2016年05月20日

生きるに意味などない4

教育が意味の探求において基礎付けられるとみなされるならば、教育課程の哲学の基本的目標は、意味の本質を解明することである。
フェニックス

みなされるならば・・・
という、但し書きがある。

であるならば、意味の本質を解明することである・・・
意味の本質とは、何か。

フェニックスの論調を見る。

意味の経験には多くの種類があって、これが意味の唯一の本質であると指摘できるような単一な性質はない。そこで、意味一般ではなく、複数の意味、つまり意味の諸領域について述べねばならない。したがって、教育課程の哲学は意味領域の見取り図を作り、そこに重要な経験の種々な可能性を図示し、各種の意味の領域を明確に区別し相互関係をつける必要がある。
フェニックス

そこには、六つの、基本的な意味形態があるという。

象徴界、経験界、審美界、共知界、倫理界、通観界である。

各種の意味の領域とそれを構成する二次的領域はそれに特有な方法と主要な概念と独自な構造をもっている。これらの特徴は各領域と二次的領域のもつ独自性においても、また他の意味領域との関係性と連続性においても明らかにされる。
フェニックス

世の中には、高学歴の、賢い馬鹿という者がいて、こういう論調に、やられてしまう。つまり、批判の精神なき、蒙昧の人である。

学ぶということは、覚えるということであり、そして、いずれは、批判するということである。
この、批判とは、評論であり、評価であり、学びは、そこで、生きることが出来る。

ただ、丸暗記をして、学んだと思うのは、妄想の域である。
あるは、洗脳の徒となる。

学問に洗脳されるということも、大いに有り得る。

これらの特徴は各領域と二次的領域のもつ独自性においても、また他の意味領域との関係性と連続性においても明らかにされる・・・

上記、のめり込むのだろう・・・

各領域と、二次的領域のもつ独自性・・・
また他の意味領域との関係性と、連続性・・・

とても、素晴らしい蒙昧の世界への、案内である。

人間の精神は、言葉である。
だから、言葉に、やられるのである。
その、言葉の概念というものは、果たして、皆同じ意味合いになるのかという、疑問と不思議は、別にして・・・
やられる。

精神の不安な人は、不安な言葉を使用する。
錯乱した人は、言葉も、錯乱する。

だから、私は、フェニックスが言う、第一の、象徴界のみを、認めざるを得ない。
他の世界は、フェニックスの妄想である。

勿論、それらを一つ一つ、上げていく。

第一の領域である象徴界を構成しているものは日常言語、数学と各種の非論証的象徴形式、たとえば身振りとか儀式とかリズム形態とかというようなものである。これらのもつ意味は任意的な象徴構造に含まれていて、その構造は社会的に承認された形成と変更の法則をもっており、またあらゆる意味の表示と伝達の道具として創造されたものである。ある点で、これらの象徴体系は、すべての意味領域に最も基本的なもので、他のいずれの領域でも意味の表示に用いられねばならないものである。
フェニックス

もっともな事である。
生きるに意味があるとすれば・・・
ただ、それだけのことである。

だが、実際は、意味などない。

素晴らしい分析である。
学問を志す人は、ここから、始めるべきだろう。

そして、学歴を誇れるのである。

だが、問題はそれほど、簡単なことではない。

フェニックスを紹介するが・・・
私は、この論文を、エッセイの形で書くのである。

いや、エッセイの形で、批判するのである。

生きるに意味などない、と、考え始めた際に、どこから、はじめるべきかと、考えた。
私は、学問の素人である。
また、学問などに、関わる必要がない。

ただ、手元に、この本があった。
他の本もあった。
どの本を利用しても良かったし、また、これから、利用しようとも思う。

だが、私は、学問をやるのではない。
偉大なフェニックス教授の論文を理解しようとは、思わない。

ただ、生きるに意味などない、という、エッセイを書くのである。

ここで、私の矛盾は、理解しようと、思わないが、批判するという。それでは、理解しなければ、批判は出来ない。
ところが、人が論文を読むと、すべての人が、同じように理解することは、出来ない。

ここに、私の、エッセイの意味がある。
この意味とは・・・

死ぬまでの、暇潰しであるということだ。



posted by 天山 at 05:38| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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