2011年11月17日

神仏は妄想である。355

自然という語の倫理的用法が含意している考え、つまり、事実とあるべきことの間に、絶対の同一性とは言わないまでも、密接な関係があるという考えが人々の心を捕らえるのは、一つには「自然の法」という表現が事実を指しているにも拘わらず、他方で、同じ法という語が、それよりも身近なところで強力に、あるべきことを表現するのに使われるという習慣による。
ミル

自然を語る前に、法について、を、語るのである。

自然法則を通じてしか物理的にどんな小さなこともできないとき、人々に自然に従えと命じることは馬鹿げている。むしろ、個々のケースでどの自然法則を利用すべきかを教えるべきである。
ミル

何も、難しいことを、言っているのではない。

例えば、食べ物を食べる。
それは、自然法則に則って、消化、吸収されるということだ。

人は必然的に自然法則、あるいは事物の特性に従う。しかし彼は必ずしも自然法則や事物の特性によって自分自身を導くわけではない。すべての行いが自然法則に一致するが、すべての行いが自然法則についての知識に基づいているのではない。また、自然法則を利用することを考えて目的の達成に向けられているわけでもない。私たちは全体としての自然法則から自由になることはできないが、それでも、特定の自然法則が作用する状況から逃れるなら、その法則から逃れることができる。
ミル

逃れるなら、その法則から逃れることができる・・・
変な、日本語である。

訳が悪いのか・・・

と、いうより、このような、書き方が、良いのであろう。
信じられないことだが・・・

さて、必然的に、自然法則に従わなければ、死ぬ。
自然法則から、逃れれば、死ぬ。
自然法則の中にしか、生きられないのが、人間である。

と、書けば、よく解る。

ミルは、思想家であるから、以前の思想家の、書き物を批判しつつ、書いている。だから、面倒な書き方になるのである。

要するに、
「自然に従う」という学説の権威が、どれほど「自然を観察する」という合理的な指針と混同されることによっているにしても、「自然に従う」という学説を支持し促進する人たちが、その指示以上のことを意図していることは疑いない。
ミル
ということになる。

しかし自然への服従や自然との一致という一般原則は単に実利的合理性の一般原則ではなく、倫理的な一般原則として支持されている。自然法について語っている人たちは、この一般原則を法廷によって執行され制裁によって守られるのに適した法であるかのように語っている。正しい行為は、単に知性的な行為ではなく、それ以上の何かを意味しているに違いない。けれども、知性的であること以上を命じる原則はどんな広い哲学的意味で解釈しても自然という語とは結びつかない。
ミル

こうして、延々と続くのである。

ミルは、自然神学の伝統的な思考を、全面的に否定しているのである。

だから、延々として、語り継ぐのである。

それには、自然神学の、伝統的思考というものを、知るべきである。

以前に少し書いたが、もう少し、その後を、見ることにする。

1534年、ルターの神学が、イギリスに及ぶ。
ヘンリ八世が、イングランドを、ローマ・カトリックから分離して、独自の、国教会を樹立する。

国教会は、王自身が、教会の長である、ナショナル・チャーチとなる。
この、宗教の国家体制は、宗教改革の精神と、原理的に、合わない部分があった。

宗教改革は、その基準として、聖書を重視する。
聖書のみによって・・・

聖書に照らせば、古代イスラエルも、原始キリスト教も、国家の機関ではない。
一神教の場合は、本質的に普遍的であり、国家の宗教には、なり得ない。

それにより、ヘンリ八世の、改革に、飽き足らない人々が、改革を更に、推進する。
ピューリタンである。

清教徒と、呼ばれる。
その、ピューリタンは、議会を通じて、勢力を拡大し、王との、対決の中で、国制を変革しようとした。
そして、1649年の、内戦である。

清教徒革命である。
ピューリタンが多数を占める議会派が、勝利し、王を、処刑して、共和制を樹立する。

だが、それも、長続きせず、1660年、英国は、再び、王制に復帰する。

その後の、ピューリタンが、辿った道は、アメリカ大陸へ、である。

その、残忍さは、知れたことである。
アメリカ大陸の、原住民である、インディアンを皆殺しにして、アメリカ共和国を、樹立した。

宗教の名において、戦うことは、残虐行為が、付きまとう。

カトリックと、プロテスタントの、戦いも、宗教戦争となり、残虐の限りを尽くした。
イスラムとの、対決ではない。
同じ、キリスト教の内紛である。
それでも、そうなる。
つまり、その宗教を支配している、霊的存在の、本質、性格が、解るというもの。
イギリスでは、革命の嵐が去った後、人々は、熱狂、つまり、狂信と、言った。

そして、宗教には、この、狂信が、憑いて回る。

まだまだ、ミルを、続ける。




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2011年11月18日

神仏は妄想である。356

そこで続いて、自然という語の第二の意味で、想定されている自然に従うという一般原則に何らかの意味を付与することができるかを考察することにしよう。
ミル

法が、終わり、次に、以前に書いた、自然の第二の意味に、ついて、である。

第二の意味での自然は人間の干渉なしに起こることを指す。そのように理解された自然において、何の干渉も受けていない事物の自然発生的な過程は、私たちが事物を利用しようとして努力している際に従うべき規則であるのだろうか。
ミル

やたらに、語る。
松尾芭蕉は、松のことは松に、竹のことは、竹に習え・・・
そういう、言葉の世界は、無い。

しかし、この意味でとられたとき「自然に従うという」一般原則が単に表面的な意味しか持たず、明らかに不条理であり自己矛盾であることは直ぐにわかる。なぜなら、人間の行為は自然という語の一つの意味で自然に従わざるをえないが、他方、まさに行為の目的や対象はもう一つの意味における自然を作り変え改良することだからである。
ミル

当たり前に考えていることを、こうして、言葉にして、組み立てている。
そうしなければ、次の反論、批判を、引き起こさないのである。
どこからも、突かれないようにと、言葉を作り上げる。
これを、彼らは、論理的という。

もし事物の自然的な過程が完全に正しく満足できるものであったら、行為することはまったく余計なお世話であろうし、その行為は事物を改善できる可能性がない以上、ただ悪化させるだけであるに違いない。あるいは、およそ行為が正当化されうるなら、本能に直接従うときだけであろう。なぜなら、本能は自然の自生的な秩序の一部として説明されるであろうから。しかし、先のことを考え目的を持って何かを行うことは、その完全な秩序への違反であるだろう。もし人為的なものが自然的なものよりもよいのでないなら、すべての生活技術の目的は何であろうか。掘ること、耕すこと、建てること、衣服を着ることは、自然に従えという命令に直接違反している。
ミル

