2011年07月19日

神仏は妄想である。344

神道が、限りなく、伝統行為に近いこと。更に、建物を、持たないものとの、前提で、建物を作り始めたことを、見てゆく。

土地の霊、地霊を、奉る。
産土とも言い、氏神ともいう。更に、村の鎮守の神様である。
それら、社を作り奉る。

それは、農耕定住民族である、古代の日本人の、風習を作るものになった。
そこまでならば、まだ、許容範囲を持って、認めることが出来る。

だが、それから、である。
稲荷、八幡、雷神と呼ばれた、菅原道真を奉る、社が造られる。

稲荷は、伊勢神宮の外宮、豊受大神の、眷属としてある。
だが、それが、次第に、妖しくなっていく。
単なる、狐の霊を奉るところもあるのだ。

八幡は、渡来の神である。つまり、中国、インド系などの、複合した、霊を奉る。
これは、特に、問題がある。
だが、大和朝廷は、この宇佐八幡神を、とても、大切にした。また、その、霊示を、頂くのである。

八幡神に関して、学者たちの、妄語は、あまりある。
霊感の無い者が、いくら、研究しても、解るはずがない。

八幡宮辺りから、大きく、神道が、堕落するのである。
建物・・・
それは、中国、インドにては、神の威力を示すものである。

自然は、その威力をあえて、示す必要は無い。神道は、それであるのだが。

さて、菅原道真である。
左遷されて、恨みの死を迎えた。それによって、都に、祟りが起きたと、考えた。
そこで、ある学者は、日本の宗教は、恐れの宗教だと、言う者もいる。

祟りを起こすモノの霊を、奉り、その祟りを鎮めてもらう・・・
ということは、荒ぶるモノも、神として、奉るということである。

更に、それらは、現世利益を主とする。
現在も、そのようである。
現世利益など、全く、神道とは、関係無い。

神道は、自然からの、恵みを最も大切にして、それ以上の要求などないのであるから。

稲荷、八幡、雷神、つまり、天神ともいう、それらは、多くの土地に、勧請されて、広がり、元々の土地の神社は、単なる、社として、飾りになるのである。

ただし、明治期までは、まだ、素朴な信仰形態を、保っていた。
明治政府によって、それらの神、社は、祭神を、記紀に合わせるようにと、神社本来の、あり方に、圧力を掛けて、各地の神社は、伊勢神宮の元に、統一、管理されることになるのである。

これで、更に、神道は、堕落することになる。

神社とは、何者かによって、管理、統一されるものではない。
自然発露としての、社であった。

簡単に言えば、村人の、集いの場であり、相談や、会合の場としても、機能していたのである。

政府によって、特定の神の名の下に、信仰を強要されるものではない。

その、堕落とは、組織と、統一によって、神社に仕える者たち、つまり、神主などの、管理統合である。

今は、おおまかな、神道の歴史を見ている。
後で、細かな、神道の妄想を、書く。

神道の、供え物・・・
これが、驚きである。

唯一、紙を、捧げた。
幣帛である。

麻を使用して、神の紙とも言われる、幣帛を捧げ物にするという。
後々で、神前に捧げる物が、複雑になってゆく。
それも、勿論、堕落である。

神社は、祭りを執り行う場所である。

さて、冬とは、フユであり、それは、万物が忌み籠もるという意味であり、その期間は、万物の再生を持つ期間として、フユと、呼んだ。

それは、「御魂の殖ゆ」、みたまのふゆ、として、新たな命が、殖える時期なのである。

そこで、冬には、力の弱い太陽を、復活させるという、様々な、祭りが、行われた。

太陽祭祀とも、言うべき、お祭りは、各地方で、それぞれの、伝統的な形で、行われる。

鎮魂祭というものも、その一種である。
それは、また、天皇の霊力を賦活させるものでもあった。

そして、冬至を過ぎると、太陽が復活する。
万物に春が、訪れる。

この、春を、祖霊を迎えて、お祭りするのである。
新年の豊穣を願い、祖霊祭りを行う。
正月の行事である。


大和言葉では、ハル、は、ハレであり、木の芽、万物の新しい芽が、張る、のである。

やがて、農作業の時期がくる。
春の、祈年、としごい、の、祭りがある。

春から夏にかけて、万物は、活動のピークを迎える。
そして、秋は、収穫の時期である。

秋、アキ、は、飽き食い、あきくい、と、呼ばれ、収穫したものを、自然霊、祖霊と、共に食す祭りが、行われる。

食物による、エネルギーを、食い、我が身に、そのエネルギーを引き込み、御魂の殖ゆ、に、備えたのである。

ここで、私は、あえて、歳神という、言葉を使用しなかった。
すべて、この歳神、つまり、年の神に、掛けて、説明されるのだが、それは、中国、陰陽道、道教の影響を受けた、説明である。

中国思想によって、説明されると、誤る。
とても、妖しいものになるのである。


posted by 天山 at 05:18| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月20日

神仏は妄想である。345

神道には、開祖も、経典も、教義も無い。
つまり、欧米の宗教学としての、宗教という概念は、無い。

だから、宗教ではない。
私は、伝統と言う。

だが、しかし、神社神道では、神職を置くことから、それでは、何を基準に、神職とするのか・・・
ということで、古事記、日本書紀の勉強をする。そして、その中の、神話の部分を、覚えるのである。

古事記は、天武天皇の命により、出来たものであり、私は、作為があると、見ている。
つまり、大和朝廷以前の、歴史を、圧縮した。
圧縮して、それを、神話として、作り変えた。
改竄である。

それでは、大和朝廷以前の、歴史とは、何か・・・
文献が無いと、学者たちは言う。
学者とは、学ぶ者であるから、私とは、違う位相にいる。

書かれたものが、ある、ということは、書かれなかったものも、あるということである。

その、書かれなかったものは、何か・・・
それを、勘に頼る、霊感に頼り、鑑みる行為を、道行と言う。
私の言葉である。

道を行くのである。

さて、古事記の神話は、美しい物語である。
その美しい物語を、文学として、評価していい。
だが、そこから、何か、事実を掴もうとするのは、誤りである。

天地の中心に、最初に生まれたのが、天之御中主神、あめのみなかぬしのかみ、となる。
そして、高御産巣日神、たかみむすびのかみ、神産巣日神、かみむすびのかみ、である。

更に、うましあしかびひこじのかみ、天之常立神、あめのとこたちのかみ、である。
以上の五神は、男女の性別がなく、独り神として、身を隠して、姿を現さず、別天神、ことあまつかみ、と、呼ばれる。

