2012年05月23日

天皇陛下について112

第三十一代用明天皇、585年より、587年。

その御生母は、蘇我堅塩媛、そがきたしひめ、である。
蘇我稲目の娘であるから、蘇我馬子と、兄弟である。

物部守屋は、穴穂部皇子を擁立したが、皆は、欽明天皇第四皇子、大兄、橘豊日尊に帰した。

だが、即位二年後に、病に罹る。
天皇は、蘇我馬子の後援、御生母の影響もあり、群臣に
仏に頼ろうと思う。いかがだろうか・・・
と、問い掛けた。

皇子の頃より、仏法を信じ、神ながらの道を尊ばれた皇子である。

宗教的には、中立な立場をとられていた。

その天皇が、崇仏とは・・・

大連の、守屋と、中臣勝海は、
とんでもないことでございます・・・
二人は、仏法に反対の立場である。

大臣の馬子が言う。
天皇の仰せである。それに背くとは・・・

そして、即座に、豊国法師という僧を連れ、奥御殿に入った。

それを見た、守屋に、一人の役人が、囁く。
あなたの帰り道に、待ち伏せして、討ち取ろうとしています・・・
それを聞いた守屋は、即座に、帰宅し、兵を集めた。

中臣勝海も兵を集めたが、まもなく押し寄せた、馬子の兵によって、殺された。

更に、馬子も兵を集めて、守備の態勢に入った。

大臣蘇我と、大連物部の、対決である。
これは、一見、仏教の理由に見えるが、実は、豪族の覇権争いである。

それは、後々に解る。

だが、用明天皇は、その間に、お隠れになる。

馬子が、動いた。
まず、穴穂部皇子の宮を襲撃し、殺したのである。
皇子を殺すという、無礼であるから、馬子の考えが解るというもの。

そして、馬子自ら大軍を率いて、守屋の屋敷を攻めたのである。

守屋は、物部であるから、武人である。
馬子の軍勢は、三度、追い返された。

この、馬子の軍勢の中に、14歳の、後に聖徳太子といわれる、厩戸皇子が、従軍されていたのである。

要するに、当時の天皇家は、蘇我の血が入り、親戚関係であり、そうする他に手は、無かったのである。

厩戸王子は、その苦戦を見て、ぬりで、という木の一枝から、小刀で、四天王像を作る。
そして、勝たせてくだされば、四天王のために、寺を建てましょうと、祈られた。

馬子もまた、勝たせてくだされば、寺を建て、仏教を広めますと、祈った。

その後の戦いは、馬子の軍勢に、勝どきを与える。
榎の大木の上から、矢を放っていた、守屋を、馬子の兵が、射殺したのである。

結果、物部一族は、全滅し、滅びた。

蘇我氏の勢いは、旭日昇天になった。
そして、その本性が現れることになる。
無道である。

この戦いの後で、用明天皇の弟である、皇子が、即位した。
第三十二代祟峻天皇である。587年より、592年。

天皇は、任那の再興を願い、蘇我馬子の無道を、懲らしめようとした。
それを知った、馬子は、何と、東漢直駒、やまとのあやのあたいのこま、に命じて、天皇を殺害させたのである。

これは、後に、大逆事件として、知られる。

更に、馬子は、駒を殺した。
つまり、わが身の非道を、駒に擦り付けたのである。

天皇に対し奉り、不届き、不忠であるとして・・・
馬子の横暴が、ここに極まるのである。

日本書紀には、馬子の娘である、河上娘と密通したとあるが、違う。

天皇崩御の後、即位したのが、欽明天皇の皇女、豊御食炊屋姫、とよみけかしきやひめ、である。
日本における、最初の女帝である、推古天皇である。592年より、628年。

18歳で、敏達天皇の皇后となられ、34歳の時に、天皇崩御にあわれている。

即位後、御甥の、厩戸皇子を、摂政として、任命された。
政治の、すべてを、任せたのである。

厩戸皇子は、第三十一代用明天皇の第二皇子である。

幼少の頃より、その聡明さは、知られている。

厩戸皇子にとって、馬子は、叔父に当る。

皇子は、推古元年に皇太子となり、摂政に任じられ、荒稜の地にお移りになられた。
これが、今日、大阪の茶臼山の東にある、四天王寺のはじまりである。

現在のものは、文化9年、1812年に出来たものだが、場所と寺名は、昔のままである。



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2012年06月17日

天皇陛下について113

四天王寺とは、
もとは、敬田院を中心に、悲田院、療病院、施薬院の、四つからなっていた。

敬田院は、礼拝、儀式、学問の場であり、次は、養育院、孤児院、そして、病院、薬作りと、投薬所である。

今日の、社会事業、福祉事業に当る。

また、厩戸皇子は、法隆寺を建てた。
それは、御父、用明天皇が、ご病気の折に、その平癒を願い、薬師の像と、そのお堂建立を、誓ったことから、はじまる。

厩戸皇子の、政治は、29年続いた。
内政と、外交に、大きな業績を残された。

ここで、皇子を、聖徳太子と書くことに、抵抗があるのは、聖徳太子とは、後に、名付けられたことであり、更に、それは、皇子の側近の働きなども含めた、総称として、理解するからだ。

