2016年06月08日

生きるに意味などない6

この六領域が可能な意味を網羅するとすれば、それは一般教育が各人に育成しなければならない基礎的な能力を含むと考えてよい。完成された人は言語、象徴や身振りの使用に熟達し、多くの事実情報を習得し、美的に優れたものを創造し、鑑賞でき、自分と他の人びとの関係において豊かでよく訓練された生活を営み、良識ある決断や善悪の判断ができ、また統合的な展望をもたねばならない。これらのことは全人的発達を意図する一般教育の目的である。
フェニックス

これは、大きな勘違いを生む。
この教育を受けて、高学歴になると、上記のことを、破壊する。

傲慢不遜になり、上記で言うような人間には、ならない。
大半が、そうである。

また、完成された人は・・・
一体、人間が、完成されるものだろうか。

完成されたモノになるのだろうか。

完成を目指して、死ぬまで、努力を続けるというならば、理解出来る。
だが、教育により、完成するという、考え方は、誤りである。

この基礎的な能力を育成する教育過程は、また意味に対する人間の根本的欲求を充たすことをもくろむ。言語、科学、芸術、個人的知識、道徳、歴史、宗教と哲学の授業は破壊的な批判精神や一般化した現代の無意味性への教育的応答となる。そのうえ、これらすべての要素は成熟した人を形成するのにぜひ必要な内容である。
フェニックス

必要な内容である・・・
それは、理解する。

だが、これは、教育全能主義である。
勿論、人間は、教育によって、人間になっていくものだ。

破壊的な批判精神や一般化した現代の無意味性への教育的応答となる・・・
破壊的な批判精神、無意味性への、という言葉に、何か、嫌な物を感じる。

単一的な人間を教育するのではないはず。
また、その意味する、意味というものも、である。

学問という現場によって、教育は、成り立つ。
だが、学問を身につけるということが、人間性を育むということにはならない。

教育により、意味を見出して、豊かな人間性を得るものだろうか。

多くの意味付けは、多々、想像であり、妄想である。
更には、願望、希望の場合もある。

意味の諸領域は区々明確な一全体を形成しているのであるから、それに基づいて立てられた教育課程は無意味性の源の一つである経験の断片化を除去する。各種の意味は、それぞれ分離した分野ではなく、相互に関連し相互に補足し、意味の段階的な単一を構成している。とくに、象徴界と通観界は意味の各分野に及ぶ諸要素を結合し、それを単一な意味豊かな形態に接合するのに役立っている。
フェニックス

全く、その通りである。

無意味性の源の一つである経験の断片化を除去する・・・
つまり、無意味性は、経験の断片ということ。

これは、全体的、統合的なものではない、ということか。

沢山の言葉を覚えることにより、人間は、その表現の幅を広げる。
そして、意味付けを行う。
その、意味付けという、行為を、教育は、行う。

教育程度が高ければ、その意味付けも、複雑怪奇になる。

それについて、
学習順序の第二の要因は、各種の意味に固有な論理的順序である。
言語は他のすべての分野での表示に不可欠であるから最初から充分に強調される必要があるのは明らかである。
と、なる。

当然のことである。
言語なくして、人間の精神を表現することは出来ない。
勿論、芸術行為、その他もあるが・・・

兎に角、言葉である。
精神は、言葉によってなる。

現在の日本では、小学生から、英語教育をとの、掛け声である。
が、不思議なことだ。
母語を全うに、身に付けないうちから、別の言語、言葉を身に付けるという。

これは、一体、どんな問題を含んでいるのか・・・
バイリンガルという人たちがいるが・・・

母語を徹底的に身に付けることで、人間の精神が、成り立つ。
その頃から、他国語を学ぶと言う事は、まともに、思考が成り立たなくなる可能性がある。

つまり、論理的な、ものの考え方である。

勿論、この論理的という言葉も、説明が充分に必要だろう。

論理破綻といわれることもある。
私などは、論理破綻の部類に入る。

三拍子を、四拍子に変換する。
あるいは、ロ短調をハ長調に変換する。

論理破綻であると、なる。

では、論理とは何か・・・
それを書き始めれば、終わらなくなる。



posted by 天山 at 06:01| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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