2016年06月02日

玉砕127

さて、サイパン陥落以来、本土空襲が始まる。

昭和19年11月から、小規模な、B29による空襲が、東京から始まる。

そして、昭和20年3月10日、B29が279機という大編成で、東京の下町に焼夷弾攻撃をかけてきた。
116万人が罹災し、死者は、8万人にも達した。

当然、これは国際法違反である。
そして、死者は、玉砕でもある。

アメリカは、平然と国際法に違反して、日本の各都市への空爆を行ったことを、忘れてはならない。

今年の五月、オバマ大統領が、広島を訪れる。
だが、謝罪は、しないと言う。
あれほどの、国際法を犯していながら、謝罪しない理由は何か。

日米同盟・・・
それと、これとは、別物である。

アメリカは、一度も、日本に謝罪しないのである。
これについては、後でまた、詳しく書くことにする。

大編成の空襲から、八日後、昭和天皇は、焼け跡を視察して廻った。
かなり片付けられていたとはいえ、行き場のない、罹災者たちは、焼トタンなどを集めて、バラック小屋に住んでいた。

崩れかけたコンクリートの残骸、黒こげの木材の凄惨な光景である。

天皇は、大震災のときは、何もかも綺麗に焼けてしまったから、これほど、惨くは感じなかった。今度は、はるかに悲惨で、一段と胸が痛む。これで東京も、焦土になった。
との、お言葉であった。

だが、それは序の口である。

四月の、山の手北部、五月の大空襲、24日は、562機、25日、520機という、恐るべき米軍の空襲である。

日本は、迎撃する飛行機もなく、敵機の成すがままである。

特に、25日は、焼け残っていた銀座、麹町のビジネス、官庁街、山手住宅街一帯を、3260トンという、膨大な焼夷弾が投下された。

これも、勿論、国際法違反である。

天皇のおわす、宮城内の「お局」と称する女官宿舎、半蔵門、乾門、吹上御苑の東屋などが、焼かれていたが、この日は、宮城には投下しなかった。

配置されていた、皇居警察、警視庁特別消防団、近衛師団、宮内省防衛団など、二千人の要員は、もっぱら、周辺一帯から飛んでくる、火の粉、燃え盛る板片などを、消しとどめた。

ホッとしたのもつかの間、仕人が、正殿の廂がくすぶっているのを、発見し、あわてて警備の者達に通報したのが、五分後のこと。

だが、正殿は、回廊の内側にあり、消火活動が阻害され、たちまち、紅蓮の焔が噴出した。

消化準備が整った頃は、手の付けようが無い。
火の粉が風に舞う中を、殿中のものを運び出そうと、皆、必死になった。

宮殿は、明治17年から五年の歳月を要して完成した。
5500坪、最高のヒノキ材を使い、各天井には、一枚一枚、極彩色の絵が描かれ、天井のシャンデリアは、ヨーロッパから取り寄せたものである。

もはや、奥宮殿にも、延焼すると見た工兵隊は、つなぎ廊下の半ば附近を、ダイナマイトで爆破し、火の勢いを止めようとしたが、効果がなかった。

ついに、奥宮も、猛火の中に、崩れ落ちた。

ただ、天皇は、半年も前から、御文庫に移り住んでおられたから、無事だった。

空襲警報発令中は、御文庫の北東百メートルにある、地下防空壕に待機しておられた。

宮殿に火が回っていることが、天皇に伝えられた。

その時の、お言葉は、
正殿に火がついたか。正殿に、あの建物には、明治陛下が、大そう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とか、消したいものだ。

だが、ついに駄目だと知ると、
局に火がついていないなら、全力を尽くしてもらいたい。局がなくなったら、明日から、困るだろう。
との、仰せである。

何とか、局は、事なきを得た。

天皇は、賢所(神殿、恩明殿、皇室廟を総称する)への延焼を気遣った。

賢所が焼けるとは、日本の崩壊を暗示し、国民に与える影響は、計り知れない。

この日は、明治神宮も、全焼した。
すでに、伊勢の神宮も一部を焼失していた。

伊勢と熱田の神器は、結局、自分の身近に移してお守りするのが、一番よいと思う。しかし、いつ移すかは、人心に与える影響を考え、慎重を要する。万一の場合には、自分がお守りして、運命を共にするしかない。
天皇のお言葉である。

これをもって、天皇は、国民より、神器を第一にしたという、説明をする者がいるが・・・
全く、論外の話である。

天皇、神器、国体、国民は、同一である。




posted by 天山 at 06:24| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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