2012年02月23日

天皇陛下について。102

二千六百余年といわれる長い国史の伝説及び記録の中に、天皇と国民大衆とが直接利害のために闘争した事例が絶無であるのは、皇室が自ら政権を行われる期間が短かったためばかりではなく、皇室自ら豪奢をいましめ、常に質素なご生活をもって歴代一貫されたためでもある。なにより、京都の皇居は、四囲に堀なく防備なく、婦女老幼でさえたやすく乗り越え得る程度の築地土塀を廻らしてあるだけである。
里見岸雄

しばしば政治的兵乱に脅かされながらも、かくのごとき平和な宮殿に一千年歴代がご安住むになられたことは、それこそ聖徳限りなきものがあり、国民を恐れる必要がなかったからである。
里見

このような、君主は、世界に唯一である。
国民を恐れる必要が無い。
国民を敵にする必要がいなのである。

何故なら、陛下は、国民の側にいるからである。

私の知る限りでは、
仁徳天皇は、家々から、炊事の煙が上がらないことを見て、民の窮乏を知り、課役を免除し、自らは、幣衣にも、甘んじた。

その後も、
元正天皇は、地震などに際して、わが身の不徳が天災をもたらすと、「朕が徳非薄にして民を導くこと明らかならず」と、わが身を反省し、恥じた。

聖武天皇も、「万方罪有らば予一人に在り」と、全ては、私の責任であると、自らを責めたのである。

里見氏も、
日本歴史上、庶民が支配者階級に対して暴力的抗争を敢えてした室町時代の土一揆、徳川時代の百姓一揆はその数幾数回の多きに達し、第百二代後花園天皇足利六代義教の永亨元年、播磨の土民の蜂起して一揆などは「国中に侍をあらしむべからず」と号し、守護赤松満祐の軍を敗走せしめている。
と、書く。

更に
これと類を同じうした土一揆が文明十七年から十八年にかけ山城一帯に勃発した。いわゆる山城一揆といわれるものであるが、時は第百三代後土御門天皇の御宇足利将軍は九代義尚の時であるから、さまに世は戦国応仁の大乱時代である。
この時、京都の一揆が室町幕府の鎮圧を避けるため内裏に立て籠もるかもしれないという風説があったので、廷臣は会議を開いたが、万一に備え、御所の周囲に壕を掘って防衛すべきだという意見を吐いた者があった。すると、「親長記」で有名な甘露寺親長は「以って外の事也、外聞おいて然るべからず」と反対し、右の提案は一議にも及ばず沙汰止みとなってしまったが、乱に遭遇して土民を怖れざるものこそ日本皇室であったといわなければならぬ。
と、書くのである。

民が、皇室を盾に取り、乱を起こしても、そのままに・・・
しかし、天皇の皇居を、誰一人、利用する者が無かった。

天皇、天子様は、別な存在なのである。

統治する、天皇ではなく、統治権を有する者に対する、反乱である。

歴代天皇を、眺めると、皆、国民の側に立っているのである。
統治権を有するものを、諭すのは、天皇のお言葉であった。
そして、それは、国民の声なのであり、為政者は、それを拝して、耳を傾けた。

この、天皇の権威を保持してきたのは、正に、民族の、知恵といえる。
内裏は、超然とし存在する。
そして、統治権者も、国民も、それに関しては、別格であり、統治する天皇の権威を、認めるという、ものである。

明治維新が、進んだのは、天皇の存在あればこそ、である。
更に、敗戦後、天皇が、留まったゆえに、内戦に至らずに済んだのである。

また、国内に、共産主義が、気勢を上げた時も、昭和天皇は、あの者たちも、日本国民ではないか・・・と、側近を誡めた。

宗教、思想、主義に対しても、天皇は、すべてが、国民であると、許容したのである。

宗教の迫害を行ったのは、その時の、為政者であり、統治権を有するものである。

良し悪しを問わず、それらであった。

いずれの国においても帝王の居住はことごとく城塞である。帝王が城に住むことは外敵に対抗する場合のほかは、即ち国民の襲撃に備えるためである。
里見

外敵、国民の、襲撃・・・
天皇には、敵は、存在しなかった。
世界の君主の中で、その心境を有したのは、日本の天皇のみである。

それを、今、何故かと、考える。
何故、天皇が、それほど、国民を信頼したのであろうか。

ここで、天皇の、存在の核なるものを、見なければならない。
天皇は、国の祭祀を行う者なのである。
国民を代表して、それを延々として、行う。
その向かう相手は、皇祖皇宗であり、それは、日本の祖霊である。

そこに、何の迷いも無いということだ。

そして、驚くべき事は、毎日、国民の幸せのために、祈る存在であるということ。
その祈る国民の、存在を敵と見なすことができるか。出来ない。
敵など、いないのである。

前ローマ法王、ヨハネ・パウロ二世は、遅まきながら、対立する宗教との、対話を実践した。
しかし、ローマ法王庁は、世俗化して、そこから、抜け出せないのである。
最も、狡猾にして、平然として、不正を行うほどに、成り果てたのである。

結局、ローマ法王の、権威は、カトリックにしか、及ばない。
対話し、和解を呼びかけたが、それが、見破られて、何も変化なし。
足元を見られたのである。
要するに、ローマを本山とするようにとの、対話だった。

それは、過去に行った、民族、他宗教への、謝罪がなかったからでもある。
その、虐殺の歴史を封印して、対話など、成り立つことが、おかしい。

昭和天皇が、敗戦後、退位しなかったのは、その責任と、贖罪の意味からである。
生き地獄を生きたのである。

国民の悲しみと、他国民に対する、謝罪を一生背負って生きたのである。

はからずも、国民と、他国民を不幸な状況に置いた責任である。

その、恨みも、憎しみも、怒りも、呪いも、すべて、御一身に受けようとの、御心である。

わが身の、不徳の致すところ・・・
これが、天皇の御姿である。




posted by 天山 at 00:19| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月24日

天皇陛下について。103

2月11日は、建国記念日である。
それは、恐れ多くも賢くもある。

神武天皇が即位した日である。

その、神武天皇・・・
戦後の、迎合学者たちが、神武天皇は、実在しないと、平然として、言ってのけた。
そして、それが、一定期間、事実だと、信じ込ませた。

全くのウソである。

アカデミズムの、古代史学界・・・
本当に、学者かと、思わせるような、振る舞いであった。

アメリカ占領軍に、おべんちゃらを使い、出世を目論んだのである。

まず、厳密な史料批判に基づき、実証史学の碩学、坂本太郎博士は、
神武天皇以前の九代の天皇は、実在の人物ではないと、かなり多くの学者によって、説かれているが、それは一つの憶測に過ぎず、なんら実証されていない。
と、言う。

