2016年06月14日

生きるに意味などない10

言語はなくても生きてゆくのに差し支えはないが、あった方が便利だからというような、ゆとりのある状況でつくられたものではないであろう。つまり、言語は、ある一定の錯誤にある一体の意味を付与することによって、その錯誤を共同化したものであり、いわば共同錯誤である。
しかし、言語の発明はそれほどむずかしいことだったとは思えない。現代の高度に分化し、抽象化された言語を考えれば、むずかしそうに見えるかもしれないが、未開時代の、熟知した環境において単純に生活を営む狭い集団のなかで特定の場面におかれた個人が表現したいことはかぎられており、せいぜい数十個の名詞や動詞があれば充分事が足りたであろう。そして、ご承知のように、単語というものは派生や転用や合成などによって次々と別の新しいものを表現できるようになるから、少数の単語で非常に多くのことをカヴァーすることができる。
岸田 改行、省略は私

言語は、ある一定の錯誤にある一体の意味を付与することによって、その錯誤を共同化したものであり、いわば共同錯誤である。
上記が、重要である。

共同誤差・・・

日常の生活で、使う言葉は、多くは無い。
更に、的確ではない言葉の、数々を使っている。

それでも、通じている。
その程度のことであって、いいのである。
しかし、意味付けという行為になると、それは、とんでもないことになる。

同じ言葉を使っても、意味が全く異なるという、状況に出くわすことが多々ある。
例えば、事実と、真実という、言葉である。

私は、事実があれば、真実という言葉は、必要ないと思っている。

もし、真実というものが、あるならば、それは、人それぞれの真実だろうと、考える。
しかし、人は、事実こそが、人それぞれであり、真実が、正しいことなのだと、考えるようである。

だが、どちらも、人それぞれなのである。

歴史的事実も、その解釈、歴史観により、異なる。
実際、正しいという言葉も、人それぞれである。

一番の良い例は、宗教を見ればよい。
神というならば、皆、同じ神というと、違う。

更には、一神教と、多神教である。
これも、様々である。

だから、誤差という意味が理解できる。
神という言葉は、誤差などというものではない。
全く、別物である。

しかし、岸田氏が書くように、誤差がありつつも、まだ、数少ない言語の場合は、救いがある。

今は、言葉の意味を、辞書で引いて理解する。
これが、勉強である。
そして、更に、その言葉の組み合わせで、学問が成り立つ。

頭が悪い私が、学問を学んでも、頭の良い人が、学問を学んでも同じ程度ではない。
明らかに、頭の悪い私が、理解したと思い込んで、解釈すると、誤る。

だが、本当に、誤りなのかと、考える。

単なる、受け取り方の問題であるかもしれない。
つまり、頭の悪い私の理解も、頭の良い人の理解も、それはそれで、正しい。

大きな誤差であるが・・・

更に、人間は、戦い、戦争をし続けてきた。
つまり、それは、話し合いが出来ないから、暴力ということになったのである。

共通の言語でも、話し合いが出来ないと、暴力になることもある。
悲劇である。

日本語に、心得違い、という言葉がある。
どうしても、心得違いが起こってしまう人がいる。
あるいは、よこしま、邪である。

それは、どうしようもないことである。
この、どうしようもないこと、を、どう乗り越えてゆくのか・・・

岸田氏の言う、誤差の問題よりも、深刻である。

暗黙の約束が集団においてできあがったとき、言語が成立した。
岸田

言語以前の時代、単なる、発声、叫び声が、次第に、言語として、受け入れられる経緯がある。
巫女・・・

私は、性行為の時の、叫び声に、最初の言語の芽が出たと、考えたことがある。

巫女の、叫び声も、そうである。
意味が無かった。

無意味な、発声、叫び声である。

ところで、今も、言葉を覚える前の、赤ん坊は、発生と、叫び声である。
言葉を覚えた、大人も、それと大して、変わらないかもしれないが・・・


posted by 天山 at 06:29| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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