これ自体が、物語である。
創作作家がいる。

物語として、お話しとして、受け入れる。
ところが、それらの、神々が、存在すると、信じてしまう人たちがいる。

姿を現はずもない。
存在しないのである。

更に、ニ神の神がいる。
国土の元をなす根源神といわれる、国之常立神、くにのとこたちのかみ、と、豊雲野神、とよくもぬのかみ、である。
そのニ神も、独り神であり、身を現さない。
存在しないからである。

ただし、それから、存在するものとして、拝すると、その想念が、その存在を作り上げるのである。

つまり、拝する人の、想念が、そのような、不気味な神を、作り上げる。

ただし、これは、天地のエネルギーの解釈としては、受け入れられる。
そのような、エネルギーによって、ただ今の、あり様が成ったと、信じるものである。

その後の、10神々は、男女ペアで、現し身の神、つまり、実在の存在として、語られる。

10神々は、一代として、すべての、神のことを、神世七代、かみのよななだい、という。

これらによって、世界は、おおよその形を整えたといわれる。

しかし、完全ではなかった。
ここが、問題である。
完全ではない、とは、何か・・・

そこで、別天神は、イザナギと、イザナミの神をして、国を造らせる。
オノコロジマを作り、そこに、天下って、夫婦の交わりをする。
そして、生まれたのが、ヒルコという、未熟児である。

それは、イザナミが、誘ったからであり、次に、イザナギが、誘い、交わりをやり直して、8つの島を生んだという。

完成したのが、豊秋津根の大八嶋、おおやしま、日本列島である。

日本列島は、一万ニ千年前に、大陸から、徐々に、離れて、島となった。
考古学である。

天地開闢と、国生みの、神話である。

これをもって、神社神道は、教義のようなものを、確立させたのである。

教義のようなものであり、教義ではない。
物語の、延長である。

このようにして、神道は、堕落してゆくのである。
ただ、世界には、神話から、ある種の信仰形態を作り上げるというのが、一般的である。

作り話を、まともに、取り上げる必要は無い。

現みの神は、次々と、山の神、海の神と、数多くの神々を、生んだ。

岩、土、木、風、五穀・・・

要するに、すべては、神が、神々が、作られたのですよ、という、お話しである。
そして、それは、また、すべて、自然である。
自然の成り立ちを、創造するという、行為の、美しい物語である。

古事記が、書かれた頃には、中国大陸、朝鮮半島から、大量の書物が、入っていたので、その影響は、大きい。

そして、また、それらの、弊害も大きい。
ただ、日本にも、このような、美しい、神話が存在するというのが、いい。

神社の中には、天之御中主神を、祭神とするところもある。
それも、微笑ましく思われる。

posted by 天山 at 00:32| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月21日

神仏は妄想である。346

イザナミの神が、最後に、火の神を生んだときに、ホト、女陰を、焼いて死ぬ。

これが、面白い。
女陰を焼いて、死ぬという、神話である。

とても、まともな神経ではない。
まあ、それに、意味づけするのが、アホな学者たちである。

たいした意味は、無い。ただ、死ぬというところである。意味のあるところは。

それから、イザナミと、イザナギの神の、戦いである。
死の国に入った、イザナミに、イザナギが、逢いに行き、そこで、イザナミの醜い姿を目にして、驚き、逃げる。
そして、追われる。
ついに、逃げ切る。

そこで、イザナギは、穢れを清めるために、禊をする。

その際にも、多くの神を生んでいる。
男神が、生む・・・

要するに、神話だから出来る芸当である。
実に、荒唐無稽なお話し。

そして、完全に清くなった、イザナギが、最後に、左目を洗うと、天照大神が、右目からは、月読命、つくよみのみこと、鼻から、スサノオの命が、生まれる。

これは、完全に、大和朝廷以前の、存在していた、現し身の、つまり、実在の人物を、物語化したのである。

物語・神話の形にして、登場させるという、手、である。

ここで、一気に、飛躍すると、この、天照大神が、皇室、天皇の、神として、その後に、認定されるが、違う。

もし、天皇の神とするならば、皇室の、本来の祖霊神は、高御産巣日神、たかみむすびのかみ、である。
たかみむすびのかみ、とは、神産巣日神、かみむすびのかみ、と、対になり、独り身の、神である。

産巣日、むすび、とは、魂、とも、書く。
産霊、むすびれい、それは、魂結び、たまむすび、であり、霊魂を体内にこめる、鎮魂の法である。

むすび、を、特に、貴んだのが、天皇家、皇室であるから、当然、産巣日、の神である。

実在の、天照る神とは、富士王朝、高天原府の、中興の大政頭、まつりごとかしら、であった。
唯一、女性の、大政頭である。

その、弟が、月読命で、彼は、姉に、その位を譲り、自身は、山を統治する頭として、高天原府を出る。

スサノオは、別物である。
大陸から、富士王朝を、攻めるために、来たものである。

そして、天照る神に、恭順を示すことになる。
それが、神話として、描かれる。

これを知らない人たち、研究家は、天照大神を、男神だと、判定するようである。
その、男神に、仕えていた、巫女である女性が、天照大神とされたと、言う。

何とでも、いえるので、何とでも、言う。

ある、書籍には、
母権社会から父権社会への転換という大きな流れに沿って、一つにまとめあげられた。それは、北方的・父権的文化を列島にもちこんだ天孫族による、古い日本文化の取り込み、そして支配を意味するものであった。

と言う。

大和政権にとって、都合の良い解釈をする必要があったと、言うのである。

つまり、それは、縄文期から、各地で行われていた、太陽祭祀を一本化するための、方法であったとする。

研究家たちは、持統天皇の代に、男神から、女神への、差し替えが行われたとする。
違う。

天皇家が、伊勢神宮の斎宮に、皇女を差し出していたのは、意味がある。

祟神天皇の代に、富士王朝から、天照の鏡を、奪い、皇居に、奉る。
だが、世の中騒がしく、疫病が流行り、自らの、体調も良くない。
それゆえに、皇居から、鏡を、他の場所に移すことにした。
その際に、皇女を、その守りとして、斎宮を置くことにしたのである。

そして、次期天皇、第十一代垂仁天皇の、皇女である、倭姫の命が、その鏡の、奉る場所を求めて、旅をし、伊勢の地に、お奉りすることになる。
それが、伊勢神宮の前身である。