実証されいないものを、何故、説くのか・・・
その、歴史学者の面々は、誰に遠慮して、また、何の策略があって、そんなことを、説くのか。
それが、歓迎される、世の中だったからである。
学者は、特に、歴史分野は、そのようである。
世の中の、波に飲まれる。

日本法制史の大家、龍川二郎博士も、
神武天皇記の大筋の事実は、終にこれを否定することができない。
と、言う。

そして、更に、近年の古代史学界の流れも、記紀の記述を裏付ける考古学的発見により、大きく変化している。

記紀の記載を検証した、角林文雄氏は、
日本資料は不思議なほど中国資料とうまく合っている、と言う。
更に、
記紀は、神武天皇を東南アジアに出自を持つ熊襲族の人として描いた。そんなことは後の皇室、貴族にとってなにか素晴らしいこと、誇るべきこととはとうてい考えられない。しかるにそのことを明確に、紛れもなく記述しているのだからそれが真実と考えるのが常識ではなかろうか。
と、言う。

そして、神武天皇が、即位した、橿原の地から、出土した、柱の年代測定を、アメリカ、ミシガン大学にて、行った。
その結果は、2000年前のものであることが、解明された。

今年は、建国から、2672年の今年、西暦2012年、平成24年。

学問が、何かの作為によって、その説が作られるという、学問の堕落と、それを為す、学者たちの、堕落は、度し難いものである。

日本民族は、騎馬民族云々という、説が、私の子供の頃に、言われていた。
今でも、私の年代は、それを正す事が出来ないで、日本人は、騎馬民族から出たと、信じている者が多い。

それは、全くの、根拠のないことと、なったが、一度信じた者は、それを正すのに、時間がかかり、更に、信じると、騙されたままで、死ぬ。

だから、今でも、時を懸けるような、学者の言い分は、信じないようになった。
十年を経ても、さらに、二十年を経ても、間違いないものとならなければ、信じられないのだ。

神武天皇は、アマテラス大神が、使わした、ニニギのミコトの子孫であるという、美しい神話から、出た、実在の人物である。

実在したのであり、それ以外の、何者でもない。

敗戦後、兎に角、日本を否定するという、歪な精神が流行りものになり、多くの人たちが、堕落した。
要するに、時代の流れに乗っただけである。
自分の信念など無い。

橿原の宮にて、即位の儀式を行った時に、神武天皇は、地場の部族たちの、神々を、すべて皇居、宮にお祭りして、それらを前に、富士山にある、阿蘇大神宮の、使者たちの三種の神器の前で、正式に即位したのである。

ここで、他の世界史には、無い、光景が見える。
あの、野蛮な土地では、部族を皆殺しにし、その神々を無きものにする。
すべて、破壊するのである。

しかし、神武天皇の、行為は、それではない。
元の神々をお祭りしたのである。
それは、奉りである。

見事な平和感覚である。
そこからも、和という精神が見られる。

わア、とは、大和言葉では、開く、拓く、披く、啓く、となる。

当時は、天皇も、大君も、それに相応しい、現代的な名称は、無い。
しかし、おほまつりことかしら、という言葉は、あった。

大政頭、である。

地場の、部族の長を、まつりことかしら、と、呼んだ。
祭りは、奉りであり、祭祀である。

古代は、祭祀から、はじまった。
祭祀を司る者、すなわち、カシラなのである。

大和言葉で、カシラは、トップである。
そこに、大、おほ、という、名称が現れた。
それが、大君となり、そして、天皇という、漢字が使われることになる。
隋の煬帝に対して、つまり、皇帝に対して、同じく、独立を宣言する、天皇である。
決して、皇帝により、任命された、王ではない。

卑弥呼は、大王の称号を得たが、推古天皇の際に、大王から、天皇への移行が、見られる。

勿論、記紀の記述は、後のことである。
その際に、天皇という言葉が使われた・・・
それは、好きな人が、詮索するといい。

大和言葉では、スメラミコトなのである。
漢語ではなかった。

統べる御言
言葉を述べる者。
勅令を発する者。

部族、豪族の、対立を治める者である。
おほいなるやわらぎのこころ
大和心を、発する者なのである。

だから、渡来した、二代目の蘇我馬子の孫、蝦夷が、蘇我王国を作る前に、単なる、豪族の支配を破壊しなければならなかった。
そして、天皇が政治のトップに立ち、日本は、それから、和を持って成すという、天皇家によって、ここまで来た。
2672年まで、来たのである。

