2012年08月12日

天皇陛下について122

第四十六代孝謙天皇、女帝、749年より758年。
この御代に、藤原不比等の孫にあたる、藤原仲麻呂が重用され、恵美押勝という、姓名を賜った。

ところが、第四十七代淳仁天皇、758年より764年の、御代になり、押勝は、我欲を通して、誅された。
この乱で、功績があったのが、唐留学生の、吉備真備である。

押勝の乱の後、天皇は退位され、第四十六代の孝謙天皇が、再び御位に就かれた。
これは、チョウソといわれ、同じ方がもう一度、皇位に就かれることで、この時は、二度目のことである。

第四十八代称徳天皇、764年より770年。
御父聖武天皇と同じく、篤く仏教を信仰された。

ゆえに、常に宮中に僧尼をお呼びになった。

この頃は、行基と同じように、興福寺の義淵僧正の弟子で、弓削道鏡、ゆげのどうきょう、という評判の僧がいた。

これが、孝謙天皇のご信任を得た。それは、天皇が御位を退かれた、上皇時代である。
そして、再び、天皇の御位に就かれた。
そこで、道鏡は、政治のことにも参与すべく、太政大臣禅師という位を授けられた。

これは、大宝律令にはない、不思議な官である。

つまり、朝廷の文武百官の上になるのである。
更に、天皇は、不足とおぼしめして、法王の位も授けた。

法王とは、天皇が退位して、仏教の信仰を続けるという、出家に似た形である。

その下に、法臣、法参議、大律師という、僧侶の役人を配されたのである。
つまり、天下の政治は、道鏡の指示を受けるようにというものである。

しかも、多くの土地も賜り、一族もそれぞれ、高官に取り立てられたのである。

それゆえ、道鏡と、その取り巻きは奢るのである。
天皇と同格になったようなものだ。

大臣以下の百官も、どうしようもない。
法王殿に参り、道鏡さまに、拝賀をせねば、ということになった。

拝賀とは、天皇のみに対する、礼である。

中には、媚びる者も出でくる。
それが、九州、大宰府の神主である、習宣阿曽麻呂である。
この男は、道鏡の次の狙いは、天皇の位だろうと目をつけた。

阿曽麻呂は、道鏡を天皇の位につければ、天下は必ず、よく治まるであろうという、宇佐八幡のお告げとして、朝廷に申し出たのである。

それを聞いた、称徳天皇は、大変ご心配になられた。

天皇の位とは、天照大神の直系でなければ、授けられないものである。

不審なここと思った天皇は、日頃から、信用されていた、尼の法均の弟、和気清麻呂、わけのきよまろ、を、お呼びになった。

それは、前夜、夢に、宇佐八幡のお使いが現れ、八幡の大神から朝廷に告げたいことがあるので、法均をよこすように、とのお告げがあったからである。

しかし、法均は、女の身である。万一のことがあっては、ならないと、弟の清麻呂に、代わりに行くようにと、命じたのである。

清麻呂の身分は、近衛将監で、天皇護衛の武人である。高い位ではない。

この年、神護景雲三年、清麻呂は37歳である。

心身を清めた清麻呂は、八幡の神前に額ずき、つつしんで、その神意を伺った。そして、都に戻り、奏上した。

我が国は、開闢以来、君臣の分が定まっている。臣をもって君とするようなことは、絶対にあるべきではない。天皇の御位には、天照大神の直系を立てよ。臣下でありながら、天皇の位を望む無道の者は、速やかに掃い除けと、ございました。

道鏡には、矢張り、野心があった。それを聞いて、烈火の如く怒り狂い、清麻呂の官位を奪った。更に、名前も、別部穢麻呂とし、大隈国、現在の鹿児島に流されたのである。

姉の法均は、備後、現在の広島に流された。

実は、道鏡は、清麻呂の暗殺まで、謀ったのである。
しかし、それは失敗した。

いかに、道鏡が不遜であり、野心があったという証拠である。

しかし、二人は、藤原百川という、贈太政大臣により、生活に不自由のないように、面倒をみてもらっていたのである。

年が変わり、称徳天皇は、崩御された。
皇太子、白壁王、天智天皇の御孫が、御位に就かれた。

まもなく、道鏡は、下野国、薬師寺別当に左遷される。
更に、大宰府の阿曽麻呂も、種子島の島守にされた。

和気姉弟は、都へ召し出され、名も位も復帰した。
更に、桓武天皇の御代には、大功をたてて、位は従三位、官は民部大輔に、中宮太夫を兼ねることになった。

その後、皇室を守ったことで、護王大明神とあおがれ、京都、別格官幣社護王神社に祀られ、正一位を贈られたのである。

後年、頼山陽は、彼を讃えて、書いた。
男子に気節があるというのは一身上の問題だけではなく、国家をたもち、天下の安危を救うに足る。一国に男子に気節がなければ国はほろんでしまう。
日本政記

現代の政治家にも、心得て欲しい言葉である。
気節とは、気概である。心意気である。



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2012年08月13日

天皇陛下について123

称徳天皇崩御後、皇太子、白壁王(天智天皇の御孫)が、御位に就かれた。

第四十九代光仁天皇、770年より、781年。

天皇の詔勅は、およそ85である。
このうち、祭祀の怠慢を戒められたものがある。

神祇(天津神、国津神)を祭祀するは国の大典なり、と、はじまるものである。

仏教が盛んになり、我が国本来の「神ながらの道」唯神の道を、蔑ろにしてはいけないというものである。

776年のことである。宝亀七年。
前年に、天長節を始められている。
天皇誕生日のはじまりである。
この日は、殺生を禁じた。

更に、宝亀11年に、仏教界を戒める詔を下されている。

つまり、僧侶の堕落甚だしく、一般の俗人と変わらない行為行動を見てのことである。

それは、奈良仏教界に対するものであり、また、それが、奈良時代の終わりを告げることになる。

現在は、どうであろうか・・・
更に、その堕落は甚だしく、手のつけられない状態である。
しかし、誰も、それを戒めることが、出来ないでいる。

奈良時代の最後に、光仁天皇が、皇太子に御位を譲られる時の、宣命、せんみょう、というものがある。

宣命とは、天皇の命令として、多くの人に、言明する、主旨の徹底を図るものである。

その一部
古人がいった。子を知るは親であると。そこで、我が皇太子であるが、若い時から、よく私に従い、今日に至るまで、怠ることなく、仕えてきた。その日常をみるに、仁と孝とに厚い。この仁と孝とは、百行の基である。そもそも、ムカデは死にあっても、ひっくり返ることがない。これは、助け補う足が多いということである。それを考えると、清く正しく、正直な心を持ったものが、一人でも多く、皇太子を助け、また、激励し、導いてくれれば、よく国民を撫育してゆけるだろう。

撫育とは、温かく、育て慈しむことである。

光仁天皇は、仏教界の堕落を見て、ご自身でも、そのタガを締められたのである。そして、実践された。

奈良仏教界は、政治にまでも、介入し、僧侶でありながら、権力を求め、更に、その生活は、自堕落の一途であった。

ゆえに、今でも、奈良の寺院では、浮遊霊が多い。
私も、何度か奈良を、訪ねたが、ロクな寺がなかった覚えがある。

天皇のご在位は、62歳の時より、12年である。すでに、73歳であった。
そして、その年、天応元年、781年、崩御された。

第五十代、桓武天皇、781年より、806年。
平安時代の幕開けである。

時に、天皇は、45歳であった。
仁、孝に篤い御方である。

奈良仏教界の腐敗に対して、新しい都を求めたのである。

それが、長岡京である。
それでも、治まらないゆえに、和気清麻呂の進言で、今日の京都に遷都されることになる。

延暦13年10月のことである。

この地は、比叡、鞍馬、貴船、高雄、愛宕、その他の山々に囲まれている。
東には、加茂川、西には、桂川、南には、宇治の大河が、流れる。

天皇は、山城国としようと仰せられた。
更に、新しい人々が、口々に、平安京、たいらのみやこ、と呼ぶゆえ、都の名前は、それを用いるとの仰せである。

新しい都は、奈良より、大きく、碁盤の目のように、正しく縦横に通じていた。

その中央は、南北に通じる、朱雀門大路があり、最南端には、羅城門である。

さて、奈良仏教界は、退廃の一途である。
更に天皇は、奈良の僧侶、寺院は、大いに害があると、認められていた。
それほどに、酷いものだった。

仏教を否定したわけではないが、これでは、先行きが危ういと、見破られたのである。

そこで、奈良に変わる、新しい仏教を求められたのである。
その、手はじめが、近畿諸寺の興隆である。

東寺、西寺、鞍馬寺の建立である。

そして、人員の配置である。
文官として、和気清麻呂、武官として、坂上田村麻呂をおいた。

更に、天台宗を起こした、最澄を立てられた。
その後、真言宗の開祖、空海が登場する。

最澄は、奈良の僧侶に対抗すべく、精神界に新しい運動を起こすことになる。
それは、釈迦の教えに立ち戻ろうとする、運動であった。

勿論、それは正しいことだが・・・
最澄が学んだ仏教とは、唐の仏教であり、志は、間違いないが、受けてきた教えが誤っていた。
だが、それは、このエッセイの主旨ではない。
神仏は妄想である、を、参照ください。

最澄が、比叡山の山中に、小寺を建てたのは、桓武天皇の、延暦七年である。788年。
現在の、延暦寺の起こりである。

更に、16年には、朝廷が選んだ、十人の高僧の一人となった。
延暦23年、唐へ留学する。そして、帰国後、天台の教えを日本の国柄に合うようにし、広めることになる。

天皇は、その前年に、遣唐使を宮中にお召しになり、餞別に盃を賜った。
その折に、酒に添えて
この酒は おほにはあらず 平らかに 帰り来ませと 祝ひたるさけ
との、御製を贈られた。

おほ、とは、いい加減ではない、気持ちだけではない、という意味である。

真に、無事に帰国することを、願ったのである。
遣唐使たちは、感涙した。


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2012年08月14日

天皇陛下について124

桓武天皇は、羅城門の東と西に、東寺と西寺を建立された。

それと共に、比叡山が東北、つまり、鬼門にあるため、王城の鎮護として、その名を、延暦寺と、賜る。

最澄の天台宗と、空海の真言宗が、以後の二大勢力となって行くのである。

少し説明すると、最澄の方が、早い。
空海は、最澄後に、京都に入り、真言宗を立てる。

更に、空海は、民衆的だった。
精力的に活動したのである。

空海が、唐から戻ったのは、桓武天皇崩御の後で、平城天皇の御代である。

空海は、日本固有の、道徳と仏教の教えを結びつけ、日本の国風に合うようにした。勿論、最澄もそうであるが、特に、儒教やその他、道教などの教えを取り入れて、寺に、守護神として、神社を祀ったのである。

つまり、かんながらの道との、調和を図ったのである。
そして、仏と神は、別物ではないと、主張した。

奈良時代から、そのような考え方があったが、空海が更に、それを加速させたのである。

神の本地は、仏であるというもの。
神は、仏が仮に、人間の世界に現れたものであるという。
であるから、我が国の神々の、源流は、仏、菩薩であるというものである。
それを、本地垂迹、ほんちすいじゃく、の説という。

これは、あくまで、空海の創作である。

平城天皇の、次代は、第五十二代嵯峨天皇、809年から823年である。

嵯峨天皇は、空海に高野山を、賜る。

そこに建てられたのが、真言宗の本山、金剛峯寺である。

嵯峨天皇の御代は、特に、漢文学が最も盛んになった時代である。
以前から、漢籍が読まれて、その文学、漢詩を詠んでいたが、天皇が進んで、それを推進したのである。

その時期の、名高い学者は、小野たかむら、空海、菅原是善、都良香などである。

小野たかむら、は、遣隋使で有名な、小野妹子の子孫である。

天皇は、学問だけではなく、政治改革も、行った。
大宝律令が定められてから、百余年が過ぎて、時世が変わっている。時世に適応するためにと、改められたのである。

文書を扱う、蔵人所、くろうどどころ、更に、京都に検非違使庁を置き、警察事務を執られた。

また、この、平安時代初期、日本書紀に続き、続日本書紀、日本後記、続日本後記と、国史を相次いで、作らせたのである。

更に、御代々の、臨時の法令、規則を集めた、格式、きゃくとしき、というものが出来たのも、この時代である。

天皇は、桓武天皇のご意志を継がれて、天台宗を保護し、その興隆に力を致された。
更に、空海も助けて、新しい宗教を樹立させるのである。

弘仁9年、疫病が起こった際に、自ら般若心経をご書写されて、空海に供養せさしめ、祈願をなさった。

ご在位、15年で、崩御されるが、あらかじめ、崩御の際には、ご遺詔があった。

薄葬にせよ、である。
つまり、すべてを、質素にせよということである。

現在の今生天皇陛下も、同じく、その意思を、お示しになっている。
皇后と共に、葬儀を。そして、質素にと。

このように、帝という、権威にある存在が、そのように希望するという、日本という国柄である。

国民に、負担をかけないように・・・

その、心を、大御心、おほみこころ、という。

権威ではなく、権力によるものならば、その権力を誇示するために、更に、盛大に行うであろうこと。
しかし、権威の象徴である、御方は、そんなことは、必要ないのである。

だからこそ、天皇の権威が存在する。

それは、昭和天皇、今生天皇の、御姿を見ても、解るとおりである。
ただ、国民のために・・・
国民と共にある、祈りの存在として・・・

このような、君主というものは、世界的にも稀有な存在である。


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2012年08月15日

天皇陛下について125

第五十六代清和天皇、858年から876年。

9歳で、御位に就かれた。

幼少のため、そこに出て来たのが、藤原氏である。
先祖の鎌足が、大功績をたてて以来、藤原氏は、引き続き、朝廷からの、信任を得ていた。その後、皇室との縁も深くなり・・・

清和天皇の摂政として、政治を摂るようになった。

鎌足の子である、不比等の子、四人が、公卿に列せられた。
奈良時代も、同じく朝廷からの信任厚く、不比等の娘の安宿媛が、聖武天皇の皇后となり、つまり、光明皇后である。そして、称徳天皇を、お生みになり、皇室との関係が益々深まるのである。

平安時代になると、不比等の子の房前の、曾孫である、冬嗣になり、その名が、大いに現れることになる。

その子、良房が非常に出世する。

良房は、桓武天皇の末、佐衛士尉、さえいじょう、という低い位から、仕えはじめて、嵯峨天皇の御代に、蔵人頭、くろうどのとう、になり、続いて、大納言、右大臣となり、政治に貢献した。

天皇は、皇女を良房に嫁がせ、その功を表するのである。

冬嗣も、第五十三代の、淳和天皇の御代に、左大臣となり、その娘は、第五十四代仁明天皇の女御となり、第五十五代の、文徳天皇を、生まれている。

良房は、仁明天皇の末から、右大臣となっていたが、天皇崩御により、文徳天皇が、お立ちになると、彼は天皇の、外伯父に当る上、自分の娘を天皇の女御に奉る。

右大臣、そして、太政大臣である。

本来は、皇族のみに与えられる職である。

そして、その後、延々と藤原氏が、その位に就くことになるのである。

更に、良房は、清和天皇が、9歳で即位されると、摂政であるから、その出世は、大変なことである。
だが、世の中も、それを認めていた。

臣下で、摂政は、初めてのことである。

この辺りから、藤原氏の策略が見えてくるのである。

清和天皇には、その上に三人の皇子がおられた。
特に、第一の皇子、惟喬親王は、ご賢明の名が高かった。

そのため、文徳天皇は、この皇子を、皇太子にと考えていた。
だが、皇子のご生母が、紀名虎の娘であったため、藤原氏に対し、遠慮されていたようである。

そのうちに、良房の考えで、皇子、惟仁親王が皇太子となった。
この時、皇子は、九ヶ月の幼児である。

惟喬親王は、失望されて、叡山の麓に隠れ住むことになる。

ゆえに、清和天皇は、ご成長ののちに、兄君たちをこえて、御位に就かれたことを、恥じて、27歳という若さで、御位を皇太子に譲られた。

清和天皇は、大変、仁慈に篤い御方であった。

貞観11年、869年、二十歳の時に、服御常膳、ふくぎょうじょうぜん、という、普段の着るもの、食べるものを、減じて、慈雨を祈られた。

そのお言葉である。
私は、徳うすく、才も乏しい身で、天子の位にのぼった。そして、祖宗の大業を受け継いで以来、いかにこれを守り、維持すべきかに心を砕いている。昔の故事をきいては、わが徳を恥ずかしく思い、朝は、まだ明けぬうちに衣を着て、夕べは、日暮れて後に食をとり、ひたすら、政務にいそしんでいる。
むかし、李子の世には、人々は、道に落ちたものを拾わなかったという。その時代と同じように、わが治める民を教化したいと、思っている。また、黄帝の時、国富み穀物も豊かで、犬でさえ、口にした粟を吐き出して、他の犬に与え、少しも争そわなかったという。私の治める国も、これに劣らぬように、富み栄えさせたいと、念じている。
ところが、この頃、天候が不順で、ひでりが続き、雨の降らぬこと、もう数十日におよんでいる。それでは、農民は、絶望である。そこで私は、諸々の神を祀り、また、僧侶をして、仏天に祈らせ、速やかに、慈雨を祈願している。
しかし、私の真心が、神仏に通じないゆえか、今日になるも、雨が降らず、民の憂いを、取り除くことが出来ない。
これは、全く、私の不徳のためで、民には、何の罪もない。
そこで、私みずからをせめ、深く畏れ慎み、ほとんど成すところを知らない。
そこで、今後は、私は、衣服や調度、また、いつもの食事は、適度に減らして欲しい。また、不必要なものは、なるべく節約するようにして欲しい。・・・