富士王朝は、大和朝廷以前に、機能していた、王朝である。
勿論、初代神武天皇から、富士王朝の、血族である。

富士王朝は、神都として、九州王朝は、天都として、機能していた。
これについては、古神道に際に、詳しく書く。

確かに、持統天皇の時代に、伊勢神宮を取り巻く環境に、多くの変化があった。
それまで、神宮の祭司を勤める、度会氏が、外宮である、豊受大神の禰宜に代えられ、内宮の、天照大神を祀る、禰宜には、中臣系の荒木田氏が、任命された。

ここに、策略があるとの、見方をする。

持統天皇の存在意義を、男神から、日女、ひるめ、つまり、日神である、男神から、女神へと、変更することで、天武天皇の妻であった、日女が、天皇になったために、日女、ひるめ、を、神にしたという、説である。

天皇家は、すでに、そんなことをしなくても、安泰だった。
持統天皇と、天照大神を、重ねる必要は無い。

日本書紀には、それを、裏付ける記述があるというが、それも、作為あるものであれば、何のことは無い。

つまり、天照る神を、おおひるめ、おおひるめむち、としているというのである。

それは、日神に仕える、巫女という、立場である。

それは、古代史を知らないからである。
富士王朝の存在を、知らない者の言うことである。

持統天皇は、唯一、伊勢神宮に行幸した、天皇であるが、この時に、幣帛、新羅からの、貢物を、伊勢神宮だけではなく、大和神社、おおやまとじんじゃ、など、いくつかの、大社に、奉るのである。

伊勢神宮だけが、別格の扱いを、受けた訳ではない。

ただ、事実として、古代末期から、中世初期に、女神として、定着したと言われている。

それ以後、日本中に、伊勢神宮の存在が、伝わり、広がる。

明治になり、政府によって、国家神道としての、伊勢神宮の神が、絶対神として、強調された。
これが、実に誤りであったことは、見てきたとおりである。
第二次世界大戦の際には、軍部によって、それが、天皇陛下と共に、利用されたのである。

天照る神は、太陽信仰、日の崇敬を、特に人神の時代から、勧めた、人物である。
それは、縄文期から、各地で行われていた、太陽崇敬に、よく、表れている。

大昔、古代、人は、神、かむ、として、意識された。
後に、それが、人が死ぬことは、神になることだとの、意識になるのである。

日本には、唯一、超越した、絶対的存在の神というものは、存在しない。
存在するのは、自然であり、そして、祖霊の神、カムなるものである。

祖霊は、自然の中に、隠れて存在し続けると、認識された。

古事記、日本書紀の、最初の、神話の部分は、神話であり、それは、古代の歴史を、その中に、封印したものと、認識していいのである。

神の名前の、天照以前のものは、創作である。
その後では、何とでも、意味づけ、解釈することが、出来る。

それが、堕落なのである。
要するに、妄想なのである。


posted by 天山 at 05:10| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月19日

神仏は妄想である。348

古代日本の考え方によれば、血統上では先帝から今上天皇が皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫でいられる。御身体は御一代毎に変わるが、魂は普遍である。天照大神との関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。
折口信夫

肉体は、変われど、その肉体から肉体へと継承される、魂は、不変であるという。
そして、その、魂を、永遠の、天皇霊というのである。

血統上ではそこに「皇位」の継承が考えられるが、しかし信仰上からは不変の「魂」の継承のみが基本型であるといっていることである。天皇の魂の不変性を儀礼的に保証するものが、すなわち毎年繰り返し行われる復活鎮魂の祭としての新嘗祭や、大嘗祭なのである。
山折哲雄

しかし、この折口の考え方が、津田の古代史研究の手法、および、天皇と、皇位論と、真っ向から、対立する立場にあると、山折氏は言う。

津田が、記紀神話を、呪術、宗教的儀礼から、廃したのを、折口は、それを通して、解釈したということである。
が、私は、ここで、どうして、それほど、宗教的儀礼という言葉などに、拘るのだろうかと、思う。

結論を言うと、その儀礼は、伝統なのである。
伝統として成長したのである。

津田は、上代において、死者を、カミとして、祭ることもしなかったと、断言する。
当時の人間の間では、肉体から遊離する霊魂のあるこが信じられていたが、されはあくまで、タマと、称せられていた。

私も、そうでいいと、思う。

死せるもののタマ、祖先のタマとして「カミ」として祭礼の対象とはせられなかった。皇室においても同様で、明治時代になるまでは、歴代の天皇のタマを「カミ」として祭ることは無かったのである。だからイセ神宮とても単に皇室の第一祖を祭ったものではなく、それらの祭られたのは太陽とせられていたためである。
津田

そして、カミと、タマの、機能をも、根源的に区別したという。

このことを通して、カミに対する信仰、すなわち祖先崇拝の存在をも否定したという。

津田の残したものは、天皇の地位は、皇位の永遠の尊厳性、すなわち、万世一系のみが、残された。

それに対して、折口は、タマとカミをもって、同根の信仰から発したという。
それは、カミと、オニとは、タマが発した、善と悪の二方面に分化したものであるという。

折口の、考え方には、常世神、まれびと、という、考え方に、行き着く。
常世神とは、海の彼方から、常世の国から、年の一定の時期に、この国にやってくる、神のことである。それが、変化して、山からくる神、空からくる神という、観念ができあがったというものである。

