2012年08月21日

もののあわれについて575

初音

年たちかへるあしたの空のけしき、名残りなく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根のうちだに、雪間の草若やかに色づきはじめ、いつしかとけしきだつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづから人の心ものびやかにぞ見ゆるかし。ましていとど玉を敷けるお前は、庭よりはじめ見どころ多く、みがきまし給へる御方々のありさま、まねびたてむも言の葉たるまじくなむ。




年の改まる、元旦の朝の空模様は、一点の曇りなく、うららかゆえ、つまらない家でさえ、雪の消え間に、草が生き生きと、緑の色を見せ始め、待ちかねて、春らしく立つ霞に、木の芽も、萌え出て、それにつれて、人の気持ちも、のんびりとした感じがするのである。まして、玉を敷き並べ、美しく磨いた、六条の院では、庭をはじめ、見ごたえが多く、普段よりも、一層美しく飾り立てた、婦人方の住まいの有様は、言葉にしようと思っても、言葉が足りないほどである。

六条の院の新春である。

年たちかへる
拾遺集 素性法師 
あらたまの 年たちかへる あしたより 待たるるものは うぐひすの声




春のおとどのお前、とり分きて、梅の香も御簾のうちのにほひに吹きまがひて、生ける仏の御国とおぼゆ。さすがにうちとけて、安らかに住みなし給へり。侍ふ人々も、若やかにすぐれたるを、姫君の御方に、と、選らせ給ひて、少し大人びたる限り、なかなかよしよししく、装束有様よりはじめて、めやすくもてつけて、ここかしこに群れいつつ、歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて、千年の蔭にしるき年のうちの祝ひごとどもして、そぼれあへるに、大臣の君、さしのぞき給へれば、懐手ひきなほしつつ、いとはしたなきわざかな、と、侘びあへり。




春の御殿の、お庭は、特別で、梅の香りも、御簾の中の薫物の香りと、取り違えるほど、風に吹き、この世での、浄土と思えるのである。やはり、他の方々と違い、ゆったりと、気楽になさっている。お仕えする女房たちも、若々しく、優れている者を、姫君付きとして選び、上の所には、少し年配の女房ばかりでも、かえって風情があり、衣装の様子など、体裁よく取り繕って、あちこちに群がり、歯固めの祝いをし、鏡餅まで取り寄せて、千年の長寿は、明らかながら、この一年の無事を願う祝いごとなど言い、ふざけあっている所へ、大臣の君が、覗かれたので、懐手を抜き、居ずまいを正して、行儀の悪いことと、きわり悪い思いである。




源氏「いとしたたかなる、みづからの祝ひごとどもかな。皆おのおの思ふことの道々あらむかし。少し聞かせよや。われことぶきせむ」とうち笑ひ給へる御有様を、年のはじめの栄えに、見奉る。われはと思ひあがれる中将の君ぞ、「「かねてぞ見ゆる」などこそ、鏡の影にも語らひ侍りつれ。わたくしの祈りは、何ばかりの事をか」など、聞ゆ。




源氏は、これは、大した、めいめいの祝い事だ。一同、それぞれ、願いの筋があるだろう。少し聞かせよ。私が、お前たちのために、祝ってあげようと、笑う様子は、新年の光栄と拝する。女房の中で、我こそはと、うぬぼれている中将の君が、「かねてぞ身ゆる」と鏡餅にも話しかけておりました。自分の祈りは、何ほどにいたしましょう、などと、申し上げる。

かねてぞ見ゆる
古今集
大伴黒主
近江のや 鏡の山を 立てたれば かねてぞ見ゆる 君が千年は

鏡の山を立てて、見れば、君の千年、ちとせ、先が見える。
教養をひけらかす、女房である。




あしたの程は、人々参りこみて、もの騒がしかりけるを、夕つ方、御方々の参座し給はむとて、心ことにひきつくろひ、化粧じ給ふ御影こそ、げに見るかひあめれ。源氏「けさ、この人々のたはぶれ交しつる、いと羨ましく見えつるを、上にはわれ見せ奉らむ」とて、乱れたること少しうちまぜつつ、祝ひ聞え給ふ。

上、とは、紫の上のこと。




朝の間は、年賀の人々が、たてこんで、騒々しいが、夕方、殿様は、婦人たちへの年賀の挨拶に、お出かけになろうとして、念入りに装束を整え、お化粧をされた、その姿は、本当に見飽きないほどである。源氏は、今朝、こちらの女房たちが、ふざけあっていたのを、羨ましく思いましたが、上には、私が、鏡餅を見せましょうと、おっしゃり、みだらな事を少し取り混ぜて、お祝いを申し上げる。




源氏
うす氷 とけぬる池の 鏡には 世にたぐひなき かげぞならべる

げにめでたき御あはひどもなり。


曇りなき 池の鏡に よろづ代を すむべきかげぞ しるく見えける

何事につけても、末遠き御契りを、あらまほしく聞え交し給ふ。今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。




源氏
春が来て、薄氷も解けて、鏡のように澄んでいる、池の面に、世の中に、またとない幸せな私たちの姿が、並んで映ります。

全く、その通りである。結構な夫婦仲である。


一点の曇りもない、鏡のような池の面に、いつまでも、変わらず、住んでゆく私たちの、影が、はっきりと映ります。

何事につけても、末永い夫婦の契りを、言いようもないほどに、語り合う今日は、子の日である。千年の長寿を祝うに、相応しい日だ。




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2012年08月22日

もののあわれについて576

姫君の御方に渡り給へれば、わらは、しもづかへなど、お前の山の小松、引き遊ぶ。若き人々のここちども、おきどころなく見ゆ。北のおとどより、わざとがましく集めたるひげこども、わりごなど奉れ給へり。えならぬ五葉の枝に、うつるうぐひすも、思ふ心あらむかし。




明石の姫君の所へ、おいでになると、女の童や下女などが、庭の築山の小松を引いて、遊んでいる。若い女房たちの気持ちは、じっとしていられない程のようだ。北の御殿、明石の御方から、わざわざ苦心して集めたらしい、竹の篭や、折箱などを差し上げなされた。何とも言いようの無い、良い形の五葉の松の枝に、留まる鶯も、若い女房と同じ心であろう。




明石
年月を まつにひかれて 経る人に けふうぐひすの 初音きかせよ

音せぬ里の」と、聞え給へるを、げにあはれと思し知る。こといみも、えし給はぬけしきなり。源氏「この御返りは、みづから聞え給へ。初音惜しみ給ふべき方もあらずかし」とて御すずり取りまかなひ、書かせ奉らせ給ふ。いとうつくしげにて、明け暮れ見奉る人だに、飽かず思ひ聞ゆる御有様を、今までおぼつかなき年月の隔たりけるも、罪えがましく、心苦し、と思す。

姫君
ひき別れ 年は経れども うぐひすの 巣立ちし松の 根を忘れめや

幼き御心にまかせて、くだくだしくぞある。




明石
長い年月、小松の成長を待ち続けて過ごした私に、今日は、初音を、お聞かせください。
鶯の声も聞えない所です、と、書いてよこしたものを、殿様は、いかにも、かわいそうに、と、思う。
元旦に、縁起でもなく、涙がこぼれそうになった。源氏は、このご返事は、ご自分で差し上げなさい。あなたが、初音を惜しむべき人ではないのですよ、と、硯の用意をして、お書かせになる。姫の様子は、とても可愛く、昼も夜も、始終拝している人でさえ、見飽きないと思う姿を、今日まで、逢わせないでいた、年月の長さも、罪なことをしたと思い、気の毒だと、思うのである。