それは、遣隋使の際に、書く。

内政で、有名なものは、憲法十七条である。
第一条は、和を以って貴しとなす。

憲法といっても、法律とは、違う。
一種の道徳律である。

以下、平易にして、書く。

一、 和睦を貴んで、争そわないように。
二、 篤く仏法を敬うこと。
三、 詔、みことのり、は、謹んで受けること。
四、 役人は、礼儀が大切であり、民を治めるもとは、礼である。
五、 私欲を捨てて、正しい訴えを裁くように。また、利のために、正否をまげないように。
六、 人の善はあらわせ、悪を見たら正せ。
七、 それぞれの務めをよく守れ。
八、 役人は、早朝出勤し、遅く退け。
九、 誠は、義のもとである。何事も、信なれ。
十、 人には、それぞれ心がある。他人が、自分と同じくしないからと、怒るな。
十一、 賞罰は、明らかにせよ。
十二、 国に、二君なく、民に両主はない。民は天皇の民である。地方の役人に任じられて、朝廷から禄を賜っている者が、朝廷に奉る税の外に、民から税を取ってはいけない。
十三、 役人は、仕事に責任をもつこと。
十四、 役人は、妬み嫉むことのないように。
十五、 私事を忘れて、公事に就くのが、臣の道である。
十六、 民を使うには、時期を選べ。農事や養蚕の忙しい時期、使うな。
十七、 大事は、一人で決めるな。必ず、多くの者と、相談せよ。

最後の、十七条は、専制君主を戒めている。

更に、皇子は、冠位十二階を制定した。
冠は、位をあらわす。

徳、仁、礼、信、義、智の、六つを、それぞれ、大小の二つに分けて、例えば、大徳、小徳・・・そして、十二の位を定めた。

これを、説明するために、それ以前のことを知る必要がある。

昔から、血統を重んじてきたゆえ、同じ先祖から出たものは、同族として、それぞれ、一団体をなしていた。
これを、氏、という。
氏の中には、沢山の氏人がいる。また、部曲という、人の団体が、それに属していた。

氏の上には、氏上、うじかみ、がいて、その氏の属する土地、民を支配し、調停の命令を、その氏の者たちに、取り次ぐ役目、掌、つかさどる、のである。

氏には、決まった職業があり、氏人、部曲の者が、代々それを、受け継ぐのである。

軍事は、大伴、物部氏。
祭祀は、中臣、斎部氏。
弓矢製作は、弓削、矢作氏。

氏の数は、多く、代々になっても、変わる事が無い。

朝廷は、その氏に、姓を賜り、それぞれの、尊卑を区別した。
氏族制度といわれる。

姓には、臣、連、直、首、造の区別がある。
おみ、むらじ、あたい、おびと、みやつこ、である。

臣、連の、中から、大臣、大連が出て、それらの、姓を賜ると、永く子孫に伝えることになっていた。

身分の上下は、生まれながらに、決まっていたのである。
どんなに、才能のある者でも、低い身分の者は、高い位に上ることが出来なかったのである。

だが、ここで、時代は進む。
大連の物部氏が、滅亡し、大臣の蘇我氏が、独り権力を握るようになり、いよいよ、その弊害が目立ち始めた。

優れた人材には、姓の如何に関わらず、高い位を与え、その技、才能が伸びるようにと、考えたのが、皇子である。

世襲を重んじた氏族制度に対し、大きな革新的な英断である。

そこには、蘇我氏の専横を牽制する狙いもあった。
高い身分と、職務が、独占されてしまうという、危機感である。

一族のみが、特出すると、いずれは、民のためにも、ならないと、皇子は、考えた。
天皇による、和平の支配が必要である。

氏姓の特権を保持しつつ、世襲ではなく、天皇の任命により、官人で政界を構成しようという、試みである。

勿論、蘇我馬子は、気に入らなかった。
ゆえに、あからさまに反対することが出来ないが、それに従うことはなかった。

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2012年06月18日

天皇陛下について114

厩戸皇子の内政上、注目されるものは、まだある。
仏教の隆盛である。
そして、人材登用制。

推古天皇時代は、多くの渡来人が日本にやって来た。
半島を通り、日本を目指したのである。
彼らを、手厚く支援したことも、特記されるべきことである。

朝鮮半島の混乱に、王朝の一族が渡来し、日本に住み着いた。

ユダヤ人までも、渡来している。
朝廷は、それらの者たちも、採用している。

推古天皇15年、607年
神祇祭祀の詔
それを要約し、現代文に訳す。

わが皇室の御先祖である、歴代天皇は、政治を行うに当っては、非常に畏れ謹みつつ、丁重に天地の神々を礼拝されて、あまねく山、川の神々を篤く奉りになった。それゆえ、至誠の霊と合い通じ、四時の気候も、順調であり、雨、風も調和して、五穀も豊に実り、民が喜び、国が豊になった。それゆえ、天地の神々をお祀りすることを、どうして怠ってよいものか。決して、怠ってはならない。群臣も、また、この意味を解して、お互いに誠意をもって、天地の神々を拝するようにしたい。

更に、この年、小野妹子を遣隋使として派遣する。

仏教が盛んになっても、神ながらの道、古道と、敬神の精神は、廃れないのである。

皇子は、更に、推古天皇28年、620年、天皇記、国記、そして、臣連伴造国百八十部、公民の、本記、もとつふみ、を編纂したのである。
残念ながら、それらは、蘇我蝦夷によって、焼かれてしまった。

大化の改新の際に、再度書く。

600年に、大量の書物が、中国から日本にもたらされている。
誰が、持ってきたのかは、不明である。
その際に、道教、儒教の資料多数である。
であるから、すでに、それらの常識も、持っていた。

