2016年07月11日

もののあわれについて823

きのふ例ならず起きい給へりしなごりにや、いと苦しうして臥し給へり。年ごろかかる物の折ごとに、参りつどひ遊び給ふ人々の、御かたちありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音をも、今日や見聞き給ふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば、しさも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわたされ給ふ。まして夏冬の時につけたる遊びたはぶれにも、なまいどましき下の心は、おのづから立ちまじりすらめど、さすがに情をかはし給ふ方々は、誰も久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我ひとり行くへ知らずなりなむをおぼし続くる、いみじうあはれなり。




昨日は、いつになく起きておいでになったせいか、今日は、酷く具合が悪くて、横になっていらっしゃる。年来、こういう催しのたびごとに、参集して、演奏なさる方々のお顔や、ご様子、それぞれの才能も、琴笛の音も、今日のこの日が、聞き納め、見納めであろうと、そういう気持ちでいらっしゃるので、それほど目に留まらぬ人々の顔も、しみじみと、あはれに一人一人、御覧になる。
まして、四季折々の音楽会にも、遊びにも、何やら挑みあう競争心は、いつしか交じりもしたろうが、それでいて、お互いに親切にし合う方々に対しては、誰しも、長く住める世ではないとはいえ、先立って、自分一人が行方も知らず、消えてしまうことを、思い続けになるのが、言いようも無く、悲しいのであった。

あはれ、という言葉が、多くなる。
それは、死を目の前にしているからだろう。




事果てて、おのがじし帰り給ひなむとするも、遠き別れめきて、をしまる。
花散里の御方に、

紫の上
絶えぬべき 御法ながらぞ 頼まるる 世々にと結ぶ 中のちぎりを

御返り

花散里
結びおく ちぎりは絶えじ 大方の 残り少なき 御法なりとも

やがてこのついでに、不断の読経、せん法など、たゆみなく、尊き事どもせさせ給ふ。御修法は、異なるしるしも見えでほども経ぬれば、例の事になりて、うちはへさるべき所々寺々にてぞせさせ給ひける。




法会が終わり、銘々がお帰りになろうとする、それも、永久の別れの思いがして、名残が尽きない。
花散里の御方に、


これが、私の、この世で催す、最後の御法要とは思いますが、それでも、生々世々にかけて、あなたとの縁は、頼もしく思われます。

御返事
花散
世間普通の御法要でございましても、結ばれた縁は、深いものでございます。まして、今日のこの盛大な御法要会で結ばれました、私達の仲は、後の世まで、絶えることはありません。

そのまま、御法のついでに、不断経、せん法など、怠りなく、結構なことを、数々勤めさせなさる。
御修法は、これという、効験も現れなかったままに、長いことになり、常のことになって、引き続き、適当な、所々、寺々で、やらせになるのである。




夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入り給ひぬべき折々多かり。その事と、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになり給へば、むつかしげに所せく悩み給ふ事もなし。さぶらふ人々も、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見奉る。




夏の季節になると、例年の暑さでも、気を失いそうになられることで、今年は、いっそう、それが度々起こる。どこといって、取り立てて、お苦しみになることはないが、ただ、すっかり弱くおなりのご様子で、むさくるしさ、激しいお苦しみもないのである。お傍に控える女房たちも、この先、どうおなりになるのかと、考えると、もう目の前が、真っ暗になり、もったいなく、悲しいご様子と、拝する。




かくのみおはすれば、中宮この院にまかでさせ給ふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ち聞え給ふ。儀式など、例に変わりねど、この世の有様を見はてずなりぬなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞き給ふにも、その人かの人など、耳とどめて聞かれ給ふ。上達部など、いと多く仕うまつり給へり。




このようなご容態なので、中宮は、二条の院に、ご退出あそばす。東の対に、ご滞在あそばすはずなので、寝殿でも、お待ち申し上げていらっしゃる。行啓の儀式など、いつもと変わらないのだが、紫の上は、若宮たちの将来も、見届けずに終わってしまうと、思うと、何かに付けて、物悲しい。名対面をお聞きになっても、あれは誰、これは誰と、つい耳をとめて、お聞きになる。
上達部が、大勢お供申し上げた。

中宮は、紫の上が、育てた、明石の子である。

posted by 天山 at 05:22| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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