2016年06月09日

生きるに意味などない7

言語は他のすべての分野での表示に不可欠であるから最初から充分に強調される必要があるのは明らかである。
フェニックス

前回も、引用したが・・・

この言語に関しては、私も、精神活動として、納得している。
言葉なくして、精神活動は、有り得ない。
勿論、言葉なくしても、芸術活動が、精神活動になる人もいるだろうが、数少ない。

その言語に関して、面白い意見を取り上げる。

日本の心理学者である、岸田秀、である。

まずわかり切ったことからはじめると、言語をもっているのは人類だけであり、言語は人類が築き上げた文化の一つである。この意味において言語も他の文化的諸現象と共通の基盤に立っていると考えなければならない。いやむしろ、言語なくしては文化はいっさい不可能であると言えよう。
そして文化とは抑圧に発するものであり、いわば集団神経症、つまり集団において共同化された神経症であるから、言語は文化のこのような本質をもっとも明確に具えているはずである。
岸田 改行は私

日本の心理学は、欧米の心理学の紹介学問だと、思っていたら、岸田という学者が、ようやく、少しは、心理学者らしいことを、書く。

学問は、文化的行為である。
そして、その根幹を支えているのは、言語である。
言語なくして、教育も、そこから発する、意味、意味意識も、皆無となる。

上記は、画期的な、考え方である。
何せ、文化を支える、言語は、文化という抑圧に発するものの、根幹であり、それが、神経症だというのである。

更に、
言語はその起源に関する合理的説明をいっさい拒絶するであろう。
言語は、便利な道具として発明されたものではなく、人類の病いであり、根源的な神経症症状である。
人類が言語をもち、動物が言語をもたないのは、その能力が人類にはあって動物には欠けているからではなく、その必要が人類にはあって動物には欠けているからである。
では、なぜ人類は言語を必要とするのか。
岸田 改行は私

岸田の論調は、次に続くが・・・
人類は、自己満足が必要な生き物であると、私は言う。

その、自己満足が、神経症なのである。

便利な道具として発明されたものではなく、人類の病いであり、根源的な神経症症状である・・・

実は、生まれた時から、言葉を覚える、更に、教えられる。
つまり、神経症を与えられるのである。

別名、ノイローゼである。
人類が、言語を発明したのは、ノイローゼになりたかった・・・

岸田は、
それは人類がその本能を抑圧した結果として、本来の現実との直接的接触を失ったからである。と言う。

これは、悲しい人類の性である。
そのようにしか、生きられないモノとして、人類は、始まった。いや、造られたのか・・・

動物は現実と密着している。動物は現在の刺激に反応し、その本能を満足させる。何らかの外的条件のため、その本能の満足が得られなかった場合でも、みずからそれを抑圧することはない。いいかえれば、動物の本能は決して欲望を構成しない。
岸田

鋭い指摘。
人間に飼われている、動物は、しばし、人間のようになることもあると、付け加えておく。が、それは、矢張り、本能なのである。

動物は、欲望を構成しない。
しかし、人間は、欲望を構成する。
何故か・・・

ある本能が欲望として経験されるのは、本能が満足されず、本能と本能の対象とのあいだに越えがたい障壁を知覚し、かつ、その障壁を乗り越えようとする努力をみずから放棄するときのみである。
そして、みずから遠ざけたかぎりにおいて、本能の対象はイメージとして残存する。
というのも、抑圧するとは、ご存知のように、一つの矛盾した行為であって、否定すると同時に肯定すること、肯定を合意する否定だからである。
対象についての認知がなければ抑圧は不可能であり、抑圧はその認知を永続させるのである。
岸田 改行は私

抑圧・・・肯定を合意する否定・・・
何と、生き難い、生き物なのだろうか。

ここでいう、イメージが後に、意味付けという、行為になることを、付け加えておく。

結論から言えば、イメージ=妄想なのである。

だから、私は、意味などないと、言うのである。




posted by 天山 at 06:35| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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