そこから、様々なことを、学び、日本の事情に合うように、更に、作り上げている。

この、推古天皇の時代、厩戸皇子摂政の時代は、幕末、維新と似たような、改革の時代だったことが、解る。

政治、外交、学問、文物・・・
あらゆるものが、一新された。

皇子は、だからこそ、古い道を、大切にということで、神祇祭祀の詔を、発したのである。

中国大陸では、隋という国が興り、隆盛を極めていた。
その、隋に対して、初めて、使いを出すという、外交の年としても、重大である。

今までは、半島を通して、伝わったものが、今度は、自らが、出掛けて行くのである。

当時の、隋の皇帝は、二代目の煬帝である。
その国威は、頂点に達し、他の国は、属国扱いであった。

遣隋使、小野妹子は、私も小説にしているが、何しろ、三ヶ月以上をかけて、当時の、長安に向かっている。

手作りの、船に乗り、山東半島に上陸して、そこから、長安を目指して徒歩で向かう。

更に、命懸けの旅である。

第一回の遣隋使が日本の国書を差し出す。
厩戸皇子が認めたものである。

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや

それを報告された、煬帝は、書を受け取らず、礼儀の知らぬ、無礼な国として、憤慨した。

だが、隋の外交官たちにより、兎に角、煬帝に面会して、小野妹子は、帰国する。
その際に、隋の方からも、使者を数名日本に派遣したのである。

これは、高句麗を攻める煬帝の下心があり、日本に対して、その援軍を求める意味もあった。

更に、小野妹子が、隋の使者と伴に、再度、隋に渡るのである。
その際の、国書にも、

東の天皇、敬んで西の皇帝に白す
と、書かれた。

この時、日本は、厩戸皇子を天皇として、隋の使者たちに、面会させている。

つまり、天皇は、男で無ければならなかったのである。
女の皇帝は、隋の国では、認められなかったのである。

小野妹子が、再度、隋に向かう時に、初めて、八名の留学生を同行させた。

だが、隋は、煬帝の代で、滅亡している。
そして、唐の時代となった。

その革命は、大変ものだった。
唐の二代目、太宗により、安定した国情になる。

日本は、引き続き、遣唐使を派遣して、その後、250年ほどに渡り、唐への留学生を送り出している。

推古天皇29年2月、厩戸皇子、皇太子として49歳まで、歩まれたが、斑鳩宮にて、お隠れになる。

それから、大化の改新に向けて、また時代は、急展開するのである。

蘇我氏、馬子、蝦夷、入鹿と、三代に渡る、支配と、権力に、天皇家に関わる者たちが、猛然と反旗を翻す。
実際、蘇我王朝になりつつあったのである。
特に、厩戸皇子の崩御により、それが、顕著化したのである。

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2012年06月19日

天皇陛下について115

厩戸皇子の、病死は、蘇我氏にとって、好都合であった。
好き勝手に政治を、行えるのである。

更に、大連の物部氏もいない。

蘇我王朝を造る最大の、チャンスである。

馬子が、推古天皇に申し出た。
葛城の県は、私の生まれた土地です。現在、皇室の御料地となっています。是非、私の料地に賜りたい。

天皇にとって、馬子は、叔父にあたる。

だが、推古天皇は、
もし、私の世に、あの県を失ったなら、後の天子に、愚かな女が天下を治めていたため、いわれもなく、県を失ったといわれましょう。それは、私一人が、愚か者に留まらず、大臣のお前もまた、不忠の臣となろう。
と、許さなかった。

この要求自体、蘇我氏が、いかに勢力を持っていたかが、解る。

その馬子も、厩戸皇子の崩御から、四年後、死ぬ。
そして、たま、推古天皇も、その二年後に、崩御される。

次ぎは、どなたが御位に就かれるのか・・・

多くの者、厩戸皇子の、御子である、山背大兄王、やましろのおおえのおう、が、と思っていた。

しかし、馬子の後を継いだ、蝦夷は、大兄王では、やりずらいと、敏達天皇の、子嫡孫である、田村皇子を立てた。

第三十四代、舒明天皇である。629年から641年。

ご病身でいらした。
それゆえ、蝦夷が政治を独占するのに、都合がいいのである。

蝦夷は、そればかりか、山背大兄王を推した、境部摩理勢、さかいべのまりせ、父子を攻め殺したのである。

舒明天皇は、在位13年で、崩御された。

皇太子は、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、である。後の、天智天皇。
だが、17際であり、舒明天皇の皇后であった、中大兄皇子の生母が、位に就いた。

第三十五代皇極天皇、こうぎょくてんのう、である。642年から645年。

大臣は、蘇我蝦夷である。

その上、その年から、蝦夷の子、入鹿が政治に参加した。

入鹿の横暴は、蝦夷より、酷いものだった。

天皇即位の年、蝦夷は、先祖の廟を、葛城の高宮という場所に、造った。

その、祭り方が、問題だった。
天皇と同じく、舞楽を使い、諸国の民を集めて、二つの大きな墓を造らせたのである。

その一つを、大陵といい、自分のもの、もう一つは、小陵といい、入鹿のものとした。

その工事の労務者には、厩戸皇子の家に属する者まで、使ったのである。

天皇と同格であることを、暗に示した行為である。

更に、蘇我氏の横暴が続く。
二年冬、蝦夷は、体調を崩し、朝廷に出られなくなった。
そこで、紫の冠を、入鹿に授けたのである。
更に、大臣に任命した。

更に、次男には、物部大臣と称すと、命じた。

紫冠は、冠位十二階の最高位である。
蝦夷の母は、物部守屋の妹である。

父、馬子が守屋を滅した後、その財産まで奪っている。

蝦夷に、大臣の任命権などは無い。
朝廷をないがしろにする行為である。

更に、極めつけは、厩戸皇子の、山背大兄王に対する、謀叛である。

皇子亡き後、21年。
人々は、王が即位することを願っていたのである。

ところが、入鹿は、蘇我系の古人大兄皇子を推す構えであった。

山背大兄王が、邪魔である。
そこで、斑鳩宮を攻めるのである。

山背大兄王は、生駒山に逃れた。
そこで、三輪文屋君が進言した。
東国に逃れて、兵を集めれば勝てます。

しかし、王は、確かに、勝てるだろう。しかし、私は、十年の間は、人民を使うまいと思っている。また、私一人のために、多くの者の命を失いたくない。それでは、後世、人民から、私のために親を失ったといわれる。それより、私は、身を捨てよう。戦いに勝つことが、正しいことではない。