だが、
およそ文明、技術、発明を称賛することは自然をけなすことでもある。それは自然の不完全さを承認することであり、不完全な自然を矯正し、緩和するようにいつも努力していることは、人間の本分であり誉れである。
ミル

これは、宗教論文であり、今は、入り口である。
が、これで、彼らの、自然観というものが、解る。

不完全な自然、それを、矯正し、改良するという。
傲慢も、甚だしい。
こんな考え方は、日本には、無い。

同じように、行為しても、考え方が、全く違う。
矯正するとか、緩和するとかの、考え方は、全く無い。

自然に対して、行為することを、申し訳ない、ありがたい、そして、感謝するのである。

わが身勝手のことを、自然は、何も言わずに許してくれる・・・というように。

そして、ミルも、似たようなことを書く。

人間が自分の条件を改善しようとすればそれだけ、自然の自然発生的な秩序を非難し防げることになるという意識が原因となって、いつの時代でも新たな前例のない改良が試みられると、それは一般にまず宗教的な嫌疑にさらされた。改良の試みはいずれにせよ、宇宙の森羅万象を支配している、あるいは自然の過程がその意志の現れであると想定されている強力な存在「あるいは、多神教が一神教に座を譲った後では、万能の存在」の機嫌を損ねる可能性が大きいと考えられたのである。人類の都合のよいように自然現象を鋳型にはめようとする企ては、上位の存在の支配への干渉であると思われやすい。
ミル

しかし、その万能の存在、つまり、神が、復讐を行わないことを、経験が証明した、と言う。

人間の主要な発明を、いずれかの神の贈り物や好意として考えることにしたのである。
ミル
実に、都合のいいことである。

カトリックには無謬の教会という奥の手があったので、教会は人間の自発性の行使のどれが許されるか、また禁じられるかを宣言する権威を持った。
ミル

自然を考えるということで、明治期の人々が、この論文から、西欧の思想を、読み取ろうとした努力は、並大抵ではない。
全く違った、価値観である。

そして、ミルに至るまでの、自然観をも、学んだことは、驚嘆に値する。

それに比べて、日本の場合は、何も、考える手立てが無い。
要するに、言葉の世界が無かった。
要するに、精神が、薄弱と見たのである。

しかし、今、それが、違うということが、解る。
日本人は、精神という言葉の世界ではなく、心という、情操により、物事、自然を理解していた。
それは、言葉にしなくても、問題ないことだった。

自ずからなる、自然への思いである。

縄文期から、培われてきた、自然への、思い。
万葉集などに、歌われる、自然への、思いである。

一言で、言えば、自然は、神々の場所である。
祖霊の居ます場所である。

また、だから、その相違が、面白い。

言葉は、哲学では、空気のようなものと、考える民族と、言葉は、言霊として、それ自体が働くと、考える、日本人である。

さあ、説明しろ、と、言われれば、私は、相手の体を、指で、突く以外に、方法が無い。
自然は、お前だ・・・と・・・

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2011年12月28日

神仏は妄想である。357

ミルの自然に関する考察を読んでいる。
そこで、一端、中断して、神道における、自然、あるいは、自然観というものを、少し考えてみる。

だが、ここで、神道に関して、特別な書き物はないし、更に、根本的教えなるものも、ないのである。

「神道って何ですか?」と正面切って問われた時、「神道とは日本固有の民族宗教で、アニミズムやシャーマニズムや八百万の神々の民俗信仰を基盤として習合的な歴史的展開をとげた信仰と生活文化の総体であり、その具体的表現が神話と祭祀とその伝承の場としての神社である」とひとまずは包括的な紋切り型の答えを出すことができる。しかしこれだけでは、神社を中心にした神道の概要はつかめても、天皇と神道との関係や、幕末以降に発達した教派神道を含む神道系新宗教の多彩な形態についての理解は得られない。
神道のスピリチュアリティ 鎌田東二

ここでは、神道を一つの宗教としていることと、信仰を基盤という。
神道は、宗教ではなく、伝統であり、その行為に信仰というものがある。
更に、他宗教のような、信仰という言葉の意味と、別物である。

鎌田氏は、
その宗教の独自性を明瞭に浮かび上がらせる努力が必要なのである。
と、言うが、私は、その必要を感じない。

伝統だからである。

神道は、宗教ではない。
宗教という、概念は、欧州の宗教学から、取り入れたものであり、それは、キリスト教中心の思想である。
その概念からは、神道は、宗教ではない。

学問的な裏づけが必要である。
鎌田

その必要は無い。

神道の自然観とは、自然その物、そして、働き、すべてが、カミなのである。
畏敬すべきもの、それが、自然である。

神の栄光を示すもの、それが、自然であるという、キリスト教とは、訳が違う。

更に、その上に、神の創造物という、考え方も無い。

更に、幕末に出来た教派神道系の、新興宗教は、神道とは、全く関係が無い。
ただ、神道の持っていたもの、その所作とか、神話を拝借して、勝手に、教組を名のり、神に名前をつけて、興したものである。
神道とは、全く別物である。

神道は、自然発生的に、人々が、畏敬の思いで、神奉りをしたものである。
祠を建てて、集落の人々が、そこに集い、豊作、大漁、安全祈願などをしていた、所作である。

それが、神社という建物を作り始めてから、堕落した。
その一つが、神主という、職業祭祀者である。

集落や、村の人々が、手作りで、畏敬の思いを、無所作で、表していた、その行為を神道と、呼ぶ。

宗教学が言うところの、信仰というものとも、違う。

山を、河を、海を、拝む。
信仰ではなく、畏敬の思いである。

更に、それぞれの家系の先祖奉りである。
御霊祭りは、先祖霊に対する、畏敬の思いの所作である。

そこに、自然に関する、考察などはない。
そんなことを、する必要も無い。
自然は、目の前にあり、いや、その自然の中で暮らして、そして、死ぬのである。
面倒な思想的思索も、必要ではない。
誰にも開かれている、自然を一定の人たちに、支配されるものとは、思わないのである。

鎌田氏は、
畏敬の宗教と、表現したいと、書く。

私は、宗教ではなく、畏敬の伝統であると、言う。

神道の所作と、行為は、日本人なら、自然に身につけている。
子どもの頃から、それが、自然なのである。
更に、自然に対する思いも、そのように、自然に、身につけている。

