2016年05月17日

生きるに意味などない

生きるに意味があるのか・・・
意味があると、言われる。
自殺防止のためであるのか・・・

生きるに意味などない。
これが、事実である。
真実でもある。

この事実と、真実という言葉も、不安定だ。
人には、それぞれの事実と、真実がある。
事実より、真実の方が、正しいなどという、意味ではない。
事実は、事実である。

そして、真実とは、人の数だけある。
いや、事実が人の数だけあるとも、言える。

いずれにせよ、それは、言葉によるものである。
言葉によって、事実、真実と言われて、語られる。

真実の方が、事実より、真であるとは、観念である。
人間は、言葉に観念を見出して、辛うじて、生き延びてきた。

本当は、事実は、真実なのである。
あえて、真実と、言う必要もない。

ただ、人間の社会では、簡単にうそをつく人がいるから、真実と言って、強制する。

さて、これから、私は、生きるに意味などない、という、エッセイを書き続ける。
終わらないエッセイである。

延々と書き続ける。

それは、延々と書き続けるだけの価値があるだろうと、思われるからだ。

人間の作り上げたものは、すべて、生きるに意味があるということを、言うものである。
そうして、生き続けて来られたからだ。

さまざまな分野から意味づけられた、生きる、の意味がある、人生に意味があるという、考え方を俯瞰する。
そして、私の言いたいことは、生きるに、意味があるわけがないというのである。

意味がなければ・・・
自殺も可能かと、問われれば、当然と言う。

ただし、このエッセイを読み続けてからである。

私は、自殺を勧めるものではない。
ただし、尊厳死は、大いに勧める。

死ぬ時節には、死ぬことだと、心得ている。

と、いうことで、生きるに意味などないと、書き続ける。

あらゆる、思想哲学、宗教、その他諸々・・・
皆々、生きる意味を見出す作業だった。

それは、人間の大脳化ゆえのことであり、無意味に耐えられなくなった、人間の無明である。
無明とは、明がない、つまり、仏教では、知恵がない、あるいは、アホだというものである。

人間は、生まれた時から、死ぬ時まで、無明である。

そこで、無明ではない人を、仏陀と称して、何とか、無明を生きる術があると、信じて生きてきた。

それが、実は、無明なのであるが。

兎に角、だまされたいと思う人の多いこと・・・
何かに、騙されて、生き続ける人間の悲しさ。
日本語では、それを、あはれ、という。

そして、最大の妄想である、愛という、思想、考え方、騙し方などを、手に入れた。

その、愛、という、考え方の最大の妄想は、
死を賭けるというものである。
新約聖書では、その人ために、死ぬこと以上の愛はないと、書かれる。

その人のために、死ねるか・・・
死ねる人と、死ねない人がいるだろう。
だが、死んでも、死しなくても、黙っていても、人間は、死ぬ。

確実なこと、妄想ではないこと、それこそが、死ぬことである。

人間は、私は、明日、死ぬ、という確実なことだけが、事実なのである。
生きるに意味など、ないのである。



posted by 天山 at 06:14| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。