やがて、入鹿が王の所在を知り、捕らえるために、兵を遣わした。

結果、王は、一族の人々と共に、自決し、厩戸皇子の血筋が絶えたのである。

だが、それを知った、蝦夷は、驚いた。
何と言うことをしたのか・・・
しかし、後の祭りである。

その後も、蘇我氏は、明日香村に、大きな屋敷を二つ造る。
蝦夷の家を、上宮門、うえのみかど、入鹿の家を、谷宮門、はざまのみかど、である。
子ども達には、王子を使った。

天皇家に似せたのである。

蘇我王朝の出来上がりである。


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2012年06月20日

天皇陛下について116

中臣鎌子連、なかとみのかまこむらじ、またの名を、藤原鎌足、ふじはらのかまたり、の登場である。

仏教伝来の際に、物部尾輿と、共に、蘇我稲目に反対した、中臣鎌子から、六代目である。

鎌足は、幼少の頃より、聡明で、学問も良くし、武芸にも、優れていた。

中臣氏は、高天原の朝廷時代から、祭祀を司る家系である。
当然、皇室とは、関係が深い。

ここで、高天原の朝廷と、書かれるが、大和朝廷である。
高天原の朝廷とは、富士王朝時代、つまり、大和朝廷以前の、朝廷である。

この富士王朝から、九州に渡り、その血族を持って、天都を造ったのである。
富士王朝は、神都である。

血族であるから、同じ血筋の出である。

これは、古代史をより、過去に遡るものであり、私の説になる。

高天原府とは、富士王朝の元に存在したことを、加えておく。

兎に角、中臣氏は、祭祀を司る家系であり、皇室崇敬の念が、強い。

何故、ここで、中臣鎌子連が、登場するのか・・・
大化の改新である。

その、きっかけとなる、人物である。

蘇我の悪、無道は、極まり尽くした。
だが、当時の、豪族たちは、それに反対できないのである。
反対は、家系滅亡をもたらすことを知っていた。

逆らう事が出来ない、蘇我氏の存在となっていたのである。

だが、鎌子は、このままでは、大和が危ういと、時を待っていた。

しかし、大事は、一人では出来ないのである。
誰か・・・
皇室の中に、いないのか・・・

そして、舒明天皇の御子中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、に、目をつけ、この方以外に、いないと確信する。

接触する機会を狙い、法興寺の、蹴鞠の会に、出た。
鎌子は、控えていた。

そして、蹴鞠の途中で、皇子が、鹿皮の鞠と一緒に、靴を飛ばしたのである。
すかさず、鎌子は、皇子の靴をひろい、跪いて、皇子に差しだした。

その出会い・・・

歴史的出会いである。

鎌子は、皇子と、密に接するために、二人で、南淵請安、みなぶちのしょうあん、の元で、儒学を学ぶことにする。

請安は、在唐32年の留学生だった。

鎌子は、皇子と、その帰り道に、細かな相談を持ちかける。
このままでは、朝廷を蔑ろにして、勝手な王朝を造るでしょう。
それでは、豪族たちが、混乱し、戦いの世になりましょう。

そして、その実行者として、蘇我倉山田麻呂、佐伯連子麻呂、稚犬養連網田を、引き入れた。

当時、蝦夷は、上宮門、入鹿は、谷宮門に暮らしている。

両家では、兵士が警護をしている。
屋敷を襲うのは、危険である。

そこで、皇子と、鎌子は、三韓の使者が、貢物を持って献上する日に、宮中にて、入鹿を誅殺することを、決めたのである。

儀式であるから、天皇も、在席される。

段取りは、密にしなければいけない。

皇極天皇4年、645年、6月12日。
その日は、雨がしとしと降る日だった。

場所は、大極殿である。

入鹿はじめ、多くの役人が座に就いた。
天皇が、お出ましになられる。

三韓の使者が、貢物を奉るべく、席に坐している。
三韓の表文を読み上げるのは、倉山田麻呂である。

玉座の前に出て、それを読み始めた。

この時、皇子は、御所の十二門を、残らず閉めさせた。
そして、皇子は、矛を隠し持たれて、段取りを待った。

鎌子も、弓矢を持って、そのお傍に、控えている。

段取りは、佐伯子麻呂と、稚犬養網田が、鎌子から剣を受け取り、斬りかかるのである。

表文を読んでいるうちに、決行しなければならない。
斬れ、と、鎌子が言う。
が、二人は、恐れをなして、佇む。

二人が出てこないのに、表文を読む、倉山田麻呂は、次第に、焦り始めた。
たらたらと、汗を流し、声が乱れる。

その時、入鹿が、
どうしたのだ・・・何故、震えているのだ・・・

はっ、帝の御前であり、恐れ多く・・・

入鹿が辺りを、見回した。
その時、皇子が、飛び出して、入鹿の肩先を突いた。
更に、佐伯子麻呂の剣が、入鹿の足を払う。

入鹿は、玉座に進んだ。
私に何の罪ありや・・・

驚いた天皇だが、静かに立ち上がられた。
その時、皇子が、
入鹿は、皇族を蔑ろにし、滅し、天子のみ位を奪う者です。入鹿を天孫に代えることは、できせん。
と、申し上げると、天皇は、静かに、奥にお入りになった。