それらの、カミや、オニは、もとを正せば、タマであるという。

であるから、折口は、天皇霊は、カミであると同時に、タマでもあると、考えた。

毎年のように、行われる、タマフリ、タマシズメという、鎮魂儀礼は、天皇霊の永遠の継承を実現するための、聖なる技術であると、考える。

これは、あまり深入りしないでおく。

共に、学者であり、それは、一つの仮説である。
私は、両者共に、納得するものがある。

折口は、民俗学からの、観点であり、津田は、歴史学からの、観点である。

ただ、津田の、先祖崇拝、つまり、祖霊のカミ観念を否定したということに、誤りを見る。

タマが、カミに、変容する。
それが、日本の伝統である。

肉体を失えば、タマ、魂になり、そして、時間を経て、カミに、変容する。
そして、そのカミとは、自然、天地自然のことである。
その、象徴が、太陽である。

太陽崇敬は、上代以前よりの、行為であり、所作である。

日本の、伝統的行為には、宗教観念は、全く無い。
それは、両者共に、同じである。

目に見えるものから、見えないものを、推察した形跡がある。
静かに、自然を見つめていれば、そこに、自ずから為る、姿が、見えてくるという、説明である。

死ぬ、ということを、理解するのに、自然を見つめた。
そこから、自然に隠れるという、考え方に至る。
天地自然の中に、すべてがある。

つまり、天地自然を超えたところには、何も無い。
だから、唯一超越した、存在は、無い。

そして、太陽を崇敬することで、超越した、神観念を必要と、しなかったのである。

記紀神話に書かれる、神々の名は、すべて、想像の産物である。つまり、妄想である。
記紀神話の神は、妄想なのである。

そんな神は、この世の、どこにも、存在しない。
するはずが無い。

存在するのは、生きた人間と、死んだ人間と、天地自然だけである。

神道は、それを、ただ、所作にして、伝えてきた。
伝えて、統べてきた。

天皇の存在は、その所作の象徴であり、その存在は、日本民族の智慧である。

なにごとの おわしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる
西行が、伊勢神宮を参拝した時に詠んだ歌である。
ただ、その天地自然の、かたじけなさ、というものを、感じる心。それが、神道の真髄である。

それは、場所を指定しない。
また、建物も必要としない。

いつでも、どこでも、その、かたじけなさ、という気持ちを、感じることができる。
そこには、一切の妄想はない。


posted by 天山 at 16:48| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

神仏は妄想である。349

「神道」という言葉は面白い言葉である。しかしよくわからない。とても単純な言葉であるのに、その意味内容がよくつかめない。そのような言葉である。
神道スピリチュアリティ 鎌田東二

そんなことは、ない。
第三十六代孝徳天皇が、仏教と、区別するために、初めて、名づけたものである。

上記のように、考えるようになったのは、紛れも無く、西洋宗教学によるものである。

「神道」を素直に読むと、「神の道」と読める。それでは、その「神の道」とは何か?「神」は道を持っているのか?「神」はその「道」を作ったのか?「神」もまた「道」を辿る存在なのか?そもそもいったい、その当の「神」とは何ものなのか?そして「道」とは?
鎌田東二

そして、鎌田氏は、言語明瞭意味不明の「神道」を、二つの読み方を通して定義したい、と、書く。

一つは、「神からの道」もう一つは、「神への道」という。
「神からの道」とは、古来、日本人が「カミ」と呼び習わしてきた存在から生み出され、開けてきた「道」の謂であると、言う。
その意味では、「カミ」は「道」の元であり、「道」は「カミ」の転形である。「カミ」は存在の本質、「道」はその現象と言ってもいい、となる。

要するに、「カミからの道」とは、世界がこのようにあることの存在論やコスモロジーを表した言葉なのである。世界・宇宙・自然がかくのごとくに存在する。その存在のありさまを「カミからの道」として、「神道」と呼んだ。
鎌田

日本最古の存在論。「神道」の根幹に自然信仰があるのは、それゆえに、理の当然のことであり、そこには世界(自然)がかくあることの神秘不可思議への畏怖畏敬の念がもっとも素朴な形で表出されている、と、言う。

神道という言葉を、説明し、定義したいという、お気持ちは、理解するが、単に、神道とは、仏教と、区分けるための言葉である。

鎌田氏が、これほどに、言葉を尽すのは、饒舌な西洋思想に、影響を受けて、更に、作家的発想を持つからである。

まあ、それで、納得する人もいるのだろうが、最初の、カミ観念からして、欧米の神観念に、似るものである。

以前に、書いた、大和言葉の、カミという言葉の、意味を読み直して頂きたい。

日本の、カミという言葉は、日本の言葉である、大和言葉によって、説明するのが、正しい。

神道を、説明しようとする、熱意は、勿論、否定しない。
また、神話に関しても、誰が、どのように、解釈しても、いい。
専門家、学者だけが、正しいという訳ではない。
百人百様の、考え方があって、いいのが、神話である。

もう一つの「神への道」とは、「カミ」から発してきた存在の一つである人間が、存在の根源である「カミ」に還ってゆく「道」である。そこに祈りや祭りや感謝やお供えが生まれる。芸能・儀式・祭祀が発生する。人々の願いや反省や希求が現れ出る。
鎌田

このような、観念的なものではなかったはずである。
現実的、実際的なものだった。

あえて言えば、カミと、総称する場合は、祖霊たちのことである。
どうしても、神という存在の、観念論に、陥っている。

いや、神という言葉に、捉われている。
日本には、神というものは、存在しないと、言う。
その方が、すっきりする。

江戸時代に、国学として、屁理屈を捏ねた、その亜流に陥る危険である。
それは、仏教の教義に対決するために、言葉の世界を構築した、努力があるが、その必要は、無かったのである。

何せ、教義などは、皆無である。
そして、説明すれば、するほどに、神道から、遠のくのである。

理屈と、解釈を、重ねれば、重ねるほど、本質と、離れるのが、神道である。

何故、言挙げせず、と、宣言したのか・・・
それは、説明すれば、するほど、本質と、遠のくからである。
では、どうすれば、いいのか。

感じること以外にない。
それでは、説明にならない・・・
とは、西洋哲学の思考に慣らされた人たちが、言う。

説明好き、理論的・・・などなどと、そのような、観念を植え付けられたからである。
説明がつかないことが、あってもいいとは、考えない。
すべてを、説明し尽くすことが、正しいと、信じるのである。

人と人の、出会いなども、説明し尽くすことは、できないのである。
そして、説明しようとすると、変になる。
言葉にすると、伝わらなくなる。
沈黙することが、自然体なのに、騒ぐ事を、教えられたせいである。

言えば、言うほど、書けば、書くほど、遠のく・・・

それでは、私も、その一端を担うことになるのか。
違う。
私は、神道を、説明しているのではない。
神仏は妄想である、を、書いているのである。

それは、存在の本質とか、存在の歴史という意味を内包している。
鎌田

神道という言葉には、それがあると、書く。
それは、鎌田氏の自由であり、否定はしない。
そして、その努力も、賞賛に値するものである。

だが、私は、違う。
人間の考えることは、尽きることである。
書くことがあるとは、書けないこともあることを、言う。

何度も言うが、神道という言葉の、発生は、仏教と、区分けするために、出来た言葉であり、それ以外の意味を、みつける行為は、哲学的行為であり、思想的行為である。
否定はしないが、それでは、神道を誤る。