この歴史は、世界に冠たるものである。

日本民族の智慧は、天皇の存在を作り上げたのである。
陛下は、お上であり、国民は、下、しも、である。
上下の関係のみ、日本にはある。

よこしま、邪な関係は無い。

どれほど、権力のある武家政権でも、その長が、天皇に認められない場合は、国民にも、認められない。更に、国民が認めなれば、天皇も、認めないのである。

権力と、天皇の権威の図は、そのまま、天皇と国民、権力者との、図になる。

そして、面白いのは、国民と、国土とが、国体であり、その国体の象徴が天皇になるという。
全く、珍しい考え方を有したものである。

国体は、天皇である。
と、そこまでは、いいが、それを理解出来なくなった、敗戦後は、その理解が破壊され、天皇は、国体であるという、考え方が、出来なくなった。

天皇を守るということが、国民と、国土を守るということの理解が出来なくなって、平和ボケして、この混乱に相成ったのである。


posted by 天山 at 00:32| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月25日

天皇陛下について。104

建国の祖、神武天皇は、どのようなことをしたのか・・・
敗戦から、その話しは、無くなった。

学校で教わることもなくなった。
私も、知らなかった。

遠い記憶であるから、それは、物語になる。
そして、神話である。
と、しても、その話しは、面白い。

九州、日向、宮崎から、神武天皇は、統治下の、やまと民族を引き連れて、九州の東海岸を北上する。
豊前、大分、そして、宇佐、筑前、福岡に進む。

この、福岡にしばし、留まり、稲作を伝えている。
時は、縄文時代の、後期である。

稲作が伝えられたのは、弥生より、少し早い。
弥生が始まる、500年ほど前からである。

それを終えると、瀬戸内海を東に進み、安芸、広島、備前、岡山を経て、目的地に近づく。出発以来、10年を経ている。

更に、上陸し、龍田を目指す。が、道が狭く、険しい。
そこで、引き返し、東へ回り、生駒山を越えて、大和に入ろうとした。

その頃の、大和には、長髄彦、ながすひこ、という、土人が住んでいた。
彼は、天皇一行を迎え撃つ準備をする。

そして、激しい戦いが始まる。

地の利は、土着の、長髄彦にある。
天皇は、圧された。

そこで、天皇の兄である、五瀬命、いつせのみこと、が、流れ矢に当たり、重傷を負う。
天皇は、兄の元に掛け付け、言う。
この傷を受けたのは、私の考えが間違っていたからだ。
日に弓を引いても、狙いが定まるわけがない。
日の神の子孫である、我々が、日輪に敵対するような方法は、あるまじき事。
道を変える。そして、日を背に戦うのだ。

日を背にして、大和に入るには、大迂回が必要である。
そこで、再び、海辺に集結して、遠く紀州の海岸を回り、熊野から入ることにする。

その途中で、五瀬命は、お亡くなりになった。

波風の強い、紀州灘を行く。
難航した。
そのために、航海中、暴風雨に遭い、稲飯命、いなひのみこと、三毛入野命、みけいりぬのみこと、が、それを鎮めるために、海中に投ぜられて、亡くなる。

お二人共に、天皇の兄である。

やがて、熊野に上陸する。
そして、険阻な山を越えて、大和の吉野川の川尻に出た。

この時、道案内をしたのが、高天原から派遣された、大きな一羽の鳥、八た烏、やたがらす、である。

やがて、宇陀地方へ行く。
そこでは、兄ウガシ、弟ウガシという、兄弟がいた。

使者として、使わされたのが、八た烏である。
天津神の御子が、お出ましになった。お前たちも、是非この方にお使えするように、と伝える。

だが、兄は、使者を追い返し、謀を立てて反抗した。
だが、結局、自分が作った、罠に落ちて、滅びる。

さて、続いて、八十タケル、やそたける、を討ち、磐余邑、いわれむら、では、兄シキ、弟シキの兄弟がいて、こちらも、弟は服したが、兄が反抗した。
だが、これも、敗れる。

やがて、長髄彦との、戦いである。

彼らの本拠地は、登美、鳥見である。
激戦となった。

この時、天皇の弓の上にとまったのが、金色の鳶、とび、である。
鳶は、稲妻のような、鋭い光を発し、長髄彦の軍勢を照らした。
そのため、彼らは、退却する。

それから間もなく、長髄彦から、天皇へ使いが訪れた。

かつて、天津神の御子が、天の岩船に乗って、天から降りられ、今、私の前におられます。御名は、にぎはやひの命です。私の妹をお后にされ、すでに御子まで、お生まれです。その、にぎはやひの命に私は仕えていますが、あなたは、天津神の御子だといいますが、これは、どういうことでしょう。

神武天皇は、そのことは、知っていた。そこで、それを確かめるために、何か証拠となるものを、と使者に伝えた。

そこで、長髄彦は、にぎはやひの命の、秘蔵の、天の羽羽矢と、歩ユギ、からゆぎ、を、使いに持たせる。

神武天皇の方にも、同じものがある。

それを、知った、にぎはやひの命は、長髄彦を諭す。だが、中々、頭を縦に振らない。
やむなく、にきはやひの命は、長髄彦を討ち、軍勢を率いて、帰順するのである。

のちの、物部氏が、この、にぎはやひの命の子孫である。

こうして、大和地方は、平定された。

そして、畝傍山の麓、橿原の地を選び、そこを皇都と定められ、新たに、御殿を作らせた。

みことのりを下してのたまはく
天皇は、仰せられた。
われ、東に往きしよりここに六年になりぬ・・・
おほみたから心すなほなり、巣に住み穴に住む習俗、これ常となれり・・・
日本書紀

お言葉の最後は、
八紘をおおひて宇とせむことまたよからずや
である。

当時は、巣に住み、穴に住む生活である。
縄文期である。

これは、おほみたから、つまり国民を小屋に住まわせてやりたい・・・

八紘とは、あめのした、宇とは、家である。

この思想は、昭和天皇が、具体的に示した。
戦争中の天皇の御住まいは、防空壕だった。それを、お文庫という。

敗戦後、皇居の焼かれた宮殿再建に際して、
国民が一つ家に住みえていないのに、わたしだけが、立派な宮殿に住むことは、できない。再建は、待つように・・・

神武天皇から、一貫して流れる、天皇思想である。


posted by 天山 at 00:10| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月05日

天皇陛下について105

三種の神器とは、何か。
それは、天皇の象徴を表す。

では、その意味は、何か。
今まで、その意味について触れた人がいない。
単に、天皇が受け継ぐもの・・・

三種の神器とは、八紘一宇のことである。
八紘一宇とは、一つの世界であり、世界一家ということである。

戦中、それが、へんてこに解釈されて、とんでもない、意味になった。
世界は、日本が主である。
日本は、特別な国である。
日本人は、特別な民族である。

それを、昭和天皇は、敗戦後に、修正した。
特別な民族と言うものは無い。
皆、民族は、大切なものです。

敗戦後にしか、言えなかったのである。
もし、戦前に言えば、暗殺されただろう。

天皇陛下を、最も、軽々しく扱ったのが、当時の軍部である。
天皇も、人間だ・・・

この、八紘一宇に関して、エール大学神学部長の、パール・S・ビースの言葉である。
人類は五千年の歴史と二度の世界大戦の惨禍を経験した結果、「一つの世界」を理想とする国連憲章をむすんだが、日本の建国者は、二千年の前の建国当初に、世界一家の思想をのべている。これは人類の文化史上、注目すべき発言であろう」
と、言う。日本古典の精神、より。

三種の神器の意味が、八紘一宇であると、理解すると、それが象徴するものが、世界一家の思想であるということが、解る。

古語拾遺より、
神武天皇、じんむのすめらみこと、東の国征、ことむけたまへる年・・・
ことむけ、とは、古事記に、
言向け和平す、ことむけやわす、というように、武力によらず、話し合いによって、平和を招来するということであり、天皇の御言葉が、それ、そのものなのである。

