2016年06月30日

生きるに意味などない11

言うまでもなく、まず言語は、対象そのものではなく、イメージと結びつくのである。最初の言語が、それが指示する対象が不在のときに発せられたことは間違いない。言語が指し示すのはイメージである。
言語は、現実の対象を記述するためではなく、各人それぞれ勝手な方向に歪んだばらばらのイメージ、私的幻想から何とか共通の要素を抽象して共同の一般的イメージをつくり、各人のあいだのコミュニケーションを可能にするため、そして、それらの共同の一般的イメージをまとめて共同幻想とし、それを足がかりとして、いったん見失った現実を取り戻すために発明されたのである。
岸田 改行は私

見失った現実・・・
何故、見失うことになったのか。

二本足で、立ち上がり始めた人類が・・・
過酷な自然を相手にして、生きてゆくうちに、大脳化により、イメージを持つことになった。
そして、イメージから、共同幻想としての、言語を発明する。

更に、文化、文明化により、人類は、高度な言語体系を作り上げた。
と、そこまでは、よい。

言語が先行し、イメージが先行して、より遠く現実から、離れてゆく。

しかし、現実とは、何か・・・

最初の言語が、それが指示する対象が不在のときに発せられたことは間違いない・・・
との、指摘であるが・・・

その最初から、人類の悲劇が始まる。

私的幻想から何とか共通の要素を抽象して共同の一般的イメージをつくり、各人のあいだのコミュニケーションを可能にするため・・・
そして、不安定なコミュニケーションを取り始めた。

誤差が生じても、通じる言葉の意味・・・
だが、それは、いつか、破綻する時が来る。
両者の利害が一致しない場合など。

よく売れる本が、多くの人に共感されたというが・・・
単なる、勘違いもある。
更に、読み込む人の想像が逞しく、幻想が逞しく、ということもある。

書いた本人よりも、より深く、言葉を味わう人もいる。

言語は、ある程度この役割を果たしたが、もちろん完全には成功していない。完全に成功することはあるまい。個人のもつイメージをあますところなく言語化することはできない。つねに言語化されない部分が残る。言語化されないということは、共同化されないということ、現実から遮断されたままであるということである。
岸田

ところが、これが、我が内の中でも、起こるのである。
私のテーマは、それである。

個人の持つイメージを、あますところなく、言語化することは、出来ない、というならば、我が内でも、そうなのである。

赤ん坊が、言葉に出来ない思いを、泣くという行為に委ねる。
大人でも、そうである。

心の内を、すべて説明し尽くすことが出来るのか。

生きるに意味などない、とは、このことである。
必死になって、生きる意味を見出す行為は、賞賛に値するが・・・
実は、徒労に終わることである。

残る行為は、ただ、何物かに、我が身を、我が心を任せるという、信仰状態である。
信じるという、嘘偽りの行為である。

勝手気ままに、救われるという、感性である。

ただ救いはある。

言語的表現には、つねに、その字句通りの何倍もの意味が隠されて背後に控えている。言葉はつねにその字句通りの意味を裏切る。時が経つにつれて言葉の意味がずれていったりするのは、そうした背後の意味の方へ引きずられるからである。
岸田

言うに言えない思い、という感覚がある。
だから、一つの民族には、それを鑑みての、言葉が出来る。

日本の場合は、あはれ、という言葉である。

もののあはれ
その言葉に、言葉の背後の思いを託すのである。

その背後の思いを託す言葉の意味を、云々という人たちがいる。
それも、意味を問うというものである。

実に、愚かしい。

蜜蜂のコミュニケーションに誤解はあり得ないが、人間の言語的コミュニケーションは誤解に満ちている。
岸田

各人がそれぞれ独特なばらばらのイメージをもっており、そして、言語がイメージを基盤として成り立っているかぎりにおいて、誤解なき言語的コミュニケーションはあり得ないであろう。
岸田

私は、それが、我が内でも、成されるという。

簡単に言えば、泣いている人は、泣いていない、自分というものを、見ている、ということである。

posted by 天山 at 06:19| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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