キリスト教神学が、ギリシャ哲学を元に、膨大に、語るが、果たして、それは、神学なるものに、かこつけた、人間の妄想力ではないかと、私は、言う。

神道に、スピリチュアリティを見出す行為は、それぞれの、自由である。
霊的なものを、感じるのも、個人の自由である。
人に強制しなければ、どんなに、妄想逞しくしても、いい。


posted by 天山 at 13:27| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月08日

神仏は妄想である。350

このように、神道の特性はその多様性にある。生命が多様であることによって、生命の進化を遂げ得たように、神々も多様であることによって、「修理固成」(古事記)し生成発展を遂げてきた。つまり、増殖と変容をくりかえし、仏菩薩が入ってきてもしっかりと蔓のように巻きついて神仏習合し一体化してきたのである。
神道のスピリチュアリティ 鎌田東ニ

その意味では、神道はハイブリッドそのものであり、キメラ化も異種交配もなんのその破天荒な生命活動を繰り広げてきた。その神道文化のありさまを「節操がない」と非難する人もいるだろう。明確な善悪二元論の立場や一神教の立場からすれば、その神々の跳梁跋扈する姿は「地獄の黙示録」のような魑魅魍魎世界に見えるかもしれない。なにしろ、蛇をサタンとしたユダヤ・キリスト教に対して、三輪山の神・大物主神を蛇の姿で表す神道文化は、邪神、邪宗の門であると決めつけられかねない要素を内包しているといえるから。
鎌田

もともと森羅万象に魂の宿りと働きを見る精霊観や自然観があり、それが仏を新しい神々や精霊の一種として受け入れる素地となったからである。・・・
鎌田

精霊観、自然観を、アニミズムと、呼んだりするが、単純なものではない。
自然観と言うが、神道は自然宗教である。

ところが、自然と、言った途端に、受け入れられない。
西欧の宗教、キリスト教は、それを受け入れられない。
つまり、自然は、神の創造物であるから・・・

太陽崇拝は、偶像崇拝と、同じになる。

時代は、西欧キリスト教により、進んだ時期がある。
そこには、非常に強い、白人主義がある。
徹底した、人種差別主義である。

それが、唯一絶対神から、なる、教えである。
最高の宗教の形は、キリスト教であるというもの。

そして、今、それが、滅びに瀕している。
それでは、生きられなくなったのである。
世界は、グローバル化した。

更に、彼らの、豊かさの元である、植民地が、独立したのである。

実際、彼らが、持っていたものは、空の箱だったのである。
勿論、未だに気づかない白人主義というもの。

自然と、対立して、どうして、人類が、生き延びることが、できよう。
それでも、自然は、神の創造物なのである。

宇宙に、創造主が、存在するという、妄想は、限りなく、憐れである。
それは、人間の想像を、遥かに超えている。
そんなことを、考えることは、出来ない。出来ないから、それで、いいのである。

旧約聖書という、妄想から、抜け切れない。
天地創造の唯一の神、という、妄想である。

アフリカで、生まれた、その霊は、霊団を作り、モーゼと、契約した。
そして、ユダヤ人の神となった。
それが、唯一絶対の神・・・
民族の神である。

そして、神道は、それを、認めることができる。
要するに、産土の神である。

さて、自然である。
J・S・ミルという、19世紀イギリスを代表する、思想家である。
彼の、宗教論文に、自然論というものがある。
これは、明治期の日本人たちにも、大きな影響を与えた。

今、翻訳が、新たになり、紹介されている。
これから、宗教としての、自然観、また、宗教批判としての、自然観を、紹介する。

彼ら、西欧のキリスト教の自然観は、一体何ものなのか・・・

歴代のキリスト教の、神学思想を、批判しつつ、非常に格調高い論文になっている。

「自然」や「自然な」という語、そして、この二つの語から派生した語群、あるいは語源的にそれらに近い語は、いつの時代でも人類のなかで大きな場所を占め、人類の感情を強くとらえてきた。
ミル

この、自然という言葉は、道徳と形而上学の思索において、大きな役割を果たしている。それに、一連の語群に、元来の意味と、異なった意味が加わったこと、しかも、混同を招く程度に、元の意味と、結びついている、多くの意味が加わったことが、不運だったという。

「自然に関わる」それらの語は、元来なかった多くの連想のなかに巻き込まれ、しかも、その観念連合のほとんどが非常に強力でしぶとい性格のものであったから、いろいろな感情をかき立て、感情をあらわすシンボルになってしまった。
ミル

観念連合に、巻き込まれたゆえに、誤った好み、誤った哲学、誤った道徳、そして、悪い法律といったものまで、次々に派生させる、源流になったという。

要するに、自然そのものを、観察するのではなく、自然という、言葉に、大いなる誤った意味を、付与したので、その後、次々と、誤りが続いたのである。

ミルは、自然から、神の存在にまで、議論を高める。

神道による、自然観と、西欧の思想における、自然観との、相違である。

とくと、それを見るべきである。

創造物としての、自然と、あってあるべきような、自然との、相違である。

どちらが、大きな矛盾を抱え込み、それにより、大きな過ちを、繰り返してきたのか。

一見、神道が、混乱しているかのように、見えるが、違う。
混乱しているのは、西欧のキリスト教神学と、思想である。

更に、神道は、一切それらを、語ることなく、古神道以前から、続いてきた。
その、思想的なものを、所作に託してきたのである。
言葉と、所作の違いだけではない。

そこには、あまりにも、大きな乖離がある。
天地の差ほどの、乖離である。

そして、神道も、語れば、妄想になる。


posted by 天山 at 17:40| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月09日

神仏は妄想である。351

自然の正しい定義について、ミルの、記述を見る。

どのような事物の本性「自然」もその事物が持つ力と特性の総和であるから、抽象的な意味での自然は、万物の力と特性の総和である。自然とは、すべての現象の合計に、それらの現象を生み出す諸原因を加えたものを意味する。ここで言う現象には、発生するすべてのことだけではなく発生する可能性のあるすべてのことが含まれる。諸原因の使われていない能力もまた、結果に現れる能力と同じく自然の観念の一部をなしている。これまで十分に検査されてきたすべての現象は規則的に起こることが知られている。個々の現象が発生する場合には必ず基になる積極的あるいは消極的な一定の条件がある。したがって直接観察に基づく推論過程によってかのどちらかで、人類は多くの現象の発生条件を確かめることができるようになった。主にそれらの条件を確かめることによって科学は前進してきた。発見された条件は一般命題で表記できる。その一般命題は特定の現象については法則と呼ばれるが、もっと一般的には自然法則と呼ばれる。たとえば、すべての質量を持つ物体間には、質量に比例し距離の二乗に反比例する引力が働くという真理は、自然法則である。空気と食物が動物の生命には不可欠であるという命題も、もし私たちが十分な理由をもって例外はないと確信できるなら、現象自体は特殊であり引力のように普遍的ではないけれども、自然法則である。
ミル