姫君
お別れして、年は経ちましたけれど、鶯は、私は、巣立ちした松の根を、母君を忘れましょうか。
子供心に、ごたごたしています。

最後は、作者の言葉。

小松、とは、姫君のことであり、姫君の歌の鶯は、自分のことを言う。

姫君は、紫の上に、育てられているのである。




夏の御すまひを見給へば、時ならぬけにや、いと静かに見えて、わざと好ましきこともなく、あてやかに住みなし給へるけはひ見えわたる。年月にそへて、御心の隔てもなく、あはれなる御なからひなり。今はあながちに近やかなる御有様ももてなし聞え給はざりけり。いとむつまじくありがたからむいもせの契りばかり、聞え交し給ふ。




夏の御殿を御覧になると、季節はずれのせいか、たいそう静かな感じで、ことさらに、風流に見せることもなく、品よく、暮らしておられる様子が、どこにも、見えている。年月の経つにつれて、お互いに、隠し立てなどせず、心打つ、お二方の間である。
もう今は、共寝することもない。大変仲良く、他にはないような、信頼の言葉を語り合うのである。

花散里の新春である。

あはれなる御なからひなり
人と人の、関係にも、あはれ、なる様子がある。
つまり、多くを語らずとも、感じあう間である。
あらゆる事物に関しての、心象風景だけではなく、心のあり様までも、あはれ、の一言により、表現するという、あはれ、の進化である。




御凡帳隔てたれど、少し押しやり給へば、またさておはす。はなだけばににほひ多からぬあはひにて、御髪なども、いたく盛り過ぎにけり。やさしき方にあらねど、えびかづらしてぞ繕ひ給ふべき。「われならざらむ人は、見ざめしぬべき御有様を、かくて見るこそ、うれしくほいあれ。心かろき人のつらにて、われに背き給ひなましかば」など、御対面の折々には、先づわが御心の長さをも、人の御心の重きをも、うれしく、思ふやうなり、と思しけり。こまやかに、ふる年の御物語など、なつかしう聞え給ひて、西の対へ渡り給ふ。




御凡帳を間に置いてあるが、少し動かし、そのままで、座っていらっしゃる。肌色のお召し物は、全く、美しさを引き立たせない色で、御髪も、大分少なくなっている。恥ずかしいほどではないが、かもじでも使い、お手入れされたほうが、いいのにと、私でなければ、愛想尽かしをするに違いない様子だが、このように世話をするのは、嬉しく本望である。もし、花散里が、心の変わりやすい女の一人で、自分から離れてしまったら、などと、お会いする時は、何よりも先に、ご自分の気の長さや、この人の性質の重々しさも、嬉しく、理想通りだと、思うのである。
心をこめて、旧年のお話しなどを、やさしくされて、西の対へ、お渡りになるのである。

かもじ、とは、現在のピアスに似たもの。耳飾など。

この、源氏の、心映えに対して、評価が高い。
一度、縁を結んだ女に対する、思いを、持続して、それなりに、付き合いを続け、更に、生活の世話をするという。


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2012年08月23日

もののあわれについて577

まだいたくも住み慣れ給はぬ程よりは、けはひをかしくしなして、をかしげなる童の姿なまめかしく、人かげあまたして、御しつらひ、あるべき限りなれども、こまやかなる御調度は、いとしも整へ給はぬを、さる方にもの清げに住みなし給へり。正身も、「あなをかしげ」と、ふと見えて、山吹にもてはやし給へる御かたちなど、いとはなやかに、ここぞ曇れる、と見ゆる所なく、くまなくにほひきらきらしく、見まほしき様ぞし給へる。もの思ひに沈み給へる程のしわざにや、髪の裾少し細りて、さはらかにかかれるしも、いともの清げに、ここかしこいとけざやかなる様し給へるを、「かくて見ざらましかば」と思ほすにつけては、うしも見過ぐし給ふまじくや。




まだ、住み慣れた様子ではないが、お部屋の感じを趣味よくされて、可愛い女の童の姿も、美しく、女房の数も多く見える。部屋の設備も必要なだけはあるが、細々した、身の回りの品々は、充分に揃っていない。それでも、それなりに整って、住んでいる。本人も、ああ美しい、と、見た途端に思えて、山吹の装束で、一段と引き立って見えるお姿など、とても華やかで、ここが暗いと思われる所などなく、隅から隅まで、美しくきらびやかで、いつまでも、見ていたい様子である。辛い思いの生活をしていたせいか、髪の裾が少し少なくて、さらりと、衣装の裾にかかっている。それが、大変こざっぱりとして、あちらこちらが、くっきりと鮮やかな様子であるのを、こうして手許に引き取らなかったら、と、思う。どうして、このままにしておられようか。と、源氏は、見ている。

玉葛の部屋に、伺う源氏である。

きらきらしく
視覚的な美しさであり、派手やかな様子である。




かくいと隔てなく見奉りなれ給へど、なほ思ふに、隔たり多くあやしきが、うつつのここちもし給はねば、まほならずもてなし給へるも、いとをかし。源氏「年頃になりぬるここちして、見奉るも心安く、本意かなひぬるを、つつみなくもてなし給ひて、あなたなどにも渡り給へかし。いはけなきうひごとならふ人もあめるを、もろともに聞きならし給へ。うしろめたく、あはつけき心もたる人なき所なり」と聞え給へば、玉葛「宣はせむままにこそは」と聞え給ふ。さもあることぞかし。




このように、直に、始終お会いしているが、それでも、考えてみると、打ち解けられず、おかしな感じで、夢を見ているような気もする。お任せして、打ち解けない様子だが、男の気をそそるのである。源氏は、もう長年になるような気がして、お目にかかっても、気楽で、思い通りになったのですから、遠慮しないで、あちらの方などへも、お出かけなさい。初めての手ほどきを受けている者もいますから、一緒に稽古をするといい。気の許せない、おしゃべりは、しませんよ、と、申し上げる。玉葛は、仰せの通りにいたします、と、申し上げる。適当な返事です。

最後は、作者の言葉。

明石の姫君が、琴の手ほどきを受けている。そこに、いらっしゃいと、誘うのである。

まほならず もてなし 給へるも
源氏を警戒して、中々、打ち解けない様子である。

いとをかし
面白いという意味だが、男女の仲では、気をそそる意味にもなる。

あはつけき心もたる人なき所
ペラペラと、余計なことを、口にする人ではないという意味。
紫の上を言う。




暮れ方になる程に、明石の御方に渡り給ふ。近き渡殿の戸おしあくるより、御簾のうちのおひ風、なまめかしく吹きにほはして、物より殊にけだかく思さる。正身は見えず。いづらと見まはし給ふに、硯のあたりにぎははしく、冊子ども取り散らしたるを、取りつつ見給ふ。唐の東京錦の、ことごとしき縁さしたるしとねに、をかしげなる琴うち置き、わざとめきよしある火桶に、侍従をくゆらかして、物ごとにしめたるに、衣被香の香のまがへる、いとえんなり。




日暮れになる頃に、明石の御方の所においでになる。その御殿に近い、渡り廊下の戸を押して開けると、御簾の中から、焚き染めた香を吹き送る風が、素晴らしく、匂いを吹き漂わせるので、何よりもすぐれて、気品が高いと思う。肝心の、本人の姿が、見当たらない。どこかと、辺りを見回すと、硯の周囲が賑やかで、冊子ななどが、取り散らかしてあるのを、一つ一つ、手に取り挙げて、御覧になる。舶来の東京錦に、仰々しく縁取りをした、褥に、美しい琴を置き、意匠をこらした風流な火鉢に、侍従番をくゆらせて、あらゆるものを、焚き染めてあるのに、えび香の香りが混じっているのは、実に、あでやかな趣である。