入鹿、進退窮まる。
子麻呂と、網田が、入鹿を刺して、息の根を止めた。

大化の改新の幕開けである。


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2012年06月21日

天皇陛下について117

蘇我入鹿を惨殺した後、中兄大皇子は、ただちに法興寺に入り、戦いの準備をする。

主だった役人たちの大半が、その味方になった。

その上で、入鹿の死骸を、蘇我の屋敷に届けた。

蝦夷の部下たちは、一斉に立ち上がり、皇子軍との戦いをと気勢を上げる。
そこに、皇子よりの使者がきた。

我が国には、古来から君臣の分が定まっている。
と、使者が説いた。

無用の戦いである。剣を捨てよ。
結果、多くの者が、剣を捨てる。

蝦夷も、最早これまでと、屋敷に火を放って、自害したのである。

宣化天皇2年、536年。
蘇我稲目が、大臣となり、馬子、蝦夷、入鹿と、政治に関与して、百余年、ここに蘇我氏が滅びたのである。

蘇我氏滅亡の翌日、皇極天皇は、御位を、中大兄皇子に譲られようとされた。しかし、皇子は、鎌足と相談し、ご辞退した。
そこで、天皇は、弟の軽皇子に、譲れた。

第三十六代、孝徳天皇である。645年から、654年。
この天皇の御子に、あの悲劇の有間皇子がいる。

蘇我氏滅亡は、長い間の、氏族制度の終わりでもあった。
当然、政治、社会の仕組みを変えなければならない。

中大兄皇子は、御位に就かず、摂政という立場で、つまり、責任の軽い立場での、改革を進めたかったのである。

孝徳天皇ご即位の日、天皇は、中大兄皇子を、皇太子とされた。
阿部内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足には、特別に、大錦冠、おおきにしきかんむり、を、授けて、内大臣とさせた。

これまでの、大臣、大連は、廃止され、新官職が設けられた。

それは、人物本来の、器量、才能、により、どんな家柄でも、自由に用いられる道を開いたのであり、それは、厩戸皇子の考え方でもあった。

孝徳天皇は、群臣を集めて、神前にて、祝詞を上げた。
天は覆い地は載せ、帝道唯だ一なり。しかるを末代うすらぎて、君臣序を失へり。皇天手、あめちから、を我に仮し、暴逆、あらひと、を誅したてり。今共に心の血、まこと、をしたしみつ、しこうして今より以後、のち、君は二つの政無く、臣は朝、みかど、にふたごころあることなし。もしこの盟にそむかば、天災いし地災いし、鬼誅し人伐ち、いちじるしきこと日月の如し。
日本書紀

推古天皇時代の、神妓祭祀の詔の際と、同じである。
また、明治維新の際も、同じである。

全文、中大兄皇子が、起草されたものという。

氏族政治の打倒、そして、これが、大化の改新と言われる。

上記の内容は、
皇統は、一つであり、たまたま、暴逆の臣が出たが、忽ち誅された。今後は、上に二政なく下に二つの心もない。この誓いに背けば、たちどころに、天罰を蒙る。
である。

天皇即位の、年号は、大化元年とした。645年。

そして、新しい政治のあり方の多くを、唐に留学していた人々の意見を取り入れる形を取っている。

大化の改新の内容である。

一、 土地人民の私有を禁じ、すべて天皇に直属する。朝廷の支配を受けるべきことを明確にして、その実現をはかった。蘇我氏の土地人民の私有が多く、その過ちを二度と繰り返さぬためである。

二、 都には、坊令・坊長・里長という、役人を置き、地方には、国司、郡司を置いて、これを統括させた。都近くを畿内として、特に重くみた。

三、 戸籍を作り、人口数を明らかにした。そして、すべての人に、一定の田地を与えた。それに対して、一定の税を課した。
これは、男一人に、二段ずつ。女には一人に、その三分の二ずつ田を与えた。例えば、男三人、女三人なら、男の分、六段、女の分は、四段で、計、一町歩の田を課す。

戸籍は、六年ごとに調べ、死んだ者は、朝廷に返還させる。生まれて、六歳になると、新たに、与える。
すべての人に、耕す田が、ほぼ平等に行き渡り、貧富の差が、少なくなる。

諸国に駅を置き、要害の地には、関所を置いた。

大化二年、646年。
天皇の政治に関する、詔が出た。
それ天地の間に君、天皇として、万民を治むることは、独り制むべからず。かならず臣の助けをまつ。これによりて代々のわが皇祖たち、卿、いましら、が祖考とともに倶に治めたまひき。朕また神護の力を蒙りて、卿たちと共に治めむと思欲す。

天皇の政治というものは、歴代皇祖の統治のありかた、それにより、私もまた、天佑神助をえて、みんなとともに、力をあわせて治めていきたい。

孝徳天皇は、十三の詔を発している。

その中には、投書箱のことがある。
直言を求めるというものである。

ここには、専制政治など見られない。
独裁政治も、見られないのである。

江戸時代の、八代将軍、吉宗も、投書箱からヒントを得て、目安箱を設置した。
政治に、民の直接の声を聞くと言うものである。

日本の古代は、今で言うところの、民主的、合議制であったと、察することができる。
決済は、天皇陛下が行うが、その前には、議論を尽すというものである。


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2012年07月15日

天皇陛下について118

孝徳天皇は、在位10年で、お隠れになる。
崩御である。

次ぎは、前天皇であった、皇極天皇が、即位された。
第三十七代、斉明天皇である。655年より、661年。

天皇が一旦、位を譲られて、更に、天皇に即位するのを、重そ、ちょうそ、といわれる。

中大兄皇子は、皇太子として、政治を執られた。

この時、蝦夷、エゾ地のことであるが、現在の、秋田、能代、津軽地方に叛乱があり、それを平定するために、討伐軍を向ける。
更に、大船団をもって、北海道、樺太方面にも渡るという、大規模な討伐軍が、出来た。