この後、左右馬寮の餌は、穀物に限り、当分の間、一切これを禁ずること。
行路病人の救済。
獄舎にいる者で、無実の者がいないかの、再調査。
年貢米の上納免除等々が、指示されている。

この同じ年、肥後の国に、大雨があり、多くの災害が生じた。
その時も、
民が一物でも失うのは、つまるところ、私の不徳のせいである。
と、仰せられた。

この天皇の、大御心は、現在までも、受け継がれている。

敗戦後の、昭和天皇も、しきりに、我が不徳の致すところと、仰せられていた。
今生天皇が、被災地、ご訪問を切に願われることも、その、御心の、現れである。

矢張り、世界のどこを探しても、このような、君主という存在は、見当たらないのである。

勿論、世界の中でも、偉業や、仁徳の優れた人は、現れた。しかし、それは、その一代限りである。

この、天皇の大御心の歴史は、今年、平成24年、2012年は、建国、2672年続いている。つまり、天皇の歴史である。
天皇は、国体であり、国体とは、国民と領土である。

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2012年09月10日

天皇陛下について126

第五十八代光孝天皇、884年より887年。
文徳天皇の御弟である。

ご在位四年で、重い病にかかられた。
その時、まだ、皇太子が決まっていない。

天皇は、心中、定省、さだみ親王と、考えていた。しかし、親王のご生母は、桓武天皇の、御孫に当る。つまり、藤原氏の娘ではない。

摂政の、藤原基経は、早く皇太子をと思う。天皇に、お言葉を求めるが、天皇は、ご遠慮される。
そして、基経の考えに任せると、仰せられた。

基経も、天皇の御心を察して、定省親王を、お立て申すことに、と、申し上げる。

親王は、大変、聡明であらせられた。

21歳で、ご即位される。
そして、基経を信頼し、天下の政治は大小となく、すべてこれを太政大臣に関白、あずかりもうして、しかるのちに奏下せよ、と、詔を示したのである。

この時に、あずかりもうして、という、関白という名称が登場する。
その後は、藤原氏が、天皇幼少の間は、摂政、ご成人された後は、関白として、朝廷の政治を思いのままにするのである。

習慣になってしまったのである。

摂政も、関白も、職は同じである。
天皇のお年によって、職名が変わるだけである。
これを合わせて、摂関ともいう。

この職に就くのは、太政大臣の上にあり、一般は、これを貴び、殿下と呼んだ。

豊臣秀吉の、関白殿下が、有名である。

基経にとって、それは、大手を振って、朝廷の政治を左右することが出来るというもの。藤原氏の勢力が更に強まった。

それを見て、天皇は、これは良くないと、思われた。
しかし、しばらくは、見守るしか、方法がないのである。

ご在位、四年目に、基経が亡くなった。
そのため、その後は、関白も、太政大臣もおかず、天皇自ら、政治を執られた。

天皇は、在位二年の年に、
わが国は神国である。よって毎朝、四方、大中小天神地祇を敬拝す。敬拝のこと、ただ今よりはじめて一日も怠るなし
と、日記に、記してある。

今日の、皇居で行われる、四方拝のはじめは、この天皇の、寛平二年、890年からである。

更に、自ら、服御常膳を、節約になり、役人もまた、その料の四分の一を減ずる措置を執られた。

そして、七年後、寛平八年、896年、服御を減じ、年料を省くの詔をお出しになる。

去る仁和五年、私の服御や常の膳はなるべく節約するように命じた。役人にも、四分の一の料を減らさせた。私は微力である。民の苦を除きえぬことを思うと、まことに不安である。そのため、どんな小さなことでも、民の幸福をはかることなら、実行したい。そう思い身近なところから節約をした。
そのためか、衣食たって、民も礼節を知るようになった。いくらかは、世の中が明るくなってきたかと思われる。が、近年、思いがけぬ洪水、ひでり、兵禍、疾病などの、災いがおこり、穀物も不出来である。
しかし、天を怨み、人を咎めてもならぬ。また鬼神を疑い、神を責めるべきでもない。これらは、私の不徳がなせるわざであり、私一人がその責に任ずべきものである。
私は、今日ただ今の民の、貧苦をみるに忍びない。そこで、更に、服御の三分の一を減らし、また、あらたに、一年の諸雑費半分を節約する。
富国のことは私の、このからだである。この心を、お前たち民に合体させ、ともに励む以外にない。

さて、寛平二年には、讃岐守の任期が過ぎて、菅原道真が、都に戻った年である。
基経は、その翌年、死ぬ。

そこで、天皇は、かねてから、藤原氏の、勢力を抑えたいと考えていたので、道真を蔵人頭に、任じた。

朝廷の重大な文書を、司る役目である。
更に、政治の相談相手とされた。

道真に対する、天皇のご信任は、益々と厚くなり、藤原時平が、中納言になると、道真は、参議になり、時平が、大納言になると、道真は、権大納言になる。
時平より、一段低い地位であるが、その位が上がってゆくのである。

時平、27歳、道真、53歳の年、天皇は、み位を、皇太子にお譲りになる。

第六十代、醍醐天皇である。
だが、まだ幼く、お心得となるべきお言葉を贈られた。
後世、寛平のご遺憾として、有名になった。

賞罰をはっきりさせること。愛憎に迷うことがないように。何事も、平均が大切である。好悪によって、それをなしてはならない。また、喜怒を慎み、それを表面に現さぬように。

そして、藤原時平と、菅原道真に関することである。

時平は功臣良房を祖父、基経を父とする。年は若いが、政治には熟練している。先年、婦人のことで、失策があったが、私は、これを心に留めていない。むしろ昨年の春から、公事に励むようにと励ました。すでに第一の臣としてよい。相談相手として大丈夫であろう。