東京錦、とは、唐の洛陽のことである。




手習ひどもの乱れうちとけたるも、筋かはり、ゆえある書きざまなり。ことこどしう草がちなどにもざえがらず、めやすく書きすましたり。小松の御返りを、めづらしと見けるままに、あはれなる故事ども書きまぜて、

明石
めづらしや 花のねぐらに 木づたひて 谷のふる巣を とへる鶯

「声待ち出でたる」などもあり。「咲ける岡辺に家しあれば」など、ひき返しなぐさめたる筋など書きまぜつつあるを、取りて見給ひつつほほえみ給へる、はづかしげなり。



手習いした、紙が無造作に置いてあるのも、手の筋が変わっていて、趣ある書き振りである。大仰に草体を多く使うなどして、気取ることもなく、程よく、落ち着いた書き振りである。姫君からの、小松の歌のご返事を、珍しいと見ていたついでに、心うつ古歌などを書き込んで、

明石
珍しいことです。美しい住処に住んでいて、谷間の古巣を訪ねる、鶯です。
待っていた、その声、などとある。花の咲く岡近くに、家もあることだから、など、気を取りなおして、わが身を慰めた意味の歌など、書き込んであるのを、手に取り、御覧になって微笑むのは、恐れ入るほどの、美しさである。

あはれなる故事ども
心うつ歌・・・身に沁みる歌である。
古今
梅の花 咲ける岡辺に 家しあれば ともしくもあらず 鶯のこえ

それを見ている、源氏の姿が、恐れ入るほど、美しいというのである。


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2012年08月24日

もののあわれについて578

筆さしぬらして書きすさみ給ふ程に、いざり出でて、さすがに自らのもてなしは、かしこまりおきて、めやすき用意なるを、なほ人よりは異なり、と思す。白きに、けざやかなる髪のかかりの、すこしさはらかなる程に薄らぎにけるも、いとどなまめかしさ添ひて、なつかしければ、新しき年の御さわがれもや、とつつましけれど、こなたにとまり給ひぬ。なほおぼえ異なりかし、と方々に心おきて思す。南のおとどには、ましてめざましがる人々あり。




筆をしめして、戯れ書きをされているところに、明石がにじり出て、それでも態度は、慎み深く、程よい心がけである。源氏は、矢張り他の人と違う、と思う、白い装束に、くっきりとかかる髪の具合が、はらりとするほど、少なくなっているのも、一層、優美があり、惹き付けられる。新年そうそう、騒がれることか、と、遠慮されるが、明石の所に、お泊りになった。矢張り、明石への愛情は、違うのだと、源氏は、方々の婦人を気にしている。紫の上の御殿では、一層、酷いことと思う女房達がいた。

御さわがれもや
紫の上の嫉妬を考えたのである。




まだ曙の程に渡り給ひぬ。かくしもあるまじき夜深さぞかし、と思ふに、なごりもただならずあはれに思ふ。待ちとり給へる、はた、なまけやしと思すべかめる心の中、はかられ給ひて、源氏「あやしき仮寝をして、若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかし給はで」と、御気色とり給ふもをかしく見ゆ。ことなる御答もなければ、わづらはしくて、空寝をしつつ、日高く大殿籠りおきたり。




まだ、薄明るい頃に、お戻りになった。明石は、こんなに暗いうちでなくとも、と思うと、送り出した後、無性に寂しい気がする。待ちうけたほうでも、これまた、面白くない様子、と思うはずの気持ちが察せられて、源氏は、とんだうたた寝をして、子供のように、眠りこけたのを、起こしても下さらず、と、紫の上に、ご機嫌を取るのも、面白いことだ。特に、返事もないので、面倒なことになったと、たぬき寝入りをして、日が高くなってから、起きられた。

なごりもただならず あはれに 思ふ
名残も、そくそくとして、何か物足りない気持ちが、あはれ、なのである。




今日は臨時客の事に紛らはしてぞ、おもがくし給ふ。上達部親王達など、例の、残るなく参り給へり。御遊びありて、引出物、禄など二なし。そこらつどひ給へるが、われも劣らじともてなし給へる中にも、すこしなずらひなるだに見え給はぬものかな。とり放ちては、有職多くものし給ふ頃なれど、御前にてはけおされ給ふ、わろしかし。何の数ならぬ下部どもなどだに、この院に参るには、心づかひことなりけり。まして若やかなる上達部などは、思ふ心などものし給ひて、すずろに心懸想し給ひつつ、常の年よりも異なり。花の香さそふ夕風、のどかにうち吹きたるに、御前の梅やうやうひもときて、あれはたれ時なるに、物のしらべども面白く、「この殿」うち出でたる手拍子、いとはなやかなり。大臣も時々声うち添へ給へる福草の末つ方、いとなつかしうめでたく聞ゆ。何事も、さしいらへし給ふ御光にはやされて、色をも音をもますけぢめ、ことになむ分れける。




今日は、臨時の客にかこつけて、顔をお見せにならない。上達部や、親王達などが、いつものように、残らず、おいでになった。管弦の御遊びがあり、お客への引出物や、禄など、よそにないほどである。数多く集まる方々が、人に負けぬようにと、振舞っている様子で、すこし肩を並べられそうな人にさえ、そのように見えない。一人一人、別に見れば、才学ある方が、沢山いる当時だが、殿様の御前では、圧倒されてしまうのは、困ったことです。人並みでもない下人どもでさえ、この六条の院に伺う時には、気の配りようが、格別である。まして、若々しい上達部などは、心に思うところあり、何となく、緊張して、いつもの年とは、違っている。
花の香りを引き出すような、夕風が、のどやかに吹いて、庭の前の梅の花も、次第にほころび始め、夕暮れ時、管弦の合奏が面白く、この殿、と謡い出した拍子は、とても派手な感じだ。大臣も、時折、声を添えて、福草の終わりの部分は、大変優しく、立派に聞える。何もかも、少し、相槌を打たれると、そのお蔭で、色も音も、勝るけじめが、はっきりと見えるのである。

顔を見せないのは、紫の上に、源氏が、である。
昨夜のこともあり・・・

思ふ心などものし給ふ
上達部は、玉葛に、思いを寄せているのである。

すずろに心懸想し給ひつつ
何となく、緊張しているのである。

この殿、とは、催馬楽の歌詞である。

平安宮廷の雅の様である。




かくののしる馬車の音をも、物隔てて聞き給ふ御方方は、蓮の中の世界にまだ開けざらむ心地もかくや、と心やましげなり。まして東の院に、離れ給へる御方々は、年月に添へて、つれづれの数のみまされど、世のうきめ見えぬ山路に思ひなずらへて、つれなき人の御心をば、何とかは見奉りとがめむ、その外の心もとなく寂しきこと、はたなければ、行ひの方の人は、そのまぎれなく勤め、仮名のよろづの冊子の学問、心に入れ給はむ人は、またその願ひに従ひ、ものまめやかにはかばかしき掟にも、ただ心の願ひに従ひたる住ひなり。