総帥は、阿部比羅夫である。

討伐軍が、北に向かっている間に、百済から、使者が訪れる。
斉明六年、660年、九月である。

当時は、我が国の朝鮮における勢力は、衰退していた。
だが、百済、高麗、新羅も、貢物を持参していた。

しかし、三韓の間では、絶えず、攻防が繰り返されていたのである。

特に、新羅の百済に対するものは、激しかった。
新羅は、唐と結び、百済を滅ぼそうとしていたのである。

助けていただきたい、との、願いに、朝廷は、正しきを助け、無法、非道を討つのが、昔からの、方針であると、その年の暮れ、天皇は援軍を送られた。

更に、翌年の春には、すでに68歳になられた天皇も皇太子を従えて、九州に下られ、筑前、福岡の、朝倉宮に、大本営をおかれた。

だが、天皇は、七月、崩御されるのである。

皇太子である、中大兄皇子は、麻の着物を着て、喪に服した。
ただちに、天皇に即位しなかったのである。

この、中大兄皇子は、長年、皇太子であり、中々天皇の位に、即位しなかった。
何故か。
それほど、天皇という存在に対して、慎重だったのだ。

流動的な状況にあり、象徴的な天皇の位に就くには、躊躇われたのである。
それほど、天皇の位は、重いものである。

百済援軍の戦いは、続いていた。
安曇比羅夫たちを遣わして、百済を救援したと、大日本年表にある。

更に、天智元年、662年、大量の支援物資を、百済へ送っている。

更に、翌年、今度は、唐と新羅が組んで、高麗を攻めた。
高麗も、日本に救いを求めてきたのである。

朝廷は、これにも、援軍を送った。

その年の、五月、百済王子の、豊を、本国に送り、王位を継がせた。
護衛の指揮は、安曇比羅夫が執った。

つまり、百済の王子は、日本に在住していたのである。

天智二年、三月、日本は、上毛野稚子、かみつけのわくこ、を大将として、二万七千余が、新羅を攻めた。

二城を得たが、この頃、百済王主従の間に、不信があり、王は、臣の福信を殺したのである。

この動揺している様に、新羅が攻めた。

一方、唐の水軍は、白村江、はくすきのえ、に陣を設け、日本の水軍の突進を好機として、これを包み込み、戦った。
日本軍は、敗れた。
そして、百済王も、高麗に亡命し、百済が亡んだのである。

日本も、引き揚げるしかない。

だが、この時、唐や、新羅に属することを拒否した人民が多数出た。
その人たちは、すべて日本を頼ったのである。

推古天皇時代も、多くの人たちが、大陸、半島から来たが、その時と同じく、皆々、日本を求めてきたのである。

天智二年九月、百済国の人、日本の水軍と共に、日本に向かう。
天智四年二月、百済の男女四百余人近江国神前郡に置く。
天智五年冬、百済の男女二千余人を東国に居らしむ。
天智八年、百済の男女七百余人を、近江国蒲生郡に置く。

当時、日本がいかに、憧れと希望の国だったかが、解るというものだ。
国が安定している。

移住してきた者を、大切にするのも、昔のままである。
彼らを、温かく迎えているのである。
住まいの地を与え、更には、能力のある者は、引き上げられたのである。

迎え入れた現地の人との、対立もなかった。
渡来した彼らは、日本の伝統に従い、自分たちの神社まで造り、大和人たろうとした。そして、天皇に対する、崇敬の思いである。

さて、この時、唐も、新羅も、日本に攻めてくることは無かった。
日本の倫理と、戦いの強さを見たからである。

だが、日本は、天智天皇は、防人を置くことを考えた。
国の守りのためである。

防人とは、一時的に、軍人として、大陸からの、防衛のためである。

天智天皇三年、6664年。
対馬島、壱岐島、筑紫国等に、防人と、すすみとを置く。又、大堤を築きて、水を貯へしむ。名づけて水域といふ。
日本書紀
すすみ、とは、山の頂に火を上げて、急を知らせる、のろし、である。


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2012年07月16日

天皇陛下について119

天智天皇四年、665年。
更に、北九州に、大野城と、キ城。長門、山口。

そして、六年には、対馬の金田、讃岐の島屋、大和の高安城を築かせる。

都を大津に移した。
いずれも、国防上の理由である。

しかし、
この時に、天下の百姓、おおむたから、都を遷すことを願わず。そえあざむく者多し、と、日本書紀にある。

庶民には、日本の、マツリゴトシロシメス、大政の重大なことを、理解できなかったのである。

当時の、歌人たちも、近江を嫌う歌、大津へ行きたくない歌を詠んでいる。

防人は、三年交代である。
その彼らの歌が、万葉集に載る。

大君の 命かしこみ 磯に触り 海原渡る 父母を置きて

唐衣 裾のとりつき なく子らを おきてぞ来ぬや 母なしにして
母の無い子が、どうして過ごしてゆくだろう・・・

天皇は、軍事、民事に携わり、庶民の苦労を身を持って感じていた。

ゆえに、筑紫で軍事を見られていた際も、その住まいは、屋根の茅は切り揃えず、柱も荒木のままだった。
これを見た人々は、天皇を、木丸殿、御殿を黒木御所と呼んだ。

天智天皇御製
朝倉や 木丸殿に 我居れば 名のりをしつつ ゆくは誰が子ぞ

天智天皇の即位は、天智天皇七年である。

天智天皇時代は、文化の発達も、いちじるしいものがあった。
水時計を造られたのも、皇太子時代である。
それが、時鐘を打つようになったのは、天智10年、4月25日である。
太陽暦にすると、6月10日である。今は、時の記念日として残っている。

