4月5日、重臣会議が開かれ、総辞職した小磯内閣の、次期総理を選考したが、東條大将は、
本土決戦を控えて、国務と統帥一体化のため、次期総理は、陸軍から出したい。
と、力説した。
天皇は、大局を判断し、何とか、速やかに、講和に持ち込みたいと考えていた。
結果、鈴木貫太郎枢密院議長が、推挙された。
だが、純粋な武人で、政治権力と無縁だった鈴木は、とても、国家存亡の大任を担う自信がなかった。
また、77歳の高齢でもあり、辞退するが、
鈴木が辞退する心境はよく解るが、この重大時局に、もう鈴木をおいて他にはいないのだ
との、天皇のお言葉である。
しかし、なお、辞退する鈴木に、
頼むから、まげて承知してもらいたい
との、天皇陛下のお言葉である。
もう、断るわけにはいかなかった。
天皇は、肝胆相照らす鈴木とで、速やかに、終戦に漕ぎ着けたかったのである。
だが、軍部は違った。
強硬に戦争継続を叫び、和平を口にすれば、国賊、敗戦主義者として、投獄されるという、情勢化である。
いかに、天皇といえ、講和の推進は、至難の業だった。
統帥権は、天皇にあるが・・・
軍部は、戦争続行である。
もし、本土決戦ならば、更なる、悲劇が起こるのである。
4月30日、ドイツ、ヒトラー自決。
5月2日、ベルリン陥落。
8日、新総裁デーニッツ、連合軍に、無条件降伏。
東郷茂徳外相は、それを聞いて、それ以前から考えていた、和平工作を急ぐ必要を感じた。
戦争をやめたければ、相手国、米英、重慶に直接申し出れば、いい。
しかし、それでは、無条件降伏は、避けられない。
東郷でさえ、この時点では、無条件降伏を避け、いくらかでも、名誉ある講和をと、考えていたのである。
また、ここ、ここに至っても、陸軍の考えを考慮するなら、第三者の仲介なしの、和平交渉は不可能だと、思っていたのだろう。
中立国、ローマ法王庁を通す手段も検討されたが、日本に利する条件講和に関しては、全く、見込みの無いことが解ってきた。
結果、中立条約が生きている、ソ連に仲介を頼む以外に無いと、考えられた。
だが、ソ連は、すでに1943年昭和18年11月の「テヘラン会議」において、スターリンは、ルーズベルト、チャーチルに対して、対日参戦を約束していたのである。
日本と、日本人は、性善説的思考で、物事を考えるということを、指摘しておく。
だから、ソ連の好意的中立と、対日参戦を加味し、その仲介によって、有条件講和による、戦争終結を図るという、基本路線を決定した。
対ソ交渉の第一段階として、東郷外相は、非公式の会談を、駐日ソ連大使ジャコブ・マリクとの間に持つことを考え、その任を、外相、中ソ大使の経験者である、広田弘毅に委託した。
広田が、マリクと会見したのは、昭和20年6月3日である。
「日本政府は、日ソ両国の友好関係を強化し、中立条約の延長を欲している」という、第一段階の提案に対し、マリクは、検討したいので、しばらく時間をとの返答である。
もう、対日参戦が、決まっているのである。
だから、その後の、やり取りは、広田を疲労困憊させた。
しかし、戦争終結を手探りしつつ、政府と統帥部による、最高指導会議は、6月8日、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を決定し、戦争遂行を呼号するのである。
沖縄が、戦場と化していた時である。
そして、ついに、大本営は、6月25日、沖縄戦の終焉を公表した。
第三十二軍司令部のある、沖縄本島の南端、摩文仁の洞窟が、米軍の手に落ちた、6月22日、東京では、最高指導会議の構成員六名が、木戸内大臣の作成した時局収拾案について、天皇から、直接下問を受けた。
木戸の案は、ソ連に特使を送り、戦争終結への道を開くというものだった。
その、ソ連への特使に、近衛文麿を適任者と決めた。
天皇から、近衛に直接沙汰があった。
東郷外相は、近衛特派使節をモスクワに派遣したとき、日本政府の内意を、モロトフ外相に伝え、その受け入れにつき同意を得るよう、訓令した。
しかし、モロトフは、多忙を理由に中ソ大使、佐藤に会わない。
やむなく、佐藤は、外務次官ロゾフスキーに面会し、日本政府の趣旨を伝えた。
この、ソ連の対応を日本人は、忘れてはならない。
すでに、対日参戦を約束していたソ連である。
裏切り・・・
そんなことは、国際社会では、当たり前のことである。
更に、共産主義と、国益重視である。
当然といえば、当然のこと。