話し合う。
天皇ほど、話し合いを、大事にされた方はいない。
後に書くが、例えば、新羅の国の王から、仏像を贈られた時、欽明天皇は、部族の長たちに、これをどのように扱うか、と、問い掛けている。

蘇我氏と物部氏の争いに発展したのは、歴史の通り。
仏像をめぐり、部族間の覇権争いをするという。

また、その時期が、日本の歴史の中でも、実に重要なポイントになるのである。

さて、大和民族とは、どこの民族だったのか。
それは、神武天皇と共に、過ごしていた、民族である。
大和と、後に、漢語を当てたのは、おほいなるやわらぎ、という意味からである。

いずれ、古代史に関して書くが、最初は、富士山の山麓に住んでいた民である。
これは、正史に無い話なので、後々に書く。

御殿が出来た。
そして、即位される。
辛酉の年、正月朔日、これを太陽暦に直して、二月十一日になる。
建国記念の日である。

門を開きて、四方の国を朝らしめて、天位の貴を観したまひき
みかどをひらきて、よものくにびとをまいのぼらしめて、あまつひつぎのとうときをしめしたまひき
古語拾遺

その、儀式が、今も伝承されている。
天皇即位の義である。

その際に、文武官を任命された。
それが、驚くべき、任命だった。
つまり、天皇は、敵味方という、観念を持たずに、任命された。
詳しく書かないが、それが、明治維新の、新政府にまで、受け継がれたのである。

天皇は、国民に敵も味方も無い。
天皇陛下には、すべて国民である。

神武天皇の、おくり名は、儒教の影響を受けて、神武不殺、という言葉から、成った。その意味は、神の武は、殺さず、である。

天皇は、殺さず。
ただ、言向け和平す、のである。

日本の君主とは、そういうお方が、即位されるのである。

即位されて、三年目に、天皇は、わが祖先の神々の御霊は、常に私の身を守り、事業を助けられた。すでに悪者どもも、皆なびき伏す。海の外も穏やかになった。そこで、天つ神の、御霊をおまつりし、お礼を申したい。

日本書紀には、
天つ神をまつりて大孝を申べたまふべきなり
と、ある。
あまつかみをまつりて、おやにしたがうことを、のべたまふべきなり

祭りの場を、鳥見という山に設けて、天つ神をおまつりされたのである。

祖霊崇敬という、一貫した思いが、現在まで、延々として続くのが、天皇と皇室のあり方である。

御孝行とは、祖霊崇敬に象徴されるということである。

国民は、陛下に習い、同じく、先祖崇敬を持って、孝行を尽すのである。
この、所作を、神道と名づけたのである。
所作であり、思想ではない。
場を造り、祖霊を招き、共に過ごして、終われば、その場を清めるのみ。

一定の場所に建物をおかないのである。
建物に、招き、そのまま祖霊を閉じ込めることはしない。
元の場に、お帰りいただくのである。
これを、今は、古代神道とも言う。
略して、古神道とも言う。

その当時は、神道という言葉も無かったのである。

ただ、大孝である。
おやにしたがふこと

先祖崇敬を、親に従うことと、書けば、意味が違う。
生きている親も親であり、亡き後の親も、親である。
それを総称して、祖霊なのである。

祖霊崇敬以外の、所作は無い。
ただ、祖霊の場所は、自然の中に充満している。

その教えは、自然から聞くことなのである。
ここでは、聴くと、書いておく。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月06日

天皇陛下について106

神武天皇が、お隠れになった後、
スイゼイ天皇、安寧天皇、イトク天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇と、親子と、続けて即位した。

八代の天皇の間は、480余年である。

そして、第十代の崇神天皇である。
前97年から、30年に渡る。

その時、重大なことが起こる。
これまで同じ皇居の中に、天照大御神の御神霊をお祀りしていたのを、外に移されたのである。

これは、正史に無い話であるが、崇神天皇は、富士王朝から、三種の神器を、奪っている。
阿曽大神宮からである。

それにより、日本書紀では、即位後まもなく、伝染病が流行り、おおくの人が流浪し、世の中が、大変混乱したとある。

そこで、一心に神々を祭る。
そして、夢のお告げにより、大御神の、御鏡、御剣を、同じ御所内に置くのは、神威を汚すことと、笠縫邑に遷して、お祀りすることにしたのである。

更に、天皇は、毎日、お祀りすることが出来ないため、皇女の豊鋤入姫命、とよすきいりひめのみこと、を、その任に当たらせた。
斎宮というものの、初めである。

手元には、勾玉のみになった。
そこで、天皇は、別に、御鏡と、御剣を、本物そっくりに作らせ、この三種を皇位のしるしとして、宮中に留め置いた。
これが、その後、代々の天皇即位の際に、お受けになる、三種の神器である。

だが、御鏡と、御剣を別の場所に移すということは、大変なことであった。

本来は、富士王朝が、その指導権を持って対処していたのであり、その歴史をも、すべて大和朝廷の歴史に含むべく、改竄しなければならなかったのである。
これは、正史ではない。

更に、そのために、天孫降臨の際に、天照る神が、
わが子孫はこの鏡を観るときは、私を観るのと同じにしなさい。ともに床を同じくし、殿をともにして、そこで祀る鏡とするように。
という、お言葉がある。
後付である。

それを、同床共殿、どうしょうきょうでん、という定めとし、重大なこととしたのである。

そして、更に、第十一代、垂仁天皇の時に至り、現在の、伊勢神宮の創建となった。

そこで、奉仕、奉祀される斎宮、いわいぬし、には、第二皇女の、倭姫命、やまとひめのみこと、を任命された。

その、やまとひめのみこと、の、伊勢までの、行幸を書くと、長くなるので、省略する。
兎に角、大変な苦労をして、伊勢まで辿りつき、大御神のご命令で、そこにお祀りするのである。