このように、騒がしい、馬や牛車の音をも、直に聞き慣れない御婦人方は、極楽で蓮の花が開かないでいる時の気持ちが、こういうものかと、気が晴れないようである。更に、二条の東の院に離れて住む方々は、年月の経つにつれて、所在ない事ばかり多くなってゆくのだが、憂き世の辛さのない山に逃れたつもりで、冷たい人の心を、何といって、咎めることがあろうかと。そのこと以外に、心配で、寂しいことは別に無いゆえ、仏道に志す空蝉は、気を散らさずに勤行し、仮名書の色々な書物の学問に、熱心な末摘花は、希望通りにされて、実生活の決まりも、婦人方の希望通りの生活をしている。

空蝉、末摘花のことなど、主語がないので、戸惑う。
これを知るには、研究家たちの、努力の甲斐あってのもの。

世のうきめ見えぬ山路・・・
古今
世のうきめ 見えぬ山路へ 入らむには 思ふ人こそ ほだしなりけれ

はかばかしき掟
色々と細かな、決まりごとである。

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2012年08月25日

もののあわれについて579

さわがしき日頃過ぐして渡り給へり。常陸の宮の御方は、人の程あれば、心苦しく思して、人目のかざりばかりは、いとよくもてなし聞え給ふ。いにしへ盛りと見えし御若髪も、年頃に衰へゆき、まして滝の淀み恥づかしげなる御かたはらめなどを、いとほしと思せば、まほにも向ひ給はず。柳はげにこそすさまじかりけれ、と見ゆるも、着なし給へる人がらなるべし。光もなく黒きかいねりの、さいざいしく張りたる一襲、さる織物のうちぎを着給へる、寒げに心苦し。かさねのうちぎなどは、いかにしなしたるにかあらむ。御鼻の色ばかり、霞にも紛るまじくはなやかなるに、御心にもあらずうち嘆かれ給ひて、ことさらに御凡帳引き繕ひ隔て給ふ。なかなか女はさしも思したらず、今はかくあはれに長き御心の程を隠しきものに、うちとけ頼み聞え給へる御様あはれなり。かかる方にも、おしなべての人ならず、いとほしく悲しき人の御さまと思せば、あはれに、われだにこそは、と、御心とどめ給へるも、あり難きぞかし。




忙しい、幾日かを過ごして、東の院に、お出でになった。常陸の宮の姫君、つまり、末摘花の所は、身分があるので、気の毒に思いになり、人前の体裁だけは、とても行き届いた扱いである。昔は、豊に見えた若い盛りの黒髪も、年とともに、少なくなり、まして、滝の水にも負けない、白髪まじりの横顔など、かわいそうに、と思うので、真正面から向き合うこともしない。贈った柳の装束は、全く面白みのないものと、思えるものを、お召しになるのは、人柄ゆえだろう。光沢なく、黒ずんだかいねり絹の、さわさわ音がするほど、張った一襲の上に、このような織物の、うちぎを着ているのは、寒そうで、気の毒である。重ねる、うちぎなどは、一体、どうしてしまったのか。鼻の色だけは、霞に隠れそうになく、はっきりとしているので、心にもなく、ため息をついて、わざわざ、御凡帳を置いて、隔てをおいている。かえって、女の方は、それ程と思っていないのか、今は、こうした情けのこもる変わらない心の程を、心安いものと、気を許して、頼りにされている様子は、心が打たれる。このような生活でも、人並みではなく、気の毒で、悲しい境遇だと思うと、可哀相で、せめて、私だけでも、と、心にかけているのも、世間には、珍しいことである。

今はかくあはれに
御様あはれなり
あはれに
源氏は、末摘花をあはれと思うが、本人は、気づかないでいる。

年を取り、あはれ。
その様、あはれ。
そして、源氏が、あはれ、と思う。

あはれ、という言葉が、三度も、使われている。

源氏が、その、あはれ、に、ため息をつくが・・・
女はさしも思したらず
女は、何とも思っていないのである。

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2012年09月19日

もののあわれについて580

御声もいと寒げに、打ちわななきつつ語ら聞え給ふ。見わづらひ給ひて、源氏「御衣ものなど、後見聞ゆる人は侍りや。かく心やすき御住ひは、ただいとうちとけたるさまに、ふくみなえたるこそよけれ。えはべばかり繕ひたる御装は、あいなく」など聞え給へば、こちごちしくさすがに笑ひ給ひて、末摘花「醍醐のあざりの君の御あつかひし侍るとて、衣どもえ縫ひ侍らでなむ。かはぎぬをさへとられにし後、寒く侍る」と聞え給ふは、いと鼻赤き御兄なりけり。




お声も寒そうで、ぶるぶると震えながら、お話しする。見かねて、源氏は、お召し物のことなど、お世話する者は、おりますか。このような気楽なお住まいでは、ひたすらくつろいだ格好で、ふっくらした、柔らかいものがいいのです。表面だけをつくろった身なりは、感心しませんよ、などと、おっしゃると、ぎこちなく笑い、末摘花は、醍醐のあじゃりの君のお世話をいたしますので、自分の着る物も、賄いません。かわぎぬ、まで取られてからは、寒くしています。と、申し上げる。それは、赤い鼻の兄君のこと。

醍醐に、末摘花の、兄がいるというのが、解る。
あじゃり、とは、僧職の位である。




心うつくしといひながら、あまりうちとけ過ぎたりと思せど、ここにてはいとまめやかにきすぐの人にておはす。源氏「かはぎぬはいとよし。山伏の蓑代衣にゆづり給ひてあへなむ。さて、このいたはりなき白妙の衣は、七重にもなどか重ね給はざらむ。さるべき折々は、うち忘れたらむことも驚かし給へかし。もとよりおれおれしく、たゆき心のおこたりに、まして方々の紛らはしききほひにも、自らなむ」と宣ひて、向ひの院の御倉あけさせて、絹綾など奉らせ給ふ。荒れたる所もなけれど、住み給はぬ所のけはひは静かにて、御前の木立ばかりぞいと面白く、紅梅の咲き出でたるにほひなど、見はやす人もなきを見渡し給ひて、

源氏
ふるさとの 春の木末に たづね来て 世のつねなら 花を見るかな

ひとりごち給へど、聞き知り給はざりけむかし。




心美しい、素直だというものの、これでは、あまりに構わな過ぎる、と思われるが、ここでは彼女は、実直で、無風流な人になっている。源氏は、かわぎぬ、は、そうされてもいいです。山法師の蓑代わりの合羽に、お譲りされてもいいでしょう。それはそれとして、惜しげの無い、白地の着物は、七枚でもよいのに、どうして、重ね着されないのですか。欲しい物がある時は、私の忘れていることでも、おっしゃってください。もともと、愚かで、心の動きの鈍い怠け者、その上、公私共に、雑用が続いて、ついつい、このようになってしまいます。と、おっしゃり、向かい側の院の倉を開けさせ、絹や綾などを差し上げる。荒れている所はないが、殿様が住みにならない所だけに、辺りも閑静で、庭の植木だけが、見所があり、紅梅の咲き始めた匂いなど、誰も、賞賛する人もいないのを、眺めて、

源氏
昔住んでいた里の、春の木の枝を訪ねて来て、世にも珍しい花を見たことだ。

と、独り言を言うが、姫君は、気づかないのである。

ここにては いと まめにきすぐの人にて おはす
他の人なら、冗談を言う、皮肉を言える、笑うこともできるが、末摘花では、さすがの源氏も、そのようにはいかないのである。

源氏の、独り言の歌の意味も、解さないであろう、姫君である。

珍しい花は、彼女の、赤い鼻を、かけている。

赤鼻の、末摘花・・・なんとも、登場人物としては、面白い存在である。




空蝉の尼衣にも、さしのぞき給へり。うけばりたる様にはあらず、かごやかに局住みにしなして、仏ばかりに所えさせ奉りて、行ひ勤めけるさまあはれに見えて、経、仏の飾り、はかなくしたるアカの具なども、をかしげになまめかしく、なほ心ばせありと見ゆる人のけはひなり。