天智天皇崩御は、46歳。
その二年前に、藤原姓を賜った、鎌足が亡くなっている。

鎌足の最後の言葉は、
私が死にましたら、葬儀を簡単に・・・
である。

現在、その霊位を、祀る談山神社がある。

天智天皇崩御の後、政務をとられたのが、大友皇子である。

だが、皇位継承者に指名されていた、天智天皇の弟の、大海人皇子、おおあまのおうじ、との間に、争いが起こった。
壬申の乱である。

紀元1332年、西暦672年のことである。

この事件は、我が国の悲痛な事件である。
大友皇子は、25歳で、お亡くなりになった。

何故、このようなことが、起こったのか・・・

少しばかり、説明する。
それは、大化の改新の精神である。

その精神が、遂行されない状態に陥ったのは、朝鮮との関わりで、大敗し、多くの人命と、物量を失った。

国力の疲弊、そして、唐軍の来襲に備える警備のため・・・
何よりも、大小の豪族たちの、動揺を抑え、しっかりとした政治を行わなければならない。

しかし、その結果、天智天皇は、冠位制の改定と、氏上、民部、家部を定める政策をとった。
大小の氏族を政府の統制化に置く主旨であったが、それは、氏上の地位の差別の制度であり、大化の改新の精神と、逆行してしまうのである。

大化の改新で、廃止したはずの、私有地の保有を、各氏族に認めることになり、これは、極めて危険なことだった。

大化の改新は、氏族制度を廃して、その支配から、土地人民を解放し、公地公民とすることであった。

天智天皇は、涙を飲んで、止むを得ない、改新の後退を行ったのである。
しかし、弟の大海人皇子には、それが、また蘇我氏のような者を作り出してしまうことだと、憂えたのである。

兄の、大友皇子との戦いは、それも止むを得ないこくとになったのだ。
このままにしておくと、大化の改新の精神が、無になってしまう。

であるから、壬申の乱を平定して、皇位に就かれると、即座に、冠位や、姓制度を廃止して、氏上も、民部も、家部も、撤廃したのである。

大化の改新は、飛鳥維新といっても、いい。

天智と、天武の不和ではなく、更に、皇位継承を巡る対立でもなかった。

革新政策の成し遂げを続けるか、止めるかの、どちらかである。
だが、やめる訳にはいかない。

大友皇子の、死は、悲劇である。
しかし、天智天皇の、妥協したままの政治では、また、豪族、氏族たちの、覇権争いに発展する。
それを、避けて、安定させるためには、どうしても、天武天皇の、断行が必要だった。

歴史は、いつも、激動である。

壬申の乱の翌年、大海人皇子が、即位された。
第四十代、天武天皇である。
皇居は、再び、大和に、移された。


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2012年07月17日

天皇陛下について120

天武天皇が、一部の歴史家から、独裁政治だと言われるのは、彼が行った、壬申の乱後の、処理である。
従来の皇室にまつわる、強力な集団を一掃し、乱に功績があった、臣も、一人として、大臣以上にすることはなかった。

天皇絶対主義・・・
それを天武天皇は、実行したといわれる。
違う。

長い日本の未来を、眺めての、決断である。
それ以後の、皇室、天皇を見れば、良く解る。

天武天皇在位は、14年。673年から686年。

その、詔は、数多い。
例えば、負債を免ずるの詔
天下の百姓、貧乏に由って、稲及び貨財を貸すものは、乙酉十二月三十日以前のものは、公私を問わず、みなゆるせ

八姓の仕組みを作られた。
八色の姓
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置

従来の、一番上の、臣、連が、末に下げられている。
真人は、皇室から出た家にだけ、与えられる。

六十の階位。
皇族を、十二階、諸臣を四十八階と、増やした。
これは、有力、才能がある者を、朝廷の役人にし、組織を固めるために役立てた。
このような役をつけることで、豪族の不満を抑えたのである。

また、仏教を大いに奨励したが、同時に、朝廷のまつり、古くからの慣わしである、祈年祭、きねんさい、なども、盛んにした。

崩御の前年には、
九月十日、はじめて伊勢神宮の遷宮の制を定めた。
そして、第一回の、御遷宮が、持統天皇四年に行われている。

更に、稗田阿礼に命じて、古事記編纂と、日本書紀の編纂を行う。
古事記は、第四十三代元明天皇、707年から715年の、和銅五年に完成。
日本書紀は、第四十四代元正天皇、715年から724年の、養老四年に完成となっている。

天武天皇崩御の後、皇位に就かれたのが、皇后の持統天皇である。686年から697年。
在位12年で、その後は、天武天皇の御孫である、文武天皇が就かれた。697年から707年。

天武、持統、文武、三帝は、継続して、法令の整備をされた。

それが、完成したのが、文武天皇の御代、大宝元年、紀元1361年、西暦701年である。

大宝律令である。

律が、六巻、令が、十一巻である。

律は、現在の刑法である。
令は、臣民の階級、位階、諸官省の、官制、軍事、教育、社寺などの制度である。
その他、行政上の諸事を定めた。
今日の、憲法、民法、商法など、すべてにわたった。

この、大宝律令は、その後、我が国の政治の根本となったものである。
官制、諸制度は、その時々に変更があったが、明治18年まで、千二百年近くも、保存されて、位階や、勲等などは、戦前のままで、そのまま用いられていたのである。

律、令の、詳しいことは、省略する。

大化の改新、つまり、飛鳥維新は、完成した。
そのまま、飛鳥時代と、いっても、いいだろう。

天智天皇、天武天皇によって、日本の国の成り立ちが、固められたという。
国の、大元を作り上げたのである。

奈良時代は、女帝、元明天皇より始まる。707年から715年。

都が、平城、なら、に定められた。
現在の奈良は、当て字である。

平城京である。
遷都は、和銅三年。710年。

以後、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、順仁天皇、称徳天皇、光仁天皇の七代で、およそ、70年である。