自然という言葉は、現実になっている事実と、可能性がある事実の集合を表す名前、つまり、集合的名称である。
すべての事物の、発生様式の名前である、という。

当たり前のことを、ここまで、語るという、病気である。
西欧の哲学、思想は、それである。

そして、その、思考法に、長年漬け込まれた、日本人は、そういう、言葉遣いでなければ、納得し、理解しないと、思い込んだ、病である。

更に、恐ろしいのは、それで、納得し、理解したと、信じ込む。
ことの本質など、どうでもいい。
思い込むことが、大切なのであり、本質的なことが、何かなど、どうでもいい。

これを、滔滔と述べる人が、賢いと、思い込まれる。
勿論、病である。

この様式は、ある部分は私たちに知られており、ある部分は知られていない。というのも自然という語が示唆するのは、諸現象の多様な細部というよりは、むしろ、包括的見方であり、その見方は、諸現象の存在様式について完全な知識を有する精神だけがはじめて、一つの精神的全体像として形成できるかもしれないようなものだからである。科学は、経験からの一般化によって段階的に、この包括的見方に達することを目指している。
ミル

そして、より深く
つまり、真の科学的な意味では、技術も技術以外のものとかわらず自然であり、技術的「人為的」であるようなあらゆるものが自然であるからである。
ミル
と、いうことになる。

技術は、一定の目的のために、自然力を使うだけである、と言う。

彼の、いうことを、要約すれば、人間の作り出す、技術とは、すべて、自然からの、ものであり、それ自体は、自然の力である、となる。

自然という言葉には、少なくとも、二つの主要な意味を認めなければならないと、
第一は、自然とは、外界または内的な世界の、どちらかに存在する、すべての力を意味し、それらの力によって、起こる、あらゆることを、意味する。

第二に、自然は、発生するあらゆることではなく、意志作用なしでも起こる、つまり人間の、自発的で意図的な働きなしに、起こるものだけを意味する。

これにより、重要な結果に結びつきかねない、曖昧な意味のほとんどを、解読することが、出来る、と言う。

これは、宗教論文の一つであるから、次第に、神の存在と、自然についてということに、触れてゆく。

おもしろいやら、おかしいやら・・・である。

ミルの、宗教論には、17世紀以降の、独自に発展を遂げた、英国の、自然神学、自然宗教論の、伝統がある。

この、自然神学・・・

自然は、神が創り、その中に、神のメッセージが、込められているという、考え方である。

西欧の思想は、神学から、はじまる。
つまり、妄想の神学であるが、そこから、発展生成して、ようやく、マシになってきた、経緯がある。
それが、あちらの、伝統である。

勿論、そのためには、ギリシャ哲学の、恩恵がある。
ギリシャ哲学を、神学の基にしたのである。

ギリシャ哲学は、イスラム帝国にて、学ばれていた。
それを、逆輸入しての、おめでたさである。

西洋史が、主体ではなく、イスラム史が、主体だった。
西洋史を主体にして、歴史を、見ると、誤る。
イスラム帝国の、学問、芸術は、西欧を、遥かに、凌駕していたのである。

それらも、何も、武力が、問題であった。
武力の強い方が、優れていると、自賛する。

日本人は、すべてを、自然から、学んだという、実に、謙虚な民族である。
上記のように、考えずとも、問題なかった。

あらゆるものが、自然から、出ているのであるから、当然、自然崇拝、自然崇敬となる。
それは、学問、芸術、芸能に至るまで・・・

そして、多くを、言葉にしなかった。
それも、文化である。

言葉にしない、文化が、伝統であった。

だから、それを知るためには、所作を学ぶことである。
所作の中に、すべてを、込めたのである。

たった、一杯の茶を飲むのに、所作を創作した。
そこに、言葉の世界を、込めたのである。

ミルを、引き続き、読んでゆく。


posted by 天山 at 18:04| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月10日

神仏は妄想である。352

自然神学とは、キリスト教の神学の一部門である。

その、前提には、神の自己顕現がある。
それを、啓示と呼ぶ。

更に、啓示に基づく神学を、啓示神学と呼ぶ。

キリスト教では、神は、自然の内にはない。
自然内の対象を認識するように、認識することができない、存在が、神である。

キリスト教では、世界の創造者である神は、最初は、イスラエルの歴史的経験により、そして、イエスの人格を通じて、人格的、道徳的な、愛の、本質を明らかにしたといわれる。

古代の、諸宗教においては、暴風、旱魃などの、大きな自然現象を通して、神が、顕現されると、信じられていた。
が、キリスト教、その前進である、ユダヤ教は、神は人格的に、自己顕現するものであり、そのリアリティは、言葉によって、媒介されるといわれる。

言葉は、誰によって成るのか・・・
預言者たちである。
それを、書いたのが、聖書である。

啓示神学は、この聖書を主たる源泉として、捉えるのである。

自然神学は、自然界の秩序を通して、神を知ろうとするもの。
啓示神学の、直接体験ではない、間接体験を通して、啓示神学を、補完するものである。

歴史を先導するものは、神。そして、自然界を作り、秩序を与えているのも、神であるという、認識である。

キリスト教では、この二つを、神の二つの書物と、呼ぶ。

自然が、神によって、創造されたとすれば、そこには、神の本質を示す何らかの、性質があると、考える。

トマス・アクィナスの見解は、
Aが原因であると仮定する。
また、Aがある性質Qを持っていると仮定する。
すると、BはAの結果であるから、BもまたQを持つことになる。
と、いうものである。