勿論、現代は、それが、廃れているのかもしれない。
だが、元旦の神社参拝は、厳然として、ある。

何故、神道、更に、古神道は、言挙げ、つまり、言葉にしないことが、真っ当なのか。
言葉にすると、嘘になるからである。

更に、言葉にして、一体、何の目的になるのか。
神道、古神道は、議論を嫌う。
そして、強制もしなければ、来る者は、拒まない。

勿論、鎌田氏のように、どんどんと、神道に関する書き物をしても、神道は、沈黙している。
神道は、所作が、命なのである。

その、所作は、何年間に渡り、形づくられて行った。
その疑問を晴らすことは、出来ない。
先祖たちが、少しずつ、手を加えて、所作を完成させたのである。
そして、今も、それが続いているのである。

創造主がいて、自然があり、それが、人間に与えられた・・・
そんな、考え方は、神道にも、古神道にも、無い。
自然が、神、そのものであるからだ。

そして、その働きにある、霊妙なモノ、それも、神なのである。
その、神なるものは、生きる、生活する上で、自然に成り立ってきたものである。

自然に、神の善性を認める云々・・・
そんな思想が、神道では、何の価値も無いものなのである。

要するに、思想などという、言葉の遊びは、全く必要のない、世界なのである。
神道神学なるものが、生まれない訳である。

だが、それを、言葉にして、表現する努力も、否定しない。
要は、神道、古神道共に、所作にしか方法が無いのである。

キリスト教から見ると、それは、意味の無い儀式であると、理解される。
意味を見出さなければ、動くことの出来ない民族と、日本民族の、大きな違いである。

そして、いま、日本人にも、所作の無意味に耐えられなくなった人が多数。

茶道の所作は、茶を点てることにある。
その、所作の意味を尋ねても、茶を点てることと、言われるだろう。
それ以外に、無いのである。

客を持て成すという、思いに貫かれて、これでもか、これでもか、と、所作を続ける。

自然に対する、畏敬の思いを、所作に託して、これでもか、これでもか、と、所作を作り続けてきたのが、神道の、真髄である。

だから、神社において、所作をしなければ、駄目だという、神社神道が生まれて、神道は、堕落し、更に、神主による、所作を持ってよしとする、神道は、妄想に成り果てたのである。


posted by 天山 at 07:11| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月29日

神仏は妄想である。358

神道という言葉を、鎌田東二氏は、
神からの道と、と、神への道、二つがあると、書く。
面白い、意味付けである。

最初に、神道という言葉を、用いたのは、有間皇子で有名な、その父、孝徳天皇である。
大化の改新の直後のこと。

日本の古来からの、信仰を、仏教と、分ける意味で、神の道と、記した。
神からの道でも、神への道、でもない、神の道である。

つまり、神とは、人間のことであり、その人間の道のことを言うのである。

人間は、すでに、カミなのである。
以前、この系列語として、カマ、カム、カミという、大和言葉のことを、書いた。

観念的な言葉ではないのである。
カマは、米を炊く釜であり、その行為が、カムであり、そして、カミと、変化した。

現実的な、極めて現実的な言葉である。

人は、神である。

その人の道を、神の道と、書いて、神道である。

その神道の自然観を、見ている。

ただ、鎌田氏の、言う、以下の文章は、もっともである。
「神からの道」とは、この宇宙が、この存在世界がこのように在ることの流れであり、道であり、自然の大道・生成である。天地自然として、森羅万象として、顕現し、現象していくことの中に現れる「神の道」。いわゆる「神ながらの大道」とは、このような宇宙的流れを意味している。その意味では、「神道」は「宇宙教」である。神道には明確な教義というものがないが、天地自然を書籍とし、宇宙の存在の声を畏怖畏敬の念を以って聴き取ろうとする根本的に態度を持っている。万物の声に耳を澄まし、それとの共生・調和を図っていこうとする志向性を持っている。