元明天皇の御代に、古事記が完成する。

そして、元正天皇の御代の時に、天武天皇の時に発足した国史編纂事業である、日本書紀が完成する。

第四十五代聖武天皇、724年から749年の御代、太政官の、帝都は諸国より人々の集まってくるところゆえ、ということで、五位以上のもの、力ある者は、茅葺を瓦屋根に、柱は赤く、壁は白くするなどした。

そのため、都は、一段と美しくなった。

青によし ならのみやこは 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり
と、謳われたのである。

この都の繁栄と、仏教の興隆は、密接な関係がある。

そして、当時、激しい勢いで、蔓延した、天然痘、ほうそう、とも、関係がある。

それは、天平七年、朝鮮半島から、北九州へ入り、東へどんどんと、広がったのである。
庶民のみならず、郡臣も、次々と死んだ。

この不幸な出来事を天皇は、
私がいたらぬためであると、嘆いたのである。
そして、仏のお力を頼もうと、おっしゃり、陛下自身、写経に励み、一方、諸国に、国分僧寺と、国分尼寺を建てるようにと、詔を発したのである。

仏寺の建立は、結果、仏教を広めることになる。
奈良の大仏で有名な、東大寺は、国分僧寺の総本山である。

東大寺に対する、国分尼寺は、奈良西北にある、法華寺である。

これが、いずれ、仏教団体の腐敗の元になるのだが・・・


posted by 天山 at 04:23| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月18日

天皇陛下について121

さて、大仏建立である。

聖武天皇は、国のため、国民のためが第一義であるとし、これは、信仰を持つ者の力を借りて行うと、この大事業に従うものは、まずと仏を信ずる者に限るとした。

費用は、万民の寄付によるものだが、無理に納めさせてはならないと、国司、郡司に命じた。

天皇の、御趣意を奉じて、全国を行脚したのが、行基である。
その、いわれと、功徳を説いて、応分の寄付を募ったのである。

そうして、費用が集まった。
国を挙げての、大仏建立である。

兎に角、大変なことであった。
完成するに、十年を要したのである。
今もなお、世界一である。

当時の、日本の技術がいかに、高度なものであったかが解る。

この、大仏建立には、天皇ご自身のみならず、皇后の力も大きかった。

その皇后は、大化の改新で、功績のあった、藤原鎌足の子、不比等の娘だった。
古来から、皇后は、皇族以外からは、立てなかったが、この御代に、はじめて藤原氏から出たものが、皇后になられたのである。

その名は、光明皇后である。

皇后は、深く仏教を信仰して、その影響により、施薬院、悲田院を置き、今日でいうところの、社会、福祉事業を行ったのである。

皇后は、自ら、親しく、千人の病人の体を洗われたという。
皆々、大変恐縮したが、皇后は、意に介さなかった。

そのために、伝説まで、生まれた。
その話は、省略する。

大仏の正式名称は、ルシャナ仏である。太陽、光明を象徴する。
東大寺の、正式名称は、金光明四天護国寺、である。

護国とは、国を守るという意味である。

すでに、渡来した仏教が、日本の伝統となったといえる出来事である。

そして、もう一つ、東大寺建立で、我が国が大きな恩恵を受けたのは、正倉院、しょうそういん、である。

正倉とは、主な倉庫であり、院とは、塀をめぐらせて、外界と分かつこと。
他の寺にも、正倉はあったが、今日残るのは、東大寺のもののみである。

今なお、御物、つまり、天皇がお使いになられたものとして、一万点が納められている。

千二百年前の宝物が、これほど多数であり、しかも、優れた工芸美術品が、完全に保存されているのである。

聖武天皇が、お隠れになった後で、光明皇后が、そのご冥福を祈られるため、そのご遺品を、大仏に納められたのが、はじまりである。

先にも書いたが、第四十三代元明天皇が、平城に遷都された。
平城京という。
それが、現在の奈良である。

奈良、飛鳥時代といわれる。

奈良時代になって、仏教の完全国教化が計られたといえる。
南都仏教といわれる。

その当時の、仏教を見る。

名僧として、大仏建立に大功績のあった、行基である。
そして、唐から渡来した、鑑真が、律宗を開く。

更に、唐に19年留学していた、行基と同じ、法相宗の、玄肪である。
法相宗は、あの三蔵法師玄奘が、開祖である。

更に、華厳宗を開いた、良弁、ろうべん、である。

他に、三輪宗、さんろんしゅう、成実宗、じゅうじつしゅう、倶舎宗、ぐしゃしゅう、がある。

南都六宗である。
そして、平安時代に、それが、八宗になる。

最澄の天台宗と、空海の真言宗が加わる。

奈良の都は、仏教開花の面目である。

日本が仏教国といわれる、所以である。
天皇が帰依した、仏教・・・
その思想が、更に、日本的に変容してゆくのである。

だが、矢張り、堕落が起こる。
奈良仏教界も、政治に関わって行くにつれ、次第に、信仰とは別に、権力争いが起こる。

僧侶の権威志向である。
人間のやることである。

中でも、恐るべき僧侶が現れた。
それは、天皇の御位を、狙おうとする者である。

こうなると、その信仰までも、疑いたくなるのである。

宗教が政治と関わりと、時代は、いつも混乱する。

戦国時代も、門徒と呼ばれる、浄土真宗の信徒たちが、兵力を持ち、大名たちに、向かうのである。
織田信長は、この門徒の一派たちと、壮絶な戦いを行う。
それは、家康もそうであった。

何故、信仰団体が、政治に関わるのか。
それは、支配欲であり、最早、宗教とは、言えないのである。

政治を凌駕しようとする、信仰者の支配力とは、何か。
これ以上は、このエッセイの本質ではないから、止める。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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