道真は、大儒である。深く政治を知る。私は選んで、彼を文章博士とし、しばしば、色々と諫言もしてくれたので、これを入れた。特に抜擢して、その功に応えた。更に、先年、皇太子を立てた折、彼だけが、相談相手だった。
その後、二年もたたないが、譲位しようと思ったが、彼は、そのような大事は、天の時というものがありますという。早まってはなりませんとも、直言した。確かに、正論であった。今年七月、諸臣は、やはりお延ばしした方がよろしいかと言ったが、今度は、彼が、このたび、もしお辞めになれば、変事が起こるのではありますまいかと言った。ということで、道真は、新帝の功臣といってもよい。それを、よく考えて欲しい。
なお、天子というものは、経史百家をひろく極めることがなくても、よろしい。ただ、郡書治要を、早く読み習うことである。くれぐれも、雑書に耽り、歳月を無駄にしてはならない。

郡書治要とは、佐伝、礼記などの、50巻のことである。


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2012年09月11日

天皇陛下について127

定省親王、つまり、宇多天皇である。
菅原道真に対する、深い信頼を持たれた。

長年に渡り続けてきた遣唐使の廃止を、道真が天皇に進言されると、遣唐使の派遣が終わった。

すでに多くの学問を取り入れて、十分に、その役目を果たしましたとの、言葉である。

だが、その道真に対する天皇の信任が、藤原氏の怨みを買うことになる。
事実、天皇は、道真を用いることで、藤原氏を牽制したのである。

天皇は、譲位二年後に、髪を剃り、法皇になられた。

天皇の譲位後を、上皇とお呼びする。
更に、上皇が、剃髪して、僧になられることを、法皇と申し上げる。

宇多天皇は、法皇の第一号である。

次の、醍醐天皇、897年より930年。
ご即位は、13歳の年である。

その二年後に、左大臣が、藤原時平、右大臣が、菅原道真である。

天皇が、16歳の時、法皇は、道真と時平の折り合いがよくないことを心配して、どちらか一人に、政治を任せようと思われた。

天皇が朱雀院に、お出掛けされた際に、色々と相談されて、道真を御前に召された。そして、仰せられた。
これから政治は、一人で執るように・・・

道真は、謙虚な人柄であり、その仰せを、お断りした。
これが、藤原氏に漏れたのである。

天皇の御弟の、斉世親王のお妃が、道真の娘であった。そのため、それが、謀略、讒言に利用された。

つまり、
道真は、厚い信認に満足せずに、畏れ多くも、陛下を廃し、斉世親王を御位に、つけようとしている、というものである。

天皇は、はじめは、それを信用しなかった。
だが、傍近くの者に尋ねると、相違ございませんと、応える。

そこで、藤原時平らの上奏のままに、右大臣を辞めさせ、大宰権帥という、低い位に落としたのである。

更に、左遷である。遠く九州の筑前へ・・・

それに驚かれたのは、法皇である。
ただちに、御所に掛け付けられたが、時平の一味であった藤原菅根らが、門を閉じて、入らないようにしたのである。

法皇も、粘るが、どうしても中に入ることが出来ずに、止む無く朱雀院へ、戻られた。

翌年、二月一日、道真は、九州に旅立つ。
そして、大宰府へ。

帥とは、長官という資格だが、仕事はない。
延喜元年、901年。
その三年正月、道真は、病にかかり、それが元で、二月二十五日、亡くなる。59歳だった。

この後、都では、ひでり、大雷雨、火事と、災禍が続いた。
中でも、不思議と言われたのが、時平はじめ、その一味が続々と死んだことである。

人々は、それを、菅原道真の祟りとして、恐れた。

この最中に、延喜二十三年、道真を右大臣に戻し、正二位がおくられ復権したが、災いは、続いた。

醍醐天皇は、ご成長して、益々と賢く、能力を発揮した。

ある年の、寒い冬の夜、天皇は、急に着衣を脱いだ。近くの者、驚き、お尋ねすると、この御殿でも、この寒さである。ここ以外の場所で、どうして多くの人は、寒さをしのいでいるものか。それを思うと、一人温まっている気にはなれないのである、と、お答えになった。

後世、この時代を、延喜の治、と言われた。
この時期に、三代実録、そして、天皇が進めた勅撰和歌集の、古今和歌集の撰などもある。

天皇の、訓戒書が残る。
多く酒飲することなかれ。人に会うてはただ用事をのべ、多くの言語するなかれ。またうちうちの貧富善悪のことはいわぬがいい。
また、そしるということではなくても、よからぬことを言う人がいたら席を立つがよい。もし、どうしても、席を立つ事ができないならば、そのことに同調したりせず、またそういうことを他言せぬがいい。
大怒はいけない。心中はそうでも、思い留まるように。
また、衣類、車馬など、あるにしたがって用い、美麗ぜいたくをしないように。
また簡単に、他人のものを借りるな。借りたら、出来るだけ早く返せ。また、ともにすべきでない物をともにするのは、一家の害のみにとどまらない・・・