だから、宗教学としての、神道を理解しては、ならない。
欧州の宗教学の中に、押し込めての、ものではない。

神道を語るためには、全く別な、形態が必要である。
民俗学、人類学、人間学・・・

信仰というものも、宗教学が、言うところのものではない。
信仰は、所作なのであり、観念ではないからだ。

行為によらずに、神道というものは、無い。

天地自然を、書籍とし、すべての存在に対して、畏怖畏敬の念を持つ。
万物の声に耳を澄まし、それとの、共生・調和を求める。
鎌田氏の、記述通りである。

つまり、自然が、対立するものでも、観念でもないのである。
共生、共感、調和・・・

自然における善性・・・云々などという、言葉遊びは、出てこないのである。

創造主から、人間に与えられた、自然を、どのように扱ってもいい、人間は、自然を征服していいのである、などという、考え方は、一切無い。

人間も、神なら、自然も、宇宙も、神なのである。

伊勢神宮に参拝して、多くの外国人が、感嘆の声を上げる。
ここに、宗教の大元があると、アインシュタインも言った・・・

大きな間違いである。

日本の国土全部が、それなのである。

山の中に、入り、霊妙微妙な波動を感じて、神なるもの、偉大なるものを、感じた・・・云々・・・

嘘である。

国土すべてが、それなのである。

山も、海も、川も、何もかも、日本では、神であり、畏怖し畏敬するものであり、特別な、パワースポットなど存在しない。

今、この場が、パワースポットであり、自然の中で、共生し、調和して生きること、それが、神道なのである。

伊勢神宮が、まだ、救われるのは、天照る神の、お住まいが、高床式の、掘ったて小屋だからである。
それが、もし、巨大建築物ならば、天照る神も、嘘になる。

出雲大社を、私が、認められないのは、その建物である。

神道は、建物を必要としない。
自然、天地すべてが、神殿なのであるから、何も、いらない。

祭りの時に、依り代を立てて、皆が、集い、祖霊を招いて、飲み食いし、踊り、一時を過ごし、終われば、お帰り頂く。
それが、祭りである。

年から年中に、建物の中に、収まっている神なるもの・・・
単なる、不浄霊であろう。

祖霊の微妙霊妙な、霊的波動は、この世に、相応しくない。
一時的だから、降臨鎮座するのである。

宮代なきこのところに、降臨鎮座ましましたまえ
と、祈り、その時だけ、お越し頂く。それが、祖霊に対する、礼儀である。

神社神道・・・
その、誤りは、後戻りできないのである。

神社神道の、神なるもの、ニセモノ、嘘である。

それこそ、妄想である。

神主が、いくら、祓いたまえ、清めたまえ・・・と、唱えても、一時的なものにしかならないのは、そういう意味である。

本来の、祖霊の霊格高い霊位は、一時的に、降臨し、そして、祓い清めるのである。

神主の、御幣に懸かり、そこで、神主の所作により、祖霊の神力が、働く。

更に、そんなことを、しなくても、自然の中にいれば、清められ、祓われるのである。
それが、神道の自然観である。

聖なる場所とは、日本の国土すべてである。
そこが、あそこが・・・
嘘である。

今、そこに生きている、場所、そこが、聖なる場所であることを、神道霊感は、教える。

農民は、耕し、植えて、収穫する場、漁師は、漁をする、その海が、聖なる場所であることを、神道霊感は、教える。

それ以外の、観念的な、教えなど無い。


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2011年12月30日

神仏は妄想である。359

イギリスの、ミルの自然観を見ていたが、一度中断して、神道における、自然を見ている。

後に、また、ミルを続けるが、古代日本人は、自然を、どのように見ていたのか、というのは、興味深い。

そこで、神道にある、産土、うぶすな、の考え方を少し紹介する。

産土の神と、現在は、言われる。
産土は、結ぶ、結び、から、来ている言葉で、ムスビの思想といってもいい。

現在の宇宙物理学では、おおよそのことが、解っているが、まだまだ、謎が多い。そして、それは、これからも、進化してゆくことだろう。

古代の、日本人の自然観は、ただ、畏れ敬うものであった。
だから、自然と共感し、共生し、更に、その自然の中に、埋没することを、善しとした。

何せ、自然は、神、カムの世界である。
その中で、生まれて、生きるのである。

つまり、カムの世界に抱かれて、生きている。
だから、対立するものではない。

そこで、ムスビのカムの考え方が起こる。
自然は、すべてを結んで、統一していると。

産土の神は、土地の神様である。
その地域全体を、支配する、いや、心に掛けるといった方が合う。
その神様が、人の生まれる、死ぬ、を司ると、考えた。

つまり、生まれるも、死ぬも、神様の関わりで、起こるものである。
その、産素の神は、氏神、鎮守の神も、その下にある。

その、産土の神を、統一させているのが、大国主命、おおくにしぬのみこと、である。

それは、人間の考えたことであるから、後で、また批判する。

今は、自然観である。

自然は、ムスビの力を持って、人間を関わらせ、生かすのである。

現代人の多くは、「自然」の始まりといえば、140億年前といわれる宇宙の創生、すなわちビッグ・バンを思い浮かべるであろう。しかし、広大な宇宙の時間と空間は、どこから始まり、どこで終わるのか、悠久の問いと謎を発しつづけてきた。現代宇宙論は、それに対する科学的な仮説であるが、古代日本人はその問いと謎の中から「むすび」の神の生成力を見出し、その力を畏れ、敬い、崇めてきた。それが「むすび」の信仰である。それは、始まりと終わりを含みつつ、くりかえし循環する生成変化の存在形成力に対する讃仰である。
鎌田東二

ムスビとは、自然の万物を生み出す力、生成力を表すという。
上記、私も賛成である。

明らかに、自然と対立するという、西欧思想、キリスト教思想とは、別物である。

神から、人間は、自然を与えられた。自然を支配する、力を、与えられたと、考える。
日本では、その逆である。
自然を支配するなどとは、考えられないのである。

それは、また、自然の姿が、違うということもある。
四季折々に、自然は、多くの恵みを与える。
支配するどころか、自然に活かされて生きるのである。

そこに、賢しこみの思いが生まれ、更に、畏しこみの、信仰が生まれる。
畏れ敬う心。
それを、別名、大和心ともいう。
大和心とは、おほいなるやわらぎのこころ、である。

それは、調和する心。
対立の無い心である。

日本を、和と呼ぶのは、ここにある。

和とは、輪であり、環である。

巡り巡る・・・自然。

その中に、人の生死もある。
すべて、抱擁され、包容されてある。

更に、普段の生活の中でも、日本人は、自然を愛でるのである。
自然を愛すると、書いて、めでる、のである。

自然を慈しむ心を、また、大和心と、言う。

それが、思想にまで、高まり、広がりを見せたのが、大陸からの、思想との融合である。
神仏習合というが、それ以前に、儒教、道教が入り、平安期には、それが当たり前の感覚になり、生活に生かしている。

また、日本の宗教、信仰にも、大きな影響を与え、更に、日本文化の中にも、浸透していった。

その、神仏習合の中に、それらが入り混じり、その総称として、神仏習合がある。

何を取り入れても、大丈夫なのである。
自然がある限り。

今で言えば、ハイカラ、新しもの好き・・・
明治に西欧の思想・・・その他諸々が、入って来た時、即座に、それを取り入れようとしたことは、ご覧の通りである。

だから、それで、日本人が変わったかといえば、表は変わっても、裏は、変わらないのである。

変容しても、変化はしない。

極めて、排他的なものより、寛容なものが、新しく生きられる。
日本人の、自然観は、それである。
だから、自然破壊は、日本人の心の、破壊に、つまりムスビの破壊に、つながるのである。

posted by 天山 at 00:28| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月05日

神仏は妄想である。360

鎌田東二著 神道のスピリチュアル、には、面白いことが、書かれてある。

日本人が自然をどうとらえたかという問いに対して、そもそもそのような問いは成立しないという答え方ができる。というのは、古代日本にも、中世日本にも、現代のわたしたちが考えているような、現象世界や外界の対象としての「自然」という概念は存在しなかったから、というのがその理由だ。わたしたちの先祖は、「自然」という概念やフレームワークで「それ」をとらえることはなかったのだ。
鎌田

私を論破することは、できない。私には、そもそも、論というものがないからである。
とは、インドの竜樹の言葉である。
まあ、ここまで行かなくても、日本の自然というもの、その概念がなかったと言われれば、もう話しは、おしまいである。
自然という、言葉で、話し合う時、その概念がないから、その問いは、無駄であるということ。

日本人の、自然という言葉は、天地自然の、自然というものではなかった。
それは、心のあり方、心の姿として、捉えられている。

自然法爾・・・歎異抄
老荘思想の、無為自然など・・・

現在の、自然の概念は、19世紀以降からのものである。
それは、natureの、翻訳語として、確立されてきたものである。

近代的概念、自然科学的、外界的対象世界としての、自然である。

日本人は、前回書いたように、自然の働きを、ムスビとして、認識していた。

その、語源は、古事記にある。
天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神。次に神産素日神、この三柱の神は、独神と成り坐して、身を隠したまひき。

