを、当然として受けいれる素地がある。

タイには、ベトナム、カンボジア、ラオス、その他、アフリカや、欧米人の多くが、性転換手術を求めて、やってくる。

勿論、タイ人の、トランスジェンダーが、最も多い。

タイで、面白いのは、あの地方空港のトイレに、その人たち用のトイレが出来たという話を、二年前に聞いた時である。

それは、ゲイでも、心が女の場合は、カトゥイと呼ばれ、同性愛の男女別であり、トランスジェンダー専用のトイレである。

ペニスがあっても、心が女ならば、そのトイレに入るのである。

ちなみに、ゲイでも、体も心も、男としてある場合は、つまり、心が女ではない同性愛の場合は、ゲイと、呼ぶ。

勿論、バイセクシャルもいる。


posted by 天山 at 00:06| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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