菅原道真は、その後、天神様と讃えられ、学問の神様として、お祭りされている。

その後、第六十六代の、一条天皇の御代では、左大臣、正一位、ついで、太政大臣の位が、追贈されている。

だが、藤原氏の勢いは、続くのである。
益々と、奢る藤原氏である。

だがその後、時代は、武士という階級が起こってくることになる。
そして、世の中が、急激に変化するのである。

しかし、天皇の権威は、揺るぐ事が無い。

天皇家には、武器も、皇居には、身を守るものが一つも無い。
ただ揺ぎ無い、天皇の権威というものが、民の心に存在した。

それが、未だに、存続している、日本と言う国である。

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2012年09月12日

天皇陛下について128

第六十一代、朱雀天皇、930年より、946年。
その御誕生は、菅原道真の復権がなった、延喜23年である。

御位に就かれたのが、8歳である。
藤原忠平が摂政となる。

時平とは違い、俊敏、豪快さはない。
だが、藤原氏の勢力が益々、盛んになる。
更に、藤原氏に、対抗する者はいない。

兵士が弱くなり、民は苦しむ。
そこで有力な人々は、多くの家来を養い、武芸に励むのである。

それが、武士になってゆく。

藤原氏の人々が、高位高官にのぼり、思いのままの政治を行う。
排斥される者は、地方にやられる。

いよいよ、武士たちが、登場するのである。

この武士の中で、後世に名を残したのが、赤旗をシンボルにした、桓武平氏であり、白旗をシンボルにした、清和源氏である。

この両氏が名を上げたのが、朱雀天皇の御代に起きた、天慶の乱である。

東国では、平将門が、西国では、藤原純友が、乱を起こした。

二人の謀叛も、つまるところ、藤原氏の、政治に対してである。

将門は、桓武天皇のひ孫高望王、平氏の流れである。
将門は、藤原氏ではないため、職に就けなかった。
そして、東国で乱を起こす。

これを、京都に出て訴えたのが、武蔵介源経基である。
そこへ今度は、海賊を率いた、藤原純友の謀叛である。

純友は、鎌足十世の孫である。

良房、基経、時平の系列ではなく、長良、ながら、の系列である。
両者は、藤原冬嗣の息子である。

その五年後の、天慶9年、946年、朱雀天皇の皇太子が、御位に就かれる。

第六十二代、村上天皇である。946年より967年。
21歳である。

その四年後に、忠平が死んでからは、関白をおかず、自ら政治を執られる。
御父、醍醐天皇の御代に劣らぬようにと、文化の進歩を計られた。
それゆえ、延喜の治と並び、天暦の治、そして、後世、延喜・天暦の治、と讃えられる。

その天暦10年初秋、酷い日照りが続いた。
天皇は、紫辰殿にお出でになり、南の階の辺りにいた、年老いた下級の官士に気づき、その者をお召しになり、尋ねた。
世間では、今の世の政治をどのように申しているのか・・・

その返答を遠慮していた年老いた士は、
愚かな私どもには、よくわかりませんが、延喜の御代にくらべ、主殿寮から奉る松明が多く、率分堂に草が生えております・・・

つまり、松明が、多いのは、政務繁多で、夜に入ることが多いという。率分堂は、年貢を納める所である。そこに草とは、年貢が上がらず、空であること。
収入が多く、支出が多いということである。

天皇は、これを聞いて、大きに恥じと思し召す、のである。

原因の一つは、藤原氏のせいであろうが、天皇は、我が不徳と考えたであろう。
服御常膳を減じ、恩赦が行われた。

天皇が、35歳の、天徳四年九月にも、同じ措置をとる。
そして、その月のこと、御所が炎上した。
神鏡焼亡、という事件である。

その夜、天皇は、侍臣の叫びに起きた。
左兵衛の陣門が焼けております。消火はすでに無理と存じます・・・

天皇は、衣冠をおつけになり、南殿の庭にお出になる。
剣璽を入れた箱を持ち、左近中将重光が従う。

火勢は急である。
火は、すでに温明殿にも達していた。
延政門以南の廊も、すでに火である。

天皇は、転々として、避難場所を変えた。
その日記には、心神迷惑宛も夢裡の如し・・・

不徳の才をもって天子の位に久しくあり、この災に遭った。まことに嘆憂きわりなし・・・

温明殿の神霊鏡、他、多くのものが焼け出された。
内記所の文書なども・・・

後代のそしり、謝する所を知らず・・・人代以後内裏の焼亡三度なり。難波宮、藤原宮、今の平安宮なり・・・

謝するところ知らず・・・
つまり、すべての責任は、わが身にあるという。

天皇の心痛は、余りある。

そして、この火災は、藤原一族の我が代の春を作り出す、前兆だったのか・・・

第六十三代、冷泉天皇、967年より、969年に引き継がれる。
村上天皇の、第二皇子であり、18歳である。

だが、病気がちで、忠平の長子、藤原実頼が、関白となる。
この時から、おおよそ、100年間、第七十一代、後三条天皇が、御位に就かれるまで、天下の政治は、藤原氏の都合の良いものになるのである。

それは、朝廷の御威勢が、衰えるということになる。

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2012年09月13日

天皇陛下について129

第六十三代冷泉天皇、967年より、969年。
即位は、康保四年、967年である。
18歳の御年。

村上天皇の第二皇子である。
だが、ご病気がちで、藤原忠平の長子、実頼が関白となる。
この時から、おおよそ、100年に渡り、藤原氏の栄華の世が続く。

摂政、関白をはじめ、朝廷の高位高官は、すべて藤原一族で占められたのである。

そうすると、一族の中での、内輪喧嘩がはじまる。
第六十四代、円融天皇、969年より、987年。
御兄の冷泉天皇が譲位されて、御位に就かれた。
一年後、実頼が死ぬ。

その後は、甥の、これただ、が継ぐ。
だが、二年目に死ぬ。
その弟の、兼通と、兼家がいて、二人は、官位争いをしていた。

兄は、中納言、弟は、大納言である。
弟の方が、天皇のご信任が厚い。
そこで、関白は、兼家と決まる。

ところが、兄の、兼通は、こういうこともあるだろうと、天皇の御生母が、自分の妹に当ることをいいことに、在世中に、関白の職は、たとえ官位の高低があっても、兄弟の順にすること、という、書面を貰っていたのである。

それを天皇に、差し出した。
母君の手蹟である。
天皇は、それで、兼通を関白に任じられた。

兄弟の仲は、悪くなるばかりである。

それから、五年後に、兼通が重病になる。
ある日、その門前に前駆の武士の人払いの声がする。
家臣が、報告する。兼家様の御車です。
見舞いに来たと思った。が、しかし・・・