空蝉の尼君の所へも、顔を出した。大層な様子ではなく、こじんまりとした小部屋を造り、住んでいる。仏様には、広い場所を差し上げて、勤行している様子が、胸にこたえて、経典や、仏様の装飾など、ちょっとした水入れの道具なども、趣味が見え、優美で、矢張り、気が利いていると思われる、人柄である。

うけばりたる様
得意げになること。
でも、空蝉は、それには、あらず・・・




青鈍の凡帳、心ばへをかしきに、いたく居隠れて、袖口ばかりぞ色異なるしも、なつかしければ、涙ぐみ給ひて、源氏「松が浦島を遥かに思ひてぞ、やみふべかりける。昔より心憂かりける御契かな。さすがにかばかりの睦びは、絶ゆまじかりけるよ」など宣ふ。尼君ももののあはれなるけはひにて、空蝉「かかる方に頼み聞えさするしもなむ、浅くはあらず思う給へ知られ侍りける」と聞ゆ。源氏「つらき折々重ねて、心惑はし給ひし世の報いなどを、仏にかしこまり聞ゆるこそ苦しけれ。思し知るや。かくいとすなほにしもあらぬものを、と思ひ合せ給ふ事も、あらじやはとなむ思ふ。と宣ふ。かのあさましかりし世の故事を、聞き置き給へるなめりと恥づかしく、空蝉「かかる有様を御覧じはてらるるより外の報いは、何処にか侍らむ」とて、まことにうち泣きぬ。いにしへよりも、もの深く恥づかしげさまさりて、かくもて離れたること、と思すしも、見放ち難く思さるれど、はかなきことを宣ひかくべくもあらず、大方の昔の物語をし給ひて、かばかりのいふかひだにあれかし、と、あなたを見やり給ふ。




青にび色の凡帳の、様子も面白いが、すっかりと体を隠して、座っている。袖口だけは、色が変わっているのも、女らしい感じがするので、涙ぐみ、源氏は、松が浦島は、遠くから思っているだけにして、来ないでおくべきでした。昔から、辛い御縁でした。と、言っても、この程度のお付き合いは、切れないものですね。などと、おっしゃる。尼君も、もののあはれなる気配にて・・・思いに耽る様子で、こうしたことで、お頼りすることは、ご縁が浅くないことだと、解りますことです。と、申し上げる。源氏は、辛い目を何度も見せて、私を迷わせた罪の報いを、仏に懺悔するとは、お気の毒だ。おわかりですか。私のように、おとなしいものはないと、お気づきになることも、ありはしないかと思います。と、おっしゃる。あの情けなかった、昔の事を、お耳にしているだろうと、顔も上げられず、空蝉は、こうした私の、最後の姿を、お目にかけなければならぬ以上の報いなど、どこにありましょうか。と、心の底から、泣くのである。源氏は、昔よりも、一層、思慮深く落ち着き、こうして、独り身を保っているのだと、思うと、かえって、捨てておけない気にもなる。だが、浮いた話を仕掛けるわけにもゆかず、昔や今の、世間話をされて、この程度の話し合いに、なって欲しいものだと、末摘花の方を、御覧になる。

松が浦島
後撰集
音に聞く 松が浦島 今日ぞ見る むべも心ある あまは住みけり

もののあはれなるけはひにて
ここで、はじめて、もののあはれ、という、言葉が出る。
あはれ、ではない。
空蝉の全体の雰囲気に、感じられる、もののあはれ、である。

その人生のすべての、有様を、もののあはれなるけはひ、として、表現するのである。
これ以上の、言い方は無い。

もののあはれなる様子
人生をすべて凝縮させて・・・

いずれの身も、この、もののあはれ、に、行き着く日本人の言葉となったのである。
もののあはれ、の、概念云々を言う人がいる。
概念を超えるものは、言葉に出来ない思いである。
そして、それで、よしとした、日本人の感性である。

あはれ、の一言が、すべてを語ることがあるという、事実である。


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2012年09月20日

もののあわれについて581

かやうにても、御かげに隠れたる人々多かり。皆さしのぞき渡し給ひて、源氏「おぼつかなき日数つもる折々あれど、心の中におこたらずなむ。ただ限りある道の別れのみこそ、うしろめたけれ。命ぞ知らぬ」など、なつかしく宣ふ。何れをも程々につけて、あはれと思したり。われはと思しあがりぬべき御身の程なれど、さしも事々しくもてなし給はず、所につけ、人の程につけつつ、あまねくなつかしくおはしませば、ただかばかりの御心にかかりてなむ、多くの人々年を経ける。




これくらいのあり様で、源氏の世話になる婦人たちは多い。その住まいの皆に、一人一人顔を出して、源氏は、無沙汰に過ごす日が多くなることが時にはあっても、心のうちでは、忘れていない。ただ、命が尽きて、お別れだけが、心配です。命は、解らないことです。などと、優しくおっしゃる。どの婦人に対しても、その身分に応じて、情けを持っている。我こそは、と、思い上がった心になりそうな、身分であるが、そのような横柄な振る舞いはしない。場所に応じ、身分に応じて、どなたにも、なつかしく、優しく接するのである。ただ、それだけを、拠り所にして、多くの婦人たちが、年月を送っている。

あはれと思したり
愛情持って、情け深く、など、心のあり様を言うのである。

憐れみではない。
哀れではない。

この、源氏の心に、もののあはれ、というものを、表現して、描いた物語なのである。




今年は男踊歌あり。内裏より朱雀院に参りて、次にこの院に参る。道の程遠くて、夜、明け方になりにけり。月の曇りなく澄みまさりて、薄雪すこし降れる庭のえならぬに、殿上人など、ものの上手多かる頃ほひにて、笛の音もいと面白く吹き立てて、この御前はことに心づかひしたり。御方々も物見に渡り給ふべく、かねて御消息どもありければ、左右の対、渡殿などに、御局しつつおはす。西の対の姫君は、寝殿の御方に渡り給ひて、こなたの姫君、御対面ありけり。上も一所におはしませば、御凡帳ばかり隔てて聞え給ふ。




今年は、をとこどうか、あり。まず宮中から朱雀院に参上して、次に、六条の院に参上する。道のりが遠いので、夜の明け方になっていた。月は、一点の曇りもなく、澄み渡り、薄雪が少し降り積もった。言いようもない、美しい庭に、殿上人などで、音楽の上手な人が多いこの頃のとこで、笛の音も、大変面白く吹き鳴らし、六条の院の御前では、特に、気を配っているのだ。ご婦人方も、見物にお越しになるようにと、前もってお手紙があったので、寝殿の左右の対の屋、渡り廊下などに、席を設けて、おいでになる。西の対の姫君は、寝殿の南の部屋においでになり、明石の姫君と対面した。紫の上も一緒なので、凡帳だけを間に置いて、お話になる。




朱雀院の后の宮の御方など巡りける程に、夜もやうやう明け行けば、水駅にて、ことそがせ給ふべきを、例あることよりほかに、さま異に事加へて、いみじくもてはやさせ給ふ。影すさまじき暁月夜に、雪はやうやう降りつむ。松風小高く吹きおろし、ものすさまじくもありぬべき程に、青色のなえばめるに、白襲の色あひ、何の飾かは見ゆる。かざしの錦は、にほひもなきものなれど、所がらにや面白く、心ゆき、命延ぶる程なり。殿の中将の君、内の大殿の君達、そこらにすぐれて、めやすくはなやかなり。