伊勢には、御鏡と、御剣が、祀られた。

なお、御剣の方は、のちに、尾張の熱田に祀られるのである。

さて、伊勢神宮とは、もう一つ、外宮と呼ばれる、豊受大神が、祀られた。
それは、後々の、第二十一代の、雄略天皇の時代である。

現在は、内宮と、外宮と呼び、両方を、神宮と呼ぶのである。

両宮は、20年に一度、元の通りに、改築される。
つまり、いつまでも、創建当時と同じ建物が建てられるということである。

私は、伊勢神宮、創建二千年祭の年に、偶然に参拝した。
そして、翌年も、参拝する。

何故、20年に一度の、遷宮を行うかについては、陰陽道、方位学から、出ていると、おおくの人は、言うが、違う。

神道は、建物を置かないのが、本来である。
同じ場所に、神霊を、留めて置くことは、不敬である。
しかし、そのように、歴史に書き記す必要があった。

だが、推古天皇の時代まで、伊勢は、知られぬ存在だった。

それ以前の、天皇家は、九州の宇佐八幡宮を、主として、そこからの、指令を受けていたのである。

ここに、微妙に、大和朝廷の不思議がある。

どうしても、私は、正史ではない、富士王朝説を取るのである。

宇佐八幡神宮と、富士、阿曽大神宮とは、別の働きをしていた。
九州は、天都であり、富士は、神都であるという、説を受け入れる。

勿論、血統は、同じである。
それについては、後々で、詳しく説明することにする。

伊勢神宮には、天皇の行幸が、無かった時代が長いのである。

それが、不思議である。
何故、それが、急に、伊勢神宮を主にしたのか・・・

大御神は、女性の神であるというのが、ポイントである。
最初に参拝したのが、女帝である。

それは、女帝を肯定させるためか・・・

それについても、いずれ書くことにする。

今は、天皇の歴史を俯瞰している。
兎も角、伊勢神宮、そして、それ以前の宇佐八幡宮は、建物である。
建物を建てるというのは、為政者のシンボルとなるものである。
古代神道には無い、考え方であるから、ここに、新しい神道の考え方が起こってくるのである。

ちなみに、神宮と、宮では、違う。
このような、細かなところから、探る事が出来るのである。


posted by 天山 at 00:17| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月07日

天皇陛下について107

日本武尊
やまとたけるのみこと、とは、有名である。
おおよそ、古代史を知らない者も、名前だけは、知っている。

その本当の名は、小碓命、おうすのみこと、である。
第十二代、景行天皇の第二皇子である。

その時代、九州に反乱が起きて、小碓命が、鎮圧に赴く。

有名な伝説が、熊襲の国の、首魁川上梟帥、しゅかいかわかみのたける、の退治である。

日本書紀によると、はじめは、天皇が赴かれるが、平定を見て、各地を巡幸して、大和に戻られる。
しかし、熊襲は、再び背くのである。

そこで、小碓命の出陣となった。
命は、童女に扮して、梟帥に近づき、酔ったところを、刺す。
絶命間際に、命の勇武に感嘆して、
やまとたけるの皇子と名乗りたまえ、称号をたてまつるのである。

そこで、日本武尊、やまとたけるの尊と、呼ばれるようになった。

尊が、大和に戻ると、今度は、東の辺境の騒動があった。
天皇は、第一皇子の、大碓命に、鎮圧を命じるが、大碓命は、愕然として、草の中に逃げる、とある。

是非も無しと、尊が、出発する。

吉備武彦、大伴武日連が、付き従う。
その道すじには、伊勢神宮があり、斎主は、叔母の、倭姫命である。

尊は、倭姫命に、
東に往き、その地を騒がせている者どもを、鎮めに参りますので、おいとまごいに、上がりました。
と、挨拶すると、斎主は、
慎むこと、そして怠ることのないように、
と、お言葉を掛ける。
そして、天叢雲剣、あめのむらくものつるぎ、を授けられた。

それから、駿河の国に入り、賊に欺かれ、鹿狩りのため野の深いところに入れられて、火攻めに遭われた。
その時、倭姫命から頂いた、剣で、周囲の草をなぎ払い、火難を免れた。
そして、賊を退治するのである。

草薙の剣という名の、おこりであり、土地も、焼津と呼ばれた。

次ぎに、尊は、相模に至り、対岸の上総の国に、渡ろうとした。
尊は、海岸に立ち、上総の山が近くに見えるので、なんだこれしきの海、飛んで渡れるくらいではないか、と高言した。

この言葉が、難を呼んだ。
船出し、走水の海、現在の東京湾頭を渡ろうとされた時、暴風雨が起こる。

船は、滝のように落ちる雨と、大波に翻弄されて、難破寸前である。
尊は、人知の限界を思った。
そして、倭姫命の、言葉を、思い出した。
慎み、怠りなく・・・

船には、尊の后が同乗していた。
弟橘姫、おとたちばなひめ、である。

后は、私が海に身を投げて、尊の身代わりになり、海神の御心をなだめましょうと、海に身を投げ入れたのである。

やがて、暴風雨は止み、岸に船が着いた。

尊は、上総へ上陸され、常陸を通り、陸奥へ向かう。
その時も、海路を通った。

船には、大鏡が掲げられ、威風堂々と浦から浦へと、進む。

やがて、蝦夷へ辿りつき、それらの地方を、ことごとく平定する。
そして、帰路は、陸路を通り、常陸から、武蔵に出て、相模の足柄山に出た。

その時、尊は、これで東国も見納めと、振り返り、御覧になると、相模の海が、陽光に光る。来るときは、后と一緒だったと、尊は、思わず、
吾妻はや・・・
と、嘆息された。

わが妻よ、である。
東国を、あずま、というのは、これから始まった。

古事記には、尊の歌が、記されている。
さねさし 相模の小野に もやる火の 火中にたちて 問ひしきみはも

焼津の猛火の中で、私の安否を労わられ、尋ねられた、そのやさしい、姫よ、わが妻よ。

その後、七日後に、后の櫛を海辺に見つけ、その櫛を取り、御稜を作った。

そして、尊は、甲斐の国に入り、酒折宮に留まった。
ある夜の、食事中に、
にひばり 筑紫を過ぎて 幾夜が寝つる
と、歌で、お傍の者に、問うと、火焼の老人が、
かがなべて 夜には九夜 日には十日
と、答えた。

尊の歌は、片歌と呼ばれるものである。
この場合は、それに続けて、一連の問答歌となっている。

尊は、老人を誉められて、東の国の国造、くにのみやつこ、とされた。

この歌問答は、後に、連歌のはじめとされる。

だから、連歌の道を、筑波の道、と読んだり、尊を、この道の祖と呼んだりする。

古事記によると、その後、尊は、信濃に入り、その坂の神を言向けて、尾張に戻られた。
そこには、さきに一緒になろうと約束していた、美夜受比売、みやずひめ、がいたのである。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月08日