あめつちはじめてひらけしとき、たかあまはらになれるかみのなは、あめのみなかぬしのかみ、つぎにたかみムスビのかみ。づきにかみムスビのかみ。このさんはしらのかみは、ひとりがみとなりまして、みをかくしたまひき。
たかみムスビ、かみムスビ、この二神の、ムスビに、注目である。

共に、産素日、である。
産む、素の、日

自然の働きを見たものである。
つまり、天地自然を産み続ける行為である。

鎌田氏は、
次に二番目に出現する「高産素日神」は「大いなるむすびの神」の意味であり、続いて三番目に出現する「神産素日神」は端的に「むすびの神」を意味するから、神々の中でもより具体的で実質的な初源神は、結局のところ「むすびの神」であるということになる。とすれば、「古事記」冒頭部は「むすびの神」の神学を説いているといえる。
と、指摘する。

そして、神話は、高天原の天津神と、葦原中国の国津神の、ムスビによって、「国生み」と「国譲り」をしたという、お話しである。
その二つの、神の系統が、二柱の「むすび」の神々なのである。

つまり、天津神の祖霊神が、たかみむすびのかみ、で、国津神の祖霊神が、かみむすびのかみ、なのである。

鎌田氏は、天津神は、朝鮮半島から渡って来た、一族であり、弥生系の神々であるとする。
そして、国津神は、縄文時代からの、土着の神々とするが、私は、そうは、思わない。

弥生時代以降に、稲と、鏡を携えてきた一族が、天津神・・・
違う。
稲作は、縄文期の後半、500年から、始まっていた。

一つの解釈として、ここに書いておくのみ。

神話に従えば、稲は、天照大神から、豊葦原に送られたものである。

稲作は、南からやって来たという、説もある。
これが、考古学、歴史学という、学問の世界の話である。

ちなみに、日本書紀では、その表記が違う。

高皇産霊尊、神皇産霊尊
たかみムスビのみこと、かみムスビのみこと、である。

簡単に言うと、古代日本人は、ムスビという、意識において、自然を捉えていたということである。
そのもの、すばり、結び、である。

岩波古語辞典では、

むすひ「産霊」(ムスは、ムスコ(息)・ムスメ(娘)のムスと同じ。草や苔などのように、ふえ、繁殖する意。ヒはヒ(日)と同じ。太陽の霊力と同一視された原始的な観念における霊力の一)生物がふえてゆくように、万物を生みなす不可思議な霊力。
後世「結び」と関係づけられて解釈されたが、意味上も、清濁・アクセントの点からも、起源的には関係ない。

起源的には、関係ないと、書かれるが、現代に説明をする場合は、最も、解りやすい言葉である。

つまり、結ぶことによって、生まれる、行われる、行為が、自然の姿なのである。

であるから、自然の本質をすでに、観たと、考える。

息子や、娘の、ムスは、苔生す、というように、生まれることを言う。
その、ムスことの、力を、日、ヒが、介入して、行われる。

太陽の日が、まさに、万物を生む不思議な力を持つ霊力と考える。

自然の生成力を、そのまま、産素日神、産霊日神、と、表記したのである。

最初に、「むすび」の神学を提唱したのは、本居宣長である。
だが、それは、極めて、偏りの多いものである。
本居宣長にとって、古事記が最高のものであり、何一つ、疑うことのないものだった。それを、漢字の意味に、侵されてはならないとの、思いから、古学、いにしえまなび、の正しき道を、説いたのである。

確かに、漢字の意味で、解釈すると、誤るのは、何度も書いてきた。
日本語は、大和言葉によって、解釈しなければならないとは、私が言うことである。

それでは、参考に、むすび、を、大和言葉で、分析する。
むウすウびイ
ウと、イの母音である。

ウは、呼び出す、イは、受け入れる、である。

呼び出して、受け入れる。
もし、アであれば、開くであるから、
アイは、開いて、受け入れる、ということになる。

あいうえお、の、一音で、すべての言葉の、本質が理解できるようになっている。
言霊は、音霊、おとたま、により、そして、数霊、かずたま、による。


posted by 天山 at 06:16| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月06日

神仏は妄想である。361

神道の自然観を見るために、ミルの論文を紹介し、更に、神道の自然観の一部を書いた。

ここで、更に、ミルを続けず、1670年に出版された、スピノザのエチカと並ぶ、神学・政治論、から、自然観を推察してみる。
スピノザは、聖書の批判、哲学と神学の分離、国家に対する、教会の従属性、思考と自由を主題にする。
今では、当たり前のことだが、当時は、到底、受け入れ難いものだった。

これにより、如何に、当時以前は、蒙昧だったかということである。

自然を捉えるのに、ユダヤ教、キリスト教が、如何に、お粗末だったということが、解るのである。
つまり、最初から、観念により、すべてを理解するという、観念まみれの、考え方をしていたのである。

余計なことを、言えば、西洋の思想に侵された日本人の多くも、西洋の観念により、多くを考えるようになり、日本の考え方を、卑下したのである。
実は、西洋よりも、自由で、融通無碍の考え方をしいた、日本人を、知らないのである。

訳語を使い、語り合うことが、第一級と、信じてしまった、哀れな人たちが、多く生まれた。

人間の把握力を越える知識を神的な知識と呼ぶように、その原因が一般に知られない出来事を人々は通常的な業、或いは神の業と呼ぶ。何故なら民衆は自然の中に何か常ならぬこと・彼らが平素自然に関して持っている意見と矛盾するようなことが起こる時に、神の能力と摂理とが最も明らかに現れると考える、殊にその出来事が彼らの利益又は利益をもたらす場合に於いて然りである。
だから彼らは自然がその秩序を守らないーーそう彼らは信じるーー時に神の存在が最も明瞭に証明され得ると思うのである。
スピノザ