朱雀院の、母后の御所などを廻り、夜も次第に、明けてゆくので、水駅で、簡単にされるはずだったが、決まり以上に、特別に追加して、とても景気をつけるのである。身の引き締まるような明け方の月に、雪は段々と降り積もる。松風は高い木の上から吹きおろし、興ざめしかねない時分に、人々の、青色のうえの絹の、柔らかくなったのに、白い下重ねを着ている色の、取り合わせは、何の飾り気も感じられない。頭につけた、かざしの綿花は、色艶もないが、場所のせいか、風情があり、心も満ちて、命も延びる頃である。殿の中将の君と、内大臣の子息たちは、大勢の中でも、特に立派で、気持ちよく、派手である。

この中将とは、夕霧のことである。

水駅、とは、酒や湯を出す場所であり、饗応である。




ほのぼのと明け行くに、雪やや散りて、そぞろ寒きに、竹河謡ひて、かよれる姿、なつかしき声々の、絵にもかきとどめ難いからむこそ口惜しけれ。
御方々、何れも劣らぬ袖口ども、こぼれいでたるこちたさ、物の色あひなども、曙の空に春の錦立ち出でにける霞の中かと見渡さる。あやしく心ゆく見物にぞありける。さるは高巾子の世離れたるさま、寿詞のみだりがはしき、鳴子めきたることもことごとしくとりなしたる、なかなか何ばかりの面白かるべき拍子も聞えぬものを。例の錦かづき渡りてまかでぬ。




ほのぼのと夜が明けて、雪がちらつき、何となく寒いが、竹河を謡い、寄り添う舞姿、優美な楽の声などは、絵にも描き残せないのが、残念である。
ご婦人方の、どなたも、いずれも劣らぬお召し物の袖口が、御簾からこぼれ出ている豊かさ。色合いなども、明け行く空に、春の霞が姿を現した霞かと見える。本当に、満足できる、見物であった。とは言え、高い巾子、こうじ、の世間離れした様子と、祝いの言葉を述べる騒々しさ、馬鹿らしいようなことも、最もらしく行為する様は、かえって、何と言うほどの面白い拍子も聞えないが、例の如く、錦を頂戴して、退出した。

春の錦立ち出でにける
古今集 素性法師
見渡せば 柳さくらを こきまぜて 都ぞ春の 錦なりけり




夜明け果てぬれば、御方々帰り渡り給ひぬ。大臣の君、すこし大殿籠りて、日高く起き給へり。源氏「中将の声は、弁の少将にをさをさ劣らざらめるは。あやしく有職ども生ひ出づる頃ほひにこそあれ。いにしへの人は、まことに賢き方やすぐれたることも多かりけむ。情だちたち筋は、この頃の人にえしもまさらざりけむかし。中将などをば、すくずくしき公人にしなしてむとなむ思ひおきてし。みづからのあざればみたるかたくなしさを、もて離れよと思ひしかど、なほしたにはほのすきたる筋の心をこそとどむべかめれ。もてしづめ、すくよかなるうはべばかりは、うるさかめり」など、いとうつくしと思したり。万春楽、御口ずさみに宣ひて、源氏「人々のこなたにつどひ給へるついでに、いかでものの音こころみてしがな。私の後宴すべし」と宣ひて、御琴どもの、うるはしき袋どもして秘めおかせ給へる、皆引き出でて、おしのごひて、ゆるべる緒整へさせ給ひなどす。御方々、心づかひいたくしつつ、心けさうをつくし給ふらむかし。




夜が明けたので、見物の御婦人たちは、それぞれ、お帰りになった。大臣の君は、少し眠られて、日が高くなってから起きられた。そして、中将の声は、弁の少将に比べてほとんど、劣っていないようだ。変にベテランが現れるこの頃だ。昔の人は、本当に学問の面で優れたことも、多かったが、趣味の面では、近頃の人には、とても適わないだろう。中将などを、生真面目な役人にしょうと決めていた。自分の風流に偏る融通のなさを、真似させないようにと思ったが、やはり心の中には、遊びの事も、心得ていなければならない。表向きは澄まして、真面目にしているだけでは、駄目だろう。などと、可愛いと思うのである。万春楽を口ずさみつつ、源氏は、女の方々が、こちらに集まり、どうかして音楽会をやりたいものだ。こちらの、後宴をしよう。と、おっしゃり、弦楽器などの、見事な袋に入れた秘蔵のものなどを、皆取りだして、ほこりを払い、緩んでいる糸を調律させる。ご婦人方は、気を使い、心の準備を充分にしていらっしゃるらしい。

中将の君とは、源氏の子、夕霧である。
我が子の成長を、可愛いと思う、父親としての、源氏が見られる。

初音を終える。


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2012年09月21日

もののあわれについて582

胡蝶

三月の二十日あまりの頃ほひ、春の御前のありさま、常よりことにつくしてにほふ花の色、鳥の声、ほかの里にはまだふりぬにやと、めづらしう見え聞ゆ。山の木立、中島のわたり、色まさる苔のけしきなど、若き人々のはつかに心もとなく思ふべかめるに、唐めいたる舟造らせ給ひける、いそぎさうぞかせ給ひて、おろし給ふ日は、雅楽寮の人召して、舟の楽せらる。親王たち、上達部などあまた参り給へり。




三月二十日過ぎの頃、紫の上の春の庭先の様子は、いつもより、殊に、すべてが生き生きとした、花の色、鳥の声に、よその方には、ここだけ、まだ春の盛りが終わらないのかと、素晴らしくも見え、聞える。築山の木立、中島のあたり、緑濃くなった苔の様子など、若い女房達が、少ししか見られず、物足りなく思うらしいので、殿様は唐風の舟を造らせたのを、急いで舟の装いをされて、はじめて水に下ろさせる日には、うたづかさの人を召して、舟楽をされる。親王たち、上達部など、大勢が参上された。




中宮この頃里におはします。かの「春まつ園は」と、はげまし聞え給へりし御かへりも、この頃やと思し、大臣の君も、いかでこの花の折、御覧ぜさせむと思し宣へど、ついでなくて軽らかにはひわたり、花をももてあそび給ふべきならねば、若き女房達の、ものめでしぬべきを舟に乗せ給うて、南の池の、こなたにとほし通はしなさせ給へるを、小さき山を隔ての関に見せたれど、その山のさきよりこぎまひて、東の釣殿に、こなたの若き人々集めさせ給ふ。




中宮は、この頃、六条院におられた。あの「春まつ園は」といどみかけられた、お歌の御返しをするのも、今がよいかと紫の上も思い、殿様も、何とかして、この花の季節を、中宮に、お目にかけたいと、お口になさるが、用もないのに、気軽にお渡りになり、花見をすることも出来ない身分なので、若い女房達で、面白がりそうな人を、舟に乗せて、南の池の、こちら側に通じるようにされてあるのを、小さい山を隔ての関所と見せてあるが、その山の先から、漕いで周り、やってくる。東の釣殿には、こちらの女房達を集めているのである。