そして、あろうことか、それを、性質を、善、であるとする。
キリスト教神学では、いずれの道も、神の善性によって、神の存在を知る事が出来ると、言う。

善・・・つまり、その対立は、悪、ということになるのである。

対立を設けなければ、彼らの話は、理解できないのである。

善悪で、区分けることしか、出来なかった、西欧の思想である。

ここに、神道、古神道の、善悪を超えた、神々の存在は無い。

イギリスの、自然神学は、中世からである。
その中心だったのは、オックスフード大学である。

中世の、リチャード・フィシャカーは、自然には、神の痕跡と、似像が、刻まれている。それを、知ることが、学問の目標になると、説教する。

ただ、中世の、自然神学は、歴史的に、大きな政治的制約があった。
それは、イベリア半島における、イスラム勢力との、対峙である。

トマス・アクィナスの、「異教徒駁論」は、この政治的現実を踏まえ、キリスト教がイスラム教から、防衛するために、書かれている。

イスラム世界では、アリストテレスの、自然学が研究され、自然についての、哲学的、形而上学的な研究が進んでいた。

そのため、キリスト教側も、当時は、スコラ哲学も、アリストテレスを学び、存在論、形而上学で、理論武装することになる。

中世西欧の、大学では、その形而上学的傾向が、自然神学の基調になるのである。

さて、ミルを、読む。

自然という語は、どの時代でもそうした道徳的観念を担ってきた。多くの最も尊重されている哲学の学派において、自然に従うということは、道徳の根本原理であった。古代人の間で、特に古代の知性や思想の衰退期において、それはすべての倫理学説の真価を試す試金石であった。
ミル

自然は、権威であったと、言える。
自然法・・・

ユスティニアヌスの、法学提要には、
自然法とは自然がすべての動物に教えたもの
と、ある。

だが、キリスト教では、全面的ではないが、部分的に、障害があった。
それは、すべてのキリスト教では、人は、本性的に、邪悪であるという、教えであるから。

勿論、ずるいキリスト教は、それも、何となく通り過ぎる・・・

だが、キリスト教の、基本的な、人間に対する、思想が、邪悪な人間であるというところが、ポイントである。

また、そうでなければ、神の救済は、成り立たないのである。

生まれながらに、原罪を持つとする、キリスト教であるから、自然法を、すんなりと、受け入れるわけにはいかない。

しかし、この教説は反動をまねき、理神論の道徳家たちが自然の神聖さをほとんど全員一致で言い広め、自然の空想上の命令を権威のある行為の規則としてうちたてるようになった。この想定上の基準をなんらかの意味で参照することは、ルソーによって始められた思想と感情の水脈のなかで支配的な構成要素となり、その傾向は、自分自身をキリスト教徒であると称する一部の思潮を含めて、近代精神に最も広く浸透した。
ミル

キリスト教の教説はどの時代でも、そのときたまたま普及していた哲学に概ね合致しており、私たちの時代のキリスト教も、その色彩や魅力のかなりの部分を感傷的な理神論から借りてきている。
ミル

感傷的な理神論から・・・
要するに、節操がないのである。

簡単に言えば、時代の、言葉に合わせて行かなければ、キリスト教も、乗り遅れるのである。

宗教というものは、如何様にも、解釈できるということの、証明である。

本来、人間は、妄想の神という、存在が無くても、十分に生きられるのである。


posted by 天山 at 20:18| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

神仏は妄想である。353

イギリスの自然神学が、隆盛を迎えるのは、17世紀以降である。
中でも、19世紀までに至る、イギリス自然神学の基礎を作ったのが、ヘンリ・モアであり、自然神学の原型は、自然界の仕組み、特に生物において、神の善性を見るという、議論だった。

それを、デザイン論証と、呼ぶ。

そして、モアの朋友である、カドワースの、形成的自然が、生物に見られる、デザインの現象に、着目した。

この、デザインとは、神が、善意を持って、世界を創造し、物理的仕組みによって、善が実現されるように、支配しているというものである。

だが、中世から、近代にかけての、自然観の変化がある。

一般の民衆の間では、生活に根ざした、自然観があった。
まず、中世の人たちは、自然界を、一般に悪霊が働く場所として、警戒した。
更に、原因不明の病気は、悪霊が取り付いたものであるという。

害虫の発生や、凶作、地震は、神の怒りである・・・等々・・・

カトリック教会に求められたことは、そのための、悪魔祓いであった。
中世のカトリック教会の、存在意義は、それである。

悪魔が支配する、自然界に、超自然として、救済するという、教会の権威である。

そして、その教会の、秘蹟、つまり、七つのサクラメントが、特に注目される。
勿論、それは、イエスが、制定したものではない。
教会指導者たちが、勝手に、創作したものである。

中世文化は、実際に、異教徒的な、要素が多分に多かった。が、司祭たちは、それを、取り込んで、教会指導の下に、組み入れた。
民俗的祝祭を、教会暦や、カトリックの聖人にちなんで、新しいものにするという・・・

カトリック教会が、最も、世俗的だと、言われる所以である。
その、節操の無さである。

中世の人たちの、人生は、悲劇的であるという、気分に、おもねた教会の、戦略である。

悪魔と、神という、対立を作り出すと、理解しやすい。
自然は、悪霊と、聖霊が、抗争する戦場であったという、感覚は、実に、愚かなものである。

自然は、悪霊の働く、呪われた地である。
ここで、おかしいことに、気づく。
天地創造、自然を創造したのは、神ではないか・・・

しかし、西欧の考え方は、今も、それが、潜在意識にある。
だから、自然征服という、怪しい考え方が、根本にある。

しかし、その考え方が、自然観が、学問の上では、消えてゆくのである。
果たして、神学が、学問足りえるのかは、解らないが・・・

西欧の、キリスト教世界が、それこそ、世界に広がる時期である。

世界史の中心になりつつある、時代である。
その野蛮な、行動は、世界を、一変させる。

宗教こそ、虐殺、掠奪を好むものはないと、この西欧のキリスト教の、歴史を見ると、よく解る。

イスラム勢力が、西欧から、駆逐されると、コロンブスが、アメリカ発見に向かう。

その時期、キリスト教神学も、存在論・形而上学の枠を、破り、実証的な自然研究に、歩み始める。

コペルニクスの、天動説も、現れる。

彼の、天文学は、ガリレオ、ニュートンに、引き継がれて、地動説は、等質無限空間の観念により、人間中心階層宇宙観を、打ち壊すと共に、宇宙の果てまで行き渡る、力学的法則を、明らかにする。