兼家の車は、御所に向かうのである。
そこで、病気をおして、兼通が、御所に向かう。

すでに、兼家は、御前近くにいる。
そこへ、重病の兼通である。

そして、関白を、従兄弟の左大臣、頼忠に命じた。
そして、兼家を、現職の右近衛大将から、治部卿に落とした。

兼通の死ぬは、それから一ヵ月後である。
兄弟同士の、凄まじい権力争いを、天皇は見た。

だが、藤原の世は、続く。
円融天皇の後、第六十五代花山天皇、984年より、986年。
そして、第六十六代一条天皇、986年より、1011年。

兼家の娘が、その御生母である。
ここで、兼家は、ようやく摂政となる。

だが、その時代も、四年で終わる。
長子の、道隆が関白となった。

その弟が、道兼である。
矢張り、気に食わないのである。
五年ほどで、道隆が死ぬと、道兼が、関白になる。

ところが、道隆の子である、伊周、これちか、が、快く思わない。
そこで、人をして、道兼を呪わせた。
そのせいなのか・・・
道兼は、関白になり、七日で、死ぬのである。

ところが、それでは、伊周が、関白になったのか・・・
その翌年、大宰権帥に、左遷される。

この一条天皇の御世は、時代を飾る人々が出た。
女房文学といわれる、世界を創った、紫式部、赤染右門、和泉式部、小式部内侍など。
男子では、四納言といわれる、藤原斉信、藤原行成、藤原公任、源俊賢など。

一条天皇の逸話が残る。
厳冬の一夜、天皇は、御衣をお脱ぎ遊ばされた。
中宮が驚き、問い掛けた。すると、昔、醍醐の帝は、寒い夜に御衣を脱ぎ、万民の寒さの苦しみを憐れみ給う。私も、その御行為に習うばかりである。

一条天皇の長徳元年、この時、右大臣は、藤原道長である。
翌年には、左大臣になる。31歳。
およそ20年を務める。

三条天皇、1011年より、1016年。
そして後一条天皇、1016年より、1036年。
この間に、摂政となる。

後一条天皇は、9歳である。その御生母は、道長の娘、彰子である。

翌年に、摂政を子の頼道に譲り、太政大臣となる。更に、翌年、隠居する。53歳。

この年、三女の娘を後一条天皇の皇后にすすめ奉る。
三人の娘があいつで、三代の皇后に立ったのである。

その時、道長が詠んだ歌である。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば

すべてが、望み通りである。それは、十五夜の満月の欠けることのないほどだ。

如何に、得意だったか・・・

紫式部は、この中宮、彰子、しょうこ、に仕えて、源氏物語を書く。
それは、当時の宮廷の様子を見るものである。

女子供の文字、平仮名・・・
だが、物語の噂が噂を呼び、道長も、読むという。
世界初の散文小説として、有名である。

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2012年09月14日

天皇陛下について130

藤原氏の、栄華を書いている。
藤原道長・・・

その後、第四女も、後一条天皇の、同母弟である、第六十九代後朱雀天皇が皇太子の時代に、妃に上がり、第七十代、後冷泉天皇をお生みである。

四女も、宮廷に入り、外孫に当る皇子三人まで、引き続き、御位に就かれるのである。

その勢いの盛んなことは、荘園の所有が皇室より、多いことで知られる。

更に、道長の隠居にあわせて建てた、法成寺は、奈良の東大寺にも負けない大きさである。

道長は、国の費用を使い・・・
自分のために、である。

更に、関白の頼通は、朝廷のことは、後で、法成寺の御用に励めと、命じた。

その寺を、人は、御堂と呼び、道長を御堂殿と呼んだ。
その道長が、死ぬのが、後一条天皇の万寿四年、1027年である。

法成寺は、後に灰になった。
つまり、栄華を極めたが、何も残らなかったのである。

しかし、その後も、摂政、関白は、藤原氏の子孫に限り、任ぜられるようになった。
後に、その家が分れて、近衛、鷹司、九条、二条、一条の、五家となり、五摂家と呼ばれた。

第七十一代後三条天皇、1068年より1072年。
この天皇が、藤原氏の、弊害を取り除くべく、志されたのである。

御位の御年は、35歳であらせられた。

後朱雀天皇の、第二皇子。
12歳で、皇太子となられて、23年間、藤原氏の、専横を見ていた。

皇太子になられてから、関白の頼通は、内心穏やかではなかった。とても、聡明であり、すべてを見通していたからである。

頼通は、自分の娘を、後冷泉天皇の皇后にしていた。
そして、男子を生むことを、願った。
そうすれば、その子を、皇太子にするつもりであった。

宇多天皇の御代から、皇太子に対して、必ず渡される、皇太子の印というべき、壺切の剣、というものがある。
それを、頼通は、渡さなかったのである。

その剣は、元々、藤原氏の所持していたものである。
藤原基経が、宇多天皇に献上した。それを天皇が皇太子である、醍醐天皇にお授けになった。以来、東宮ご相伝の護剣となったのである。

東宮でも、藤原の血筋ではない者には、渡さないとの思いである。

しかし、皇太子は、そんなものに、捉われなかった。
私が皇太子であることと、それと何の関わりがあろうか・・・

学問に御精進され、特に内外の歴史に、御心を尽された。
その師は、大江匡房である。

その期間が23年である。
賢い、皇太子に対して、頼通は、早く血筋を持つ男子の誕生を願った。

だが、それが来ないうちに、後冷泉天皇の崩御である。

藤原氏の女を御母としない、天皇、宇多天皇が誕生した。

それ以来、十一代、170年ほど、藤原氏の女を御母にしない、天皇が続くのである。

頼通は、御即位と共に、関白を弟、教通に譲り、宇治の平等院に隠居する。

宇多天皇は、関白の教通には、相談することがなくなった。
その為、藤原氏の、勢力が衰えるのである。

宇多天皇の、最初にされたことは、荘園の調査である。
荘園は、朝廷から、私有を許された土地である。
そして、租税を納めなくてもよい。

力ある者が口実を作り、土地を占有する。
国司の支配を受けずに、国の富を私するのである。

そのトップが藤原氏である。

一門の荘園は、全国に広がり、皇室を超えていた。
租税の無い土地が増加することは、他の土地租税が高くなる。
それでは、庶民が苦しむ。

働く者が、重税に苦しみ、貴族が税を納めない。

天皇は、その弊害を取り除くため、記録所を作り、取調べを監督された。

その結果、新荘園、古いものでも、証書不明確のもの、国の政治に障害のあるもの、それらを止めた。
勿論、藤原氏は、大打撃である。

だが、長年の実績を持つ藤原氏である。
教通が、奈良の南円堂、元の藤原氏の氏寺である興福寺、その工事を天皇に願い出た。

この工事は、再建中に、工事監督の大和の国司の任期が切れた。
教通は、その国司の再任を求めた。
しかし、天皇は、
国法を一家のために破ることは、よろしくない
と、お許しにならない。