春まつ園は
心から 春まつ園は わがやどの 紅葉を風の つてにだに見よ
源氏物語、乙女の巻より

はげまし聞え給へり
競争を仕掛けられた、という意味。

こなたにとおし
紫の上の御殿である。




竜頭けき首を、唐の装ひに、ことごとしうしつらひて、かぢとり棹さすわらはべ、皆みづらゆひて、もろこしだたせて、さる大きなる池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむここちして、あはれに面白く、見ならはぬ女房などは思ふ。中島の入江の岩陰にさし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵にかいたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の方ははるばると見やられて、色をましたる柳、枝をたれ、花もえもいはぬ匂をちらしたり。ほかには盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほえみ、廊をめぐれる藤の花の色もこまやかに開けゆきにけり。ましてイケの水に影をうつしたる山吹、岸よりこぼれていみじき盛りなり。水鳥どものつがひを離れず遊びつつ、細き枝どもをくひて飛びちがふ、をしの波のあやに紋をまじへたるなど、物の絵やうにもかきとらまほしきに、まことに斧の柄もくたいつべう思ひつつ、日を暮らす。




竜頭けき首の舟を唐風に派手に飾り、かじを取り棹をさす童子は、皆、みずらを結って、唐子の感じにし、そんな大きな池の中に棹さして、出て来たので、本当の外国に来たような気分になり、面白く素晴らしいと、こちらを見慣れていない、中宮付きの女房などは、思うのである。
中島の入江の岩陰に、船を寄せて、眺めると、少しばかりの立て石も、まるで、絵に画いたようである。あちらこちらから、霞が立ちこめる梢は、錦を張り巡らしたように、御前の庭は、遥かに遠く見渡されて、緑を増した柳が、枝を垂れて、花も何ともいえぬ匂いを漂わせている。よそでは、盛りを過ぎた桜も、ここでは、今を盛りと、咲き誇り、渡殿の周りの、藤の花も、紫に色濃く咲いている。
それ以上に、池の水に影を映す山吹は、岸からこぼれるほど、盛りである。水鳥が二羽ずつ泳ぎまわり、細い枝などをくわえて、飛び違い、波模様の上に、おしどりが姿を織り出すなどは、図案にしたいほどで、本当に斧の柄も、腐らせてしまいそうに、面白く思いつつ、いつしか、夕暮れになった。




女房達
風吹けば 浪の花さへ いろ見えて こや名にたてる 山吹のさき

春の池や 井出のかはせに かよふらむ 岸の山吹 そこもにほへり

亀の上の 山もたづねじ 舟のうちに 老いせぬ名をば ここに残さむ

春の日の うららにさして 行く舟は 棹の雫も 花ぞ散りける

などやうの、はかなごとどもを、心心に言ひかはしつつ、行く方も、帰らむ里も忘れぬべう、若き人々の心をうつすに、ことわりなる水の面になむ。




風が吹けば、浪の花までが、色を映して見えます。これがあの有名な、山吹の崎でしょうね。

春の御殿の、お池は井出の川瀬に、続いているのでしょうか。岸の山吹は、水底にまで咲いています。

蓬莱山を訪ねる必要はありません。これ、この舟の中で、不老の名を、留めましょう。

春の日、うららかに、棹差して行く舟は、棹の落ちる水も、雫の花となって、散ります。

というような、とりとめもない歌を思い思いに言い交わしつつ、行く先も、帰る家路も忘れてしまいそうなほど、若い女房達が、感動しているのも当然な、水の美しさである。

亀の上にある山
蓬莱山という。道教で言われる、桃源郷である。

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2012年09月22日

もののあわれについて583

暮れかかるほどに、わうじやうといふ楽いと面白く聞ゆるに、心にもあらず、釣殿にさし寄せられておりぬ。ここのしつらひ、いとことそぎたるさまに、なまめかしきに、御方々の若き人どもの、われおとらじ、と尽くたる装束容貌、花をこきまぜたる錦に劣らず見えわたる。世に目なれずめづらかなる楽ども仕うまつる。舞人など、心ことに選ばせ給ひて、人の御心ゆくべき手の限りを尽くさせ給ふ。




暮れかかる頃、おおじょうという、楽が大変趣深く聞える中を、残念ながら、舟は釣殿に、差し寄せられ、降りることになった。ここの造りは、簡略ながらも、素晴らしく、お二方の若女房が、我劣るらじと、心を尽した着物も、器量も、花をとりまぜた、錦に負けないくらいに、見渡される。普通は知られていない、結構な音楽を色々と奏する。舞人なども、殿様が特別に選んで、見物する者が、満足されるように、あらん限りの技をやらせるのである。




夜に入りぬれば、いと飽かぬここちして、御前の庭にかがり火ともして、御階のもとの苔の上に、楽人召して、上達部、親王達も、皆おのおの弾物吹物とりどりにし給ふ。物の師どもことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴どものしらべ、いとはなやかにかきたてて、「あなたふと」あそび給ふ程、生けるかひあり、と、何のあやめも知らぬしづの男も、御門のわたりひまなき馬車のたちどにまじりて、笑みさかえ聞きけり。空の色、物の音も、春の調べひびきはいとことまさりけるけぢめを、人々思しわくらむかし。よもすがら遊び明かし給ふ。かへり声に喜春楽立ちそひて兵部卿の宮「青柳」折りかへし面白くうたひ給ふ。あるじの大臣と言加へ給ふ。




夜になり、まだまだ飽き足りない気持ちゆえ、皆それぞれ、弦楽器、管楽器など、得意のものをされる。師匠格の楽人でも、特別上手な者たちが、双調を吹き、殿上で受けて合わせる、御琴の調べが、派手な音を立てて、「あなたふと」を合奏するところは、生きていた甲斐があったと、何も解らぬ、低い身分の男までも、御門一帯に、ぎっしりと、馬や車の立つところの間に交じり、顔中笑い、聞いている。
空の色も、楽の音も、春の調べと響きは、よそよりも、ここは極めて勝っている。その違いの程を、一同は解ったことであろう。一晩中、音楽で明かされ、かえり声に、喜春楽が加わり、兵部卿の宮が、「青柳」と繰り返し、面白く歌う。源氏も、それに声を添えるのである。

兵部卿は、源氏の弟である。

宮廷の雅な様子が、描かれている。




夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを、中宮は物隔てて、ねたう聞召しけり。いつも春の光をこめ給へるおほ殿なれど、心をつくるよすがのまたなきを、飽かぬことに思す人々もありけるに、西の対の姫君、こともなき御ありさま、大臣の君も、わざと思しあがめ聞え給ふ御けしきなど、みな世間の聞え出でて、思ししもしるく、心なびかし給ふ人多かるべし。わが身さばかりと思ひあがり給ふきはの人こそ、たよりにつけつつけしきばみ、言出で聞え給ふもありけれ、えしもうち出でぬ中の思ひに燃えぬべき、若君達などもあるべし。そのうちに、ことの心を知らで、内のおほいとのの中将などはすきぬべかめり。




夜も明けた。明け方の鳥のさえずりを、中宮は、築山を隔てて、ねたましくお聞きになる。いつも、春の光が一杯の、六条の院であるが、一つ心を寄せる姫君が、ないものを物足りなく思う、方々もいたが、西の対の姫君の、美しいことや、殿様も、特別に大事にしている御様子などが、事細かに、世間に漏れていたため、殿様の予想通り、心を寄せる方も多いようである。自分は、懸想してもいいと自負している身分の方は、手づるを求めて、ほのめかしたり、口に出して言うが、中には、口にはせずに、ただ胸ばかりで、焦がれている若者たちもいるらしい。そんな中に、事情を知らず、内大臣の息子の中将なども、想いをかけている様子である。