そのように、考えていたのである。
そこで、スピノザは、言う、

この故に彼らは、諸物又は諸奇跡を自然的原因に依って説明し・或いは理解しようと努力するすべての人々を目して、神を或いは少なくとも神の摂理を否定する者と見做す。
換言すれば彼らは、自然がいつもの秩序に従って活動している限り神は何ら活動していないと考え、之に対して神が活動している限り自然の能力と自然的諸原因とは働きを停止していると考えるのである。
かくて彼らは種類において相互に区別される二つの能力即ち神の能力と自然物の能力とを表象する、もっとも後者は神から一定の様式に従って決定されたもの、或いは(人々が今日概ね考えているところによれば)神から創造されたものではあるが。
しかし彼らはこの両能力を如何に解すべきかについて、また神並びに自然を如何に解すべきかについて何も知らないのであり、ただ神の能力を尊厳な王侯の支配の如く表象し、自然の能力をば暴力又は衝動の如く表象するのみである。
スピノザ

私は、これを観念まみれ、と呼んでいる。
更に、ユダヤ教においては、それが、実に甚だしいのである。

そこに、創造主という、神の存在が、壁になり、自然を真っ当に見ることが、出来ないのである。

人間の、理性と、知性を、狂わせる、創造主、神という、観念である。
彼らの、問題解決は、すべて神に行く。

かくの如くにして民衆は常ならぬ自然の業を奇跡あるいは神の業と呼び、更に一つには敬神の念から一つには自然的知識を尊ぶ人々への反感から、諸物に関する自然的原因を知ろうとはせず、ただ自分たちに最もわからない事柄、従って自分たちの最も驚嘆し得る事柄をのみ耳にしたがる。
実際彼らは自然的諸原因を無視し・一切を神の支配と意志とに関連せしめるすべを知らないのである。
そして彼らは自然の能力を恰も神に征服されたかの如く表象することによって最も多く神の能力を驚嘆しているのである。
スピノザ
読みやすく、改行している。

ここで、スピノザの問題が、浮き彫りになる。
一切を神の支配と意志とに関連せしめるすべを知らないと、言うのである。
彼の、聖書批判、等々、彼もまた、新しい解釈者となるのである。

そして、哲学と、神学の分離も、実に遅いのである。
それは、当時の西洋史を振り返るまでもなく、ユダヤ、キリスト教の支配が、如何に強かったかということである。

ここで、明確にしておかなければならないことは、キリスト教が、ローマ帝国の国教になる、以前は、あくまでも、ユダヤ教の一派であるという、認識である。
旧約聖書を、奉じるのであるから、当然、ユダヤ教の中に含まれるという、意識である。

突然、ユダヤ教と、キリスト教と、分かれたわけではない。
それ故に、ローマ帝国の国教と、なっても、人の意識としては、ユダヤ教の一派なのである。

旧約聖書に、新約聖書を加えたのであり、今でいえば、著作権の大変な侵害である。

西洋文明は、ユダヤ教文明なのである。
キリスト教は、そこに、ギリシャ哲学を持って、ユダヤ教からの、脱出を試みたのである。

だから、スピノザも、
こうした事の起こりは原初のユダヤ人から来ているように思われる。
と、書くのである。

原初のユダヤ人たちは目に見える神々―――太陽、月、大地、水、空気等―――を尊崇していた当時の異教徒たちを説得するために、そしてこれらの神々が微力な、不安定な、或いは可変的なものであり、目に見えぬ神の支配下にあるのであることを異教徒たちに教示するために、自分たちの見た諸奇跡を語り、その上これを根拠に、全自然はユダヤ人たちが尊崇している神の支配によってユダヤ人たちのみの利益になるように導かれていることを示そうと努めたのである。
スピノザ

ユダヤ人の、観念が、西欧を覆ったのである。
そして、ユダヤの神が、西欧を覆った。

更に、キリスト教を通して、世界に伝播するという。
今は、自然観について、書いているので、いずれ、そのユダヤ人の、旧約聖書の嘘八百を書くことにする。

恐るべき観念であり、それが、キリスト教、ないし、新キリスト教、更に、新興キリスト教に於いても、変わらないのである。

つまり、キリスト教系は、ユダヤ教から、抜けきれないのである。


posted by 天山 at 06:57| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月07日

神仏は妄想ある。362

古代のユダヤ人が、異教徒に対して、自分たちの、神を教示するために、その奇跡を語り、それを根拠に、全自然は、ユダヤ人たちの神が支配していると。そして、ユダヤ人の利益のみになるように、導かれているということを、示した。
との、ピスノザの指摘だった。

だから、一時期、ユダヤ人たちが、支配したと、考えてよい。
というより、ユダヤ人の神を主として、利益を得るように導いたのである。

自分たちが他の人々より神に愛されており・自分たちのためにこそ神は一切を創り且つ絶えず一切を導いているのであると他から思われようとしたのである。何という僭越を民衆の無知は敢えてすることであろう。
スピノザ

民衆というより、ユダヤ人である。
ちなみに、スピノザも、ユダヤ教徒であった。
だが、破門されるのである。

だいたい、本当のことを言う人は、破門されるか、殺される。
主イエスも、そうであった。

これというのも彼らは神についても自然についても何ら正しき概念を持たぬがゆえであり、又神の意欲を人間の意欲と混同するがゆえであり、最後に又自然を限定的に考えて人間を自然の中心であると信ずるがゆえである。
スピノザ

と、古代のユダヤ人、及び、それに影響を受けた人々のことを言う。
これで、西欧の自然に対する、根本的な見方が、解るというもの。

それで、スピノザは、四点の指摘をする。
その一つは、
何物も自然に反しては生起せず、反って自然は永遠・確固且つ不可変的な秩序を守ること。なお、又同時に奇跡なるものを如何に理解すべきかについて。
スピノザ

これに関して、
すなわち神が意欲し或いは決定する一切は永遠の必然性と真理とを自らの中に含むということから容易に証明される。
と、言う。

これが、キリスト教、カトリックに取り込まれることになる。

神の知性が神の意志と区別されないということからして、神があることを意欲するというのと神があることを認識するというのと同一事である・・・
スピノザ

神がある物をその通りに認識するということが神の本性と完全性とか出てくるその必然性、その同じ必然性を以って、神がそのものをそのある通りに意欲するということから出てくるのである。ところで、すべてのものは神の決定に依ってのみ必然的に真なのであるから、これからして、自然の普遍的法則は神の本性の必然性と完全性とから出てくる神の決定にほかならないということが極めて明瞭に帰結される。
スピノザ