教通は、再三願い出たが、遂に天皇は
関白や、摂政が恐ろしいのは、天皇の外祖でもあればのこと。私は何とも思わない
と、毅然と仰せられた。

教通は、御殿の出口で
われら藤原一門の公卿は、皆立て。春日大明神の、ご威光も、今日で尽きた
と、大声で喚いた。

春日大明神は、藤原氏の氏神である。

朝廷の重要な役職は、皆、藤原氏がおさえている。
それらが、いなくなると、政治が止まるのである。
天皇は、それでは困ると、改めて、教通の願いを許した。

しかし、以前のような、振る舞いは、出来ないのである。

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2012年10月07日

天皇陛下について131

藤原氏一門の栄華により、当時の風潮は、贅沢だった。
そのため、宇多天皇は、先頭に立ち、倹約された。

石清水八幡宮へ行幸された時に、拝観者の車に、金の飾り物が沢山打ってある。それを御覧になり、あの金も、ことごとく抜き取らせよ、と、命じられたほどである。

その後、加茂の社に行幸された時は、目立つような車は、一つもなかったという。

宇多天皇の在位は、五年。
御位を貞仁王に譲られ、上皇になられる。

その翌年、ご病気になられ、崩御される。
御年、まだ40歳であった。

さて、少しばかり、当時の情勢を書く。

藤原氏の栄華の頃・・・
力をつけていたのが、武士である。
特に、源氏と、平氏である。
いずれも、元は、皇族である。

源氏は、第五十六代、清和天皇から出た。平氏は、第五十代桓武天皇から出ている。

将門の乱の時、その謀叛を朝廷に訴えたのが、武蔵介経基、つねもと、である。清和天皇の第六皇子、貞純親王の御子である。
この経基が、村上天皇の御代に、源氏を賜り、源氏の先祖となる。

平氏の先祖は、桓武天皇のひこ孫高望王である。
孫の将門の乱以来、一族として、一時衰えるが、将門を倒した、従兄弟の貞盛がいたため、この一門は、東国で栄える。

平忠常という者がいる。
高望王の、ひこ孫で、将門、貞盛の従兄弟である。

後一条天皇の御代に、安房の国司を殺した。
貞盛のひこ孫である、検非違使直方が、討伐に行く。だが、強い相手である。
朝廷は、直方を呼び戻し、源頼信に追討を命じた。
そこで、平定し、頼信は、忠常の兵士を、すべて家来とすることを許された。

平氏の根拠地である関東が、源氏の勢力の中に入るのである。
源氏が東国で盛んになる源である。

忠常の乱後、二十年、後冷泉天皇の御代に、陸奥において、安倍頼時の乱が起こる。
この時もまた、源氏が活躍する。
乱が起きた時、相模の国司であった、源頼信の子である、頼義が上京していて、即座に、追討しに出た。

頼義は、長子、八幡太郎頼家と共に、陸奥に下る。
頼時は、頼義の威名に、戦わずして降ったのである。

だが、再び、謀叛を起こす。
頼時の子である、貞任が殺され、平定するのに、九年を要した。
前九年の役、といわれる。

第七十二代白河天皇、1072年より、1086年。
源氏は、更に、後三年の役により、東国武士の間に、確固たる地位を築く。

平定したのは、義家である。

さて、白川天皇は、後三条天皇の長子である親王。
ご在位、15年で、御譲位される。
その後は、上皇の御所において、院政を行うことになる。

藤原氏の勢力は、もはや衰退の一途である。

白川上皇は、院政のために、朝廷とは別にして、院の御所に役所を置き、役人も別にした。
そこから命令を出されるから、藤原氏の専横は、抑えられ、勢力も削いだ。

しかし、天皇の政治が出来ない状態である。

院におかれた役所を院庁、役人を院司、院中を警備するため、別に武士をおいた。それが、北面の武士である。
院庁から出る命令が、院宣である。その威力は、天皇の詔勅よりも、上になった。
院政がある限り、天皇は、ただ御位に就いているだけと、なったのだ。

更に、白川上皇は、仏教を深く信じられて、御譲位10年で、法皇となられ、その後も、院政を続けられた。

それが、第七十三代、堀川天皇、1086年より1107年。そして、第七十四代鳥羽天皇、1107年より1123年。第七十五代崇徳天皇、1123年より1141年。
つまり、その御子と、御孫、そして、御ひ孫に渡る、三代、44年間、政治を支配したということである。

この間、仏教崇敬のあまり、国費は乏しくなり、御父、後三条天皇が改革したことが、覆るという事態になる。

つまり、親政14年、院政43年、57年、お一人で政治を支配したのである。

ただ、嘆いたことがある。
私の思うにならないことは、加茂川の水、すご六のさい、そして山法師の三である。

山法師とは、延暦寺の僧兵のことである。

武士が起こったと同じように、寺院の自衛のために、兵士を作ったのである。

また、僧兵同士の争いもあった。
つまり、寺院は、宗教の場ではなく、権力闘争の場と化したのである。

延暦寺の僧兵は、日枝神社の御輿をかついで、朝廷に直訴する。更に、興福寺の僧兵は、春日神社の神木をかついで、直訴するという。こちらは、奈良法師である。

朝廷は、源氏、平氏の二氏に命じて、対抗せざるを得ない状態になった。

それにより、武士の台頭が早まることになる。
いよいよ、武家政権の誕生となるのである。

僧兵の、悪行に関しては、省略するが、その行為は、僧にあらずの行動であった。


posted by 天山 at 04:30| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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