天皇陛下について108

日本武尊、やまとたけるのみこと、により、世の中は、平らかになった。

第十三代、成務天皇の御代には、山川の形状などから、国や、県、あがたの境を決めて、国造、くにのみやっこ、県主、あがたぬし、を新たに任命し、村には、稲置、いなぎ、を置いて、租税その他の世話をさせた。

中央、地方も、よく治まったのである。
大和朝廷の威光は、益々盛んになる。

ところが、第十四代、仲哀天皇の御代になると、再度、熊襲が背いたのである。

天皇は、日本武尊の、お子さんである。
その血を受けたのか、勇敢であった。

ご自身が、兵を率いて、長門の豊浦の宮に、赴かれたのである。
そこで、準備をして、後に、九州、筑前橿日の宮を本拠とされた。

軍議の際に、熊襲の反乱には、後押しがあるのではないかという疑問が出た。

第十代祟神天皇の時代に、遡る。
その65年、前33年である。

日本書紀には、
任那、ソナカシチを遣して始めて朝貢す
とある。
つまり、すでに対外関係があったのである。

任那とは、朝鮮半島の南部にあった、小国である。
その東北には、新羅という国があり、任那は、新羅のために、いつも侵略されていた。
そこで、日本に助けを求めたのである。

日本に使者を送り、我が国を助けていただきたいと、保護、援助を求めた。
それを聞いて、日本は、出来る限りのことを、調べて、いかにも、新羅は、無理、非道があると、知る。

そこで、祟神天皇は、塩乗津彦という将軍を派遣して、任那を援助した。
そこから、任那には、日本の府が置かれたといわれている。
日本府である。しかし、実際は、神功皇后の新羅征伐の後らしいのである。

ところが、垂仁朝の初期に、新羅から、王子の天日槍が来朝し、帰化したという。
彼の妻は、日本人で、妻の帰国を追って、日本へやってきたのである。

遠い昔から、朝鮮半島とは、関係が始まっていたと、考えられるのだ。

神功皇后の新羅征伐の直接の原因は、新羅の大臣である、干老が、我が国の、天皇を屈辱したこと、その妻の、策謀であったという。

干老は、日本の使者に対して、いずれ近いうちに、日本の天皇を、わが新羅の塩焼き人足とし、皇后は、飯炊き女として使ってやる・・・

そこで、ただちに、派兵し、干老を捕まえて、薪を積み上げて、その上で焼き殺したのである。

そして、干老の遺骨を埋葬した。
その場所を知りたがったのが、その妻である。
日本の役人に、言葉巧みに近づき、
埋葬場所を教えてくれれば、あなたを、この国の、高官にし、私もあなたのものになりますと、言う。

そこで、埋葬場所を教えてしまった。
目的を達した、妻は、その役人を殺してしまう。

この、二つの事件が、新羅征伐になってゆく。

しかし、本来の原因は、日本と仲の良かった任那が、新羅に圧迫、苦しめていたことである。

その災いの根を絶ち、大陸の輸入ルートである、百済との交通、連絡を確保する目的もあった。

結果、新羅を征伐し、任那の関係は、いよいよ密接になり、百済にも、朝貢の礼を取らせるに至っている。

この百済の北には、高句麗があり、これが絶えず、南下の動きを示していた。
そこで、百済は、日本との連合を図ったのである。

日本と半島の、小国任那や、百済との関係は、隣国からの、脅威を受けたために、日本が義侠心を持って、救援軍を送ったことから、始まっているのだ。

百済からの貢物は、そういう縁による。

仲哀天皇は、九州に入られて、まもなく、お隠れになった。
ゆえに、一切の仕事は、皇后か指揮されることとなったのである。

その時、皇后のお腹には、第十五代、応神天皇が宿られていた。
それゆえ、皇后自ら、朝鮮半島への遠征はなく、九州に於いて、指揮されたと、思われるのである。

この、神功皇后を、古代の卑弥呼と重ねて、史実を作り上げようとした、跡がある。
だが、時代から見ると、全く、別物である。

ただ、神功皇后は、古代史では、有名な皇后として、知られる。

高句麗は、現在の、北朝鮮一帯に当る。
高句麗は、隋の時代、隋から何度も、攻撃を受けているが、それを跳ね返していた。

任那、新羅、百済は、現在の、韓国の一帯に当る。

史実以前から、半島を通して、日本は、大陸の文化の影響を受けていたと、思われる。
正式に、仏教が伝わる以前に、九州の一部には、仏像があったとも言われる。

福岡県、佐賀県などは、船で半島と行き来できる場所である。

それが、最も顕著になるのは、推古天皇の御代である。
続々と、渡来人が押し寄せていたのである。
それを、差別無く、受け入れていた。


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月20日

天皇陛下につて109

第十五代の、応神天皇(270年から310年)
この天皇は、父を知らない。だが、母は、古代史で有名な、神功皇后である。

その御誕生は、九州の、宇美であった。
ご成人するまで、母皇后が摂政を勤める。

応神天皇の御代、儒教の渡来が注目される。
その16年、285年、百済から、王仁、ワニが来日し、論語十巻と、千字文一巻を携えてきた。

その前年に、百済王が、アチキを日本に派遣し、良馬二匹を応神天皇に献上している。
アチキは、学問に優れていたため、天皇は、皇太子の家庭教師にした。

そして、天皇は、アチキに、
ところで、百済には、アチキ以上の学者もいるのかと、
質問された。

アチキは、即座に、王仁と言うものがいますと、答えた。
このことから、朝廷では、改めて、百済に使いを送り、王仁を招いたのである。

後に、アチキも、王仁も、日本に帰化している。

その他にも、百済からは、機織、裁縫の上手な工女を送ってきた。
更に、鍛冶の職人、酒、醤油を作る者たち。

そして、シナの始皇帝の子孫だという、弓月君、ゆづきのきみ、の来朝、帰化である。
彼は、長いこと、百済に住んでいた。

応神天皇の威徳を慕い、一家一族百二十七県の民を引き連れてきたのである。

彼は、養蚕と紡織の技に優れていた。
そして、波多公、はたのきみ、という、姓を賜わっている。

これを見ていると、当時の大陸、半島は、いつも乱れていたことが解る。
人民の住みにくい風土であった。
それに反して、日本は、平和で安心して住むことが出来たのである。