この翻訳ものの、言葉によって、日本人は、やられてしまった。
上記のように、説明することが、頭の良い人の言うことだと・・・

神という、観念から、抜けられないのが、西欧の思想哲学である。
この戦いを、日本人は、経験しないから、云々という、識者たちがいる。

神との、戦いなくして、思想は、生まれない云々、である。

その、神という、観念を、これでもか、これでもかと、問う西欧の哲学者たち・・・
ご苦労である。

しまいに、日本は、神不在の云々となると、もう、手の施しようがないのである。

だからもし自然の中に自然の普遍的法則と矛盾する何事かが起こるとすれば、それは必然的に神の決定、知性、本性とも矛盾することになる。
あるいはもし人が神はあることを自然の法則に反してなすと主張するなら、その人は同時に、神が神自身の本性に反して事をなすことを主張せざるを得なくなるのである。
しかしこれほど不条理なことはない。なおこのことは自然の能力が神の能力ないし至力そのものであり・神の能力は神の本性そのものであるということからも証明され得るが・・・
スピノザ

それで、自然の中には、自然の普遍的法則に、矛盾する何事も起こらない、というのが、スピノザの見解である。
つまり、それは、ユダヤ人たちが言うところの、奇跡の話しを否定しているのだ。

それは、神というものを、新たに、創り出そうという、思考である。

つまり、ユダヤ人たちに対して、ユダヤ教に対して、そんなものではない。
神とは・・・
と、批判しているのである。

そして、世俗的なカトリックは、これは幸いと、取り込んでしまうのである。

ユダヤ教に対抗し得る、キリスト教の神観念となるわけである。

生起する一切は神の意志と神の永遠の決定とによって生起するからである。
スピノザ

健全な理性は自然に対して限定された能力ないし至力を帰するように我々を教えはしないし、また自然の法則がある一定のものにのみ妥当してすべてのものに妥当しないと主張するようにも教えもしない。
スピノザ

注があり、
ここに自然というのは単に物質とその諸変状とのみを意味せず、むしろ物質の外になお無数のものを意味する。と、ある。

続きである。
何故なら、もし自然の力ないし能力が神の力ないし能力そのものであり、自然の諸法則・諸規則が神の決定そのものであるとすれば、我々は自然の能力が無限的であることを、並びに自然の法則は極めて包括的であって神の知性が概念する一切物の上に及ぶということを全然容認しなければならぬからである。
さもなくては神は自然を無力なものに創り、自然に対して効力なき法則や規則を与え、その結果神は自然を維持しかつ諸物を自分の希望通り展開させるためにはますます新たに自然を助けなければならぬといったようなことを人は認める外なくなるであろう。しかしこうした認定は理性から最もかけ離れたものであると余は考える。
スピノザ

つまり、奇跡という言葉は、人間の見解に関連してのみ、理解される。
奇跡とは、我々が、その自然的原因を、他の普通の事柄の例によって、説明し得ない。
また、少なくとも、奇跡について、書き、また、語る人自身は、それを説明し得ない。

だから、
古人は確かに民衆が通常自然的諸物を説明するように説明することが出来ないことを皆奇跡と思ったのである。
スビノザ

旧約聖書の奇跡に対しての、批判である。

だから聖書の中には疑いもなくその原因が奇跡として語られているのである。
スピノザ

聖書のほんの一部を除いて、奇跡は、単なる民衆の無知ゆえであると、言うのである。
だが、それを、説得するために、神という、新しい概念を創り出すという、努力である。

そうして、神学という、妄想の一つに掲げられるのである。


posted by 天山 at 00:03| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月02日

神仏は妄想である。363

第二は、
我々は奇跡から神の本質乃至存在を、従って又神の摂理を認識し得ないこと。むしろこれらはすべて確固にして不可変的な自然の秩序から遥かによく把握され得ること。
である。

これは、当時としては、大変な反論である。
奇跡を否定するのである。
つまり、旧約聖書、ユダヤ教と、ユダヤ人の考え方を否定するのである。

ユダヤ教から、破門されても、当然である。

神の存在は、それ自体では知られないから、必然的に諸概念から、―――その真理たることが確固不動でこれを変える得る如何なる力も存在し得ず又考えられ得ないような諸概念から結論されなければならぬ。
スピノザ

この思想が、カトリック神学に寄与したことは、当然であろう。
とても、有効に機能したはずである。

我々は一切が確実且つ不可変的な自然の秩序に従うことを知りさえすれば奇跡などに依らず充分に神の存在を確知し得るのに。
スピノザ

その前に、
だから奇跡を自然の秩序に矛盾する出来事と解する限り、奇跡は我々に神の存在を証明することなどとても出来ぬのであり、反って我々に神の存在を疑はしめるばかりである。
スピノザ

何度も言うが、ここでは、新しい神についての、観念を創り続けている。

しかし奇跡を自然発生的原因によっては説明され得ない出来事と仮定すれば、それは二様の意味に解される。一は奇跡は自然発生的原因を持ちはするがその自然的原因が人間の知性によっては探求され得ないという意味みであり、もう一つは奇跡には神或いは神の意志以外の如何なる原因をも認められないという意味である。
スピノザ

つまり、奇跡は、自然発生的原因を持とうと、持つまいと、原因的には、説明され得ない事であり、人間の把握力を、超越するのである。

故に奇跡から、即ち我々の把握力を超越する出来事からは、神の本質も存在も、否およそ自然に関する如何なることも理解し得ない。反対に一切は神によって決定され確立されること、自然の諸活動は神の本質に生ずること、自然の諸法則は神の永遠なる決定乃至意欲であること、そうした事どもを我々は知っているから、我々は断然こう結論せねばならぬ、我々は、自然的事物を益々よく認識するにつれて、また如何なる風に自然的事物がその第一原因に依存するかを、並びに如何なる風にそれが永遠なる自然の諸法則に従って活動するかを益々明瞭に理解するにつれて、益々よく神と神の意志とを認識し得るのである、と。
スピノザ

とても、挑戦的である。
そして、既存のユダヤ教に対する、過激な否定的表現である。
それは、新しい思想を創り出す時に、当然な結果である。

要するに、スビノザは、反自然的奇跡、超自然的奇跡は、不条理以外の何物でもなく、聖書における奇跡は、人間の認識、把握力を超越するもので、自然の業以外の、何物も、意味しないと、結論する。

自然の諸法則に反した奇跡は、逆に、無神論に導くというのである。

奇跡という、意識によって、逆に、神の存在を否定してしまうと、訴える。

それは、超自然といっても、自然の中で、行われることである。そこで、超自然を認めることは、神の決定に基づいた、確固、かつ、不可変的であると考える、その秩序を、中断させるという。