この姫君とは、玉葛のことである。

中将とは、柏木のことである。




兵部卿の宮はた、年頃おはしける北の方もうせ給ひて、この三年ばかり、ひとりずみにてわび給へば、うけばりて今はけしきばみ給ふ。けさもいといたうそらみだれして、藤の花をかざして、なよびさうどき給へる御さま、いとをかし。大臣も、思ししさまかなふと下には思せど、せめて知らず顔をつくり給ふ。御かはらけのついでに、いみじうもてなやみ給うて、宮「思ふ心待らずは、まかり逃げ侍りなまし。いと堪へがたしや」と、すまひ給ふ。


紫の ゆえに心を しめたれば 淵に身なげむ 名やはをしけき

とて、大臣の君に、同じかざしを参り給ふ。いといたうほほ笑み給ひて、

源氏
淵に身を 投げつべしやと この春は 花のあたりを 立ちさらで見よ

と、せちにとどめ給へば、え立ちあかれ給はで、けさの御遊び、ましていと面白し。




兵部卿の宮は、長年連れ添った、北の方も、お亡くなりになり、ここ三年ばかり、独り身で寂しがっていらっしゃるものだから、公然と今は、求婚の気持ちを示している。今朝も、酷く酔ったふりをして、藤の花を冠のかざしにして、しなやかに、うきうきしていらっしゃる様子は、美しい。殿様も、計画通りだと、心の中では思うが、わざと気づかない振りをする。宮は酒宴の時に、酷く苦しそうになさり、思うところがございませんなら、逃げ出したいところです。とてもたまりません。と、盃を辞退される。


ゆかりのあることゆえに、心を奪われてしまった。淵に身を投げましょう。名誉など、どうでもいい。

と、言い、源氏に、同じ藤の花のかざしを差し上げる。源氏は、すっかり笑顔になり、

源氏
淵に身を投げるだけの価値があるかどうか。この春の花の傍を離れずに、見るがよい。

と、無理に引き止めるので、一人帰ることも出来ずに、今朝の御遊びは、一層面白いのである。

紫の
古今
紫の ひともとゆえに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞみる

源氏の思った通りの展開になってきた。
玉葛への、兵部卿の求婚である。


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2012年09月23日

もののあわれについて584

今日は、中宮の御読経のはじめなりけり。やがてまかで給はで、やすみ所とりつつ、日の御装ひにかへ給ふ人々も多かり。さはりあるはまかでなどもし給ふ。午の時ばかりに、皆あなたに参り給ふ。大臣の君をはじめて奉りて、皆つきわたり給ふ。殿上人なども残るなく参る。多くは大臣の御勢ひにもてなされ給ひて、やむごとなくいつくしき御ありさまなり。




今日は、中宮の御読経の第一日目である。そのまま、音楽の後も帰らず、六条の院で休憩所をとり、束帯にお召し替える方々も多い。用事のある方々は、退出される。昼頃に、皆、あちらにおいでになる。大臣、源氏をはじめとして、皆、ご着席になる。殿上人なども、揃って、参上する。多くは、大臣、源氏の御威勢に助けられて、堂々と、尊厳な御法会である。




春の上の御こころざしに、仏に花奉らせ給ふ。鳥蝶にさうぞきわけたるわらべ八人、容貌などことに整へさせ給ひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂をつくさせ給へり。南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前に出づる程、風吹きて、瓶の桜少しうち散りまがふ。いとうららかに晴れて、霞の間より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。わざと平張なども移されず、御前に渡れる廊を、楽屋のさまにして、仮に胡坐どもを召したり。わらべども御階のもとに寄りて、花ども奉る。行香の人々とりつぎて、アカに加へさせ給ふ。御消息、殿の中将の君して聞え給へり。




春の上からの、御心として、仏に花をお上げになる。鳥と蝶とに、衣装を分けた童女八人、器量のよい者を特に揃えて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶には、金の瓶に山吹をさす。同じ花としても、房も立派で、素晴らしく色艶の良い物ばかりを、選んだ。南の築山の向こう際を通り、漕ぎ出して、中宮の御前の庭に出る頃には、風が吹き、瓶の花が少し、散り惑う。まことに、うららかに空は晴れて、霞の間から、童女たちが出て来たのは、見事に美しいのである。
わざと、平張などを持って来させず、御殿に続く渡殿を楽屋として、仮に胡坐を幾つか、並べた。童女たちは、御階の傍に近づき、花を差し上げる。行香の人々が、それを受け取り、アカの棚に置くのである。
お手紙は、中将の君に、夕霧に託して、差し上げる。





花園の 胡蝶をさへや 下草に 秋まつ虫は うとく見るらむ

宮、かの紅葉の御かへりなりけり、とほほえみて御覧ず。昨日の女房達も、「げに春の色はえおとさせ給ふまじかりけり」と、花におれつつ聞え合へり。うぐひすのうららかなる音に、鳥の楽はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなくさへづりわたるに、急になりはつる程、飽かず面白し。蝶はまして、はかなきさまに飛び立ちて、山吹のませのもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひ入る。




紫の上
春の花園の、美しい胡蝶までも、秋を待つと言う、あなたには、つまらないものと、御覧になることでしょう。

中宮は、あの紅葉のお返しだと、微笑み、御覧になる。昨日の女房達も、本当に、春の美しさを負かせることは、できませんようです、と、花に見惚れて、口々に申し上げる。鶯のうららかな音に、鳥の楽が華やかに響き渡り、池の水鳥も、何となく、囀り合う。楽の調子が、急になって、終わる頃には、惜しいと思うほど面白いのである。蝶は、はかなきさまに、ひらひらと、飛び上がり、山吹のもとに、咲きこぼれた花の蔭に、舞い隠れる。

急とは、一曲の中の最後を言う。
序、破、急から、一曲が成る。




宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄とりつづきて、わらはべにたぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹がさね賜はる。かねてしも取りあへたるやうなり。物の師どもは、白きひとかさね、腰ざしなど、つぎつぎに賜ふ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装束かづけ賜ふ。御かへり
秋好「昨日は音に泣きぬべくこそは、

こてふにも さそはれなまし 心ありて 八重山吹を 隔てざりせば

とぞありける。すぐれたる御労どもに、かやうのことは堪へぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。




中宮職の次官以下、然るべき、殿上人が、手から手へと、ごほうびを取り次いで、童に下される。
鳥には、桜かさねの細長を、蝶には、山吹かさねの細長を、下さる。まるで、以前から、準備してあるようだ。楽人たちは、白い衣、一そろいや、巻絹などを、頂戴する。中将様には、藤の細長を添えて、女の装束を、お与えになる。御返事は、
秋好 昨日は、声を上げて、泣いてしまいそうでした。
胡蝶にも、ついつられてしまいたいと・・・わざわざ、八重山山吹で、隔てを作りにならなければ・・・

立派な身分の方であるが、お歌の方は、あまり上手ではないのかと、想像した程でもない、歌詠みである。




まことや、かの見ものの女房達、宮のには、皆けしきある贈物どもせさせ給うけり。さやうの事くはしければむつかし。明け暮れにつけても、かやうのはかなき御遊びしげく、心をやりて過ぐし給へば、侍ふ人もおのづから、物思ひなきここちしてなむ、こなたかなたにも聞え交し給ふ。



そういえば、あの見物役の、女房達で、中宮づきには、紫の上から、一人残らず、結構な贈物を数々遣わした。そんなことを、並べ立てるのは、煩いでしょうから、省略します。
朝に夕に、このような、慰みの遊びも、数多く、皆様、ご機嫌よく、暮らしています。お付の女房も、いつしか心配など無い気持ちがしている。お互い同士、お手紙のやり取りをされる。

作者の感想か・・・
こなたかなた、とは、紫の上と、中宮のことである。


posted by 天山 at 05:31| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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