漢人の、アチノオミという者も、十七県の親類を率いて、来日し、帰化している。

さて、応神天皇の御子、大さきぎの尊と申し上げるのが、第十六代の仁徳天皇である。

皇太子は、うじのわきいらつこ、である。が、彼は、帰化した王仁について、学問されるうちに、大きな疑問を持たれた。
弟の身分で、兄を越えて、天子の位に就くのは・・・との、思いである。

皇太子は、大さきぎの尊の弟だったのである。
これが、応神天皇お隠れの後で、表面化する。

皇太子は、
兄君こそ、ご即位されるべきですと、主張した。
だが、兄は、
父君が決めたことであるから、それを破っては、子の道にもとる
と、譲らないのである。

そのために、天皇の御位が、三年間、空位となった。

兄の尊は、難波に、皇太子は、宇治に、お住まいになった。

ある時、漁師が鮮魚を献上しようとして、宇治に、持参した。
すると、皇太子は、
天皇は私ではない。難波にいらっしゃる、兄君こそ、天皇であらせられる。そちらに届けるように
と、仰せられる。

次に、漁師が、難波へ行くと、
いや、私は、違う。宇治にいらっしゃる方が天皇である。
宇治へ届けよ。

鮮魚が行ったり来たりしているうちに、腐る。
漁師は、泣いてしまったという。

そこで、思い余った皇太子は、自分がこの世にいなければいいのだと、命を縮めてしまうのである。

驚いたのは、兄である。
宇治に掛け付け、皇太子の遺骸にすがり、嘆いた。
ご遺骸を、宇治の山の上に葬られ、難波にお帰りになる。

そして、御位に就かれたのである。

皇居は、高津宮である。
今までは、大和が多かったが、天皇ははじめて、摂津にお移りになられた。

その即位の儀は、実に質素だったという。

住まいも、荒壁のまま、柱にも天井にも、飾り無く、屋根の茅も、そのままで、切り揃えることもしなかった。
それは、庶民の負担を考えられたからである。

ご即位四年の、春二月、天皇は、お側の人々に、仰せられた。
高いところに登って四方を見るが、民の煙が立たない。これは、貧しさのためではないか。都に近いところでも、このようである。遠い国は、もっと酷いのではないか・・・

翌三月、詔、みことのり、が、くだった。
三年間、税金、労役を課すことはしない。

しかし、そのため、御殿は荒れ放題、雨は漏れ、風も容赦なく、御衣、褥を濡らした。星が、屋根の破れから、見えたという。

その三年間に、豊作が続いた。
仁徳天皇は、高台に再び、登られ、民の煙が盛んに見えた。

良かった。私は富んだ。これで大きな心配がなくなった。
と、仰せられると、皇后が、
何を富んだと、仰せられますのか・・・

あの、民の煙である。人々が富んだためである。天子というものは、民をもって、元としなければならぬ。いにしえの聖の君は、一人でも、こごえるものあれば、顧みて、己をせめた。今、仮に、民が貧しいとすれば、それは、私が貧しいと同じである。今、民が豊になった。それは、私が豊になったことと、同じである。

この、お言葉を、後の人が、歌に詠んだ。
高き屋に
のぼりて見れば
煙立つ
民のかまどは
にぎはひにけり

また、民の方は、荒れ放題の、御殿を見て、
これは、申し訳ないこと。皆、豊になりました。税も、労役も、お申し付けください。
と、申し出たが、いやもう少し、もう少しと、それから、三年を経て、やっと、それをお許しになられたのである。

日本書紀に、その時の民の働き振りが出ている。
ここにおいて百姓うながされずして、老を助け幼を携えて、材を運び茅を負ひ、日夜と問はずして力を尽して競い作る


posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

天皇陛下について110

仁徳天皇崩御82年後の第二十二代、清寧天皇、せいねいてんのう、の御代を書く。

西暦480年頃であり、紀元は、すでに千年を超えて、1140年である。

この時、危機が起こった。
皇統、天子さまのお血筋が絶える。
現在も、女性皇室・・・云々などと、天皇家の問題があるが、当時も同じく、世継ぎが無いという、危機であった。

日本民族は、天皇、皇室の存在なくしては、考えられない国である。
そのことを、十分に知る人は少ない。
天皇が無くても、国があるという人もいるだろう。

本当だろうか・・・
権力は、いずれ倒れる。しかし、権威というものは、倒れない。
そして、その権威を重んじる日本民族。いや、先祖たちである。
それが、国を安定させる、智慧だったという。

更に、独裁制ではなく、まず、祖先の気持ちを鑑みて、更に、祖先の御霊をお守りして、その教えを、脈々と続けて行くこと。
合議制、つまり、話し合いの政治である。
そして、どうしても、結論が出ない場合は、そのままにして、時を待つ。
それでも、駄目な時は、天皇の、お言葉に従うという、国である。

天皇の、お言葉を、詔、みことのり、という。

さて、この時期に、播磨の国司の祖である、小楯という人が、朝廷の命を受けて、田税を収めて歩く途中で、赤石の郡の、忍海部細目、おしみべのほそめ、の家に、招かれた。

新築祝いである。

祝宴であり、酒が振舞われた。
歌が出る。

末座に、二人の少年がいた。
兄を、島郎、しまのいらつこ、弟を、丹波小子、たにわのわらわ、である。
二人は、細目家の、使い走り、賎しい火焼童だった。

月が二人を照らした。
小楯は、それを見て、ハッとした。
何か、普通の子とは違う。
たたずまいが、貴人の様子である。

誰か、舞う者はいないか・・・
細目が言った。

郎でも、少子でもいいから、舞え・・・
と、命じる。
二人の間で、兄が、いや、弟がと、やり取りがあった。

人々は、そのやり取りを見て、賎しい火焼きの子にしては、礼儀正しいと、感じた。

実は、この日の昼間、二人で話し合っていた。
私たちは、後胤(天皇の血筋)でありながら、この家の下男となり、馬を飼い、牛を追って年月を過ごした。これは、すべて素性を隠すためである。しかし、あの国司は、立派な方だと思う。素性を明かしてみましょう。