自然は、目に見えない、不可思議、悪魔の働く場所ではなく、一つの精密な、メカニズムを持ったものとして、認識される。

この、自然観は、キリスト教に対して、徹底した、知的爆弾となった。

それまで、カトリック教会が、独占していた、悪魔祓い、その他は、必要なくなるのである。

すると、狡賢い、司祭たちは、悔い改めて、福音を信じよと、言い始めた。
自在に変化する、宗教の、見本である。

あちらが駄目なら、こちらがある。
あらゆる、宗教というものが、そうである。
要するに、罪悪感が、全く無い。

信じさせれば、こっちのもの、なのである。

人々の、良心を、手玉に取り始める、教会・・・
本当に、手がつけられないとは、このこと。

更に、合理的自然の発見により、医術は、魔術から、開放される。
病気は、聖職者の手を離れて、医者の職になる。

そんな中、ルターが、現れる。
カトリック教会の、嘘に、気づく。
あらゆる、妄想を廃して、聖書に立ち返ろう・・・

特権化した、教会の、制度疲労と、専門家が言う。
確かに、当時の、カトリック教会の、腐敗は、凄まじい。

位の高い聖職者は、宗教貴族になり、政治、世俗的事業に携わる。
別のエッセイで、性について、を、書いているが、売春事業にも、手を染めていたことが、解る。

ルターが、改革を起こすと、人々は、集って、傘下に入った。
免罪符によって、天国行きが決まるとは・・・
ルターも、呆れたことであろうが、後世の人は、もっと、呆れた。
しかし、カトリック教会という、巨大組織は、今もなお、脈々としてある。

何故か。
人は、何かを、信じざるを得ないからである。

そして、その、信じるという、気分から、開放された、つまり、本当の自由を知らないからである。



posted by 天山 at 17:57| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月16日

神仏は妄想である。354

第一の意味における自然は、存在するあらゆるものの集合的な名前である。第二の意味では、自然は人間の意思の介在なしに、それ自身で存在するあらゆるものの名前である。
ミル

しかし倫理学の用語として自然という語を使用することは、自然という語は何であるかを表すのではなく、何であるべきかを表す、つまり何であるべきかの規則や基準を表す第三の意味を示しているように思われる。しかしながら、少し考えてみれば、これが多様性の事例にならないことがわかるであろう。この場合、第三の意味はないのである。自然を行為の基準としてうちたてる人々は、ただ言葉上の関係を言おうとしているのではない。彼らは、どのような基準でも自然と呼ばれるべきであろうと考えているのではない。彼らは何が本当に行為の基準であるかについて何らかの情報を与えていると考えている。自然という語は私たちが何をすべきかについて何らかの外的な尺度を与えると、彼らは考えている。自然に従って行為すべきであると言う人たちは、すべきことをすべきであるという同音反復命題を考えているのではない。彼らは自然という語が、何をすべきかについて何らかの外的な基準を考えていると思っている。もし、彼らが本来の意味では事実「何であるか」を示す語を、価値「何であるべきか」の規則として設定しているとすれば、彼らがそうするのは、明晰であるか、混乱しているかは別として、ひとつの観念を持っているからである。それは、事実が価値の規則や基準を構成するという観念なのである。
ミル

そして、ミルは、その、観念を検討するというのである。

事実が価値の規則や基準を構成するという、観念である。

ミルは、自然神学の伝統的思考を、全面的に否定するものである。

それは、つまり、自然神学では、神と自然と人間が一つながりの連鎖の中にあり、自然は、神によって造られたものであるから、基本的には、善であり、その運行過程は、神の善意を表す摂理による。
そこから、人間の道徳は、自然に従うべきであるという、思想である。

であるから、語られることは、
神の善性から、
自然の善性、
そして、道徳的善の基準としての自然、である。

この連結が、弱められれば、最初の、神の善性が、弱められる、という、理屈である。

よくも、まあ、このような、面倒な、遠回りをするものであると、私は、思うが、これが、西欧の思想、考え方なのである。

日本でも、敗戦後は、そのように、思想を語る者が、多々現れた。
西欧の、真似であるが、それなりに、しっかりとした、ものが出来たと、思う。

自然神学は、キリスト教信仰において信じられている教義と一致する真理を自然の中に経験的・合理的に発見しようとする理論である。認識の目標、確認されるべき事実の前提になっている。信仰の立場では、神の存在も神の善性も真理である。そうでなければ、キリスト教信仰は成立しない。しかし、信仰の外に立って、感覚的経験と理性によって推論するとき、キリスト教の信念体系について何が言えるであろうか。その信念のどれが経験と理性によって真理であると確認できるであろうか。自然神学が取り組んでいるのは、その問題であった。
訳者解説、大久保正健

ミルは、
自然に従い、自然を模倣し、自然に従属することを、善いと考える、学説が正しいか、どうかを、探求するという。

言語というのは、哲学研究のいわば空気のようなものであるが、それが透明にならないと、何らかの対象の真の形と位置を見通すことができるようにならない。
ミル

これが、序の口であるから、先が、思いやられる。

説明する前に、説明するための、準備である、言葉について、語るという、念の入れようである。

賢い馬鹿たちが、実に、好む方法である。

それでは、こちらも、徹底的に、読むことにする。

何となく、曖昧に・・・していると、何となく、解るようなもの・・・ではないらしい。

西欧の思想で、日本の、もののあはれ、について、語らせたら、面白いだろうな・・・と、思う。

花の盛りは、あはれなり・・・
何のこと、ということになる。

災害で、被災した人たちは、あはれなり・・・
何のこと、ということになる。

さて、ミル、ミルである。

この研究の場合、もう一つの曖昧な表現を警戒しておく必要がある。
何・・・まだ、あるの・・・

その両義的な言葉は、十分にわかっているつもりでも、聡明な精神さえも誤解に導くことがあるから、議論を先に進める前に、特に注意しておく方がよい。
ミル

えっ・・・・まだあるの・・・・

自然という語と普通いちばん結びつく語は、法である。
そして、法について・・・書き始めるという・・・

そしてこの法という語は、二つの異なる意味を持つ。法は一方では事実の一部を意味し、他方ではあるべきことについての一部を意味する。私たちは引力の法則とか、運動の法則、化学結合における定比例の法則、有機体の生命法則といったことを語る。これらすべては事実についての部分である。私たちはまた、刑法、民法、名誉の法、正直の法、正義の法といった語り方もする。これらすべてはあるべきことについての部分、あるいは、あるべきことに関する誰かの見解や感情や命令である。・・・
ミル

これは、死ぬまでの、暇つぶしに、もってこいだ・・・

勘違いしないようにしてください。
私は、神道の自然崇敬について、書いています。
そこで、西欧の自然観から、彼らが、自然を、どのように見ているのかを、書いています。
今は、神道の妄想について、書いている、ということ。


posted by 天山 at 00:38| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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