これは、奇跡に関しての、考察であるが、自然というものを、どのように、捉えているかを知る上で、非常に参考になる。

日本には、このような、自然に対する、意識は無い。
そして、神という、絶対的存在による、自然の認識は無い。

兎に角、神の存在を主にして、七転八倒して、考え続けたのである。

だが、スピノザが、ここで語るのだが、今も、奇跡というものを、妄信する人たちが、多数存在する。
更に、これを取り入れた、カトリックでさえ、その信者も、奇跡を求め、更に、奇跡的な事柄を、神の存在につなげる。

それが、神を否定することになるとは、知らずに、である。

だから、スピノザは、それは無知であると、断定する。
否定と過激な発言である。

だから、長く、この著作は、眠っていたのである。
出版出来なかった。

実は、今も、キリスト教は、ユダヤ教から、逃れられないのである。
同じ事を、繰り返している。
あの頃から、人間は、いやキリスト教は進化、進歩していないと、言える。

旧約、奇跡の無知を指摘した、スピノザは、新約聖書のイエスの奇跡に対しては、どのように考えたのか、興味がある。

旧約聖書と、新約聖書を、聖典とした、キリスト教は、その矛盾に苦しむことなく、ただ、淡々と、蒙昧な信仰を繰り返しているといえる。

真実、神の存在に向き合うことは、その存在のギリギリまで、追求し、考え得る限界まで、考える。そして、言葉にする。
そして、言うに言われぬ思いなどとは、言わない。

すべては、語れると、確固たる信念に基づき、思索を続ける。
それは、賞賛すべきことだ。

勿論、私は、それに組しない。
私は、日本人として、言挙げせずを、選ぶ。

だが、スピノザを続ける。
とても、面白い、思索の模様が見られるのである。

posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月03日

神仏は妄想である。364

スピノザを、見ていても、欧州思想の語りは、行間など無い。
隙間を埋めるように、書き尽くす。

全く、思考方法が違う。
それが、良し悪しの問題ではなく、民族的、風土的とでも、言うものである。
だが、現代日本人が、それに陥った。

語り尽くす前に、昇華させるのが、日本の特徴である。

そして、その心奥のことは、言葉にしない。
感じるものにする。

だが、欧米の思想に馴染んだ者や、賢い馬鹿の連中は、それが本当の語りだと、思い込んだ。

そして、我を忘れた。

これから第三の点に移り、神の決定と命令、従ってまた神の摂理が実際に自然の秩序以外の何物でもないことを示そう。
スピノザ

スピノザの、批判は、ユダヤ教、そして、それらの、神学者たちに、向けられている。
神に対する、批判は、皆無である。

神の存在を前提にしての、語りである。
更に、その神に対する、解釈を、妄想であると、言う。
スピノザも、イエスと、同じく、ユダヤ教指導者に対する、徹底批判を繰り返している。

それは、実に、否定的で、激しい。

換言すれば、このこと或いはかのことが神域は神の意志によって為されたと聖書が言っている場合、それは実際にはそのことが自然の法則と秩序とに従ってされたということを意味しているにすぎないのであって、一般の人々が考えるように、自然がその間活動を停止したとか、自然の秩序が一時的に中断されたとかいうことを意味しているのではないのである。
スピノザ

私も、換言して言えば、彼らは、神を前提にしてしか、物事を考えられないのである、と言う。

聖書は、ものを自然的原因によって説いたり、純粋に思弁的な事柄を説いたりすることを、目的とはしない。そして、仔細に、且つ多くの付帯的事情を交えて、語られる物語から、推論によって、帰結されなければならないと、言う。

聖書の中にその原因が我々に分らぬような事柄、また自然の秩序を離れて、否自然の秩序に反して起こったかに見える事柄が書かれてあっても、我々はそのために躊躇すべきではない。むしろ我々は実際に起こった事柄は自然的経路おいて起こったのであることを固く信じなければならぬ。
スピノザ

奇跡における付帯的諸事情こそは奇跡が自然的原因を必要とすることを明示するものである。
スピノザ

この時代に、スピノザによって、宗教的迷信、宗教的脅しのような、奇跡が否定されているのには、驚く。

だから、
人間の罪が洪水の原因になったり、人間の祈りが土地の豊饒の原因になったり、信仰が盲目者を癒したり、その他、聖書に語られる奇跡の種類は、否定されるのである。

聖書は、民衆に敬神へ最も強く拘り得るような、順序あるいは表現法において、述べているのであると、スピノザは、言う。

聖書は、理性を説得しようとではなく、ただ人間の想像力と表象力とを刺激し、感銘させようと努めているからである。
スピノザ

聖書の中に実際の出来事として語られているすべてのことは、おおよそ生起する一切事と同様に、必然的に自然の法則に従って生起したのである。
そしてもし自然の法則に矛盾すること或いは自然の法則の結果ではないことが不可疑的に証明されるように何事かが見出されるとしたら、それは冒神の徒によって聖書へ付加されたものであることを我々は固く信ずべきである。何故なら自然に反することは理性に反し、理性に反することは不条理であり、従ってまた排斥されねばならないのであるから。
スピノザ

つまり、ユダヤ教の指導者たちは、スビノザの言う、排斥されなければならない、者たちであるということだ。

長く、この著作を発表出来なかったということも、納得する。

だが、理性によっても、神の存在が、前提なのである。
如何に、神と、格闘したかということだ。
ニーチェが、神は死んだ、を、書いたのも、スピノザの流れにあるといえる。
勿論、二人には、一切のつながりは無いが。

自然という、大前提と、神の存在という大前提の前に、奇跡は、無いと理性的に、解釈する、スビノザである。

聖書解釈が、それでは、その後、どのようになったのか・・・
何も、変わらない。
聖書の奇跡は、奇跡として、多くの信徒たちが、信じるのである。

スビノザの努力も、水の泡。

そして、第四番目の、テーマが、
人々が奇跡を見当違いに解釈して、聖書の中に自然的光明に矛盾する事柄を見つけたと早合点することのないようにするため・・・
書き続けるのである。

私は、神道における、自然観を書いている。
その、自然観と、西欧の自然観の相違を見て、神道の自然観、自然感覚を、遠くから眺めるという方法を取っている。
何故か。
神道には、言葉が無いからである。

そして、神道の自然感覚を説明すると、嘘になる。

スピノザが、理性という言葉を使うので、私は、感性という言葉を使い、神道の自然観を言う。
これは、いたし方ないのである。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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