弟の少子の提案である。

兄は驚いた。
まて。今、名を明かしては、父、皇子のように命を奪われることにならないか・・・
父とは、履中天皇の子、市辺押磐皇子、いらべおしはのおうじ、である。

しかし、弟は、剛毅な性格である。
今宵こそ、機会です・・・

兄は、その気持ちに負ける。
そして、それは、お前の使命だと言う。

しかし、そういったが、まず、兄の郎が舞った。
続いて、弟である。

弟、少子は、歌った。
いなむしろ 川添柳 水行けば なびき起きたち その根は失せず
繰り返し舞うのである。

小楯は、更に歌って舞ってみよ、と言う。

もののふの わが夫子が 取りはける 太刀の手上に 丹画きつけ その緒には 赤幡をたち 赤幡立てて 見ればい隠る 山の三尾の 竹をかき刈り 末押しなびかすなす 八弦の琴を調べたる如 天下治めひし いざほわけの 天皇の御子 市辺之押歯王の 奴末と歌い舞う。

意味は、
もののふは、赤旗をなびかせ、太刀を腰にという、勇姿をみて、悪人どもは、皆その威厳に服した。また、竹を切り、それを手に取り、さらさらと、葉末を鳴らすように、国民に号令し、八弦の琴を調べるように、国民の心を一つにまとめた履中天皇の皇子、市辺之押歯王の子である。

小楯は、仰天した。
二人は、履中天皇の御孫であらせられる・・・

ものども どけ どけ
下座に下りて、小楯は二人の元にすがり、大声で泣いたのである。

島郎は、億計王、おけのみこ、丹波少子は、弘計王である。

後に、兄のたっての、提案で、弟君が、第二十三代、顕宗天皇となり、その後が、兄君の、第二十四代、仁賢天皇であらせられる。

現在も、このように、天皇の血筋を持つ、男子を推すとよい。
敗戦後に、皇室から、剥奪された、皇族の中にも、いらっしゃる。

兎に角、皇統を守るという、精神が、日本民族の、宝であり、智慧である。

この、権威が、今年2012年、平成24年で、皇紀、あるいは、紀元2672年である。
堂々たる、歴史である。

posted by 天山 at 05:50| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月22日

天皇陛下について111

仁賢天皇の皇子が、第二十五代の、武烈天皇である。498年から506年。

この天皇にも、お子様がいらっしゃらなかった。
そこで、大伴金村は、皇室の御血統を四方に求めた。

そして、現在の福井、越前から、応神天皇五世の孫である、オオトノミコトをお迎えする。
継体天皇である。507年から531年。

その皇子が、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇である。

第二十九代、欽明天皇の13年、百済の聖明王から、仏教を伝えてきた。
王の使者が、持参したのは、釈迦仏の金銅像一体と、経文である。

手紙が添えられていた。
仏教は、諸法の中でも、最も優れた教えです。遠く天竺から、三韓まで、すべてこれを尊んでいます。謹んで、日本へもお伝えします。

天皇は、大変、喜ばれた。
しかし、それをそのまま受け入れてもいいものかと、群臣を集めて、お尋ねになった。

大臣の蘇我稲目が、
すでに西の諸国が信仰していますなら、わが国だけが信仰してはいけないということは、ありません。
と、言う。

大連、おおむらじ、の、物部尾輿と、中臣鎌子が、
わが国には、昔から、春秋四季に、お祭りしている天地の神々があります。今、外の神を拝むのは・・・
と、反対である。

中臣は、代々、神々を祭る役目であった家系である。

蘇我氏は、竹内宿禰の子孫である。
度々、朝鮮諸国と、交渉の任に当たっていた。

天皇は、
それでは、仏像は、望むものに授けて、お祭りすることにしょう。
と、稲目に、賜わった。

稲目は、家に安置して、礼拝した。
やがて、向原の家を寺として、そこに移す。

ところが、まもなく、国内に伝染病が流行し、死者が次々と出た。
尾輿と、鎌子は、それは、仏像のせいであると、天皇に申し上げた。

日増しに、死者が出ているゆえ、天皇も、その意見を聞き入れた。

仏像は、難波の堀江に投棄し、寺は、灰になった。

ここから、蘇我、物部の不和、対立が、決定的になっていったのである。

それから、18年後、稲目が、死んだ。

その間に、仏教の伝来の前年に、百済の聖明王は、高麗、高句麗を討ち、漢城の地を得て、更に、平壌を討ち、六郡の地を取り返していた。

だが、仏教伝来の夏に、百済は、日本に、援軍を求めてきた。
高麗と新羅が連合して、百済と任那に大攻撃をかけて、滅ぼそうとしているというのである。

百済の失地回復が、新羅の攻撃で白紙になった。

更に、聖明王の子が、翌年の春に、日本に仇を捕って欲しいと、言ってきたのである。

だが、それから、七年目の欽明天皇32年1月、任那の日本府も、新羅によって、亡ぶ。

その六月、無法であるとして、新羅征伐の詔、みことのり、が下る。
七月、日本府の回復のために、紀男麻呂を主将とし、カワベノニベを副将として、新羅に派遣される。

ところが、カワベは、主将の命令を聞かず、勝手に兵を進めたために、勝ち戦だったが、破れたのである。

蘇我稲目が、死んで、二年目、第三十代敏達天皇が即位された。572年から585年。

その年、大臣になったのが、稲目の子である、蘇我馬子である。
最高位の大連には、物部守屋である。

馬子は、仏像が欲しかった。
ある年、百済に向かった使者が、一体の仏像を持参して、帰国した。

馬子は、それを譲り受けて、寺を建て、高麗の僧、慧便を招いて、三人の女を尼として、礼拝させた。

すると、また、伝染病の流行である。死者も続出した。

またも、守屋と、鎌子の子の、勝海と、朝廷へ申し出る。
二代も続き、悪い病が流行し、多くの人が死んでいます。これは、蘇我氏が仏法を信じているからではありませんか。

それでは、と、朝廷は、詔を下した。
仏教を禁じたのである。

守屋が、先頭に立ち、寺を焼き、仏像を捨て、愚か者の馬子と、辱めたのである。

馬子の恨みは、強いものだった。

まもなく、天皇も、伝染病にかかられた。
そして、馬子もである。
天然痘と言われている。

馬子は、天皇に申し出た。
私の病は、仏の力に頼らなければ、治りません。どうか、仏を・・・

天皇は、
それでは、お前一人で、仏法を行うことである。
と、仰せられた。

まもなく、馬子は、回復し、天皇は、その後二ヶ月ほどで、お隠れになった。

敏達天皇14年8月15日である。


posted by 天山 at 05:35| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。