2016年06月23日

玉砕132

米軍が沖縄に、上陸した、4月1日の頃・・・

4月5日、重臣会議が開かれ、総辞職した小磯内閣の、次期総理を選考したが、東條大将は、
本土決戦を控えて、国務と統帥一体化のため、次期総理は、陸軍から出したい。
と、力説した。

天皇は、大局を判断し、何とか、速やかに、講和に持ち込みたいと考えていた。

結果、鈴木貫太郎枢密院議長が、推挙された。
だが、純粋な武人で、政治権力と無縁だった鈴木は、とても、国家存亡の大任を担う自信がなかった。
また、77歳の高齢でもあり、辞退するが、
鈴木が辞退する心境はよく解るが、この重大時局に、もう鈴木をおいて他にはいないのだ
との、天皇のお言葉である。

しかし、なお、辞退する鈴木に、
頼むから、まげて承知してもらいたい
との、天皇陛下のお言葉である。

もう、断るわけにはいかなかった。

天皇は、肝胆相照らす鈴木とで、速やかに、終戦に漕ぎ着けたかったのである。

だが、軍部は違った。
強硬に戦争継続を叫び、和平を口にすれば、国賊、敗戦主義者として、投獄されるという、情勢化である。

いかに、天皇といえ、講和の推進は、至難の業だった。

統帥権は、天皇にあるが・・・
軍部は、戦争続行である。
もし、本土決戦ならば、更なる、悲劇が起こるのである。

4月30日、ドイツ、ヒトラー自決。
5月2日、ベルリン陥落。
8日、新総裁デーニッツ、連合軍に、無条件降伏。

東郷茂徳外相は、それを聞いて、それ以前から考えていた、和平工作を急ぐ必要を感じた。
戦争をやめたければ、相手国、米英、重慶に直接申し出れば、いい。
しかし、それでは、無条件降伏は、避けられない。

東郷でさえ、この時点では、無条件降伏を避け、いくらかでも、名誉ある講和をと、考えていたのである。

また、ここ、ここに至っても、陸軍の考えを考慮するなら、第三者の仲介なしの、和平交渉は不可能だと、思っていたのだろう。

中立国、ローマ法王庁を通す手段も検討されたが、日本に利する条件講和に関しては、全く、見込みの無いことが解ってきた。

結果、中立条約が生きている、ソ連に仲介を頼む以外に無いと、考えられた。

だが、ソ連は、すでに1943年昭和18年11月の「テヘラン会議」において、スターリンは、ルーズベルト、チャーチルに対して、対日参戦を約束していたのである。

日本と、日本人は、性善説的思考で、物事を考えるということを、指摘しておく。

だから、ソ連の好意的中立と、対日参戦を加味し、その仲介によって、有条件講和による、戦争終結を図るという、基本路線を決定した。

対ソ交渉の第一段階として、東郷外相は、非公式の会談を、駐日ソ連大使ジャコブ・マリクとの間に持つことを考え、その任を、外相、中ソ大使の経験者である、広田弘毅に委託した。

広田が、マリクと会見したのは、昭和20年6月3日である。
「日本政府は、日ソ両国の友好関係を強化し、中立条約の延長を欲している」という、第一段階の提案に対し、マリクは、検討したいので、しばらく時間をとの返答である。

もう、対日参戦が、決まっているのである。
だから、その後の、やり取りは、広田を疲労困憊させた。

しかし、戦争終結を手探りしつつ、政府と統帥部による、最高指導会議は、6月8日、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を決定し、戦争遂行を呼号するのである。

沖縄が、戦場と化していた時である。
そして、ついに、大本営は、6月25日、沖縄戦の終焉を公表した。

第三十二軍司令部のある、沖縄本島の南端、摩文仁の洞窟が、米軍の手に落ちた、6月22日、東京では、最高指導会議の構成員六名が、木戸内大臣の作成した時局収拾案について、天皇から、直接下問を受けた。

木戸の案は、ソ連に特使を送り、戦争終結への道を開くというものだった。

その、ソ連への特使に、近衛文麿を適任者と決めた。
天皇から、近衛に直接沙汰があった。

東郷外相は、近衛特派使節をモスクワに派遣したとき、日本政府の内意を、モロトフ外相に伝え、その受け入れにつき同意を得るよう、訓令した。
しかし、モロトフは、多忙を理由に中ソ大使、佐藤に会わない。
やむなく、佐藤は、外務次官ロゾフスキーに面会し、日本政府の趣旨を伝えた。

この、ソ連の対応を日本人は、忘れてはならない。
すでに、対日参戦を約束していたソ連である。

裏切り・・・
そんなことは、国際社会では、当たり前のことである。
更に、共産主義と、国益重視である。
当然といえば、当然のこと。


posted by 天山 at 05:53| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする